↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/83

Episode 83

 空が白み始めるには、まだ早かった。


 落水の船着き場のほとりに建つ、小さな茅葺きの家。その一室では、芯の尽きかけた油灯が、長い夜を通してなおも消えずに燃え続けていた。頼りない黄色の光が、質素な木の寝台をぼんやりと照らしている。その上には、全身の筋肉が鈍い痛みを訴えるなか、身じろぎひとつできずに横たわる俺の姿があった。


 家の軒先では、夜風が古びた竹の編み垣を吹き抜け、軋むような物悲しい音を立てていた。時折、高くそびえる松の枝から枯葉が一枚舞い落ち、茅葺きの屋根をさらさらと転がっていく。その乾いた音だけが、静寂に包まれた空間にかすかな波紋を広げていた。


 ハー・ティン・リュウ・ホアは寝台の傍らに静かに腰掛け、細い両手で温めた布を大切そうに支えていた。彼女は一晩中、まったく眠ることなく俺の看病を続けていた。俺が寝返りを打ったり、痛みに小さく呻いたりするたび、すぐさま身を屈めて脇腹の傷を確かめ、新しい布に取り替え、心配そうに顔色を窺ってくれた。


 先ほど診察してくれた老医師は、俺の容体はひとまず危険な山を越えたと告げていた。しかし、体内の傷は依然として重く、完全に回復するまでどれほどの時間を要するのか、正確な見通しは立っていないという。


 その頃、人気のない軒先では、ファム・フウ・テーが朽ちかけた木の柱にもたれ、所在なげに座り込んでいた。


 彼はほとんど一睡もしていなかった。右頬は大きく腫れ上がり、腕にも先日の追跡劇で負った痣が無数に残っている。だが、今の彼を最も苛立たせ、胸の奥をかき乱しているのは、そうした肉体の傷ではなかった。


 それは、何よりも大切な親友が、あの連中に徹底的に痛めつけられ、自力で立ち上がることさえできなくなる姿を、目の前で見ていることしかできなかった無力感だった。


 ヤー・トゥオンは、そこから少し離れた場所に腰を下ろしていた。


 肩の傷にはリュウ・ホアが薬を塗り、丁寧に包帯を巻いてくれていた。両膝にもまだ痛みが残っていたが、彼は家に帰って休むよう勧められても、頑として首を縦に振らなかった。


「家に帰って、少し眠ってきたらどうだ」


 静寂を破るように、フウ・テーが低い声で言った。


 ヤー・トゥオンは前方を見据えたまま、冷ややかに答えた。


「俺は少しも疲れていない」


「もう一晩中、そんなところに座り込んでいるんだぞ」


「それがどうした?」


「一生そこに座り続けたところで、バンが早く目を覚ますわけでもないだろう」


 ヤー・トゥオンはうつむき、節くれだった自分の両手をじっと見つめた。


「そんなことは……分かっている」


 重苦しい沈黙が、二人のあいだに流れた。


 フウ・テーは深いため息をついた。


「正直に言えば……俺だって腹が立って仕方がない。今すぐあいつらのところへ乗り込んで、徹底的に叩きのめしてやりたいくらいだ」


 ヤー・トゥオンは勢いよく顔を向けた。


「だったら、どうしてそこでぐずぐずしている?」


「自分まで隣の寝台で身動きひとつできなくなるような結末だけは、絶対に御免だからさ」


 ヤー・トゥオンは黙り込んだ。


 フウ・テーは顔を上げ、暗闇に沈んだ庭先へと視線を向けた。


「リュウ・バック・ホーが人を殴るところを、この目で見たんだ。あいつらは市場の片隅にいるような、ありふれたごろつきとは訳が違う。今、俺たちが命知らずにも乗り込んでいったところで、昨日のバンと同じ目に遭うのが関の山だ」


