第37話 ノア
――視界が、涙でぐちゃぐちゃに滲んでいた。
崖の縁で泣き崩れるマリーの悲鳴が、ノアの鼓膜を容赦なく叩き据える。
あの優しかった彼が、底なしの暗闇へと落ちていく。
ノアは両手で顔を覆い、膝から崩れ落ちた。震えるまぶたの裏側に、あの日――冷たい石造りの教会に、春の陽だまりのような温かさを運んできてくれた、彼らとの最初の記憶が鮮明に蘇っていた。
――それは、ノアがまだ修道院で、外の世界を知らずに生きていた頃のこと。
いつものお勤め。
今日も朝日と共に目覚め、色素の薄い金髪を慣れた手付きで三つ編みに結い、冷たい水で雑巾を絞って聖堂の掃除をし、祭壇の前で静かに祈りを捧げる。
(どうか、世界が平和になりますように。飢える人や、傷つく人がいなくなりますように……)
今はまだ、自分のこの小さな声は届かない。けれど、いつかきっとこの純粋な願いは神に届くと信じて、ノアは毎日祈り続けていた。
修道女として神に仕える日々に不満はない。だが、毎日が同じことの繰り返しの中で、時折ふと、壁に囲まれた自分が「カゴの鳥」のように思えることがあった。
そんなある日のこと。
午前中のお勤めを終え、昼食のあとにもう少しお祈りをしようと聖堂に入ると、二人の若い冒険者が、熱心に女神像へ向かって手を合わせていた。
一人は黒髪の、まだあどけなさの残る彼。もう一人は、少し大人びた銀髪の若者だった。
二人はそれはもう、一心不乱に祈りを捧げていた。ノアが感心してしまうほどに。
やがて祈りが終わると、二人は入り口付近にいたノアに軽く会釈をし、足早に教会を出ていった。
不思議なことに、二人は次の日も、その次の日も、同じ時間に教会へ姿を現し、必死に祈りを捧げていた。
特に理由はない。でも、まだ若い二人の冒険者が、こうして毎日熱心に教会へ通い詰めるのは珍しく、ノアは思い切って声をかけてみることにした。
「最近、ずいぶん熱心にお祈りされていますね?」
「ひゃっ!?」
背後から突然声をかけられ、二人の若者はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。
そこには、修道女の服に身を包んだ、彼らと同じ年頃の女性――ノアが、聖女のように優しく微笑んで立っていた。
「あ、はい……ちょっと、神様にお願いごとがあって……」
銀髪の青年が、どこかバツが悪そうに頬をかく。
「ごめんなさい。僕たち、こんな困った時しかお祈りに来なくて……」
黒髪の彼も、申し訳なさそうに眉尻を下げて謝ってきた。
「フフフ、気になさることはありませんよ。神様は、そのような些細なことはお気にされませんから」
クスリと笑って首を振ったノアは、ふと、黒髪の彼の腕に巻かれた包帯から、血が滲んでいることに気がついた。
「あら……あなた、お怪我をされているではないですか」
「あ、コレはちょっとクエストで魔物と擦れちゃって。大したことないんです」
強がる彼の手を取り、ノアはそっとその傷口に両手をかざした。
淡く、神聖な緑色の光が、ノアの掌から放たれる。治癒魔術だ。
「ん……っ」
黒髪の彼は、痛みを堪えるようにギュッと強く目をつぶった。一般的な治癒魔術は、傷口の細胞を強制的に結合させるため、そこそこの痛みを伴うのが常識だからだ。
「はい、終わりましたよ」
「…………え?」
ノアの優しい声に、恐る恐る目を開けた彼は、自分の腕を見て驚愕の表情を浮かべた。
「え、嘘!? 全然痛くない……! しかも、傷跡すら残ってない!」
「えっ!? マジかよ!?」
隣にいた銀髪の青年も、信じられないというように身を乗り出して驚いている。
「フフ、私、こう見えて回復魔術は少し得意なんです。痛みのないように魔力を調整していますから」
ノアが少しだけ胸を張って微笑むと、二人の若者はバッと顔を見合わせ、まるで宝の山を見つけた子供のように同時に声を上げた。
「「見つけた!!」」
「えっ?」
銀髪の青年が、目を輝かせてノアに歩み寄る。
「俺たち冒険者をやってて、ずっと腕のいい回復術師を探してたんです!」
「僕たちのパーティーに入ってください! お願いします!」
「わ、私が、ですか……!?」
あまりにも唐突な申し出に、ノアは目を丸くして困惑した。
だが――目の前の、太陽のように真っ直ぐで輝く二人を見つめていると、自分の心の奥底に封じ込めていた「本当の願い」が溢れ出してくるのが分かった。
このまま、ただ安全な壁の中で祈り続けるだけでいいのか。
本当はもっと外へ出たい。もっと色々な人を、ここにいては手の届かない、世界で傷ついている人々を、自分の手で直接救いたい。
一度そう思ってしまったら、もう心を誤魔化すことはできなかった。
「私のような者で……お力になれますか?」
「もちろん!!」
二人が力強く、満面の笑みで頷いた。
冒険者になれば、命の危険は間違いなく跳ね上がる。けれど、この温かい光を持つ彼らと一緒なら、きっと大丈夫だと思えた。
「……よろしくお願いします」
「やったー!!」
黒髪の彼が、教会の中だということも忘れてピョンと飛び跳ねて大喜びする。そして、ノアに向かって優しく手を差し伸べた。
「僕は、セラ! こっちがリーダーのクリス!」
「私は、ノアです。……これから、よろしくお願いしますね、セラさん、クリスさん」
ノアは、その温かい彼の手を優しく握り返した。
「ところで……お二人は、毎日そんなに熱心に、神様に何をお願いしていたのですか?」
ノアが純粋な疑問を口にすると、クリスとセラの顔が、スッと青ざめた。
「いや、実は……」
クリスの顔が再び曇った、まさにその時だった。
バァァァァァァンッ!!
修道院の重厚な扉が、蹴り破られんばかりの勢いで開かれた。
そこには、顔を真っ赤にして激怒した、美しい銀色のロングヘアーをなびかせる女性――マリーが立っていた。
「私の大切にしてたマグカップ割ったの、どっちよォォォォォッ!!?」
「やべぇ! バレたぞセラ!」
「クリスがあんな分かりやすいところに隠すからだろぉ!?」
「なるほど、二人とも同罪ってことね! 覚悟しなさいッ!!」
「ぎゃあああー! 神様ァ! お助けェェェー!!」
セラの悲鳴が神聖な教会に響き渡ったが、彼らが三日間祈り続けたその願いは、無情にも叶わなかった。
怒り狂うマリーから必死に逃げ回るクリスとセラの姿を見て。
ノアは、人生で初めて、お腹を抱えて大きな声で笑ったのだった。
――。
ああ、なんて温かくて、幸せな記憶。
「……セラ、さん……っ、ああぁぁ……っ」
ノアは両手で顔を覆ったまま、血を吐くような嗚咽を漏らした。
あの時、自分をカゴの中から連れ出し、初めての心からの笑顔をくれた優しい彼。
燃え盛る村の熱風の中、あの日の笑い声はもう、どこにも響いてはいなかった。




