Episode 78
ここ数日、深い山々を覆っていた空は、重苦しい霧雲をようやく払い始めたようだった。鮮やかな黄金色の陽光が、天高くそびえる松の枝葉の隙間から差し込み、あらゆるものを温かく包み込んでいる。激流と化していたラク・トゥイ川も、今ではすっかり流れが穏やかになり、先日の豪雨と洪水の際のように、荒れ狂う水音を響かせることもなくなった。
大きな災害によって荒廃した村では、川の両岸に暮らす人々が、家屋の修繕や倒壊した柵の立て直し、荒波に打ちのめされた船着き場の補強に追われていた。
僕――ラム・チエウ・バンは、もともとこうした穏やかな時間がことのほか好きだった。
決して、今の森には熟れた甘い果実がいつもよりたくさん実っているからでもなければ、天候が過ごしやすく、穏やかになったからでもない。
ただ単純に、市場のある村で人々があちこち忙しなく立ち働いている姿を眺めていると、僕自身も、心ゆくまで面白そうなことを探し、いろいろな経験をすることができるからだ。
その日の朝、まだ夜明けの光がわずかに顔をのぞかせた頃。
僕は低い松の枝にまたがり、風に吹き飛ばされて枯れ枝の間に引っかかっていたスズメの巣を、二本の指で慎重に取り外していた。
小さなリスは枝先にぶら下がり、前足で栗をしっかりと抱え込んでいる。時折、首を傾けては下の様子をうかがっていた。
「おい、チエウ・バン。そんな鳥のゴミの塊を、いったい何のために苦労して取り外しているんだ?」
リスは口を尖らせながら尋ねた。
「もっと安全な枝に戻してやろうと思ってね」
「中に卵や雛でも残っているのか?」
「いや、一羽もいないよ」
「じゃあ、何のためにそんな面倒なことをするんだ?」
僕はぼろぼろになった藁編みの巣を見上げた。
「元の場所に戻しておけば、母鳥が帰ってきたとき、傷を癒やすための巣が残っているだろう?」
リスは栗をぽりぽりと噛み砕きながら言った。
「お前はいつだって、いなくなったものがそのうち戻ってくるなんていう、甘ったるい幻想を抱いているんだな」
僕の手が、空中でぴたりと止まった。
しばらく古びた鳥の巣を見つめていたが、やがて僕は、それをもう少し頑丈な枝分かれの部分にそっと置いた。
「もしかしたら……今度は本当に帰ってくるかもしれないだろう?」
僕は軽く身を弾ませて地面に飛び降り、服についた木くずを払った。
リスは目にも留まらぬ速さで枝を駆け下り、僕の肩にしがみついた。
「それで、今日はどこへ行くんだ?」
「村へ下りるよ」
「甘い菓子はもらえるのか?」
「たぶんね」
「だったら、ぐずぐずしてないでさっさと歩け!」
僕は思わず声を上げて笑った。
いつもの籐籠を手に取り、乾燥させた薬草の袋をいくつか確かめてから、慣れ親しんだ山道を下り始めた。
今日はファム・フウ・テーと会う約束をしていた。
以前、フウ・テーは、村で大洪水の後の平穏を祈り、厄を払うための灯籠流しが行われると、目を輝かせながら話してくれたことがある。
大きな洪水の後、水が引くたびに、村人たちはこの儀式を続けてきたという。
小さな紙の灯籠に火を灯し、それをラク・トゥイ川の流れにそっと浮かべる。そこには、すでに亡くなった人々への祈りや、行方知れずとなった人々への思い、そして遠い土地をさまよいながら暮らしている人々の無事を願う、心からの祈りが込められるのだそうだ。
僕は、これまで一度もそのような祭りに参加したことがなかった。
フウ・テーから話を聞いただけだったので、胸の内には言いようのない好奇心が膨らんでいた。
市場のある村の入口に足を踏み入れたとたん、色鮮やかな紙飾りが、通りのあちこちに張り巡らされている光景が目に飛び込んできた。
子供たちは歓声を上げながら追いかけっこをし、大人たちは竹や紙を抱えて水辺へと忙しそうに運んでいる。何人かの大工たちは、二つの船着き場を結ぶ小さな木橋の修理に汗を流していた。その一方で、別の人々は机や椅子を並べ、供物を飾る準備を進めている。
村には、いつもよりずっと活気に満ちた、賑やかな空気が漂っていた。
僕が川辺の船着き場に足を踏み入れたとき、背後から突然、大きな声が飛んできた。
「チエウ・バン!」
フウ・テーは、今にも崩れそうな古い木舟の上に危なっかしく立ち、両手で係留用の縄を強く引っ張っていた。
