Episode 80
あの朝、竹の葉一枚一枚に朝露がまだ残っている早い時刻、私はいつものように、青々とした竹林の奥にある稽古場へ向かった。今までのどの日よりも早い到着だった。
今日、私の手には、拳や足技の鍛錬に使う竹の棒も、山歩きの際に薬草を入れる籠もなかった。両手に大事そうに抱えているのは、背表紙の擦り切れた古書が一冊と、一本の黒い炭筆、それに、きちんと裁ち揃えられた長方形の白い紙が数枚だけだった。
いたずら好きの小さなリスが私の肩にちょこんと乗り、鼻先をひくひく動かしていた。時折、白い紙に顔を近づけては、くんくんと匂いを嗅いでいる。
「おい、チエウ・バン。その紙切れの山は、いったい腹の足しになるのか?」
リスが不思議そうに尋ねた。
「まったくならない」
「じゃあ、どうしてそんなものを大事そうに抱えてるんだ?」
「ここへは、聖賢の教えを学びに来たんだ」
「文字ってのは、うまいものなのか?」
私は思わず吹き出した。
「そればかりは何とも言えないな。まだ味見をしたことがない」
それを聞いたリスは、ぷいっと口を尖らせて顔を背けた。まるで、私のような変わり者とはこれ以上付き合っていられない、とでも言いたげだった。
木陰の涼しい稽古場へ足を踏み入れたときには、フア・ティン・ティーはすでに来ていた。
彼女は古い松の根元で、ひたすら剣の型を磨いていた。青みを帯びた白い衣が、身体の動きに合わせてさらさらと揺れる。長剣の切っ先は、あるときは閃光のように鋭く前へ突き出され、あるときはしなやかに後方へ引かれる。足運びもあまりに軽やかで、地面に積もった枯れ葉は、かすかな音を立てるばかりで、ほとんど乱れていなかった。
彼女は華麗な一閃を終えると、無駄のないきびきびとした動作で剣を鞘に収めた。
カチン。
長剣は冷ややかな鞘の中へ、すっかり姿を隠した。
フア・ティン・ティーはゆっくりと振り返り、冷ややかな目で私を見た。
「今日はずいぶん時間どおりに来たのね」
私は手にした本を高く掲げた。
「一度約束したことは、必ず守るさ」
「また遊びに夢中になって、森の奥をうろついているんじゃないかと思っていたわ」
「遊ぶのは好きだけど、大事な約束まで忘れたりはしないよ」
彼女の視線が、私の肩に乗っている小さなリスへ移った。
「その子も一緒に、勉強しに来たの?」
リスはぎょっとして首をすくめ、私の襟元へ頭を深く潜り込ませた。
「まさか。俺は食べ物の匂いを嗅ぎに来ただけだ」
「少なくとも、この子は自分が本当に何を望んでいるのか、よく分かっているようね」
私は微笑みながらリスの頭を撫でた。言い返すつもりはなかった。
フア・ティン・ティーは軒下に置かれた質素な木の机へ歩み寄り、剣を置くと、真っ白な紙を一枚手に取った。
「そこに座って」
私は素直に椅子を引いて腰を下ろし、黒い炭筆を目の前に置いた。
「まずは、自分の名前を書いてみて」
私は炭筆を手に取り、深く息を吸い込んだ。
慎重にうつむき、震える手で、一画ずつ紙の上に筆を走らせる。
林。
趙。
斌。
三つの文字が、ぎこちなく白い紙の上に浮かび上がった。細い線と太い線はばらばらで、どこにも整ったところがない。最後の一文字に至っては、今にも倒れそうなほど傾いていた。
フア・ティン・ティーは身を屈め、しばらくその文字を眺めていた。
「目も当てられないほど下手ね」
私は勢いよく顔を上げ、唇を尖らせた。
「今、書き終えたばかりじゃないか。いきなり上手に書けるわけがないだろ」
「じゃあ、いつか勝手に上手くなるまで待てばいいの?」
「もう少し穏やかな言い方はできないのか?」
「無理ね」
彼女は私の紙を引き寄せ、別の筆を手に取ると、私の名前を改めて書き始めた。
三つの文字は、紙の上に整然と並んだ。力強く、はっきりとしていて、どの線にも明確な始点と終点がある。文字同士の間隔まで均等で、全体として実に美しかった。
私は目を見開き、じっと見入った。
「まるで絵みたいにきれいな字だな」
「これくらい、できて当然よ。誰にでもできなければならない基本だもの」
「だったら、どうして今まで自分から教えてくれなかったんだ?」
フア・ティン・ティーは鋭い目つきで私を横目に見た。
「今日まで、あなたが私に教えてほしいと言ったことなんて一度もなかったからよ」
私は少し考え込んでから、素直に頷いた。
「確かに、それは一理あるな」
彼女は紙の最初の文字を指さした。
「この『林』という字は、『木』を二つ組み合わせてできているの。あなたは左側のはねを一本書き忘れているわ」
私は顔を近づけ、文字をじっくりと見つめた。
「じゃあ、『趙』のほうは?」
「まずは一つ一つの部分を覚えなさい。一度に文字全体を丸暗記しようなんて欲張らないこと」
「最後の『斌』はどうするんだ?」
「その字は構造がずっと複雑で、書くのも難しいわ。後回しにしましょう」
私は眉を寄せた。
「どうして後回しなんだ?」
「今のあなたは、基本となる最初の二文字すら正しく書けていないからよ」
私はうつむき、辛抱強く筆を握り直した。
二度目に挑戦しても、文字は相変わらず哀れなほど歪んでいた。
三度目は、筆を動かす速度を抑え、先ほどよりゆっくり書くことを心がけた。
