第55話 罠
魔族に与する敵対国、帝国の国境沿いに位置する城塞都市『ガルド』。
分厚い鉛色の雲から火山灰のような黒い灰が絶え間なく降り注ぐこの死の街で、入り組んだ裏路地を、クリスたちは小柄な少女の背中を追って静かに進んでいた。
「こっちこっち! 足元、滑るから気をつけてね!」
案内役を名乗る少女――フィリーは、目深に被った帽子から金髪のツインテールを揺らしながら、まるで自分の家の裏庭を散歩するかのような軽い足取りで、迷路のような路地を抜けていく。
「……本当にこの子供を信用していいのか? いくらなんでも都合が良すぎるし、どう考えても怪しい。敵の罠の可能性も高いぜ」
背負った大剣の重みを感じながら、シグマが油断なく周囲の気配を探り、クリスの耳元で低く囁いた。
「分かっている。だが、今は情報が少なすぎる。彼女の言う『騎士団の上層部からの使い』という言葉が本当なら、無下にはできない」
クリスは目深に被った外套の下で、冷徹な瞳を細めた。
今の彼には、かつてのような迷いも、甘さもない。
脳裏にこびりついて離れないのは、赤黒く燃え盛る『陽だまりの村』の惨状と、自らの刃で胸を切り裂き、暗黒の深淵へと突き落としてしまった最愛の親友の姿だ。
自分の不甲斐なさが、ルカを暴走させ、セラを奪った。その取り返しのつかない罪の意識が、クリスの心を完全に凍り付かせ、自らを修羅の道へと縛り付けている。
もしこの少女が敵の罠であり、自分たちに牙を剥くようなことがあれば、その瞬間に迷わず斬り捨てる。その冷酷な覚悟が、クリスの全身から放たれる静かな威圧感となっていた。
やがてフィリーが立ち止まったのは、街の最下層にある、半ば崩れかけた廃教会の地下だった。
重い木扉を押し開けると、中はカビと埃の匂いが立ち込め、長年人が立ち入った形跡のない空間が広がっていた。
「はい、到着! ここは昔、帝国に反発していたレジスタンスが使っていた隠れ家なの。外からは絶対に魔力探知されない作りになってるから、安心して!」
フィリーは得意げに胸を張り、部屋の隅にある古びたランタンに火を灯した。
「……確かに、ここは外の不快な瘴気も届きにくいようですね」
治癒術師のノアが、部屋の淀んだ空気を確かめるように小さく息を吐き出す。
オメガが素早く入り口の重い扉に鍵を下ろし、罠がないか部屋の四隅を無言で確認した。
「さて、案内ご苦労だった。お前が本当に我々の味方だというのなら、知っていることをすべて話せ」
クリスは冷たい石壁に背を預け、腕を組みながらフィリーを見下ろした。
その後ろでは、ルカが外套の下で投剣の柄を固く握りしめ、獲物を狙う蛇のような冷たい視線をフィリーに向けている。彼女の狂信的な正義感は、目の前の少女が少しでも不審な動きを見せれば、即座にその喉笛を掻き切る準備を終えていた。
(うわぁ……あの金髪の女、目が完全にイっちゃってるわね。クリス君もずいぶん冷たい顔しちゃって。……でも、これくらい殺気立っててくれないと、面白くないわ!)
