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Episode 8

 大密林から巻き起こった風が、灌江口(かんこうこう)の切り立った断崖を吹き抜け、長く咆哮を上げる。山の麓では、大河が万匹の怒れる青龍のごとく轟音を響かせ、岩肌を激しく打ち付けていた。ここには人間界の霊気が濃密に凝縮され、朦朧とした霧と化して、建立されたばかりの社殿を包み込んでいる。万の民家から立ち上る線香の煙が風に交じり、霧散することなく、眩い黄金の神光(しんこう)へと凝縮され、この独立した領土を守護していた。

 広大な境内の真ん中に、微動だにしない古の霊山のごとく、一人の影が厳然とそびえ立っていた。**楊戩(ようせん)**である。

 彼は黒金の戦甲を身に纏い、胸甲に刻まれた古の紋様からは血気の暗赤色の光がかすかに放たれていた。右手は**三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)**を固く握りしめ、その刃先は青石の床に三寸深く突き刺さり、滴る霧の滴を両断するほどの鋭い寒芒(かんぼう)を放っている。両目を固く閉じているが、眉間が微かに動き、縦の傷痕の奥に隠された第三の目――「天眼」が絶えず震えていた。まるで九重天(きゅうちゅうてん)から押し寄せる恐るべき圧力を察知したかのように。

「来たる者は、凌霄宝殿(りょうしょうほうでん)の腐臭を放っているな。反吐が出る」

 楊戩の声は低く沈んでいたが、空間全体を震撼させ、荒れ狂う灌江の波さえも一瞬にして静まり返らせた。

 フッ――!

 万里に広がる天空が突如として眩い黄金の神光に染まった。北の彼方から五色の瑞雲が急速に流れ込み、太陽の光さえも覆い隠す。その人工的な太陽の中心から、白髪白髭を蓄え、天衣の道袍(どうほう)を身に纏い、手に払子(ほっす)を持った一人の老人が舞い降りた。

 **太白金星(たいはくきんせい)**である。

 この天庭の大使の一歩一歩が、周囲の空間に神力の波紋を広げていく。彼の背後には、十万の天兵が整然と陣を組み、甲冑をきらめかせ、日中に響く雷鳴のごとく軍鼓を激しく打ち鳴らしていた。三界を統べる勢力の圧倒的な威圧が灌江口へと圧しかかり、周囲の万民は震え上がり、抗う術もなく地に平伏して神明の赦しを乞うた。

 ただ楊戩だけが、依然として直立していた。その背骨は決して折れぬ神剣のごとくまっすぐに伸びている。彼は目を開き、その冷徹な眼光は短刀のごとく、太白金星の偽りの温和な顔に突き刺さった。

「楊戩、流石は神族の血筋を引く気概よ」

 太白金星は微笑んだ。その声は青銅の鐘のごとく響き渡り、和解の意を含みつつも威嚇を孕んでいた。彼は純金で作られた巻物――**九龍金色旨(きゅうりゅうこんじきし)**をゆっくりと広げた。そこからは九匹の金龍の気配が放たれている。

「玉皇大帝の詔である。楊戩は南方平定の功績を立てた。よってここに『二郎顕聖真君(じろうけんせいしんくん)』に封じ、万民の香火を受け、灌江口を統治することを許す。しかし、天規(てんき)は厳格である。この冊封を受けるには、この神榜(しんぼう)に署名し、自らの命魂(めいこん)の一条を捧げて天規に帰順せねばならぬ。その代わり……」

 太白金星は言葉を区切り、その瞳に奇妙な光を宿らせた。

「……玉皇大帝は恩慈を垂れ、お前の母、瑶姫(ようき)の残魂を桃山(とうざん)の麓の刑罰から解き放ち、輪廻転生へと向かわせることを許される」

 ドォン!

