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Episode 77

 夜明けの早朝、朝露に濡れた草の葉に薄い霧がまだまとわりついている頃、洞窟の入口の外から聞こえてきた、乾いた硬質な音によって僕はふと目を覚ました。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 僕は薄く目を開け、寝ぼけ眼で洞窟の入口へ視線を向けた。


 外では、色鮮やかな羽毛をまとったキツツキが、朽ちかけた松の幹にしっかりとしがみつき、鋭く長いくちばしで、腐って柔らかくなった樹皮を何度もつついていた。くちばしが打ち下ろされるたび、乾いた木屑がいくつか、ぱらぱらと地面にこぼれ落ちる。


 僕の隣で丸くなって眠っていた小さなリスも、そのカタカタという音に驚いて目を覚ました。


 片目を薄く開けて外の様子をうかがうと、不満げに乾いた葉を引き寄せ、頭からすっぽりとかぶった。


「うるさくてたまらん。まったく、鳥ってやつはどうしてこうも騒がしいんだ」


 僕は手をついて上半身を起こし、凝り固まった両肩を伸ばした。


「まだ寝ていたいなら、その葉っぱを布団代わりにして寝ていればいいだろ。誰も早起きしろなんて言っていないぞ」


「せっかく気持ちよく眠っていたというのに」


「ついさっきから文句を言っていたじゃないか」


「眠っている者が口を利いてはいけないという決まりでもあるのか?」


 その屁理屈に、僕は思わず吹き出した。


 洞窟の外へ歩み出ると、冷え切った早朝の空気を胸いっぱいに吸い込みながら、両腕を大きく伸ばした。


 昨夜は気温がずいぶん下がったらしく、夜露が洞窟の前に転がる岩肌に、きらきらと輝く小さな雫となって残っている。


 山の麓では、小川がいつもと変わらずさらさらと流れていた。朝一番の陽光が生い茂る木々の葉の隙間を縫って差し込み、幻想的な細い光の筋を地面に落としている。


 僕は俯いて、自分の裸足を見つめた。


 Hứa Tình ThyやDã Tượngとともに鍛錬を重ねてきたおかげで、身体の重心を調整する感覚も、少しずつ自然と身についてきた。


 とはいえ、移動の途中で急に進行方向を変えようとすると、今でも時折、足運びが乱れてしまう。


 僕は屈み込み、あらかじめ地面に置いてあった木の枝を拾い上げた。


 左足を半歩前へ。


 右足を素早く滑らせる。


 腰を捻る。


 重心を移す。


 大きく一歩、後ろへ下がる。


 今度は、身体の均衡を崩すことなく、しっかりと動きを保つことができた。


 同じ動作を何度か繰り返した後、僕は不意に身体を翻し、地面すれすれまで重心を落とした。まるで、目の前にいる架空の敵から、命を奪う一撃を間一髪でかわすかのように。


 今の動きに見栄えはまるでない。威力など言うまでもなかった。


 それでも、少なくとも転ばずには済んだ。


「……まあ、こんなものか」


 岩の上で乾いた葉をかぶっていたリスが、ひょっこりと顔を出した。眠たげな目を半分だけ開き、ぼんやりと僕を眺める。


「おい、Triệu Bân。お前、頭でもおかしくなったのか? 何もないところに向かって、さっきから一人でくるくる踊っているぞ」


「そうだな」


「何だと? 空気にでも恨みを買ったのか?」


「もしかしたら、そうかもしれない」


 リスは頬を膨らませて首を横に振ると、面倒くさそうに再び丸くなり、眠りの中へ戻っていった。


 僕は木の枝を片づけると、小さな竹籠を手に取り、中に干してある薬草の数を改めて確かめた。


 今朝は村まで下りるつもりだった。


 先日、灰色の衣をまとった一団と肝を冷やすような遭遇をして以来、僕の胸の内には、古びた石碑と、そこに刻まれていた奇妙な記号について詳しく調べたいという思いがずっと燻っていた。


