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Episode 7

 西岳・華山の頂は、年中深い霧に閉ざされ、骨の髄まで凍みるような寒気に満ちていた。

 古木が鬱蒼と茂る森の奥、ひっそりと佇む岩の洞窟の中で、**「宝蓮灯(ほうれんとう)」から放たれる柔らかな緑の光が絶えることなく溢れ出し、満身創痍で全身にひびが入った楊戩(ようせん)**の体を優しく包み込んでいた。

 **楊嬋(ようせん)は震える両手で神灯を捧げ持っていた。兄の命を繋ぎ止めるべく、休むことなく二刻(四時間)にわたり仙力を注ぎ続けた彼女の顔は、極度の疲弊から青白く引き攣っている。その傍ら、平らな岩の上に横たわる楊戩の胸は弱々しく上下していた。鮮血こそ既に止まっていたものの、「太陽真火(たいようしんか)」**による深い火傷からは、未だにうっすらと白い煙が立ち上っていた。

「兄上……どうか耐えてください。宝蓮灯の『慈悲の火』が、きっと兄上の経絡(けいろく)を繋ぎ合わせてくれます……」

 楊嬋は泣き声を堪え、凍てつく風の中で声を詰まらせた。

 楊戩はかろうじて目を開け、その口元に自嘲気味な笑みを浮かべた。礫(小石)が擦れ合うような、ひどくかすれた声で絞り出す。

「嬋児(せんじ)……不甲斐ない兄を許せ。お前を守るべき私が……このような満身創痍の身を晒し、お前の修為(しゅうい)を削ってまで生かされるとはな……」

「滅相もないことをおっしゃらないで!」

 洞窟の外から薬草の煎じ薬を携えた**玉霜(ぎょくそう)**が足早に入ってきた。その健康的な赤い頬には、未だ動揺の色が残っている。

「二兄(じけい)! あなたはたったお一人で九つの太陽を斬り落とし、天蓬元帥(てんぽうげんすい)と互角に渡り合い、三界にその名を轟かせた御方です! この程度の外傷など、かすり傷に過ぎません。あなたが倒れてしまっては、誰が私たちを率いて霊霄宝殿(れいしょうほうでん)へ殴り込みをかけるというのですか?」

 華山封鎖と唯一の活路

 その時、**白辰(はくしん)**が血相を変えて洞窟へと駆け込んできた。白衣をまとった書生風の端正な顔立ちは蒼白になり、背後の狐の尾は恐怖のあまり逆立っている。息を切らしながら、彼は早口でまくし立てた。

「一大事だ! 楊戩、楊嬋、今すぐここを立ち去らねばならん! 我々が華山に潜伏していることが、とうとう天庭(てんてい)に露見した!」

 楊嬋はぎょっとして、危うく宝蓮灯を落としそうになった。「白兄(はくけい)、いくら何でも早すぎはしませんか? 哪吒(なた)と天蓬元帥は既に天界へ帰還したはずでは……?」

 白辰は歯噛みし、地団駄を踏んだ。

「あの二人は復命に赴いた。しかし、楊戩の首の代わりに『偽の道士』を連れ帰ったことに、玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)は激怒されたのだ! そこへ**託塔天王(たくとうてんのう)李靖(りせい)**が立ち塞がり、哪吒と天蓬が故意に貴殿らを庇ったと糾弾した。今回、玉皇大帝は李靖に五万の精鋭天兵を直率させ、**九曜星君(くようせいくん)**と共に下凡(げぼん)し、華山を完全封鎖して貴殿ら兄妹を根こそぎ根絶やしにするよう命じられたのだ!」

「李靖だと!?」

 玉霜は怒りのあまり、薬碗を地面に叩きつけた。「あの髭面で塔を持った小賢しい老いぼれめ! 実にあくどい! 多勢に無勢で、弱みに付け込みおって!」

 楊戩は**三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)**を杖代わりに、よろけながらも立ち上がった。全身を激しい震えが襲うが、その眼眸には凄まじい殺気が宿っていた。

「来るなら来い! 奴の玲瓏宝塔(れいろうほうとう)と、私の刃、どちらが硬いか試してやろう!」

「正気か!?」

 白辰は楊戩の肩を掴み、怒鳴りつけた。

「貴殿の肉体は、今にも砕け散る陶器の如くひび割れているのだぞ! 今、刀を一振りでもすれば、李靖に触れる前に経絡が自爆して果てるのがオチだ! 私の言うことを聞け。もはや華山に留まることはできん。即刻脱出するのだ!」

「なれど、いずこへ逃げ延びるというのです?」

 楊嬋が不安げに問いかけた。「この天下はすべて天庭の支配下。我らに隠れ家などありましょうか?」

 白辰は視線を鋭く定め、重々しく二文字を口にした。

「梅山(めいざん)だ!」

「梅山!?」

 玉霜は驚愕した。「あそこは太古の瘴気が立ち込める荒野で、残虐非道と恐れられる**『梅山六怪(めいざんろくかい)』**が君臨する地。天兵とて滅多に近づかぬ魔境ではありませんか?」

「だからこそ、我々に残された唯一の活路なのだ!」

 白辰は断固として言った。

「梅山の瘴気は天機を覆い隠し、照魔鏡(しょうまきょう)の追跡を遮断できる。行くぞ、一刻の猶予もない。遅れれば万劫不復(二度と浮かび上がれぬ地獄)となる!」

 梅山の兇獣と六怪との邂逅

 一行は丸一日夜を徹して、幾重もの山河を越え、命からがら梅山の境界に辿り着いた。

 目の前には、悪鬼の牙のように黒く切り立った断崖絶壁がそびえ立ち、枯れ果てた古木の周りには不気味な紫色の毒霧が漂っていた。

 しかし、彼らが深い谷に足を踏み入れた途端、天地を揺るがすような咆哮が響き渡った。

「曲者、立ち止まれ! 誰の許しを得て我が梅山に足を踏み入れたか!」

 古い森の闇から、奇怪な半獣半人の姿をした六つの巨影が現れ、楊戩たちを包囲した。

 先頭に立つのは、灰色の甲冑を身に纏い、威厳に満ちた巨大な白猿の面影を残す巨人であった。その手には一丈八尺の重厚な鉄棒が握られている。彼こそが梅山六怪の首領、**袁洪(えんこう)**であった。