 楊戩の体から殺気が爆発した。彼の力によって周囲の大地は深く亀裂を刻み、引き裂かれた。彼の胸中では、「孝」の一文字と「狂」の一文字が激しく葛藤し、引き裂かれていた。この契約に署名すれば、母を救い出すことはできる。しかし、永遠に天庭の首輪を繋がれた猟犬に成り下がる。署名しなければ、母の残魂は万年にわたり業火に焼かれる苦痛を受け続けねばならない。

「楊戩、何故いまだに跪いて詔を受けぬか!」太白金星が大喝し、背後の十万の天兵が一斉に咆哮を上げ、その威勢は天地を揺るがした。

 楊戩が決断の岐路に立たされていたその時、太陽の光が一切届かぬ、遥か深淵の地――天牢(てんろう)の最奥。

 地下第十八層の監獄は、歴史上最も危険な重罪人たちが幽閉されている場所であり、冷徹と悪臭に満ち、重々しい鉄鎖の音だけが響いていた。しかし、その最も深い片隅で、赤き布――**混天綾(こんてんりょう)**で作られた手製のハンモックに身を横たえ、両足を組み、口に枯れ草を咥えた一人の若き道士が、極めて退屈そうにしていた。

 ゲンソン・ジェスダ。

 世界中の者が彼を「狂った道士」と見なし、廃天宮を大暴れした罪で投獄された囚人だと思っている。だが、その愚鈍な仮面の裏に、無極(むきょく)という概念さえも超越した力を持ち、時間と因果の輪廻の外側に立つ存在であることを知る者は一人もいなかった。

 ゲンソンは口元を微かに歪めて笑った。その漆黒の瞳は、星々が崩壊する銀河そのものを宿しているかのようだった。目に見えぬ天眼のレンズを通して、彼は灌江口の陰謀をすべて見抜いていた。

「凌霄宝殿の羽虫どもが、また汚い真似を。あのいわゆる九龍金色旨の正体は、封神榜(ほうしんぼう)に直結された命魂の枷に過ぎん。楊戩が筆を執り署名した瞬間、彼と灌江口のすべての気運は吸い尽くされ、来たるべき大劫(たいごう)の糧とされるのだ」

 ゲンソンは軽く首を振り、独りごちた。

「俺の駒に、誰が手を出すことを許した?」

 彼は気怠そうに、人差し指を軽く弾いた。

 人差し指の先に、小さな黒い炎――**混沌真火(こんとんしんか)**が現れた。そこには何の熱気もなかったが、その出現により監獄内のすべての物理法則、空間、時間が完全に歪められた。その黒い火種は虚空を突き抜け、音もなく灌江口へと直接出現した。

 フッ――!

 真君廟の境内にて、楊戩がまさに頭を垂れて詔を受け入れようとしたその瞬間、太白金星の手にあった純金の巻物が突如として激しく燃え上がった。奇妙な黒い炎が、金龍の神力をことごとく焼き尽くしていく。太白金星は悲鳴を上げ、慌てて手を離した。

 十万の天兵が愕然とする中、玉皇大帝の神聖なる詔は一瞬にして灰燼に帰した。しかし奇妙なことに、その灰は宙に留まり、圧倒的な覇気を放つ大古の文字(洪荒古字)へと姿を変えた。

『天命無常――真君自治!』

 同時に、万里を隔てた桃山の地底深くから、神龍の咆哮が響き渡った。神聖な母の温もりを宿した柔らかな一条の光が天規の枷を打ち破り、天空を翔けて、楊戩の妹――楊嬋(ようせん)の手に握られた**宝蓮灯(ほうれんとう)**の中へと直接飛び込んだ。

「お母様……」楊嬋は声を漏らし、その絶世の美貌の頬を熱い涙が伝った。母の残魂が今や蓮華の神火の加護のもと、安全に匿われたことを彼女は確かに感じ取った。

 その光景を目撃した楊戩は、全身に衝撃が走った。誰が救いの手を差し伸べたのかは分からなかったが、自らを縛り付けていた最後の枷が完全に粉砕されたことを彼は悟った。

「ハハハ……!」

 楊戩は高笑いした。その笑い声には、百年もの間、耐え忍んできた鬱屈を晴らす痛快さが込められていた。彼は三尖両刃刀を高く掲げた。天地を崩壊させるほどの破壊力を宿した一太刀が振り下ろされ、天空を真っ二つに引き裂き、太白金星の人工の太陽を完全に両断した。背後の十万の天兵はその余波によって万里の彼方へと吹き飛ばされ、甲冑は粉々に砕け散った。