 ヤー・トゥオンは怒りに任せて両手を強く握り締めた。手の甲には青筋が浮かび上がっている。


「じゃあ、あいつらが好き放題暴れ回るのを、黙って見ていろっていうのか?」


「そんなわけがない」


 フウ・テーは勢いよく顔を上げた。その瞳の奥には、揺るぎない決意が宿っていた。


「だが、やり返したいのなら、まずはいつ動くべきなのか、いつ怒りをこらえて好機を待つべきなのかを見極めなければならない」


 ヤー・トゥオンは返す言葉を見つけられなかった。


 フウ・テーの言い分が正しいことくらい、彼にも十分に分かっていた。


 だが、道理を理解することと、胸に渦巻く怒りを簡単に呑み込めることは、まったく別の話だった。


 その時、背後の木戸が小さく軋みながら開いた。


 リュウ・ホアが小さな水差しを手に、家の中から姿を現した。


「彼が……目を覚ましました」


 二人の少年は、弾かれたように立ち上がった。


「本当か!?」


 フウ・テーが驚いたように尋ねる。


 リュウ・ホアはそっと頷いた。その顔には安堵と疲労が入り混じった表情が浮かんでいた。


「ですが、まだ傷が重いので、今はあまり話をさせないでください」


 ヤー・トゥオンは一瞬たりとも待ちきれない様子で、すぐさま家の中へと駆け込んでいった。


 俺は、ゆっくりと目を開きかけていた。


 視界はまだぼやけ、輪郭も定かではなかった。それでも、見慣れた顔が自分を取り囲んでいることに気づくと、唇をかすかに震わせた。


「ヤー……トゥオン……」


 ヤー・トゥオンは慌てて寝台の脇に膝をついた。


「ここにいる! おい、具合はどうだ?」


 俺はじっと彼の顔を見つめた。


「お前は……どこか怪我をしていないか?」


 ヤー・トゥオンは、驚きのあまり言葉を失った。


 生死の境をさまよった末に目を覚ました俺が、最初に口にしたのは自分の身を案じる言葉ではなく、彼の傷を心配する言葉だったのだ。


「お、俺は何ともない」


 俺はわずかに眉を寄せ、か細い声で続けた。


「でも……あの時、お前も連中に殴られていただろう……」


 ヤー・トゥオンはぎこちなく笑った。だが、その目尻はたちまち赤くなり、今にも涙がこぼれそうになっていた。


「俺は牛みたいに頑丈なんだ。あんな程度の殴打で倒れるもんか」


 俺はかすかに口元をほころばせた。ところが、わずかに身じろぎしただけで脇腹に激痛が走り、胸を引き裂かれるような痛みに顔をしかめた。


 リュウ・ホアが素早く手を伸ばし、俺の肩をしっかりと押さえた。


「無茶をして動いては駄目!」


 俺はおとなしく力を抜き、再び寝台に身を横たえた。


 その時になって、ようやくフウ・テーがゆっくりと寝台の反対側へ歩み寄ってきた。


「まったく……お前のせいで、俺たちがどれだけ肝を冷やしたと思っているんだ」


 俺は申し訳なさそうに友人を見つめた。


「俺……悪かった」


「そんな口先だけの謝罪なんていらない」


 フウ・テーは木椅子を引き寄せ、どっかりと腰を下ろした。


「俺が望んでいるのは、これから先、二度と一人で何もかも背負い込んで、あんな命懸けの状況に自分を追い込まないことだ」


 俺は唇を固く結び、何も答えられなかった。


 それからしばらくして、ようやくかすれた声を絞り出した。


「俺の……本は……どこだ?」


 リュウ・ホアは部屋の隅にある小さな木の机へ目を向けた。


 そこには、初学者向けの古書が一冊、清潔な布に丁寧に包まれて置かれていた。彼女が昨日、俺の倒れていた場所のすぐそばにあった泥だまりから、自ら拾い上げてくれたものだった。


