↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
82/83

Episode 82

 その夜、チャン・フン・ダオは、僕をいつもの山中の洞窟へ連れ戻すことはしなかった。


 軍馬は険しく切り立った細い山道をゆっくりと進み、滑りやすい斜面を二つ越えたところで、突然足を止めた。その先にあったのは、長いあいだ人の住んだ形跡もない、朽ちかけた木造家屋だった。鬱蒼と茂る古い松の木々に隠れるようにして建っており、ラク・トゥイの渡し場からもかなり離れている。屋根には大きな穴がいくつも開き、腐りかけた木の壁には青々とした苔がびっしりと張りついていた。それでも幸いなことに、家の中の地面はまだ比較的乾いていた。


 チャン・フン・ダオは先に馬から身を躍らせると、僕が降りるのを丁寧に手伝ってくれた。


「中に入って休むといい」


 僕は震える小さなリスを胸にしっかりと抱いたまま、荒れ果てた家屋を見回した。


「ここはあなたの家なの?」


「違う」


「じゃあ、誰の家?」


「ずっと昔に、この場所を捨てた者の家だ」


 僕は小さくうなずき、それ以上は尋ねなかった。


 チャン・フン・ダオは手慣れた様子で小さな火を起こすと、荷袋の中から乾燥食料と水筒を取り出した。そして、そのうちの一部を僕に差し出した。


「ほら、腹の足しにするといい」


 僕は素直に受け取った。


 長い道のりを逃げ回ったうえ、突然馬の背に引き上げられ、ものすごい速さで駆け抜けてきたのだ。僕の腹は、とうの昔に空腹で悲鳴を上げていた。僕は夢中になって食べ始めた。あまりの勢いに、男は思わず声をかけた。


「ゆっくり味わって食べろ。誰もお前の分を横取りしたりはせん。そんなに慌てる必要はない」


 僕は恥ずかしさに頬を赤らめ、食べる速度を少し落とした。


 小さなリスにも、特別に乾燥した栗を何粒か分けてやった。そいつは腐った木箱の上にちょこんと腰を下ろし、食べ物を両手でしっかり抱え込んでいた。ぽりぽりと頬張りながら、警戒心に満ちた目で男を横目に見ている。


 チャン・フン・ダオは、そんなリスをじっと観察した。


「そいつはいつも、お前にくっついて離れんのか?」


「うん」


「お前が自分で手懐けて育てたのか?」


「違うよ。こいつが勝手についてきたんだ」


「お前の言うことは聞くのか?」


 僕はしばらく考え込んだ。


「聞くときもあるけど、頑固で言うことを聞かないときもあるよ」


 それを聞いたリスは、主人に自分の知能を低く評価されたことがひどく不満だったらしく、すぐさまぷいと顔を背けた。


 チャン・フン・ダオは小さく笑った。


 彼は焚き火を挟んで僕の向かいにしゃがみ込んだ。


「さて、今度は何が起きたのか、最初から最後までゆっくり話してもらおうか」


 僕は揺らめく炎をじっと見つめた。


 灰色の衣をまとった奇妙な連中のこと、森の中に埋められていた木箱のこと、そしてそこに現れた得体の知れない記号のことを、一つずつ順を追って話した。さらに、ラク・トゥイの渡し場で、黒衣の乱暴な男に手首を強くつかまれたときのことも、詳しく語って聞かせた。


 チャン・フン・ダオは、驚くほど真剣に耳を傾けていた。


 話の途中で口を挟むことは一度もなく、大げさに驚く様子もなかった。


 だが、僕がタ・チョン・ソンという名を口にしたとき、初めてその深い眼差しにわずかな変化が走った。


「タ・チョン・ソンを知っているのか?」


「うん」


「彼は今も生きているのか?」


「僕にもよく分からない。ずっと前に、この土地を去ってしまったから」


「それ以前は、どこに住んでいた?」


「山の麓にある古い鍛冶場だよ」


 チャン・フン・ダオは、重苦しい沈黙に沈んだ。


 彼は手を伸ばして乾いた枝を一本拾い上げ、赤々と燃える火の中へ放り込んだ。


「彼はお前に、どんな話をした?」


 僕は奇妙な黒い鉱石のこと、鍛冶場で起きた恐ろしい事故のこと、そして金属片を必死になって探し回っていた連中のことを話した。


 チャン・フン・ダオは、しばらく僕の顔を見つめていた。


「お前は、その金属片に実際に触れたことがあるな?」


「うん。あるよ」


「今も持っているのか?」


 僕はすぐには答えなかった。


 心の奥底では、まだこの男を完全には信用できていなかった。確かに、彼は水辺の谷間で僕の命を救ってくれた。けれど、それだけで、たまたま何度か顔を合わせただけの相手に胸の内をすべて明かし、生死に関わる秘密まで差し出す理由にはならない。


 チャン・フン・ダオは、僕の目に浮かぶ警戒心を見抜いたようだった。


 それ以上、無理に問い詰めようとはしなかった。


「今すぐ答える必要はない。ただ、この機会に一つ忠告しておきたいことがある」


 彼は小枝で赤く熾った炭を軽くかき混ぜた。


「この世には、普通の人間が気軽に持ち歩いてよいものではない品がある。お前はその出所すら知らず、それを血眼になって追っている敵が誰なのかも分かっていない。子供じみた好奇心のせいで、自ら危険な泥沼に足を踏み入れるような真似はするな」


 僕は顔を上げて彼を見た。


「それなら、あなたはあれの正体を知っているの?」


「由来について、ある程度は知っている」


「いったい何なの?」


「今はまだ、お前に詳しく話せるだけの材料がそろっていない」


 僕はがっかりして、はあ、と息を吐いた。


「まただ。年上の人って、どうしてみんな口を開けば秘密にして、はっきり教えてくれないんだろう」


 チャン・フン・ダオは顔を上げ、声を立てて笑った。


「私に文句を言っているのか?」


「そんなつもりはないよ。ただ、よく考えてみたら、大人ってみんな同じところがあるなって思っただけ」


 彼は目を細め、目の前の子供を見つめた。口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。


「では、お前たち子供は、どのように生きるのが正しいと思う?」


「そうだな……お腹いっぱい食べて、暖かい服を着て、安心してぐっすり眠ること。それから、誰かに何の理由もなく首根っこをつかまれて、連れ去られたりしないことかな」


 チャン・フン・ダオは、愉快そうに声を上げて笑った。


 その笑い声は静まり返った木造家屋の中に響き渡り、辺りを覆っていた息苦しく重たい空気を、いくらか和らげてくれた。


 しばらくしてから、彼はようやく思慮深げな声で言った。


「残念ながら、この世はいつだって子供たちに、そんな穏やかな暮らしを許してくれるわけではない」


 僕はうつむき、自分の荒れた両手を見つめた。


「そんなこと、僕だって分かっているよ」


 夜の帳が深く降りてくると、チャン・フン・ダオは軍馬の様子を確かめるため、外の軒先へ出ていった。


 僕は燃え尽きかけた焚き火のそばに座り込み、懐から文字の入門書を取り出した。


 紙のページは、旅のあいだずっと衣服の中に押し込んでいたせいで、少しよれてしまっている。僕は勉強の途中だったページを開き、指先で一文字ずつ慎重になぞった。


 やがてチャン・フン・ダオが戻ってきて、その様子を見るなり尋ねた。


「自分で文字を勉強しているのか?」


「うん」


「誰に教わった?」


「フア・ティン・ティだよ」


「フア家のお嬢様か?」


「ほんの少し、読み書きの手ほどきを受けただけだよ」


 僕は本を持ち上げた。


「あなたは文字に詳しいの?」


 チャン・フン・ダオは僕の手から本を受け取った。


 数ページほど目を通すと、そばにあった炭筆を手に取り、紙の上に大きな一文字を書きつけた。


『道』。


 僕は顔を近づけて、その文字をじっと見つめた。


「『道』っていう字?」


「そうだ」


「道って、人が歩いていく道のことだよね?」


「そうとも言える。足元に続く一本の道を指すこともある。だが、天の理や世の法則、生き方を意味することもあるし、人が自ら選び、生涯をかけて歩む唯一無二の道を指すこともある」


