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いわし雲  作者: 火鳥-HITORI-


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3/4

欠けた文字


 雨上がりの道路には、アベリアの花の香りと、濡れたアスファルトの独特な匂いが混じりあっていた。ブーケ風の小ぶりな花束を抱え、目を閉じて歩いてみた。数秒後に目を開くと、そこには、見たことのない景色が広がっていて、上も下も左も右も西も東も生も死も無い、ほこりのように多彩な空氣が交じり合った空間と、私の意識だけが、この広い世界に存在しているここは、心の内と一瞬、頭によぎったけれど、私はそこで妄想をやめた。きっと今夜は、この妄想の続きがとまらなくなって、明け方まで眠れなくなってしまうのだから。

 お店から歩いて五分ほどの高層マンションには、よく配達に来るので私は目を閉じて歩いても大丈夫かもしれないと、馬鹿なことを本氣で思っていた。このマンションの住人は所謂、お金持ち。お花を飾ったり、贈ったりするのは、贅沢なことなのかしら? 少しのお金と、ちょっとした心の余裕がなければ、お花は買えない。それが贅沢なこと、つまり幸せと言い換えられるのならば、きっと皆小さな幸せに出会えるはず。今、私は幸せなのかしら? 世界のどこかで、誰かの命が消えてゆく瞬間に、私は幸せを感じられるの? そんな自信は私には、あまり無い。自信? そうか、幸せになるには、自信が必要なのか。

 オートロックのインターフォンを押し、お花の配達です、と言うとロビーへの自動扉が開いた。届け先の女性の、「はい。どうぞ」の一言で私の頭の中に、その女性の顔や性格まで詳細に浮かび上がった。私の嫌な癖だ。

 ロビーに入るとすぐ右側に、高級ホテルのような重厚なフロントがある。しかし、私は高級ホテルに行ったことがないので、本当に高級ホテルがこの様なフロントになっているのかどうかは、知らない。そもそも高級マンションのフロントを、高級ホテルのフロントに例える必要もないだろう、と思いながら足を進めた。フロントでは共に三十代半ば位の、二人の女性が目元だけの微笑みで私を迎えた。住民や訪問者に変なあだ名をつけては、二人で笑いあっているに違いない。私は左に曲がりフロントを背にする。道路に面している左側は、全面ガラス張りで天井は、美術館みたいにとても高い。黒い革張りの大きなソファーと、ガラスのテーブルのセットが三組ある。右側の壁には黒、茶色を基調にした抽象画と、晩年のピカソを感じさせる油絵がそれぞれ、絵よりも価値のありそうな、金色の額縁に収まっていた。そして、とにかく広い空間が四方八方に、はじけていた。その空間に私は、妄想の居場所を探していた。ふと振り返ると、フロントにいる二人が蝋人形みたいに見えた。

 「↑」のボタンを押して直ぐに、「ちんッ」と、だらしのない音がエレベーターの到着を知らせた。扉が両側に開き、中に入ると天井は高く、やはり広いエレベーターで、「24」のボタンを見つけるのに少し時間がかかった。エレベーター内の鏡で私は、肩まで伸びた髪を片手で整えた。鏡に映る花束は、小さなヒマワリと、ピンク色のトルコギキョウ、オレンジ色の透かし百合に名脇役のかすみ草、それぞれの花たちが顔を寄せ合い、黄色い服を着飾って、くびれた腰に水色のベルトを巻いている。

 突然、私はこの花束を踏み潰したら、どうなるのだろうかと思った。それは怖ろしい疑問で、答えは容易に想像がつく。しかし、本当のところを言えば、踏み潰したらどうなるのかではなく、踏み潰してしまいたい、衝動に駆られるのだ。

 高層階へ昇るエレベーター独特の、耳の違和感を感じたまま私は、クリーム色のエプロンのポケットに入れた配達伝票を取り出して、届け先の名前と部屋番号を、何度も確認した。

 二十四階に着いてエレベーターの扉が開いた。ここからは東京タワーも、スカイツリーも同時に見ることができる。ごちゃごちゃとした街並みは、お世辞にも綺麗とは言えない。そのごちゃごちゃとした僅かな合い間を、蛇のように、電車が走っている。蛇は動きを止めて、口を開き毒を吐き出し、また似たような毒を、その体内に取り込み、たくさんの口を閉じた。サリンを撒くのが人間なら、人間もまた猛毒だろうと私は思った。私は、配達に来ていることを、すっかりと忘れて動く地獄絵図を、隅々まで眺めていた。花束を渡し、また曇りのない綺麗なガラス越しに、汚れた空と街を見下ろした。