「太白の老いぼれめ!戻って貴様の玉皇大帝に伝えるがいい!」楊戩は天庭の使者の顔に刃先を突きつけ、一言一言を噛み締めるように言い放った。

「この楊戩、下界の万民の前で誓おう。今日より我が灌江口は、調を聴きて宣を聴かず(ちょうをききてせんをきかず)!俺はただ、民草の願いに耳を傾け、魔を滅ぼし姦邪を討つのみ。凌霄宝殿の指図など断じて受けぬ!我が領土を侵す者があれば、神であろうと鬼であろうと、悉く誅殺する!」

 太白金星は顔面蒼白となり、混沌真火に焼かれた腕を抱えながら、敗残兵を引き連れて命からがら天へと逃げ帰った。

 外の世界が楊戩の天に背く誓いによって揺れ動いている頃、天牢の最深部では、全く異なる空気が流れていた。それは息苦しく、熱く、原始的な欲望に満ちた空気であった。

 ゲンソンが先ほど、因果に介入するために混沌の力を極めて僅かに使用したため、漏れ出た混沌の気配が、偶然にも**哪吒(なた)**の体内に施されていた古の封印を起動させてしまったのである。

 その時、哪吒は牢獄の扉の外で警備に当たっていた。彼女は突如、自分の体が太上老君(たいじょうろうくん)の錬丹炉に投げ込まれたかのように熱くなるのを感じた。本来、彼女の体を「半神半人」の無性別の状態に保っていた蓮華の力が、ゲンソンから漏れ出た混沌の気配に洗われることで、融解し始めたのだ。

「あ……熱い……私に、何が起きているの……」

 哪吒は小さな喘ぎ声を漏らし、手にしていた火尖槍(かせんしょう)が床にカランと崩れ落ちた。彼女の神体は、自らの目の前で猛烈に変貌を遂げ始めた。無骨で硬い鉄甲が自然とひび割れ、破片となって剥がれ落ちていく。

 本来は蓮の根の白さを持っていた肌が、今は妖艶な桃色に上気していた。きつく引き締まった二つの膨らみが、鮮やかな赤の胸当ての奥で、熟した桃のごとく、次第に豊満に、そして張りを持たせて上下に激しく波打つ。引き締まった細い腰はさらにくびれ、本物の成熟した女の、人を惑わすような曲線を描き出した。破れた衣の裾からは、まっすぐで白く滑らかな美脚が露わになる。

 彼女は地面に崩れ落ち、息を荒くした。本来は傲慢だった瞳は、今や欲望の霧に濡れている。彼女は牢獄の中を見上げた。そこにはゲンソンが佇み、深く、妖しい眼差しで彼女を見つめていた。

「ゲンソン……助けて……体が……」哪吒はかすかに呼びかけた。その声には、もはや戦神としての荒々しさはなく、愛を乞う少女のように柔らかく、甘えていた。

 ゲンソンは静かに牢獄の外へと歩み出た。彼が通り過ぎるたびに、数千年耐えた玄鉄の鉄鎖が自動的に灰へと変わっていく。彼は屈み込み、片手で哪吒の顎を持ち上げ、もう一方の手を彼女の柔らかい髪に滑り込ませた。

「哪吒、お前は元々、天地開闢の折、俺の混沌の池から咲いた最も清らかな蓮華だった」ゲンソンの声は低く、女神さえも堕落させる絶対的な魅力を孕んでいた。「今世、奴らはお前に冷徹な鉄甲を纏わせ、無性別の戦争兵器として扱った。それに満足しているのか?」

「私は……嫌、そんなの……」哪吒の紅い唇が震えた。彼女はゲンソンから放たれる引力に抗うことができなかった。彼の気配こそが、彼女の生命の源流なのだ。

「ならば、お前に真の自己を返してやろう」

 ゲンソンは顔を伏せ、哪吒の柔らかい唇を奪い、激しく、情熱的な口づけを交わした。哪吒は震えながらすべてを捧げ、しなやかな腕を彼の首に絡ませ、彼を胸へと引き寄せた。彼女は自ら進んで唇を開き、砂漠の中で清らかな泉を見つけた渇望者のように、彼の舌と絡み合った。

