第29話 陽だまりの村
――夕闇が濃くなり始めた頃。
フラリス王国の辺境へ続く細い街道を、一台の馬車が車輪の悲鳴を上げながら、猛烈なスピードで駆け抜けていた。
御者台で必死に手綱を握るセラと、その隣で前方を睨みつけるマリー。
二人の視線の先には、本来なら静かな夜の帳に包まれているはずの空が、ありえないほどの不吉な朱色に染まり上がっている光景があった。
風に乗って鼻を突くのは、木材が焦げる強烈な匂いと、生々しい血の匂い。
「嘘だ……そんな……」
馬を強引に引き留め、村の東側の入り口に辿り着いたセラの口から、絶望の呟きが零れ落ちた。
かつて、傷ついたセラを温かく迎え入れてくれた、穏やかで優しい『陽だまりの村』。土の匂いと子供たちの笑い声に満ちていたその場所は今、赤々と燃え盛る無数の家屋と、天を焦がす黒煙に包まれた、目を覆いたくなるような地獄の惨状へと変貌していた。
バチバチと木組みが焼け落ちる凄惨な音が、セラの鼓膜を容赦なく叩き据える。
「セラ! あそこを見て!」
隣で馬車から飛び降りたマリーの悲痛な声に、セラは弾かれたように視線を向けた。
村の入り口を飾る、手作りの温かみがあった木製の看板。その下で、一人の男が大量の血を流して倒れていたのだ。
「――ッ!」
セラはその顔に、強い見覚えがあった。
かつて、村の入り口で一緒に見張りの仕事をした、気さくで面倒見の良い猟師の男だ。いつも朗らかに笑い、不器用なセラをからかいながらも優しく接してくれた、あの男が。
「しっかりしてください! 一体、何が……っ」
セラは男の元へ駆け寄り、震える手でその身体を抱き起こした。
男の右脚には、無機質で冷たい光を放つ騎士の投剣が、柄の近くまで深々と突き刺さっていた。それは明らかな「殺意」を持って放たれた凶器だった。
「セ、ラ……さん……」
掠れた声で目を開けた猟師は、自分を抱き起こした少年の顔を見て、その瞳に僅かな希望の光を宿した。
「おお……英雄が……村の英雄が、来て、くれたか……!」
「喋らないで! すぐにマリーが治癒の魔術をかけますから……!」
「待ってくれ……違う、俺の治療はいい……!」
猟師は痛みに顔を歪めながらも、血に染まった手でセラの腕を強く掴んだ。
「頼む……みんなを……! 突然、蒼い鎧を着た騎士たちがやってきて……何の罪もない俺たちを、反逆者だと……っ」
「……ッ!」
蒼い鎧。それは、王国最強の武力を持つ『蒼天の天秤騎士団』の象徴。
フィリーの言っていた通りだ。彼らは本当に、この平和な村を「悪の拠点」だと信じ込んで、一方的な虐殺を行っているのだ。クリスの部下たちが、クリスの名の下に。その事実が、セラの心を激しく切り裂く。
「レンたちは無事ですか!? 村のみんなは、どこに!」
一番に心配だった、自分を慕ってくれた孤児の少年や子供たちの安否を問う。
「……女子供は、村の裏手……『入ってはいけない場所』に、逃がし、た……」
途切れ途切れに発せられたその言葉に、セラは息を呑んだ。
『入ってはいけない場所』。禁忌の崖。
そこはかつて、レンたちが子供の好奇心で知らずに迷い込み、魔物に襲われかけたところをセラたちが救出した場所だ。あの一件の後、村長から厳しく聞かされていた。
『あの切り立った崖と古代の遺跡の下には、凶悪なモンスターが巣食う巨大なダンジョンが眠っている。だから、絶対に近づいてはならない』と。
普段なら、村人たちは決してあのような場所へは近づかない。だが――。
「あの崖に……!? でも、どうしてあんな危険な場所に!」