 その後ろには金大昇(きんだいしょう/牛の妖怪)、戴礼(たいれい/犬の妖怪)、そして他三名の妖王が続き、それぞれが天を突くほどの妖気を放っていた。

「あいつを見ろ!」

 金大昇は目を見開き、ぼろぼろの黒甲冑を纏った楊戩を指差した。「こいつからは神族の気配がする。甲冑は崩れ、体中血まみれだ。天庭の猟犬どもが、我が梅山を討伐するために送り込んだ先兵ではないか!?」

「その通りだ! 殺してしまえ! 偽善に満ちた神仙どもをここに一歩たりとも踏み込ませるな!」

 戴礼が牙を剥き出しにし、朧月夜の下で低く唸った。

 楊嬋はすかさず兄の前に立ちはだかり、大声で弁明した。

「妖王の皆様、どうかお怒りをお静めください! 私たちは天庭の者ではありません! この者は私の兄、楊戩。天庭に激しく追われ、ただ道を借りて身を隠したいだけなのです!」

「楊戩だと!?」

 袁洪は冷笑し、鉄棒を地面に激しく叩きつけた。足元の巨岩が粉々に砕け散る。「九つの太陽を斬り落とし、三界を揺るがしているあの『忌み子』か。そのような者が逃げ込んでくるなど、我が梅山に災厄を呼び込むようなもの。今日、この袁洪自らが引導を渡してくれよう!」

 言うや否や、袁洪は鉄棒を振り回して突進し、千鈞の重みを乗せた一撃**「掃蕩千軍(そうとうせんぐん)」**を楊嬋に向けて真っ直ぐに放った。

「下がっていろ!」

 楊戩は妹を力強く後ろへ押しやり、右手にしっかりと握った三尖両刃刀でそれを受け止めた。

 経絡に重傷を負っているため、神力**「八九玄功(はっきゅうげんこう)」**を発動することはできず、幾多の生死を分ける死闘の中で培った純粋な武芸のみで防ぐしかなかった。

 ズガァァァン!!!

 鉄棒と三尖刀が衝突し、金属の爆鳴が轟いた。

 激しい衝撃を受けた楊戩は三歩後退し、口端から鮮血を滴らせた。それでも彼は背筋を伸ばして直立し、鳳凰の如き鋭い眼眸を傲然と見開いていた。

「見事だ!」

 袁洪の目が輝いた。「これほどの重傷を負いながら、私の棒撃を受けて倒れぬとは! ならば、次はこれを受けてみよ!」

 袁洪は立て続けに技を繰り出し、変幻自在の棒法を見せる。時には疾風迅雷の如く素早く、時には泰山の如く重苦しい。楊戩は骨の髄まで突き刺す激痛を堪え、刀を振るって必死に応戦した。彼は一歩も退くことなく、鋭く力強い刃で背後の妹と友を守り抜いた。

 カン! キィン! ガガガッ!

 十合、二十合……楊戩は血を吐き続けたが、その太刀筋は真っ直ぐであり、傲慢な覇気は少しも衰えなかった。その真っ直ぐな気性と不屈の意志に、袁洪は打ち合うほどに驚愕し、敵意はいつしか深い敬意へと変わっていった。

「手止めだ!」

 袁洪は突如として鉄棒を引き、後方へ飛び退いた。そして、畏敬の念を込めた眼差しで楊戩を見つめた。

「貴様は半神の身でありながら、その骨魄は真の硬骨漢、大丈夫(だいじょうぶ)そのものだ! この袁洪、妖怪の身ではあるが、生と死を顧みず天に抗う覇気を持つ者を最も重んじる!」

 金大昇も武器を収め、頭を掻きながら大笑いした。

「全くだ! 焼き尽くされ血が川のように流れながらも一言も弱音を吐かずに戦うとは、俺の性分にぴったりだ!」

 天兵の襲来と血の誓い

 その時、梅山の上空に突如として天庭の陣軍ラッパが地響きのように鳴り渡った。

 李靖の玲瓏宝塔から放たれる黄金の光が夜の帳を切り裂き、山全体を赤々と燃える炎の網で包み込んだ。

「楊戩の逆賊め! 梅山の妖魔ども! 貴様らは既に包囲された。大人しく縛につけ!」

 李靖の威厳に満ちた声が雷鳴の如く響き渡った。

 袁洪は表情を曇らせ、鉄棒を肩に担ぐと、天を衝くほどの傲気で豪快に笑い飛ばした。

「小賢しい神仙どもめ! 我が山を焼き、我が兄弟を侮辱しおって! 楊戩の義兄弟よ、お前が天庭を恐れぬと言うのなら、今日、我ら**『梅山六賢(めいざんろくけん)』**はお前と義兄弟の契りを結び、生死を共にし、あの偽善者どもと一戦交えようではないか!」

「生死を共にせん!」

 残る五人の妖王も声を揃えて叫び、その雄叫びは天兵の雷鳴さえも圧倒した。

 太古の兇獣:哮天犬(こうてんけん)の封印解除

 かつてないほど凄惨な戦闘が幕を開けた。

 九曜星君が「神火陣」を展開し、万の火龍を放って梅山の森を焼き尽くした。瘴気は払われ、退路を断たれた楊戩たちと梅山六賢は、山の最深部、かつて混沌の時代に兇獣を封印した暗黒の洞窟**「万妖穴(まんようけつ)」**へと追い詰められていった。

