理想と憧れ
店長が市場での仕入れから戻ってきた頃には、空にだいぶ雲が集まっていた。「午後から雨降るっていうから、今日は暇そうだな。体調は大丈夫? 今日は、早めにお店閉めようか」と店長は、曇りがちな表情で嘆いた。
小さなお店のわりには、オフィス街と住宅地の中間に立地しているので、案外お客さんの来店が多くて忙しい。午後から雨が降り出すという天気予報は外れ、昼前には雨が降り始めた。首に曲がりのある黄色いガーベラを新聞紙で、ギュッときつく包み真っ直ぐにして、バケツにはった水の中で、その茎を斜めにカットしながら私は、「ちっ」と舌打ちをした。朝から、あんなバラエティに重きを置いた、ニュース番組なんかやってるから予報を外すんだ。ろくにあたりもしない、占いなんぞ放送しやがって。二十四歳の女子が、考えることではないかもしれない。私は自分自身が変わり者だということを、しっかりと自覚しているつもりだ。
店長の奥さんが、娘を幼稚園に送りに行って、家事をしてからお店に来た時には、雨はかなり強くアスファルトを叩いていた。「おはよう。降ってきちゃったね」奥さんは髪を、耳にかけた。私は昼食に、サンドイッチを食べていた。具材のはさまっていないパンの部分を食べ終えて、あとは具の挟まっている、美味しい部分を食べるだけの状態であった。白地に真っ赤なバラが一輪、大きくプリントされた傘についた、雨の滴を振り払いながら、「雨嫌い?」と奥さんは言った。私は、うーん、とうなりながらサンドイッチを口に入れた。奥さんは手際よく、その役目を終えた真っ赤なバラの傘を閉じていく。雨の日にしか咲かないそのバラは、クルクルと手際よく折り畳まれていった。「私はけっこう好きよ。匂いとか音とか、雰囲気が、なんかゾクゾクって、こない?」私は笑いながら、こんなお姉ちゃんがいたら良かったなと思った。店長よりも年下だけど、店長よりしっかりしているし、お店の仕事だけではなく、家事のちょっとしたコツも私は奥さんから、教えてもらった記憶がある。「幼稚園にお迎え、行くの大変だな。タクシーで行っちゃおうかしら」と肩をすくめ白い歯を見せた。私は、残りのサンドイッチを口に入れた。
私の思惑通りに、黄色いガーベラはその背筋を伸ばしたので、私は左の口角を吊り上げ背筋を伸ばした。お店の入口付近のバケツに入っている、黄色いオンシジュームの、小さな花の一輪一輪が、蝶のようにヒラヒラと、時折外から吹いてくる生温い風に揺らめき、鱗粉をふりまいているようで心地良く見えた。しかし同時に、花を綺麗だと思っている自分自身が何となく、薄汚い大人の世界に埋もれてしまった、幼い頃の思い出の断片を垣間見る、哀れな人間のように感じた。
店長の言った通り、お客さんはあまり来なかった。奥さんは運転免許を持っていなかったので、幼稚園のお迎えは店長が、お店の軽自動車で行った。今日は早めに閉店しよう、と奥さんが提案したので、いつもより一時間早い午後六時に閉店することになった。時計の針は、午後四時三十分を過ぎていた。いや、まだ過ぎていないかもしれないと、ふと思った。私は、顎に手を添えて時計を睨んだ。自分のいる場所からは西だけど、違う場所からみれば東になるように、地球一周のスタートラインの真後ろに、ゴールラインがあるように、時計の針が午後四時三十分を過ぎるのは、あと二十三時間と。「彼氏いないの?」奥さんは、販売する時には不要になるバラのトゲを、ハサミでカットしながら言った。夜中に突然、冷蔵庫がブーンと音を出す時位に私は、少しばかり驚いた。それは、奥さんにこんなことを、訊かれるのが初めてであるのと、今までこの手の話を、したことが意外にもなかった、ということも含めての驚きだった。