 僕は考え込んだ。


「じゃあ、二人の人間が正反対の道を歩いていたとしても、いつか出会うことはあるの?」


 チャン・フン・ダオは顔を上げ、僕を見た。


「もちろんある」


「では、もし二人の道が完全に相容れず、真っ向から対立していたら?」


「その場合は、互いの人生ですれ違っていくか、さもなければ、どちらかが倒れるまで敵同士として向かい合うことになるだろう」


 僕は黙り込んだ。


「どうしても、戦って斬り合わなきゃいけないの?」


 チャン・フン・ダオは、すぐには答えなかった。


 彼はじっと炎を見つめ、それから開け放たれた戸口の向こうに広がる、真っ暗な闇へと視線を向けた。


「必ずしもそうとは限らん。だが、悲しいことに、この世には他人に選択する権利を与えようとしない者たちもいる」


 僕は言葉を失った。


 彼はそっと本を地面に敷いた敷物の上へ置いた。


「お前には文字を覚える才がある。これからも根気よく学び続けるといい」


「僕は武芸も習いたい」


「何のために?」


「いつか、誰かに乱暴につかまれて、無理やり連れ去られるようなことがないようにするためだよ」


 チャン・フン・ダオは、僕の顔をじっと見つめた。


 長い沈黙のあと、彼はゆっくりと口を開いた。


「武芸を学びたいのなら、まず、自分が何のためにそれを学ぶのかを悟らなければならない。単に他人より強くなりたいというだけなら、お前は一生、自分より強い相手を探し続け、その者に挑み、打ち負かそうとすることになる」


「じゃあ、武芸を学ぶ本当の目的って何なの?」


「どれほど過酷な変事が降りかかろうとも、自分が選んだ道を最後まで守り抜けるだけの力を身につけることだ」


 僕は傍らに置かれた木の枝へ視線を落とした。


 正直なところ、あの頃の僕には、彼の言葉に込められた深い意味を完全に理解することはできなかった。


 けれど、不思議と直感していた。


 今の言葉は、いつか必ず思い出すことになる、大切な教えなのだと。


 翌朝早く、チャン・フン・ダオは確かに約束を守り、僕を洞窟の近くまで送り届けてくれた。


 僕たちは正面の道を通らなかった。彼は険しい山腹を大きく迂回し、眼下の景色を一望できる、天を突くほど高い岩場へと僕を導いた。


 そして、その見晴らしのよい場所から、僕は愕然とする光景を目にした。


 三人の黒衣の男たちが、僕の洞窟からぞろぞろと出てくるところだったのだ。


 一人は大きな荷袋を担いでいる。


 一人は軍馬の手綱を引いている。


 そして最後尾の男は、ときおり首を巡らせては、周囲に不審なものがないか警戒していた。


 チャン・フン・ダオは、彼らを冷ややかに見下ろした。


「奴らは、まだ目当ての宝物を見つけていないようだな」


 僕はうなずいた。


「大事なものは、とっくに別の場所へ埋めて隠してあるよ」


「どこに隠した?」


「秘密だよ。教えられない」


 チャン・フン・ダオは僕にちらりと目を向け、くすりと笑った。


「なかなかやるじゃないか。少なくとも、自分だけの秘密を守る方法は覚えたようだな」


 彼は衣の懐に手を入れ、濃い茶色をした細い縄を一本取り出して僕に差し出した。


 縄の端には、ひどく独特で奇妙な形の結び目が作られていた。


「これから旅を続けるなかで、もし誰かが同じ結び目の印を残しているのを見つけたら、すぐにその場から離れろ。これは、私と面識のある旅人たちが互いを見分けるための合図だ。だが、私と同じ結び方を知っているというだけで、決して安易に誰かを信用し、命を預けてはならん。分かったな?」


 僕は両手で縄を受け取った。


「覚えておくよ」


 チャン・フン・ダオは、さらに念を押した。


「もう一つある」


「何?」


「ここ数日のあいだは、北の森へ絶対に近づくな。あの黒衣の連中がいったい何者なのか、私自身で探ってみる」


 僕は力強くうなずいた。


「分かった」


「私はここに長く留まるつもりはない。ほかにも重要な用事があるのでな。先へ進まねばならん」


 僕は少し驚いた。


「ここに残ってくれないの?」


「それはできん」


「でも、もし奴らが戻ってきて、また捜し回ったらどうするの?」


 チャン・フン・ダオは、僕の目をまっすぐに見据えた。


「お前はもう、逃げる方法を身につけただろう。危険が迫ったときは、これまでどおりそれを使え」


 僕はうなずいた。


 男は迷いなく馬の背にまたがった。


 手綱を引く直前、彼は振り返って僕に言った。


「ラム・チエウ・バン」


「何?」


「盲目的な善意に流されて、自分の身を守ることも知らぬ愚か者になるな」


 僕はその場に立ち尽くした。


 チャン・フン・ダオは馬に鞭を入れ、迷いなく駆け去っていった。


 僕は、深い松林の向こうへと消えていく旅人の後ろ姿を、じっと見つめ続けた。


 あの男がいつ戻ってくるのか、僕にはまったく分からなかった。


 それでも、チャン・フン・ダオという名は、心の奥深くに刻み込まれた。


 そして、彼が最後に残していった、重みのある警告もまた。


 それから三日後、原生林には再び招かれざる客たちが姿を現した。


 今度は、あの奇妙な灰色の衣の連中ではない。


 古い石碑を探し回っていた学者風の男たちでもなかった。


 すべての騒動は、東の草地へと続く赤土の道から始まった。そこは、村人たちが牛や水牛を連れてきて、自由に草を食ませる場所だった。


 僕が森の果実をせっせと摘んでいたとき、遠くから突然、激しい蹄の音が響いてきた。


 一頭ではない。軍馬の一団だった。


 僕は素早く大きな岩の上へ駆け上がり、木々の葉の隙間を縫うようにして、下の様子をうかがった。


 堂々たる一団が、勢いよくこちらへ進んでくる。


 先頭を行くのは、同じくらいの年頃の少年三人だった。それぞれ大柄な軍馬にまたがっている。


 先頭の少年は、濃紺の外套をまとい、その上から銀糸の精巧な縁取りが施された軽鎧を身につけていた。黒髪はきちんと高く結い上げられ、整った顔立ちには、冷たく鋭い眼差しが宿っている。年齢は、僕より二つほど上に見えた。


 その左側には、がっしりとした体格の少年がいた。背が高く、肩幅も広い。鍛え上げられた腕は太く、背には鋭利な短刀を差している。氷のように冷たい顔には、感情らしいものがまるで浮かんでいなかった。


 右側には、もう少し華奢な少年がいた。豆でも炒るように忙しなく動く目は抜け目なく、口元にはいつも人を小馬鹿にしたような薄笑いを浮かべている。山道にはほとんど注意を払わず、周囲の村人たちをしきりに物色するように眺め回していた。