「ここは哮天犬(こうてんけん)が封印されている境界だ!」

 白辰は戦いながら後退し、焦燥の声を上げた。

「中にいるのは、魂と闇を貪り食う残虐極まりない巨狼だ。かつて玉皇大帝すら万年の神鎖を用いてようやく繋ぎ止めたほどの化け物だぞ!」

 その時、李靖率いる五万の天兵が洞窟の入り口まで迫り、天上から玲瓏宝塔の鎮圧の光が降り注いだ。梅山六賢は抗いきれず、誰もが傷だらけになっていた。

 楊戩は傍らで力尽きかけている妹を見つめ、そして血を流して戦う新たな義兄弟たちに視線を移した。彼の瞳に突如として狂気が宿った。楊戩は洞窟の奥深き闇を見据え、三尖刀を肩に担いで前へ踏み出した。

「あのような李靖の塔の前で膝を屈して縛られるくらいなら、兇獣の牙に裂かれて死ぬ方がマシだ! 封印を解くぞ!」

「楊戩! 正気か!?」

 雲の上から李靖が怒鳴り散らした。「あの狂犬を解き放てば、この一帯は灰燼に帰すぞ!」

「ならば、共に滅びるまでだ!」

 楊戩は咆哮し、最後の力を振り絞って三尖両刃刀を振り下ろし、洞窟の入り口に佇む太古の封印石碑を真っ二つに叩き斬った。

 パキィン……パリィィィン!!!

 石碑は粉々に砕け散った。

 地底の深淵から、極寒の冷気を帯びた濃厚な黒い霧が噴き出した。誰もが鼓膜を破らんばかりの、野獣の獰猛な咆哮が響き渡る。

 ガォォォォォン!!!

 体長三丈(約9メートル)に及ぶ、全身を闇のような漆黒の毛並みで覆われた巨大な黒犬が現れた。その瞳は燃え盛る炭のように赤く輝いている。

 その巨躯が歩みを進めるたび、足元の地面は腐食して黒く染まった。首に巻き付いた万年の神鎖が、岩の上で不気味な金属音を立てて引きずられる。巨獣は狂ったように最前列の天兵たちに襲いかかり、一瞬にして数十人の鎧を噛み砕いた。

 しかし、天兵を一掃した後、制御を失った兇獣は首を巡らせ、その血走った赤い瞳を楊戩に定めた。獣は吠え猛り、黒い稲妻の如く突進すると、鋭い牙を楊戩の肩に深く突き立てた。

「兄上!!!」楊嬋が悲鳴を上げた。

「二兄!」玉霜が飛び出そうとするのを、白辰が必死に制した。

 楊戩は巨獣に地面に押し倒され、肩に食い込んだ牙から鮮血が激しく噴き出した。しかし、楊戩は刀で刺し返すこともなく、もがくことすらしなかった。

 彼は両腕で黒犬の太い首を力強く抱きしめ、最後の「八九玄功」の気を巡らせて心脈を守りながら、その耳元で傲然と、かつ深く共鳴する声を注ぎ込んだ。

「哮天(こうてん)よ……貴様はここに万年もの間繋がれ、孤独に耐え、自由を渇望していたのだな……。私もまた、あの忌々しい天規に縛られ、母を失い、生涯追われる身となった! 我々は、この欺瞞に満ちた天地に見捨てられた者同士なのだ!」

 黒犬の動きが止まった。

 楊戩の肩に深く食い込んでいた牙が、わずかに緩む。それは、血涙を湛えながらも不屈の意志を宿した楊戩の鳳眼を見つめていた。

 楊戩は叫び、自らの指先を噛み破ると、燃え盛る半神の血を黒犬の額に強く押し当てた。

「今日、我が血を以て契約とせん! 私は鉄鎖でお前を縛りはしない。我が魂を以て、お前の生涯の友となろう! 私と共に、あの腐りきった天を噛み砕きに行こうではないか。お前にその度胸はあるか!?」

 楊戩の血が哮天犬の額に深く浸透していった。金と黒の光が交錯し、激しく炸裂する。

 太古の兇獣は、この楊氏の半神が放つ強烈な反骨の意志に完全に共鳴した。その赤い瞳は、徐々に威厳に満ちた霊性あふれる黄金色へと変化していった。

 ガォォォォォン!!!

 哮天犬は天を仰ぎ、万マイルを震わせる咆哮を上げた。ここに哮天犬は正式に服従し、楊戩と生涯を共にする血の契約を結んだのである!

「反撃だ!!!」袁洪は鉄棒を振り上げ、大声で叫んだ。

 哮天犬は巨大な黒い光の束と化し、楊戩を背に乗せて九天へと突撃した。哮天犬は玲瓏宝塔の放つ光を一口で飲み込み、その鋭い爪で天兵の陣形を切り裂いた。太古の兇獣の野生と楊戩の不屈の意志が融合し、破滅的な破壊力を生み出した。彼らは李靖の先鋒部隊を完膚なきまでに打ち破り、託塔天王李靖は愕然としながらも宝塔を急ぎ回収し、屈辱のうちに撤退を余儀なくされた。

 一方、天界の霊霄宝殿(れいしょうほうでん)では……

 下界で天地を覆すような死闘が繰り繰り広げられていた頃、厳かなる天庭の霊霄宝殿では、三界の歴史上類を見ない前代未聞の裁判が行われていた。

 玉皇大帝は遥か高き玉座に君臨し、怒りのあまり顔を青緑色に染めていた。その下では、天界の群臣や神仙たちが両側に居並び、誰もが厳粛かつ緊張した面持ちで控えている。

 そして、広殿の中央には、哪吒の**「混天綾(こんてんりょう)」で頭からつま先までぐるぐる巻きにされ、巨大なチマキ(粽)のように床に転がされている「ゲンソン・ジェスダ」**の姿があった。

