第58話 新しい国へ
薄暗く、ひんやりとした湿った空気が漂う古い祠の中。
パチパチと燃えるランタンの頼りない灯りだけが、苔生した石壁をぼんやりと照らし出していた。静寂の中、どこからか水滴が落ちる微かな音だけが響いている。
その壁面にびっしりと刻まれた古代文字を、シーレインのギルドマスターであるミオは、真剣な眼差しで指先でなぞっていく。
普段は『正義の剣』の限界オタクとして奇行の絶えない彼女だが、実は古代言語の知識も豊富に持ち合わせている超インテリだ。ギルドマスターという重責を担うだけのことはある。取り乱した姿が嘘のように、静かで知的な横顔には、確かに一つの街の冒険者を束ねるトップとしての風格が漂っていた。
「……なるほど。これは、ただの落書きなどではありませんわ。王国暦よりも遥か昔、神族と魔族が争っていた時代の『伝承』を記した石版の一部……それも、かなり重要な部分です」
「伝承……! じゃあ、探している聖剣の手がかりですか?」
セラが身を乗り出すと、ミオはゆっくりと、確信に満ちた動きで頷いた。
「ええ。『深緑の帳に守られし、長命なる者たちの故郷。世界樹の根元に、真なる王を待つ剣あり』……そう書かれていますわ」
「長命なる者たちの故郷……?」
「……『エルフの国』ですわ、セラ様」
ミオの言葉に、セラはハッと息を呑んだ。
エルフ。おとぎ話や伝承に登場する、自然と共に生きる美しく神秘的な種族。
その言葉を聞いて、セラの脳裏に不意に、かつて滞在した『陽だまりの村』の景色がフラッシュバックした。黄金草が風に揺れ、長閑で温かかったあの村。どこか不思議で、深い森に守られていたあの場所の空気は、今思えばエルフの伝承と少し似ているような気がした。
だが、その美しい村はすでに業火に焼かれ、失われてしまった。セラの胸の奥がチクリと痛む。
「エルフの国……。でも、エルフって人間の立ち入りを厳しく拒む排他的な種族だって聞いたことがあります」
「その通りですわ。彼らが住む『エルフの森』は、強固な結界と幻術で守られた完全なる秘境。ですが、彼らは古代の知識と魔術を継承する種族でもあります。彼らが聖剣の一つを護り継いでいる可能性は、極めて高いと言えますわね」
ついに見つけた、確かな手がかり。
ユリが王国へ戻っている間、少しでも自分の足で進んでおきたかったセラにとって、これ以上ない希望の光だった。
「行きます。エルフの国へ」
セラが力強く宣言した、その瞬間だった。
『ミオおおおおおぉぉぉッ!!!』
「ひやぁっ!?」
突如、ミオの腰に提げていた小さな魔導具から、耳をつんざくような女性の怒号が祠の中に響き渡った。
セラは驚いて目を丸くした。それは、国家の重鎮やギルドマスタークラスにしか支給されない、国宝級の超希少アイテム『通信魔導具』だった。
『いつまでサボってんだこの限界オタク!! こっちはアンタが仕事を放置してセラきゅんセラきゅん言ってるせいで、シーレインの物流と依頼の処理が完全に止まりかけてんだよ!』
「あ、あわわわ……っ! ふ、副官殿!? ち、違いますわ、これはセラ様のための重要な任務で……っ!」
『言い訳は聞かねぇ! だいたいな、距離に制限があるからって、街の近くにいる時くらいちゃんとこまめに連絡寄越せ! どうせ盗聴されるような機密情報なんて、お前みたいなポンコツには喋らねぇから安心して今すぐ帰ってこい!! さもないと、ギルドの奥に隠してるアンタの【正義の剣】プレミアグッズコレクション、全部まとめて爆発魔法で消し飛ばすぞ!!』
「ひぃぃっ!? そ、それだけは! 初回限定生産のクリス様とセラ様の特製タペストリーだけはお助けをぉぉっ!」
『だったら今すぐ帰ってきて書類の山を片付けろ!!』