彼は僕を見つけると、勢いよく手を振った。
「早くこっちへ来て、ちょっと手を貸してくれ!」
僕は足早に近づいた。
「何をしているんだ?」
「船を繋ぎ留めているんだ。先日の洪水で小舟が何艘か流されちまったけど、幸い、こいつだけは残ったんだよ」
フウ・テーは縄をぴんと張り、その具合を確かめるように目を凝らした。それから、極めて手際よく、きっちりと結び目を作った。
僕は彼の動作を、一つ一つじっと観察していた。
「その結び方、前に教えてくれたものと同じだね」
「当たり前だろ。この結び方は、しっかりと固定できるうえに、いざというときには一瞬でほどけるんだ」
彼は縄の結び目を持ち上げ、自慢げに見せた。
「覚えてるか? この船着き場で、前に俺がお前に教えてやったんだぞ」
僕は頷いた。
「もちろん覚えているよ」
「なら、もう一度やってみろよ」
フウ・テーは手近にあった別の縄を、僕に放り投げた。
僕はそれを受け取り、身をかがめて木杭に巻きつけた。
最初の試みでは、縄を回す方向が少しずれてしまった。
フウ・テーは黙ったまま、何も批評しなかった。
二度目には、結び目がずっと引き締まり、しっかりと固定できるようになっていた。
彼は身をかがめて確認すると、縄を強く引っ張って試し、満足そうに頷いた。
「いいじゃないか。これなら問題ない」
僕は自分で結んだ結び目をじっと見つめた。
「でも、まだ見た目があまりきれいじゃないな」
「縄を結ぶのは船を固定するためだぞ。飾って眺めるためじゃないんだから、見た目まで気にしてどうするんだ?」
「でも、頑丈で、そのうえ見た目もきれいなら、そのほうがいいじゃないか」
フウ・テーは吹き出した。
「まったく、この坊主は何から何まで注文が多いな」
そのとき、僕たちのすぐ後ろから、聞き覚えのある女の声がした。
「縄を結ぶだけのことにまで、そんなにこだわるものなの?」
僕たちは驚いて、同時に振り返った。
ハー・ティン・ルウ・ホアが、大きな籐籠を抱えてこちらへ歩いてきていた。
籠の中には、香りのよい葉の束や漢方薬の包み、それに小さなトウモロコシ餅が、青いバナナの葉に丁寧に包まれてぎっしりと詰められている。
彼女は籠を近くの木の机に置いた。
「チエウ・バン、あなたも朝早くから来ていたのね?」
「はい」
ルウ・ホアは僕に微笑みかけたあと、横目でフウ・テーを見た。
「男の子が二人も集まっているのに、さっきから何も手伝わずにいるの?」
フウ・テーは慌てて縄を指差した。
「俺は今、バンに最高級の縄の結び方を伝授していたところだぞ!」
「本当に?」
「もちろんだとも」
ルウ・ホアは身をかがめて結び目を観察し、感心したように頷いた。
「あら、なかなか上手じゃない」
僕は思わず口元を緩めた。
フウ・テーは腕を組み、勝ち誇ったように胸を張った。
「ほらな? 俺の教え方がどれほど上手いか、分かっただろ!」
「私が褒めているのはバンが結んだ縄よ。あなたのことなんて一言も褒めていないのに、どうしてそんなに得意げなの?」
フウ・テーは途端に言葉に詰まり、しょんぼりとうなだれた。
僕はとうとう堪えきれず、声を上げて笑ってしまった。
ルウ・ホアは僕のほうへ向き直り、穏やかな声で尋ねた。
「ねえ、あそこの長机まで、この薬草の籠を運ぶのを手伝ってくれる?」
「もちろんです」
「気をつけてね。その小さな布袋には、貴重な薬の粉が入っているから」
僕は腰をかがめ、両手で重たい籐籠を持ち上げた。
僕の肩に乗っていた小さなリスは、トウモロコシ餅の匂いを嗅ぎつけた途端、首を伸ばして鼻をひくひくさせ始めた。
ルウ・ホアはその物欲しそうな視線に気づくと、籠の蓋の上に小さな餅を一つ置いてやった。
「はい、ご褒美よ」
リスは大喜びで、すぐさま頭を下げて餅にかぶりついた。
僕はそいつをじろりと睨んだ。
「さっきまで僕を急かしていたのは、誰だったかな?」
リスは餅を胸に抱え込むと、僕の言葉など聞こえなかったかのように、すっかり無視してしまった。
フウ・テーは腹を抱えて笑った。
「俺に言わせれば、本当の一家の主はこいつだな!」
昼が近づくにつれ、ラク・トゥイ川のほとりはますます賑やかになり、人出も増えていった。