 しかし、その張り詰めた恐ろしい空気とは裏腹に、当の「インチキ道士」ゲンソンは……大きなあくびを連発し、眠たげに目をこすっていた。

「無礼な道士め!」

 玉皇大帝は笏(しゃく)を地面に激しく叩きつけた。その音は雷鳴のように響き渡る。

「己の罪の重さが分かっているのか!?」

 ゲンソンはパチパチと瞬きをしながら、松の葉だらけのボサボサ頭をどうにか持ち上げ、好奇心に満ちた目で玉皇大帝を見上げた。

「おや……陛下、貧道(私め)が何か罪を犯しましたでしょうか? 私はただの善良な焼き芋売りでございますよ。あ、それはそうと、ちょっとお尋ねしたいのですが……」

「申せ!」玉皇大帝が吼えた。

 ゲンソンはのんきに口を鳴らした。

「陛下がお座りになっているその椅子……キラキラしていて実に美しいですが、本物の金メッキですか? それともただのスプレー塗装ですか? もし将来、天庭が破産するか、陛下が模様替えでその椅子を処分される時は、ぜひ事前に私めにお知らせください。あれを買い取って、豪華な棺桶を作りたいのです。下界の民百姓が見たら、驚きで目が飛び出ること間違いなしですから!」

 ざわざわ……。

 霊霄宝殿は一瞬にして騒然となった。

 後方に控える仙女たちは袖で口を覆ってクスクスと笑い、神将たちはこの不届き千万な(あるいは極限まで愚かな)道士の不敵さに目を見開いて硬直していた。

「黙れ!」

 傍らに控えていた**太白金星(たいはくきんせい)**があわてて前に進み出て、額から大粒の汗を流しながら、ゲンソンを軽く小突いた。

「無礼者! 玉皇大帝の御前でそのような戯言を吐くとは何事か! 神将たちの逆賊・楊戩捕縛を妨害した罪を、速やかに平伏して認めよ!」

 ゲンソンは顔をしかめ、縛られた体をくねらせた。

「おいおい、白髭の大仙人様、こんなにきつく縛られていては、平伏しようにも動けやしませんよ。大体、この赤い布は誰の持ち物ですか? ゴワゴワしていて、脇の下が痒くて死にそうなんです! 少し緩めて、脇を掻かせてくれませんか? 掻き終わったら、自分から平伏します。誓ってもいい!」

「無礼千万!」

 横にいた哪吒は怒りのあまり愛らしい顔を真っ赤に染め、前に歩み出て大喝した。

「陛下! この者は本性が極めて傲慢であり、言葉巧みに誤魔化そうとしています。明らかに楊戩の腹心、共犯者に相違ありません! どうか雷刑(らいけい)を以て拷問し、逆賊の潜伏先を吐き出させるお許しを!」

 玉皇大帝は歯噛みし、袖を振って勅命を下した。

「雷公(らいこう)、電母(でんぼ)を呼べ! 打て! 白状するまで打ち続けよ!」

「御意!」

 鳥の頭を持つ獰猛な神・雷公が、天雷の槌を担いで殿中へと進み出た。その眼には殺気がみなぎっている。彼は咆哮一閃、槌を振り下ろして巨大な紫電の雷撃を放ち、床に横たわるゲンソンの頭上へと一直線に落とした。

 ドガァァァン!!!

 凄まじい落雷が轟いた。しかし、まさに一触即発のその瞬間――。

「おや! 床にスイカの種が落ちているぞ!」

 ゲンソンが突如として嬉しそうな声を上げ、床に転がっていた乾燥したスイカの種を拾おうと、その体を不格好にのけ反らせた。

 このあまりにも不格好で間抜けな挙動が、神がかり的な確率で雷撃を完全に回避させた。紫電の雷撃はゲンソンの耳元をかすめ、そのすぐ近くに安置されていた**太上老君(たいじょうろうくん)**の万年翡翠像に直撃した。

 ドゴォォン!!!パリィィィン!!!

 天界随一の至宝であった翡翠像は粉々に打ち砕かれ、破片が床一面に飛び散った。

 太白金星は頭を抱えて悲鳴を上げた。

「おお、天よ! 老君様の翡翠像が! 昨日献上されたばかりの代物が!」

 雷公は自身の雷槌を呆然と見つめ、それから床で悠々とスイカの種を齧っているインチキ道士を見やり、声を震わせた。「な、何だと……? どうして外れるのだ!?」

 ゲンソンは種を齧りながら、殻をプップッと床に吐き出し、雷公ににやりと笑いかけた。

「いやぁ、雷公の兄貴、そんなに外してばかりじゃ危ないですよ! 最近、お疲れですか? それとも昨晩、仙女たちの踊りを見すぎて目がかすんでいらっしゃる? そんな調子じゃ、いつか同僚のお尻に当てて大恥をかきますよ! 近視に効く秘伝の漢方薬でも処方しましょうか? 半額でいいですよ!」

「貴様……私を愚弄するか!?」雷公は激怒し、再び槌を振り上げようとした。

「止めよ!」

 玉皇大帝は頭痛に耐えかねて額を押さえた。血圧が急上昇していくのを感じていた。

 彼は(両手が縛られているため)足で鼻をほじっているみすぼらしい道士を見つめ、それから粉々になった翡翠像に目をやり、これ以上この男を裁き続ければ、霊霄宝殿そのものが破壊されかねないと悟った。

「太白金星……」玉皇大帝は力なく尋ねた。「この狂人をどう処置すべきか?」

 太白金星は冷や汗を拭いながら、ゲンソンを気の毒そうに見つめ、玉皇大帝の耳元でささやいた。

「陛下……この者は明らかに正気ではなく、常識外れの強運を持つただの狂人のようです。もしここで処刑してしまえば、下界の妖魔どもに『天庭は狂人相手に目くじらを立てた』と物笑いの種にされかねません。それよりも……いっそ天牢(てんろう)に投獄し、数百年間幽閉して目障りな存在を排除するのが賢明かと存じます」