四度目になってようやく、フア・ティン・ティーは小さく頷いた。
「まあ、これならいいでしょう。少しは進歩したわね」
私は勢いよく顔を上げた。
「じゃあ、もう見栄えがよくなったか?」
「きれいと呼べるには、まだまだ遠いわ」
「それなのに、どうして進歩したって褒めてくれたんだ?」
「今回は、前より間違いがずっと少なくなったからよ」
私は苦笑した。
「君の口から褒め言葉を聞き出すのは、天に昇るより難しいな」
フア・ティン・ティーは聞こえなかったふりをして、別の白い紙を手に取り、落ち着いた筆遣いで大きく四つの文字を書きつけた。
天。
地。
人。
心。
私は、書き上げられた一文字一文字をじっと見つめた。
「この四文字なら、古書店にあった古い本で見かけたことがある」
「それぞれの意味を、きちんと理解しているの?」
「天は果てしなく広がる空、地は揺るぎない大地、人はこの世に生きる人間。じゃあ、『心』という字は……」
私はふと口をつぐんだ。
フア・ティン・ティーが、澄んだ瞳をこちらへ向ける。
「あなたにとって、『心』とは何を意味するの?」
「胸の中にある、あの臓器のことじゃないのか?」
彼女は小さく笑った。
「それは血の通った肉体の心臓のことでしょう」
「違うのか?」
「古い文字における『心』は、人の心根や考え、胸の内に秘めた思いや感情を指すことがあるの。それだけじゃない。物事の根本や、その奥底にある本質を表す場合もあるわ」
私は紙の上の「心」という文字を見つめた。
「それなら、人間は一人でいくつもの心を持つことができるのか?」
フア・ティン・ティーは目を丸くした。
「その質問には、いったいどんな深い意味が隠されているの?」
「例えば、他人にはとても礼儀正しく、親切に振る舞っているのに、心の奥底では悪意と陰謀に満ち、同じ人間を陥れようと企んでいる者がいたとする。そんな人間の本当の心は、いったいどこにあるんだ?」
彼女はしばらく、私の顔をじっと見つめていた。
「あなたの質問は、いつも厄介で、頭が痛くなるようなものばかりね」
「答えられないのか?」
「読み書きができて、いくらか物知りだからといって、この世のすべての物事の本質まで理解しているわけではないわ」
私は納得したように背中を丸め、何度か頷いた。
炭筆を手に取り、今度は「心」という字を慎重に書き直す。
最初の一画は、手が震えて少し傾いてしまった。
二画目は、短くぶつ切りになった。
そして最後のはねに差しかかったとき、力を込めすぎたせいで、うっかり紙を破ってしまった。
フア・ティン・ティーは、穴の開いた紙へ視線を落とし、それから私を見上げた。呆れ果てたような顔だった。
「筆で字を書いているの? それとも、紙と喧嘩でもしているの?」
私は気まずそうに頭を掻き、紙に開いた穴を見下ろした。
「字を書くときは、もっと力を入れなきゃいけないものだと思い込んでいたんだ」
「筆を操ることは、森で斧を振り回して薪を割ることとは違うのよ」
「分かった。悪かったよ」
彼女はため息をつき、新しい紙を一枚取り出して、破れた紙と取り替えた。
「最初からやり直し。今度は慎重にね」
私は深く息を吸い、気を引き締めて再び筆を走らせた。
すぐ隣では、小さなリスがいつの間にか机の隅に隠されていた栗を見つけたらしい。栗を一粒抱え込むと、夢中になってぽりぽりと頬張っている。飼い主が目の前で文字と格闘していようと、まるで気にも留めていなかった。
文字の稽古も終わりに近づいた頃、フア・ティン・ティーは突然筆を置き、木剣を手に取ると、私の目の前の机へことりと置いた。
「これを持って」
私は驚いて顔を上げた。
「おかしいな。今日は文字の勉強だけをするんじゃなかったのか?」
「文字を学ぶのも剣を学ぶのも、必要なのは同じ。どちらも忍耐が大切なのよ」
私は大人しく木剣を手に取った。
フア・ティン・ティーはすっと立ち上がり、私の正面に立つと、剣を握る姿勢をじっくりと観察した。
「肩を落として。腕をもう少し高く伸ばしなさい。肘を固く締めてはいけないわ」
私はすぐに言われたとおり姿勢を直した。
「左足を半歩前へ」
私はその指示に従った。
「右足は後ろでしっかり地面を踏みしめる。身体の重心を前足だけに預けてはいけないわ」
私は全身の重心を低く落とした。
フア・ティン・ティーが一歩近づき、指先で木剣の切っ先にそっと触れた。
「剣先がぶれて、軌道が安定していないことに気づいている?」
「見えているよ」
「では、原因は何だと思う?」
「腕をまっすぐに保てていないからかな?」
「それだけではないわ。無意識に肩へ力が入りすぎているのよ。肩が自然な状態でなくなると、腕の反応速度はひどく鈍くなるわ」
彼女は優しく二本の指を添え、私の肩を軽く押し下げた。
「身体の力をすべて抜きなさい」
私は深く息を吸い、最初から姿勢を整え直した。
今度は、手にした木剣が先ほどよりもずっと安定し、しっかりと静止していた。
フア・ティン・ティーは一歩後ろへ下がった。
「それじゃあ、腕をまっすぐ伸ばして、剣を正面へ突き出しなさい」
「振り回したりしなくていいのか?」
「ええ。その姿勢のまま、絶対に動かないこと」
私は歯を食いしばり、微動だにせず立ち尽くした。
一秒。
二秒。
