第31話 覚醒
――村の裏手、『入ってはいけない場所』。
切り立った崖の前に広がる古代遺跡の跡地は、すでに夜の闇と炎の照り返しの中で、言葉通りの地獄と化していた。
「あはははっ! さあ、国家反逆者の皆さん! 心優しい我が隊長がいらっしゃる前に、汚らわしい悪党は綺麗にお掃除してあげますね!」
ルカ・ロスティの無邪気で、あどけない笑い声。だが、その唇から放たれる言葉は酷薄を極め、手にした剣からは無慈悲な殺意が溢れていた。
遺跡の風化した石畳の上には、すでにルカの剣にかかった数人の村の女性たちが、血の海に沈んで動かなくなっている。
「いやぁぁぁっ! 助けて……っ! 誰か助けて!」
「レン! あなただけでも……っ、あなただけでも逃げなさい!!」
「お母さぁぁぁんっ!! 無理だよ、行かないでよ!!」
レンを必死に背後にかばい、絶望の涙を流しながら座り込む母親。
その首元へ向けて、ルカがとびきり楽しげに、まるで庭の花を摘むような気軽さで剣を振り下ろそうとした、まさにその瞬間だった。
「やめろーーーーー!!!!」
地鳴りのような、人間のものとは思えない凄まじい哮りが遺跡に響き渡った。
次の瞬間、遺跡の入り口から、一条の「真紅の閃光」が奔った。
弾かれたようにルカが振り返った時には、すでに手遅れだった。
ガァァァァァァァァンッ!!!!
鼓膜を劈くような激しい金属音が爆ぜる。
ルカの振るった剣は、乱入してきた真紅の影によって根元から弾き飛ばされ、遠くの石壁に突き刺さった。
「えっ……!? あ……た……?」
ルカは信じられないという顔で、自分の空になった右腕と、目の前に立つ人物を見つめた。
そこに立っていたのは、セラだった。
だが、その姿は彼女が知る【正義の剣のセラ】とはあまりにもかけ離れていた。
普段の黒髪は、瞳と同様に燃えるような真紅へと変貌し、逆立っている。
その身体からは、禍々しいほどに濃密な、血のように赤い闘気が溢れ出し、周囲の大気をピリピリと震わせていた。
傷つけることを恐れ、剣を置いたはずの少年の面影はない。そこにいるのは、大切なものを踏みにじられた怒りによって覚醒した、一頭の猛獣だった。
(視野が、広い。身体が、羽のように軽い……!)
覚醒したセラの世界は、以前とは全く異なっていた。
流れる赤い闘気が周囲の状況を瞬時に彼に伝え、襲いかかってくる騎士たちの動きが、まるで止まっているかのように遅く感じられる。
「こ、コイツ……! 反逆者の残党か!!」
「怯むな! 団長の敵だ、出会えェェッ!!」
我に返った特務部隊の騎士たちが、一斉にセラへと襲いかかる。彼らは王国最高の精鋭たちだ。だが、今のセラの前では、彼らの連携も武技も、赤子の遊戯に等しかった。
「――邪魔だ」
セラは静かな、けれど絶対的な威圧を含んだ声で呟くと、真紅の闘気を纏った『無銘の長剣』を一閃させた。
凄まじい実力だった。
かつてクリスの騎士団入団試験で、現役の騎士団員たちを相手に無双した時と同様……いや、真紅の闘気を纏った今は、それを遥かに凌駕していた。
彼は相手の急所を完璧に外し、戦闘不能にするためだけの重い一撃を、目にも留まらぬ速度で、かつ正確に叩き込んでいく。
「がはっ……!」
「あ、ぁ……っ! 馬鹿な……片手で……っ」
剣を振るうことすら許されず、次々と蒼い鎧の騎士たちが、その身体を血に染めて地に伏していく。セラが動くたびに、遺跡の石畳には蒼い鎧の山が築かれていった。
「――よくも、私の部下を……ッ!!」
弾き飛ばされた剣を回収したルカが、顔を真っ赤にして逆上し、セラへと突っ込んできた。
投剣術の達人である彼女は、走りながら幾本もの投剣をセラへと放つ。だが、セラはそのすべてを、剣の一振りで、あるいは真紅の闘気の障壁で、容易く弾き返した。
「魔族の穢れた力……! やっぱり、この村は悪の巣窟だったのね! 隊長のために、私が、絶対に、殲滅してやるぅぅぅッ!!」
ルカは歪んだ正義感を剥き出しにし、魔術で身体能力を強化して、セラへの接近戦を挑む。その剣筋は鋭く、一般の騎士団員とは一線を画す実力だった。
しかし、セラは一歩も動かず、彼女の剣撃をすべて無銘の長剣の腹で受け流した。
「……あなたの『正義』は、無抵抗の子供を殺すことなのか」
「うるさい! 悪を根絶やしにするのが、騎士の正義よ! 隊長の手を汚させない、それが私の愛よ!!」
ルカの振るった渾身の一撃を、セラは剣で受け止め、そのまま強引に力で押し返した。
圧倒的な質量差。ルカは防戦一方になり、体勢を崩される。
その隙を、セラは見逃さなかった。
彼は真紅の闘気を右脚に集中させ、ルカの胴体へと強烈な前蹴りを叩き込んだ。
「――っがはァァッ!!?」
身体を強化していたルカの魔術障壁が粉砕される音が、はっきりと聞こえた。
彼女は信じられないという顔で血を吐きながら、十メートル近く吹き飛ばされ、古代の石柱に激突して、そのまま崩れ落ちた。
肋骨が数本折れたはずだ。起き上がることは、もうできない。
わずか数分の間に、遺跡にいた特務部隊の分遣隊は、ルカを含めて全員が戦闘不能に陥った。
静寂が戻った遺跡で、セラは真紅の髪を揺らしながら、血濡れた無銘の長剣を握り直した。その瞳は未だ真紅に燃え盛り、赤い闘気は衰えることを知らない。
「レン! みんな、崖の影に隠れるんだ! 早く!!」
怯える村の女子供たちに、セラは悲痛な声を絞り出した。彼らがこれ以上、自分のこの異形の姿を見て恐怖しないように。
セラの言葉にハッと我に返ったレンは、母親の手を引き、他の村人たちを誘導して、禁忌の崖の岩陰へと急いで逃げ込んだ。
「……終わって、いない」
セラは真紅の瞳を、村の方角へと向けた。
まだ燃えている。まだ悲鳴が聞こえる。
まだ、守るべきものが残っている。
彼は赤い闘気を一層激しく燃え上がらせ、次の戦場へ向かおうとした、その時だった。
「ルカ!! お前たち……ッ!!」
息を切らし、古代遺跡の跡地に駆け込んできた長身の騎士。
その姿を見た瞬間、セラの身体が凍りついた。
蒼天の天秤騎士団、特務部隊隊長の蒼き鎧。
そして、月光を浴びて輝く、あの銀髪。
――クリス。
最も会いたかった、そして、最も会いたくなかった、かつての親友。
地獄と化した戦場で、二人の少年の運命は、残酷なまでに完璧なタイミングで、ついに交差した。