小さな竹舟は、提灯や色鮮やかな紙の花で華やかに飾りつけられている。村人たちは水辺のすぐそばに低い木製の台を組み立て、灯籠を川へ流す前に供物を並べる場所を整えていた。
近くの空き地では、ザー・トゥオンが若者たちと一緒になって、大きな木材を運びながら声を張り上げていた。
彼は相変わらず、岩のように頑丈そうな体つきをしていた。擦り切れた茶色の服の袖を肘の上までまくり上げ、節くれだった両手には木くずがびっしりと付いている。
遠くから僕の姿を見つけると、ザー・トゥオンはすぐさま大声を張り上げた。
「チエウ・バン! こっちへ来て手伝え!」
僕は薬草の籠を机に置き、慌てて駆け寄った。
ザー・トゥオンは、ずっしりと重そうな長い木材を指差した。
「お前はこっちの端を持ち上げてくれ!」
僕たちは二人で力を合わせ、木材を肩の高さまで持ち上げた。
ザー・トゥオンにとって、この程度の木材は大した重さではない。だが、反対側の端が大きく張り出しているため、人にぶつからないよう、誰かがしっかり支えておく必要があった。
僕は歩幅を計りながら足を踏み出し、地面をしっかりと踏みしめた。重心を低く保ち、ザー・トゥオンと息を合わせてゆっくり歩き出す。
僕たちは人混みの間を慎重にすり抜けていった。
木材を安全な場所に下ろすと、ザー・トゥオンは肩についた木くずを払い、にかっと笑った。
「お前、最近は腕の力がずいぶん強くなったじゃないか」
僕は自分の腕を揉みながら尋ねた。
「本当に?」
「本当だとも。前なら俺が軽く押しただけで、ころころ転がっていったのに、今じゃ少しは肉もついてきたからな」
「じゃあ、今ならどうなんだ?」
ザー・トゥオンは白い歯を見せて笑った。
「それでも、やっぱり転がるさ」
僕は思わず吹き出した。
「それじゃ、前と何も変わっていないじゃないか」
「違うさ。今のお前は……転がり方にずいぶん風格が出てきたんだよ」
僕たちは二人そろって、腹の底から笑った。
ザー・トゥオンは、遠くにある空き地を指差した。
「そういえば、今日の午後、祭壇広場で武芸の一座が演武を披露するらしいぞ。俺はあとで見に行って、目を肥やしてこようと思っているんだ」
「本当に殴り合ったりするのかな?」
「さあな。噂じゃ、目にも留まらぬ速さで剣を振るったり、すごい蹴りや拳法を披露したりするらしいぞ」
「僕もすごく見てみたいな」
「なら、仕事が全部片づいたら、一緒に見に行こうぜ。思う存分楽しもうじゃないか」
昼を大きく過ぎた頃になって、ようやく夜の祭りに向けた準備が一通り整った。
僕はルウ・ホアのところへ戻り、薬草の袋を机の上にきちんと並べるのを手伝った。そのあと、フウ・テーと一緒に船を繋ぎ留めている縄を一つ残らず点検した。
こうした何気ない仕事は、どれもありふれたものばかりだった。
それなのに、僕の心には不思議な温もりが広がっていた。
あるときは、誰かに呼ばれて竹の束を運ぶのを手伝い、またあるときは、釘抜き用の金槌を取ってきてほしいと頼まれる。
通りかかったおばあさんが、作業の合間に食べるようにと、焼きたてのトウモロコシ餅を僕の手に握らせてくれたことさえあった。
どうしてこの漁村の人々は、森の奥で孤独に暮らす身寄りのない子供に、これほどまで親切にしてくれるのだろう。
僕はどうしても、その理由をうまく理解できなかった。
僕はただ、ときどき薬草を市場へ持っていって物々交換をし、たまに彼らのちょっとした仕事を手伝うだけの存在だ。
自分がこの村の一員だなどと、思ったことは一度もなかった。
けれど今日という日に限っては、誰一人として僕を、深い森の中で孤独に暮らす野生児のようには扱わなかった。
彼らは、ほかの村の子供たちを呼ぶのと同じように、ごく自然に僕の名前を呼んでくれる。
その感覚は、どこか遠く、どこか不慣れなものだった。
けれど、決して嫌なものではなかった。
ただ……あまりにも馴染みがなく、不思議なだけだった。
一通り働き回ったあと、僕が川辺の石段に腰を下ろして休んでいると、背後から聞き覚えのある、どこか気位の高い少女の声が響いた。
「こんなところで、ぼんやり座って何をしているの?」
僕は驚いて、勢いよく振り返った。
そこには、木陰に佇むフア・ティン・ティの姿があった。
