第2話 理由
ギルドの冷たい廊下を遠ざかっていくセラの足音だけが、静まり返った部屋に響いていた。
彼は最後まで、振り返ろうとはしなかった。
いや、振り返れなかったのだろう。あの不器用で優しすぎる少年が、扉の向こうでどれほど必死に涙を堪えて、無理に笑みを作っていたか。ここに残された全員が、それを痛いほど理解していた。
やがて、その足音がギルドの喧騒に紛れ、完全に聞こえなくなったのを確認した瞬間。
ずっと石像のように微動だにしなかったクリスの肩が、ガクンと大きく崩れ落ちた。
「……っ、うあ……ぁっ……」
彼が両手で顔を覆うと同時に、机の上に置かれた勧告書――セラがたった今、震える手で記したばかりの『終わりのサイン』の上に、大粒の水滴がポタポタと落ちた。
皮肉なことに、魔法の羊皮紙と羽根ペンで書かれた文字は涙に滲むことなく、セラがこのパーティーからいなくなったという事実を、残酷なほどくっきりと伝えている。
窓の外は憎らしいほど澄み切った快晴だというのに、この部屋の中だけが深い絶望の底に沈んでいた。
「……っ、セラぁ〜……馬鹿だよぉ……っ」
限界まで息を殺していたクロエが、テーブルに伏せて堪えきれずに嗚咽を漏らす。
「クロエ、よく我慢したわね……」
ノアがたまらず彼女の小さな肩を抱きしめる。冷静沈着なノア自身の頬にも、ボロボロと大粒の涙が伝っていた。
「セラ、笑ってたんだよ……絶対ツライのに……なんで、笑うのよぅ……ノアぁ〜っ」
何かにすがるように、クロエはノアの胸に顔を埋めて大声で泣きじゃくった。
シグマは「クソッ……!」と壁を力任せに殴りつけ、ギリッと血が滲むほど強く唇を噛み締めている。その拳の関節からは、赤い血がツツーと流れ落ちていたが、彼は痛みなど感じていないようだった。
部屋の隅には、一ヶ月前から全員で準備していた『十六歳の誕生日プレゼント』が、綺麗な包装紙に包まれたまま、ひっそりと置かれていた。
――ほんのひと月前までは、この部屋は希望に満ちていたのだ。
***
ギルドにある【正義の剣】の専用個室。そこにはセラとクロエを除くメンバーが揃い、険しい表情……を装いながらも、どこか楽しげに机を囲んでいた。
「……どうしたものか」
重苦しい空気を作ろうとして失敗したような顔で、クリスが話し始めた。
マリーは、事務作業で散らかしたクリスの机の上を手際よく片付けている。
「……全く、またこんなに散らかして。片付けながらやった方が効率的なのに」
「す、すまない」
恋人の苦言に、クリスはバツが悪そうに俯く。
「そうですね。基本的にセラは物欲がありませんから……欲しいものを聞いたところで『何もいらないよ』って言うに決まってますよね」
マリーの手伝いをしながら、ノアが困ったように、しかし慈愛に満ちた表情で話す。
「やっぱり、新しい武器なんてどうだ!? アイツの剣も良いものだが、だいぶ古い代物だ。俺とお揃いの大剣がいいんじゃないか!?」
シグマが身を乗り出し、大きな声で嬉々として提案した。
「……はぁ。無駄に大きな声を出さないでください」
「す、すまない……」
嬉しさでついボリュームが上がってしまうシグマを、ノアがいつものジト目で諌める。
「そうなんだよな……セラは本当に自分の欲しいものを言わないからな」
クリスが困り顔で天を仰ぐ。そんな仲間たちの様子を見て、書類を整理していたマリーが不意に「フフ」と笑い声を漏らした。
「あら、マリーどうしたの?」
「いえ……なんだか、こうやってセラのことを考えて皆で悩む時間って、いいなって思ってね」
その言葉に、部屋中の空気がふわりと和らいだ。全員の顔に、セラを想う温かな笑顔が広がる。
その時だった。バタバタと廊下を猛ダッシュで走ってくる足音が聞こえ、バン! と勢いよく扉が開け放たれた。そこには肩で息を切らしたクロエが、一枚の依頼書を掲げて立っていた。