 いきなり何もかもを解き明かしてくれる達人に出会えるなどと、夢にも思ってはいない。


 ただ、この辺りに、あの奇妙な文字を偶然目にした者や、その存在を耳にした者がいないか、探ってみたいだけだった。


 出発する前に、僕は拾い集めた品々を隠してある秘密の岩穴を念入りに確認した。


 無骨な鉄の指輪。


 氷のように冷たい、真っ黒な金属片。


 模様の刻まれた陶器の破片。


 そして、曲線を描く鳥の姿が彫られた黒い玉。


 それらを岩の隙間の奥深くへ押し込み、泥土と乾いた小枝を使って、慎重に隠し直した。


 それからようやく、竹籠を手に洞窟を後にした。


 今日の落水の渡し場の朝市は、いつもにも増して賑わっていた。


 ちょうど南方からやって来た商隊が船着き場に到着したところらしく、商人たちは実に多種多様な品物を並べて商売を始めていた。


 色鮮やかで艶やかな絹織物、精巧な陶磁器、香り高い紙や墨、そして見慣れない珍品の数々。


 各地から集まった人々が新しく並んだ露店を取り囲み、興味深そうに品物を眺めながら、あれこれと楽しげに値段を交渉している。


 甲高い売り声が、あちらこちらの路地にまで響き渡っていた。


 一人のパン職人が、通りすがりの客に向かって何度も声を張り上げている。


 年老いた男は、子供たちの歓声を浴びながら、短刀を投げたり剣を振り回したりする芸を披露していた。


 さらに市場の一番奥では、車輪が壊れてしまった馬車の車軸を修理しようと、数人の職人たちが金槌と鑿を手に、汗だくになって作業していた。


 僕は混雑した人波を縫うように進んだ。肩の上には、相変わらずちゃっかりと小さなリスが乗っかっている。


 まずは馴染みの薬屋に立ち寄り、持ってきた薬草を食塩と乾燥させたトウモロコシ餅に交換した。


 その後、僕は筆と墨を扱う店を探して歩き始めた。


 目的の店は、陰陽瓦を葺いた家屋の軒下にひっそりと構えられた、小さな露店だった。隣には、古びた製本屋がぴたりと寄り添うように建っている。


 店主は、髭も髪も真っ白な老人だった。長い年月のせいで両目はすっかり濁っていたが、農作業の暇な時期になると、相変わらず黙々と墨をすり、文字を書く習慣を続けている。


 以前、村へ下りた際に、僕はこの老人と何度か顔を合わせたことがあった。


 竹籠を下ろし、僕は礼儀正しく声をかけた。


「ご老人、少しお尋ねしたいことがあるのですが、古代文字にお詳しくないでしょうか?」


「古代文字じゃと? いったい、どんな文字のことだね?」


 老人は勢いよく顔を上げ、目を細めて僕を見た。


「古びた石碑などに深く刻まれている文字です。普段、皆が書いている文字とは、まるで違う形をしているんです」


「何か見本になるものは持っておるのかね?」


 僕はすぐに懐から松の樹皮を取り出した。そこには、あの石碑に刻まれていた文字が、木炭を使って実に細かく写し取られている。


 老人はそれを受け取ると、老いた目を凝らすように、顔のすぐ近くまで持ち上げた。


 しばらくの間、じっくりと眺めていた老人は、やがて小さく何度も首を横に振った。


「わしはこんな奇妙な文字、見たこともないぞ」


「それでは、この辺りに、見分けられるほど博識な方はいらっしゃいませんか?」


「この近辺には、古代の石碑や遺跡を専門に調べておる、変わり者の老人がいるという噂がある。しかし、残念なことに、その男はずいぶん前から行方が知れぬ。世間の話では、九渓山の方へ流れ着き、隠遁生活を送っておるそうじゃ」


「その方のお名前は何というのでしょう?」


「Phan Túcという男じゃ」


 老人はぶつぶつと呟きながら、松の樹皮を僕に返した。


「だが、本気でそいつを探しに行くつもりなら、あそこの宿駅へ行って足取りを尋ねてみることじゃな。わしは一年中、紙と墨を相手にしておる身だからの。そいつが時折、上等な宣紙を買い求めにここへ立ち寄っていた、という話を聞きかじった程度じゃよ」


 僕は頷き、礼を述べた。


「ご教示いただき、ありがとうございます」


 樹皮を竹籠にしまおうとした、その時だった。


 すぐ隣から、澄んだ少女の声が不意に聞こえてきた。


「坊や、その木の皮を少し見せてもらってもいいかしら?」


 僕は素早く振り返った。


 そこには、一人の華奢な少女が軒下に静かに立っていた。


 彼女は清楚な象牙色の衣をまとい、その上から淡い青色の薄い外套を羽織っていた。艶やかな黒髪は簡素な絹紐で綺麗にまとめられ、耳元には小さな梅の花を模した木製の簪が、そっと差し込まれている。