「騎士たちが……村の入り口を固めて……あっちにしか、逃げ道がなかったんだ……っ。頼む……追手も、崖へ向かってる……みんなを、助け、て……」
猟師の男は、最後の力を振り絞ってそう言い残すと、激しい痛みに耐えかねてガクリと首を落とし、気を失った。
「マリー!」
「ええ! わかってるわ!」
叫ぶセラと入れ替わるように、マリーが素早く男の傷口に手をかざす。
彼女の掌から、エメラルドのように輝く緑色の魔力が溢れ出した。治癒の専門家であるノアのような、無痛で傷を塞ぐ繊細な魔力操作はマリーにはできない。少し荒削りで乱暴な治癒魔術だったが、男の傷口の出血は確実に止まり、その命を繋ぎ止めるには十分な効力を発揮した。
「……命に別状はないわ。少し休ませれば大丈夫」
マリーは短く告げると立ち上がり、燃え盛る村の奥へとその鋭い視線を向けた。
炎の向こう側からは、未だに家を焼かれる村人たちの悲鳴と、容赦なく剣を振るう騎士たちの冷酷な足音が聞こえてくる。
「セラ! あなたは今すぐ、避難所になっている崖へ向かいなさい! 追手を食い止めて、レンたちを守るのよ!」
指揮官としての的確なマリーの指示。だが、セラは心配そうに彼女を振り返った。
「マリーはどうするの!?」
「私はこのまま村の中を回って、逃げ遅れた人たちを助けるわ! その『勘違い』をして暴走しているバカな騎士たちも、私がまとめて叩きのめして止めてやる!」
マリーは愛用の美麗なレイピアをチャキッと引き抜き、圧倒的な自信を宿した笑みを浮かべた。
騎士団の戦力は未知数だが、彼らの目的が村人の殲滅である以上、二人で固まって動くよりも手分けをして少しでも多くの命を救う方が先決だ。それが、最も被害を抑えられる最善の策だった。
だが、相手は王国最高の精鋭騎士たち。一人で村に残るということは、多勢に無勢の極めて危険な戦いを意味している。
「……絶対に、絶対に死なないでよ、マリー!」
セラは背中の『無銘の長剣』の柄を強く握りしめ、祈るように叫んだ。
その言葉に、マリーはフッと長い銀髪をかき上げ、最高に頼もしい姉の顔でセラにウインクして見せた。
「誰に言っているの? いい、セラ。……クリス以外に、この私に勝てる男なんてこの世にいないんでしょ。大丈夫よ! ……行きなさい!!」
「……ッ! うん!!」
マリーの力強い言葉に背中を押され、セラは弾かれたように駆け出した。
燃え盛る家屋の間を抜け、火の粉を散らしながら、村の裏手にある『禁忌の崖』へと一直線に矢のような速度で疾走していく。
(絶対に間に合わせる! これ以上、誰も傷つけさせない……!)
セラの瞳には、かつて「戦うのが怖い」と剣を置いた少年の迷いは微塵もなかった。大切なものを護り抜くという、峻烈な覚悟だけが燃えている。
少年の真っ直ぐな背中が、黒煙の向こう側へと見えなくなるまで見送った後。
マリーはゆっくりと振り返り、惨声が響く火の海の中へと単身で足を踏み入れた。
焦げ付くような熱風が、彼女の美しい銀髪を激しく乱す。それでも、その足取りに一切の躊躇いはなかった。
(……ええ。死なないわよ、絶対に。クリスの目を……私が絶対に覚まさせてやらなきゃいけないんだから!)
誰よりも不器用で、誰よりも優しい二人の少年のために。
彼女は愛用のレイピアを強く握り直し、迫り来る蒼い鎧の騎士たちへと、凛とした殺気を放った。
それぞれの護りたいもののために、交わるはずのなかった正義が修羅場へと集っていく。
赤く染まった陽だまりの村で、運命の歯車はついに、取り返しのつかない速度で狂い始めていた。