「皆みんな! これこれ! 見て!」
クロエがテーブルに叩きつけたのは『Aランク以上対象 ダンジョン攻略』の依頼書だった。内容はワイトキングの討伐。
「ワイトキング? 普通の依頼じゃないか」
「察しが悪いわね! よく依頼書見てよ!ココ!ココ!このダンジョンのワイトキングは、何度倒しても復活するって書いてあるでしょ! ってことは……」
クロエが悪戯っぽくドヤ顔を作ってみせる。
「何度倒しても復活する……。そうか、その核となっている『レザレクションストーン』を奪い取れってことね?」
「さすがマリー姉! その超レアアイテムをペンダントにして渡そうよ! セラの命を守る、最高のプレゼントに!」
「だけど、Aランクとはいえ今日中に行ってこれるか? 復活する相手なら尚更時間が……」
クリスが再び困った顔をしたその時、クロエが不敵な笑みを浮かべた。
「もう、クリスはリーダー失格かしら? うちには『彼女』がいるじゃない!」
全員の視線が、静かに微笑むノアに注がれた。
ノアの治癒魔術は、単に傷を塞ぐだけの代物ではない。彼女の本領は、髪の毛一本よりも細く編み上げられた魔力の光糸を、対象の深層部まで完全に透過させる「世界最高峰の精密操作」にある。
通常、強力なアンデッドを倒すには核である石を破壊しなくてはならない。だが、ノアならば、ワイトキングを形成する複雑な呪いの術式を細胞単位で解き明かし、核である石にこびりついた不浄な執念だけを、薄皮を剥ぐように「浄化・切除」することが可能なのだ。
「ええ、石を傷つけることなく、最高純度の状態のまま取り出してみせるわ。……不浄な呪いだけを洗い流すのは、私の得意分野ですもの」
控え目な得意顔で、フフフと笑ってみせるノア。
それは並の聖職者では一生かかっても到達できない、神業に近い魔力制御。
彼女の指先から放たれる光は、汚れを一切許さない絶対的な清浄さを持ち、同時に、触れるものすべてを優しく包み込む温かさを湛えていた。
「決まりだな! 今年のプレゼントは、セラの命を守る『レザレクションストーン』だ! 行こう、皆!」
セラを除く【正義の剣】は、嵐のような勢いで部屋を飛び出していった。あの子の喜ぶ顔を想像しながら、全力で駆け抜けた、あの輝かしい日々――。
***
だが、現実は残酷だった。
マリーは無言で歩み寄り、そのプレゼント――『二つに割れた輝石のペンダントの片割れ』をスッと抜き取った。
「これは、私が預かるわ。……あの子の為に皆で作った、大事な絆だから。いつか、また笑って渡せる日まで……」
マリーの言葉に、クリスは顔を覆ったまま、血を吐くような声で絞り出した。
「……すまない。こんな想いをするのは、俺一人だけで良かったはずなのに……。皆にも、辛い想いを背負わせて……っ」
「それは違うわ、クリス。私たち全員が決めたことよ。あの子の純粋な優しさを、真っ白な未来を、これからの血塗られた道で汚させないためには……私たちが彼を突き放すしかなかったんだから」
冷静を装うマリーの瞳にも、今にも零れ落ちそうな程涙が溜まっていた。
「……ふぅ。じゃあ、セラを見失わないうちに、私は行くわね」
永遠に続くかと思われた重たい空気の中。マリーは愛用のレイピアを手に取った。
セラを追い出し、一人になったところをマリーが合流する。それもまた、彼を安全な場所へ逃がすための、悲しい計画の一部だった。
「マリ〜姉〜……セラのこど……おでがい、ね……っ」
しゃくり上げるクロエの頭を撫で、マリーは仲間の顔を順番に見つめると、力強く頷いてみせた。クリスは立ち上がり、マリーの肩をそっと抱き寄せる。
「マリー……セラを、頼む」
「うん、大丈夫。きっとまたセラと一緒に笑える日は来るわ。だから、クリスも無理しないで。クロエ、ノア、シグマ、オメガあなた達もよ。……クリスのこと、お願いね」
マリーは凛とした足取りで、絶望に沈む部屋を後にした。




