第44話 別れ
――ヒュウゥゥゥ、と。
底知れない『巨大なダンジョン』の深淵から吹き上げる冷たい夜風が、クリスの銀髪を激しく揺らした。
「クリス……っ! あなた、自分が何を……ッ!」
燃え盛る村の奥から駆けつけたマリーが、血に濡れた折れた剣を握りしめるクリスに向かって、悲痛な声を張り上げた。
視線の先には、決して生きては戻れないという暗黒の底へ消えた親友の軌跡がある。その最愛の親友を、己の剣で斬り落とした男。マリーは怒りのままにクリスへ詰め寄り、その胸ぐらを掴んで力一杯殴り飛ばしてやるつもりだった。
だが、振り返ったクリスの顔を見た瞬間。マリーは息を呑み、言葉を完全に失った。
彼の瞳は、完全に空っぽだったのだ。
怒りも、悲しみも、絶望すらも通り越し、まるで魂だけがすっぽりと抜け落ちてしまったかのような、底知れぬ虚無。ただ、瞬きもせずに見開かれた両目からのみ、感情の制御を失った涙がとめどなく溢れ落ち続けている。
「……ぁ……」
あまりにも無惨に壊れきったその表情に、マリーは責める言葉を飲み込み、へなへなとその場に崩れ落ちた。
遅れて到着したクロエが、手から杖を落として泣き崩れる。巨漢のシグマやオメガ、そしてノアたちも、声にならない呻きを漏らしてただ立ち尽くすことしかできない。
最悪の結末。取り返しのつかない悲劇を前に、全員の心が完全にへし折れかけていた。
――その時だった。
「……たい、ちょう……」
静寂と火の粉が舞う中、瓦礫の陰――蒼い鎧が積み重なった山の中から、微かな、けれど確かな声が響いた。
「……! ルカ!?」
クリスは弾かれたように我に返り、血塗られた折れた剣を放り捨てて、声の元へと駆け寄った。
そこには、真紅の闘気に呑まれたセラの蹴りをまともに受け、大量の血を吐いて倒れていた特務部隊の少女、ルカの姿があった。肋骨が何本も折れ、意識も朦朧としている。だが――彼女は確かに生きて、かすかに息をしていたのだ。
「ノア! 早く手当を!」
「は、はいっ!」
クリスの怒号に我に返ったノアが駆け寄り、すぐさま最高位の治癒の魔術を施し始める。
クリスは震える手で、周囲に倒れ伏している特務部隊の部下たちの身体を次々と確認していった。首の脈を測り、傷口の深さを見る。一人、また一人と確かめていくうちに、クリスの顔色が変わっていく。
「……息が、ある」
クリスの口から、信じられないものを見るような掠れた呟きが漏れた。
倒れている十数名の部下たち。その全員が、立ち上がれないほどの重傷を負いながらも、見事なまでに急所を外されていたのだ。
首の皮一枚。心臓から数ミリ。あるいは骨を砕くだけに留めた絶妙な力加減。
あれほど禍々しい真紅の闘気を纏い、すべてを奪われた怒りに我を忘れた猛獣と化していたはずのセラ。それなのに、彼の剣は、無意識の領域で、誰の命も奪わないように完璧にコントロールされていた。
(あいつは……セラは……誰も、殺していなかった……?)
怒りに狂いながらも、セラの魂の根底にある『優しさ』だけは、決して折れてはいなかったのだ。
その残酷なまでの真実が、クリスの心を容赦なく抉り、粉々に砕いた。
自分は、ただ一人生贄になろうとした独りよがりな正義で、世界で一番優しかった親友を、暗黒の底へと突き落としてしまったのだ。
「俺は……なんてことを……あぁぁぁぁぁっ!!」
クリスは血に染まった石畳に両手をつき、獣のような嗚咽を漏らして泣き叫んだ。
自らを呪う絶望の咆哮は、燃える村の夜空にどこまでも虚しく響き渡った。
***
その頃。
村の反対側、炎と黒煙に包まれた村長の家の裏手で、一つの小さな影が悠然と動いていた。
「あーあ、人間同士で勝手に潰し合ってくれるなんて、ホント楽でいいわぁ」
漆黒のドレスに身を包み、ツインテールを揺らす魔族の少女、フィリーだ。
彼女は村人たちが避難し、もぬけの殻となった隠し地下室へと忍び込み、古びた祭壇から淡い光を放つエメラルド色の宝玉を無造作に拾い上げていた。
「見ーっけ。へぇ~コレが『陽だまりの珠』か〜。……キレイ……よ~し、回収完了、と」
フィリーは宝玉を手のひらでポンポンと転がし、酷薄な笑みを浮かべる。
騎士団に「違法薬物の密売拠点」という偽の情報を流し、強襲させた。すべては、村を混乱に陥れ、この宝玉を安全に回収するための『あの方』のシナリオ通りだった。
「さーて、長居は無用ね。あの方に良い報告ができそうだわ♪」
フィリーは背中のコウモリの翼を広げると、絶望と業火に包まれる村を嘲笑うように見下ろしながら、夜の闇へと軽やかに溶け込んでいった。
***
数日後。
冒険者の街『トーファス』のギルド、二階の専用個室。
かつて【正義の剣】のメンバーが笑顔で集い、いくつもの夢を語り合ったその部屋は、今や凍りつくような重苦しい沈黙に包まれていた。
