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Episode 6

 広大な平原を貫く灌江(かんこう)は、南方の天地の息吹を帯びて激しくうねり、大海へと奔流していた。この季節、川面は常に綿のごとき濃霧に覆われ、万物を貪り尽くさんと牙を剥く、底知れぬ暗流をその奥に隠匿していた。

 川沿いの最も高い峻険な丘の上に、落成して間もない松脂木(しょうしぼく)造りの社殿が佇んでいた。凌霄宝殿(りょうしょうほうでん)のような壮麗さはなく、竜宮のような金銀財宝の装飾もない。この二郎顕聖真君(じろうけんせいしんくん)を祀る祠堂は、あたかも現在の主そのものであるかのように、沈黙と、深遠なる静寂、あるいは冷徹な佇まいを醸し出していた。軒下に吊るされた銅鈴が、時折風に吹かれては途切れ途切れに鳴り響き、それはまるで歳月の溜息のようであった。

 本殿の中では、香炉から沈香の薄煙が立ち上っていた。楊戩(ようせん)は黄金の神甲を身に纏うことなく、ただ漆黒の長袍(ちょうほう)を羽織り、長い黒髪を肩に散らして、鳳眼(ほうがん)を微かに閉じて蒲団(ほだん)の上に静座していた。その身から放たれる気配には、かつて桃山(とうざん)で猛威を振るった若者の無鉄砲さや狂暴さはもはやなく、代わりに完璧なまでに内斂(ないれん)された鋭利さが宿っていた。それはあたかも、鞘に収まった絶世の神剣のようであり、ひとたび抜かれれば天をも切り裂く威力を秘めていた。

 コツン…コツン…

 殿外から静寂を破る微かな足音が聞こえてきた。立ち込める濃霧の中から、二つのしなやかな人影がゆっくりと歩み寄る。

 先頭を行くのは、端正な容姿を持ち、人間界の文人のような風雅な佇まいを湛えた男であった。彼は汚れなき純白の衣を纏い、扇子を手に、塵一つ留めぬ軽やかな足取りで歩んでいた。しかし、地を掃く長衣の裾に目を凝らせば、時折、雪のように白い狐の尾がふさふさと揺れているのが見え隠れする。これこそが、千年の修行を積んだ妖狐であり、楊戩が幼少期に天庭の追手から逃亡していた日々以来、生死を共にしてきた義兄弟・白神(はくしん)であった。

 白神のすぐ後ろに従うのは、冷たい霧の中に咲き誇る彼岸花のように鮮やかな紅い衣を纏った少女であった。その大きな瞳は潤んでおり、狐族特有の悪戯っぽさと聡明さを宿していた。白神の妹である玉霜(ぎょくそう)は、蓮の葉で密封された陶器の酒甕を両手で大切そうに抱え、弾むような足取りで前方へと進み出た。

「二兄様!二兄様!会いに来ましたよ!」

 玉霜の鈴の鳴るような甲高い声が響き渡り、楊戩を静座の境地から呼び覚ました。

 楊戩はカッと目を見開いた。旧友二人の姿が目に入った瞬間、新任の戦神の鳳眼に宿っていた氷霜が微かに融け、滅多に見せない真摯な微笑みが浮かんだ。

「白神、玉霜。久しいな、二人とも変わりないか?」

 楊戩は立ち上がり、自ら茶を淹れて二人の友をもてなした。

 玉霜は茶碗には目もくれず、酒甕を机に置いて泥封を解いた。刹那、数百種もの花草が凝縮された清らかで甘美な香りが、本殿全体に満ち溢れた。

「お茶なんて飲んでいる場合ですか!二兄様が神に封じられ、社殿を建てられたのですから、私たちが芙蓉の木の根元に五百年間埋めておいた『百花露(ひゃっかろ)』を持ってきてお祝いしなければ!」

 玉霜は目を細めて無邪気に笑ったが、酒を注ぎ終えた時、彼女の視線は楊戩の僅かに乱れた袖口に釘付けになった。そこには、太陽真火(たいようしんか)によってもたらされた、未だ皮膚が再生しきれていない、赤く爛れて血が滲む火傷の痕が生々しく残っていた。

 玉霜の唇から笑みが消え、狐の瞳が赤く潤んだ。彼女は小さな手で楊戩の袖の周りを痛ましそうに撫で、声を詰まらせて咽び泣いた。

「二兄様…痛みますか?桃山の異変を聞いて…でも、私たちの法力が及ばず、お力になれなくて…」

 楊戩はそっと手を引き、玉霜の肩を軽く叩いて慰めた。

「過ぎたことだ。今の私は何ともない。命を長らえ、こうして祠堂を建てられたのだから、天もまだ私を完全に見捨ててはいないということだ」

 これまで黙って酒を嗜んでいた白神が、ここで扇子をパチンと閉じ、机を軽く叩いて深く溜息を漏らした。

「戩兄、お前の胸中にある恨みが一朝一夕に消えぬことは分かっている。だが、桃山での『調を聴いて宣を聴かず(ちょうをきいてせんをきかず)』という誓いは…さすがに傲岸不遜が過ぎる。玉帝は franchise(世論)を鎮めるために表向きはお前を神に封じたが、腹の中でこの屈辱を呑み込めるはずがなかろう。天庭の面目を真っ向から叩き割るような真似は、自らの頭上に剣を吊るすも同然だぞ」