恋愛か、でも劇団とか色々と忙しいからな。突然の質問に、戸惑いながらひどく滑稽に、そして微妙に話をずらした。「そっか。でも可愛いから、モテるでしょ?」と奥さんが言い終わる前に私は、いいえ。全くモテませんよ。と自信満々に、小さく膨らんだ胸を張った。何だか清々しい気分になった。「気になる人はいるの?」気になる人? あぁ、うん、いや、まぁ、でも、いないかな。私は、きっと正直に答えた。「気になる人もいないなんて、若いのに。じゃあ理想の男性は?」私は天井を見上げて考えた。優しくてカッコ良くて、スポーツ万能で頭が良くて、お金もそこそこあって後は、奥さんは間髪いれずに、「そんな人、いないよ」と言った。理想と現実は違う。わかっていたけれど私は独り、肩を落とした。けれども、完璧な人間なんてやっぱり、いないということに安心した。
奥さんは赤いバラを三本、バケツから取り出して、私の前にさしだした。「同じ赤いバラ。でもよく見て。顔立ち、身体つき、性格も違うわ」私は興味津々に聞いた。「お花は人間と同じで、生き物だからね」奥さんは、その赤いバラ三本をテーブルの上に並べ、右のバラを一本、手に持って傷つけないように優しく指で、花びらを撫でた。「この子は咲き方が、イケメン。でも、茎が痩せ過ぎ。茶色くなった葉がついているわ。生まれつき病弱なのかも。茎の伸び方からして素直な性格ね」と言って奥さんは、茶色くなった葉をハサミでカットして、「手術成功」とバラをバケツに戻した。奥さんの可愛らしさに、私は微笑みながら内心、奥さんの言ったことに強く共感していた。自分と全く同じ人間が、この世界に存在していないように、花も唯一無二の存在であるということに。もし生まれ変わったら、お花になるのも面白そうですね、と私は、思った。「何のお花に、なりたい?」私は、店内の花を見回した。花が大きくて芳しい、ゴージャスな百合。一つ一つの花びらが、可愛いカーネーション。上品な一重咲き、紫色のトルコギキョウ。美の極み、深紅のバラ。和風美人の菊。どの花も私を魅了してやまない。私が、うなりながら悩んでいると、奥さんが、「じゃあ、好きなお花は?」私は、スイートピーを抱くようにして笑った。「なるほどね。確かに、スイートピーの可愛さには、男性も惹かれるわね」と奥さんは頷いて、「何となくよ、何となく。考えちゃダメ。感じて」と言って奥さんは、目を閉じた。私は奥さんの言っている、「何となく」がとても大切な気がした。言葉で表現のできる、ものではない、その何かを感覚として、私も持っていることに安心した。そして、それを奥さんと共有できたことが、嬉しかった。何かに例えて、奥さんに尋ねてみようと思ったが、あまりにも野暮な氣がしてやめた。
店頭に出ている紫陽花の鉢を、店内に片付けていると、「やっぱり紫陽花は、雨が似合うわね。宝石みたいに、輝いてるわ」と奥さんが、感心した様子で言った。雨に濡れた紫陽花は、活き活きとしていて青、紫、ピンクそれぞれの色の紫陽花が、水彩画のような透明感のある表情をしていた。紫陽花は、その色と色の余白に、芳しい期待を私に与えた。店頭のシャッターを閉め、店内に流しているラジオの、電源を切ろうとしたら、ちょうど明日の、天気予報が流れてきた。明日の午前中に雨は、上がるそうだ。でも結局、出勤する時は傘がなくては駄目だということだ。私は少し、ふてくされて頬を膨らませた。「午後の配達の時には、あがってくれるといいけど。でも、そんなに雨を恨まないで。もしかしたら、明日のお昼頃、虹をつくってくれるかもしれないでしょ?」雨にも負けず、こういう人に、私はなりたい。