 年齢は僕とさほど変わらないだろう。すらりとした細身の体つきに、聡明さを感じさせる明るい顔立ち。そして何より、目を引いたのは、その瞳だった。


 小心者のように怯えながら周囲をうかがったり、陰険な者のように人目を盗んで辺りを探ったりする目ではない。


 そこにあったのは、目の前の世界をもっと知りたいという、純粋な好奇心と探究心だった。


 彼女の手には、茶色い表紙が擦り切れた一冊の本が、そっと抱えられていた。


 僕は彼女をじっと見つめた。


「これを見たいのか?」


「ええ」


 僕は樹皮を差し出した。


 少女はそれを受け取ると、少し俯き、そこに描かれた曲がりくねった文字を長い間、注意深く眺めていた。


「この記号は、どこで写し取ったの?」


「深い森の中にある石碑だよ」


「もしかして、雷に打たれた古い松の根元に、傾きながら立っている石碑のこと?」


 僕は驚きを隠せなかった。


「君もあの石碑を知っているのか?」


「以前、誰かが話しているのを偶然耳にしたことがあるの」


 少女は樹皮を持ち上げ、太陽の光に透かすようにした。


「だけど、この記号は……」


 彼女は綺麗な眉をわずかに寄せた。


「一般的な文字体系とは、まるで異なっているわね」


 僕は彼女を見つめた。


「これが何を意味するのか、読めるのか?」


「確実だとは言い切れないけれど」


 彼女は手にしていた本を開き、黄ばんだ紙のページを探し始めた。そこには、古代文字と思われる記号がびっしりと描かれていた。


 図の横には、赤い墨で細かな注釈が書き込まれている。そのうちのいくつかは、僕が写し取ったものとよく似た形をしていた。


 少女は、ある記号を人差し指で示した。


「この記号は、古文書の記録によれば、『心』を意味している可能性があるわ」


 続いて、隣に描かれた別の記号を指した。


「そして、こちらはおそらく『静』」


 僕は顔を近づけ、二つの文字を見比べながら口にした。


「合わせると、『心静』ということか?」


「その可能性は十分にあるわね」


 彼女は顔を上げて僕を見た。


「ただし、まだ断言はできないわ。古代文字は文脈によって複数の意味を持つことが多いの。一つひとつの記号を機械的につなぎ合わせて、勝手な解釈をしてはいけないわ」


 僕は真摯に頷いた。


「分かった」


 少女は僕の様子をもう一度確かめるように見つめた。


「あなた、古典や聖人の教えについて、どのくらい知っているの?」


「あまり詳しくないよ。ほんの少し、かじった程度だ」


「それなのに、どうしてこんな難解な古代文字に興味を持ったの?」


「変わっていると思ったからだよ。普通の文字とは違っていたし」


「それだけの理由?」


「うん」


 彼女は僕を見つめた。僕のあまりにも素朴な答えが、どうやら少しおかしく、興味深く感じられたらしい。


「てっきり、どこかに埋められた財宝でも探しているのかと思ったわ」


 僕は思わず吹き出した。


「財宝を隠すのに、苔だらけの石碑にわざわざ文字を刻む馬鹿がいると思うか?」


「昔から、黄金や宝石は古墳の中や、呪術が施された石碑の下に埋められているものよ」


「それで、君は財宝を見つけたことがあるのか?」


「ないわ」


 二人の子供は、顔を見合わせて笑った。


 隣で筆と墨を売っていた老人も、とうとう堪えきれなくなったらしく、豪快に笑い声を上げた。


「はっはっは! お前さんたち二人が人生について語り合っておる姿は、まるで二人の高名な老学者が議論しておるようじゃな!」


 少女は樹皮を僕に返した。


「あなた、私をその石碑のところまで案内してくれない?」


「絶対に嫌だ」


「どうして、そんなにはっきり断るの?」


「君とは何の面識もないからだよ」


 少女は、僕のあまりにも率直な返答に少し驚いたようだった。


 しかし、すぐに鈴を転がすような声で笑った。


「それもそうね」


 僕は樹皮を大事にしまった。


「ところで、君の名前は?」


「Trần Viên Anhよ」


「僕はLâm Triệu Bânだ」


「知っているわ」


「いつから知っていたんだ?」


「さっき、あなたがこの店に来た時、おじいさんが大きな声で名前を呼んでいたもの」


 僕は老人をじろりと睨んだ。老人はただ、にこにこと笑いながら、再び墨をすり始めた。


 Viên Anhは本を閉じ、尋ねてきた。