 楊戩は冷鼻を鳴らし、百花露の酒杯を一息に飲み干した。芳醇で温かい酒が喉を通り抜けたが、彼の冷徹な眼差しを温めることはできなかった。

「俺には十成の八九玄功があり、手には三尖両刃刀がある。十万の天兵など雑草のごとく斬り伏せるまで。天庭の剣が振り下ろされようとも、この両手で叩き折ってくれるわ」

 白神は軽く首を振り、声音を低くして厳かに告げた。

「侮るな。狐族の間者が天界から持ち帰った情報によれば、玉帝は既に密旨を下した。天河の精鋭水軍八万を統べる天蓬元帥(てんぽうげんすい)に近衛軍を率いさせ、下界へと急行させている。表向きは南方の河川系統の巡視だが、その実、矛先はお前の灌江口へと真っ直ぐ向けられている。天蓬は桃山にいたような有象無象の雑魚とは違う。武芸の奇才であり、その手に持つ神兵『九歯釘耙(きゅうしていは)』は、かつて数多の洪水荒涼の凶獣を鎮圧してきた。決して油断するな」

 楊戩は玉杯を机に激しく叩きつけ、口元に不敵な笑みを浮かべた。骨の髄から闘志が沸き起こる。

「天蓬元帥か。俺の刀を滾らせてくれるほどの相手を、ちょうど待ち望んでいたところだ」

 灌江の岸辺、楊戩の社殿から数十里離れた場所。この辺りの霧は、手を伸ばしても五指さえ見えないほどに濃密であった。

 その湿っぽく冷え切った空気の中に、数本の竹柱と穴だらけの不格好な防水布で建てられた、今にも崩れそうな粗末な小屋があった。小屋の前には、「ジェスダの祭祀品販売&占い処 — 不運特効」と殴り書きされた木札が掲げられていた。

 至高の権能を持つ古の神であり、2メートル10センチの巨躯を誇るジェンソン・ジェスダは、この時、うだつの上がらない三流道士に身をやつして丸まっていた。彼は(煉瓦で支えられた)一本脚の折れた木椅子の上で胡坐をかき、真っ黒に焦げた焼き芋をハグハグと咀嚼しながら、ボロボロの芭蕉扇をパタパタと煽っていた。犬の毛で作られた付け髭は歪み、煤まみれになっていた。彼が並べている商品は惨憺たる有様で、霧に濡れて互いに張り付いた冥銭の束や、「漢方薬」と称するカビ臭い雑草の束が並んでいた。

 その時、濃霧の奥から一人の長身の男が歩み寄ってきた。彼は漆黒の錦の外套を羽織り、内側には気配を隠匿した軟甲を纏っていた。その容姿は非凡にして眉目秀麗、炯炯たる眼光に高い鼻梁を持ち、一歩進むごとに山岳のような重苦しい威圧感を漂わせていた。彼こそが、地形の偵察のために凡間の武将に変装した天蓬元帥であった。

 通り過ぎる人影を見たジェンソンは、棚ぼたの好機とばかりに焼き芋を地面に放り出し、行く手を阻むように飛び出すと、卑屈な笑みを浮かべて声をかけた。

「おやおや!こちらの威風堂々たる旦那、おみ足を止めてくだされ!お見受けしたところ、額は広く顎は豊かで、まさに人中の龍鳳。なれど…おっと、おっと…」

 ジェンソンは犬毛の髭をなでる仕草をしながら、勿体ぶって首を振った。

 天蓬はもともとペテン師の貧民などに構う暇はなかったが、このエセ占い師の勿体ぶった態度に、天界の美男子としての好奇心が僅かに刺激された。彼は足を止め、胸の前で腕を組み、低く冷ややかな声で言った。

「なれど、何だ? 戯言を抜かせば舌を抜くぞ」

 ジェンソンは相手の殺気などどこ吹く風で、平然と指を折り曲げて数え、大真面目にのたまった。

「なれど、貧道が見るに、旦那の印堂(眉間)は血色が良いものの、いささか桃花運(恋愛運)が過剰に満ち溢れております。満ち溢れすぎて、もはや『桃花劫(おんな難の呪い)』と化しておる! 私の見立てが間違っていなければ、旦那は将来、ある絶世の美女(噂では嫦娥とかいう名だそうで)のせいで身を持ち崩し、名誉も地位も失い、果ては龍鳳の身から…大食漢の醜いドブ豚に成り下がるやもしれん! 恐ろしい、実に恐ろしい! いかがです、この冥銭の束を買って厄払いに燃やしてみては? お安く三文で結構ですぞ!」

 あまりにも荒唐無荒でありながら、天蓬の未来の天劫を完璧に言い当てた預言に、元帥は呆然とした。この時点ではまだ嫦娥(じょうが)が誰なのかさえ知らなかったが、八万の水軍を率いる天界一二を争う美男子神が、路地裏の占い師に「豚」に変わると呪われたのだ。この侮辱は天蓬の天を突く自尊心を真っ向から貫いた。

 天蓬の額に青筋が浮かび上がった。上神の気配が爆発し、ジェンソンのボロ小屋の屋根を吹き飛ばした。

「大胆不敵な狂徒め! 我を侮辱するか! 本日、言葉が災いをもたらすということをその身に教えてやろう!」

 天蓬は九歯釘耙を使うまでもないと、ジェンソンのテントを支えていた竹竿をひったくり、法力を込めて眩く輝く銀槍へと変え、エセ道士の喉元をめがけて猛烈な一撃を突き出した。