王都へ帰還する前に、一度荷物をまとめるために立ち寄ったのだ。だが、誰一人として口を開く者はいない。シグマも、オメガも、ただ俯いて床の木目を見つめている。
リーダーの席に座るクリスは、完全に感情を殺した「氷の騎士」の仮面を被っていた。そうでもしなければ、自ら命を絶ってしまいそうなほどの罪悪感に押し潰されてしまいそうだったからだ。
「……王都へ戻るぞ。我々の任務は、まだ終わっていない」
機械のように冷たく、抑揚のない声。
その声に、メンバーたちがビクッと肩を震わせる。
「……私は、行かないわ」
静寂を破ったのは、窓辺に立っていたマリーだった。
彼女はゆっくりと振り返り、銀髪を揺らして真っ直ぐにクリスを見据えた。
「マリー……?」
「この最悪の事態を招いたのは、私よ。……私があなたに村の名前を伝えなかったから。あなたにセラを斬らせる結果を生んでしまった」
マリーの声は震えていた。彼女の瞳にもまた、クリスと同じくらい深く、暗い自責の念と後悔が渦巻いている。だからこそ、彼女は親友を斬ったクリスを責めることができなかった。
「セラは絶対に生きている。あの子が、死ぬはずがない。……あの子を見つけ出すまで、私は……あなたの隣で笑っている資格なんてないわ」
マリーの確かな決意を前に、クリスの能面のような表情がわずかに崩れた。
一瞬だけ、泣き出しそうな少年の顔に戻りかける。すがりつきたかった。行かないでくれと、一人にしないでくれと叫びたかった。
だが、自分が親友を斬ったその汚れた手で、彼女を引き留めることなど許されるはずもない。
クリスはギュッと目を閉じ、再び分厚い氷の仮面を被り直した。
「……そうか」
短く冷たい言葉だけを吐き捨て、クリスは立ち上がった。
そして、すれ違いざま、マリーにしか聞こえないほどの微かな、かすれた声で呟く。
「……すまない」
「ねぇ、クリス。クロエもマリーに同行させたらダメでしょうか?」
不意に、これまで黙っていたノアが口を開いた。
クロエを含む全員の驚いた視線が、一斉にノアへと向く。
「……え、ちょっと待ってよノア……どういう事?」
突然の申し出に、クロエの表情がさらに曇る。
「……私はいらないってこと?」
「そうじゃないですよ、クロエ」
「じゃあ、なんでそんな事突然言うのよ!」
詰め寄ろうとするクロエを、ノアはそっと、けれど力強く優しく抱きしめた。
「クロエ、良く聞いて下さいね。セラがパーティーを抜けてから、あなたはいつも気丈に振る舞っていました。でも、騎士団の任務をこなして行く度に、段々とあなたの笑顔が消えていった……。そして、今回の件。鏡を見ましたか? 相当参ってる表情をしてますよ」
「そんな事ない! 私は騎士団で! 最強の魔術師で……っ!」
ノアの腕を振り解こうと必死に抵抗するクロエを、ノアはさらに強く抱きしめる。
「えぇ、知っています。あなたは最強の魔術師です。だから、私達にも、絶対に必要な存在です。それはもちろん、騎士団としても。そして――友達としても」
その温かい言葉に、クロエの抵抗する力がスッと抜けていく。
「だから、これは友達として言うのです。あなたは今回の件で、精神的に相当限界でしょう。違いますか?」
「……ッ」
図星を突かれ、クロエは黙ってノアの胸に顔を埋め、泣き始めた。
「本当に分かりやすいんですから」
ノアは聖母のように優しく微笑み、クロエのふわふわの髪を撫でた。
「クロエ、あなたの正直な気持ちを聞かせて?」
「ひっく……私は、私もセラを探したい……ひっく。生きてるか、わからない、けど。死んだって、ひっく……思いたくないよぅっ」
「ええ。セラが大好きですものね……探しに行きなさいクロエ。そして絶対、マリーとセラと一緒に帰ってきて」
泣きじゃくるクロエの背中を叩き、ノアは優しくも強い瞳でクリスを見つめた。
「どうですか? 隊長」
クリスはしばらく沈黙し、泣き崩れるクロエと、それを受け止めるノア、そして静かに待つマリーを見た。
「……わかった、許可しよう。ただし、脱退はさせない。しばらく休暇扱いにする。それでいいか? ノア、クロエ」
「ありがとうございます。マリー、あなたにばかり負担をかけてしまってごめんなさい。でも、クロエをお願いします」
「ありがとうノア。任せておいて。絶対セラを見つけて、クロエとセラと帰ってくるわ」
マリーは小さく頷き、涙を拭ったクロエと共に、扉を出ていく仲間の背中を見送った。
シグマたちも、後ろ髪を引かれる思いでマリーとクロエに深く一礼し、リーダーの後へと続いていく。
バタン、と。
重厚な扉が閉まり、マリーとクロエは、誰もいなくなった静かな部屋に残された。
王国最強の騎士として、血と硝煙に塗れる修羅の道を往く男。
彼が落とした希望の欠片を探し出すため、クロエと共に果てしない旅へと踏み出す女たち。
かつて同じ未来を誓い合った【正義の剣】の絆は、ここで完全に分かたれた。




