第5話 おはよう
窓の隙間から差し込む朝の陽光が、無機質な宿の床を白く照らしている。
その眩しさに耐えかねて、セラはゆっくりと目を開けた。
「……う、っ……」
赤く腫れ上がった瞼はひどく重く、糊で張り付いたかのようにうまく視界が開かない。無理に目を開けようとすると、こびりついた涙の跡が突っ張って、鈍い痛みを感じた。
意識がはっきりしてくると同時に、あの日――ギルドの個室で突きつけられた残酷な拒絶の記憶が、濁流となって脳内に流れ込んでくる。
(……思い出したくない。ずっと、眠っていたいのに……)
すべてを思い返すと、また胸の奥から熱いものが込み上げてきそうになる。
あの日、路地裏でマリーに手を引かれ、この宿に入ってから、セラは三日三晩、ただひたすらに泣き続けた。
時間は泥のように停滞し、自分が今どこにいるのか、何をしているのかさえ曖昧になっていた。
昼間は窓の外から聞こえる『トーファス』の活気ある喧騒が、夜は静まり返った街の冷気が、セラの孤独をこれでもかと強調した。
そんな「死んだような時間」の中で、マリーだけは毎日、欠かさず部屋に来てくれた。
ベッドで毛布にくるまったまま、食事にも手を付けず、ただ声も出さずに涙を流し続けるセラ。かつての輝かしいSランク冒険者の面影など微塵もない彼に対し、彼女は余計な言葉を一切かけなかった。
「……セラ、温め直したわよ」
彼女が運んでくるスープの湯気が、冷え切った部屋に僅かな温もりをもたらす。
マリーは冷めたスープを何度も、嫌な顔ひとつせずに温め直し、丸くなったセラの背中を時折、壊れ物に触れるような手つきで優しく撫でてくれる。
「頑張れ」とも「大丈夫」とも言わない。ただそこにいて、セラの存在を否定せずに受け入れてくれる。そんなマリーの静かで深い優しさが、今のセラには痛いほど嬉しく、そして申し訳なかった。
コンコン。
不意に、部屋の扉をノックする乾いた音がした。
セラは鉛のように重たい体をベッドからなんとか起こし、震える視線を扉の方へ向けた。
「セラ、入るわよ」
凛としていながらも、春風のように柔らかい声。
扉が開かれ、朝の光を背負ってマリーが入ってくる。
「……あ」
セラの姿を見たマリーの表情が、一瞬だけ、驚きに揺れた。
三日間、食事も摂らずに寝込んでいたセラが自力で起き上がっているのを、彼女は予期していなかったのだろう。
だがその驚きはすぐに、ギルドにいた時と変わらない、慈愛に満ちた微笑みへと変わった。
「おはよう、セラ。……気分はどう?」
「……ぉ、ぁ……よぅ……」
喉が張り付き、声帯が干からびたように掠れていた。ろくに水分も摂らず、誰とも言葉を交わしていなかったのだ。自分でも驚くほど、その声は弱々しく、頼りなかった。
それでもマリーは、嫌な顔ひとつせず、
「うん、おはよう、セラ」
と、安堵の色を滲ませた笑顔で返してくれた。
「あーもう、ひどい顔ね。これじゃあ街の人たちが見たら、誰だか分からないわよ」
マリーはベッドの横に近づくと、ポケットから清潔な白いタオルを取り出した。
彼女が指先に微かな魔力を込め、小さな氷の魔術を行使する。シャリ、と小さな氷の粒が弾ける音がして、タオルが心地よく冷やされた。
マリーは、熱を持って真っ赤に腫れたセラの目元に、そのタオルをそっと当てた。
「……っ」
「動かないで。目がほとんど開いてないじゃない。……しっかり冷やさないと、せっかくのイケメンが台無しになっちゃうわよ」
タオルの冷たさが、火照った瞼にじんわりと染み渡る。まるで脳の奥まで冷やされていくような感覚に、セラの荒んでいた心が少しずつ凪いでいく。
「ちょっと自分で押さえててくれる? 私が戻ってくるまで、そのままでいること。いいわね?」
マリーはそう言い残すと、再び足音を忍ばせて部屋を出ていった。
言われた通りに両手でタオルを押さえながら、暗闇の中でセラの思考が少しずつ整理されていく。
家族の様に思っていた仲間に脱退を勧告され、すべてを失ったはずなのに。『正義の剣』のサブリーダーだった彼女が、なぜこれほどまでに尽くしてくれるのか。
(……タオルが、あって良かった。)
冷たいタオルの下で、また少しだけ目頭が熱くなった。
コンコン。
「セラ、入るわよ」
しばらくして戻ってきたマリーの手には、カチャカチャと小さな音を立てるお盆があった。
「タオル、外していいわよ」
ベッドの前に立つ彼女は、どこか得意げな、それでいて少し恥ずかしそうな表情を浮かべていた。
「さすがに、何か食べなさい。胃がビックリしないように、ゆっくりね」
マリーは部屋の備え付けのテーブルにお盆を置き、それをベッドの横へと引き寄せた。
お盆の上には、立ち上る湯気が食欲をそそる温かな野菜スープと、柔らかいパン、新鮮なサラダ、そして簡素な肉料理が並んでいる。
貴族が口にするような豪勢なご馳走ではない。冒険者宿ならどこにでもある、ありふれた食事だ。
「少しずつでいいから。ね?」
セラはスプーンを握り、震える手でスープを口に運んだ。
三日ぶりに感じる「味」。野菜の甘みと、肉の旨み、そして適度な塩気が、眠っていたセラの細胞を目覚めさせていく。
特別美味しいわけではないはずなのに、その温かさが、空っぽだった胃の腑を通り越して、冷え切っていた心の芯まで温めていくのを実感した。
「……おい、しい……」
ボソリと漏れた言葉に、マリーの表情がパッと輝いた。
それと同時に、彼女の底なしの優しさに触れ、セラの目からは再び静かに涙がこぼれ落ちた。けれど、それはこの三日間流し続けた「絶望の涙」ではなく、何かが溶け出したような、救いの涙だった。
マリーは隣に座り、何も言わずに、ただその涙を優しく拭い続けてくれた。