通信の主は、ミオが仕事をすべて押し付けてきた有能な副官だった。
一方、魔導具から漏れ聞こえるその凄まじい剣幕と、ミオの悲痛な叫びに圧倒されながらも、セラは副官の怒号の内容に一人で合点がいっていた。
(なるほど……。国宝級のアイテムでも、魔力波の届く距離に『限界』があったり、魔術師に『盗聴』されるリスクがあったりするのか。だから万能じゃないんだな)
Sランクパーティー時代、ギルド間の重要なやり取りや、遠距離の連絡には、いまだに魔力で育てられた『伝書鳥』などの使い魔を頼るのが常識だった。マリーもよく伝書鳥の世話をしていたのを思い出す。あんなに便利な魔導具があるのになぜだろうと不思議に思っていたが、そういう裏事情があったのかと、セラは密かに納得していた。
そんなセラの心境をよそに、先ほどまでの知的でクールなギルドマスターの面影は完全に消え失せ、ミオは直立不動になり、顔面を蒼白にしてガタガタと震えていた。
「す、すぐ戻りますぅ……! コレクションの爆破だけは、爆破だけは勘弁してくださいぃぃ!」
ミオは涙目で通信を切ると、絶望的な、この世の終わりのような顔でセラを振り返った。
「セ、セラ様……。私めは、どうやらここまでのようです……。ギルドマスターとしての、忌まわしき責務が私を呼んでおります……」
「あはは……。今まで付き合ってくれて、本当にありがとうございました、ミオさん。おかげで、エルフの国っていう目標ができました」
セラは心からの感謝を込めて、深く頭を下げた。ミオがいなければ、この古代文字を読み解くことはできなかった。彼女の限界オタクっぷりには驚かされることも多かったが、その実力と優しさに救われたのは事実だ。
祠を出て、小島からシーレインの港へと戻った二人は、夕陽に染まる海を背にして向かい合った。
オレンジ色の光が、波間をキラキラと照らしている。潮の香りが鼻をくすぐり、カモメの鳴き声が遠くで聞こえた。
「エルフの国は、ここからさらに東の森の奥深くにあります。排他的な彼らですが……セラ様のその優しさと強さならば、必ずや道は開けるはずですわ」
「はい。絶対に見つけ出してみせます」
「……セラ様。どうか、ご無事で」
ミオはいつものような奇行に走ることなく、一人の冒険者を送り出すギルドマスターとして、気高く美しい微笑みを向けた。夕風に揺れる彼女の黒髪が、どこか誇り高く見えた。
「ありがとうございます」
セラは頷き、そして何かを思い出したように口を開いた。
「そうだ、ミオさん。一つお願いがあるんですが」
「なんでしょうか?」
「もし、ピンク色の髪をした『ユリ』っていう冒険者が僕を訪ねてきたら……僕がエルフの国に向かったって、伝言を残してもらえませんか? 彼女とは、このシーレインの街で待ち合わせる約束をしていたんです」
アンバーガルドの街で別れる際、「必ずシーレインで合流しよう」と約束した大切な仲間。彼女が実家の用事を終えてここへ来た時、自分がすれ違いでいなくなっていては心配をかけてしまう。
「承知いたしましたわ。ユリさんという方ですね。ギルドの受付にも共有して、必ずお伝えするように手配しておきます」
「助かります。……それじゃあ、行ってきます!」
セラは新しい鋼の長剣を腰で鳴らし、東の空へと視線を向けた。
自分を救い、新しい居場所をくれた大切な仲間、ユリのために。
そして、いつか必ず向き合わなければならない、かつての親友――クリスのために。
黒髪の少年は、港町の喧騒とミオの温かいエールを背に、未知なる『エルフの国』へと一人、新たな旅路を踏み出した。
その背中は、かつて剣を握ることを恐れていた少年のものではなく、自らの足で未来を切り開く、一人の逞しい冒険者のものだった。