三秒目になると、二の腕が重くなり始め、小刻みに震え出した。
フア・ティン・ティーは少し離れたところから、冷静に私を観察していた。
「もう腕が疲れてきた?」
「まだ……耐えられる」
「なら、そのまま続けなさい」
私は奥歯を強く噛みしめ、必死に耐えた。
腕の筋肉は次第に重くなり、まるで誰かに巨大な石を括りつけられたかのようだった。
フア・ティン・ティーには、私に腕を下ろして休ませるつもりなど、まるでないらしい。
「剣を持つというのは、ただ振り回して斬りつければいいと思っているの?」
私は息を切らしながら答えた。
「そ、それだけじゃない……力を保つ方法も、知らなきゃいけない」
「そのとおりよ」
彼女は歩み寄り、自分の木剣で私の手首を軽く叩いた。
「剣は武人の魂そのもの。台所の隅に転がっている薪とは違うのよ。好き勝手に握ったり、振り回したりしていいものではないわ」
私は歯を食いしばり、さらに何度か呼吸を繰り返しながら耐えた。
だが、ついに限界が訪れた。腕から力が完全に抜け、木剣を握る手がだらりと垂れ下がった。
それを見て、フア・ティン・ティーはようやく満足そうに頷いた。
「今日の稽古は、ひとまずここまでにしましょう」
私は疲れ切った手首をさすった。
「明日もここへ来て、稽古を続けていいか?」
「時間を守って来られるならね」
「必ず早く来るよ」
彼女は木剣を鞘に収め、それから不意に、先ほど私が懸命に書いていた紙へ目を向けた。
「心」の文字はまだ少し歪んでいたものの、最初に書いたときと比べれば、ずっと形が整い、はっきりと読めるようになっていた。
フア・ティン・ティーは手を伸ばし、その紙を取り上げて眺めた。
「これは持って帰りなさい」
「この紙を僕にくれるのか?」
「あなたが自分で書いたものじゃない。取っておかないなら、いったいどうするつもり?」
私は紙を受け取ると、丁寧に四つ折りにして、胸元へしまった。
「大切にするよ」
彼女は踵を返し、そのまま稽古場の奥へ歩いていった。
「破ったり、なくしたりしないでよ」
「分かっているって」
私は竹林の稽古場の門まで歩いていった。
だが、姿が完全に見えなくなる直前、ふと足を止めて振り返った。
「フア・ティン・ティー!」
彼女も足を止めた。
「今度は何?」
「今日の稽古、ありがとう」
フア・ティン・ティーは、決して振り返ろうとはしなかった。
「お礼を言うのはまだ早いわ。明日、今日覚えたことを厳しく確かめるから」
私は吹き出した。
「いいとも。怖くなんかないさ」
そして今度こそ竹林を後にしたとき、彼女はそれ以上、何も言わなかった。
昼近くになり、私は一人で山を下り、ラク・トゥイの船着き場へ向かった。ファム・フウ・テーを訪ねるためだった。
最初は、編み目がほつれてしまった籐籠の底を補強したくて、籐細工のちょっとした修繕方法を教えてもらうつもりだった。
ところが、船着き場の入口まで来たところで、思いがけない光景が目に入り、私は思わず足を止めた。
船をつなぐ石柱のそばに、見知らぬ男たちが集まっていたのだ。
全部で三人。
二人は粗末な濃茶色の衣をまとい、残る一人は頭まですっぽりと覆い隠す、漆黒の外套を身につけていた。
その黒衣の男こそ、以前、夜中に私の岩穴の周辺へ忍び込んできた、あの怪しい人物だった。
男は村の長老らしき老人と、冷たい声で何やら話していた。
私は愚かにも、そのまま近づいていくような真似はしなかった。
素早く身を翻し、組み立てかけの竹細工の露店の陰へ身を隠す。籐籠を品定めしているふりをしながら、様子を窺った。
黒衣の男の低く濁った声が、こちらまで聞こえてきた。
「我らが探しているのは、ただ一人の子供の行方にすぎぬ。お前たち村人が、何も知らぬまま無用に怯える必要はない」
長老は眉をひそめ、両手を合わせて尋ねた。
「皆様は、わざわざこのような辺鄙な土地まで来て、いったいどこの家の子供をお探しなのですか?」
「我らにとって重要な宝物が、この辺りで行方知れずになった。それを何としてでも取り戻さねばならぬ」
「では、その子供が皆様の持ち物を盗んだとでもいうのですか?」
「現時点では、まだ何とも言えぬ」
「はっきり分かってもいないのに、こうして大勢で村中を聞き回っているのですか?」
黒衣の男は一瞬、黙り込んだ。
「そんなこと、お前には関係のない話だ。余計な口を挟むな」
老人は怒りを込めて鼻を鳴らした。
「こちらの村までわざわざ足を運んで尋ね回るというのなら、せめて事情くらい筋道を立てて説明するのが礼儀ではありませんか!」
黒衣の男は、老人を冷たく睨みつけた。
その眼差しは、鋭く、残忍で、まるで小刀の刃のようだった。
長老は怯えたように、慌てて数歩後ずさった。
ひと目見ただけで、私はすぐに悟った。
この男は、各地を渡り歩いて商売をするような、普通の商人ではない。道を尋ねることもなく、品物を売り買いすることもなく、村人に愛想よく接しようとする様子もない。
男は、何者かを執拗に捜している。
そして、その標的は、おそらく私の命なのだ。
私は警戒を解かぬまま、目隠しの布の陰で、さらに半歩後ろへ下がった。
だが、まさにその緊迫した瞬間だった。
背後から、聞き覚えのある声が不意に飛んできた。
「おい、チエウ・バン?」
私はびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。
ゴー・タックが別の露店のそばに立っていた。肩には、どこかで拾ってきたらしい小さな薪の束を抱えている。
少年は私を不思議そうに見つめた後、遠くにいる見知らぬ男たちへ何気なく視線を向けた。
「こんな隅っこに隠れて、いったい何をしているんだ?」
私は慌てて人差し指を唇に当て、静かにするよう合図した。
「シッ! 声を出すな」
ゴー・タックはすぐに口を閉じた。事情を察すると、素早く身を寄せて私を露店の裏側へ引っ張っていった。
「いったい何があったんだ?」
私は声をできる限り低くした。
「あそこにいる黒衣の連中を知っているか?」
ゴー・タックは外の様子をちらりと窺った。
「いや、まったく知らない」
「じゃあ、あいつらに話しかけられたり、何か聞かれたりしたことは?」
少年はきっぱりと首を横に振った。
「ないよ。ただ、今朝、森の端で薪を拾っていたとき、あいつらに道を塞がれたんだ。森の中で一人暮らしをしている子供について、しつこく聞かれたよ」
私はゴー・タックをじっと見つめた。
「具体的には、何を聞かれたんだ?」
「あの子供を見たことがないか、って。それも、いつも小さなリスを肩に乗せている子供だと言っていた」
私は完全に口を閉ざした。
私の顔色が青ざめていくのを見て、ゴー・タックは何かを察したようだった。
「まさか……あいつらが必死になって捜している子供って、お前のことなのか?」
私は、否定の言葉を口にすることができなかった。
ゴー・タックは胸に抱えた薪の束へ目を落とした。
「あのときは……何も知らないって、首を横に振っておいたよ」
「ありがとう」
「お前、いったい何をやらかしたんだ? あいつら、こんなに大勢で血眼になって捜し回っているじゃないか」
「僕にもさっぱり分からない。本当に、何がどうなっているのか見当もつかないんだ」
ゴー・タックは私の顔をじっと見つめた。
「本当に知らないのか? それとも、わざと隠しているだけなのか?」
「僕はずっと森の中でひっそり暮らしてきただけだ。あいつらがどこから現れたのかなんて、知るわけがないだろう」
その正直な答えを聞いて、ゴー・タックはそれ以上問い詰める気にはなれなかった。
二人の子供は露店を覆う布の陰に身を潜め、見知らぬ男たちの一挙手一投足を緊張した面持ちで見守っていた。
そのとき、黒衣の男が懐から一枚の銀貨を取り出し、村人たちの目の前に掲げた。
「お前たちの中で、あの子供が普段どこへ出入りしているのか、正確に教えてくれる者がいれば、この銀貨はそいつのものだ」
漁村の住民の一人が、すぐさま激しく首を横に振った。
「私たちは一年中、漁の手伝いをして暮らしている身です。誰の家の子供がどうこうなんて、気にしている暇もありませんよ」
「なら、村の子供たちをここへ呼んで来い。話を聞く」
黒衣の男は周囲をぐるりと見渡した。
「子供というのは、いつだって好奇心旺盛で、あちこちを駆け回っているものだ。お前たち大人が思っている以上に、多くのことを知っているはずだぞ」
私はぎょっとして、発見されないよう慌てて身を低くした。
ゴー・タックが不安げに私を見た。
「これから、どうすればいいんだ?」
「何とかして、すぐにここからお前を逃がさないと」
「どうしてだよ?」
「万が一、あいつらに顔を覚えられたら大変なことになる」
ゴー・タックは胸に抱えた薪の束を見つめた。
「でも、これを母ちゃんのところへ持って帰らなきゃ……」
「僕も手伝うよ」
私はためらうことなく露店の裏側へ回り込み、ゴー・タックの手を引いて、小走りにその場を離れた。向かった先は、川岸へ続く細い裏道だった。
しかし、数歩進んだところで、鋭く冷たい声が突如として空気を切り裂いた。
「林趙斌」
全身が石のように硬直した。
あの忌々しい黒衣の男に、とうとう見つかってしまったのだ。
男は、私たちから十歩ほど離れた場所に、堂々と立ちはだかっていた。
ゴー・タックは慌てて私の背後へ退いた。
私は歯を食いしばり、仕方なく振り返った。
男はゆっくりとこちらへ歩み寄り、冷たい眼差しで私の頭から足先までを値踏みするように眺めた。そして、その視線は最後に、私の肩で震えている小さなリスへと止まった。
男の口元に、薄気味悪い笑みが浮かんだ。
「ようやく尻尾をつかんだぞ」
私は唇を固く結び、一言も返さなかった。
黒衣の男はさらに距離を詰め、低く濁った声で尋ねた。
「お前は、あの原生林の中で一人暮らしをしている子供だな?」
「そうだったら何だ。違ったら何だというんだ」
「以前、その辺りで俺たちの大事な品が行方知れずになった。お前、偶然それを拾ったりしていないだろうな?」
「何も見ていない」
「本当にそう言い切れるのか?」
「そもそも、お前が何を落としたのかさえ知らないんだ。どうして断言できる?」
男は細長い目をさらに細めた。
「では、古びた木箱を掘り当てたこともないというのか?」
心臓がぎゅっと締めつけられ、胸の内で激しく脈打った。
それでも、表情だけはどうにか平静を装った。
「そんなものは見ていない」
「お前が何日も続けて、北の森の辺りをうろついていたのを、この目で見たという者がいる」
