第26話 代償
抜けるような青空に、海鳥たちの甲高い鳴き声が響き渡る。
活気あふれる港町シーレインの市場は、今日も溢れんばかりの人と熱気で賑わっていた。
軒を連ねる屋台からは、獲れたての魚介を香ばしく焼く煙が立ち上り、食欲をそそる匂いが潮風に乗って通りを満たしている。商人たちの威勢の良い掛け声と、客の笑い声が交差する平和な昼下がり。
そんな喧騒の中を、セラとマリーは並んで歩いていた。
「んー! この海鮮串、すごく美味しいよマリー! 焼きたてで身がプリプリしてる!」
両手に大ぶりの海鮮が刺さった串を持ち、幸せそうに頬張るセラ。その無邪気な笑顔は、数ヶ月前に心を閉ざしていた時とは見違えるほど生気に満ちていた。
「ふふっ、本当に美味しそうに食べるわね。……ほら、口の周りにタレがついてるわよ」
マリーはまるで世話の焼ける弟を見るような優しい眼差しで、懐から取り出したハンカチでセラの口元をそっと拭ってやる。
過酷な運命から逃れ、ようやく手に入れた穏やかな時間。争いも血の匂いもない、ただ温かいだけの日常がそこにはあった。
――だが、その平穏は、唐突に、そして理不尽に切り裂かれる。
「ん〜っ! おいし〜! おじさん、こっちのイカ焼きももう一本ちょうだい!」
背後にある屋台から聞こえてきた、その声。
無邪気で、あどけなくて、甘ったるい少女の声。
しかし、その声を聞いた瞬間、セラとマリーの身体は氷水を浴びせられたように硬直した。
忘れるはずがない。決して忘れてはいけない、最悪の記憶に刻まれた声だった。
二人の表情から一切の笑顔がスッと消え去る。
極限の緊張状態の中、呼吸の音すら消してゆっくりと背後を振り返った。
そこには、フリルをふんだんにあしらった漆黒のドレスに身を包み、金髪のツインテールをぴょこぴょこと嬉しそうに上下させながら、両手に持った海鮮串を口いっぱいに頬張っている一人の少女がいた。
額に禍々しい角はない。背中に漆黒の羽もない。周囲を行き交う街の人々には、ただの可愛らしい人間の少女にしか見えていないだろう。
だが、肌が粟立つような底知れぬ魔力の気配。間違いない。
あの『陽だまりの村』を襲撃し、無慈悲に火を放った上位魔族――フィリーだ。
「――ッ」
マリーが音もなく腰のレイピアの柄に手をかけ、セラも背の長剣に手を伸ばす。
二人の放つ鋭い殺気に気づいたのか、少女がくるりとこちらを振り返った。
「ふんぎゃあああー!!?」
目を見開き、串を咥えたまま間抜けな悲鳴を上げるフィリー。
「……あなた、こんなところで何をしているの?」
マリーの声は地を這うように低く、その眼差しは絶対零度の殺意を帯びていた。いつでも抜刀し、この市場のど真ん中で臨戦態勢に入れるように重心を落とす。
「ちょ、ちょっとちょっと! たんまたんま!!」
フィリーは慌てて咥えていた串を手に持ち直し、両手を前に突き出してストップをかけた。
しかし、セラとマリーの警戒は微塵も解けない。
「私、今日はお休みなの! ここにはただ遊びに来てるだけなんだから! 全っ然、戦う気ないからね!?」
「……上位魔族の言葉を、素直に信用しろと?」
マリーの周囲で、大気を震わせるほどの濃密な魔力が渦を巻き始める。
「そりゃあ信用できないだろうけど! でもホントに遊びに来てるだけなんだってば! それに……」
フィリーはチラリと周囲を見渡した。
市場には、彼らのただならぬ空気に気づき始めた一般の市民たちが、遠巻きに不安そうな視線を向けている。
「こんな人の多いところで本気で戦えば……どちらかと言うと、困るのは『正義の味方』のあなたたちの方なんじゃない?」
フィリーの唇が三日月型に吊り上がり、イタズラな、だが極めて悪辣な笑顔を見せた。
「……ッ」
痛いところを突かれ、マリーはギリッと奥歯を噛み締める。
ここで戦闘を始めれば、確実に無関係な街の人々が巻き込まれる。フィリーの言う通り、手を出せないのはこちらの方だった。
セラとマリーは、屈辱に耐えながら、武器にかけていた手をゆっくりと離した。
「そうそう! 大正解!」
(……ハァァ、助かったぁ。マリーちゃん、目がガチすぎてマジで怖っ!)
