第35話 絶望
崖の上には、へし折れた剣を手にしたまま、ぽつんと立ち尽くす一人の騎士の姿があった。
ゴォォォ……と、底知れない『巨大なダンジョン』の深淵から吹き上げる冷たい夜風が、クリスの身体を通り抜けていく。
その瞬間、クリスの身体を覆っていた禍々しい赤い闘気もまた、嘘のように霧散して消失した。真紅に染まり上がっていた彼の髪は、月光を浴びて静かにきらめく、元の美しい銀髪へと戻っていく。
しかし、異形の力が消え去っても、彼の中に何の感情も湧いてこなかった。
胸の奥が、自分でも驚くほどに冷え切っていた。
悲しい、苦しい、痛い、辛い、憎い……。
たった今、自分にとって世界で一番大切なはずの、家族同然だった大好きな親友を、この手で切り裂いて殺したというのに。どうして自分は狂乱して喉を掻き毟らないのか。
クリスの頭の中は、まるで真っ白な灰に覆われたように、完全に空っぽだった。
怒りも悲しみも、感情のすべてが綺麗にすっぽりと抜け落ちてしまったかのような、底知れない虚無。右手で握りしめている折れた剣から、セラの温かい血がポタポタと冷たい石畳に落ちていく音だけが、やけに鮮明に鼓膜を叩く。
ただ、そんな凍りついた心とは裏腹に。
クリスの虚ろな瞳から、一筋の熱い雫が静かに頬を伝い落ち、彼の蒼き鎧の上に音もなく弾けた。
自分自身が泣いていることすら自覚せぬまま、クリスはただ呆然と、セラが吸い込まれていった漆黒の崖の底を、瞬き一つせずに見つめ続けていた。
――その、まさに刹那だった。
「セラァァァァァァァァァァッ!!!!!」
静寂を切り裂く、狂ったような悲痛な絶叫が遺跡の入り口から響き渡った。
爆炎と黒煙を頼りに、村の西口から死に物狂いで駆けつけてきたマリー。
そして、その後ろから飛び込んできた、クロエ、シグマ、ノア、オメガの四人。
炎の海を越え、一秒でも早く彼らを止めるために、肺が破けるほど走ってきた彼らが目を開いて目撃したのは。
自分たちの最愛の少年が、胸から凄まじい鮮血を吹き出しながら、決して生きては戻れない暗闇の底へと、真っ逆さまに飲み込まれていく、あまりにも絶望的な光景そのものだった。
「嘘……でしょ……?」
クロエの手から杖が滑り落ち、カランと乾いた音を立てる。彼女はへなへなと膝から崩れ落ち、信じられないものを見たように両手で口を覆った。
「あ、ああ……っ」
巨漢のシグマが、まるで迷子になった子供のように震える声を漏らす。ノアはポロポロと涙をこぼしながら立ち尽くし、オメガは血の気が引いた顔で固まっていた。
「セラッ!! セラァッ!!」
マリーはレイピアを放り出し、足がもつれながらも崖の縁へと駆け寄った。
しかし、身を乗り出して覗き込んだ漆黒の深淵からは、何の音も聞こえない。身体が地面に叩きつけられる音すらも届かないほど、その崖は絶望的に深かった。
「……ぁ……」
マリーの口から、声にならない嗚咽が漏れる。
間に合わなかった。自分のついた嘘が、一番最悪の結末を引き起こしてしまった。
ギリッと歯が砕けそうなほど噛み締め、マリーはゆっくりと振り返った。
そこには、血に濡れた折れた剣を握りしめ、涙を流しながら虚空を見つめる銀髪の隊長がいた。
「クリ、ス……あなた……自分が何を……っ」
マリーの絞り出すような声にも、クリスは反応しない。
ただ、その瞳からは絶え間なく涙が溢れ続けていた。
その奥の深淵へと消えた、黒髪の少年。
残された、心壊れた親友と、絶望に打ちひしがれるかつての仲間たち。
最悪の決着。最悪の再会。
陽だまりの村を包む赤黒い炎だけが、彼らの絶望を静かに、そして残酷に照らし続けていた。