 一団の後方には数人の従者が付き従い、荷物を重そうに積んだ馬が二頭続いていた。


 彼らの衣服には、全員、同じ銀糸の紋章が刺繍されていた。


 大きく翼を広げ、空高く舞い上がろうとする一対の鳥の翼。


 僕には、その見慣れない紋章が何を意味するのか、まるで見当もつかなかった。


 だが、一目見ただけで、彼らがこの土地の住人ではないことくらいは分かった。


 一団は青々とした草地の脇で馬を止めた。


 濃紺の衣をまとった少年が、真っ先に誇らしげに馬から飛び降りた。


 彼は周囲をひと通り見回すと、水牛を追っていた数人の農民へ冷ややかな眼差しを向けた。


「ここは、どこの領地だ?」


 年老いた農民が震える足取りで進み出て、恭しく答えた。


「はっ。こちらは、私どもラク・トゥイ村にある東の草地でございます」


「上の山頂まで直接通じる山道はあるか?」


「はい、山道はございます。ただ、道がひどく険しいものでして。数日前の大雨で土砂崩れも起きており、通行は大変危険でございます」


 濃紺の衣の少年は、冷たい眼差しで霧に霞む山を見上げた。


「私はあの上へ行きたい」


 老農はためらいがちに口を開いた。


「山奥は荒れ果てており、獰猛な獣も数多くおります。皆様が狩りをお望みでしたら、南側の平地へお越しになる方がよろしいかと存じます」


 左側にいた屈強な少年が、鼻で笑った。


「俺たちが獣の狩り方も、解体の仕方も知らないとでも思っているのか?」


 老農は慌てて地面にひれ伏した。


「め、滅相もございません。決してご無礼を働くつもりは……」


 すると右側の細身の少年が、悪戯っぽく口を挟んだ。


「まあまあ、バック・ホー。そんなに村人を怖がらせるなよ。俺たちのことを心配して、親切に忠告してくれているだけじゃないか」


 屈強な少年は冷たく鼻を鳴らした。


「別に脅してなどいない」


「お前は脅していなくても、そのいかつい顔だけで相手は腰を抜かしそうになってるぞ」


 老農は怯えきった様子で、慌てて数歩後ずさった。


 濃紺の衣の少年は、連れの二人が繰り広げるくだらない口論など、まるで気に留めていないようだった。


 彼の視線は、少し離れた場所で荒い息を吐きながら草を食んでいる、大きな黒い水牛に釘付けになっていた。


「あそこにいる黒い水牛は、どこの家のものだ?」


「は、はい……村のある家で飼われている水牛でございます」


「すぐに飼い主をここへ呼べ」


 老農は意外そうに目を丸くした。


「飼い主をお呼びになるのは、どういったご用件でしょうか?」


「買い取りたい」


「その水牛は……飼い主の家では売らないと思います」


 濃紺の衣の少年は眉をひそめた。


「私はまだ値段の交渉すらしていないぞ」


 老農は深々と頭を下げた。


「いくら大金を積まれましても、あの家の者たちは決して首を縦には振らないでしょう。あの水牛は、何年ものあいだ家族とともに田畑を耕してきた、大切な家族同然の存在なのです」


