第52話 王女
王国の中心にそびえ立つ、荘厳な白亜の王城。
その最上階にある謁見の間の冷たい大理石の床に、蒼き鎧を纏った一人の若き騎士が片膝をついていた。
蒼天の天秤騎士団・六番隊隊長、クリス・フィンリード。
異例のスピードで騎士団の六番隊隊長へと駆け上がった彼は、今や王国中から『次期騎士団長筆頭』として畏怖と羨望の眼差しを集めている。
だが、王に向けて恭しく頭を垂れる彼の銀髪の隙間から覗く瞳は、まるで光の届かない深海のように完全に冷え切り、一切の感情を喪失していた。
「――特務隊および、六番隊での目覚ましい活躍、大儀である。クリス隊長よ」
「身に余るお言葉、感謝いたします。すべては、王国の平和と正義のために」
玉座からの労いの言葉にも、クリスの声は機械のように平坦だった。
彼の心は、あの日、陽だまりの村の裏手にある禁忌の崖で完全に死んでしまった。愛する親友を自らの刃で切り裂き、暗黒の奈落へと突き落としたその瞬間から。
生きる意味も、かつて抱いていた温かい夢も、すべて一緒にあの底なしの闇へと捨ててきたのだ。今のクリスを動かしているのは、ただ『魔王を討つ』という、空っぽになった身体を引きずり回すための呪いのような使命感だけだった。
「ご苦労だった。下がってよいぞ」
「ハッ」
クリスが静かに立ち上がり、踵を返そうとした、その時だった。
「お父様、お話の途中に失礼いたします」
重厚な扉が静かに開かれ、謁見の間に澄み渡るような凛とした声が響き渡った。
その声に、クリスはわずかに視線を動かす。
そこに入ってきたのは、豪奢でありながらも品格を漂わせるドレスに身を包む、一人の少女だった。
美しい薄いピンク色の髪のセミロングウェーブが、王城の光を受けて輝いている。
フラリス王国の王女、リリィ・フラリス。
その出で立ちは王族としての圧倒的な威厳に満ちていた。
「おお、リリィか。どうしたのだ、このような場に自ら来るとは。普段は頻繁に外へ出ているお前が、最近はずいぶんと大人しく城にいるようだが」
「ええ。外の世界で『大切なもの』を見つけましたから。今は少し、その準備をしております。……それより、そちらの方が噂の?」
リリィの視線が、真っ直ぐにクリスへと向けられた。
クリスはすぐさま再び片膝をつき、深く頭を下げる。
「お初にお目にかかります、リリィ殿下。六番隊隊長、クリス・フィンリードと申します」
張り詰めた氷のようなクリスの声。
だが、彼を見下ろすリリィの瞳の奥には、すべてを見透かすような冷徹さと、気高さが同居していた。
超一流の魔術の腕を持つ彼女の直感は、目の前の男の魂がどれほど深く傷つき、流血を続けているかを正確に見抜いているようだった。極限状態で覚醒したという彼の力も、今は深い虚無の底に沈んでいる。
(……この人が。セラがうなされながら、何度も泣きながら名前を呼んでいた……クリス)
リリィの脳裏に、ボロボロになりながら『僕の剣じゃ、誰も護れなかった』と震えて泣いていたセラの姿がフラッシュバックする。
セラをあそこまで追い詰め、絶望のどん底に叩き落とした人物。
リリィは、一切の足音を立てずにゆっくりとクリスの前まで歩み寄り、立ち止まった。
至近距離で見下ろす彼の横顔は、確かに息を呑むほど端正で美しい。だが、その瞳には一切の生気がなく、まるで中身のない精巧な氷の彫刻のようだった。
「……顔を上げなさい、クリス隊長」
リリィが静かに、しかし逆らうことの許されない絶対的な威厳を持って命じると、クリスはゆっくりと面を上げた。
二人の視線が交差する。
「特務隊と六番隊隊長としての素晴らしい活躍、お父様から伺っております。王国の為、これからもあなたの働きに期待しています」
「……勿体なきお言葉。殿下のお心遣い、光栄に存じます」
何事もなかったかのように立ち去ろうとするクリスの背中に向けて、リリィは声のトーンを落とし、王女としての冷たい重圧を込めて言葉を投げかけた。
「ねぇ、クリス隊長」
ピタリと、クリスの足が止まる。
「あなた、何か『大切なもの』を失った……いいえ、違いますね、自ら切り捨ててしまったような、ひどく空っぽな目をしていますね」
「……!」
その言葉に、クリスの背中が微かに、だが確実に震えた。
分厚い氷の仮面に隠された彼の奥底にある傷を、容赦なく正確に抉るような一言。
「……私の目は、常に王国の敵たる魔族の首だけを見据えております。空っぽに見えたのなら、それは私が未熟ゆえのこと。ご容赦ください」
「……そうですか」
振り返らずに答えるクリスに、リリィはふっと目を伏せ、彼にだけ届く静かな声で紡いだ。
「でもね、もし本当に大切なものを奈落の底に落としてしまったのだとしても……絶望の中で立ち止まるのは、まだ早いわ」
「……どういう、意味でしょうか」
「深い深い暗闇の底でも、案外、光は消えずに息づいているものよ。……あなたが自ら手放したと思っていた光は、きっと今も、どこかで温かく輝いているかもしれないわね」
クリスはゆっくりと振り返り、目を大きく見開いてリリィを見た。
彼女の言葉が、セラが落ちたあの崖の下の巨大なダンジョンを暗に示していると、クリスが気づくはずもない。
クリスはただの王女の気まぐれな言葉だと、頭では理解している。
それでも、彼女の言葉は不思議と、クリスの凍りついた胸の奥に、ほんの小さな、けれど確かな波紋を投げかけていた。
「……肝に銘じておきます。失礼いたします」
深く一礼し、足早に謁見の間を去っていく銀髪の騎士。
その背中が見えなくなるまで見送った後、リリィは小さく息を吐き、誰にも聞こえない秘密の独り言をこぼした。
(……セラ、あなたの親友は、あなたによく似た不器用な人みたい。早くあなたが迎えに来てあげないと、あの氷の騎士様、本当に心が壊れきってしまいそうね)
リリィは王城の窓から、遠く広がる王国の青空を見上げた。
今頃、シーレインで必死に前を向いて歩みを進めているであろう、あの黒髪の少年の姿を思い浮かべながら。




