〔38〕貂なき森の鼬
ディアン達が館の敷地内にある林へ侵入した頃。
執務室で食後の余韻に浸っていたヴァンモリイは、手に持つ香り立つ紅茶を脇のソーサーにカチャリと戻し、近日中に処理しなければならない書類をみて呆れた顔をする。
今机の上に広げているのは、明後日、伯爵が来た時に渡さなければならない帳簿で、その全ての記入は既に終わらせてある為なんの問題もない。なぜなら、それには毎年殆ど同じ内容の金額を書き連ねているだけで、事実上は単に体裁を整えただけの中身のない書類だからだ。
だが渡す前にもう一度、書類に不備がないかを見直す事が急務とヴァンモリイは考えている。こうして提出する書類が怪しまれぬよう、これまでヴァンモリイが“念には念を”入れてきたからこそ、今まで甘い汁という美味を享受する事ができたのだ。
仮令形ばかりの書類であれ体裁だけはしっかりと整えなければならないと、ヴァンモリイは抜かりない策を巡らせていた。
ヴァンモリイはその書類から視線を流し、今度は横に広げた書類を眺めて目を細めた。
そちらの書類こそがこのソーラムでの誠の金の動きを記載した帳簿であり、毎年伯爵に納める支出を越えて集められた差額を見る事ができる唯一のものだ。
それを見れば今年も町の者はよく働き、大勢の者が指定された四割の税を納入している事が分かる。
伯爵に納める分はその半分。
ヴァンモリイがこの役職に就いた時、伯爵からは住民から徴収する税は二割と通達された。しかし、それを忠実に行使する管理者などいるはずがないだろうと、書類だけを見て満足する詰めの甘い若造に呆れたものだ。
実際、ヴァンモリイが『税は四割だ』と公言すれば、住民はその真偽など確かめる術はなく、言われた通りにするしかないのだから。
とはいえ、ヴァンモリイはその差分だけで満足するような小さな器ではなかった。
就任して初めの年に税を四割と定めた時、一気に上がった税に住民は対応する事など出来るはずもなく、その大くは労働を対価として支払わせるという名目で、女子供など抵抗ができそうにない家族を館に連れ帰らせた。
だが集められた人数は60人にも及び、そんな人数になるとまで考えていなかったヴァンモリイは無駄に頭を悩ませた。
当初は適当に貴族の家にでも放り込ませ小金を稼がせるくらいに思っていたが、そんな数ともなればそうもいかず。大勢を働かせるとなればあとはこの館でこき使うくらいしか利用できないが、そんな者はいらないし、こんな人数は邪魔になるだけだ。それに飯も食わせねばならぬと来れば、逆にこちらの負担になってしまうのは確実。
そうして悩んだ末、ヴァンモリイはある閃きを感じて悦に入った。
―そうだ、これらは売ってしまえば手っ取り早く金になるではないか―
こうして自警団員として新たに寄せ集めた荒くれ者達の伝手を使い、裏で流れていた噂を辿って行きついたところに何とか話を付ければ、二つ返事で取引が成立し、早々に厄介払いが成功したのである。それから八年、年に一度のその関係は今もひっそりと続いている。
そして今年の納品は明日。
指定された場所に行ってそれらを引き渡し、人数分の金を受け取るのは自警団の団長であるオズィーンの大切な任務である。
それまでにどうにか、もう少し人数を集める指示を出したのが三日前の事。それでも今日までで七人と、以前よりもグッと減ったのは致し方ないだろう。それに来年から税を五割に増やせば、また人数を集められるという名案もあるのだから。
そんな思考に浸っていたヴァンモリイところに、執務室の扉がノックの音を響かせた。
「なんだ」
苛立ちを含ませた声色のヴァンモリイに怯みもせず、返事は直ぐに返ってくる。
「旦那、客ですぜ」
そんな無遠慮なところと、所かまわず要件を言うのはオズィーンに間違いない。
「入れ」
渋面を作りながら書類を裏返し、ヴァンモリイはオズィーンが目の前に来るのを待つ。
「客だと? 誰が来たのだ」
「へい。伯爵からの伝言があるという使いです」
「なんだと? 今どこにいる」
「へい。玄関で待たせてやす」
「チッ、分かった直ぐに下りる。お前たちはアレを見られぬよう、数人を移動させて周辺を厳重に警戒しておけ。それと外に出ている奴らを直ぐに呼び戻せ」
「承知しやしたぜ、旦那」
「お待たせましたな、私がソーラム管理代行者のブラギール・ヴァンモリイです。伯爵からの伝言だと聞きましたが、何かございましたかな?」
オズィーンの報告時にみせた荒れた様子は微塵も出さず、ヴァンモリイは太い腹を隠すシワのない服を整えたあと、ゆっくりと玄関に向かい来訪者を出迎えた。