 あの雲はここに流れ着いて、あまりの空氣の汚れ具合に驚いただろうな。真っ白だったからだは、灰色になって黒い涙を流し、雲は風を恨んで、やがて雷を落とすだろう。雷光は天から地へ、歪な線を描いて人間に落とされ、雷鳴よりはやく悲鳴が響く。

 先程から、サイレンの音がどの辺りで鳴っているのか、なかなかわからなかったけれど、真っ赤な車が赤いランプを点けて、赤信号を直進したのを見つけた時に氣付いた。その車が進んで行く方角に、煙は無かった。私は、少し残念な氣持ちになった。それは花束を踏み潰したくなる、あの氣持ちに似ている。どうして、こんな不謹慎なことを、私は考えてしまうのかと罪悪感に苛まれる。建物たちは肩身の狭い思いをして、身動きもとれずに、火事になればその身を焼き尽くされて、火葬された人間みたいに、骨だけが残る。たった一本のタバコで、心地よい程度の微風で、ほんの少しの氣のゆるみで、火事を期待していた不謹慎な考えを持つ、私のせいで、全ては、簡単に壊せてしまう。神様仏様ご先祖様ごめんなさい、私は強く謝った。

 サイレンは、まだ聞こえる。渋滞で消防車が、なかなか前に進めないでいて、不健康なドロドロの血液のようだった。私は、巨人になって車を一台ずつ手で持ち上げて、どかしてやりたくなった。私は二十四階からほんの数十秒で、現実に降り立った。あの地獄絵図の、中に入ったのだ。私は罪人か、鬼か。そんなの、どっちでもいい。ロビーから出ると、一羽のカラスがイチョウの枝から空へ、高く飛び立っていった。私は、さっきまでいたマンションを見上げ、今度はこの高層マンションを、巨人になって壊してしまいたいと思った。

 帰り道、私は大通りを避けて住宅街をゆっくりと歩いた。不安は、カビが繁殖するように、急速に増えてゆく。だから私は、心の内の重い扉を時折、開け放って換気を、しなければならなかった。この作業を怠れば間違いなく私は、不安に蝕まれてしまう。今、すれ違ったサラリーマンのおじさんの心の内にも、あるのだろうか? 頭上の電線にとまっているスズメたちの心にも、存在するのだろうか? 私のこの小さな胸の中に、心が存在しているのだろうか? レントゲン写真に写らない、目にも見えない思考。やっかいなことに不安は心に、私の全てに、影をおとす。光があるから影が出来てしまうのであれば、光なんて私には要らない。上手に生きている人はきっと、影を光で、その影をまた光で器用に補っているのだろう。360度からスポットライトを浴びることなんて、私には考えられない。暗闇で小さく息を潜めているほうが、私には何倍も居心地が良い。 カラスは決して悪い鳥じゃない。カラスに、白いペンキを塗ってあげようか。怒られるかしら? じゃあ、白い服を着せて、お化粧でもしてあげればいい? つまり、そういうことじゃないの? リンゴが赤いのは、皮だけでしょ。

 視線を感じた。電柱の、電線が複雑に入り組んだ辺りからカラスが、バサバサと、もがくハトをくわえながら、私を睨んでいた。


 足早に稽古場へと向かった。私は早く、現実ではない演技の世界に入り込みたかったし、仲間たちとくだらない話で笑いたかった。稽古場に着くと、出来上がったばかりの、夏の公演『怪獣とお姫様とワニ』のチラシを見て、皆が騒いでいた。私の姿に氣づいた座長が、「姫様。チラシが出来ましたぞ」と言ってチラシを渡してきた。チラシにはお姫様役の私と、ワニ役の劇団員がTシャツにジャージのラフな格好で突っ立っている。「この写真、座長が新品のカメラの試し撮りしたいから、って言って、そこの公園で撮った写真ですよね?」ワニ役の劇団員が訊いた。写真の中の二人は無表情で、背景にはすべり台と鉄棒が写っている。「いいショットだろう?」座長がニンマリと憎たらしくも、憎めない笑顔で訊いてきた。劇団員たちは口々に非難の声を上げ騒いだが、なんだか楽しそうであった。かなり、シュールですね。私は言葉を選んだ。このチラシは案外に良い出来であると、私は密かに思っていたが、絶対に口に出さなかった。しかし、タイトルの、『怪獣』の文字が抜けていた。

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