 大柄なバック・ホーが苛立たしげに一歩前へ出た。


「耳が聞こえないのか、頭が回らないのか? うちの若君の言葉が理解できないのか!」


 老農は飛び上がるようにして、慌てて身を引いた。


 ちょうどそのとき、背後から落ち着いた、温かみのある声が響いた。


「その水牛は売り物じゃない。何度尋ねても無駄だぞ」


 一同は驚いて、一斉に振り返った。


 ドゥエ・トゥオンが、大きな木車のそばに堂々と立っていた。


 彼は村から家畜の餌を運んできたところらしく、肩にはぼろぼろの布が無造作に掛けられていた。


 右側の細身の少年は目を細め、ドゥエ・トゥオンを値踏みするように眺めた。


「お前があの水牛の飼い主か?」


「違う。だが、飼い主とは親しい隣人だ」


「飼い主でもないくせに、何の権利があってここで偉そうに吠えている?」


 ドゥエ・トゥオンは、彼の顔を真正面から見据えた。


「ただ、売り物じゃないという事実を教えてやっただけだ。それだけのことだ」


 屈強なバック・ホーは腹を立て、馬から飛び降りた。


「お前、俺に殴られたいのか? それとも、俺たちがそいつを買えるかどうか試してみたいのか?」


 ドゥエ・トゥオンは一歩も引かなかった。


「金があるなら、好きなだけ使って買えばいい。だが、この世には金をいくら積んでも手に入らないものが山ほどある」


 細身の少年は、声を上げて笑った。


「ほう、ほう。こいつ、なかなか肝が据わっているじゃないか」


 濃紺の衣の少年は目を細め、ドゥエ・トゥオンを見つめた。


「お前の名は?」


「ドゥエ・トゥオン」


「ドゥエ・トゥオン……」


 少年はその名を繰り返し、聞き慣れない名だとでもいうような顔をした。


「お前、なかなか頑丈な体つきをしているな?」

 ドゥエ・トゥオンは黙り込んだまま、返事をしようともしなかった。


 バック・ホーは険しい顔つきで大股に歩み寄り、黒い水牛のすぐそばまで近づくと、鼻に結ばれた縄を乱暴に引きちぎろうと、大きな手を伸ばした。


 ドゥエ・トゥオンは即座に飛び出し、彼の前に立ちはだかった。


「その汚い手を牛から離せ!」


 バック・ホーの手が、空中でぴたりと止まった。


 彼は目を剥き、ドゥエ・トゥオンを睨みつけた。


「今、何を吠えた?」


「そいつに触るなと言ったんだ!」


 二人の間に、張り詰めた空気が走った。


 後ろに立っていた数人の老農たちは息を殺し、恐怖のあまり一言も発することができなかった。


 一拍置いてから、ようやく濃紺の衣の少年が、ゆっくりと手を上げて制止した。


「バック・ホー」


 屈強な少年の手が止まる。


「もういい」


 彼はドゥエ・トゥオンへ視線を移した。


「私はただ、この水牛がどれほど力強いのか確かめたかっただけだ。売る気がないというのなら、それで構わない。何もそうまでして険悪になる必要はあるまい」


 ドゥエ・トゥオンは冷ややかな眼差しを向けたまま、何も答えなかった。


 濃紺の衣の少年は、もう一度だけ彼に目を向けると、きっぱりと踵を返して馬にまたがった。


「出発するぞ」


 一団は再び動き始めた。


 最後尾にいた細身の少年は振り返り、ドゥエ・トゥオンに嘲るような笑みを浮かべて言い残した。


「今日は運がよかったな、小僧」


 ドゥエ・トゥオンは目を見開き、彼を睨み返した。


「俺は昔から、そんなくだらない運なんかに頼ったことは一度もない」


 少年の口元に浮かぶ笑みは、ますます大きくなった。


 彼は馬に鞭を入れ、一団の後を追って駆け去っていった。


 遠く離れた、木々に隠れた岩の上から、僕は一部始終を見届けていた。


 あの濃紺の衣をまとった連中の、横柄で見下したような態度には、ひどく腹が立った。


 だが、余計な騒ぎに首を突っ込むほど僕も愚かではない。ドゥエ・トゥオンは昔から、どんな厄介事も自分の力でうまく切り抜けてきたのだから。


 僕が身を翻して立ち去ろうとした、そのときだった。


 背後から、ドゥエ・トゥオンの大声が飛んできた。


「チエウ・バン!」


 僕は驚いて振り返った。


 草地の下では、ドゥエ・トゥオンが盛んに手を振って僕を呼んでいた。


 仕方なく、僕は歩み寄った。


「あいつらと知り合いなのか?」


「全然知らない」


「じゃあ、どこから湧いて出てきたんだ?」


「知るわけないだろ。俺に分かるかよ」


 ドゥエ・トゥオンは、遠ざかっていく騎馬の一団を名残惜しそうに見つめた。


「さっきの、あの図体のでかい横柄な奴が、俺はどうにも気に入らない」


「どうして?」


「人の水牛を奪おうとするばかりで、持ち主のことなんかまるで気にかけていなかったからだ」


 僕は同意するようにうなずいた。


「僕もああいう人間は大嫌いだ」


「それに、お前はあの濃紺の衣の少年がひどく恐ろしいとは思わないのか?」


「誰のこと?」


「あの青い外套を着た奴だよ」


 僕はしばらく考えた。


「別に普通に見えたけど。何がそんなに怖いんだ?」


 ドゥエ・トゥオンは薄く笑った。


「お前って、本当に怖いもの知らずだな」


 だが、その笑みが消える間もなく、赤土の道の向こうから、再び激しい蹄の音が耳をつんざいた。


 ついさっき立ち去ったばかりの一団が、どういうわけか突然引き返してきたのだ。


 今度は先頭にいた三人の少年だけが、馬を駆って猛然とこちらへ戻ってきた。


 濃紺の衣の少年は、僕とドゥエ・トゥオンの目の前で馬を止めた。


 そして、冷ややかな眼差しで僕を見下ろした。


「お前は何者だ?」


「ラム・チエウ・バン」


「どこの片隅に住んでいる?」


「森の奥だよ」


 右側にいた細身の少年が、悪賢そうに眉を上げた。


「おやおや。ということは、世間で血眼になって捜されている、森に住む野生児っていうのはこいつのことか?」


 僕はすぐさま警戒心を強め、彼を睨みつけた。


 屈強なバック・ホーも目を細めて僕を値踏みするように眺め、その表情をわずかに変えた。


「間違いない。こいつで決まりだ!」


 濃紺の衣の少年は、二人の言葉には答えなかった。


 彼は僕の肩にしがみついている小さなリスに目を向け、それから腰に提げた薬草入りの籠へと視線を移した。


「耳にした噂によれば、お前はこの原生林の地形にひどく詳しく、森に関する秘密もいくつか握っているそうだな」


 僕は黙ったまま、一言も答えなかった。


「どこかの古い松の根元に埋もれているという、古代の石碑の所在を知っているか?」


 僕は彼の顔をまっすぐに見返した。


「知っていたらどうだというんだ? 知らなかったらどうだというんだ?」


 三人の少年は互いに視線を交わした。


 細身の少年が、にやにやと笑いながら言った。


「どうやら、ようやく目当ての相手を見つけたようですね、若君」


 このとき、僕はようやく何かがおかしいと気づき始めていた。


 こいつらも、古代の石碑を狙っている。


 しかし、暗闇に紛れてこそこそと動き回っていた、あの黒衣の連中とはまるで違う。目の前にいる三人は、何も隠そうとせず、堂々と傲慢に振る舞い、身分の高い者だけが持つような威圧感をまとっていた。


 濃紺の衣の少年は、馬から勢いよく飛び降りた。


「今すぐ私をそこへ案内しろ」


 僕は何度も首を横に振った。


「絶対に嫌だ」


 少年は眉をひそめた。


「私に協力するつもりはないというのか?」


「君たちのことなんか何も知らない。どうして言うことを聞かなきゃいけないんだ?」


 細身の少年が、くすくすと笑った。


「へえ、この小僧、用心深いだけじゃなく、なかなか頑固じゃないか」


 濃紺の衣の少年は、まるで腹を立てていないようだった。


 彼は落ち着いた口調で名乗った。


「私の名はトアット・ホアンだ」


 聞き覚えのないその名は、僕にとって何の意味も持たなかった。


 僕はただ、そっけなくうなずいた。


「僕はラム・チエウ・バン。さっきもう名乗っただろう」


 トアット・ホアンは、しばらく僕をじっと観察していた。


 それから、突然ドゥエ・トゥオンへ顔を向けた。


「では、お前は?」


「ドゥエ・トゥオン」


「お前たち二人は、親友同士なのか?」


 ドゥエ・トゥオンは憤然として答えた。


「そうだ。それがどうした?」


 トアット・ホアンは再び僕へ向き直った。


「誤解するな。私はお前に危害を加えるつもりなど毛頭ない。ただ、ほんの少し道案内をしてもらいたいだけだ」


 僕は依然として首を横に振った。


「案内しないと言ったら、しない」


 屈強な少年リュウ・バック・ホーが怒鳴り声を上げ、一歩踏み出した。


「お前、うちの若君の命令に逆らう気か!」


 トアット・ホアンは手を上げてバック・ホーを制した。


 そして、僕をじっと見つめた。


「理由は何だ?」


「気に入らないから」


 あまりにも単純で、飾り気のない返答だった。


 だが、高慢なトアット・ホアンにとって、それはどうやら到底受け入れがたい侮辱だったらしい。


 細身の少年、チン・タン・バンは首を傾け、面白がるような視線を僕に向けた。


「若君、どうやらこの小僧は、自分がいったいどれほど高貴なお方と話しているのか、まるで分かっていないようですね」


 トアット・ホアンは彼に一瞥もくれず、僕に尋ねた。


「お前は私が何者なのか知っているのか?」


「知らないし、知りたいとも思わない」


「私の身分も知らぬくせに、よくもそんな大胆に拒絶できるものだな」


「誰だか知らない相手だからこそ、頭を下げて言うことを聞く理由なんかない」


 すぐ隣に立つドゥエ・トゥオンは、思わず息を呑み、両手を強く握りしめていた。


 チン・タン・バンは大きく口笛を吹いた。


 リュウ・バック・ホーは目を剥き、トアット・ホアンの命令を待っている。


 それでも、濃紺の衣の少年は怒りを爆発させることなく、なおも自制を保っていた。


 彼はもう一度だけ、静かに僕を見つめた。


「いいだろう。これが最後の質問だ。私を案内する気はあるのか?」


「ない!」


 トアット・ホアンはわずかにうなずいた。


「分かった」


 彼は身を翻した。見たところ、諦めてそのまま立ち去ろうとしているようだった。


 だが、僕がほんの少し警戒を緩めた、その瞬間だった。


 トアット・ホアンの冷淡な声が、不意に響いた。


「バック・ホー。目上の者との話し方というものを、そいつに教えてやれ」


 ドゥエ・トゥオンが慌てて叫んだ。


「待て!」


 屈強なリュウ・バック・ホーは、猛獣のような勢いで僕に襲いかかってきた。


 実のところ、それまでの僕は、本当の意味で生死を懸けた戦いを経験したことが一度もなかった。


 正しい立ち方を、何度も繰り返し練習した。


 足運びの基本も、真面目に学んできた。


 転倒した際に衝撃を逃がす方法も身につけた。


 首をつかまれたときの手の外し方や、関節を取られたときの対処法も教わった。


 だが、それらはすべて初歩的な動作にすぎない。血の流れる実戦で通用する本物の技量とは、まるで別物だった。


 リュウ・バック・ホーは、僕に身構える暇さえ与えなかった。


 彼は大股に踏み込み、団扇のように大きな手を伸ばして、僕の肩を乱暴につかんだ。


 僕は反射的に身を傾け、手首をひねって拘束を外そうとした。


 だが、バック・ホーの動きの速さも力の強さも、僕の想像をはるかに超えていた。


 彼は凄まじい力で僕を引っ張り、あっという間に体勢を崩させた。


 ドサッ!