言葉とは裏腹に、フィリーは内心で安堵の冷や汗を拭っていた。
「あ! そうだ! せっかくまた会えたんだし、もしよかったらこの後一緒に観光でもしない!?」
「……するわけないでしょう。寝言は寝て言いなさい」
武器から手は離したものの、マリーの表情は一切緩むことはない。
「はぁ〜、つれないなぁ〜。せっかく歩み寄ってあげようと思ったのに」
「……あなたたち魔族が、これまでどれほど沢山の人間を無惨に殺してきたと思っているの。そんな種族と、簡単に仲良くなれるわけがないでしょう」
「えー? それはお互い様じゃない? アンタたち人間だって、私たちの同胞を沢山殺してるじゃない。それに魔族だけじゃなく、人間同士でだって醜く殺し合ってるくせに」
「……」
痛烈な皮肉に、マリーは反論せず沈黙した。
二人の間に流れるヒリヒリとした殺気と、相容れない種族間の溝。間に挟まれたセラは、冷たい汗を流しながら非常に居心地の悪い思いをしていた。
――不意に。
フィリーが何かを思い出したように、ポンと手を叩いた。
「あ、そういえばさ。セラ君、こんな海辺の街で呑気に買い食いなんかしてていいの?」
「……え?」
「前に君たちがいた辺境の村……なんだっけ。日向ぼっこの村? 陽だまりの村だっけ?」
その村の名前が出た瞬間、セラの心臓がドクンと大きく跳ねた。
「そこにね、王都の騎士団が『強襲』に向かったって聞いたけど?」
「…………は?」
フィリーの口から出た言葉の意味が、咄嗟には理解できなかった。
脳が情報の処理を拒否しているように、セラの視界がぐらりと揺れる。
「なんか、なんとかって違法薬物の密売? それと魔族との癒着?……まぁ要するに、その村の『完全な殲滅』が目的らしいって聞いたけど」
「なっ……なんで、あの村が……!?」
ようやくその絶望的な言葉の意味を理解したセラは、周囲の目も気にせずフィリーに詰め寄り、彼女の華奢な両肩を力任せに強く掴んだ。
「ダメ!こんなところで! も〜、セラ君ったら強引なんだからぁ」
「ふざけてる場合じゃない!! どうしてあの村を、王国の騎士団が襲うんだ!?」
血走った目で怒鳴るセラに対し、フィリーはひらひらと手を振って見せる。
「そんなの私に聞かれても知らないよ〜。私も、たまたま風の噂で聞いただけだし」
「セラ、行きましょう!」
マリーがセラの腕を強く引いた。常に冷静沈着な彼女の顔にも、隠しきれない明らかな焦燥が浮かんでいる。
「あらら? 魔族の私の言葉を信じちゃうの?」
「ええ、そうね。ウソならウソで構わないわ。私たちはただ、最悪の事態を想定して動くだけよ」
「キュンッ! マリーちゃん、その決断力ステキ! なんだか私、本気で好きになっちゃいそうだわ」
「……もしこれが私達を騙すための悪質なウソなら、次に会った時、塵も残さないくらい本気で潰せばいいだけの話だから」
(…………こわっ!! マジでこわっ!!!)