 玉皇大帝は救いの蜘蛛の糸を掴むかのように、何度も頷いた。

「そうだ! その通りだ! 今すぐ奴を天牢へ叩き込め! あの不愉快な面を二度と余の前に見せるな!」

「おいおい、陛下!」

 二人の天兵に引きずられながら、ゲンソンが叫んだ。

「天牢ではタダ飯が出ますか? 私はお腹がペコペコなんです! 赤飯入りの小豆饅頭があれば最高なのですが! あと、脇を掻くために縄を少し緩めてくださーーーい!」

 ゲンソンのたわいもない叫び声は、彼が殿堂から引きずり出されるとともに遠ざかっていった。霊霄宝殿の面々は、ようやく深い安堵の息を漏らし、誰もが恐ろしい天災から生き延びたかのような安堵感を抱いていた。

 インチキ道士ゲンソンによる半日にも及ぶ前代未聞の「大暴れ」のおかげで、天界は完全に混乱に陥り、追撃の体制を整える余裕を失った。

 その頃下界では、楊戩と妹の楊嬋、そして梅山の兄弟たちが、勢力を安定させ、傷を癒やし、三界の新たな激動の時代へと備えるに十分な時間を獲得していたのである。

 天庭の「天牢」は、**天地開闢(てんちかいびゃく)**の古より、三界万族にとって常に震え上がるほどの恐怖の象徴であった。神界の最も冷徹なる地下深くに位置するこの地は、四方を漆黒の絶壁に囲まれ、一筋の陽光すら差し込むことはない。空気は常にカビ臭く澱み、骨の髄まで凍てつかせる霧氷が立ち込め、雷罰の銅柱に固く縛り付けられた太古の妖王や大魔頭たちが身悶えするたびに、鉄鎖の擦れ合う不気味な金属音が響き渡る。時折、絶壁に反響する怨嗟に満ちた絶叫や獣のような咆哮は、聞く者の髪の毛を逆立たせるに十分であった。

 しかし、その陰惨極まる暗黒の空気は、あの**インチキ道士「ゲンソン・ジェスダ」**がぶち込まれた瞬間から、跡形もなく崩壊することとなった。

 天地を崩壊させるほどの災厄級の大魔頭を収監するための、最も「VIP」な監房から、今、おそろしく音程の狂った金切り声の歌が響き渡っている。

「我が人生は孤独なり~、ゆえに誰を愛しても孤独~、我が人生は孤独なり~、ゆえに実らぬ恋ばかり~……フンッ……いやぁ、陛下!このハンモック、最高に寝心地が良いですな!」


 ゲンソンは、相変わらず哪吒(ナタ)の無価の仙宝である赤い帯「混天綾(こんてんりょう)」によって頭からつま先までがんじがらめに縛られていた。しかし、どうやったのかその両端を器用に緩め、牢獄の壁際にそびえ立つ二本の雷罰の銅柱にしっかりと結びつけていたのである。なんと、三太子の至宝を、暗い監房の宙をゆらゆらと揺れるハンモックへと変えてしまっていたのだ。両脚をだらしなく交差させてぶらぶらと揺らし、藁くずまみれのボサボサ頭を、自身の能天気な歌の拍子に合わせて時折コクコクと揺らしている。

 向かいの監房に収監されているのは「呑天魔王(どんてんまおう)」。全身が漆黒に染まり、顔中が傷だらけの、千年の歴史を持つ狂暴極まりない巨魔である。今、その恐ろしい形相を鉄格子に擦り付けんばかりに近づけ、目玉をひん剥いてゲンソンを凝視していた。その表情には、凄まじい苛立ちと、抑えきれない好奇心が入り混じっている。

「おい……そこな狂い道士!」呑天魔王は声を潜めて唸った。「ここがどこか分かっているのか? 天牢だぞ! 混天綾に縛られておきながら、なぜ下界へ物見遊山にでも来ているかのような面(つら)をしているのだ!?」

 ゲンソンは片目を薄く開けてけだるそうにそちらを一瞥すると、ひまわりの種の殻を歯に挟ませたまま、ヘラヘラと笑った。

「いやぁ、魔王の兄貴、そいつは人聞きが悪い。世間じゃ**『千変万化の世にあれど、我が心は動ぜず』**って言うじゃないですか。心地よく横になれる場所さえあれば、どこであれ拙道にとっては我が家ですよ。見てください、この赤いハンモック。温かい上に伸縮性も抜群で、腰のマッサージ効果も絶大なんですから! どうです、一時間ばかり貸し出しましょうか? 兄貴なら安くしておきますよ、修為(しゅうい)たったの十年分で!」

「誰が乗るか、たわけめ!」呑天魔王は怒りのあまり口から泡を吹いた。「失せろ! 己(おれ)はこの地に五百年閉じ込められているが、貴様ほど破廉恥な囚人は見たことがないわ!」

 ちょうどその時、暗い廊下の奥からペタペタという足音が響いてきた。

 年中、陽の光を浴びないせいで顔色の悪い、老いぼれた看守の小神「牢頭(ろうとう)」が、飯籠を手に歩み寄ってきた。その顔は苦瓜のように歪んでおり、ゲンソンが混天綾で作ったハンモックに揺られているのを見るや否や、頭を抱えて悲鳴を上げた。

「おいおい、私の御先祖様! また三太子の法宝を勝手にハンモックにしおって! もしご本人に知られたら、私のこの古い皮を剥がされてしまうわ!」

 ゲンソンはハンモックから身軽に飛び降りると、地面を三回転ほどゴロゴロと転がり、鉄格子のすぐ手前でピタリと止まった。そして満面の笑みを浮かべ、格子にしがみついた。

「おお、牢頭の兄貴! やっと来ましたか! 拙道、首を長くしてお待ちしておりましたよ! 今日の飯籠には何か美味いものでも入っているんでしょうね? まさか昨日みたいなカビの生えた素饅頭(マントウ)じゃないでしょうね。あれのせいで拙道、丸三日も便秘が続いて開通してないんですから!」

 牢頭は飯籠を置き、蓋を開けた。中には案の定、薄い粥が一杯と、干からびた塩漬けの瓜が一皿あるのみだった。老看守はため息をついた。

「天牢の飯などこんなものだ。お前は玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)直々の勅命で捕らえられた重罪人なのだぞ。飯にありつけるだけでもありがたいと思え、これ以上何を望むというのだ?」