 僕は硬い地面に叩きつけられた。


 ドゥエ・トゥオンに何度も教え込まれた、あの転倒の基本を思い出し、僕はすぐに肩を傾け、顎を胸元へ引き寄せて衝撃を分散させた。


 幸い、転び方そのものは悪くなかった。痛みもそれほどひどくはない。


 しかし、立ち上がる間もなく、バック・ホーの鋲付きの靴が目の前に踏み出された。


「さっさと立て!」


 僕は歯を食いしばり、両手を地面について、どうにか体を起こした。


 バック・ホーは目を吊り上げた。


「反撃してみろよ!」


 僕は首を横に振った。


「僕は戦いたくない」


「戦いたくなくても戦うんだよ!」


 彼は腕を伸ばし、僕の胸を思い切り突き飛ばした。


 僕はよろめきながら、二歩後ろへ下がった。


 それを見たドゥエ・トゥオンは激怒し、怒号を上げながら飛び出した。


「もうやめろ!」


 チン・タン・バンは素早く横へ滑り込み、両腕を広げてドゥエ・トゥオンの前に立ちはだかった。


「お前、横からしゃしゃり出てくるつもりか、小僧?」


「そこをどけ! バンに手を出すな!」


「ずいぶんと正義の味方気取りじゃないか。だったら、俺が相手をしてやるよ」


 ドゥエ・トゥオンは怒りに燃え、両拳を固く握りしめた。


 少し離れた場所から様子を眺めていたトアット・ホアンには、止めに入る気配など微塵もなかった。


 彼は腕を組み、冷ややかな傍観者としてその場に立っているだけだった。


 僕は慌てて叫んだ。


「ドゥエ・トゥオン! 戦っちゃだめだ!」


 ドゥエ・トゥオンは勢いよく振り返った。


「でも、こいつらが……!」


「僕のことは気にしなくていい!」


 僕は再び顔を戻し、リュウ・バック・ホーを睨みつけた。


 自分がこれほど体格にも力にも勝る相手を打ち負かせるはずがないことくらい、十分に分かっていた。


 だが、ただ黙って殴られ続けていれば、相手はますますつけ上がるだけだ。


 僕は全身の重心をできる限り低くした。


 左足を半歩前へ出す。


 右足は後方に置き、しっかりと地面を踏みしめる。


 僕はフア・ティン・ティに教わった言葉を、はっきりと思い出していた。


 ――絶対に膝を突っ張ってはいけない。体重のすべてを前方に預けて、突っ込むような真似もしてはだめ。


 バック・ホーが唸り声を上げて突進してきた。


 僕は左側へ身をかわした。


 相手の拳が巻き起こした風が、耳元すれすれをかすめていった。


 息の詰まるような一瞬だった。


 そのとき、僕ははっと気づいた。


 本当に避けられたのだ。


 攻撃をかわすことができた。


 僕は慌ててさらに半歩後退し、安全な距離を保った。


 リュウ・バック・ホーは意外そうに眉を上げた。


「へえ、避けるくらいのことはできるんだな?」


 彼は怒りに任せて、二度目の拳を繰り出してきた。


 僕は慌てて後方へ身を引いたが、運悪く足元のごつごつした石につまずいた。


 体勢が崩れ、上半身が大きく揺れる。


 バック・ホーはその一瞬の隙を見逃さなかった。


 凄まじい拳が振り下ろされる。


 バキッ!


 鋼鉄のような拳が、首に近い僕の肩口へまともに叩き込まれた。


 僕はよろめき、体を傾けながら地面へ倒れ込んだ。


 息を整えて立ち上がる暇さえ与えられないまま、強烈な横蹴りが脇腹に叩き込まれた。


 僕の体は折れ曲がり、その場に崩れ落ちた。


 骨の芯まで響く激痛に、喉の奥が詰まり、息さえうまく吸えなくなる。


「もういい加減にしろ!」


 ドゥエ・トゥオンが狂ったように叫んだ。


 チン・タン・バンは冷酷な顔で、彼の肩を強くつかんだ。


「お前はそこでおとなしく見物していろ」


「放せ! お前ら、子供にまで手を上げる気か!」


 チン・タン・バンは嘲るように口元を歪めた。


「お前だって、まだガキじゃないか。大人に説教するような口を利くな」


 ドゥエ・トゥオンは激怒し、握りしめた拳をチン・タン・バンの顔面に叩き込んだ。


 チン・タン・バンは、田舎育ちの子供が本気で殴りかかってくるとは、まるで予想していなかった。


 不意を突かれた彼は半歩後ずさり、慌てて口元を手で拭った。


 そこから鮮やかな赤い血が滲み出ていた。


 彼の顔から傲慢な笑みが一瞬にして消え失せ、代わりに残忍で憎々しげな表情が浮かび上がった。


「本気でやり合うつもりか?」


 彼は怒鳴り声を上げて飛びかかった。


 ドゥエ・トゥオンは体こそ頑丈だったが、実戦経験に乏しかった。基本的な二手ほどはどうにか防いだものの、チン・タン・バンが放った卑劣な蹴りを膝にまともに受けてしまった。