 天蓬の槍先は空間をも歪める威力を帯び、霧を切り裂き、凡人には瞬きする暇もないほどの速度で迫った。並みの修仙者であれば、一瞬で喉を貫かれていたであろう。

 しかし、ジェンソンは凡人などではなく、三界のあらゆる法則を超越した古の神であった。ただ、彼は芝居が大層お好みだった。彼は反撃のために神力を一滴も使わず、ただその卓越した経験と超人的な身のこなしだけで、「理不尽なほどに強運な男」を完璧に演じきった。

「うわあああ、お助けをーーーっ!!!」

 ジェンソンは裏返った甲高い声で悲鳴を上げた。

 槍先が首の皮一枚に迫ったまさにその刹那、ジェンソンは先ほど投げ捨てた焼き芋を「踏み外した」かのように見えた。2メートル10センチの巨躯が不格好に後ろへとひっくり返り、四肢を天に向けて仰向けに転倒。寸でのところで死の槍筋を紙一重で回避した。

 天蓬は驚愕して眉をひそめた。槍先が空を切って凄まじい爆音を轟かせる。休む間もなく、彼は手首を返し、地面に倒れているジェンソンの脇腹を狙って槍の柄を真横に薙ぎ払った。

「人殺しだ!お役人が貧乏占い師を殴り殺そうとしてるぞーーーっ!!」

 ジェンソンは大騒ぎしながら、追われる野良犬のごとく泥まみれの地面をゴロゴロと転がった。彼は滑稽なほどに機敏に、何度も何度も回転した。天蓬の槍は突き、斬り、払い、薙ぐと十数手連続で繰り出され、そのどれもが必殺の威力を秘めていたが、なぜか毎回当たるのはボロ衣の裾か、あるいはエセ道士の偽の犬髭を数本切り落とすに留まった。

 虫けらのような存在に手玉に取られ、激怒した天蓬は、手のひらに水気を凝縮させて叫んだ。小規模な津波ほどの威力を秘めた一撃が、ジェンソンに向かって真っ直ぐ放たれた。

 ジェンソンはそれを見て慌てふためく振りをし、足元にあったボロボロの芭蕉扇をひっ掴むと、目くらましとして天蓬の顔面に投げつけた。

「この扇子をやるから!殺さないでくれ!」

 ひらひらと舞う芭蕉扇は天蓬の掌風によって木っ端微塵に引き裂かれた。しかし、視界が扇の破片で遮られたその一瞬の隙に、ジェンソンは既に川岸まで後退していた。彼はバランスを崩した振りをし、青苔の生い茂る地面で足を滑らせ、悲惨な悲鳴を上げながら無様に三回転した。

 バシャーン!!!

 エセ道士は冷たい灌江へと頭から突っ込み、激しい水飛沫を上げた。一秒後、彼のボサボサの頭が急流の中から浮き上がり、激しくむせ返りながら、霧深い下流へと必死に犬掻きで逃げ去っていった。その口からは執拗な呪詛が響いていた。

「君子の復讐は十年経っても遅くはない! 覚えてやがれ、この極悪人め!」

 岸の上で、天蓬元帥は銀槍を収め、軽蔑の冷笑を漏らした。彼は外套の裾を軽く払い、舌打ちをした。

「ただの落ちぶれた市井のペテン師か。運任せの身のこなしだけで生き延びておる雑魚など、我が手を汚す価値もない」

 騒動を片付けた天蓬の視線は、遥か彼方に佇む二郎神の社殿へと向けられた。天河の統帥たる彼の真の殺気が、ここにおいてようやく爆発した。

 ドン!ドン!ドン!

 灌江の濃霧が、九天の上空から轟く激しい陣太鼓の音によって突如として切り裂かれた。川水は逆巻き、白い泡を立てる。天蓬元帥はもはや行方を隠すことなく、その真の姿を現した。

 空は灰色に陰り、雷鳴が轟く。天蓬は数十丈もの高さを誇る巨濤の上に立ち、全身を眩いばかりの「明珠銀甲(めいしゅぎんこう)」に包んでいた。紅い外套が狂風の中で激しく翻る。その手にある天庭の至宝「上宝沁金耙(じょうほうしんきんは)」(九歯釘耙)は、人を威圧する寒気を放ち、神鉄で作られた九つの歯が命を奪う鋭い光を放っていた。

「二郎神・楊戩!天に逆らう重罪人め、命が惜しくば刀を執り、我が教えを受けに来い!」

 天蓬の怒号は、万物の鼓膜を破らんばかりの雷鳴となって響き渡った。

 刹那、松脂木の社殿の屋根から、覇王の気迫を帯びた眩い黄金の光が爆発した。楊戩は雲を蹴って天空へと舞い上がり、天蓬と正面から対峙した。彼は威厳ある「黒金竜甲(こくきんりゅうこう)」を纏い、髪は玉冠で高く結い上げられていた。右手には邪竜の黒気を纏った「三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)」が固く握られていた。

 川岸の下では、白神と玉霜も既に追いついていた。玉霜は兄の衣の裾を固く握りしめ、その美しい顔に明らかな憂色を浮かべていた。一方、白神は扇を開き、天空の二大神のいかなる動きをも見逃すまいと緊張の面持ちで見つめていた。