 ゲンソンは思い切り不満げに唇を尖らせると、翡翠の床を指先でトントンと叩いた。

「牢頭の兄貴、そんな商売のやり方じゃ出世できませんよ。拙道、昨日兄貴のために易占(えきせん)をして差し上げたんです。兄貴の前世はきっと、威風堂々たる高名な仙官だったはず。それが今世ではどういうわけか運に見放され、毎日こんな場所でカビ臭い空気を吸う羽目になっている。どうです、運気を変えて、一気に『天牢総帥』へと昇進してみたいとは思いませんか?」

 牢頭はそれを聞くと、にわかに目を輝かせ、鉄格子に顔を寄せて小声で尋ねた。「ほ、本当か……? 私の運気を変える方法を知っているのか?」

 ゲンソンは、半分抜け落ちた付け髭を撫でる仕草をしながら、得意げに頷いた。

「当然知っていますとも! ですが、拙道が天機(てんき)を動かし、元気を消耗して詳細に占うためには、まず栄養を補給せねばなりません。聞くところによると、最近下界では薄切りの牛肉を入れた『四川風麻辣火鍋』なるものが大流行しているとか? 兄貴、こっそり下界へ行って、拙道のために火鍋を一杯買ってきてくれませんか。野菜を少々と豆腐も添えて。それを平らげれば、兄貴がトントン拍子に昇進できる道を、この拙道が保証してお教えしましょう!」

 牢頭は疑わしげにゲンソンを見つめた。「お前……私を騙しているのではないだろうな? 天律は厳しいのだ。囚人のためにこっそり下界へ行って買い出しなどしたことがバレれば、畜生道に落とされるのだぞ!」

「おいおい、何を恐れることがあるんです!」ゲンソンは手を激しく振った。「『天高し皇帝遠し』と言います。玉帝は今、楊戩(ようせん)の件で頭を悩ませている真っ最中だ。誰が兄貴の飯籠の中身なんか検査するもんですか。さあ行った行った、早く行って早く戻ってきてください。拙道はお待ちしていますよ! あ、辛さは控えめで頼みます。辛すぎると、お尻から火を噴いてしまいますからね!」

 牢頭はしばらく葛藤していたが、ついに「昇進」という甘い誘惑に抗えず、奥歯を噛み締めて深く頷いた。「よし! そこで待っておれ、今すぐ買ってくる! だが、もし占いが出鱈目(でたらめ)だったら、雷罰の鞭で百回叩き切ってやるからな!」

 牢頭は慌ただしく去っていった。向かいの監房で終始このやり取りを聞いていた呑天魔王は、鼻でせせら笑った。

「このインチキ道士め、あの愚鈍な看守を騙しおって。今に火鍋の代わりに、雷罰の鞭を尻に喰らうことになるぞ!」

 ゲンソンは床にどっかりと座り込み、平然ともう一枚のひまわりの種を齧りながら、お茶目にウインクをした。

「魔王の兄貴、そいつは余計なお世話ですよ。天庭の雷罰の鞭なんて……拙道の体に触れる前に、勝手に折れちまうんじゃないかと心配なだけです!」

 中編:灌江口の激闘、顕聖真君の帰還

 天牢の中の抜けた喜劇とは完全に好対照に、この時、下界の**灌江口(かんこうこう)**では真の凄惨な地獄絵図が繰i広げられていた。

 ドゴォォォン!!!

 轟く雷鳴が鉛色の夜空を切り裂く。激しい豪雨は丸三日三晩降り続いており、一向に収まる気配を見せない。灌江の濁流は黒く渦を巻き、数十丈もの高さにまで膨れ上がって堅牢な堤防を呑み込み、万単位の田畑と数百の村々を冷たい水底へと沈めていた。孤立した広大な水原のあちこちから、子供たちの悲痛な泣き声や、人々が互いを呼び合う絶望的な叫びが響き渡っている。

 二郎神(じろうしん)・楊戩(ようせん)が天庭に包囲討伐されて重傷を負い、身を潜めている隙に乗じて、南海から逃亡してきた狂暴な千年の悪竜**「黒水蛟竜(こくすいこうりゅう)」**が、数万の妖怪やエビ・カニの兵卒を率いて灌江を占拠したのである。

 黒々と渦巻く激流の中から、鋭く血を滴らせる二本の角を持つ、漆黒の巨大な竜の頭部が姿を現した。その両目は籠のように巨大で、邪悪かつ血に飢えた青い光を放っている。

「愚かなる凡人どもよ!」黒水蛟竜の声は、割れた鐘のように低く響き、水害に沈む大地に轟いた。「貴様らの二郎神は天庭によって滅ぼされ、骨も肉も残っておらぬ! これより、この灌江は本王の支配下となる! 水を引かせ、命を救いたくば、毎年十対の若い男女を我が贄(にえ)として捧げよ! もし明日の正午までに差し出さねば、この灌江口をすべて水底に沈めて更地にしてくれよう!」

 川岸では、高台に身を寄せた数万の民が悲痛な声をあげて泣き叫んでいた。

「天よ、地よ! 二郎顕聖真君(じろうけんせいしんくん)は本当に死んでしまわれたのか!?」一人の老農夫が絶望に身を震わせながら叫んだ。「誰が我らを救ってくれるのだ!?」

 川縁に近い村の一角では、「宝蓮灯(ほうれんとう)」から放たれる温かく優しい緑の光が大きな結界を張り、押し寄せる荒波から数千の村人を必死に守っていた。楊嬋(ようせん)の顔は青ざめ、両手で神灯を掲げているものの、体内の法力はすでに極限まで枯渇していた。悪竜の妖気を含んだ黒い濁流の猛攻を受け、宝蓮灯の光輝は激しく揺らぎ、亀裂が入り始めている。

「嬋児(せんじ)、もうしばらくの辛抱だ!」紅衣の狐の姿をした玉霜(ぎょくそう)が、楊嬋の肩に自身の妖力を休むことなく注ぎ込み、結界を支えていた。「二兄(じけい)の怪我はもうすぐ完治する! 必ず我らを救いに来てくれる!」

「ふん! コソコソと逃げ回るドブネズミどもめ!」宝蓮灯の結界を察知した黒水蛟竜は、怒りの咆哮をあげると、万斤の力を込めて巨大な尾で水面を激しく叩きつけた。

 ズドォォォン!!!