「ここにあるわ。ちゃんと無事よ」


 俺は本の方へ目を向け、胸のつかえが取れたように息をついた。


「よかった……」


 ヤー・トゥオンは呆れたように吹き出した。


「命を落としかけるほど散々殴られたっていうのに、まだあんなボロ本のことを気にしているのか?」


 俺は小さく答えた。


「だって……やっと何文字か覚えたところだったんだ……」


 フウ・テーも、思わずつられて小さく笑った。


 ただ一人、ハー・ティン・リュウ・ホアだけは笑うことができなかった。


 彼女は、いまだに痣の残る俺の顔を痛ましそうに見つめ、そっと胸元まで掛け布団を引き上げてくれた。


「もう少し目を閉じて休みなさい。他のことは、後で考えればいいから」


 俺は素直に頷いた。


 しかし、重くなった瞼が閉じる直前、どうにか声を絞り出して尋ねた。


「この前の連中は……まだこの辺りをうろついているのか?」


 フウ・テーとヤー・トゥオンは、戸惑ったように顔を見合わせた。


 二人とも、俺を安心させるためにどう答えればよいのか分からなかったのだ。


 結局、口を開いたのはリュウ・ホアだった。


「心配しないで。もう、然るべき人が解決に動いてくださっているから」


 俺は小さく頷いた。


 彼女の言う「その人」が一体誰なのか、俺にはまったく分からなかった。


 だが、心の奥底では、その名はすでにはっきりと浮かび上がっていた。


 チャン・フン・ダオ。


 そして、その旅人は、朝日が松の峰々を越えようとする、まさにその時刻に姿を現した。


 威厳に満ちた角笛の音が鳴り響いたわけではない。


 大勢の従者を引き連れて現れたわけでもなかった。


 ただ一頭の漆黒の軍馬が、川辺の小さな家の軒先で静かに歩みを止めただけだった。


 チャン・フン・ダオは軽やかに馬から降りると、近くで呆然と立ち尽くしていた村人に手綱を預け、そのまま庭へと足を踏み入れた。


 フウ・テーは男の姿を一目見るなり、すぐに気づいた。


「あなた様は、以前バンを救い、連れて行ってくださったあの達人ではありませんか?」


 チャン・フン・ダオは落ち着いた様子で頷いた。


「あの少年の容体はどうだ?」


「意識は戻りましたが、体力はまだひどく衰えています」


 男は小さな窓越しに部屋の中を見やった。


「中に入って、あの子に会いたい」


 フウ・テーはすぐに身を引き、道を空けた。


 チャン・フン・ダオは簾を持ち上げて部屋へ入った。


 リュウ・ホアは寝台の傍らで看病を続けていた。見知らぬ男が堂々と部屋に入ってくるのを見ると、慌てて立ち上がり、本能的に一歩下がって距離を取った。


「失礼ですが、あなた様は……?」


「チャン・フン・ダオだ」


 リュウ・ホアは驚きに目を見開いた。


 この名なら、漁村の老人たちが時折口にするのを耳にしたことがある。しかし、本人と直接顔を合わせる機会は、これまで一度もなかった。


「あなた様が……バンの命の恩人なのですか?」


「そう考えてもらって構わない」


 チャン・フン・ダオは視線を寝台へと移した。


 俺はその時、すでに意識をはっきりと取り戻しており、腕で体を支えて起き上がろうとしていた。


 彼は大股で歩み寄り、大きな手を俺の肩にそっと置いた。


「そのまま横になっていろ。動くな」


 俺は素直に従った。


「戻って……きたんだな」


「ああ」


「もうここを離れて、どこかへ行ってしまったのかと思っていた」


「確かに一度はここを離れた。だが、お前が災難に遭ったと聞いて、すぐに引き返してきた」


 俺は彼の顔をじっと見つめた。


「俺をこんな目に遭わせた奴が誰なのか、知っているか?」


「知っている」


 チャン・フン・ダオは木椅子を引き寄せ、俺の傍らに腰を下ろした。


「トアト・ホアンという男だ」


 俺はその名を、喉の奥で何度も反芻した。


 トアト・ホアン。


 あの日、草原で傲然と名乗っていた男。


 そして、俺に容赦のない教訓を叩き込み、生まれて初めて、付け焼き刃の護身術をいくつか知っていることと、本物の戦闘能力を身につけていることの間には、深い隔たりがあるのだと思い知らせた相手だった。


 チャン・フン・ダオは注意深く俺を見つめた。


「その時、あの男が何を言っていたか覚えているか?」


「あいつは……古い石碑のところまで案内しろと強要してきた」


「他には?」


「森の中で、俺が何か秘密を偶然目撃していないか、しつこく問い詰めてきた」


 チャン・フン・ダオは考え込むように頷いた。


「どうやら、あの男はまだ自分が求めているものの正確な在り処を突き止められていないらしい」


 俺は黙り込んだ。


 かなり長い間、考えを巡らせてから、ようやく小さな声で尋ねた。


「だったら……あんたなら、あいつに勝てると思うか?」


 戸口の外で話を聞いていたフウ・テーとヤー・トゥオンは、驚いて勢いよく振り返った。


 チャン・フン・ダオは平然と俺を見つめた。


「私はあの男と直接手合わせしたことがない。だから、軽々しく断言するわけにはいかない」


「でも、武芸に通じているんだろう?」


「私が知っているのは、ほんの少しの武芸にすぎない」


 俺はしばらく、その男の顔をじっと見つめていた。


 やがて、やり場のない悔しさを滲ませた声で尋ねた。


「それなら……どうして俺も、あれだけ一生懸命に鍛えてきたのに、結局誰一人として倒せなかったんだ?」


 部屋の中から、音が消えた。


 リュウ・ホアは痛ましそうに顔を伏せた。


 ヤー・トゥオンは歯を食いしばり、自分の両手をじっと見つめていた。


 チャン・フン・ダオは、すぐに空虚な慰めの言葉を口にするようなことはしなかった。


 俺の体に刻まれた無数の傷を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


「それは、お前がまだ歩き始めたばかりだからだ」


 俺は顔を背け、窓の外へと目を向けた。


「ここ何日も、ずっと練習してきたんだ……」


「分かっている」


「立ち方も習った。転び方も、攻撃を避ける方法も習った。それなのに、結局こんな無様な姿になるまで殴られたんだぞ」


 チャン・フン・ダオは確かな口調で頷いた。


「その通りだ」


 彼から慰めの言葉が返ってこなかったことに、俺は思わず戸惑い、落胆した。


 男は穏やかな口調のまま、言葉を続けた。


「お前は転び方を知っていても、相手に反撃し、制圧する術を知らない。歩法を使って動くことはできても、いつ致命的な一撃を放つべきなのかを知らない。いくつかの初歩的な動作を覚えたにすぎず、血に染まった戦場で、本気でお前の命を奪おうとする相手と向き合ったこともない」


