第36話 マリー
――目の前が、真っ白になるような衝撃だった。
身を乗り出して覗き込んだ漆黒の深淵。マリー・トライルの悲痛な叫びは、冷たい夜風にかき消され、何の応えもなく闇に吸い込まれていく。
衣服を血に染め、胸を深く切り裂かれた姿のまま、重力に従って落ちていったセラの姿が、網膜に焼き付いて離れない。
(嘘……ウソよ、セラ……っ)
涙で視界が歪む。
信じたくない現実の真っ暗闇を見つめるマリーの脳裏に、あの日の――少しだけ不器用だった自分を見つけてくれた、温かい「最初の記憶」がフラッシュバックした。
――あれは、二人に初めて出会った日。マリーが冒険者ギルドの街『トーファス』に到着した、まさにその日のことだった。
世界最高峰と謳われる巨大なギルドが存在するその街は、大陸中から集まった冒険者たちで活気に満ちあふれていた。
当時、マリーは前の街では『Cランク』として、それなりの活躍をして評価されていた。さらにランクを上げるには、大きいギルドに行くのが一番であり、それは冒険者にとってはごく珍しくない選択だった。
別に、冒険者のランクを上げたいという自己顕示欲が強いわけではない。ただ、冒険者をやっている以上、より多くの人や街を救うには、ランクを上げて大きな依頼を受けられるようにするのが一番手っ取り早かったのだ。
とはいえ、そう簡単に事が進むわけでもない。
「……大きい街って、これだから嫌だわ」
人混みから少し外れた路地で、マリーは一人、ため息をつきながら手元の地図を睨みつけていた。
前のギルドでもらったトーファスの地図は、手書きで乱暴に書かれていた。
「……こんな子供のお絵かきみたいな地図で、わかるわけないじゃない」
今日この街に足を踏み入れたばかりの彼女が、この複雑な大都市で自力でギルドを見つけるのは至難の業だった。誰か道行く人に聞けばいいのだろうが、彼女は初めて来た街ということもあり、少し人見知りをしていた。
さらに悪いことに、彼女の端正で美しい顔立ちは感情が表に出づらく、傍から見れば「凛とした剣士が静かに佇んでいる」ようにしか見えず、到底道に迷って困っているようには見えなかったのだ。
街の中で途方に暮れかけていた、その時だった。
「あの、大丈夫ですか?」
背後から、不意に声が聞こえた。
「え?」
振り返ると、そこにはまだあどけなさの残る黒髪の彼と、少し大人びた銀髪の若者が並んで立っていた。
声をかけてきた黒髪の彼は、木漏れ日を浴びて綺麗な光を放っている。
「もしかして、道探してますか?」
覗き込んできたその瞳は、世界のどんな汚れも知らないような、真っ直ぐで綺麗な色をしていた。
「え、どうして?」
マリーは戸惑い、思わず問い返してしまった。
「あ、ごめんなさい。なんか、困ったような顔をしてたから」
「!」
(この子……私の表情わかるの!?)
周囲の誰も気づかなかった自分の微細な感情を、初対面の彼が見抜いたことにマリーが驚いていると、もう一人の銀髪の若者が呆れたように口を開く。
「やっぱり勘違いなんじゃないか? セラ、お姉さん別に困ってるようには見えないぞ?」
「え〜そうかなぁ……んー、お姉さん、ごめんなさい! 困ってないなら大丈夫です!」
セラと呼ばれた彼がニッコリ微笑み、その場から離れようとする。
焦るほど困っていたわけじゃない。時間をかければ、いずれはギルドにも着けただろう。だけど、マリーの心は無意識に、咄嗟にセラの背中を引き留めていた。
「あ、ま、待って!」
声を上げると、二人はキョトンとしてこちらを見た。
「あの、ね……ギルドの場所が、わからなくて……」
少し恥ずかしそうにマリーが白状すると、二人はお互いに顔を合わせ、ウンと頷き合った。
「僕達もギルド行くところだったんだ、一緒に行こう!」
セラが、優しく手を差し伸べた。
路地に迷い込んでいたマリーの視界が、パッと明るく開けたような気がした。
「ありがとう。私、マリーよ」
「僕はセラ! こっちは幼馴染のクリス! よろしくね、マリー!」
マリーの手を握り、元気に笑ったセラの笑顔は――まるで、太陽のように眩しかった。
――。
ハッと、意識が冷酷な現実へと引き戻される。
あの時、迷子になっていた自分に手を差し伸べてくれた、太陽のような笑顔。
その笑顔が、真っ暗な奈落へと落ちていくのを。
今のマリーは、ただ絶望と共に眺めていることしかできなかった。




