第30話 ズレ
――セラとマリーが東口から村に到着する、わずか数分前のこと。
西側の街道を、地鳴りのような蹄の音を立てて駆け抜ける五騎の影があった。
「……ッ!」
先頭を走るクリス・フィンリードは、前方の空を覆う異様な赤さと、天を焦がす黒煙を目の当たりにし、手綱を握る手をギリッと白くなるほど握りしめた。
(間に合え。間に合ってくれ……!)
馬の腹を蹴り、少しでも速度を上げようと祈る。しかし、幾度となく心の中で繰り返したその切実な願いは、無情にも砕け散ることになる。
「クソッ! ……遅かったか……!!」
愛馬を限界まで飛ばし、西側から村へ飛び込んだクリスの目に飛び込んできたのは、あまりにも残酷な光景だった。
至る所で猛烈な火の手が上がり、パチパチと木材が爆ぜる音が夜空に響き渡っている。かつては穏やかな土の匂いに包まれていたはずの空気は、今はむせ返るような焦げ臭さと、生々しい血の匂いに汚染されていた。
「ああっ……! 助けて! 誰か!」
「逃げろ! 早く森へ!」
炎に追われ、パニックに陥って逃げ惑う人々の悲鳴。そして、焼け落ちていく家屋の無惨な姿。
平穏な場所は、あろうことか、彼自身の名を掲げる部下たちの手によって蹂躙されていた。
熱風がクリスの銀色の髪を激しく乱す。
「ひどい……こんなのって……」
背後で馬を降りた魔法使いのクロエが、口元を両手で覆い、信じられないというように絶望の声を漏らした。大剣使いのシグマも、寡黙なオメガも、そして常に冷静な治癒術師のノアも、目の前に広がる凄惨な地獄絵図を前に言葉を失っている。
ふと、村の入り口付近で、蒼い鎧を着た数人の特務部隊の団員たちが立ち尽くしているのが見えた。
彼らの手には抜かれたままの剣が握られている。だが、血を流して倒れ込む村の老人や、泣き叫ぶ子供たちの姿を前にして、彼らはひどく困惑したように顔を見合わせ、足がすくんでいた。
作戦前、ルカの熱弁に当てられ、「敬愛する隊長を守るための正義の執行」だと信じて疑わなかった彼ら。しかし、いざ無抵抗の民が焼かれるという圧倒的な現実を突きつけられ、自分たちの行いが本当に正しいことなのか、激しい迷いと恐怖が生じ始めていたのだ。
「お前たち!!」
クリスは馬から飛び降りるなり、怒号を響かせて団員たちへと駆け寄った。
「た、隊長……!? なぜ、こんなに早く本隊が……」
「ルカはどこだ!! 彼女はどこへ行った!!」
クリスは最も近くにいた団員の胸ぐらを乱暴に掴み上げ、血走った目で問い詰める。普段の感情を押し殺した冷静沈着なクリスからは想像もつかない、鬼気迫る気迫。その怒りと絶望の入り混じった顔に、団員は恐怖に顔を青ざめさせ、ガチガチと歯を鳴らした。
「は、はいっ! ルカ隊員は……『反逆者の残党を一人も逃がすな』と……! 女子供が逃げ込んだという、村の裏手にある崖の方へ向かいました!」
「……ッ!!」
その言葉を聞いた瞬間、クリスの顔が絶望で真っ白に染まった。
そこには反逆者などいない。いるのは、自分がこの手で守りたかった、ただの無力で無実の人々だけだ。
(あいつ……無抵抗な女子供を追って、崖へ……ッ!)
純粋すぎるがゆえの狂気。ルカは「隊長のため」という盲信だけで、何の躊躇いもなく悪を根絶やしにしようとしている。だが、その狂った刃が向かっているのは、この世界で最も護られるべき弱者たちなのだ。
(俺のせいだ……。俺が、あいつを暴走させた……!)
後悔がクリスの胸を刃のように切り裂く。
「シグマ! オメガ! クロエ! ノア!」
クリスは弾かれたように振り返り、かつての仲間たち――誰よりも信頼する旧【正義の剣】の四人の名を呼んだ。
「お前たちはこの場に残り、直ちに火を消し止めろ! 一人でも多くの村人を救出するんだ!」
「わかった! 任せろ!」
巨漢のシグマが背中の大剣を握り直し、力強く頷く。
「ノア、お前の治癒魔術で怪我人の手当を急いでくれ。クロエとオメガは水魔法で延焼を防ぐんだ。絶対に、これ以上誰も死なせるな!」
「えぇ……! すぐに手当を開始します!」
ノアが深く頷き、慈愛に満ちた表情で、すぐさま倒れている村人の元へ駆け寄っていく。クロエとオメガも、それぞれ魔力を練り上げながら燃える家屋へと散開した。
「クリス、あんたはどうするの!?」
クロエの悲痛な問いかけに、クリスは村の裏手――黒煙の向こう側にある『禁忌の崖』へと鋭い視線を向けた。
「俺はルカを止めてくる! ……これ以上、あいつに罪を重ねさせるわけにはいかない!」
そして、これ以上、自分のために誰かを犠牲にするわけにはいかない。
ルカの暴走も、この村の惨劇も、すべては隊長である自分の責任だ。だからこそ、自分の手で必ず止めなければならない。
「死ぬなよ、クリス!」
背中にかかるシグマの言葉に短く頷き、クリスは愛用の長剣の柄に手を当てたまま、単身で燃え盛る村の奥へと走り出した。
(間に合え……! 間に合ってくれ……! 頼むから、もう誰も傷つけないでくれ……っ!)
胸の奥で血を吐くような祈りを叫びながら、銀髪の騎士は猛火の中を疾走していく。
その焦燥に駆られた足音が、東から向かってくるかつての親友と、同じ場所を目指して交差しようとしていることなど、今の彼には知る由もなかった。




