第45話 決意
――王都へと続く街道を、重苦しい馬の蹄の音だけが等間隔に響いていた。
冒険者の街『トーファス』を出発し、蒼天の天秤騎士団の本隊として帰還の途につく一行。だが、その行軍の空気は、およそ凱旋と呼べるようなものではなかった。
先頭を進むのは、特務部隊の隊長であるクリス・フィンリード。その背中は、以前にも増して近寄りがたいほどに鋭く、そしてひどく孤独に見えた。
クリスの背後を進むかつての【正義の剣】のメンバーたちも、一様に深い沈黙の中に沈んでいる。
いつもなら「ガハハ!」と豪快に笑い飛ばして場を和ませるシグマは、手綱を握ったまま能面のように押し黙り、ノアは伏し目がちに祈るように唇を噛み締め、オメガもまた重い双眸をただ前へと向けていた。
彼らの中からは、セラとマリーがパーティーから抜け、更にクロエという大切な光までが失われた。心にぽっかりと空いたその穴は、あまりにも大きく、冷たい。
「……っ、うぅ……」
馬車の荷台で、身を丸めながら、一人の少女が声を押し殺して泣いていた。
セラから受けた強烈な一撃により、肋骨を何本もへし折られる重傷を負ったルカだ。
ノアの治癒魔術によって肉体の傷は塞がり、痛みは完全に消え去っていた。だが、今の彼女を苛ませているのは、心臓を直接握り潰されるような、激しい自責の念だった。
(私の、せいだ……。私が、早まったせいで……っ)
彼女は知ってしまったのだ。
自分が「正義」だと盲信し、隊長の手を汚させまいと先走って火を放ったあの辺境の村が、かつて彼女自身も憧れた【正義の剣】のメンバー・セラが身を挺してでも守りたかった、彼の最後の居場所だったということを。
自分の暴走が、大好きな【正義の剣】を完全にバラバラに引き裂き、そして何より――敬愛するクリス隊長に、一番大切な親友を斬らせるという『最大の苦しみ』を与えてしまったのだと。
馬車が休憩のために一時停車した隙を見て、ルカはふらつく足取りでクリスの元へと歩み寄った。
「た、隊長……」
「……ルカか。無理をして歩くな。ノアの治癒魔術を受けたとはいえ、体力が万全になるまでは絶対安静だぞ」
クリスは静かに振り返り、淡々とした声でルカを気遣った。
その言葉に、ルカの瞳から堰を切ったように涙が溢れ出した。
「ごめんなさい……っ! 隊長、ごめんなさい……私のせいで……私が勝手なことをしたせいで、隊長に……あんな辛い思いを……っ!」
ボロボロと大粒の涙をこぼし、地面に崩れ落ちそうになるルカ。
だが、クリスはそんな彼女を責めることはしなかった。ただ静かに、空っぽになった冷たい瞳で彼女を見下ろし、ぽつりと告げる。
「気にするな。お前のせいじゃない……すべては、隊長である俺の責任だ。お前はただ、俺の未熟さが招いた結果に巻き込まれただけだ」
「ちが、違います……! 私は……っ!」
一切の怒りも憎しみも乗っていない、ただ完全に冷めきったその声。
責め立てられるよりもずっと残酷なその「虚無」に触れ、ルカは胸をかきむしりたくなる衝動に駆られた。クリスの心は、あの崖の上で、あの日から完全に壊れてしまっているのだ。
*
その日の夜。
街道沿いの森の開けた場所で、夜営の火が赤々と燃えていた。
パチ、パチ、と薪の爆ぜる音だけが聞こえる中、火を囲む騎士たちの間に会話はない。
シグマは無言のまま、手にした砥石で己の大剣を黙々と研ぎ続けている。シュッ、シュッという硬質な音が、彼の胸の内に渦巻く葛藤を代弁しているようだった。
セラを失い、マリーと共にクロエが去った。自分たちが信じて選んだ「騎士団」という修羅の道。それが本当に正しかったのか。ただ強くなりたかっただけのはずなのに、いつから自分たちの剣は血に汚れ、大切な仲間を切り捨てる刃になってしまったのか。
沈黙の中、ノアがゆっくりと立ち上がり、少し離れた倒木に一人で腰掛けているクリスの元へと歩み寄った。