「一つ、あなたに頼みたいことがあるのだけれど」


「何だ?」


「どうして、あの奇妙な記号にそこまで興味を持っているの?」


「似たような記号が刻まれた品を、偶然いくつか拾ったんだ。それで、何かしらのつながりがあるんじゃないかと思ってね」


 Viên Anhは、すぐにそれらの品が何なのかを問いただそうとはしなかった。


 ただ、僕の手元にある樹皮を眺めながら、静かに考え込んでいた。


「もしかすると、同じ人物の持ち物だったか、あるいは過去の同じ場所に由来するものなのかもしれないわね」


「君もそう思うのか?」


「ええ。あくまで推測だけれど。でも、一つの記号が異なる物にいくつも刻まれているのなら、それを作った者は、何か非常に重要な場所を示そうとしていた可能性があるわ」


 僕は同意するように頷いた。


 彼女の推測は、以前から僕が考えていたことと完全に一致していた。


 Viên Anhは賑わう通りへ目を向けた。


「今、時間はある?」


「何のために?」


「ちょっと行ってみたいところがあるの」


「僕は見知らぬ人についていくような習慣はないんだけど」


「それなら、さっき私の名前を聞いたのは何のため? わざわざ尋ねる必要なんてなかったでしょう?」


「ただ、名前を知っておきたかっただけだよ」


「あなた、ずいぶん用心深いのね。人を信用するのが苦手なのかしら?」


「そう教えてくれた人がいるんだ」


「その人の言うことは正しいわ」


 彼女は市場の奥を指差した。


「東の地区にある古書店へ行ってみたいの。あそこには、この地域にある古い寺院について記された手書きの資料が何冊か保管されていると聞いたの。でも、私はこの辺りの道に詳しくなくて」


 僕は彼女の指差す方角を見た。


「その店なら道を知っているよ」


「それなら、どうか親切心を起こして案内してくれない?」


 僕は肩に乗っているリスへ視線を向けた。


 リスも目を瞬かせながら僕を見返している。


 もっとも、反対する気などまるでないようだった。近くの露店から漂ってくる、焼きたてのトウモロコシ餅の香りを、その鋭い鼻でいち早く嗅ぎつけていたからだ。


 僕はViên Anhに向き直り、頷いた。


「いいよ。ただし、途中でいくつか買い物を済ませたい」


「もちろん、構わないわ」


 古書店は、狭く細い路地の一番奥にひっそりと建っていた。周囲を行き交う人影もまばらで、店の中はどこか物寂しい雰囲気に包まれていた。


 虫食いの跡が残る木製の書棚が、天井に届きそうなほど高く並んでいる。無数の本はすでに黄色く変色しており、中には湿気を防ぐため、粗布で丁寧に包まれているものもあった。


 店主は、短い顎髭を生やした中年の男だった。


 Viên Anhが店に入ってくるのを見るなり、彼は愛想よく立ち上がった。


「お嬢さん、どのような古書をお探しでしょうか?」


「この辺りにある石碑や古寺について記された写本を探しているの」


「おお、それでしたら、ちょうど九渓山一帯を調査したことのある先生の記録が一冊ございます。ただ、原本は虫食いでひどく傷んでしまいましてな。今残っているのは、それを書き写したものだけですが」


「見せてちょうだい」


 店主は慌ただしく奥の倉庫へ入っていった。しばらくすると、埃を厚くかぶった、かなり分厚い本を抱えて戻ってきた。


 Viên Anhはそれを受け取り、表紙に積もった埃をそっと払った。


 僕も興味を引かれ、首を伸ばして横から覗き込んだ。


 本に書かれた文章のすべてを読み解くことはできなかったが、紙面に描かれた挿絵が、すぐさま僕の注意を引きつけた。


 石碑の絵。


 幾重にも連なる山々の絵。


 静寂に包まれた古寺の絵。


 そして、中心に向かって三本の曲線が渦を巻く、一つの円形の図。


 僕は顔を近づけた。


「この図は……」


 Viên Anhが顔を上げ、僕を見た。


「これに見覚えがあるの?」


「まったく同じ図を見たことがある」


「どこで?」


「雷に焼かれた松の根元で見つけた、あの金属製の留め具に刻まれていたんだ」


 Viên Anhは表情を変えず、一言も発しなかった。


 彼女は顔を低くして、図の細部を丹念に調べ始めた。


 紙面に描かれた記号は、真っ黒な墨で丁寧に描かれている。中央の円から内側へ向かって伸びる三本の曲線は、僕の持っていた金属製の留め具に刻まれたものと、ほとんど完全に一致していた。


