第39話 シグマ
――ガハハ、と。
あんな風に、腹の底から笑い合っていた日々は、どこへ行ってしまったのだろう。
目の前で燃え盛る陽だまりの村。その熱風の向こう側で、切り立った崖から真っ逆さまに落ちていった最愛の少年の背中が、網膜に焼き付いて離れない。
巨漢のシグマは、まるで迷子になった子供のように、その大きな身体をガタガタと震わせ、声にならない声を漏らしていた。野性味のある黒い短髪が、絶望の冷や汗で額に張り付く。
(嘘だろ……セラ。お前が、なんでお前が……っ)
視界が涙で歪み、胸が引き裂かれそうなほどの悔しさが男の腑を焼く。
暗黒の深淵を見つめるシグマの脳裏に、あの日――退屈で燻っていた自分を、もう一度心の底から熱くさせてくれた、彼らとの最高の出会いの記憶がハッキリと蘇ってきた。
――それは、シグマがまだ【正義の剣】を知る前のこと。
冒険者ギルドの最高峰が集う大都市『トーファス』で、シグマは単身、その無骨な大剣一本を頼りに『Cランク』まで上り詰めていた。
だが、ここからさらに上のランクを目指すには、単独での活動は物理的に不可能だった。どうしてもどこかのパーティーに加わる必要があったのだが、シグマはどうにも決めかねていた。
当時、街には最高峰とされるAランクが3組、Bランクが8組、そして同格のCランクが15組存在していた。しかし、どのパーティーの誘いも、今ひとつ気が乗らなかったのだ。
目下、ギルドの最速昇格記録を次々と塗り替えている【正義の剣】という妙な名前の噂も、当然シグマの耳には届いていた。だが――。
「……男2人に、女3人。剣士が3人に、魔術師が1人と、治癒術師が1人か。データを見る限りじゃ実力はあるんだろうが……どうにも、チャラチャラしてるイメージなんだよな。なんか気に入らねぇ」
シグマはギルドの酒場の隅で、無造作な黒短髪をガシガシと掻きながら、一人で毒づくようにエールをあおっていた。
「シグマさん、またブツブツ言って。まだ気に入るパーティーが見つからないんですか?」
トレイを片手に、ギルドの受付嬢が苦笑しながら話しかけてくる。
「ん〜、なんかなぁ……。どこもかしこも、肌に合わねぇっていうか。ずっと一人で型に縛られずにやってきたからな」
「でも、これからの高難度クエストをこなすには、ソロだと絶対に命が足りませんよ?」
「分かってる、分かってるよ。……いっそ、俺がリーダーになって自分でパーティーでも作るか! なんてな、ガハハ!」
豪快に笑い飛ばすシグマに、受付嬢は「シグマさんにリーダーシップがあれば、ですけどね」と引き気味の苦笑いを浮かべた。
「さて、行くか! 嬢ちゃん、また良さそうな情報があったらよろしく頼むわ!」
軽く手を振ってギルドを出たものの、シグマは「なーにすっかなぁ」と路頭でため息をついた。
最近は、ソロで受けられる代わり映えのしない低ランククエストばかりで、完全に嫌気がさしていた。もっと歯応えのある魔物と戦いたいが、Bランク以上のクエストはパーティーを組んでいなければ受注すらできない。
かと言って、自分で組織を率いるほどのリーダーシップがないことは、自分が一番よく分かっていた。
「暇だな、おい」
結局、昼間から酒瓶を片手に、街の広場のベンチにどっかと腰掛け、行き交う人々をボーッと眺めるくらいしかやることがなかった。
その時だった。
「ねぇねぇ、いいじゃんよ! ちょっとだけでいいからさぁ、俺たちと遊びに行こうぜ?」
「おいおい、そんなに怯えんなって。楽しいところ連れてってやるからさ」
広場の片隅で、いかにも柄の悪そうな冒険者風の男二人が、一人の修道女に絡んでいた。
(ナンパか……。昼間から暇な奴らだな。まぁ、俺が言えた義理じゃねぇが)
シグマが冷めた目でそちらを見ると、絡まれているのは、色素の薄い金髪を綺麗な三つ編みに結った、いかにも清楚な雰囲気の女性だった。彼女は困惑したようにおどおどと身を縮めている。
(……待て、あのアイツら見ない顔だな。新入りか? ――いや、あの金髪三つ編みの女、確か噂の【正義の剣】の……。何にしても、ああいう小悪党は見ていてイライラするな。ちょっと喝でも入れてやるか)
シグマが酒瓶を置き、のっそりと立ち上がった、まさにその刹那。
「ほら、行こう行こう!」と、一人の男が彼女の腕を強引に引っ張ろうとした。
シグマが踏み出すよりも早く、一人の青年が疾風のごとき速さで割り込み、男の腕をガシッと掴み取った。
「申し訳ないけど、この子は僕の連れなんだ。ちょっかい出すのは止めてくれないかな」
(……! アイツ、いつの間にあそこに……。それに、あの黒髪……【正義の剣】のセラか!?)
