第38話 クロエ
――たぶん、あれは一目惚れだったのだと思う。
目の前で、世界が音を立てて崩れ落ちていくようだった。
崖の縁に膝をついたクロエの手から、愛用の木の杖が滑り落ち、カランと虚しい音を立てて転がる。
視界は涙で激しく滲み、胸の奥が焼き切れるように痛い。決して生きては戻れないという暗黒の深淵へ、胸から鮮血を吹き出しながら真っ逆さまに落ちていった、あの黒髪の背中が頭から離れなかった。
(嘘……嘘よ、セラ……なんで、どうして……っ)
震える両手で顔を覆った瞬間、クロエの脳裏に、あの日――灰色で退屈だった自分の世界に、鮮やかな光を吹き込んでくれた彼との最初の出会いが、鮮明に蘇ってきた。
――それは、冒険者ギルドの街『トーファス』の広場で。
当時、異例の速さで『Bランク』へと駆け上がった新進気鋭のパーティー【正義の剣】の名前は、街の至る所で話題をさらっていた。
クロエが通う高名な魔術学校でも、その噂は男女を問わず、特に若い世代の間で大流行していた。それもそのはず、直接姿を見た者は少ないながらも、噂によれば全員が驚くほどの美男美女で構成された4人組だというのだから。
「はぁーあ……【正義の剣】かぁ。いいなぁ、羨ましい……」
放課後の教室、クロエは誰もいなくなった机に突っ伏して、つまらなさそうにボヤいていた。
水色のフワフワした髪の毛が完全に顔を隠している。
「あーあ、またクロエのいつもの病気が始まった」
一つ前の席で、制服のスカートを揺らしながら友人の少女が呆れたように笑う。
「だってさ、めちゃくちゃカッコいいじゃん! ランクアップの歴代記録をバンバン塗り替えてさ、同世代なのに歴史を作ってるんだよ?」
「でも、相手は冒険者だよ? 常に死と隣り合わせで、魔物と戦う過酷な世界なんだよ。怖くないの?」
「んー……別に。怖さよりも、面白そうって方が勝つかな」
「……まぁ、アンタはそうよね」
友人は「言う相手を間違えた」と苦笑し、すぐに真面目な顔をして言葉を続けた。
「むしろ、周りから羨ましがられてるのはクロエの方だよ。皆が卒業後の就職に向けて躍起になってる今のタイミングで、アンタは魔術研究所や宮廷魔術師団からも引く手あまたなんだから。本当に羨ましいわ」
昔から、大抵のことは器用に卒なくこなすことができた。とりわけ魔術の才能には恵まれており、周囲の勧めもあってこのエリート学校に進学した。
けれど、明確な目標も、命を懸けたいと思える目的もないクロエにとって、約束された平穏な未来は退屈そのものだったのだ。だからこそ、常に死線と隣り合わせの冒険者の世界で、圧倒的な輝きを放ちながら新たな伝説を刻んでいく同世代の【正義の剣】が、どうしようもなく眩しく見えた。
そんなある日の帰り道。
いつものように友人たちと別れ、一人で家路を歩いていた時のことだった。
「うわぁぁぁぁん……ッ!」
広場の近くで、小さな女の子が激しく泣き叫ぶ声が響いた。
周囲の大人たちは声に気づいてはいるものの、面倒なことに巻き込まれたくないのか、どこか遠巻きに距離を置いて静観しているだけだった。
(はぁ……都会の人って、本当にこれだから嫌よね。関係ないことには首を突っ込まないってわけ。まぁ、私にも関係はないんだけど……でも)
クロエがため息をつき、見かねて少女の元へ歩み寄ろうとした、まさにその刹那。
背後から、一人の若い風のような気配がクロエの横をすり抜け、迷うことなく少女の元へと駆け寄っていった。
「君、どうしたの? 大丈夫?」
それは、艶やかな黒髪を持った、まだあどけなさの残る端正な顔立ちの彼だった。
包み込むような柔らかな空気感、物腰の優しい話し方。そして何より、息を呑むほどの美形。どこか少年のような純粋さを残しながらも、凛とした強さを持つ彼の姿は、クロエの好みに完璧なまでに突き刺さった。
クロエは歩みを止め、しばらくの間、その黒髪の彼に瞳を奪われて立ち尽くしていた。
彼は泣きじゃくる女の子を自分の肩へと優しく乗せると、「お母さんを一緒に探そうね」と周囲を見渡し始めた。
すると、それまで遠巻きに見ていた通行人たちが、彼の顔を認識した途端、手のひらを返したように騒ぎ始めたのだ。
「あれ、もしかして【正義の剣】のセラさんじゃない!?」
「え、嘘、マジ!? 本物!?」
「セラさん! 私たちも迷子探し、手伝います!」
「私も! 私も行くわ!」
一瞬にして、主に若い女性たちを中心とした群衆が、お祭り騒ぎのように彼を囲み始めた。
「え、いや……あの、ちょっと、皆さん……っ」
突然の事態に、見るからに困惑し、ドギマギと困り果てているセラ。
その様子を見ていたクロエは、思わず前に踏み出し、群衆に向かって鋭い声を放っていた。