 彼は、腫れ上がった俺の目を真っ直ぐに見つめた。


「お前が敗れたのは、これまで学んできたことが無意味だったからではない。ただ、相手があまりにも先を行っていた。それだけのことだ」


 俺は何も言い返せなかった。鼻の奥がつんと痛んだ。


「じゃあ、俺は……これからどうすればいいんだ?」


 俺は声を詰まらせながら尋ねた。


「鍛錬を続け、己を磨き続けることだ」


「いつまで?」


「そのような幼い問いを、もう口にする必要がなくなる日までだ」


 俺は顔を上げ、彼を見つめた。


 そして、ゆっくりと頷いた。


 チャン・フン・ダオは家の外へ出ると、警戒を続けていたファム・フウ・テーとヤー・トゥオンに尋ねた。


「あの連中は、今もこの辺りに潜んでいるのか?」


「昨日、様子を探りに行った時は北へ向かっていました。でも今朝になって、また川辺をうろついている者がいたんです」


 フウ・テーが答えた。


「村人たちに迷惑をかけているか?」


「今のところは、まだ何も。ただ、バンの行方について、しつこく聞き回っています」


 チャン・フン・ダオは、霧に霞む山並みへ視線を向けた。


「事情は分かった」


 ヤー・トゥオンは歯を食いしばり、一歩前に出た。


「連中を捕まえてもらえませんか?」


 チャン・フン・ダオは落ち着いた目で少年を見つめた。


「お前は、あいつらを捕らえてほしいのか?」


「当然です!」


「理由は?」


「バンをあんな目に遭わせたからです!」


 チャン・フン・ダオは、その性急さを責めることはしなかった。


 ただ、逆に一つ問いを投げかけた。


「仮に私が、あの三人を捕らえることに成功したとしよう。その後、何が起こると思う?」


 ヤー・トゥオンは返答に詰まった。


「あいつらの背後には、必ず指図をしている黒幕がいる。おそらく、他にも大勢の人間がどこかに潜んでいるだろう。目の前にいる三人の捨て駒を捕らえただけで、本当に命令を下している者の正体を知らなければ、すべてが終わることなど決してない」


 ヤー・トゥオンは恥じ入るように顔を伏せた。


 チャン・フン・ダオは手を伸ばし、彼の肩を軽く叩いた。


「お前には、強靭な体と力がある。その力をどう使うか、決して盲目的な怒りに決めさせてはならない」


 ヤー・トゥオンは顔を上げた。


「でも、ただ黙って見ているだけなら、あいつらはこれからも好き放題に暴れ、他の人まで殴るでしょう」


「だからこそ、根本から食い止める方法を探さなければならない」


 男はフウ・テーへと向き直った。


「この辺りの地形や道筋、それから連中がよく現れる場所を詳しく知りたい。二人とも、私に協力してくれるか?」


 フウ・テーは迷うことなく頷いた。


「もちろんです」


 ヤー・トゥオンも力強く答えた。


「俺も一緒に行きます!」


 チャン・フン・ダオは二人の少年を見比べた。


「よく覚えておけ。仕返しをするために殴り込みに行くのではない。道案内をして、居場所を教えるだけだ。分かったな?」


「分かっていますよ」


 ヤー・トゥオンは不満を隠しきれない様子で答えた。胸の内にくすぶる怒りが、まだ完全に消え去ったわけではなかった。


 昼になって、チャン・フン・ダオは小さな家へ戻ってきた。


 彼は皆に、手頃な大きさの小さな荷車を一台用意するよう告げた。


 それを見たハー・ティン・リュウ・ホアは、すぐに彼の意図を察した。


「あなた様は……バンをここから連れ出すおつもりなのですか?」


「その通りだ」


 彼女は不安そうに俺を振り返った。


「この子は、まだひどい怪我を負っています。長い道のりで揺られたら、とても耐えられません」


「そんなことは承知している。だが、治療するには、もっと優れた医師のいる場所へ連れて行かざるを得ない」


 リュウ・ホアはためらいながら、申し訳なさそうに言った。


「この漁村にも、腕の立つ医師はおりますが……」


「しかし、ここはもう安全な場所ではない」


 冷静なその一言に、リュウ・ホアは何も言い返せなくなった。


 寝台に横たわっていた俺には、二人のやり取りが一言一句、はっきりと聞こえていた。


 心の奥底では、どうしてもこの見慣れた場所を離れたくなかった。


 決して、チャン・フン・ダオの人柄や言葉を疑っているわけではない。


 ただ、俺はあまりにも長い年月をこの地で過ごしてきた。ここには、自分が帰ることのできる場所がある。


 崖の上にある洞窟。


 古びた大きな松の木。


 さらさらと流れる地下の小川。


 そして、深い森に暮らす数え切れないほどの野生の獣たち。


 俺はこれまでの人生を、その場所に根を張り、すがりつくようにして生き抜いてきたのだ。


 誰かに自分の意思を奪われ、無理やりここを去るよう強いられるのは嫌だった。


「俺はどこにも行かない」


 その言葉に、そこにいた全員が驚いて一斉に振り返った。


 チャン・フン・ダオはゆっくりと寝台の傍らまで歩み寄った。


「これ以上、意地を張ってここに留まり続けることはできない」


「俺一人で、何とか森の奥へ逃げ込むことだってできる」


「前回は運よく逃げ延びられた。では、次はどうする?」


 俺は言葉に詰まり、反論することができなかった。


「お前は、あいつらに痛めつけられて、あと一歩で命を落とすところだった。もし私がもう少し遅れていたら、今頃はあいつらに連れ去られ、行方不明になっていたかもしれない」


 俺は掛け布団に顔を伏せた。


「それは……分かっている」


 チャン・フン・ダオは椅子を引き寄せ、俺のすぐ傍らに腰を下ろした。


「最初から最後まで、私はお前にこの場所を永遠に捨てろと言っているわけではない。森から二度と戻ってくるなと強制するつもりもない」


 彼は落ち着き払った、ゆっくりとした口調で言葉を続けた。


「だが、今のお前に最も必要なのは、安全に身を守ってくれる庇護と、自分の身を守る術を一刻も早く身につけることだ。この二つについて、今のお前には、まだ自力で成し遂げられるだけの力がない」