彼女はいつものように、青みを帯びた白を基調とする上品な衣装をまとい、腰には見慣れた長剣を差している。その背後には、従者の少年が姿勢を正して立ち、両手で木箱を恭しく抱えていた。
僕は手をついて立ち上がった。
「ちょっと休んでいただけだよ」
「こんな隅っこで?」
「うん」
フア・ティン・ティは、周囲の賑やかな光景を見渡した。
「あなた、いつからこの村の平民たちと知り合いになったの?」
「何人かとは知り合いだよ」
「それで、わざわざ彼らの雑用まで手伝っているの?」
「うん」
彼女は冷ややかな目を僕の手元へ落とした。
掌には、最近できたらしいいくつかの硬いタコがはっきりと浮かび、その傍らには、まだ完全には塞がっていない新しい擦り傷も残っていた。
「武芸の稽古は、きちんと続けているのでしょうね?」
「続けているよ」
「何を習っているの?」
「立ち方、足運び、受け身、それから組み合いの技術かな」
フア・ティン・ティは、目を細めて僕を見た。
「受け身まで、真面目な修行の一つに数えるつもりなの?」
「ザー・トゥオンに教わったんだ」
「ザー・トゥオンって誰?」
「この前、一緒に黒牛を助けるのを手伝ってくれた友達だよ」
フア・ティン・ティはその人物にまったく心当たりがない様子だったが、それ以上詳しく尋ねるつもりもないらしい。
彼女は顎で、祭りの準備が進められている場所の奥にある空き地を指した。
「こっちへ来て、あの広場に立ちなさい」
僕はきょとんとした。
「何をするの?」
「数日間、師匠について修行したのでしょう? あなたの腕前がどれくらい上達したのか、確かめてみたいの」
少し意外に思ったものの、僕は素直に草の生えた広場へ歩いていった。
フア・ティン・ティは木箱を地面に置き、腰の袋から小ぶりの木剣を一本取り出した。
そして、それを僕のほうへ軽く放り投げた。
僕は慌てて両手で受け止めた。
「僕、まだ剣術なんて何も知らないんだけど」
「でも、私は知っているわ」
「だったら、どうして僕に剣を持たせるの?」
「あなたの体幹と、姿勢を保つ力がどれくらい身についているのかを確かめたいだけよ」
フア・ティン・ティは一歩前へ出て、僕の正面に立った。
「絶対に攻撃してはいけないわ。あなたはただ、しっかりと構えて倒れないように立っていればいい」
僕は深く息を吸い、両足を広げて地面を踏みしめた。
左足を半歩前に出し、膝を曲げ、全身の重心をできるだけ低く落とす。
フア・ティン・ティは、僕の姿勢を上から下まで見定めた。
「前よりは、少しましになったわね」
僕は微笑んだ。
「いろいろと頑張って身につけたからね」
「まだ得意になるのは早いわよ」
彼女は一歩近づくと、細い二本の指で僕の肩を軽く押した。
僕は倒れなかった。
体がわずかによろめいたものの、後ろ足を素早く動かして、すぐに体勢を立て直すことができた。
フア・ティン・ティは感心したように頷いた。
「続けるわよ」
今度は、彼女はもう少し力を込めて押してきた。
僕は慌てて半歩後ろへ下がり、右足の向きを少し変えて、地面をしっかりと踏み直した。
彼女は手を引いた。
「悪くないわね」
僕は彼女をじっと見つめた。
「ということは、僕は本当に上達したってこと?」
「上達はしたわ。でも、ほんの少しだけよ」
「ほんの少しって、どれくらい?」
「最初に触れられただけで、簡単に転がされなくなった程度ね」
僕は思わず吹き出した。
彼女は僕の手にある木剣へ視線を向けた。
「今度は、その剣を持ち上げて構えてみなさい」
僕は素直に従った。
しかし、腕には余計な力が入り、上半身まで硬くなってしまっていた。
フア・ティン・ティは一歩近づき、僕の肘を指先で軽く叩いた。
「肩をそんなに強張らせて、力任せに構えようとしては駄目よ」
「じゃあ、どこに力を入れればいいの?」
「腕で構えを保ちながら、手首は柔軟に使うの。肩はできるだけ力を抜いておきなさい」
彼女はすっと後ろへ下がった。
「それじゃあ、一度振ってみて」
僕は木剣を振り上げ、空を斬った。
だが、剣筋は大きくずれ、切っ先が地面に向かって垂れ下がってしまった。
フア・ティン・ティは眉をひそめた。
「あなた、薪割りをしているの? それとも剣を振っているつもりなの?」
僕は自分の手にある木剣を見下ろした。
「薪を割る動きと剣を振る動きって、そんなに違うものなのかな」