「玉帝はお前を俺の生贄として寄越したのか? 来い!」

 楊戩は無駄口を叩かず、冷酷に戦端を開いた。

【第一幕:水勢と神通の対決】

 天蓬は九歯釘耙を川面に向けて力強く振り下ろした。灌江の百万トンもの水が一瞬にして逆流し、数万匹の巨大な水龍へと姿を変えた。鋭い氷の鱗を纏った水龍たちは、世界を滅ぼすほどの狂風と化して楊戩へと咆哮しながら襲いかかった。

 楊戩は虚空の真ん中に微動だにせず立ち、口元を吊り上げた。彼は八九玄功を極限まで発動した。その皮膚は瞬時に眩い黄金色へと変わり、肉体は金剛不壊の要塞と化した。彼は両手の力を抜き、全ての威力を刀に込めて、天を割る一閃を放った。

 シュバッ!!!

 数千丈に及ぶ銀色の刀気が天空を切り裂き、万丈の激流を真っ二つに叩き割った。数万の水龍は粉砕され、豪雨となって地上へと降り注いだ。その一撃の破壊力により、灌江は一瞬にして川底を露わにし、数秒後に再び水が激しく流れ込んできた。

【第二幕:生死の接近戦】

 自らの控水術が乱暴に破られたのを見ても、天蓬は些かも怯まなかった。むしろ、その瞳の闘志はさらに激しく燃え上がった。彼は空気を踏みつけ、楊戩に向かって真っ直ぐ突進した。

 二大神兵が天空で正面から激突する!

 キィィン!!! ズドォォン!!!

 金属の擦れ合う轟音が天地を揺るがし、発生した音波の衝撃により、半径五十里以内の民家の窓ガラスが悉く粉砕された。

 天蓬の攻勢は勇猛果敢。その歩法は泰山のごとく揺るぎなく、九歯釘耙から繰り出される一撃一撃は万斤の重みを帯び、あらゆる障害を打ち砕いた。対する楊戩は鋭利にして神出鬼没、あるいは野性的であった。彼の三尖刀の軌跡には、かつて桃山の守護力士たちとの万年に及ぶ血みどろの死闘から培われた、生死の極意が刻まれていた。その刀法は変幻自在で、時には大槌のごとく叩きつけ、時には毒蛇のごとく緻密に急所を穿った。

 二人は空中、水中、霧の中、そして黒雲を貫いて激闘を繰り広げた。百余手もの攻防が交わされ、二人の額からは汗が滴り、武器が衝突するたびに数万の紅い火花が飛び散った。楊戩の八九玄功は無双の硬度を誇ったが、天蓬の明珠銀甲もそれに劣らず堅牢であった。

 天地は覆り、灌江口は激しく揺れ動いた。戦況は膠着状態に陥り、互いに傷を負う消耗戦となった。どちらの一方も、指一本分の優位さえ掴むことはできなかった。二人は胸の内で、相手の天地を揺るがす実力に深く驚嘆し、敬意を抱いていた。楊戩は、天蓬が十万の無能な天兵とは全く異なる本物の戦士であると悟り、天蓬もまた、なぜ玉帝がこの「不義の子」をこれほどまでに恐れるのかを理解した。

 再び刀と釘耙が互いをがっちりと噛み合わせた。二つの毅然とした顔が僅か一寸の距離まで接近し、荒い息を吐き出す。

 天蓬は下界へ視線を落とした。彼らの戦闘の余波により、多くの民家が倒壊し、川水が氾濫して洪水を引き起こしていた。天地を守護する使命を帯びた真の将軍として、天蓬は己の面目のために生霊を塗炭の苦しみに陥れるような真似を許せなかった。

 彼は力を込め、楊戩を十丈先へと押し戻すと、自ら九歯釘耙を収め、逆巻く激流を静かな川面へと戻した。

 楊戩は相手が手を引くのを見て、乗じて追撃することはしなかった。彼は三尖刀の柄を雲に突き刺し、背筋を伸ばして立った。胸を激しく上下させながらも、その瞳から殺気は消え失せ、代わりに宿ったのは一世の好敵手に対する大丈夫(ますらお)としての敬意であった。

「楊戩、お前の八九玄功、流石は名不虚伝だな!」天蓬は外套を翻し、声を張り上げた。「今日の戦いはここまでとしよう。これ以上戦えばこの灌江口が崩壊し、凡人を巻き込むことになる。お前の『調を聴いて宣を聴かず』という誓いは、我が玉帝にありのまま報告しよう。いずれまた、白黒つける機会もあるはずだ!」

 言い残すと、天蓬はつま先で空を蹴り、一筋の銀の虹となって天へと帰還していった。

 楊戩はその背中を見送り、軽く頷いた。彼は気配を収め、ゆっくりと川岸へと降り立った。彼のつま先が地面に触れた瞬間、白神と玉霜が駆け寄ってきた。

「二兄様!お怪我はありませんか!?」

 玉霜は慌てて絹のハンカチを取り出し、釘耙の気迫がかすめて楊戩の肩甲に生じた、ごく僅かな擦り傷から滲む薄い血を拭い取った。白神は安堵の溜息を漏らし、緊張した空気を払うように扇子をパタパタと煽った。楊戩は静かに微笑み、首を振って二人の友を安心させた。