 俺は顔を上げ、彼の目を真っ直ぐに見つめた。


「あなたが……直接、俺に教えてくれるのか?」


「ああ」


「武芸を?」


「武芸だけではない。物事を考え、観察する力。危険な状況への対処法。そして、人間の社会へ足を踏み入れて生きていくための術も教えよう」


 俺は長い間、黙って考え込んだ。


 そして、ようやく小さな声で尋ねた。


「いつか……また、ここへ戻ってきてもいいのか?」


 チャン・フン・ダオは迷いなく頷いた。


「もちろんだ」


「本当か?」


「私は、実現できないことを約束したことは一度もない」

 俺は、目の前にいる男をじっと見つめていた。


 正直なところ、心の中にはまだ多少の疑念と戸惑いが残っていた。


 しかし、彼の瞳に宿る揺るぎない意志と澄み切った輝きは、あの黒衣の男たちや、傲慢なトアト・ホアンの一味とは明らかに異なっていた。


 そこには、自分の利益を求める打算もなければ、残酷な強要もない。


 ただ、俺が思わず身を預けたくなるような、揺るぎない威厳だけがあった。


 俺は小さく頷いた。


「分かった……一緒に行く」


 落水の船着き場を正式に離れる前に、俺はどうしても、山の上にある洞窟へもう一度だけ戻りたいと懇願した。


 チャン・フン・ダオは穏やかにそれを承諾した。


 彼はファム・フウ・テーとヤー・トゥオンにも同行するように言い、自分自身は俺が窮屈さや監視されているような息苦しさを感じない程度に、少し距離を置いて後ろからゆっくりとついてきた。