 ゲンソンが手を振ると、赤き布・混天綾が自動的に飛び来たり、二人を包み込んだ。冷え切った牢獄の空間を、外界から遮断された温かい赤の繭へと変える。

 その桃色の繭の中で、二人の最後の衣が滑り落ちた。ゲンソンの完璧で、引き締まった、男らしさに満ちた肉体が、哪吒の白く滑らかな肌へと押し当てられる。二つの熱量が衝突し、互いを焼き尽くんばかりに燃え上がった。

「ん……優しくして……ゲンソン……」

 甘い喘ぎ声は、野生的な口づけによって飲み込まれていった。ゲンソンは荒々しくも愛おし気に、蓮華の戦神の完璧な肢体を奪い去っていった。彼が彼女の体の奥深くへと突き入れるたびに、彼の無極の力が沸き立ち、哪吒の蓮華の元神(げんしん)と融合し、彼女をかつて経験したことのない極楽の境地へと導いていく。

 ゲンソンの導きのもと、哪吒は冷徹な戦神としての自己を完全に捨て去った。彼女は自ら彼の腰を固く抱きしめ、心の中に君臨する唯一の男の激しい突き上げに合わせて、しなやかに腰を揺らした。上気した肌に真珠のような汗の粒が煌めき、甘い喘ぎ声が暗闇の牢獄に二時間にわたって響き渡った。鉄鎖がぶつかり合う音と交じり合い、欲望と激しい愛の協奏曲を奏でる。

 潮が最も高く満ち引きしたのち、哪吒はゲンソンの胸に頭を預け、本物の女としての満足と幸福に満ちた表情を浮かべていた。彼女は彼の胸にある薄い傷跡を優しく撫でながら、囁いた。

「ゲンソン、もしある日、世界があなたを狂人ではないと気づいたら、彼らはあなたを滅ぼそうとするわ」

 ゲンソンは低く笑い、彼女の露わな肩を愛撫しながら、黒石の天井を見つめた。

「俺を滅ぼすだと? 奴らにはその資格などない。時が来れば、俺自身がこの天空を握り潰し、すべてを再構築してやる。その時、お前と姉妹たちは、俺と共に無限の頂点に君臨するのだ」

 メキメキ……バリバリ……!

 南天門(なんてんもん)の上空、そして三界の全域に、突如として巨大な濃紫色の亀裂が現れた。まるで巨大な鏡を、誰かが大槌で激しく叩き割ったかのようである。

 その空間の裂け目から、骨の髄まで凍りつかせるような、天を衝く殺気が溢れ出した。凌霄宝殿の諸神、霊山の仏陀たち、さらには深奥の洞府に隠棲する大能(たいのう)たちまでもが一斉に目を開き、驚愕の面持ちで天空を見上げた。

 その空間の裂け目から、暗黒の光を放つ古の巻物がゆっくりと姿を現した。それは黄金の神光ではなく、死と破滅を象徴する紫黒色を帯びていた――**封神榜(ほうしんぼう)**の初期の本体である。

 本来の軌道(原作)であれば、人間界での準備が整う三年後に、戦死した神仙の魂を集めるために出現するはずであった。しかし今、ゲンソン・ジェスダという最大の変数(異数)が灌江口と天牢の因果を狂わせたため、天道が前倒しで起動してしまったのだ。

 ゴゴゴゴゴ……!

 九重の雲の狭間に巨大な「天道の眼」が現れ、冷酷に三界を見下ろした。それは朝歌(ちょうか)にある紂王(ちゅうおう)の王宮を無視し、勃興しつつある西岐(せいき)をも通り過ぎ、そして……天庭の天牢の真上でピタリと止まった。

 天道の意志は、制御不能な異数の存在を感知した。監獄の奥で、蓮華の戦神・哪吒を抱きしめている男の存在を。

 バリッ!ドガァン!

