第6話 一歩
「……ごちそうさま……でした」
温かなスープで喉を潤し、数日ぶりに胃の腑を満たしたことで、ようやく人らしい活力が戻ってきた。まだ掠れてはいるものの、しっかりと形を持った声が、静かな部屋に落ちる。 セラは手元の空になった器を見つめたあと、隣に座る女性を、重い瞼を持ち上げて上目遣いに見やった。
「ねぇ、マリー」
「ん? なあに?」
マリーは優しく目を細め、セラの次の言葉を待つ。その柔らかな眼差しは、三日前のあの凍りついた部屋にいた彼女とは別人のようだった。
「マリーは、さ……僕のことを心配して、ずっと来てくれてたんだよね。……本当に、ありがとう」
「いいのよ。そんなの当たり前じゃない」
「……でも、もう大丈夫だから。心配かけて本当にゴメン。……だから、もう皆のところに、戻って」
セラの言葉に、お盆の上で食器を整えていたマリーの手がぴたりと止まった。 セラは俯いたまま、指先でシーツの端をいじりながら、絞り出すような声で続ける。
「マリーは【正義の剣】のサブリーダーだし……クリスの、大切な人なんだから。僕みたいな、自分のこともまともにできない奴を放っておけないからって、いつまでもこんな所にいたらダメだよ。……クリスだって、君がそばにいないと困るはずだ」
マリーはしばらく無言だった。 ただ、手際よく空の食器をお盆にまとめると、不意に世間話でもするような、拍子抜けするほど淡々とした声で口を開いた。
「……ねぇ、セラ。やっぱり貴方のことだから、あの勧告書、内容までちゃんと見てないんでしょ」
「……っ、見た……よ。勧告者にクリスの名前があって、ひっく、同意者に……みんなのサインが……あったから……っ」
勧告書の内容を口にしただけで、あの瞬間の胸を引き裂かれるような衝撃が鮮明に蘇る。セラの瞳から、また大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、シーツに点々と濃いシミを作っていく。 マリーは泣きじゃくるセラの頭を、慈しむようにゆっくりと撫でた。
「そうね。自分の名前と、何よりも信頼していた仲間のサインを見つけた瞬間に、頭が真っ白になっちゃったのよね。……じゃあ、私の名前が『どこ』に書かれていたか、なんて確認できてるわけないわよね」
「……ヒック」
「……それ、返事じゃないわよね。ま、そんなことだろうと思ったけれど」
マリーはふぅと短いため息をつくと、泣き顔のセラを正面から覗き込み、一文字ずつ噛みしめるように平坦な声で告げた。
「あの勧告書はね、セラと――『私』に対しての脱退勧告書だったのよ」
「……え?」
あまりの言葉に、セラの涙がピタリと止まった。流れるはずだった雫が、頬の途中で行き場を失って止まっている。
「今回の脱退勧告の理由はね……セラはパーティー内での能力不足。そして私は、パーティーとの方向性の違い。……あはは、笑っちゃうわよね」
「ウソだ! そんなはずない! 僕の理由は……あの日のみんなの顔を見れば、わかる。僕が未熟だからだ。でも、マリー、君は! 君がいなきゃ、あのパーティーは回らないじゃないか!」
自分のこと以上に必死になって、セラは掠れた声を張り上げた。今にもベッドから飛び出しそうな勢いで、マリーの腕を掴もうとする。
「だから君は戻るべきだよ! 今からでもギルドに行って、何かの間違いだって取り消してもらおう! クリスだって、みんなだって、君が必要なんだ!」
必死な形相で自分を「戻そう」とするセラを見て、マリーはわざとらしく大きなため息をつき、いつものジト目で彼を見下ろした。
「へぇー……。セラは、理不尽に脱退させられて行く当てもない私を、一人で放ったらかしにするんだぁ〜。意外と冷たい子ねぇ」
「えっ、あ、いや……そういう意味じゃ……」
「セラも知ってるでしょ? 一度パーティーリーダーが提出して正式に受理された勧告書は、どう足掻いたって覆せないの。まぁ、通知書じゃないから、サインしなければ、一方的には脱退させられないけど、冒険者としての誇りがあるもの、一度突き放された場所に縋り付くなんてできないわ。……それなのに、これから一人ぼっちで危険な旅に出るしかない『か弱い女の子』を、君は見捨てるんだ。ふーん、セラって、そういうこと言うんだ〜」
マリーがこれ見よがしに肩をすくめて見せると、セラは途端に狼狽し始めた。
「ち、違う! そんなつもりじゃ……っ! ただ、マリーには幸せでいてほしいだけで……」
「どうかしら。私、これでも意外と人気あるのよ? クリスと付き合っているから他の男は手が出せなかったみたいだけれど、脱退したって聞いたらどうなるかしらね。フリーの冒険者だもの、変な男どもに声をかけられたりしちゃうのかしら……で、騙されちゃったり、悪いことに巻き込まれたりして……」
「いや、クリス以外に君に勝てる男なんているわけな……」
「……なに?」
「い、いえ、なんでもない、です……」
いつもの会話。ギルドの個室で、厳しいクエストの合間に交わしていた、ありふれた軽口の叩き合い。三日間、死んだように泣き続けていたセラにとって、そのやり取りがどれほど特別で、どれほど自分を生の側に繋ぎ止めてくれるものかを、セラは痛いほど実感していた。
(……マリーも、一緒なんだ)
自分を一人にさせないために、彼女も同じ傷を負ってもここにいる。その事実に、セラの震えていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していく。Sランク冒険者として、これまで数多の死線を共に越えてきた彼女が隣にいてくれることが、今は何よりも心強かった。
「え、でも待って、マリー。……旅に出るの?」
「そりゃそうよ。久しぶりにフリーの冒険者として、まずは路銀稼ぎに、地道なクエストからこなさないとね」
「……まだ、しばらくはこの街にいるよね? 皆にまた会ったら、どうすれば……」
気まずい雰囲気を醸し出すセラの不安を、マリーは静かに、けれど明確に遮った。
「安心して、セラ。……クリスたちは昨日、王都に向かって街を出たわ」
「……え」
突きつけられたのは、もう一つの現実だった。彼らはすでに前を向き、王国最強の栄誉――『蒼天の天秤騎士団』への道へと歩みを進めたのだ。自分たちが信じる正義のために。
「そう、なんだ……。本当に、何も知らないんだな、僕は」
「いいのよ、今は知らなくて。……とにかく、辛いと思うけれど、少しずつ私達も前に進みましょう。貴方はもう、一人じゃないんだから」
マリーはセラの震える拳の上に、自分の手をそっと重ねた。その手の温もりが、セラの凍りついた心をゆっくりと溶かしていく。
「前に……。そうだね。……クエスト、やろう。……僕も行くよ、マリー」
まだまだ瞳の奥には怯えが残っている。けれど、確かにそこには、ほんの少しだけ強さを取り戻した光が宿っていた。