「……クリス。少し、休みましょう。あの日から、あなたは一睡もしていない。このままでは、本隊の士気以前に、あなたの身体が持ちません」
「……俺は大丈夫だ」
クリスは振り返ることもなく、ただ短く答えた。
「少し、見回りに行ってくる。皆は先に休んでいろ」
「クリス……」
心配そうに見つめるノアの視線を背に受けながら、クリスは一人、月明かりすら届かない暗い森の奥へと足を踏み入れていった。
*
周囲の気配が完全に途絶えた森の深部。
クリスは立ち止まり、ゆっくりと腰に提げた剣を引き抜いた。
――チャキッ。
冷たい金属音が鳴る。
だが、その刃の先は存在しない。セラの圧倒的な闘気と激突し、半ばから無惨にへし折れた『無銘の長剣』。
かつて、冒険者として生きると誓った日に、なけなしの金で二人でお揃いで買った思い出の剣。
クリスは、その短くなった鈍色の刃を、月明かりに透かしてじっと見つめた。
刃の表面に、自分の顔がぼんやりと映り込んでいる。
そこにあったのは、かつてセラが憧れてくれた、優しく真っ直ぐな青年の顔ではなかった。
頬はこけ、瞳には一切の光がなく、ただ暗い復讐心と底知れない罪悪感に支配された、死人のような男の顔がそこにあった。
(……俺が、セラを斬った。俺が、あいつを崖から突き落とした)
刃を見つめるクリスの耳の奥に、孤児院『木漏れ日の家』の裏庭で、恩師シュウに誓ったあの日の言葉が蘇る。
『俺は、魔王を倒したい。世界中から、俺のような悲しみを失くしたいんだ』
家族を魔族に奪われたあの日から。そして、孤児院でセラに出会い、護りたい者と場所を知ったその日から、彼はひたすら世界を平和にする為に走り続けてきた。それを正義と信じて。
正義を成すためには、力が必要だった。汚れ仕事をすべて自分が引き受け、セラの笑顔を護るためには、自分が強くなるしかなかった。
「……俺が、選んだ道だ……」
クリスは折れた剣を両手で強く握りしめ、ギリッと血が滲むほどに奥歯を噛み締めた。
「セラを護りたかった……その為にあいつらを犠牲にしてまで選んだ道だったはずなのに……なぜこんな結果に……ッ!」
血を吐くような独白。
「……もう、引き返せないんだ」
彼は己の心に呪いをかけるように、その短い刃を夜の闇へと力強く突き立てた。
*
ガサッ……。
少し離れた大樹の陰で、微かな衣擦れの音が鳴った。
ふらつく足取りで、クリスを心配してこっそりと後を追ってきていたルカだ。
彼女は木に背中を預けたまま、両手で口を強く覆い、声が漏れないように必死に嗚咽を堪えていた。
木々の隙間から見えた、月明かりの下で折れた剣を見つめるクリスの背中。
あんなにも頼もしく、誰よりも強かった隊長の背中が、今は今にも崩れ落ちそうなほどに弱く、孤独に震えていた。
(隊長は、あんなに優しいのに……私のせいで……私の愚かな行いのせいで、あんなに苦しんでいる……っ)
ボロボロと溢れる涙が、彼女の頬を濡らし、地面へと落ちていく。
これまでの彼女のクリスに対する想いは、どこか盲目的で、彼に自分の理想の「正義の象徴」を押し付けるような、幼く狂信的な敬愛だった。
だが今、一人で絶望の淵に立ち、泣きながら己の心に呪いをかける一人の青年の姿を見て。
ルカの胸の中にあった歪んだ信仰心は粉々に砕け散り、代わって、痛みを伴う本物の『贖罪』と『献身』の火が燃え上がった。
(私は、隊長の心を壊してしまったんだ。……私の軽率な行動のせいで隊長は大切な人を失った……)
ルカは涙を乱暴に拭い、暗闇の中で強く、強く決意を固める。
(守りたい……隊長がこれ以上、ご自身をすり減らさなくていいように。私が守らなきゃいけないんだ。……私が、隊長の剣になる)
静かな夜の森で、孤独な銀髪の騎士と、彼を守っていくことを誓った少女。
引き返せない闇の底へ、彼らは自らその歩みを進めていくのだった。