私は顔を上げ、男を真っ向から睨み返した。
「森の奥や山の中をどこまで歩こうが、僕の自由だ。お前に何の関係がある?」
「そこを歩き回っていた以上、木箱に触れていないはずがない」
「見ていないと言ったら、見ていない!」
黒衣の男は、重苦しい沈黙に沈んだ。
私の顔に浮かぶわずかな表情の変化を、一つ残らず見逃すまいとするかのように、じっと観察している。何とかして私の目から、嘘の兆しを見つけ出そうとしているのだ。
しばらくして、男は突然口調を変え、猫なで声で誘いをかけてきた。
「今から素直に俺を、お前の隠れ家まで案内する気はないか?」
「絶対に嫌だ」
男は相変わらず、口元に作り笑いを浮かべたままだった。
「おとなしく従うなら、たっぷりと金をくれてやろう」
「お前の金になんて興味はない」
「食料も、まともな衣服も、銀貨も好きなだけ与えてやる」
「必要ない!」
男の顔から、たちまち笑みが消え失せた。
代わりに浮かんだのは、凍りつくような冷酷さと、むき出しの悪意だった。
男は一気に踏み込み、大きな手を伸ばして私の肩を乱暴につかもうとした。
私は本能的に後ろへ飛び退き、それをかわした。
しかし、男の動きは恐ろしく速かった。
ざらついた大きな手が、あっという間に私の手首を捕らえ、骨が軋むほど強く締め上げた。
「痛い目に遭いたくなければ、さっさと俺を隠れ家へ案内しろ。さもなければ、どうなるか分かっているな!」
手首に走った激痛に、私は思わず顔をしかめた。
力任せに振りほどこうとしても、子供の私にはとうてい抜け出せるような拘束ではなかった。
それを見たゴー・タックが、怒りに任せて大声を上げ、男に飛びかかった。
「そいつを離せ!」
すると、すぐ脇にいた茶色い衣の男が一歩前に出て、ゴー・タックの行く手を塞ぎ、容赦なく突き飛ばした。
「失せろ!」
ゴー・タックは勢いよく弾き飛ばされ、そのまま地面に仰向けに倒れ込んだ。
私は慌てて叫んだ。
「そいつに手を出すな!」
黒衣の男は苛立たしげに眉をひそめた。
「そこまで言うなら、無理やりにでも連れていくまでだ!」
私は狂ったように周囲へ目を走らせた。
村人たちは騒ぎに気づき、次第にざわめき始めていた。しかし、誰一人として助けに入ろうとはしない。
何が起きているのか事情も分からず、武器を携えた見知らぬ男たちと揉め事になることを恐れているのだ。
そのとき、私は隣の露店の脇に置かれた大きな木製の水桶に気づいた。
一瞬の判断だった。
私は全身の力を足元へ集中させ、拘束している男の足の甲を、踵で思いきり踏みつけた。
「ぐっ!」
男は痛みに反射的に身体をこわばらせ、ほんの一瞬だけ動きを止めた。
その隙を逃さず、私はすぐさま腰を落とし、肩をひねった。全身の重みを利用して、相手の腕を死角となる方向へ強引に引き抜く。
男の手から、一瞬だけ締めつける力が抜けた。
私は拘束を振りほどいた。
だが、逃げ出す間もなく、男は再び手を伸ばし、私の服の裾を乱暴につかもうとした。
追い詰められた私は、とっさに露店を覆っていた大きな布を力任せに引きずり下ろした。
ガラガラガッ!
籐籠や商品を入れた木箱が、次々と地面へ転がり落ち、辺り一面に散乱した。
男は崩れ落ちた品々に足を取られ、倒れかけた身体を支えるため、やむなく私をつかもうとしていた手を離した。
私はすぐに駆け寄り、ゴー・タックの腕をつかんで引き起こした。
「早く逃げるぞ!」
二人は混乱する人混みをかき分け、全速力で走り出した。
背後では、人々の悲鳴や怒号が響き渡っていた。
露店の主人が、壊された店先を見て怒鳴り散らしている。
道の真ん中に転がった籐籠に足を取られ、茶色い衣の男の一人が派手に転倒した。
私は、決して振り返ろうとはしなかった。
ゴー・タックの手を引き、川岸へ向かって無我夢中で走り続けた。目指す先には、フウ・テーの船が停泊しているはずだった。
その頃、フウ・テーは船着き場で何やら作業に取り組んでいた。
私たち二人が血相を変えて駆け込んでくるのを見るや否や、彼は手にしていた金槌を放り出し、勢いよく立ち上がった。
「いったい何があったんだ!?」
私は息を切らし、途切れ途切れに答えた。
「お……追われているんだ!」
フウ・テーはすぐさま、町の市場へ続く道のほうへ目を向けた。
黒衣の男が、ちょうど路地の入口に姿を現したところだった。
フウ・テーは事情を問いただすこともなく、即座に叫んだ。
「早く船に飛び乗れ!」
私とゴー・タックは慌てて小舟へ飛び乗った。
フウ・テーはすぐさま力任せに係留用の縄を引きちぎった。
「しっかりつかまっていろ!」
彼は櫂を水底へ強く突き立て、船を岸から一気に遠ざけた。
黒衣の男は死に物狂いで走ってきたが、すでに水上へ離れてしまった船には手が届かなかった。
男は足を止め、流されていく小舟に乗った三人の子供を、憎々しげに睨みつけた。
その眼差しは、短剣の刃のように鋭く、冷酷だった。
「絶対にあいつらを逃がすな!」
茶色い衣の男が水へ飛び込んで追いかけようとした。だが、その頃にはフウ・テーが櫂を猛烈な勢いで操り、船をすでに川の中央へ押し出していた。