 ドゥエ・トゥオンの膝が折れ、その場に崩れ落ちる。


 チン・タン・バンは一切手加減せず、さらに強烈な肘打ちを肩へ叩き込んだ。


 ドゥエ・トゥオンの体は横へ転がっていった。


 リュウ・バック・ホーがちらりと横目を向けた。


「タン・バン、そいつにいつまでも構うな」


「こいつに、自分がどれだけ身分の低い人間なのか思い知らせてやっているだけさ」


 僕は歯を食いしばり、両手を地面について、必死に体を起こした。


 腫れ上がった目で、地面にうずくまるドゥエ・トゥオンを見た。


 それから、リュウ・バック・ホーを睨みつけた。


「やめて……そいつには手を出すな……」


 バック・ホーは勢いよく振り返り、薄笑いを浮かべた。


「まだ殴られ足りないのか? それとも、そんな口を利く余裕がまだあるのか、小僧?」


 僕は何も答えなかった。


 ただ歯を食いしばり、がむしゃらに突進した。


 今度は、相手の攻撃を待つようなことはしなかった。


 僕は幼い拳を振り上げ、バック・ホーの胸へ向かってまっすぐ突き出した。


 だが、その動きはあまりにも遅く、隙だらけだった。


 バック・ホーは軽く身を傾けるだけで、あっさりと攻撃をかわした。


 次の瞬間、彼の手が僕の手首をつかみ、背中側へ容赦なくねじり上げた。


 骨の奥まで突き刺さるような激痛に、僕は膝から崩れ落ちた。


 その直後、腹部に容赦のない蹴りが叩き込まれた。


 僕の体はくの字に折れ曲がり、血を吐いた。


 胸の中に残っていた空気が、すべて絞り出されたようだった。


 僕は草むらへ倒れ伏した。


 バック・ホーは僕の手を乱暴に放し、冷たく言い放った。


「これ以上、無駄に意地を張るな」


 僕は震える手で地面にしがみつき、残された力を振り絞って立ち上がろうとした。


 転倒の仕方を思い出す。


 重心の移し方も思い出す。


 両足の構えを保つ方法も思い出す。


 だが、そんな初歩的な技術をいくら覚えていたところで、身体能力も武芸の腕も遥かに勝る達人に立ち向かえるはずがなかった。


 僕には力が足りなかった。


 反応速度も足りなかった。


 そして何より、実戦経験がまったくなかった。


 これまで必死に積み重ねてきたものは、せいぜい倒れるまでの時間を、惨めな数呼吸ぶん延ばすことしかできなかったのだ。


 トアット・ホアンが悠然と歩み寄り、冷ややかに僕を見下ろした。


「まだ意地を張って殴られ続けるつもりか?」


 僕は苦労して顔を上げ、口から新たな血の塊を吐き出した。


「僕は……僕は、あなたたちに何一つ危害を加えていない……」


「それでも、お前は私の命令に逆らった」


「見ず知らずの横柄な人間の命令に従う義務なんて、僕にはない」


 チン・タン・バンが嘲るように鼻で笑った。


「若君、この小僧は本当に『恐怖』という言葉を知らないようですね」


 トアット・ホアンは、僕をじっと見つめた。


「私はお前に、何度も選ぶ機会を与えてやったはずだ」


 彼は身をかがめ、僕が先ほど落とした木の枝を拾い上げると、何気なくリュウ・バック・ホーの方へ放り投げた。


「最後の教訓を与えてやれ」


 今度こそ、僕には一秒たりとも立っていられるだけの力が残っていなかった。


 リュウ・バック・ホーは間近まで歩み寄ると、幅広い肩を使って僕の胸に凄まじい体当たりを食らわせた。


 僕の体は激しく後方へ吹き飛ばされ、背中から地面に叩きつけられた。


 必死に体をひねって追撃の蹴りをかわそうとしたが、容赦のない足払いが脇腹をまともに襲った。


 肉を引き裂くような痛みが肋骨から全身を駆け上がり、頭の芯まで突き抜けていく。


 僕は這うようにして起き上がろうとした。


 しかし、その瞬間、天から降り注ぐような拳が頬骨に叩き込まれた。


 僕は冷たい地面に顔から倒れ込んだ。


 耳の奥では、耳鳴りのような轟音が鳴り響いていた。


 目の前の景色はぼやけ、灰色の塊となって滲んでいく。


 僕は残された力を振り絞って体を動かし、必死にドゥエ・トゥオンの姿を探した。


 彼はまだ、チン・タン・バンに容赦なく押さえつけられながら、歯を食いしばってもがいていた。


 腹には無数の痣が浮かび、裂けた口元から血が滲んでいる。それでも彼は必死に顔を上げ、大声で叫んだ。


「バン! 逃げろ! 早く逃げるんだ!」


 僕は、今すぐにでも立ち上がりたかった。


 だが、両足は完全に痺れ、もはや自分の意思に従ってくれなかった。


 僕は震える両手を草むらにつき、残された力をすべて振り絞って体を押し上げようとした。


 しかし、その瞬間、重たい鋲付きの靴が僕の手の甲を容赦なく踏みつけた。


 骨の髄まで貫くような激痛に、僕は思わず声を上げた。


 リュウ・バック・ホーは身をかがめ、冷酷な目で僕を見下ろした。


「まだ立ち上がれると思っているのか?」


 僕は歯を食いしばり、自分の手を押し潰している足を見上げた。


 決して、命乞いの言葉など口にしなかった。


 バック・ホーは苛立たしげに足を持ち上げると、さらに冷酷な蹴りを一発浴びせ、僕を遠くへ蹴り飛ばした。


 僕は湿った地面の上で体を丸め、口の端から流れ出た鮮血が顎を伝って滴り落ちていた。


 トアット・ホアンが悠然と歩み寄ってきた。


 彼は足元で惨めに横たわる僕を見下ろした。


「お前はまだ、私に正直な答えを一言告げることくらいできるだろう」


 僕は腫れ上がった目を、どうにか薄く開いた。


「僕は……本当に何も知らない……」


「お前は間違いなく、あの石碑を自分の目で見たはずだ」


「僕は……死んでも、案内なんかしない……」


 トアット・ホアンは身をかがめ、地面すれすれまで顔を近づけた。


「まだ分からないのか? 私は最初から最後まで、お前の命を奪うつもりなどまったくない」


 僕は憎悪に満ちた眼差しで、彼を睨みつけた。


「だったら……もう僕たちを殴って、痛めつけないでよ……」


 トアット・ホアンの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

 そのわずかな瞬間、トアット・ホアンは返す言葉を完全に失ったかのようだった。


 やがて彼は勢いよく立ち上がり、冷ややかな声で命じた。


「バック・ホー」


「はっ。お呼びでしょうか、若君」


「もう手を止めろ」


 リュウ・バック・ホーは拳を収め、後方へ退いた。


 チン・タン・バンが大股に歩み寄り、腰をかがめて僕の薬草籠を拾い上げた。彼は乱暴に中をかき回したが、取り出せたのは森で採った果実が数個、小さな包みに入った塩、そして文字の入門書だけだった。


 彼は本のページをめくり、そこに並ぶ拙い文字を気味悪そうに眺めた。


「若君、ご覧ください。こんなガラクタが我々の探しているものでしょうか?」


 トアット・ホアンは手を伸ばして本を受け取った。


 彼はページに乱雑に書かれた三文字へ目を走らせた。


 ラム・チエウ・バン。


 まだ幼さの残る、ぎこちなく拙い筆跡で書かれた、飾り気のない名前だった。


 トアット・ホアンはしばらく黙ったまま、本を閉じた。


「違うな」


 そして、僕の血だまりのすぐ脇へ、無造作に本を放り投げた。


「引き上げるぞ」


 三人の少年はきっぱりと踵を返し、それぞれ馬の背にまたがった。


 手綱を引いて出発する直前、チン・タン・バンが振り返り、ドゥエ・トゥオンへ侮蔑の眼差しを投げかけた。


「これからは少しは身の程をわきまえるんだな。自分に関係のない厄介事に、二度と首を突っ込むんじゃないぞ」


 ドゥエ・トゥオンは怒りに歯を食いしばり、奥歯をぎりぎりと鳴らした。


 トアット・ホアンは、一度たりとも振り返ろうとしなかった。


 傲慢な一団は馬に鞭を入れ、草地を勢いよく駆け去っていった。蹄の音は次第に遠ざかり、やがて松林の向こうへ消えていった。


 その音が完全に途絶えるまで、ドゥエ・トゥオンは動けなかった。


 ようやく静寂が戻ると、彼は傷だらけの体を引きずりながら、僕のそばまで這い寄ってきた。


 そして膝から崩れるように座り込み、震える手で僕の頭をそっと持ち上げ、自分の太腿の上に乗せた。


「バン! 早く目を覚ませ!」


 僕は声を出すことすらできなかった。


「バン! 聞こえているのか? 俺の声が分かるか!」


 喉の奥から、かすれた呻き声が漏れた。


 ドゥエ・トゥオンはわずかに安堵の息を漏らした。だが、僕の全身の傷を目にした途端、その顔から血の気が引いていった。


 左頬は真っ赤に腫れ上がり、唇は大きく裂け、両手には無数の打撲痕と靴跡が刻まれていた。呼吸は途切れ途切れで、一息吸い込むたびに胸の奥を引き裂かれるような激痛が走る。