「セラ!」
怯えていた金髪三つ編みの女性――ノアの顔が、安心したようにパッと明るくなる。
「なんだテメェ! 後から来て邪魔すんじゃねぇよ!」
もう一人の男が逆上し、セラに向けて思い切り拳を突き出した。
だが、その拳がセラに届く前に、男の身体が突然、宙を舞った。
「おいおい、新入りども。冒険者同士の私闘はギルドのご法度だぞ? やるなら男らしく、鍛錬場で決闘しろや!」
男の襟首を後ろから掴み、まるでゴミ袋のように軽々と放り投げたのは――クマのような体格をした巨漢、シグマだった。
「ひっ……!?」
石畳に叩きつけられた男は、シグマの圧倒的な体躯を見上げるなり、恐怖に顔を引きつらせて仲間と共に一目散に逃げ去っていった。
「あ、あの……ありがとうございました!」
「助けていただき、ありがとうございました」
黒髪の少年・セラと、ノアが丁寧に頭を下げる。
けれどシグマは、その礼など耳に入らない様子で、目をらんらんと輝かせてセラを凝視していた。
「お前……【正義の剣】の、セラだろ?」
「え、あ、そうです……けど?」
「さっきの身のこなし、相当強いな。――よし! 面白い、俺と決闘しろ!」
「はぇッ!? け、決闘!?」
「決まりだ! 明日、ギルドの修練所に来い! ギルドには俺から話を通しておくからな。逃げんじゃねぇぞ!」
シグマはそれだけを一方的に言い残すと、興奮を隠せない様子で嬉々として去っていった。
「……何ですかあの人。ろくに人の話も聞かないで、ガサツ極まりないですね」
残されたノアは、眉の根を寄せて不満そのものの表情を浮かべていた。
――そして翌日、ギルドの修練所には、噂の【正義の剣】のメンバーが全員揃っていた。
「おーっ! セラ! ちゃんと来たな! 偉い偉い!!」
無駄に広い修練所に、シグマの大声がガハハと響き渡る。
「セラ〜、頑張れ〜!」
「セラ、しっかりね!」
「怪我には気をつけてくださいね」
「セラ! 負けたら今日の夕飯の皿洗いは全部お前だからな!」
それぞれのメンバーが、楽しそうに仲間へ声援を送っている。
「あ、あはは……みんな、そんなに大声で言わなくても……」
セラは少し恥ずかしそうに頬をかきながら、その声援を真っ直ぐに受け止めていた。
「じゃあ、始めるか!」
シグマが自慢の身の丈ほどもある大剣を構える。その瞬間、空気がピリッと張り詰めた。
「ほう……これはなかなかの使い手だな」
「そうね。あの体躯から繰り出される一撃、まともに受けたら剣ごと叩き割られるわよ」
クリスとマリーが、一瞬でシグマの力量を見定めて冷静に呟く。
セラもまた、ゆっくりと自分の『無銘の長剣』を抜き、低く構えた。その薄い茶色の瞳に、一切の油断はなかった。
「行くぜぇッ!!」
シグマの咆哮を合図に、二人の刃が激しくぶつかり合った。
――それから、約1時間後。
「はぁ……はぁ……っ、クソ、俺の負けだ……!」
シグマはドサリと両膝を突き、荒い息を吐き出していた。そのシグマの首元には、セラの無銘の長剣の切っ先が、寸分の狂いもなくピタリと突きつけられている。
手数はシグマの方が圧倒的だった。だが、どんなに大剣を振り回しても、セラの神がかった剣才はすべてを紙一重で見切り、じわじわとシグマの体力を削り、最後に完璧な一手を決めてみせたのだ。
「やったぁー! セラの勝ちー!」
ふわふわの水色髪を弾ませて、クロエがノアに抱きついて大喜びする。
「力で勝負するのは、いささか相性が悪かったな。だが、セラを相手にこれだけ持ちこたえるなんて、只者じゃないぞ」
「どうするの、クリス?」
マリーがリーダーのクリスを覗き込む。
「俺たちのパーティーに、純粋なパワータイプのアタッカー、欲しくないか?」
マリーとクロエは「そうね」「いいんじゃない!」と賛成したが、ノアだけは少し唇をとがらせていた。
「あのガサツさが、少々不満ですが……。まぁ、昨日は私を助けようとしてくださっていましたし、根は悪い方ではないようですから、反対はしません」
「よし、決まりだな! セラ! 皆オッケーだ!」
クリスが修練所の奥から合図を送る。
肩を激しく上下させ、その場に座り込んでいたセラは、クリスの言葉に微笑むと、シグマをスカウトしようと口を開きかけた。
だが、それよりも早く、シグマは地面に両手を突き、セラに向けて勢いよく頭を下げた。
「頼む!! 俺を、お前らのパーティーに入れてくれ!!」
「え……っ?」
「こんなにワクワクした戦いは初めてだ! それに、同世代でここまで全く歯が立たねぇ相手なんて、お前が初めてだ! セラ、俺はお前の剣に惚れた! 仲間にしてくれ!」
突然の猛アプローチに、セラは一瞬きょとんと驚いた表情を浮かべた。だが、すぐにいつもの、あの太陽のように眩しい笑顔を咲かせて、シグマに向かって力強く手を差し伸べたのだ。
「――はい! こちらこそ、よろしくお願いします!」
――。
ハッと、シグマの意識が冷酷な現実へと引き戻される。
あの時、自分の燻っていた心に火をつけ、最高の居場所をくれた、世界で一番強い親友の笑顔。
その笑顔が、今はもう、どこにもない。
「セラァァァァァァッ!!!!! なんでだよ、クソッタレがァァァァッ!!!」
シグマの野獣のような咆哮が、燃え盛る村の夜空へ、虚しく響き渡り続けていた。