 妖気を孕んだ二十丈もの黒い津波が村へと襲いかかる。宝蓮灯の緑の結界は激しく砕け散り、楊嬋は一口の鮮血を吐いてその場に崩れ落ちた。蓮の神灯は瞬時にその光を失った。

「死ねい!」悪竜は鋭い牙が並ぶ巨大な顎を開き、一瞬にして村全体を丸呑みにせんと、真っ直ぐに突進した。

 シュゥゥゥッ!!!

 その一触即発の刹那、鉛色の分厚い雲を切り裂き、九天の上空からまばゆい金光と黒い覇気が混ざり合った閃光が、稲妻のごとき速度で真っ直ぐに突き降ろされた。

 ガルルゥゥォォォ!!!

 天地を震わせる太古の神獣の猛々しい咆哮が響き渡る。雲間から飛び出した巨大な影が、水面のすぐ手前で黒水蛟竜の喉元をがっちりと喰わえ込み、千年の悪竜を数百丈も後方、灌江の激流の真っ只中へと引きずり戻した。

 それこそは、哮天犬(こうてんけん)!

 闇のように艶やかな黒毛を持つ神獣は、四肢で波を蹴立てて怒涛を起こし、神兵のごとき鋭い牙を硬い竜鱗に深く突き立てていた。黒い竜血が激しく噴き出す。

 光り輝く天空に、威風堂々たる「黒金竜甲(こくきんりゅうこう)」を身に纏い、「三尖両刃刀(さんせんりょうびんとう)」を手にした影が、青雲の上に毅然と立ち塞がった。剃刀のように鋭い鳳凰の目は冷徹に光り、額の「天眼(てんがん)」が見開かれ、天の雷鳴すら圧倒するまばゆい黄金の神光を放っている。

「二兄!!!」楊嬋は目から涙を溢れさせ、歓喜に震えながら叫んだ。

「楊戩殿が帰ってきたぞ!」灌江口の民は一斉に大歓声をあげ、その叫びは雨音をもかき消した。

 楊戩は無駄な言葉を一切発せず、ただ静かに三尖刀を黒い大河に向けて一振りし、万マイル先まで響き渡る冷徹な声で告げた。

「梅山(ばいざん)の義兄弟よ! 出撃せよ!」

「おおおっ!!!」

 楊戩の背後から、天を突くほどの妖気を纏った六つの巨大な影が一斉に戦場へと舞い降りた。「梅山六賢(ばいざんろくけん)」、ついに参戦!

 六賢の首領である袁洪(えんこう)が雄叫びをあげると、その体躯は一瞬にして万丈の高さへと膨れ上がり、神術「法天象地(ほうてんしょうち)」を展開した。白毛の巨大な猿が山のごとく激流の中にそびえ立ち、両手で抱えた巨大な鉄棒を灌江の川底へと激しく叩きつける。その一撃は巨大な防壁を作り出し、荒れ狂う濁流が村へと流れ込むのを完全に堰き止めた。

「金大升(きんだいしょう)、参る!!!」

 金大升もまた、巨石のごとき大牛へと化し、その巨大な角を川岸の土砂に深く突き刺して堅牢な天然の堤防を築き、背後の民を守った。残る四人の妖王たちも瞬時に散り、水面で暴れる数万の魚介の妖怪どもを掃討していく。

 哮天犬に噛みちぎられる激痛に、黒水蛟竜は狂ったようにのたうち回り、尾を振って神獣を撥ね退けた。血走った赤い眼で楊戩を睨みつけ、怒りに狂って咆哮した。

「楊戩! 天庭に追われる身の重傷者が、我が大業を阻むというのか!? 今日こそ貴様を喰らい尽くし、我が修為の糧にしてくれよう!」

「戯言(ざれごと)を。」

 楊戩は雲を蹴って急降下した。その速度は空中を衝撃波で引き裂くほどであった。三尖両刃刀が振り下ろされ、山を移し海を覆すほどの威力を秘めたまばゆい銀の半月を描き出す。

 キィィィン!!!

 刃風が黒水蛟竜の頭部の鱗に激突し、万の紅蓮の火花が飛び散った。悪竜は苦痛にのたうち回り、楊戩の甲冑を焼き尽くさんと、猛毒の黒水を吐き出した。

 だが、楊戩は避ける素振りすら見せず、「八九玄功(はっきゅうげんこう)」を極限まで発動し、全身を金剛不壊の神光で包み込んだ。毒水の奔流を突き破って竜の頭部に肉薄すると、手首を翻し、極限まで研ぎ澄まされた三撃を連続で叩き込んだ。

 シュッ! シュッ! シュッ!