 今日、洞窟へと続く細い山道は、不思議なほど長く感じられた。


 決して、実際の距離が長かったからではない。


 この道を歩くのは、おそらくこれが最後になるのだと、俺自身がよく分かっていたからだ。


 それは、大自然の奥深くで自由気ままに暮らしてきた、野生児としての俺にとっての最後の道のりになるかもしれなかった。


 俺は見慣れた松の幹を一本一本、じっと眺めた。


 雨風から身を守ってくれたシダの茂み。


 何度も足を滑らせた、苔むした岩々。


 毎夕、あの小さなリスが俺を待っていた、ぽつんと伸びた木の枝。


 すべてが、以前と変わらぬ場所にあった。


 しかし、俺自身はもう、あの洞窟で初めて目覚めた日の、何も知らず何の憂いもなかった子供ではなくなっていた。


 洞窟にたどり着くと、俺はまず一人で中へ入った。


 そして、周囲をゆっくりと見渡した。


 隅の暗がりには、見慣れた竹籠が以前と変わらず置かれていた。


 入口の脇には、武芸の稽古に使っていた竹の枝が無造作に立てかけられている。


 初歩を学ぶための古書は、衣服の中の袋に大切にしまってあった。


 欠けた木の椀、数枚の枯葉、それに幾つかの質素な道具。


 どれ一つとして、財産と呼べるような価値のある品ではなかった。


 それでも、その一つ一つには、俺自身の血肉となった思い出が詰まっていた。


 俺は洞窟の奥へ進み、片膝をついて岩の隙間を探った。そこから、ゴー・タックが丹精込めて彫り上げ、俺に贈ってくれた小さな木彫りの兎を取り出した。


 俺はそれを壊さないよう、慎重に袋へしまった。


 それから、今朝、自分の名前を書く練習をした紙片を手に取り、丁寧に折り目を整えて胸元にしまい込んだ。


 俺は最後に、もう一度だけ洞窟の中を見渡した。


 入口の外では、フウ・テーがこちらを待っていた。


「荷造りは全部終わったか、バン?」


 俺は頷いた。


「ああ、終わった」


 ヤー・トゥオンが大股で洞窟の中へ入ってきた。


「持っていく荷物はそれだけなのか?」


「そんなにたくさん持っていく必要はない」


「じゃあ、この稽古用の竹の棒はどうする?」


 俺は手を伸ばして、それを手に取った。


「これも持っていく」


「これからも鍛錬を続けるつもりか?」


「ああ」


 ヤー・トゥオンは豪快に笑った。


「いい心掛けだ! なら、次に会う時は、今度こそお前を地面に叩き伏せてやるからな!」


 俺は彼を見て微笑んだ。


「その時までには、もう簡単には倒されないように頑張るよ」


 ヤー・トゥオンは俺の目の前に手を差し出した。


 俺はそのごつごつとした手を、しっかりと握り返した。


 二人の少年は、余計な言葉を交わすことなく、長い間、固く手を握り合っていた。


 その傍らで、フウ・テーが不意に懐へ手を入れ、新品の麻縄を一本取り出して俺に差し出した。


「これを持っていけ」


 俺はそれを受け取った。


「この縄を何に使うんだ?」


「長旅に縄が必要になることなんて、いくらでもあるだろう。念のため持っておけ」


 俺は縄に結ばれた結び目を見下ろした。


 それは、俺たちが初めて川辺の船着き場で出会ったあの日、フウ・テーが根気よく教えてくれた、あの上等な結び方だった。


「ありがとう」


 フウ・テーは歯を見せて笑った。


「これからは、ちゃんと自分のことは自分でできるようになれよ。毎回俺に舟を漕がせて、お前を助けに行かせるような真似はするなよ。分かったか?」


 俺は思わず声を上げて笑った。


「頑張るよ」


 俺たちは、そのまましばらくの間、静かに並んで立っていた。


 涙ながらに別れを惜しむような、未練がましい言葉は一切なかった。


 三人とも、心のどこかで分かっていたからだ。


 本当に大切な絆というものは、わざわざ言葉にしなくとも、決して消え去ることはないのだと。


 チャン・フン・ダオは、洞窟の外で辛抱強く待っていた。


 俺が出てくると、彼は肩に掛けた小さな荷袋へ目を向けた。


「必要なものはすべてまとめたか?」


「終わったよ」


「他に、どうしても置いていきたくないものはないか?」


 俺は振り返り、原生林の深く青々とした空間へ視線を投げた。


 本当のことを言えば、持っていきたいものはいくらでもあった。


 だが、人間というものは、大自然の森そのものを根こそぎ背負って、どこへでも持ち運べるわけではない。


 結局、俺は首を横に振るしかなかった。


 チャン・フン・ダオは手を伸ばし、馬の鞍を軽く叩いた。


「乗れ」


 俺は大きな軍馬を見上げた。


 そして今度は、誰の手も借りることなく、自分の力で身を乗り出し、一気に鞍へとよじ登った。


 誰かに手を貸してもらう必要などなかった。


 チャン・フン・ダオは一瞬だけ意外そうな顔をしたが、特に何かを口にすることはなかった。


 地面に立つヤー・トゥオンとファム・フウ・テーが、俺を見上げていた。


「バン!」


 フウ・テーが大きく手を振って呼びかけた。


 俺は振り返った。


 フウ・テーは何度も手を振りながら、別れを告げてくれていた。


 一方、ヤー・トゥオンは拳を高く掲げていた。まるで次に再会した時の勝負を約束する、挑戦状のようだった。


 俺は満面の笑みを浮かべた。


 そして、二人に向かって大きく手を振り返した。


 道が曲がりくねる、そのずっと遠くの場所には、ハー・ティン・リュウ・ホアがいつの間にか一人で立っていた。


 彼女は近くまで駆け寄ってくることはなかった。


 ただ遠くから俺をじっと見つめていた。その瞳は、今にも涙がこぼれそうなほど赤くなっていた。


 彼女の姿に気づくと、俺は思わず声を張り上げた。


「リュウ・ホア!」


 彼女はゆっくりと半歩前へ進み出た。


「薬はちゃんと時間どおりに飲むのよ!」


「分かった!」


「無茶をして、限界を超えるまで鍛錬したりしないこと!」


「うん!」


 彼女はまだ何か言い足りない様子で唇を動かしかけた。しかし、結局それ以上の言葉は出てこず、涙をこらえるように微笑むだけだった。


 俺は馬の背にしっかりと腰を据え、落水の船着き場で出会った大切な人々を、もう一度だけ目に焼きつけた。


 やがて、チャン・フン・ダオが手綱を強く引いた。


 目の前には、果てしなく続く山道が広がっていた。


 原生林は少しずつ、少しずつ、俺たちの背後へと遠ざかっていった。


 その後の道中、チャン・フン・ダオはいつものように静かで、余計なことを多く語ろうとはしなかった。


 俺は彼の背後に座り、両手でその衣の裾をしっかりと握っていた。脇腹の痛みは幾分和らいでいたものの、馬が石だらけの険しい道を駆け抜けるたび、胸の奥に鋭い痛みが走った。