本気のトーンで告げられた殺意に、フィリーは引きつった笑いを浮かべるしかなかった。
「あ、それからね。ついでに教えてあげる」
立ち去ろうとする二人の背中に向けて、フィリーはとどめとなる最後の一撃(言葉)を放った。
「その殲滅任務を任されたの、アリス? サリス? ……とかって名前の、最近隊長になったばっかりの新米さんだって話よ」
「「…………クリス!!?」」
二人の声が、完璧に重なった。
「あー、そうそう! それそれ!」
「――――ッ!!!」
クリスの名を聞いた瞬間、マリーの顔からサッと全ての血の気が引いた。
呼吸が止まり、手足の先から急速に体温が奪われていくのがわかる。周囲の喧騒が遠のき、耳の奥で心臓の鼓動だけが警鐘のようにガンガンと鳴り響いていた。
(嘘でしょ……。そんなこと、あるわけない……ッ)
信じられない。信じたくない。
だが、全ての辻褄が最悪の形で合ってしまう。
(クリスは、気付いていないんだ。……あの日、全てを失ってボロボロになったセラを心から救ってくれたのが、その『陽だまりの村』だということに……!)
王都での過酷な任務に身を削る愛する人を、これ以上不安にさせないために。
マリーは手紙で、あえて村の名前を伏せ、『平穏な村で平和に過ごしている』とだけ、伝えていた。
しばらくは、お互いに居場所を知らない方がいい。クリスには余計な心配をかけず、任務に集中してほしい。その『優しい嘘』が、マリー自身の首を、そして彼女が誰よりも大切に想う二人の少年の首を、真綿で絞めるようにゆっくりと、だが確実に締め付けていたのだ。
(私が、村の名前を隠していたから……っ! クリスは何も知らずに……自分が護りたかったはずの親友の大切な居場所を、その手で焼き払おうとしている……!)
「……どうすればいいの……っ」
あまりの事態に足の力が抜けそうになり、マリーは悲痛に表情を歪めて深く俯いた。
自分の小さな判断ミスが、取り返しのつかない悲劇を引き起こそうとしている。その重圧に押し潰されそうになった、その時だった。
「……ッ!! マリー! 急ごう!!」
「え……?」
顔を上げると、そこには弾かれたように駆け出すセラの背中があった。
「僕たちが止めないと! 今から走れば、まだ間に合うはずだ!」
「セラ……っ! ええ……ッ!」
マリーはハッと我に返った。
絶望している暇などない。今は一秒でも早く、あの村へ、クリスの元へ向かわなければならない。
二人は手に持っていた海鮮串を道端に放り出し、風のような速度で市場の通りを駆け出した。
「馬車は北口の広場よ! 急ぎましょう! 早馬を乗り継げば、絶対に間に合うわ!」
「うん!!」
人ごみを縫うように駆け抜けながら、セラは強く前だけを見据えていた。
(ダメだ、クリス……! あの村を、罪のない人たちを襲うなんて、絶対に間違ってる! 君がこれ以上、血に塗れた道を歩むのは……僕が絶対に止めてみせる……!)
その瞳には、かつて「傷つけるのが怖い」と剣を置いた少年の面影はない。大切なものを、そしてかつての親友を護るという、痛いほどの強い覚悟だけが燃え盛っていた。
嵐のように去っていった二人の背中を、フィリーは手に持った串を齧りながら、まるで対岸の火事でも眺めるような真逆の温度感で見送っていた。
「いってら〜」
軽く手を振り、その赤い瞳を三日月のように細める。
「フフフ。あの方の言う通りね。セラ君もマリーちゃんも、感情で動くから本当に素直で可愛いわ」
彼女が流した情報は、すべて『あの方』によって巧妙に仕組まれた盤上のシナリオ。
陽だまりの村という舞台に、役者たちは見事なまでに引き寄せられていく。
「……せいぜい、死なないように頑張ってね〜」
既に姿が見えなくなった二人の背中に向けて、フィリーは海風に溶けるような、酷薄で甘い囁きを落とした。