 何百匹もの黒龍が絡み合ったかのような、巨大な黒い神罰の雷(黒雷神罰)が九重の雲から天牢へと直撃した。この雷の一撃は、一瞬にして大羅金仙(だいらきんせん)をも消滅させるに足る威力を持っていた。

 牢獄の中、ゲンソンは哪吒をそっと押しやり、ゆっくりと立ち上がった。彼は破れた道袍を身に纏い、その唇の端を野生的な傲慢さを湛えた曲線へと歪めた。彼の両目には、漆黒の混沌真火が燃え盛っている。

「来たか。ゲームの本番が、ようやく始まるな」

 ゲンソンは牢獄の一歩外へ踏み出し、片手をまっすぐ天空へと突き上げ、降り注ぐ黒雷を狂気的な笑みで迎え撃った。

 神罰の黒雷が天牢を飲み込み、万里の暗雲が三界を覆い尽くす。ここに、予定よりも早く、「封神大劫」の鉄の幕が正式に切り落とされた――。

 蒼天は本来、遥か高みにそびえ立ち、千年にわたり一筋の濁りすら留めぬものであった。しかし、この瞬間、九重天(きゅうちゅうてん)の天穹(てんきゅう)は、まるで朽ち果てた絹織物の絵巻が見えざる残酷な手によって無残に引き裂かれるかのように変貌していた。

 天牢の深淵から噴出した気配は、狂風暴雨でもなければ、眩い烈火でもなかった。それは、絶対的な「虚無」であった。身の毛もよだつほどに静まり返ったその気配が広がり、あらゆる音を呑み込み、時間と空間のすべての法則を窒息させていく。九十九重の雲海は、瞬く間に完全な死寂(しじゃく)の地へと化した。

 凌霄宝殿(りょうしょうほうでん)に座す玉皇大帝は顔面蒼白となり、冷や汗が龍袍(りゅうほう)をぐっしょりと濡らしていた。彼は狂ったように神勅を下し、天庭に残されたすべての兵力を動員する。二十八宿(にじゅうはっしゅく)、九曜星君(くようせいくん)、四大天王(しだいてんのう)、 Upper 天兵天将――総勢十万の軍勢が雲を裂いて姿を現し、天牢の上空を完全に封鎖する「天羅地網大陣(てんらちもうたいじん)」を結成した。

 幾万もの鋭い矛先が冷徹な寒芒を放ち、幾万の法宝が眩く輝いて、巨大な殺気の塊へと凝縮されていく。それは、詔に背く大羅金仙(だいらきんせん)であっても一瞬で粉砕せしめるほどの威力を秘めていた。彼らはそこに立ち、天道の意志を、そして侵すべからざる九重天の強固な鳥籠を体現していた。

 しかし、その幾重にも重なる包囲網の中心に、ゲンソン・ジェスダは諸神を絶望へと叩き落 thắt姿で現れた。

 彼は歩くでもなく、空を飛ぶでもなく、修仙界のいかなる御風(ぎょふう)や撥雲(はつうん)の術をも使わなかった。彼の姿はただ……「滑る」ように移動していた。重力を一切持たぬ見えざる風のごとく、静寂の虚空を滑りゆくその様は、極めて瀟洒(しょうしゃ)であり、この上なく気怠げであった。しかし、その風が吹き抜ける場所では、空間がまるで薄い硝子の鏡のように瞬時にひび割れていく。ピキピキと不気味な音が連続して響き渡り、砕け散った空間の破片がハラハラと崩れ落ち、その奥から原生混沌(げんせいこんとん)の漆黒の深淵が顔を覗かせた。

「邪魔を誅殺せよ!」四大天王が咆哮し、一斉に宝錘を振り回し、琵琶を掻き鳴らし、法宝を繰り出した。十万の天兵も怒号を上げ、無数の雷電と天火を、ボロを纏った道士目掛けて一斉に浴びせかける。

 ゲンソンは指一本動かそうとしなかった。瞬き一つせず、避ける素振りすら見せない。ただその口元に薄い笑みを浮かべていた。それは、泰山(たいざん)に噛みつこうともがく羽虫の群れを上空から見下ろす、創世主の冷徹な嘲笑に似ていた。

 そして、彼は目を開いた。

 天幻滅世無極眼(てんげんめっせいむきょくがん)。

 それはもはや、いつもの深淵のごとき黒い瞳ではなかった。 彼の瞼が上がった瞬間、三界のすべての光がその両の眼窩(がんか)へと吸い尽くされたかのようだった。ゲンソンの瞳は、至高の皇族を思わせる金色の輝きを帯びた、幻想的な紫色へと変貌していた。その眼の中に瞳孔はなく、代わりに無数の銀河が誕生しては崩壊を繰り返す光景があり、無限の奈落へと渦巻く巨大なブラックホールが広がっていた。

