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第54話 案内人

 ――魔族に与するフラリス王国の敵対国『帝国』。

 その国境沿いに位置する城塞都市『ガルド』は、まるで世界から見放されたかのような異様な静寂と重圧に包まれていた。

 フラリス王国を照らしていた温かな太陽の光は、分厚く垂れ込めた鉛色の雲に完全に遮断されている。上空からは季節外れの雪のように、火山灰にも似た黒い灰が絶え間なく降り注ぎ、街全体を死の匂いで覆い尽くしていた。

 魔王崇拝を掲げるこの国では、人間の命の価値はひどく軽い。

「……ひどい空気ですね。喉の奥が焼けるようです」

 目深に被った外套ローブのフードの下で、ノアが不快そうに口元を覆った。治癒術師としての清浄な魔力を持つ彼女にとって、この街に充満する邪悪な瘴気は文字通り毒に近い。

「あぁ。俺たちの街の澄んだ空気とは大違いだぜ。息が詰まって狂いそうだ」

 シグマも、背負った巨大な荷物――布で厳重に偽装した愛用の大剣――を揺らしながら、周囲を鋭い眼光で睨みつけた。

 騎士団の目立つ蒼い鎧を脱ぎ捨て、流れの傭兵団を装って国境の検問を抜けた彼らは、街の路地裏の深い暗がりに身を潜めていた。

 先頭に立つクリスは、銀色の髪をフードで隠し、壁の隙間から大通りの様子を静かにうかがっている。

「お前たち、油断するな。ここはすでに敵地の中枢へ続く入り口だ。上位の魔族が平然と街を歩いている可能性もある」

 感情の波を完全に殺したクリスの冷徹な声に、後方に控えていた寡黙なオメガが、気配を消したまま静かに頷く。

 その時だった。

「隊長、見てください」

 クリスのすぐ背後に張り付くように立っていたルカが、大通りを指差した。

 灰が降る乾いた石畳の上を、重苦しい金属音が引きずられていく。

 そこにいたのは、帝国の正規兵たちと、彼らに鎖で繋がれ、ボロ布のような衣服をまとった数十人の人間たちだった。奴隷として連れてこられた他国の民か、あるいは帝国の方針に逆らった反逆者か。彼らはみな、絶望で完全に虚ろになった瞳で、ただ機械のように足を引きずっていた。

『さっさと歩け、愚民ども! 間もなくこの先の砦に、魔王軍の【四天王】様が到着されるんだぞ!』

『貴様らの血肉を捧げてでも、砦の防衛設備を完成させろ! さもなくば俺たちが魔獣の餌にされるんだからな!』

 響き渡る兵士の怒号と同時に、容赦のない鞭が振り下ろされる。

「あ、ぁぁ……っ」

 鞭を打たれた老人が悲鳴を上げて石畳に倒れ伏したが、兵士は助け起こすどころか、鬱陶しそうにその身体を軍靴で力任せに蹴り飛ばした。

 その光景を見た瞬間。

 ルカの瞳の奥に、暗く、泥のように濁った殺意が渦巻いた。

 彼女が信奉する絶対的な正義。それは、この世のすべての「悪」を根絶やしにすること。敬愛するクリスの美しい理想の世界に、あのような汚らわしい存在を残しておくことなど、彼女の狂信が許さなかった。

「……っ、あの下劣な兵士たち……! 隊長、私が今すぐあいつらを浄化して――」

 ルカの指先が、外套の下に隠し持った投剣の柄に触れた、その刹那。

「――やめろ、ルカ」

 ギリッ、と骨が軋むほどの強い力で、クリスの手がルカの細い腕を掴み取った。

 振り向いたルカの息が止まる。

 クリスの瞳は、氷の底のように冷え切っていた。だが、ルカの腕を掴むその掌は、微かに、けれどはっきりと震えていたのだ。

「た、隊長……? しかし、あのままでは……」

「我々の目的は目先の人間を救うことではない。帝国の動向を探り、魔王復活の鍵となる宝玉の真偽を確かめる極秘任務だ。ここで騒ぎを起こして素性が割れれば、すべてが水泡に帰す。……あの者たちを見捨てることになろうとも、だ」