 チャン・フン・ダオはすぐにそれに気づいた。


「また痛むのか?」


「少し響くだけだよ」


「それなら、上体を起こして背筋を伸ばせ。決して体に余計な力を入れるな」


 俺は素直に彼の言葉に従い、姿勢を整えた。


 道のりの半分ほどを進んだ頃、俺は顔を上げて尋ねた。


「ところで……私たちは一体どこへ向かっているんですか?」


「私の旧知の者たちが待っている場所だ」


「そこには、どんな人たちがいるんですか?」


「傷を治し、人の命を救うことを専門とする者がいる。武芸に精通した者もいる。そして、もちろん……お前が来ることを少しも歓迎しない者たちもいるだろう」


 俺は驚いて瞬きをした。


「どうして俺を嫌う人がいるんですか?」


「お前がそこにいることで、面倒を被る者もいるからだ」


 俺は小さく吹き出した。


「俺は別に、面倒なんて起こしていないだろう?」


「まだそこへ着いてもいないのに、どうしてそう言い切れる?」


 俺は少しの間黙り込み、それから再び尋ねた。


「あなたは、知り合いがたくさんいるんですか?」


「大勢いる」


「フウ・テーみたいに、気前がよくて豪快な人もいる?」


「いる」


「じゃあ、ヤー・トゥオンみたいに義理堅い人も?」


「似たような者ならいる」


「それなら……フア・ティン・ティみたいに、頭が切れて高慢な人もいるんですか?」


 チャン・フン・ダオは顔だけ振り返り、俺を横目で見た。


「どうやら、お前の交友関係もなかなか幅広いようだな」


 俺は気まずそうに苦笑いした。


「まあ、普通ですよ」


 男は、それ以上しつこく問い詰めることも、言い争うこともしなかった。


 師弟二人は、そのまま黙々と高く険しい山々を越えていった。


 太陽が頭上まで昇り、木々の葉の隙間から容赦のない日差しが降り注ぐ頃、俺たちは澄み切った小川のほとりで、しばし足を止めることにした。


 チャン・フン・ダオは悠然と馬から降りると、軍馬に水を飲ませた。


 俺は滑らかに磨かれた平たい岩の上に腰を下ろし、色とりどりの小石の間をさらさらと流れていく水を、じっと見つめていた。


 ふと、長年ずっと心の中に抱え続けてきた疑問が、口をついて出た。


「なあ……あなたは、どうして昔、俺の父さんと母さんが出ていったきり、二度と帰ってこなかったのか知っていますか?」


 チャン・フン・ダオは水をすくおうとしていた手を止めた。


 そして、素早く振り返り、俺を見つめた。


 突然の問いかけは、彼の心の奥深くにある、何か隠された部分に触れたかのようだった。


 長い沈黙の後、彼はようやくゆっくりと口を開いた。


「お前の素性も、両親がどのような人物だったのかも、私は詳しく知らない。だが、一つだけ、お前に断言できることがある」


「何ですか?」


「約束が果たされなかったからといって、それが必ずしも、相手の不誠実な嘘だったとは限らない」


 俺は彼をじっと見つめた。


 チャン・フン・ダオは言葉を続けた。


「家族のもとへ帰りたいと、心の底から願っていた者もいる。だが、残酷な運命によって、その最後の機会さえ奪われてしまうことがあるのだ」


 俺はうつむき、地面を見つめた。


 幼い頃、俺は両親が自分を無情にも捨てていったのだと恨んでいた。


 孤独に過ごす日々の中で、彼らを心の底から憎んだこともあった。


 凍えるような夜には、彼らが遠いどこかで、この幼い我が子のことを少しでも思い出してくれているのだろうかと、自分自身に問いかけながら泣いたこともあった。


 それでも、幼い心の片隅には、どうしても捨てきれない無邪気な信念が残っていた。


 彼らは、必ず戻ってくると約束してくれた。


 そして俺は、あれほど長い年月、ひたすらに待ち続けてきたのだ。


 チャン・フン・ダオは、それ以上、慰めの言葉を口にしなかった。


 心に深く刻まれ、長い年月を経てささくれ立った傷は、ありきたりな慰めの言葉を二、三口並べたところで、簡単に癒えるものではないと、彼は十分に理解していた。


 俺はしばらくの間、黙ったまま小川のほとりに座っていた。


 やがて、自分の力で立ち上がり、衣服についた埃を払い落とした。


「そろそろ行こう」


 チャン・フン・ダオは満足げに頷いた。


 日差しの勢いが少しずつ和らぎ、夕暮れが近づく頃、俺たちはそれまでよりも広く、平坦な街道へと出た。


 ここから遠くを見渡せば、立ち並ぶ村々の瓦屋根や、どこまでも広がる青々とした田畑、そして果てしない地平線の彼方まで連なる山々を、はっきりと目にすることができた。


 俺はこれまで、あの松の原生林から、これほど遠くまで離れたことがなかった。


 馬の背に座ったまま、眼前に広がる果てしない世界を眺め、ただ呆然とするばかりだった。


 二つの籠に野菜を山ほど詰めた行商人が、忙しそうに道を通り過ぎていく。


 食糧を満載した荷車の一団が、ガタゴトと音を立てながら南へ向かって進んでいた。


 遠くの空き地からは、兵士たちが武芸の訓練に励む掛け声が、耳をつんざくほど大きく響いていた。


 何もかもが見慣れず、圧倒されるものばかりだった。


 それと同時に、胸の奥から抑えようのない好奇心と、もっと多くのものを見てみたいという強い欲求が湧き上がってきた。


 チャン・フン・ダオは俺の表情を横目で窺った。


「どうだ? 面白いか?」


 俺は瞬きをしてから、頷いた。


「本当に広いんだな……」


「お前が今目にしている外の世界など、実のところ、広大な世界のほんの小さな片隅にすぎない」


「これよりも、もっと広いんですか?」


「果てしなくな」


 俺は遠い地平線へ目を向けた。


 ふと、フウ・テーが以前語ってくれた、果てしなく広がる海のことを思い出した。


 こちら側の岸に立っても、向こう側の岸が永遠に見渡せないほど広大な水の世界。


 俺の唇には、いつの間にか小さな笑みが浮かんでいた。


 いつか必ず、自分の足でそこまで行き、その光景をこの目で見てみせよう。