 同じ頃、灌江の対岸にある、葦が生い茂る泥深い物陰の片隅で……。

 エセ道士のジェンソン・ジェスダが、ようやく水面から這い上がってきたところだった。全身は濡れ鼠のようで、偽の犬髭はとっくにどこかへ流されてしまっていた。彼は苔むした岩の上にどっかりと腰掛け、何度もくしゃみをしながら、ボロボロの道服の裾を忌々しそうに絞っていた。

 彼はぐちゃぐちゃになった風呂敷包みを開け、川水でどろどろの泥の塊と化した三つの焼き芋を見つめ、全財産を失ったかのように苦悶の表情を浮かべた。

「あのクソ元帥め…俺の昼飯を台無しにしやがって…」ジェンソンはぶつぶつと毒づいた。

 しかし、彼がふと頭を上げた時、正体を隠した古の神の澄んだ瞳が、遥か対岸で談笑している楊戩たち三人の姿を捉えた。彼は先ほど真っ二つに切り裂かれた川面の場所に視線を戻すと、その口元を僅かに歪め、興味深げな含み笑いを浮かべた。そして、周囲に響き渡る蛙の合唱に声を混ぜ合わせるように、独り言を呟いた。

「やれやれ…。まあ、しかし、最近の若造どもも…なかなか骨のある戦いをするじゃないか…」

 二郎神と天蓬元帥による死闘の余波も冷めやらぬうちに、灌江口(かんこうこう)の空は再び重苦しい鉛色の暗雲に覆い尽くされた。今回のそれは、南方の水郷がもたらす自然の霧などではなく、天庭(てんてい)が張り巡らせた「天羅地網(てんらちもう)」たる不穏な殺気であった。九天より轟く陣太鼓はもはや途切れることなく、夜空を切り裂く雷鳴のごとく激しく、地響きを伴って鳴り響き、天に背く者を根絶やしにするための、真なる大遠征の幕開けを告げていた。

 玉皇大帝(ぎょくこうたいてい)の堪忍袋の緒は完全に切れていた。楊戩(ようせん)の「調を聴いて宣を聴かず(ちょうをきいてせんをきかず)」という誓いは、至高の王権に対する痛烈な平手打ちに他ならなかった。天規の威厳を死守すべく、天庭は最も冷酷にして恐るべき先鋒の戦神、**三太子・哪吒(なた)**を差し向けた。

 この世界において、哪吒は誇り高き美しき「女先鋒将」の姿で君臨していた。彼女は千年の氷雪のように冷徹でありながらも、切れ味の鋭い美貌を持ち、切れ上がった鳳眼(ほうがん)からは容赦なき殺光が放たれ、凛々しい眉は威厳に満ちていた。その華奢な肢体は鳳凰の炎のごとく鮮烈な紅蓮の甲冑に包まれ、足元では**風火輪(ふうかりん)が風を切って猛烈に回転し、万物を焼き尽くす神火を撒き散らしていた。その手にある一丈八尺の火尖槍(かせんそう)は激しく震え、槍先からは太陽真火の紅蓮の炎が吹き荒れる。肩に纏った血のごとき紅き混天綾(こんてんりょう)**は、獲物を求める血龍のようにうねり、舞い踊っていた。

 雲上で哪吒と肩を並べる天蓬元帥の、普段は威風堂々たるその貌は、今や異様なほど沈痛な趣を帯びていた。**九歯釘耙(きゅうしていは)**を握りしめ、遥か眼下の二郎神の祠堂を見下ろす彼の胸中には、名状しがたい複雑な感情が渦巻いていた。彼は知っていた。この戦いはもはや、武人同士の清々しい切磋琢磨などではなく、天の正義の名を借りた一方的な惨殺に過ぎないのだということを。

 祠堂の下、楊戩は毅然と立ち塞がっていたが、その呼吸は深く、重かった。かつて桃山で九つの太陽を撃ち落とした死闘の古傷は未だ癒えておらず、さらに先ほどの天蓬との互角の死闘による余波が重なり、全身の経絡は灼熱の業火に焼かれるかのごとき痛みに苛まれていた。頑強極まる黒金竜甲には無数の亀裂が走り、そこから滲み出る赤黒い鮮血が漆黒の長袍(ちょうほう)を濡らしていた。地深く突き刺さった**三尖両刃刀(さんせんりょうじんとう)**は、主人の身に迫る死を予感するかのように、微かに震えていた。

「楊戩!汝は天に背いて道に違(たが)い、十の日輪を撃ち落とし、今また大逆無道にも天を欺く誓いを立てた!」

 哪吒の鈴を転がすような声音は、冷酷極まりなく空間に響き渡った。

「本日、この三太子が陛下のご命令を奉じ、お前の首を撥ねて凌霄宝殿(りょうしょうほうでん)の前に晒してくれよう!」

「俺の首が欲しくば、この屍を越えて行け!」

 楊戩は咆哮すると同時に三尖刀を力任せに引き抜き、足元の社殿の角を爆砕させながら、一筋の黒い雷光と化して九天へと突撃した。ここに、灌江口の歴史上、最も凄惨な血戦が幕を開けた。

 哪吒は冷笑を浮かべ、足元の風火輪を猛り狂わせ、夜の帳を切り裂く二筋の紅蓮の炎の軌跡を描いた。彼女が火尖槍を振るうと、百万の槍影が流星群のごとく楊戩の頭上へと降り注いだ。時を同じくして、天蓬元帥は胸中で葛藤しつつも、「軍令は山のごとし」、九歯釘耙を振るわざるを得なかった。釘耙が振り下ろされるや、万丈の雷霆と灌江の奔流を伴い、咆哮とともに楊戩へと襲いかかった。

 二対一。しかも相手は天庭の双璧をなす最頂点の戦神。

 楊戩は緒戦から完全に劣勢に立たされた。彼は狂ったように八九玄功(はちきゅうげんこう)を回転させ、肉体を金剛石へと変えて凌いだ。

 キィン!キィン!キィン!