「まるで違うわよ。比べること自体が間違っているくらいにね」
彼女は自分の木剣を抜き、体をわずかに傾けて構えた。
次の瞬間、彼女の剣が風を切り、空中に滑らかな弧を描いた。
目が回るほどの速さではない。
それでも、剣の軌道は驚くほど無駄がなく、研ぎ澄まされていた。
切っ先は寸分の狂いもなく、定められた角度でぴたりと停止する。手首には震え一つなく、その身のこなしにも余計な動きはほとんど見られなかった。
僕は目を見開き、その細かな動きの一つ一つを食い入るように観察した。
フア・ティン・ティは剣を引いた。
「やってみなさい」
僕は彼女の動きをそっくりそのまま真似した。
今度は、剣筋が先ほどよりもずっと真っ直ぐになった。
「そう。それでいいわ」
彼女は短く言った。
それから身を翻し、これ以上説明するつもりはないとでもいうように、さっさと立ち去ろうとした。
僕は手にした木剣を見つめ、慌てて彼女の背中に声をかけた。
「ねえ、お願いだから、剣術の基本的な型をもう一つ教えてくれない?」
フア・ティン・ティは足を止めた。
「あなた、本当に剣術を習いたいの?」
「うん」
「なら、まずは正しい剣の持ち方を、きちんと身につけることね」
「今だって、ちゃんと持っているつもりだけど」
「あなたの持ち方は、台所の隅に転がっている腐った薪でも抱えているみたいよ」
僕は手元の剣を見下ろした。
「薪だって別にいいじゃないか。どうせ、どちらも人を斬れるんだから」
背後に控えていた従者の少年は、それを聞くなり、口元を手で覆ってくすくすと笑いをこらえた。
フア・ティン・ティは、鋭い眼差しで少年を横目に睨みつけた。
少年はぎょっとして、慌てて顔を背けた。
彼女は再びこちらへ向き直った。
「次に会うときには、あなたがどれほど上達したのか、改めて確かめてあげるわ」
そう言い残すと、彼女は木箱を持ち上げ、そのまま立ち去ろうとした。
僕は遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら声をかけた。
「もうすぐ灯籠流しが始まるのに、少し見ていかないの?」
「そんなくだらないことに時間を費やしている暇はないわ」
「じゃあ、わざわざこんなところまで何をしに来たの?」
フア・ティン・ティは、一瞬だけ口を閉ざした。
「……通り道だっただけよ」
僕は頷いた。
「なるほど、そういうことか」
彼女はくるりと背を向け、そのまま歩き去っていった。
しかし、数歩進んだところで、冷ややかな声が再びこちらまで届いた。
「それから、利き手の指で剣の柄を強く握り締めすぎては駄目よ。不意に相手から奇襲を受けたとき、剣筋を切り替えるのが間に合わなくなるわ」
僕は呆気に取られたまま、遠ざかっていく彼女の背中を見送った。
手にした木剣を少し持ち上げ、言われたとおりに指の力を緩めてみる。
「分かったよ!」
フア・ティン・ティは振り返ることなく、返事もしなかった。
ただ、その口元には、ほんのかすかな笑みが浮かんでいた。
***
夜の帳が辺り一面を覆い始める頃、村人たちはラク・トゥイ川のほとりへ次々と集まってきた。
手作りの紙灯籠は、小さな木製の盆の上に一つずつ丁寧に並べられている。それぞれの灯籠の内側には、真っ白な紙が一枚入れられており、人々はそこに自らの手で亡き家族の名前や、平穏を願う祈りを書き記すのだ。
僕は、低い木の机の傍らに静かに腰を下ろしていた。
目の前には、淡い黄色の紙灯籠が一つ置かれている。
その内側にある真っ白な紙を、僕は長いことじっと見つめていた。
隣の机では、ルウ・ホアが年老いた人々のために、家族の名前を灯籠へ書き記す手伝いを根気よく続けていた。
「チエウ・バン」
彼女が僕を呼んだ。
僕ははっと顔を上げた。
「はい?」
「この灯籠には、何を書きたいの?」
僕は視線を紙へ戻した。
「僕は……字が読めないし、書けないんです」
ルウ・ホアは優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。お姉さんが代わりに書いてあげるから」
僕は小さく頷いた。
ルウ・ホアは筆を手に取り、墨を含ませた。
しかし、筆先を紙に下ろす直前、彼女の手がふと止まった。
「誰の名前を書けばいいの?」
僕は黙り込んだ。