洪水の後、川の流れは以前ほど激しくなくなっていたものの、それでも小舟を下流へ押し流すには十分な勢いが残っていた。
フウ・テーは全身の力を振り絞り、必死に櫂を動かした。
私は船底にへたり込み、大きく息を吸い込んでは吐き出していた。
ゴー・タックは船縁にしがみつき、血の気を失った顔で震えていた。
船が市場の船着き場から十分に離れ、安全な距離に達してようやく、フウ・テーは櫂を動かす手を緩めた。そして振り返り、私たちを見つめた。
「いったい何をやらかしたんだ? どうしてあいつらに、あんなに執拗に追い回されている?」
私は顔を上げ、友人を見た。
「あいつらが執拗に捜しているのは、僕なんだ」
フウ・テーは手にした櫂を強く握りしめた。
「それって、今朝、俺が話した連中のことか?」
「そうだ」
「どうしてあいつらがお前を捕まえようとしているのか、心当たりはあるのか?」
「間違いなく、あの木箱が原因だ」
フウ・テーは眉をひそめ、私をじっと見つめた。
「木箱って、いったい何のことだ?」
私は口を閉ざした。
もうこれ以上、フウ・テーに何もかも隠し通すことはできないと分かっていた。
しかし、今はまだ、事情をすべて打ち明けるのに適した状況ではなかった。
小舟はちょうど、川幅が狭くなった蛇行部分へ差しかかっていた。フウ・テーは進路を見極めるため、櫂の操作に意識を集中させなければならなかった。
「先に向こう岸まで渡してくれないか」
フウ・テーは力強く頷いた。
彼はさらにしばらく櫂を操り、やがて背の高い葦の茂みに囲まれた、人目につかない静かな砂州へ船を寄せた。
砂浜に足を下ろした途端、ゴー・タックは全身の力が抜けたように、その場へどさりと座り込んだ。
「今日が俺たちの命日になるんじゃないかと思ったよ……」
私は無意識に右手首をさすった。
そこには、先ほど男に強く握りしめられた跡が、赤黒い痣となってくっきり残っていた。
フウ・テーが何気なくそれに気づいた。
「手を怪我したのか?」
「大したことはないよ」
「よくそんなことが言えるな」
彼は近づいて私の手首を取り、慎重にあらゆる角度から確かめた。それからようやく、ほっと息をついた。
「よかった。関節は外れていないようだ」
私はうつむき、地面を見つめた。
「必死に抵抗して、何とか逃げようとしたんだ。でも、あいつの力があまりにも強くて、どうしても振りほどけなかった」
フウ・テーは真っすぐ私の目を見た。
「相手は大人だ。それに、武術の心得もあって、体格だってお前たち子供とは比べものにならない。お前が力負けしたのは当たり前だ。そんなことで自分を責める必要なんてない」
私は何も答えなかった。
フウ・テーは隣の砂浜に腰を下ろした。
「チエウ・バン。お前は何でもかんでも、一人で抱え込もうとしすぎなんだよ」
私は波立つ川面へ目を向けた。
「お前たちまで、こんな面倒事に巻き込みたくないんだ」
フウ・テーは勢いよくこちらを振り向き、咎めるような口調で言った。
「お前、本当に馬鹿なのか? それとも、わざと馬鹿なふりをしているのか? あいつらが村で好き勝手に人を脅して回っているのを見て、俺たちが黙ってお前を見捨てるとでも思ったのか?」
私は言葉を失った。
フウ・テーは呆れたようにため息をついた。
「俺たちにすべての秘密を話せとは言わない。でも、自分だけがこの世から切り離された存在だなんて、二度と思わないでくれ」
その真っすぐな言葉が胸の奥深くに突き刺さり、私は思わずうつむいた。
どう答えればいいのか、本当に分からなかった。
隣に座っていたゴー・タックは、落ち着かない様子で私たち二人を見比べた後、消え入りそうな声で口を開いた。
「お……俺、本当にごめん」
私は彼のほうへ顔を向けた。
「どうして謝るんだ?」
「今朝、あいつらにうっかり返事をしちまったから……。まさか、あいつらがお前を捕まえて、ひどい目に遭わせようとしている悪党だなんて、全然知らなかったんだ」
「お前は何も悪くないよ」
「でも、もし俺があいつらと出くわしていなかったら……」
私はきっぱりと首を横に振った。
「そんなこと、お前には関係ない。自分を責めるな」
ゴー・タックはうつむいた。
どうやら、まだ罪悪感を拭いきれないらしい。両手は無意識のうちに、腰に提げた布袋を強く握りしめていた。
フウ・テーは勢いよく立ち上がり、服についた砂を軽く払い落とした。
「ここに長居するわけにはいかない。俺がゴー・タックを南側の裏道から村まで送り届ける。その後、お前は……」
私は友人を見上げた。
「僕は岩穴へ戻る」
フウ・テーは断固として首を横に振った。
「絶対に駄目だ。あいつらはもうお前の顔を覚えているし、森の中で暮らしていることまで突き止めている。岩穴へ続く道には、間違いなく見張りを配置して待ち伏せしているはずだ」
私は霞のかかった山並みへ目を向けた。
「奴らには知られていない、別の秘密の山道があるんだ」
「それなら、しばらく一緒に行こう」
私は素直に頷いた。
空はすでに夕暮れの色に染まり始めていた。フウ・テーはゴー・タックを連れ、南にある静かな小さな集落まで送り届けた。
別れ際、ゴー・タックは布袋の中へ手を入れ、一つの品を取り出して私に差し出した。
それは、小さな木彫りのウサギだった。