 一撃ごとに天地を覆すほどの強大な神力が込められていた。第一撃が悪竜の左の角を叩き折り、第二撃がその眼から首にかけて長く切り裂き、第三撃は喉元の急所に柄まで深く突き刺さった。

「グァァァァーーー!!!」

 黒水蛟竜は最期の悲鳴をあげ、数百丈に及ぶ巨躯を激しく痙攣させた後、灌江の川底へと沈んでいった。川面は怪物のどす黒い血で赤く染まった。

 悪竜を討ち果たした後、楊戩はその巨躯の上に毅然と立ち、三尖刀を一振りして刃に付着した黒い血を払った。未だ荒れ狂う天空を見上げると、額の天眼から一条のまばゆい黄金の神光が、九天の雲海へと向かって放たれた。

「退け!!!」

 楊戩が低く一喝する。天眼の令に従うかのように、灌江の上空を覆っていた重苦しい暗雲は一瞬にして虚空へと吸い込まれていった。三日三晩続いた豪雨はピタリと止み、薄い霧を通り抜けた朝の最初の温かな陽光が、静まり返った灌江の水面に黄金の糸を紡ぎ出した。

 溢れんばかりだった濁流は瞬時に穏やかさを取り戻し、楊戩と梅山六賢の法力の統制下で、瞬く間に本来の川床へと引き戻されていった。

 天空が晴れ渡る。灌江口の広大な大地は、奇跡的に滅亡の危機から脱したのだ。

 高台や荒廃した村々から、数万の民が次々と姿を現した。彼らの目には、大河のただ中に毅然と立つ黄金の甲冑を纏った二郎神、その傍らに控える猛々しい神獣・哮天犬、そして周囲を守護する比類なき六人の梅山の巨人たちの姿が映っていた。

 ドサッ、ドサッ、ドサッ。

 一人が膝を突き、十人、百人、一万人……灌江口のすべての民が一斉に大地に平伏し、楊戩に向かって深く頭を下げた。彼らの歓声は南の天空を揺るがした。

「二郎顕聖真君、我らをお救いいただき、感謝の極みにございます!!!」

「二郎真君、万歳!!! 梅山七聖真君、万歳!!!」

 数万の民の畏敬の念が一斉に楊戩へと向けられたその瞬間、万の肉体から純白で清らかな光の糸が立ち上り、きらきらと輝きながら舞い上がった。それこそは**「香火の力(こうかのちから、信仰と崇拝の力)」**――天庭のいかなる神仙もが渇望する、最も神聖で純粋、かつ至高の力である。

 香火の力は濁流のごとく楊戩へと流れ込み、その肉体を純白の光の繭のように包み込んでいった。

 ゴオオォォォン……

 楊戩は目を閉じ、無限の温もりが全身の経絡を満たしていくのを感じた。かつて桃山(とうざん)の戦いで負った、太陽真火による深い火傷が、ものの数呼吸の間に完全に癒合し、治癒していった。深く傷ついていた神魂は瞬時にして完全に回復し、体内の法力はかつてないほどの高みへと一気に引き上げられた。

 彼が鳳凰の目を開くと、天眼の放つ神光はさらに鋭く、深みを増していた。楊戩は三尖刀を固く握りしめ、天地の間に毅然と立った。天庭の偽りの冊封や承認などなくとも、下界において最も強大な独立勢力としての地位をここに確立したのである。

「真君!」老村長が震える足取りで川岸へ進み出、ひれ伏して言った。「我らはこの地で最も大きく、最も美しい真君の廟(びょう)を建立することを誓います! あなた様と梅山の義兄弟の方々への崇拝の香煙は、昼夜を問わず、永遠に絶えることはございません!」

 楊戩は地上の善良な民を見つめ、不器用に小さく頷いた。その冷徹な横顔から、凍てつくような冷たさが少し和らいだように見えた。彼は知っていた。もはや自分が孤独な逃亡者ではないことを。守るべき民がおり、生死を共にする梅山の義兄弟がおり、そしていつでも天庭の九天を震撼させるに足る、己自身の勢力を手に入れたのだということを。

 終章:天牢の至福

 その頃、天庭の深き天牢。

 カツン……カツン……

 聞き覚えのある慌ただしい足音が響いてきた。看守の牢頭が、湯気を立てる大きな土鍋を抱え、さらに脂の乗った美味そうな薄切り牛肉の皿と、新鮮な青菜の包みを大事そうに抱えて、ゲンソンの監房へと息を切らしながら走ってきた。その老いた顔には隠しきれない喜びが満ちており、息を弾ませながら叫んだ。

「道士様! 四川風麻辣火鍋を持ってまいりましたぞ! ご所望の通り、極薄切りの極上牛肉でございます! さあさあ、早くこれを召し上がって、私の運気を占ってください!」

 混天綾のハンモックで高鼾をかいて眠りこけていたゲンソンは、火鍋の匂いを嗅ぎつけるや否や瞬時に目を見開き、飢えた猿のごとく床へ飛び降りると、満面の笑みで鉄格子にしがみついた。

「おおっ! 牢頭の兄貴、実に見事な信義の持ち主だ! なんて良い匂いなんだ、鼻がひん曲がりそうだ! さあ早く中へ! 拙道、腹が減って手足に力が入らないところだったんです!」

 牢頭が鉄格子の下の隙間をこっそりと開け、火鍋の土鍋と牛肉を監房へと押し込んだ。ゲンソンは(自分で緩めてガウンのように羽織っていた)混天綾の縛りを解くこともせず、牛肉の一片をひったくると、ぐつぐつと煮え立つ火鍋のスープにくぐらせ、そのまま口に放り込んで満足そうに咀嚼した。

「ふむふむ……美味い! 辛さが体に染み渡る! 兄貴、実に良い店を選びましたね!」

 向かいの監房から、神界で最も寒冷で陰惨なはずの天牢のただ中で、悠然と四川風麻辣火鍋を突くインチキ道士の姿を見た呑天魔王は、あまりの驚愕と理不尽さに目を丸くし、再び口から泡を吹き出した。

「お、おい……嘘だろ……あいつ、本当に天牢で火鍋を喰ってやがる……。この世の秩序はどうなっちまったんだ!?」

 ゲンソンは牛肉を美味そうに咀嚼しながら、牢獄の厚い石壁越しに遥か下界の方角へと視線を走らせた。彼は、灌江口で爆発した楊戩の強大な香火の力と神通力を感じ取っていたのだ。

 インチキ道士の口元に、満足げで意味深な笑みが浮かんだ。彼は火鍋のスープをズズッと啜りながら、独り言を呟いた。

「かぁーっ……火鍋を食いながら特等席で観る芝居は格別だな。あの楊の小僧め、ようやく『神』のあり方ってやつを理解したようだな……」


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