 チャン・フン・ダオは軽く手綱を引き、馬を再び歩かせた。


「ラム・チウ・バン」


「はい?」


「今日から、お前に武芸を伝授する師として、正式にお前の前に立つことにしよう」


 俺は驚いて、勢いよく彼の方を振り向いた。


「武芸を教えてくれるんですか?」


「その通りだ」


「それなら……これから、あなたのことを何とお呼びすればよいのでしょうか?」


 チャン・フン・ダオはしばらく黙り、前方に続く長い道を見つめた。


「お前の好きなように呼べばいい」


 俺は少しの間、考え込んだ。


「……師匠、とお呼びしてもよろしいですか?」


 男は一瞬、わずかに動きを止めた。


 それから、ゆっくりと頷いた。


「構わない」


 俺は恭しく頭を下げた。


「はい、師匠」


 チャン・フン・ダオは、それ以上何も口にしなかった。


 しかし、手綱をしっかりと握っていた彼の手には、ほんの少し力がこもっていた。


 風雨と戦火の中を渡り歩いてきた長い人生で、彼は数え切れないほど多くの人間と出会ってきた。


 この世の頂点に立つ権力を渇望する者。


 金銀財宝に目がくらんだ者。


 天下無双の武功を求め、武林の覇者として君臨するためだけに修練を積む者。


 そして、ただ平穏無事に、ささやかな日常を送りたいと願う者もいた。


 一方、今まさに自分の背後に座っているこの少年は、将来自分がどこへ流れ着くことになるのかさえ、まだ分かっていない。


 それでも彼は、その澄み切った瞳の中に、この世では滅多に見つけることのできない、かけがえのない宝物を見いだしていた。


 それは、世のあらゆるものに対する、決して尽きることのない好奇心だった。


 そして、人生の残酷さや不条理によって一度も汚されることなく、歪められることもなかった、生まれながらの純粋な善性だった。


 彼は、この少年にそうした尊いものを決して失ってほしくなかった。


 だが同時に、彼は一つの過酷な真理もよく理解していた。


 暴力と野心、そして殺し合いに満ちたこの世界で善良な心を守り抜くためには、バンには十分な力が必要なのだ。


 他人を踏みにじり、刀を振るって支配するための力ではない。


 自らの尊厳を踏みにじろうとする者たちの前で、決して膝を屈しないための、強靭な力である。


 燃えるような夕焼けが、次第に世界を包み込んでいった。


 はるか後方では、俺が長い間暮らしてきた原生林が、幾重にも連なる山々の中に、今や小さな濃緑色の一筋となって見えるだけだった。


 夕風が広大な茅草の原を吹き抜け、湿った土と芽吹いたばかりの草の青臭い香りを運んできた。


 俺は振り返り、最後にもう一度だけ、背後の景色へ視線を向けた。


 懐かしい洞窟。


 滑りやすい岩が転がる、あの細い山道。


 古びた寺の屋根の上から響いていた、鐘の音。


 老鍛冶師のター・チョン・ソン。


 少女のアー・ニン。


 ファム・フウ・テー、ハー・ティン・リュウ・ホア、フア・ティン・ティ、ヤー・トゥオン、チャン・ヴィエン・アイン。


 そして、一度たりとも自分の素性を明かそうとしなかった、灰色の衣をまとった謎の少女。


 彼ら一人一人が俺の人生を通り過ぎるたび、小さな欠片を残していった。


 決してほどけない、丈夫な縄の結び目。


 大地を踏みしめる、確かな足運び。


 丁寧に書き記した、初歩の文字。


 骨身に刻まれるほど心に響いた教え。


 素朴で温かな贈り物。


 そして、決して色褪せることのない、数え切れないほどの思い出。


 俺は、これまでの出会いと別れが、これからも自分を新たな人生の分岐点へと導いていくのだと理解していた。


 この先、幾度の死闘に直面することになるのか。


 何人の人々の死を見届けなければならないのか。


 本来なら幼い子供が決して味わうべきではない苦難を、どれほど経験しなければならないのか。


 今の俺には、まだ何一つ予想することができなかった。


 それでも、この時の俺には、ただ一つだけ確かなことがあった。


 決して歩みを止めてはならないということだ。


 小さなリスが、襟元からふさふさした頭をひょっこりとのぞかせ、霧の向こうへと遠ざかっていく森を不思議そうに眺めた。


「なあ……バン。俺たちは、いつかまたここへ戻ってくるのか?」


 俺は優しく指先でその頭を撫でた。


「いつか……きっと戻ってくるよ」


「いつになるんだ?」


「それは俺にもまだ分からない」


 リスは小さく鳴いた。


「だったら……その約束、ちゃんと覚えておいてくれよ」


 俺はほっとしたように微笑んだ。


「ああ、覚えているよ」


 チャン・フン・ダオは顔を上げ、前方に広がる果てしない道を見据えた。


「出発するぞ」


 軍馬は再び力強く歩みを進めた。


 夕日の光が、険しい山道の上に、師弟二人の長い影を伸ばしていく。


 一人は、幼い日々を育んでくれた場所に正式な別れを告げたばかりの少年。


 もう一人は、これから先、その未来がどこへ向かうのか、自分自身にもまだ予測できない、新たな直弟子を迎えた男。


 二人の眼前には、数え切れないほどの試練と教訓、そして、今の俺の幼い理解をはるかに超える無数の出来事が待ち受ける、果てしない道のりが広がっていた。


 俺はこれから、剣を手に取り、敵を討つ術を学ばなければならない。


 体内を巡る気血を自在に操る、奥深い法を学ばなければならない。


 圧倒的に格上の相手を前にしても、恐怖に理性を曇らせることなく、堂々と立ち続ける術を身につけなければならない。


 そして何より、この広大で複雑な、人間の世の理を理解しなければならない。


 この瞬間をもって、ラム・チウ・バンの松林における孤独な幼少期は、永遠に幕を閉じた。


 だが、俺の人生が真の偉大さへと至る道は、ようやく今、その第一歩を踏み出したばかりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。