 刀、槍、そして釘耙が交錯する凄まじい金属音が連続して轟き、その衝撃波は周囲の森林や山々を根こそぎ薙ぎ払い、瞬く間に更地へと変えていった。

 しかし、楊戩の肉体がどれほど金剛不壊であろうとも、その内臓はすでに致命的な打撃を受けていた。哪吒の烈火の突きや、天蓬の万鈞の打撃を凌ぐたびに、彼の口端からは鮮血が止めどなく溢れ出た。

「縛れ!」

 哪吒の鋭い一喝。紅き混天綾が突如として万丈の大きさに膨れ上がり、死神の帯のごとく刀の隙間をすり抜け、楊戩の三尖刀と右腕に硬く巻き付いた。この仙宝の緊縛力は凄まじく、彼の腕を流れる真気は一瞬にして封印された。

「死ね!」

 天蓬元帥が上空から急降下し、山を移し海を覆すほどの威力を帯びた九歯釘耙に万雷の天罰の雷を収束させ、身動きの取れぬ楊戩の脳天めがけて叩き下ろした。

「がはっ!」

 楊戩は大量の血を吐き出し、額の第三の目(天眼)には亀裂が走り、血の涙が止めどなく流れ落ちた。彼は虚空に片膝を突き、迫り来る必殺の一撃を前にして、なす術もなくただ見据えるしかなかった。死の影が、これほどまでに近く、現実味を帯て迫ったことはなかった。

 ドウゥゥン!!!

 まさに危機一髪のその瞬間、西方より温かくも底知れぬ強大な翠緑の光が突如として飛来し、巨万の蓮華と化して楊戩の身を遮った。天蓬の放った雷撃がその青蓮に直撃し、天地を揺るがす大爆発を起こしたが、青蓮はただ微かに揺らぐのみで、砕け散ることはなかった。

「**『宝蓮灯(ほうれんとう)』**か!」哪吒は顔色を変えて叫んだ。

 虚空より、純白の衣をはためかせて妹の**楊嬋(ようせん)**が駆け寄った。その美しい容姿は涙と焦燥に濡れていた。彼女は両手で古色蒼然たる蓮花灯を捧げ持ち、全身の仙力を注ぎ込んで兄を守護した。

 同時に、天地を震わせる野獣の咆哮が二声響き渡った。白神(はくしん)と玉霜(ぎょくそう)が同時にその真の姿を現したのだ。一頭は雪のごとく純白の毛並み、もう一頭は火炎のごとく真っ赤な毛並みを持つ、二頭の巨大な九尾の狐が戦場へと乱入した。

 白神は大きく口を開け、最大出力の「天狐幻影霧(てんこげんえいむ)」を吐き出し、神仙の神識をも遮断する濃密な霧で灌江口を満たした。玉霜は狂暴に巨大な尾を切り回し、周囲を包囲していた天兵天将をなぎ倒した。

「早く逃げろ!!!」

 白神は吼え、その巨大な背中で、血まみれになって意識を失った楊戩の身体を受け止めた。楊嬋と玉霜は白神と共に必死の脱出を図った。彼女たちは命がけで「血遁(けっとん)」の光を放ち、立ち込める濃霧を突き抜けて、灌江の遥か深き険しい谷底へと死に物狂いで逃げ延びた。

 混乱と疲弊の極みの中、楊嬋たちは荒涼とした岩だらけの渓谷へと逃げ込んだ。身を隠す場所を探そうとしたまさにその瞬間、ある影と正面衝突した。

 ドスン!

「おいおいおい!目ん玉のついてねえ奴が、この貧道(ひんどう)にぶつかってきやがったのは誰だ!?」

 ぶつかられた相手は、例のエセ道士に化けたジェンソン・ジェスダであった。彼は岩の上にしゃがみ込み、かじりかけの焼き芋を手に、顔中を黒い煤で汚していた。

 楊嬋は目の前の薄汚れた道士に驚き、胸中に奇妙な懐かしさを覚えたものの、一刻を争う事態に「申し訳ございません、道長(どうちょう)!」と叫ぶのが精一杯だった。彼女たちは白神や玉霜と共に、楊戩を抱えて暗い洞窟の奥へと身を隠した。

 ジェンソンはその背中を見送り、焼き芋を一口咀嚼すると、肩をすくめて呟いた。

「そんなに急いで逃げて、まさか俺の焼き芋代を踏み倒す気じゃねえだろうな?」

 渓谷の上空、哪吒と天蓬元帥は狐族の幻影霧を迅速に打ち破った。二人は崖の上に降り立ち、生い茂る獣道を鋭い眼光で走らせた。

 その時、天蓬がふと足を止めた。岩の上に点々と続く血痕を見つめる彼の胸に、自責の念と自己嫌悪が湧き上がった。

「哪吒…」天蓬は声を低くし、苦悩に満ちた表情を浮かべた。「楊戩は、母を亡くしたばかりの身だ。彼が太陽を切り裂いたのは母を救わんがため。天に背く行為とはいえ、人の親孝行としては至極当然の情。我らは天庭の神将でありながら、手負いの者に対して二対一の不意打ちを食らわせ、その上ここまで執拗に追い詰めるなど…あまりにも不義理、武人の風上にも置けぬ恥ずべき行為ではないか!」