小刀で手作りされたものらしく、長い耳の片方は少し傾いていた。
ゴー・タックは照れくさそうに、それを私の前へ差し出した。
「俺が自分で彫ったんだ」
「僕にくれるのか?」
「ああ。ちょっと不格好だけど……」
「でも、僕にはとてもきれいに見えるよ」
ゴー・タックは私の手の中にある木彫りのウサギを見つめた。その瞳は、今にも涙がこぼれそうに潤んでいた。
「この前、罠にかかっていたウサギのことを忘れないように、作ったんだ……。俺、誓うよ。これからは二度と、むやみに罠を仕掛けて動物を捕まえたりしない」
私は優しく微笑んだ。
「それはよかった」
ゴー・タックは顔を上げ、私を見つめた。
「いつかまた会える機会があったら、今度はもっと上手で、ずっときれいなウサギを彫ってやるよ」
「分かった。楽しみに待っているよ」
少年は小さく頷くと、くるりと背を向け、村の外れにある、薄明かりの灯る小さな家へ向かって、とぼとぼと歩き出した。
私はその背中が遠ざかっていくのを、黙って見送った。
フウ・テーが近づいてきて、私の肩を軽く叩いた。
「行こう。俺たちも日が暮れきる前に出発しないとな」
二人は深い山林へ続く小道へ足を踏み入れた。
しばらく歩き続けた後、フウ・テーはとうとう我慢できなくなったように、声をかけてきた。
「もういいだろう。今度こそ、この厄介な出来事について、何もかも正直に話してくれないか?」
私はゆっくりと頷いた。
そして、奇妙な灰色の衣をまとった連中のこと、古い松の根元に埋められていた木箱のこと、さらには古びた地図と、そこに記されていた不可解な紋様について、フウ・テーに一部始終を語って聞かせた。ただし、あまりにも危険な一部の事情については意図的に伏せ、謎めいた灰色の衣の少女についても、詳しくは話さなかった。
フウ・テーは終始、真剣な面持ちで耳を傾けていた。話が進むにつれて、その表情には次第に深い思案の色と、緊迫感が浮かび上がっていった。
私が話し終えると、彼は長い間黙り込んだ。
「つまり、あいつらはこの森のどこかに埋められた何かを、血眼になって捜し回っているということか」
「おそらく、そういうことだろうな」
「そして、その品をお前が隠し持っているか、少なくとも隠し場所を知っているんじゃないかと疑っているわけだ」
「僕にもさっぱり分からない。そんなこと、知る由もないんだ」
フウ・テーは足を止め、こちらへ振り返った。
「チエウ・バン。あいつらの背後で糸を引いている黒幕と、実際に顔を合わせたことはあるか?」
「一度もない」
「だったら、なおさら慎重に身を隠さなきゃならないな」
フウ・テーは声を引き締めた。
「森の奥にいる一人の子供を捜し出すために、あれほど凶暴な連中を大勢動かせる人間だ。ただ者であるはずがない。下手に手を出していい相手じゃないぞ」
私は力強く頷いた。
「それくらい、ちゃんと分かっているよ」
フウ・テーはしばらく考え込んでいたが、不意に決意したような口調で告げた。
「明日、こっそりお前の岩穴まで行ってみるよ」
「何をしに来るんだ?」
「お前の隠れ家へ続く道が本当に安全なのか、それとも、すでにあいつらに見張られたり、待ち伏せされたりしているのかを確かめるんだ」
「そこまで面倒をかける必要はないよ」
「俺がそうしたいと言っているんだ。お前に必要かどうかなんて、聞いていないぞ」
私は思わず吹き出した。
「日に日に、フア・ティン・ティーそっくりの物言いになってきたな」
「フア・ティン・ティー? それはいったい何者なんだ?」
「たまたま知り合った、剣術にとんでもなく秀でた女剣士だよ」
「お前、剣の達人とまで知り合いなのか?」
「ああ」
「お前というやつは、本当に妙な出来事に巻き込まれたり、妙な人間と出会ったりすることが多いな」
私は、夜霧に霞んだ目の前の小道へ視線を向けた。
「自分でも、つくづく不思議な人間だと思うよ」
夜の帳がすっかり万物を覆い尽くした頃、私は渓流沿いの曲がりくねった道をたどり、ようやく岩穴へ戻った。
いつものように、燃え盛る大きな焚き火を起こすことは決してしなかった。
隠し場所にしまってある大切な品々を、岩のくぼみ一つ一つまで慎重に確認し終えてから、ようやく初級の教本を取り出した。
右手と左手首には、まだ鈍い痛みが残っていた。
私は最初の頁を開き、今日覚えたばかりの文字をじっと見つめた。
天。
地。
人。
心。
右手で黒い炭筆を握る。
私は歯を食いしばりながら、白い紙の上に自分の名前を丁寧に書き記した。
今度は、三つの文字が以前よりもずっと整い、力強く書けていた。
私はしばらく、その文字を眺め続けた。
やがて唇を軽く噛み、すぐ下に短い一文を書き加えた。
――決して、他人に自分の進むべき道を勝手に決めさせてはならない。
文字はまだ拙く、決して美しいとは言えなかった。
それでも、その一文は本を開いて確かめることもなく、自分の手で書き上げたものだった。
小さなリスはすぐ隣で丸くなっていたが、ふと頭を持ち上げ、紙の匂いをくんくんと嗅いだ。
「さっきから何をぐちゃぐちゃ書いているんだ?」
「心に刻んでおかなければならないことを書いているんだ」
「いったい何だよ?」
私は顔を上げ、今にも消え入りそうな炭火の赤い光を見つめた。