フィリーは内心の歪んだ歓喜を完璧な無邪気な笑顔の下に隠し、コホンと一つ咳払いをした。
「もちろん! そのために待ってたんだから。……お兄さんたちの目的は、この街の奥にある巨大な砦……そこに保管されている『宵闇の珠』でしょ?」
その単語が出た瞬間、部屋の空気が一気に張り詰めた。
「……お前、なぜそれを」
「上の方から聞いてるって言ったでしょ? 今、あの砦はすごいことになってるわ。もうすぐ魔王軍の幹部である『四天王』の一人が到着する予定なんだけど、それに合わせて、宝玉の力を抽出するための巨大な『魔力炉』を急ピッチで作らせているの」
フィリーは部屋の中央にあった木箱の上に座り、足をブラブラと揺らしながら続けた。
「魔王の力を取り戻すための宝玉……その一つである『宵闇の珠』は、すでに帝国の手によって完全に掌握されたわ。でも、あの珠は力が強大すぎて、並の施設じゃ安置すらできないの。だから、他国から連れてきた奴隷たちを使い捨てにして、地下深くの岩盤をくり抜いた巨大魔力炉を大急ぎで建造させている最中ってわけ。四天王のお出ましまでに完成させないと、現場の指揮官が首を撥ねられちゃうからね」
「魔力炉の建設……。先程、大通りで奴隷たちを鞭打って急がせていたのは、そのためか。胸糞悪ィ話だぜ」
シグマが憎々しげに呟き、太い腕の拳をギリッと強く握りしめる。
「四天王がまだ到着していないのであれば、今が最大の好機ですね。もし幹部が合流して最深部で守りを固められれば、宝玉の真偽を確かめることすら極めて困難になります」
ノアの冷静な分析に、クリスは静かに頷き、冷たい視線をフィリーに向けた。
「……砦の内部構造は分かるのか?」
クリスの問いに、フィリーはニヤリと笑って、懐から丸まった一枚の古い羊皮紙を取り出した。
「コレを見て! 砦の地下水路に繋がる隠し通路の地図よ。厳重な結界の『死角』になるポイントと、警備が一番手薄な時間帯もバッチリ書いておいたわ。最深部の魔力炉に直通してるから、忍び込むなら最高のルートよ!」
クリスは羊皮紙を受け取り、その精緻に描かれた図面へ鋭い視線を落とす。
「……信じていいのですね? もしこれが我々を誘い込むための罠なら、あなたは生かしておきませんよ」
ルカが半歩前に出た。その声は優しげだが、明確な殺意が込められている。
「ひゃっ! こ、怖いなぁ……信じてよ! 私はただ、命令に従って情報を渡しただけだもん!」
フィリーは怯えたふりをして大げさに肩をすくめて見せた。だが、目深に被った帽子の下でその赤い瞳は、三日月のように楽しげに細められていた。
(さぁ、王国の騎士さんたち、どう動くかしら?)
悪魔の案内人は、その毒牙を完璧に隠したまま、氷の騎士たちを死地へと誘っていく。
「ルカ、下がれ。……この地図は使わせてもらう」
クリスは羊皮紙を懐にしまい込み、短く言い切った。
「クリス。本当にいいのか? 俺たちの任務はあくまで『宝玉の真偽と魔王軍幹部の動向を探る』ことだろ。こんな出所不明の地図をアテにして、最深部まで潜り込むなんてリスクが高すぎる。もしこれが罠だったら、一溜りもないぞ」
シグマの懸念はもっともだった。かつてのクリスであれば、仲間の安全を第一に考え、もっと慎重な策を練ったはずだ。
だが、クリスは静かに首を振った。
「情報だけ持ち帰ったところで、帝国の手で魔力炉が完成し、宝玉の力が抽出されれば手遅れになる。我々の任務は情報収集だが、その情報が『魔王復活の決定的な脅威』であるならば、この目で確実に状況を把握しておく必要がある」
クリスは冷たい石壁から背を離し、仲間たちを順番に見据えた。
「……だが、シグマの言う通りだ。俺の焦りで、お前たちを無用な危険に晒すわけにはいかない」
「リーダー……」
「潜入はするが、隠密行動を徹底し、極力戦闘は避ける。四天王が到着する前の手薄な隙を突き、宝玉の状況だけを確認して即座に離脱する。決して無理はしない。……それでいいな?」
その冷静で現実的な提案に、シグマは「……ああ。隠密と離脱が最優先なら、文句はねぇよ」と小さく息を吐き、納得したように頷いた。
オメガも力強く頷き、ノアもまた、深い信頼の瞳でクリスを見つめ返す。彼らはクリスをリーダーとして心から信じているからこそ、共にこの地獄のような敵国へと足を踏み入れたのだ。
皆が作戦に向けて装備の点検を始める中。
クリスは背中を向けたまま、誰の耳にも届かないほどの微かな吐息で、胸の奥底に呪いのような覚悟を刻み込んでいた。
(……もしこれが罠であり、戦闘が避けられない事態に陥った時は――俺が立ち塞がる悪をすべて断ち切る、もう仲間を傷付けさせない)
その悲壮な決意の奥に滲むのは、かつての親友をその手で暗黒の深淵へと突き落としてしまった、拭い去れない贖罪の念だった。
自分がすべての泥は一人で被る。だからこそ、今隣にいてくれる仲間たちだけは、何があっても絶対に護り抜く。
氷の仮面の下で血を流し続ける青年は、自らを犠牲にする冷酷な決意を仲間に隠したまま、小さく顎を引いた。
「出撃は今夜だ。速やかに装備を整えろ……四天王が到着する前に、一刻の猶予も許されない」
彼にはもう、振り返る過去も、失う未来もなかった。
自らの手を親友の血で染め、修羅の道を歩むと決めた若き騎士は、魔王の復活を阻止し、仲間を護るためならば、たとえそれが地獄への片道切符であろうとも、迷わず踏み込んでいく覚悟だった。