しばらくして、ようやく絞り出すように答えた。
「……父さんと母さんの名前を」
ルウ・ホアの筆先が、空中でぴたりと止まった。
彼女は驚いたように目を上げ、僕を見つめた。
僕は相変わらず、真っ白な紙から目を離さなかった。
「僕……もう二人の本当の名前を、はっきりとは覚えていないんです」
その言葉は、ひどく平坦で、淡々とした調子で口からこぼれた。
けれど、そのあまりにも平静な声が、かえってルウ・ホアの胸を締めつけた。
彼女は、どうしてなのかと尋ねることはなかった。
ただ、そっと筆を紙に下ろした。
「それなら、『両親』と書いてあげましょうか?」
僕は顔を上げて彼女を見た。
「それは、父さんと母さんのことですか?」
「ええ、そうよ」
僕は唇をきゅっと結び、小さく頷いた。
ルウ・ホアは丁寧に筆を運び、白い紙の上に「両親」と二文字を書き記した。
その筆遣いは柔らかく、整っていて、どこか温かな情が込められているようだった。
その下には、余計な言葉を一つも書き加えなかった。
僕は、その二文字をじっと見つめた。
すると、不意に意識が、何年も前のある早朝へと引き戻されていった。
あの頃、夜明けの光はまだ地平線の向こうに隠れていた。
凍えるような冷気が、古い松林の枝葉の間を吹き抜けていた。
目の前には、二つの大きな人影が立っていた。
一人は身をかがめ、僕の襟元を優しく整えてくれた。
もう一人は、温かな手のひらを僕の頭にそっと置いた。
二人は、必ずすぐに戻ってくると、何度も約束してくれた。
けれど、やがて朝日は高く昇った。
そして、焼けつくような昼の陽射しが過ぎ去った。
さらに、暗い夜の帳が辺りを覆った。
それでも、二人は二度と帰ってこなかった。
僕は荒れた指先で、紙に書かれた二文字をそっとなぞった。
「ありがとうございます」
ルウ・ホアは筆を置き、優しく首を横に振った。
「お礼なんていらないわ」
彼女はしばらく僕を見つめていたが、それ以上、何も尋ねようとはしなかった。
時として、心の奥底まで突き刺さった悲しみを癒やすために、ありきたりな慰めの言葉など必要ない。
ただ黙って隣に座ってくれる人が一人いる。
それだけで、十分に心は温まるものなのだ。
***
空が完全に深い闇へと沈むと、灯籠流しの祭りが正式に始まった。
船着き場のほうから、低く荘厳な鐘の音が響き渡る。
村人たちは一人ずつ、敬虔な面持ちで灯籠を水辺へと運んでいった。
小さな灯籠に蝋燭の火が灯されると、黄金色の光が川面に揺らめき、幾千もの幻想的な光の筋を生み出した。
子供たちは岸辺を駆け回って歓声を上げ、大人たちは静かに手を合わせて祈りを捧げている。
灯籠を水に浮かべたあと、涙をこらえながら両手を合わせ、深々と頭を下げる者もいた。
遠ざかっていく灯火をじっと見つめ、今にも泣き出しそうなほど目を赤くしている者もいた。
僕はルウ・ホアの隣に立ち、黙ってその光景を見つめていた。
両手には、「両親」という二文字が記された灯籠がある。
僕はそっと身をかがめ、それを静かに水面へ置いた。
灯籠はわずかに揺れながら、ゆっくりと流れ始めた。
夜風が吹き抜け、灯籠の中の蝋燭の炎が大きく揺らめいた。
僕は思わず手を伸ばし、倒れないようにそっと支えた。
そして、手を離し、ゆっくりと沖へ押し出した。
灯籠は、流れの速い川に乗って、少しずつ遠ざかっていく。
小さな光は、やがて何百もの灯火の中へ溶け込んでいった。
僕は、その場に立ち尽くしたまま、いつまでも眺めていた。
涙は流さなかった。
父さんと母さんが戻ってくるような、奇跡を願うこともしなかった。
ただ黙って、川の曲がり角の向こうへ消えていく灯籠を見送った。
ルウ・ホアはすぐ隣に立ち、何も言わなかった。
長い沈黙のあと、僕はようやく彼女のほうを向いた。
「ルウ・ホア姉さん」
「ん? どうしたの?」
「亡くなった人たちにも、この灯籠の光は見えるんでしょうか?」
彼女は暗く沈んだ川面を見つめた。
「お姉さんにも、よく分からないわ」
「それなら、どうしてみんな毎年わざわざ灯籠を流すんですか?」
ルウ・ホアは少し考え込んでから、静かに答えた。
「きっと、生きている人たちが、亡くなった人たちに伝えたいのよ。この世で、あなたたちのことを忘れた者は誰もいないんだって」