「自分にとって大切なものを守りたいのなら、まずは自分自身の命を守る術を身につけなければならない、ということさ」
リスはしばらく考え込むように黙っていたが、やがて面倒くさそうに身体を伏せた。
「この知恵者である俺の意見としては、まず食べ物と着るものを確保してから、次のことを考えるべきだな」
私は思わず声を上げて笑った。
それから、紙を丁寧に折り畳み、教本の中へきちんと挟んだ。
岩穴の外では、広大な原生林が相変わらず、重苦しい静寂と闇に包まれていた。
だが、私の胸の内では、かつて当たり前のように存在していた穏やかで何の憂いもない日々が、すでに二度と元には戻らないほど変わり始めていた。
あの連中は、すでに私の素性を突き止めている。
漁村の市場にまで捜索の手を伸ばしてきた。
そして、無遠慮に私の手首をつかみ、自分たちの思いどおりに従わせようとした。
私は無意識に手を伸ばし、赤黒い痣の残る手首をそっと撫でた。
恐怖で震え上がり、膝が崩れそうになるほど怯えていたわけではない。
けれど、これまで一度も本当の意味で理解していなかった、大きな教訓を思い知らされた。
この世には、お前が何者なのか、罪があるのかないのかなど、まったく気にも留めない人間がいる。
そいつらは、ただお前という存在そのものが、自分たちの企みを進めるうえで邪魔になっていると信じ込んでいるだけなのだ。
そんな相手を前にしては、どれほど筋道を立てて事情を説明したところで、何の意味もない。草芥よりも軽く、取るに足らないものとして踏みにじられてしまう。
同じ頃、ラク・トゥイの船着き場から北へ離れた場所にある、厳重に戸締まりされた一室では、黒衣の男が沈香の木で作られた机の前に立ち、腕を組んで思案に暮れていた。
その足元には、信頼する配下の一人が恭しく平伏していた。
「大人、ご報告申し上げます。我らは先ほど、市場にてあの子供と接触いたしました」
「目当ての品は取り戻したのか?」
「申し訳ございません。まだでございます。あの子供はひどく頑固で、最後まで頑として協力しようとしませんでした」
黒衣の男は、配下を冷ややかに見下ろした。
「お前たち、あの子供にどのような手段を使った?」
「森の奥へ無理やり連れ込み、そこで厳しく問い詰めるつもりでございました。しかし、その途中で地元の少年たちが邪魔に入り、計画を台無しにされてしまいました」
「この大事を台無しにしたのは、いったい何者だ?」
「川辺りで暮らしている少年たちにございます。そのうちの一人が小舟を使って、あの子供を逃がしてしまいました」
黒衣の男は、節くれだった指で木の机をとんとんと叩いた。
「その子供は、お前たちの顔をはっきりと見たのか?」
「は……はい。間違いなく、全員の顔を見られております」
「ならば、これ以上、行方不明の者を捜しているなどという下手な芝居を続ける必要はない」
配下は驚いたように顔を上げた。
「それは、つまり……?」
「我らはすでに、あの子供が森のどこに身を潜めているのかを突き止めている。だが、肝心の宝物をどこへ隠したのかまでは、まだ分かっていない」
男は懐に手を差し入れ、小さな紙片を取り出すと、机の上へ無造作に放り投げた。
そこには、炎を象った紋様が刻まれた鉄の指輪が、簡素な線で描かれていた。
「あの子供は、裏切り者の老鍛冶師と何らかの接点があった可能性が高い」
配下は恭しく頭を下げた。
「承知いたしました。明日、ただちに人員を派遣し、その老鍛冶師を追跡、始末いたします」
「無駄な時間を費やす必要はない」
黒衣の男は、真っ暗な窓の外へ冷ややかな視線を向けた。
「老鍛冶師は、とっくの昔に荷物をまとめて逃げ去っている。今も我らの目の前にあるのは、あの原生林のどこかにしぶとく身を隠している子供のほうだ」
男はゆっくりと手を引いた。
「次こそ、絶対に逃がすな。二度と逃げる機会を与えるな」
そして、まさにその頃、深い原生林のさらに奥では、一人の孤独な旅人が、枯れ葉の積もった細い山道を馬に乗ってゆっくりと進んでいた。
長い外套には、長旅の埃と風雨の跡が染みついている。腰には、古びて鞘にも傷の目立つ長剣が無造作に差されていた。
その男は、黒衣の男が率いる一団とはまったく別の道を歩んでいた。木箱を捜し回っている連中の仲間を示すような印も、身につけてはいなかった。
やがて、山道が三つに分かれる分岐点へ差しかかると、男は手綱を引いて馬を止めた。
道端に立つ古い松の幹には、四本の横線がくっきりと刻まれていた。
男はゆっくりと馬から降り、節くれだった指先で、その刻み目にそっと触れた。
それから、霧に覆われた山の頂へ、深く沈んだ眼差しを向けた。
しばらく静寂が流れた後、男は独り言のように、小さく呟いた。
「どうやら……一足、遅かったようだな」
男は手綱を引き、再び馬を歩かせた。その姿は、やがて広大な森の深い闇へと静かに溶け込んでいった。
今夜、この原生林には、また一人、新たな旅人が足を踏み入れた。
ただし、この旅人は、行方知れずとなった宝物を捜しに来たわけではない。
彼が執念を燃やして捜し求めているのは、一人の子供だった。
そして、その運命的な邂逅こそが、林趙斌に残された最後の平穏な日々に、永遠の終止符を打つことになる。