ヴァンモリイの挨拶を受けたルシェクター伯爵の護衛騎士は、玄関先で騎士然とした直立姿勢を崩さぬまま、無表情で軽く頭を下げた。
「私は、ウィルバーティス・ルシェクター伯爵にお仕えする、スタンリー・コッカーと申す者。伯爵より貴殿に伝言を預かってきた」
コッカーはそこで言葉を切り、相手の様子を見詰めた。
その様子にヴァンモリイは苛立つ気分を押し隠し、大仰に眉根を下げて見せた。
「御用件は何でしょう。伯爵が近日いらっしゃる為、私も忙しい身でしてな」
今ここで言え、とヴァンモリイは言っている。
しかし来訪したのが仮令伯爵本人でなくとも、本来、客人は応接室など別室に案内してもてなすのが筋。
それなのに取次ぎを頼んだあとも玄関に放置され、短くない時間を待たされたあとのこの処遇。来訪者を歓迎する様子もないヴァンモリイが、相手をただの使いと見下しその手間を惜しんでいるのは明らかだ。
しかも相手を早く追い返したいのを隠しもしない言動は、仮令平民が相手であろうとも気分のよいものではないだろう。
だが男爵家出身であるスタンリー・コッカーは、そんな非礼に苛立つ態度をおくびにも出さずに口を開いた。
「さようか。ではこちらで失礼する。伯爵よりの伝言だ。『先の通達よりも予定が前倒しになり、間もなくここへ到着する』との事だ。ウィルバーティス様に非礼なきよう心せよ」
態度を変えないとはいえ、コッカーは始めからヴァンモリイを気にも留めていないのだというように振舞った。
その言葉に瞠目したヴァンモリイが態度を豹変させたのは、そんな彼の態度に苛立ったからではなかった。
「なんだと?! 二日も前倒しだというなら、もっと早く使いを寄越すのが筋ではないか?! こちらにも都合というものがあるのだぞ!」
流石にこの態度は雇われる者の態度ではないと感じたのか、コッカーは口元を歪めてヴァンモリイを睨む。
「言葉が過ぎるぞ、ブラギール・ヴァンモリイ。ウィルバーティス様は確かに予定を早められた。しかしそれを護衛である私を使ってまで事前に知らせたのは、自らの行いで迷惑を掛けると詫びる意味もあるのだ。故に準備が万全とはいかずともお許しくださる、というお心遣いが含まれている」
コッカーは怒気を帯びた雰囲気を醸しつつも、子供を諭すように丁寧にヴァンモリイ話した。
それは本来あり得ない事で、仕えている主人を侮辱されたにも拘わらず貴族であるコッカーが爵位のないヴァンモリイに手を出さないのは、ひとえにコッカーの忍耐強い精神力以外のなにものでもない。
だがヴァンモリイは騎士の態度を当然と受け止めたのか、嘲笑とも取れる笑みを浮かべて言った。
「そうでしょう。無論、私どもの準備は万全とは参りません。滞在中の部屋にしても食事に関しても、まだ何一つ準備をしておりませんからな。しかしそれでは私の面目が立ちません。ですから伯爵様にはせめてあと一日到着を遅らせていただければと、騎士様よりお伝え願えませんかな?」
「…………」
明らかに出過ぎた態度のヴァンモリイに苛立ちを抑えきれないのか、ここまで冷静だったコッカーも腰に差した剣をカチャリと鳴らした。
「……立場を弁えよ。おぬしがそれを言えた立場ではない事は明白。よって私がそのような戯言を受け入れる道理はない。―――これにて失礼する」
明らかに怒りを顕わにしたスタンリー・コッカーは、吐き捨てるように言葉を投げ、頭も下げずに去って行った。
「チッふざけやがって! これでは私の計画がまる潰れではないか!! 若造風情が私を虚仮にしやがって! それに騎士如きがこの私に向かって何たる態度!!」
――パリーンッ!――
一人になった途端に地団駄を踏むヴァンモリイは、怒りを隠す事もせずに近くにあった壺を騎士が立っていた場所へと投げ捨てた。
そんな事をすれば伯爵を迎える準備にさらに余計な時間が掛かる事など、この男の頭にないのは誰が見ても明らかだ。
そんな騎士の後姿を睨み付けていた男は、怖いもの知らずや迂愚というよりも、最早自分が頂点に立ったつもりでいる傲慢を絵に描いたような姿だった。
そして目の前に散らばる陶器の破片が、この男の器の大きさを物語っているように虚しく輝いてる。
だがヴァンモリイの視界にはもう、その破片は映されていない。
「くそっ……時間がない。何としてでも露見せぬよう回避策を打たねばならない。―――おい! 誰かいないか!!」
自分の思想に君臨するヴァンモリイはそう叫んで踵を返すと、無駄に回る思考を巡らせながら、伯爵の訪れまでの僅かな時間の対応に追われる事になったのである。