僕は俯き、川面を見つめた。
「それなら……よかった」
彼女は不思議そうにこちらを向いた。
「どうして、そう思うの?」
「少なくとも、自分のことを懐かしく思ってくれている人がいるって、分かるから」
ルウ・ホアは何も答えなかった。
ただ、その口元に、優しい微笑みがかすかに浮かんだ。
***
灯籠流しが終わると、人々は少しずつ散り始め、後片づけに取りかかった。
灯籠の多くはすでに遠くまで流され、岸辺の近くには、いくつか引っかかったものが残っているだけだった。
村人たちは机や椅子を片づけ、残り火を一つずつ消していった。
僕は川辺の石段に座り込み、ぼんやりと川を眺めていた。
やがて、ザー・トゥオンが黙って近づいてきて、僕の隣にどっかりと腰を下ろした。
そして、トウモロコシ餅を一つ差し出した。
「ほら、食えよ」
僕はそれを受け取った。
「お前も灯籠を流したのか?」
「うん」
「何を書いたんだ?」
ザー・トゥオンは暗く深い川の流れを見上げた。
「親父の名前だ」
僕は彼のほうを向いた。
ザー・トゥオンは相変わらず、前方をじっと見つめていた。
「俺がまだ小さい頃に死んじまったんだ」
「……」
「もう顔もほとんど覚えていない。ただ、組み打ちのやり方を教えてくれたこととか、森の奥まで連れていって魚を捕ってくれたこととか、それから、転んでも怖がるなって、いつも口うるさく言っていたことくらいは覚えている」
彼は自嘲するように、かすかに笑った。
「どうだ? それなりに覚えているほうだろ?」
僕は自分の両手を見下ろした。
「父さんと母さんは、あの朝、必ず戻ってくるって約束してくれたんだ」
ザー・トゥオンがこちらを向いた。
僕は彼のほうを見なかった。
「僕は、ずっと待っていたんだ……本当に、ずっと長い間」
ザー・トゥオンは、すぐには返事をしなかった。
僕の両親がどこへ行ってしまったのか、どうして約束を破って戻ってこなかったのか、そんなことを無理に聞き出そうともしなかった。
しばらくしてから、ザー・トゥオンは物思いに沈んだ声で口を開いた。
「俺は……きっと、二人とも本当に頑張ったんだと思うぜ」
僕ははっと顔を上げた。
ザー・トゥオンは片手で頭を掻いた。
「お前の家族に何があったのか、俺には分からない。でも、もし本当にお前のところへ帰ってくるって約束していたんなら、その言葉を口にしたとき、二人はきっと心の底から帰りたいと思っていたはずだ」
僕は彼を見つめた。
胸の奥が詰まるような感覚を覚えながら、かすかに頷いた。
「……うん」
二人の子供は、川辺に並んで座ったまま、静かに夜の闇を見つめていた。
それぞれの胸には、決して完全には癒えることのない、古い記憶の傷が刻まれていた。
やがて、ザー・トゥオンが勢いよく立ち上がり、僕の肩をぽんと叩いた。
「ほら、行こうぜ。山道の途中まで送ってやるよ」
「そんなことしなくても大丈夫だよ」
「俺が行きたいから行くんだよ」
僕は微笑んだ。
「分かったよ」
***
夜もすっかり更けた頃、僕はようやく村を後にした。
いつも通っている土の道を、一人でとぼとぼと歩いていく。肩の上では、小さなリスが相変わらず気楽そうに寝息を立てていた。
背後にあるラク・トゥイの船着き場では、きらめいていた灯火が、すでに夜の闇へと完全に沈んでいた。
僕は振り返らなかった。
明日になれば、すべてがまた元の暮らしへ戻ることを知っていたからだ。
フウ・テーは、また川へ出て舟の修理を続けるだろう。
ルウ・ホアは、いつものように薬屋を開くだろう。
ザー・トゥオンは、再び草地へ出て、組み打ちの稽古に励むはずだ。
フア・ティン・ティは、おそらくまた竹林で剣を磨いているだろう。
そして僕は、自分の暮らす岩窟へ戻り、いつものように森の中で生きる術を学び続ける。
けれど今夜、僕の胸の奥では、何かが確かに変わっていた。
何年もの孤独な日々を過ごしてきた中で、初めて僕は、この広い世界にたった一人で取り残されているわけではないのだと感じた。
僕の存在を覚えていてくれる人がいる。
ちょっとした仕事であっても、僕の手を借りたいと思ってくれる人がいる。
ほんの数回顔を合わせただけの間柄であっても、僕が言葉を発したくないとき、ただ黙って隣に座ってくれる人がいる。