 ドゥエ・トゥオンは慌てて顔を上げ、必死に叫んだ。


「誰かいないか! 助けてくれ! 早く人を呼んでくれ!」


 近くで水牛の世話をしていた老農たちが、驚いて手にしていた杖を放り出し、慌てて駆け寄ってきた。


「おいおい、いったい何があったんだ、坊主!」


「頼む! バンを村まで運んで、すぐに手当てをしてくれ!」


 老人は僕の体に刻まれた無数の傷を目にすると、愕然とした表情を浮かべた。


「いったい誰が、こんなひどいことをしたんだ?」


「あいつら……馬に乗った……盗賊どもだ!」


「そいつらはどっちへ行った?」


 ドゥエ・トゥオンは涙をこらえながら、山へ続く険しい小道を指さした。


 老人はすぐさま振り返り、さらに二人の村人を呼び寄せた。


 彼らは朽ちかけた木の板を探して即席の担架を作り、僕を慎重にその上へ寝かせた。


 ドゥエ・トゥオンも慌てて後を追おうとしたが、老人に肩を強くつかまれた。


「お前だって、全身傷だらけじゃないか!」


「俺は何ともない! 放っておいてくれ!」


「今のお前に、歩いてついてくるだけの力が残っていると思っているのか?」


 ドゥエ・トゥオンは歯を食いしばり、無理やり立ち上がろうとした。


 だが、両足はがくがくと震え、今にも地面へ崩れ落ちそうだった。


 老人は深いため息をついた。


「分かった。二人とも一緒に運ぶんだ。手遅れになる前に、早く村へ連れていこう!」


 彼らは急いで力を合わせ、急ごしらえの担架を持ち上げると、荒れ果てた草地を後にした。


 意識が遠のいていく中、耳元では人々の慌ただしい叫び声が入り乱れていた。


 誰かが僕の名前を必死に呼んでいる。


 誰かが大慌てで、早く温かい水を持ってくるように指示している。


 また別の誰かが、僕を絶対に深い眠りに落とさせてはならないと、何度も周囲へ言い聞かせていた。


 僕は身じろぎして目を開けようとした。


 だが、瞼はまるで誰かに鉛を流し込まれたかのように重く、どうしても持ち上げられなかった。


 体全体が硬いものの上に横たわっているような感覚がある。急いで運ばれるたびに、担架が激しく揺れていた。


 耳元では、ドゥエ・トゥオンの嗚咽が聞こえていた。


「バン……頼むから目を覚ましてくれ……お願いだから……」


 僕は何とか返事をしたかった。


 だが、喉があまりにも痛く、かすかな声一つ出すことさえできなかった。


 そのとき、断片的で混乱した記憶が、堰を切ったように頭の中へ押し寄せてきた。


 フア・ティン・ティが木剣を厳しく握り、僕の肩の力を抜くように命じていた姿。


 何度も間抜けな転び方をした僕に、ドゥエ・トゥオンが温かな手を差し伸べ、立ち上がらせてくれた姿。


 ファム・フウ・テーが、自分自身を世の中の外側にいる傍観者だと思い込むなと、強い口調で諭してくれた姿。


 ハー・ティン・リウ・ホアが傷口に優しく包帯を巻き、もっと自分の身を大切にするよう言い聞かせてくれた姿。


 チャン・ヴィエン・アインが、難解な古文字の一つ一つを根気強く教えてくれた姿。


 そして、アー・ニンが古びた鐘楼の上に立ち尽くし、雨の降りしきる夕暮れの中で、長く澄んだ鐘の音を響かせていた姿。


 そして最後に浮かんだのは……。


 遠い昔、まばゆい朝日の下に立つ二つの大きな人影だった。


 温かな手が、そっと僕の頭を撫でる。


 そして、幼い僕には決して果たすことのできなかった、無邪気な約束。


「父さんと母さんを待っていてくれ、いい子だからな」


 僕の指先が、無意識にかすかに動いた。


 チャン・フン・ダオのことを思い出した。


 彼が僕に託した、奇妙な結び目のある茶色い縄のことも。


 だが、この瞬間の僕には、ただ運命に身を委ねる以外、何もできなかった。


 全身が耐えがたいほど痛む。息を吸うことさえ、贅沢な望みのように思えるほどだった。


 いつの間にか、目尻から涙が滲み出し、こめかみを伝って流れ落ちていた。


 決して、弱虫だから泣きたいわけではない。


 ただ、僕の体がとうとう限界に達し、もう自分の意思では何一つ堪えられなくなっていたのだ。


 真っ暗な夜が、ラク・トゥイの渡し場周辺の集落を覆い尽くした頃、運んでいた人々はようやく渡し場のすぐそばにある小さな木造家屋へ到着した。


 ハー・ティン・リウ・ホアはその家で、村人たちの薬草の仕分けを手伝っていた。


 ところが、今にも崩れそうな粗末な木の担架と、傷だらけになった僕の顔を目にした瞬間、彼女は手にしていた薬草の束を取り落とし、血相を変えて駆け寄ってきた。


「そんな……! いったい何があったの!?」


 泥と乾いた血にまみれた顔のまま、ドゥエ・トゥオンも後ろからよろよろと歩いてきた。


「バンが……バンが、悪党どもにひどく殴られたんだ……」


 リウ・ホアは慌てて僕の額に手を当てた。その瞬間、彼女の体がぴたりと硬直した。


「いったい誰が、こんなひどいことをしたの?」


「奴らは……馬に乗った貴族の少年たちだ……」


「その者たちは今どこにいるの?」


「もう……立ち去った……」


 リウ・ホアは、それ以上余計なことを尋ねなかった。


 彼女は素早く身を翻すと、家の者たちに向かって大声で指示を飛ばした。温かい水、清潔な布、そして止血効果の高い上等な薬膏を、すぐに用意するよう命じた。


 その後は自ら僕のそばにつき、致命傷になりかねない箇所を一つずつ丁寧に調べ始めた。


 彼女の細い指先が、打撲で紫色に変色した脇腹へそっと触れた途端、僕は痛みに耐えきれず、喉の奥から苦しげな呻き声を漏らした。


 リウ・ホアは驚いて手を引っ込めた。目には涙が浮かんでいた。


「だめ……絶対に動かさないであげて」


 彼女は勢いよく周囲へ振り返り、急き立てるように命じた。


「今すぐ馬を走らせて、村で一番腕の立つ医者を連れてきて!」


 一人の村人が大急ぎで家を飛び出していった。


 ドゥエ・トゥオンは戸口の柱にもたれ、身じろぎ一つせず立ち尽くしていた。彼の両手は固く握り締められ、爪が皮膚に深く食い込み、血が滲んでいた。


 リウ・ホアは彼に目を向けた。


「あなたも全身傷だらけじゃない。早く椅子に座って休みなさい」


「俺は何ともない」


「必要かどうかなんて聞いていないわ。これは命令よ!」


 ドゥエ・トゥオンは、じっと彼女を見つめた。


 そして最後には、何も言わずに部屋の隅まで歩いていき、椅子を引いて力なく腰を下ろした。


 かなり長い沈黙の後、彼はようやく、嗚咽の混じった声を漏らした。


「俺は……本当に役立たずだ。バンを守ってやることさえできなかった……」


 薬を塗っていたリウ・ホアの手が、ほんの一瞬止まった。


「あなたは、自分にできる限りの力を尽くして戦ったの?」


「全力を尽くした……でも、俺が弱すぎたんだ」


「それなら、もう自分を責めないで」


 彼女は、あなたに責任はないなどという、ありきたりな慰めの言葉を口にしなかった。


 こうした過酷な状況において、どんなに美しい言葉を並べたところで、弱い立場にある者が抱えるどうしようもない無力感を埋めることなどできないと、誰よりもよく分かっていたからだ。


 彼女はただ黙って温かい水を椀に注ぎ、ドゥエ・トゥオンの前へ差し出した。


「飲んで。少しでも体力を戻しなさい」


 彼は震える手で椀を持ち上げた。


 リウ・ホアは再び身を翻し、僕の顔を心配そうに見つめた。


「この子は絶対に助けなければならない。何としても、持てる力のすべてを尽くして治療するのよ」


 夜更けの冷たい闇が、辺りを深く包み込んでいった。


 老医師は半刻ほどかけて慎重に診察を続けた。やがて深いため息をついて立ち上がり、現在の容体を告げた。


「この子は胸や肋骨のあたりに、ひどい打撲による内傷を負っている。おそらく内臓にも損傷が及んでいるだろう。極めて危険な状態じゃ。今夜は絶対に目を離さず、付き添って見守らねばならん。夜明けまでに高熱を乗り越えることができれば、何とかこの小さな命をつなぎ留められるかもしれん」


