第53話 特命
厳重に警備された一角にある、蒼天の天秤騎士団・団長室。
重厚なマホガニーの机越しに、クリス・フィンリードは、恩師であり騎士団の頂点に立つ男、シュウ団長と静かに向き合っていた。
「クリス。次の任務だが、君には極秘の特命を任せたい」
「特命、ですか」
「あぁ。魔族に与する敵対国――『帝国』への潜入調査だ」
シュウの言葉に、クリスの冷え切った瞳が微かに動いた。
帝国は魔王崇拝を掲げ、王国とは長きにわたり血で血を洗う緊張状態にある危険な国家だ。
「……魔王の力を封じ込めたとされる『6つの宝玉』を巡って、帝国が軍を密かに動かしている兆候を捉えた。王国暦124年の勇者との戦いで力を封印された魔王が、320年の時を経て完全復活を目論んでいる可能性が高い。帝国はすでに、自国に眠る『宵闇の珠』を掌握しているはずだ」
「……」
「六番隊の少数精鋭で国境を越え、その真偽と魔王軍幹部の動向を探ってほしい、もし本当に『宵闇の珠』が魔王側にあるなら、奪取もしくは破壊が目的となる。だが、その場合は速やかに帝国から撤退すること。敵の本拠地での戦闘行為は自殺に等しいからな」
「……御意。ただちに部隊を編成し、出発します」
感情を殺した、機械のように平坦な返答。
だが、その冷たい胸の奥には、数時間前に謁見の間でリリィ王女から投げかけられた言葉が、小さな波紋のように広がり続けていた。
***
夜の静寂に包まれた騎士団の兵舎。
クリスは自室の窓辺に立ち、月明かりに照らされる王都の街並みを一人見下ろしていた。
『深い深い暗闇の底でも、案外、光は消えずに息づいているものよ。……あなたが自ら手放したと思っていた光は、きっと今も、どこかで温かく輝いているかもしれないわね』
リリィ王女の凜とした声が、耳から離れない。
(……セラ。お前は……生きているのか?)
あの日、『禁忌の崖』の古代遺跡で、セラは圧倒的な真紅の闘気に吞まれながらも、ルカたち特務部隊の命を誰一人として奪っていなかった。怒りに狂いながらも、あいつの魂の根底にある『優しさ』は、決して折れていなかったのだ。
ならば、あの底なしの暗黒の奈落に落ちてもなお、あいつ自身も奇跡的に生き延びているのではないか。
確証など何もない。ただすがりつきたいだけの、愚かな願望かもしれない。だが、その微かな「もしかしたら」という可能性が、完全に死に絶えていたクリスの虚無の瞳に、ほんのわずかな熱と光を取り戻させていた。
「……生きていてくれ。俺がお前をこの手で傷付けた報いは、必ず受ける。お前の未来を奪った罰なら、いくらでも俺が背負う。だから……生きていてくれ……!」
クリスが窓枠を握りしめ、痛切な祈りを込めて目を閉じた、その時だった。
コンコンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
「クリス隊長。夜分遅くに申し訳ありません、ルカです」
「……入れ」
扉を開けて入ってきたのは、金髪のショートボブを揺らす少女、ルカ・ロスティだった。あの日、覚醒したセラの蹴りをまともに受けて肋骨を折るほどの重傷を負った彼女だが、ノアの世界最高峰の治癒魔術によって、すでに身体的な傷は完治している。
だが、その瞳の奥に宿る光は、以前よりもさらに鋭く、そして危ういほどに研ぎ澄まされていた。
「……身体の具合はもういいのか、ルカ」
「はい! ノア先輩のおかげで、もうすっかり良くなりました。……隊長。明日からの帝国への潜入任務、私も必ず同行させてください」
「相手は魔王崇拝の敵国だ。場合によっては魔族と戦闘になる可能性もある危険な任務になるぞ」
「構いません。むしろ、望むところです」