こうした温もりが、いったいいつまで続くのかは分からない。
それでも僕は、心の底から大切にしたいと思った。
***
その頃、森の北側、林の外れにある一角では、一人の男が古木の陰に身を潜め、ひっそりと立っていた。
男は暗い色の外套をまとい、肩には旅荷物の入った革袋を掛けている。その背後には、二人の従者が控えていた。
三人とも、長い道のりを越え、山を渡り、川を越えてきたらしく、その顔には疲労の色が濃く浮かんでいた。
男は遠くに見えるラク・トゥイ川の灯火を見上げた。
「下の村では、灯籠流しでもやっているのか?」
従者の一人が恭しく答えた。
「はい、大人。この時期になると、連中は毎年あのような灯籠流しを行っております」
男は視線を移し、山奥へと続く細い山道をまっすぐ見据えた。
「ここから森へ入るには、主な道がいくつある?」
「大きな道は三つございます。そのほかにも、猟師どもが使う細い獣道が無数に入り組んでおります」
「この深い森の周辺に、人は住んでいるのか?」
従者はわずかに言いよどんだ。
「一人、身寄りのない子供が暮らしております。村人の話では、そいつは頻繁に川辺の船着き場へ姿を現すそうです」
男は振り返った。
「その子供は、何か動物を連れているのか?」
「はい。小さなリスを一匹連れております」
男はしばらく黙り込んだ。
やがて、冷ややかな声で尋ねた。
「そいつの名前は?」
「ラム・チエウ・バンでございます」
男は、森の奥に広がる静寂な闇を見つめた。
その眼差しには、驚きの色など微塵もなかった。
そこにあるのは、ただ計算と、底知れない狡猾さだけだった。
「今のところ、誰もあの子供に近づくな」
「なぜでございますか?」
「そいつが、あの秘密に何らかの関わりを持っているのかどうか、我々にはまだ分かっていない」
男は踵を返し、山奥へ続く細い道に足を踏み入れた。
「まずは人目につかない場所を見つけて野営する。今夜は休息を取り、行動は明朝に再開する」
三つの黒い影は、瞬く間に木々の間へと溶け込み、深い闇の中に姿を消した。
***
その夜、僕が岩窟へ戻ったのは、いつもよりずっと遅い時間だった。
籐籠を下ろし、リスに乾燥果実をいくつか放ってやると、残り火のそばに静かに横たわった。
揺らめく炎が、岩壁に僕の影を映し出している。
頭の中には、今もラク・トゥイ川を流れていった小さな灯籠の姿が浮かんでいた。
「両親」と記された二文字は、もうどこにも見えない。
僕は静かに目を閉じた。
そして、眠りと覚醒の狭間をさまよう浅い眠りの中で、何年も昔の、遠い朝の夢を見た。
森の入口に、二つの人影が立っていた。
一人は身をかがめ、僕を強く胸の中へ抱き寄せた。
もう一人は手を伸ばし、僕の頬に伝う涙を優しく拭ってくれた。
「いい子にして、父さんと母さんを待っているんだぞ」
夢の中の幼い僕は、何の疑いもなく頷いた。
やがて、二つの人影は迷いなく背を向け、歩き出した。
眩い朝日が、彼らの進む長い道を照らしていた。
僕は、はっと目を覚ました。
岩窟の焚き火はすっかり燃え尽き、温かな灰だけがわずかに残っていた。
小さなリスは相変わらず隣で丸くなり、気持ちよさそうに眠っている。
僕は手をついて身を起こし、洞窟の入口の向こうへ目を向けた。
外の空は、まだ夜明けを迎えていなかった。
また新しい一日が始まろうとしている。
しかし僕は、まだ何も知らなかった。
今夜を境に、僕にとって唯一の安息の地であったこの森が、見知らぬ者たちの足跡によって、幾度となくかき乱されることになるなどとは。
そして、そう遠くないうちに、偶然の出会いは、もはやささやかな手ほどきや他愛のない交流だけでは済まなくなる。
僕を探し出そうとして、森へやって来る者たちがいる。
僕の中に隠された何かを奪い取ろうとして、近づいてくる者たちがいる。
そして、強者の権力を前にして、僕に生まれて初めて、どうすることもできないほどの無力さを味わわせる者たちも現れる。
けれど、それはまだ先の日々の話だ。
今夜、この冷たい岩窟の中では、十歳の少年が浅い眠りの底へ沈んでいた。
森の外では、ラク・トゥイ川が相変わらず絶え間なく流れ続けている。
そして、小さな灯籠たちは、誰にも知ることのできない密かな祈りを乗せ、果てしない下流へと流れ去っていった。




