第41話 夢現
『……本当に不思議な子。ねえ、あなたのお名前は?』
深い深い、暗闇の底。
どこまでも沈んでいくような心地よい微睡み(まどろみ)の中で、鈴を転がすような、綺麗な少女の声が聞こえた気がした。
――僕の名前は。
夢の中でそう答えようとして、不意に意識が浮上する。
(……あれ?)
背中に感じるのは、遺跡の冷たく硬い石畳でも、底なしの闇へと落ちていく時の凍えるような風でもなかった。
ふかふかの、まるで雲のように柔らかいマットレス。そして、全身を包み込む清潔で甘い花の香りがするシーツの感触。
胸を斜めに深く引き裂かれたはずの激痛は嘘のように消え去り、代わりに温かな力が身体の奥底まで満ちている。
(僕……生きてる……? 確か、クリスに斬られて、崖から真っ逆さまに落ちて……)
そこで記憶は途切れている。なす術なく暗闇に飲み込まれ、確実に死を覚悟したはずだった。
ただ、意識が完全に沈む直前、ふわりと温かい風に包まれて、薄いピンク色の髪が揺れたような……そんな都合のいい幻を見た気がする。
(幻……? いや、このシーツの感触も、痛みが消えているのも現実だ。なら、あの時誰かが僕を……? でも、ここは一体……)
重い頭で必死に状況を整理しようとしながら、セラはゆっくりと目蓋を開けた。
ぼやけた視界が、次第にピントを結んでいく。
得体の知れない現状への警戒と混乱が入り交じる中、完全に開いたセラの視界。
その、ほんの数センチ先。
パチリ、と。
「おはようございます。お目覚めになられましたかな、お客様」
そこに飛び込んできたのは、見事に整えられた真っ白なカイゼル髭を蓄え、片眼鏡の奥から深いシワの刻まれた瞳でこちらをジッと覗き込む、見知らぬ初老の紳士のドアップだった。
「――ッ!?」
極限まで高まっていたセラの警戒心が、全く予想外のベクトルから叩き割られる。
声にならない悲鳴を上げ、セラはガバッと勢いよく身をよじった。
「うわぁぁぁっ!?」
ドサァッ!!
あまりの驚きにベッドの端から転げ落ち、顔からふかふかの絨毯に突っ込む。
「おや、これは失礼いたしました。あまりにも穏やかな寝顔でしたので、ついお顔の血色を間近で確認してしまいましてな」
初老の紳士は、セラがベッドから落ちたというのに微動だにせず、背筋をピンと伸ばしたまま、この上なく優雅な動作で深々と一礼した。
黒の燕尾服に、一切のシワもない純白の手袋。どこからどう見ても、絵に描いたような『完璧な執事』である。
「い、痛たた……」
赤くなった鼻をさすりながら絨毯から顔を上げたセラは、混乱する頭で周囲を見渡した。
自分がいま転げ落ちたのが、見たこともないほど豪華な天蓋付きのベッドであることに気づく。周囲には上品なアンティーク家具が並び、広々とした美しい客室だった。
陽だまりの村の質素な自分の部屋とも、王都のギルドの宿屋とも全く違う。
(こ、ここは……? 僕は崖から落ちたはずじゃ……)
セラが慌てて立ち上がり、目の前の執事に必死に問いかけようとした、その時だった。
「おい! ジジィ! おネェちゃんはココか〜!」
バンッ! と乱暴な音を立てて重厚なマホガニーの扉が蹴り開けられ、元気で甲高い幼い少女の声が部屋に響き渡った。
セラが呆然と振り返る。
そこに入ってきたのは、全く見覚えのない小さな女の子だった。
淡い紫色の髪の間からピンと突き出した猫の耳と、腰のあたりで不機嫌そうにブンブンと揺れるふさふさの尻尾。
(ね、猫の……獣人の子供……?)
目を白黒させるセラをよそに、その猫耳の少女はズカズカと豪華な客室へと上がり込んでくる。
「こら、ミーア。お部屋で走ってはダメだって言ったでしょう?」
その後ろから、呆れたような、けれどどこか楽しげな少女の声が続いた。
扉の向こうから姿を現したのは――幻と同じ、薄いピンク色の髪を揺らす少女だった。
「あ……」
セラは言葉を失い、ただ彼女を見つめる。
「おネェちゃん、いたー!」
ミーアがパッと振り返り、少女の腰のあたりにギュッと勢いよく抱きついた。
「ふふっ、もう。本当に元気なんだから」
少女は困ったように微笑むと、すり寄るミーアの頭を愛おしそうに優しく撫でる。
そして。
ふと顔を上げた少女もまた、床に座り込むセラと目が合うと、ピタリと足を止めた。
彼女の綺麗な瞳が微かに揺れ、やがて胸の奥から深い安堵の息を吐き出すように、ふわりと――まるで日だまりのように優しく、温かい笑顔を咲かせる。
「……本当によかった。やっと、目が覚めたのね」
心からの思いを乗せた、柔らかい声。
彼女は慈しむように目を細め、セラへとそっと手を差し伸べた。
「おはよう、お寝坊さん」