「ちょっとアンタ達! 手伝うつもりなら、まずはその囲むのを止めなさいよ! 邪魔でしょ!」
ぴしゃりと言い放つと、群衆の視線が一斉にクロエへと向いた。
「はぁ? 何よあの女」
「セラさんに良いところ見せようとして、生意気じゃない?」
口々に文句を言われ、完全にヘイトが自分へと向く。
クロエは少し不安になりながらも、その瞬間にセラの瞳を見た。セラもまた、申し訳なさそうに、そして心配そうにクロエを見つめていたが、彼女の意図を察したようにコクリと深く頷いた。
次の瞬間、彼は周囲の隙を突いて、まるで煙のようにするりと気配を消し、その場から鮮やかに離脱してみせたのだ。
(さすが高ランクの冒険者……見事な身のこなしね)
クロエはホッと胸をなで下ろした。
「あれ? ちょっと、セラさんは!?」
「嘘、いつの間にいなくなったの!?」
クロエへの文句を呪詛のように垂れ流していた群衆は、肝心の目標を見失うと、やがて不満げに散り散りになっていった。
さすがにドッと疲れが押し寄せ、クロエは住宅街の片隅にある公園のベンチに腰掛けた。
(はぁ……なんか、すっごく疲れた……。それにしても、あれが噂のセラか……。めちゃくちゃ優しそうな人だったな。あーあ……なんか、好きになっちゃったかも)
まさか自分が、見ず知らずの相手に一目惚れをするなんて思ってもみなかった。急に自覚してしまった自分の乙女な一面が急激に恥ずかしくなり、クロエは両手で真っ赤になった顔を覆った。
「あの、すみません」
不意に、頭上から柔らかい声が降ってきた。
クロエがハッと顔を上げると、そこに立っていた人物を見て、一瞬、本当に息が止まった。
群衆を巻いたはずのセラが、そこに立っていたのだ。
彼は優しく微笑みながら、深く頭を下げた。
「さっきは僕を庇って助けてくれて、ありがとうございました! 本当に助かりました」
あまりにも優しく綺麗な黒い瞳に見つめられ、吸い込まれそうになる。
「え、いや……別に」
クロエは激しく高鳴る心臓を隠すように、フイッと視線を逸らした。
「……困ってたみたいだから声をかけただけよ」
「はい、あんな事になるなんて思わなくて。驚きました」
「あなた、有名人なんだから。これからはもっと周りに気をつけた方がいいわよ」
「そうですね、気をつけます。あ、それと、あの女の子、無事にお母さんを見つけられましたよ」
「そ、そう。……で、なんでわざわざ私を追いかけてきたの?」
少しぶっきらぼうに問い詰めると、彼はにっこりと笑って答えた。
「だって、あなたもあの時、あの女の子に声をかけようとしていましたよね?」
「――っ」
気づかれていた。見られていた。
その事実が、たまらなく恥ずかしくて、それ以上にどうしようもないほど嬉しかった。
「……助けたのは、あなたよ」
「それでも、あなたも助けようとしていた。……優しい人なんですね」
曇りのない笑顔でそう言われ、クロエは自分の顔が今までにないほどカッと熱くなるのを感じた。
(顔、熱っ……! ヤバい、絶対に今、私、真っ赤になってる……!)
「ところで、その制服……魔術学校の生徒さんなんですか?」
「そうだけど? 何よ」
もっと可愛く、フランクに話したいのに、どうしても素直になれない。
「魔術、得意なんですか?」
「それなりに、ね」
すると彼は、クロエの制服の肩口をそっと指差した。そこには、学年最高峰の成績を収めた者だけに授与される、5つの星のバッジが光っていた。
「そのバッジ、確か最高ランクの成績を収めた優秀な人しか貰えないやつですよね? 5つもつけている人、僕、初めて見ました!」
「……よく知ってるわね」
「僕たち、今、腕のいい魔術師を探しているんです」
彼は一歩踏み込み、少し困ったような、けれど真っ直ぐな瞳でクロエを見つめた。
「どうですか? もしよかったら、僕たちのパーティー――【正義の剣】に入りませんか?」
「はぁッ!? わ、私が!?」
あまりにも唐突なスカウトに、嬉しさよりも驚きが完全に勝ってしまった。
「いや……ですか?」
少し不安そうに、まるで捨てられた子犬のような目で覗き込んでくる彼を見て、クロエは降参するようにため息をついた。
「……仕方ないわね! そこまで言うなら、入ってあげてもいいわよ!」
言葉とは裏腹に、彼女の心臓は、新しい世界への喜びと、彼と同じ道を歩める興奮で、張り裂けんばかりに高鳴っていた。
――。
あの日、素直になれない自分を優しく受け入れ、眩しい世界へと手を引いてくれた、世界で一番大好きな彼の笑顔。
その笑顔を、もう二度と見ることはできない。
「セラ……嫌よ、嘘でしょ……っ、セラァァァァァッ!!」
崖の上で、クロエの悲痛な叫びが夜空を切り裂く。
冷たい夜風だけが、彼女の涙を無慈悲にさらっていくのだった。