 この眼がひとたび開かれれば、それこそが真理であり、万物の法則となる。呪文を唱える必要も、印を結ぶ必要もない。その権能は、術法や修為(しゅうい)といったあらゆる概念を超越していた。それはまさに、「一念万成(おもうがままになる)」の境地。

 ゲンソンはただ、天庭の大軍へ向けてその紫金の眼差しを軽く走らせ、脳裏で気怠げにたった一つの思考を思い浮かべた。

「神々よ、跪け(ひざまずけ)」

 バキバキバキバキッ!

 一刹那(いっせつな)の間、爆発も起きず、烈火も落雷も降らなかった。ただ、乾いた身の毛もよだつ音が同時に響き渡った。十万の天兵天将――名もなき雑兵から、誇り高き四大天王にいたるまで、彼らの膝の骨がことごとく粉砕されたのだ。

 彼らは己の肉体を制御することができなかった。宇宙の法則そのものの圧倒的な重圧がその肩にのしかかり、全員を雲海の上へと強制的にひれ伏させ、跪かせた。凄惨な悲鳴が九重天の隅々にまで響き渡る。あれほど威力を誇った法宝たちは一瞬にして霊性を失い、ただの無機質な廃材のごとく下界へとバラバラに落ちていった。

 天庭の空の半分が、彼の冷淡な一瞥(いちべつ)のもとで微細な塵と化し、虚空へと消え去っていった。

 蒼天は本来 薄き紙のごとく、紫の眼光 過ぎれば灰燼と化す。

 千年の神将 不死を誇れども、ただ一瞥にて 永遠(とわ)に消え去らん。

 滅亡の危機が凌霄宝殿をも呑み込もうとしたその瞬間、虚空が突如として柔らかな黄金の神光によって切り裂かれた。清らかな蓮の香りが漂い、天地に響き渡る読経の地鳴りが、ゲンソンの眼が放つ恐るべき圧力をいくらか和らげる。

 巨大な蓮華台(れんげだい)が出現し、その上には**如来仏祖(にょらいぶっそ)が鎮座していた。その全身からは仏光が普く照らされ、眩い金衣の周囲を無数の「卍(まんじ)」の文字が回転している。その傍らには、大弟子である金蝉子(こんぜんし)**が恭しく合掌して立ち、その端正な顔立ちには静かな慈悲を湛えていた。

 西方極楽世界(さいほうごくらくせかい)が、ついに表舞台へと姿を現したのである。

「南無阿弥陀仏、善哉、善哉……」

 如来の声が響いた。慈悲深く、しかし無辺の仏力を孕んだその声は、仏法をもってその混沌たる殺気を化解(かげ)しようとした。しかし、仏門の眩い黄金の神光が、ゲンソンの両眸から放たれる紫金の領域の端に触れた瞬間、まるで赤く焼けた鉄板に水滴が落ちたかのように、ジュウジュウと激しい音を立てた。

 仏光は驚異的な速度で侵食されていく。常に泰然自若としていた如来仏祖の顔が、突如として激変した。彼は、五行(ごぎょう)にも属さず、三界(さんがい)のいかなる理(ことわり)にも含まれない未知の力が、自身の「金身不滅(こんしんふめつ)」の防御を無残に引き裂いていくのを感じ取ったのだ。

 ブフッ!

 西方の至尊たる如来仏祖は、いかなる掌印(しょういん)をも繰り出す間もなく、天を仰いで黄金の神血を激しく吐き出した。仏の血が蓮華台に飛び散り、放たれていた金光は見る影もなく掻き消えた。

 傍らにいた金蝉子は肝を冷やし、その慈悲深き目を驚愕に見開いた。自分が目撃した光景が信じられなかった。無辺の仏法を擁する彼の師尊が、宙に浮くあの名もなきボロ道士の、ただの眼差しから漏れ出た気配だけで重傷を負わされたのだ!