 血を吐くような葛藤を冷徹な仮面の下に押し殺し、クリスは言い切った。

 ルカは一瞬だけ不満げに眉をひそめたが、すぐにクリスの手に自分の手を重ね、陶酔したような瞳で深く頭を下げた。

「も、申し訳ありません……。私の短慮でした。隊長の仰る通りです。すべては、あなたの掲げる正義のために」

(……ルカ。お前の正義は、あまりにも危うすぎる)

 クリスは内心で苦いものを噛み潰しながら、ルカの腕から手を離した。

 あの『陽だまりの村』で起きた惨劇。自分の甘さとルカの狂信がすれ違った結果、最愛の親友であるセラを、この手で奈落の底へ突き落としてしまった。

 その罪の意識が、今もなおクリスの心を鎖のように縛り付け、彼を真の「氷の騎士」へと変貌させようとしている。もう二度と、自分の甘さで誰かを暴走させるわけにはいかないのだ。

「どうやら、あの兵士たちが向かっている砦に魔王軍の幹部――四天王の誰かが来るらしいな。何か重要な物資か、探している宝玉がそこにあるのかもしれねぇ」

 シグマが声を潜めて言った。

「ええ。ですが、相手は四天王。迂闊に動くのは危険すぎます。まずはもう少し、この街で相手の戦力や砦の内部構造についての情報収集が必要ですね」

 ノアの冷静な分析に、クリスも小さく頷いた。

「あぁ。だが、この異様な街でどうやって情報を集めるか……」

 クリスが考え込もうとした、その時だった。

「――その役目、私が引き受けてあげる!」

 薄暗い路地裏のさらに奥から、鈴を転がすような、場違いなほど軽やかで愛らしい少女の声が響いた。

 全員がハッと息を呑み、即座に武器へと手をかける。

 暗がりから姿を現したのは、少し大きめの外套ローブを羽織り、つばの広い帽子を目深に被った小柄な人影だった。顔の半分は帽子の影にすっぽりと隠れており、その素顔を窺い知ることはできない。ただ、小柄な身長の華奢な体格と声の響きから、まだ年端もゆかない少女であることだけは分かった。

「誰だ、お前は。なぜ我々の存在に気づいた」

 クリスが低い声で問い詰め、いつでも剣を抜けるように重心を落とす。

「ふふっ、そんなに警戒しないでよ。私はただの案内役! 誰とは言えないけど……『騎士団の上の方』からの命令で、あなたたちを助けるように言われてるの!」

 少女は外套の裾をちょこんとつまみ、悪びれる様子もなく胸を張ってみせた。

 クリスの目が細められる。

 極秘任務である自分たちの動向をピンポイントで知っているということは、エイル副団長やシュウ団長が密かに手配した現地の協力者という可能性は十分にある。だが、この敵地のど真ん中で、こんなにも怪しく、そしてあどけない少女が協力者だというのか。

「……名前は?」

「私? 私はね――」

 少女はパッと顔を上げ、目深に被っていた帽子を軽く押し上げた。

 その瞬間、帽子の下から鮮やかな金髪のツインテールがこぼれ落ち、薄暗い路地裏でハッとするほど無邪気な笑顔が咲いた。

「フィリー! ガルドの街のことなら、裏の裏まで何でも知ってるわ。情報収集なら私に任せて。よろしくね、お兄さんたち!」

 愛嬌たっぷりにウインクをするフィリー。

 人間に完全に擬態しているため、彼女の身体に魔族特有の禍々しい角やコウモリのような翼は見当たらない。彼女が帽子で顔を隠していたのは、魔王軍でも上位の存在として広く知られた自分の顔を、自軍の兵士たちに悟られないための巧妙なカモフラージュだった。

(うわぁ、本当に警戒心バリバリ。でも、あの方の言った通り、面白いように飛び込んできたわね……せいぜい、最後まで楽しませてよね)

 フィリーは内心でニチャリと歪んだ笑みを浮かべながら、クリスたちに向けて手招きをした。

「さぁ、ついてきて! 立ち話もなんだし、まずは安全な隠れ家に案内してあげる!」

 フィリーが差し出した小さな手。

 かつての親友を護れなかった悲劇を胸に抱くクリスは、静かに頷き、彼女の後へと続いた。


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