 それを聞いた哪吒の、風火輪の回転が微かに弱まった。彼女はしばらく沈黙し、その鳳眼に動揺の光を宿した。もともと矜持の極めて高い彼女にとって、弱者を虐げ、数に物言わせて捻じ伏せる戦闘は、その自尊心を酷く傷つけるものであった。彼女は火尖槍を握りしめ、進むべきか躊躇を隠せなかった。

 二人が道義と軍令の狭間で葛藤していたまさにその時、周囲の空気が劇的に一変した。

 ヒュウゥゥ…

 風など吹いていないにもかかわらず、渓谷の気温は突如として氷点下へと急降下し、骨の髄まで凍てつかせた。空間そのものが凍結したかのようだった。混沌の時代より蘇りし古の神のごとき、目に見えぬ強大かつ残虐な圧迫感が、背後の暗闇から突如として二人のすぐ後ろに現れたのだ。

 その殺気は憎悪から生じたものではなく、宇宙の頂点に君臨する高次元の存在が放つ、絶対的な重圧そのものであった。天庭の双璧たる二大戦神の生存本能が激しく悲鳴を上げた。哪吒と天蓬の全身は激しく震え、冷や汗が防具のインナーを濡らした。あまりの恐怖に身体が硬直。首を後ろに巡らすことすら困難極まりなかった。

「だ、何者だ…!?」

 天蓬は言葉を詰まらせた。まるで太古の巨大な怪獣が自分のうなじのすぐ近くで息を潜めているかのように感じられたのだ。二人はありったけの力を振り絞り、震える手で武器を構え直して振り向いた。世界そのものを一瞬で吹き飛ばしかねない、最古の魔神との対峙を覚悟して。

 しかし、視界に飛び込んできたのは……**文字通りの「大馬鹿野郎」**であった。

 ジェンソン・ジェスダはそこに佇んでいた。ツギハギだらけのボロボロの道服を纏い、片手には古びた竹箒を持ち、もう片方の手の指を鼻の穴の奥深くに突っ込んで、下品極まりない様子で鼻をほじっていた。彼は、恐怖で顔面蒼白になっている二大将軍をぽかんと見つめると、鼻をほじったその指を自らの道服の裾でごしごしと拭った。

 先ほどの恐るべき宇宙的な重圧は、まるで二人の集団幻覚であったかのように、跡形もなく消え去っていた。

 ジェンソンは紅い衣を纏う華やかな哪吒を一瞥し、次いで威風堂々たる天蓬を見つめると、不意に唇を思い切り尖らせて、極めて辛辣かつ皮肉に満ちた声で煽り始めた。

「いやはや!貧道は今日、本当に素晴らしいものを見せてもらったよ!一方はスカートを履いて裸足で走り回るクソガキ、もう一方は近いうちに『豚』に成り下がる無骨な大男。二人の年齢を合わせりゃ数千歳にもなるってのに、重傷を負って満身創痍の男に二対一で襲いかかるとは、なんと面の皮の厚いことか!その上、執拗に追いかけ回して息の根を止めようとするたぁ驚きだねぇ。おやおや、天庭も人材不足が深刻なようだ。こんな不義不理で、面の皮が鉄板より分厚い二人組を下界に送り出すとはな!見てるこっちが恥ずくて死にそうだよ。俺がお前らの立場なら、今すぐ足洗いのタライに頭を突っ込んで、とっととあの世へおさらばするね!」

 その最大級の精神的ダメージを伴う罵詈雑言は、高慢な二大戦神の耳に真っ直ぐ突き刺さった。

「この……生臭道士め!我が三太子を侮辱するか!?」

 哪吒の美しい顔は怒りで真っ赤に染まり、全身が小刻みに震えた。

 天蓬元帥も怒髪天を突き、はらわたが煮えくり返っていた。先ほどの躊躇いなど一瞬で忘却の彼方へと吹き飛び、高貴な元帥としてのプライドが、こんな路地裏の浮浪者じみた男に無礼な暴言を浴びせられることを許さなかった。

「生け捕りにせよ!この不届き者の皮を剥いでくれる!」天蓬が咆哮した。

 かくして、エセ道士の捕縛戦が開始された。しかしこれは、華麗な神通力の応酬などではなく、二大戦神にとって生涯最悪の、精神崩壊をもたらす悲劇の始まりであった。自身の隠遁の掟に従い、ジェンソンは絶対に一撃たりとも反撃しなかった。彼はただ一つの方法、**「究極の無知を装う回避術」**を徹底したのだ。

 哪吒が火尖槍を突き出し、万度の熱を帯びた神火が岩肌を覆い尽くす。

「あちちっ、熱い!」

 ジェンソンは叫ぶと、松の木の根っこに足を引っ掛けた振りをし、2メートル10センチの巨躯を前に崩れ落ちるように倒れ、トゲだらけの密生した茂みの中へと滑り込んだ。哪吒の槍撃は背後の山を半分吹き飛ばしたが、ジェンソンはボロ衣の繊維が数本ほつれただけであった。