ルカはクリスの前に進み出ると、静かに、だが迷いのない動作でその場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「私はあの日……自分の独りよがりな正義で暴走し、結果的に隊長を深く傷つけてしまいました。それなのに、隊長は私を見捨てることなく、救ってくださった。……私の命は、クリス隊長のものです」
彼女のクリスに対する感情は、もはや敬意を超え、かつての純粋な盲信とは別種の、毒を含んだ狂信に塗り替えられていた。
「これからは、私が隊長の『汚れ』となります。隊長の慈悲深き心を痛めるような汚らわしい仕事も、すべての障害も、私の投剣で地獄へ送ります。……隊長は、ただその輝ける『正義』を掲げて歩んでください。その為なら私が自らの手を汚すことなど、なんの問題もありませんから」
その可憐な表情の裏に潜む、冷たい熱量。クリスはその危うさを感じながらも、あの日ルカを暴走させたという己の甘さへの自責から、逃げるように頷くことしかできなかった。
「……わかった。よろしく頼む、ルカ」
「はいっ!」
「おーい! クリス、入るぞー!」
ルカが顔を上げた直後、今度は遠慮のない大声と共に、巨漢の大剣使いシグマが部屋へ雪崩れ込んできた。その後ろには、静かに微笑むノアと、寡黙なオメガが続いている。
「お前たち……」
「水臭ぇぞリーダー! 帝国への極秘任務だろ? 俺たちを置いていくなんて言わせねぇからな!」
シグマがガハハと豪快に笑いながら、クリスの肩をバンッと力強く叩く。
「……ちょっと待て。今しがたシュウ団長から下されたばかりの極秘の特命だぞ。ルカもそうだが、なぜお前たちまですでに知っているんだ?」
クリスの驚いたような問いかけに、ノアがクスリと笑って一歩前に出た。
「エイル副団長から、先ほど私達にも直接通達があったんですよ。『クリス隊長が極秘任務で帝国へ向かう。六番隊の少数精鋭として、お前たちも同行して彼を支えるように』と」
「私も同じです、副団長から」
ノアに呼応するように、ルカが頷く
「エイル副団長が……?」
クリスは小さく息を呑んだ。あの常に冷徹で知的なエイル副団長が、自分に先んじて部下たちに同行の根回しを済ませていたというのか。あるいは、シュウ団長の粋な計らいだったのかもしれない。
「クロエがマリーと一緒に、セラを探すためにパーティーを離れた。寂しくなったのは確かだけどよ……だからって、俺たちがお前を一人で行かせるわけねぇだろ」
「シグマの言う通りです」と、ノアが優しい眼差しを向ける。「私たちは、あなたについて行くと決めたんです。セラの事はマリーたちに託しました。だから私たちは、クリスと共に、この世界から悲しみを無くすための戦いを続ける義務があります。それに、あなた1人だと危なっかしいですからね」
オメガも無言で、だが揺るぎない覚悟を瞳に宿して力強く頷いている。
クリスは、目の前に立つ仲間たちと、新たな剣となることを誓ったルカの顔を順番に見渡した。
失ったものはあまりにも大きい。だが、今自分の隣には、共に泥を被る覚悟を決めてくれた仲間たちがいる。そして胸の奥には、親友がどこかで生きているかもしれないという、小さな、だが決して消えない希望の光が宿っていた。
「……ありがとう。お前たちには、苦労ばかりかけるな」
クリスの口から漏れたのは、隊長としての冷徹な言葉ではなく、かつての不器用な少年のような、本音の感謝だった。
「明朝、我々六番隊は王都を発ち、帝国へと潜入する! 準備を怠るな!」
「「「ハッ!!」」」
力強い返事が、夜の隊長室に響き渡る。
魔王を崇拝する敵対国、帝国。『6つの宝玉』を巡る新たな戦いの渦中へ、氷の騎士とその仲間たちは、それぞれの決意を胸に足を踏み入れようとしていた。