 リウ・ホアは涙をこらえながら、深くうなずいた。


「先生、本当にありがとうございます。どうか最善の薬を処方してください。費用については、いくらかかっても必ず全額お支払いします」


 彼女は僕の寝床から、一歩たりとも離れないと決めていた。


 ドゥエ・トゥオンと、知らせを聞いて急いで駆けつけたファム・フウ・テーは、黙ったまま家の軒先で見張りを続けていた。


 フウ・テーは部屋の中へ入ると、横たわったまま身動き一つしない僕の姿を目にした。


 腫れ上がり、原形をとどめないほど変わり果てた顔を見た瞬間、彼は眉間に深いしわを刻んだ。


「奴らは……いったい何者なんだ?」


 ドゥエ・トゥオンは低い声で、起きたことの一部始終を語った。


 話を聞き終えたフウ・テーの目には、激しい怒りが燃え上がった。


「たかがくだらない石碑一つのために、子供をここまで痛めつけたというのか?」


「確か……連中は、頭の名前をトアット・ホアンと呼んでいた気がする」


 フウ・テーは、その名前を口の中で繰り返した。


「トアット・ホアン……」


「そいつを知っているのか?」


「いや、知らない。だが、この血の借りは、いつか必ず奴らにきっちり返してやる」


 ドゥエ・トゥオンは両拳を強く握りしめた。


 反論する言葉は、何一つ口にしなかった。


 真夜中近くになり、老医師が最初の薬湯を煎じ終えると、慎重に僕の口元へ運び、少しずつ匙で飲ませてくれた。


 リウ・ホアはその傍らに座り、湿らせた布で僕の額に浮かぶ冷や汗を根気強く拭い続けていた。


 枕元に置かれた小さな木の机の上には、僕の文字の入門書が、砂埃をかぶったまま静かに横たわっていた。


 本は偶然にも、僕が自分の名前を一生懸命に書き写したページを開いたままになっていた。


 三つの文字。


 ラム・チエウ・バン。


 リウ・ホアは震える手を伸ばして本を取り上げた。そして、表紙やページにこびりついた汚れを、指先で優しく払い落とした。


 彼女は、歪みながらも懸命に書かれた僕の拙い文字を、じっと見つめ続けた。


 そのとき、熱い涙が一滴、紙の上にぽたりと落ちた。


 彼女は今にも泣き出しそうな声で、吐息のように小さくつぶやいた。


「あなたは……ここまで一生懸命に頑張ってきたのに……」


「お願いだから……こんなところで、諦めて倒れたりしないで……」


 そして、まさに同じ時刻。


 ラク・トゥイの渡し場からさほど遠くない場所に急ごしらえされた、豪奢な軍営では、トアット・ホアンが沈香の木で作られた机の前に座り、両手を合わせるようにして、悠然と茶を楽しんでいた。


 リュウ・バック・ホーはその傍らに直立し、絹の布で鋭利な刀身を念入りに磨いていた。


 向かい側では、チン・タン・バンが座り込み、唇の端にこびりついた血を布で拭いながら、苦々しい顔をしていた。


 トアット・ホアンは玉の茶杯をゆっくりと机に置いた。


「お前たちは、長年武芸を修めてきたれっきとした武人だというのに、あれほど生意気で無鉄砲な小僧一人に、あんな無様な姿をさらすとはな」


 チン・タン・バンは勢いよく顔を上げ、言い訳するように口を開いた。


「あの小僧は頑固なうえ、思いもよらない動きをしてきました。完全にこちらの予想外だったのです」


 リュウ・バック・ホーは鼻で笑った。


「結局のところ、あの小僧は枯れ枝みたいにひ弱なガキにすぎません。私が手加減して相手にしなかっただけのことです」


 チン・タン・バンは彼を鋭く横目で睨んだ。


「大口を叩くのもいい加減にしろよ。お前があいつを必死になって取り押さえていたとき、相当な冷や汗をかいていたのを俺は見ていたぞ。何が手加減だ」


 トアット・ホアンは、部下たちのくだらない言い争いに加わろうとはしなかった。


 彼は冷ややかな眼差しを窓の外へ向け、真っ暗な闇を見つめていた。


 ちょうどそのとき、一人の従者が慌ただしく扉を押し開けて入ってきた。


 彼は敬意を込めて床にひれ伏した。


「若君、ご報告申し上げます。斥候の報告によれば、下の漁村では、今日の午後に草地で起きた騒動について、村人たちが盛んに噂し合っているとのことです」


 トアット・ホアンは眉をひそめた。


「連中は、我々の本当の身元に気づいたのか?」


「はっ……何人かの者が、若君のお名前を聞いてしまったようでございます」


 チン・タン・バンは面白がるように笑った。


「名前を知られたところで、何だというのです? 我々は堂々と古代の石碑を探しに来ただけです。盗みを働いたわけでもないのに、世間の噂など気にする必要はありません」


 トアット・ホアンは厳しい眼差しで彼を一瞥した。


「今回の遠征における最大の目的は、石碑を見つけることだ。地元のならず者たちと揉め事を起こすために、軍勢を率いてここまで来たわけではない」


 リュウ・バック・ホーは磨いていた刀を下ろした。


「しかし若君、先に協力を拒み、道案内をしないと言い張ったのは、あの頑固な小僧の方です」


「そんなことは分かっている」


「では、これからどうなさるおつもりですか?」


 トアット・ホアンは勢いよく立ち上がり、迷いのない足取りで歩き出した。


「明朝、引き続き兵を動かして山脈一帯を捜索する」


 チン・タン・バンが顔を上げた。


「では、あの頑固な小僧はどうするのです?」


 トアット・ホアンは長い一拍のあいだ、沈黙した。


「そいつを殺すことだけは、絶対に許さん」


 彼は静寂に沈む夜の闇をじっと見つめた。


「あの子供が、この原生林でいったいどのような恐ろしい秘密に偶然触れ、何を目撃したのか……私はまだ、ひどく興味がある」


 一方、ラク・トゥイの渡し場のすぐそばにある小さな木造家屋では、ラム・チエウ・バンである僕は、依然として深い昏睡状態に沈んでいた。


 家の軒先では、夜の冷たい風が葉と葉の隙間を吹き抜け、激しく唸り声を上げていた。大洪水の後に残された、乾ききった枯葉を巻き上げながら。


 ファム・フウ・テーとドゥエ・トゥオンは、家の外で辛抱強く見張りを続けていた。どちらも、一分たりとも眠ろうとはしなかった。


 ハー・ティン・リウ・ホアもまた、僕の寝床から片時も離れず、腫れ上がった額に当てる冷たい布を、何度も丁寧に取り替え続けていた。


 果てしない昏睡の中で、僕の乾ききった唇がかすかに震えた。


 そこから漏れた声はあまりにも小さく、ひどく掠れていた。注意深く耳を澄ませなければ、誰にも聞き取れないほどだった。


「父さん……母さん……」


 リウ・ホアは慌てて身をかがめ、僕の耳元へ顔を寄せた。


 彼女は震える手で、冷え切った僕の手をしっかりと握り締めた。


「お姉ちゃんが……ここにいるわ。大丈夫よ。怖がらないで……」


 しかし、僕が目を覚ます気配はまったくなかった。


 狭い窓の向こうでは、夜空に黒雲が渦を巻き始めていた。


 骨の髄まで凍えるような冷たい風が川辺を吹き抜け、最後に残っていた小さな残り火さえも吹き消していった。


 そして、はるか遠く、山の中腹を横切る険しい山道から、再び激しく、切迫した蹄の音が響き渡った。


 静まり返った夜を切り裂くように、馬は猛烈な勢いで駆けてくる。


 チャン・フン・ダオのもとに、緊急の報せが届いたのだ。


 あの旅人が、全速力でこの地へ引き返してきていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。