「立ち止まれ!」

 天蓬が傍らから九歯釘耙を叩き下ろし、道士を地面に縫い付けようとする。ジェンソンは枯れ葉まみれの頭を茂みから出し、迫り来る釘耙を見て大慌てした。

「助けてくれ!」

 彼はわざとらしく地を踏み外し、川辺の滑りやすい青苔の上で足を滑らせた。全身を独楽(こま)のように三回転させ、釘耙の九つの歯の隙間を奇跡的に潜り抜けると、そのまま砂の上に尻餅をついた。

「死ね!」

 哪吒が混天綾を放ち、縦横無尽に広がる紅い帯がジェンソンの退路を塞ぐ天羅地網を形成した。ジェンソンは地面に仰向けになり、ひっくり返った亀のように手足をジタバタさせた。

「縛らないでくれ!俺はまだ嫁ももらってねえんだ!」

 彼のあまりに無様なもがきは、偶然にも混天綾を傍らの巨岩に強固に絡みつかせ、崩れ落ちた崖が天蓬の突撃ルートを完全に塞いでしまった。

 このようにして、理不尽極まりない「偶然」「強運」「転倒」の連鎖が執拗に繰り返された。哪吒が槍を繰り出せばジェンソンは滑り、天蓬が武器を叩きつければジェンソンは股の下をくぐり抜け、混天綾が迫れば岩の下を転がって逃げた。

 天庭の双璧をなす最強の戦神たちが、目まぐるしく飛び回り、全力を尽くして荒涼とした渓谷を破壊し尽くし、土砂が舞い散り雷鳴が轟いた。しかし、防身の法力など微塵も持ち合わせていないはずのただの道士は、終始悲鳴を上げながら無邪気に走り回り、何の罪もないようなとぼけた顔をしていた。

 時間は静かに流れていった。

 一刻(いっこく)、そして二刻(にこく)――連続して約四時間という果てしない時間が経過した。

 灌江の空は漆黒の闇から、徐々に朝の光に照らされ始めていた。

 荒廃しきった渓谷の中で、天庭の誇り高き二大戦神は、かつてないほどの無様な醜態を晒していた。気高き女将・哪吒は、髪が鳥の巣のように乱れ、紅蓮の肩甲は歪み、息は絶え絶え、仙力を完全に使い果たしたために風火輪はとっくに消滅し、その素足からは血が滲んでいた。天蓬元帥は九歯釘耙を杖代わりに地面に突き立て、肩を揺らして呼吸し、顔は煤と埃まみれ、極限のストレスで目の周りには真っ黒なクマができていた。彼らは、まるで万年にも及ぶ精神的拷問を受け続けたかのような絶望感を覚えていた。

 瓦礫のただ中で、ジェンソンはようやく「走り疲れた」かのように岩の上に腰を下ろし、両手を胸の前に突き出してハァハァと息を荒くした。

「もう駄目だ…疲れ死にそうだ…。あんたら二人とも、飢えた蛭(ひる)のようにしつこいな…。俺の負けだ、縛れ、好きに縛るがいい…」

 哪吒は歯をギリギリと鳴らし、混天綾を投げつけてジェンソンを頭から足の先まで、巨大なちまき(粽)のようにぐるぐる巻きにした。

 こうしてエセ道士を捕らえはしたものの、哪吒も天蓬も、勝利の喜びなど微塵も感じていなかった。彼らの心を満たしていたのは、骨の髄までの疲弊と、耐え難い屈辱感であった。天下の二大戦神が、鼻をほじる奇行種を一人捕らえるために、二刻(四時間)も費やしたのだから!

「はぁ…こ、こいつを天庭に連行し…処罰する…」天蓬は枯れた声で力なく手を振った。

 哪吒は一言も発せず、ジェンソンを縛り付けた混天綾の端を掴み、細い雲を踏みしめて天へと飛び立った。

 逆さ吊りの状態で空中へ運ばれるジェンソンだったが、恐怖や苦痛の色など皆無であった。それどころか、捕らえられてから僅か数分後、紅い帯の隙間から規則正しい寝息が聞こえてきたのだ。

「ふごぉー…グゥー…ふごぉー…」

 彼は完全に熟睡し、青空に向かってヨダレをダラダラと垂らし始めた。

 天蓬と哪吒は、すぐ隣で雷のような大イビキをかいて眠りこける奇天烈な男を眺め、目元を激しく引きつらせながら無言で進み続けた。彼らは、このエセ道士との二刻に及ぶ無意味な「お戯れ」こそが、天庭の楊戩追殺計画を根底から打ち砕いた張本人であるとは、露ほども気づいていなかった。

 その間、別の場所では、あの「神がかり的な時間稼ぎ」のおかげで、楊嬋、白神、玉霜は満身創痍の楊戩を連れて遥か数万里の旅路を無事に乗り越え、天地の霊気が満ち溢れる**「西岳華山(さいがくかざん)」**の頂へと降り立っていた。そこは天庭軍の直接的な追及が及ばぬ聖域。

 戦神・楊戩は生き延び、さらなる強大な再生への準備を整えつつあった。そして、三界を揺るがす波乱に満ちた新たな章が、静かに幕を開けようとしていた。

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