 ゲンソンは眼差しを収めた。紫金の瞳が微かに揺らめく様は、一個の石を呑み込んだ静かな湖面のようだった。天幻滅世無極眼を通じ、彼は時間の奔流をすべて見通していた。封神の大劫(ほうしんのたいごう)が間もなく勃発し、彼が配した駒たち――哪吒、妲己(だっき)、女媧(じょか)が生と死の狭間で悶え苦しみながら覚醒していく未来が見えていた。彼は、今はまだ盤面をすべてひっくり返す時ではないと知っていた。

 彼は姿を消すための口実を必要としていた。天下の者どもに己が封印されたと思い込ませ、神仏どもにその滑稽な人形劇の続きを演じさせるための口実を。

「良いところへ来たな、如来」ゲンソンは不敵に口元を歪め、密かにその無極の殺気を完全に収めた。

 如来仏祖は重傷を負いながらも、かろうじて冷静さを保っていた。相手が手加減したことを見抜いていたのだ。彼は最後の力を振り絞り、右の手のひらを翻した。それは金・木・水・火・土の力を宿した、連なる五つの巨大な山岳――「五行山(ごぎょうさん)」へと変貌し、轟音を響かせながらゲンソンの頭上へと振り下ろされた。

 今回、ゲンソンは一切抵抗しなかった。彼は目をうっすらと閉じ、巨大な五つの山に己の肉体を下界へと押し潰されるがままに任せ、荒涼とした大地へと深く突き刺さっていった。

 立ち込める土煙が引いた時、天庭はひとまず滅亡の危機を免れていた。しかし如来は、自分が勝利したわけではないと痛感していた。あの山は、悪魔を繋ぎ止める枷(かせ)などではない。彼自身が長い眠りにつくために、自ら引き寄せた分厚い毛布のようなものだ。それは、敵から施された、屈辱的で「運が良いだけ」の勝利に過ぎなかった。

 金蝉子は下界へと降り、ゲンソンが圧し潰されている五行山の岩の隙間の前に着地した。彼は合掌して再び慈悲深い表情を取り戻し、運命の按配を告げるような口調で語りかけた。

「施主よ、その神通は広大であり、力は無極をも遥かに凌駕している。しかし、天道には輪廻があり、縁法(えんぽう)はすでに定められている。三百年後、私は下界へと転生し、経を求めて衆生を度化(どか)する旅に出る。私とあなたの間には、あらかじめ定められた師弟の縁があるのだ。私がその封印の呪符を剥がし、あなたを善へと導くことになるだろう」

 暗い岩穴の奥から、ゲンソンは気怠げに一つあくびをした。彼は地面から引き抜いた枯れ草を口で弄びながら、声を上げて笑い出した。その低く響く笑い声には、この上ない嘲弄が込められていた。

「師弟の縁だと? 傑作だな。それを天道の因果だとでも思っているのか、小坊主? それは俺が洪荒(こうこう)の昔に書き上げた筋書き(シナリオ)に過ぎん。俺がここに収まっているのは、お前たちのところのあのデブの手が重いからではない。ただ、お前たちのような羽虫どもが、俺の舞台の上でいかに人形劇を演じるかを見てみたいだけだ」

 金蝉子は眉をひそめ、目の前の狂人の真意を理解できぬまま、言葉を続けた。

「すでに縁があるならば、不躾ながらここに法名を授けよう。俗世の縁を断ち切り、仏法へと帰依するため、これよりは汝を……**孫悟空(そんごくう)**と呼ぶこととする」

 その名が告げられた瞬間、五行山の周囲の空気が突如として凍りついた。ゲンソンの口元にあった枯れ草が真っ二つに裂ける。小さな岩穴の奥から、目に見えぬ鋭利な剣のごとき紫金の光線が真っ直ぐに放たれ、金蝉子の眉間に深く突き刺さった。仏門の大弟子の魂は、幾万もの鋭利な刃で切り刻まれるかのような激痛に襲われた。

「失せろ!」

 ただ一言であったが、それは金蝉子の脳内で幾万もの劫雷(ごうらい)が爆発したかのごとき衝撃だった。

「本尊(おれ)の名はゲンソン・ジェスダだ! 混沌の始まりよりこのかた、俺に名を授ける資格を持つ者など存在せぬ。況や、お前たちのような偽善に満ちた仏門ごときをや! もしこれ以上ここに立ち止まり、一言でも戯言(ざれごと)を抜かすならば、一念でお前の元神(げんしん)を幽冥(ゆうめい)へと堕とし、万劫にわたり超生(ちょうせい)を絶って、永遠に日の光を拝めぬようにしてやる!」

 放たれた殺気はあまりにも生々しく、金蝉子は己の肉体が腐り落ちていくかのような錯覚を覚えた。彼は恐怖のあまり三歩後退し、冷や汗で金衣を濡らしながら、慌てて合掌して念仏を唱えた。そして一条の金光と化して、如来仏祖と共に西方極楽世界へと命からがら逃げ帰った。

 ゲンソンは静かに目を閉じた。空間は再び静寂に包まれる。「孫悟空」の名を拒絶し、金蝉子を追い払ったことは、彼が封神榜の大劫(たいごう)の奔流から自らの名を完全に抹消したことを意味していた。これより、彼は深い眠りにつき、世の理が流転するに任せる。彼が蒔いた情愛の種――大いなる女媧(じょか)、情に溺れる妲己(だっき)、情熱的な哪吒(なた)が、戦争の血の沼の中で自らもがくのを静観するのだ。

 西遊の時代が真に幕を開けるその時まで、彼は再び目覚めることはない。

 同じ頃、下界の灌江口(かんこうこう)。

 九重天の嵐はすでに去っていた。漆黒の暗雲は引き、血のように赤い夕刻の残照が、静まり返った川面に注いでいた。

 真君廟(しんくんびょう)の前には、十万の天兵を相手にした激戦の爪痕が、地面に深く刻まれた刀の亀裂となって残されていた。白衣を纏った清らかな楊嬋(ようせん)は、手に温かく輝く宝蓮灯(ほうれんとう)を掲げ、その澄んだ瞳で遥か彼方を見つめていた。そこは、荒野に突如として現れた五つの巨大な山岳がある方向だった。彼女の胸の中に、奇妙な喪失感が湧き上がる。まるで、あの日の牢獄で出会った、桃花の気配を纏うあの狂気じみた男の影が、彼女の魂の一部を奪い去り、冷たい岩底へと共に埋めてしまったかのように。

 彼女の傍らで、先ほど聖旨を切り裂き、三界で最も傲慢な天に背く誓いを立てたばかりの男――二郎神(じろうしん)・楊戩(ようせん)は、微動だにせず立ち尽くしていた。

 千斤の重さを持つ三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)が彼の手から滑り落ち, 地面に甲高い金属音を響かせる。三界第一の戦神のその両手が、絶え間なく震えていた。

 楊戩は天庭の、未だ閉じぬ空間の裂け目を見上げ、その口元に苦渋と絶望、そして底知れぬ畏怖が入り混じった笑みを浮かべた。

「二兄様……どうされたのですか?」楊嬋が心配そうに尋ねる。

 楊戩は重い息を吐き出した。その声は低く掠れ、途切れがちだった。

「天下の者は俺を第一 of 戦神と称える……俺自身、この天穹すべてに抗う力があると自負していた……」

 彼は身体を巡らせ、五行山の方角を呆然と見つめた。

「だが今日……あの紫金の眼が開かれるのを目撃し……己がいかに矮小(わいしょう)であるかを思い知らされた。嬋妹(せんまい)……もし今日、あの男が本気で手を下す気であったなら、ただ一瞥(いちべつ)するだけで、我が楊家も、この灌江口も、そして遥か上空の幾万の諸神も……とうの昔に虚無へと帰していただろう」

 楊戩は拳を強く握り締め、その傲慢な顔に冷や汗が伝うに任せた。

「正面から戦うだと? 刀を抜く隙すらなく、俺は確実に死んでいただろう……あの男が如来に勝ちを譲り、あの山の下に甘んじているのは……ただ、疲れて一眠りしたかったからに過ぎんのだ……」

 残照が沈みゆき、二郎神の長い影が地表に伸びていく。封神榜の大劫が不気味に胎動を始めている。しかし、灌江口の真君は痛感していた。真に最も恐るべき存在、諸天の神仏の盤面すべてを掌の上で転がす黒幕が、この天穹の下で、今まさに深い眠りについているということを。

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