 Viên Anhは隣のページをめくった。


 その下部には、小さな文字で注釈が記されていた。


 彼女はゆっくりと読み上げた。


「……三脈帰源」


 僕は首を傾げた。


「それはどういう意味だ?」


「三つの水脈が、一つの源へと合流するという意味よ」


「まるで秘伝の武功の名前みたいだな」


 Viên Anhは思わず吹き出した。


「あなたは何でもかんでも、すぐに戦いや斬り合いに結びつけるのね」


「そういうわけじゃないよ。ただ、名前にずいぶん迫力があると思っただけだ」


 彼女はさらに何ページかめくった。


「この本には、古代の施設についても記録されているわ。昔の人々は、こうした記号を使って、地下水脈の位置を示していたそうよ」


 僕は勢いよく顔を上げた。


「地下水脈だって?」


「そうよ。ただ、資料があまりにも破損していて、詳しいことまでは分からないけれど」


 彼女は挿絵を指差した。


「あなたが森の中で見つけた石碑も、単なる記念碑ではないのかもしれないわ。何かの位置を示す標柱である可能性がある」


 僕は、以前あの石碑の根元を手で叩いた時のことを思い出した。


 石碑の下から、確かに空洞のような音が返ってきたのだ。


 あの石碑の真下には、間違いなく何らかの空間が存在している。


 当時、僕はその場所を掘り返そうと考えていた。しかし、リスがいち早く毒蛇の気配を嗅ぎつけたため、やむなく途中で切り上げることになったのだった。


 もし、本当に石碑の下に地下室か何かの空間が存在するのなら、そこは地下水脈と何らかの関係があるのだろうか。


 僕は焦って結論を出そうとはしなかった。


 ただ、その可能性を心の中に深く刻み込んだ。


「続きのページも見てみたい」


 Viên Anhは同意するように頷いた。


 そして、さらに次のページをめくった。


 ところが、そのページは半分ほど破り取られていた。かろうじて残っている文章も、途中で途切れてしまっており、完全な一文として読み取ることはできない。


 彼女は顔を上げ、店主に尋ねた。


「ほかに、同じ記録の写本はありませんか?」


「残念ながら、これが最後です。ある行商人の古書商から買い取ったものですが、その男ももう亡くなってしまいましてな。最後の数ページは、ずいぶん昔から失われたままだそうです」


 Viên Anhは残念そうに長いため息をついた。


「本当に惜しいわね」


 僕は途切れ途切れに残った文字をぼんやりと眺めていた。


 その時、ふと、極めて重要なことに気づいた。


 破れたページの上には、三つの記号が並んで描かれていた。


 一つは炎の形。


 一つは円形。


 そしてもう一つは、流れる水のように曲がりくねった形。


 僕は最初の記号を指差した。


「この図なら、僕も実際に見たことがある」


 Viên Anhは目を瞬かせ、その指先を追った。


「どこで見たの?」


「ある鍛冶職人の鉄の指輪に刻まれていたんだ」


「その鍛冶職人の名前は?」


「Tạ Trọng Sơnだ」


 Viên Anhの動きが止まった。


 その名前は、どうやら彼女の記憶か、何らかの手掛かりに触れたらしい。


 しかし、彼女はすぐに問い詰めようとはしなかった。


 しばらくしてから、ようやく口を開いた。


「その男は、今も生きているの?」


「分からない。ずいぶん前に荷物をまとめて、この辺りから姿を消してしまったから」


 Viên Anhは考え込むように本のページへ視線を落とした。


「どうやら、その人は少なくない秘密を握っているようね」


 僕は一言も答えなかった。


 Tạ Trọng Sơnを古い鍛冶場から逃がすため、かつて自分が手を貸したことについて、これ以上深く話すつもりはなかった。


 あの件には、まだ解き明かされていない、あまりにも重大な秘密が幾つも絡んでいる。


 Viên Anhも僕の様子を察したのか、それ以上追及してこなかった。


 彼女は本を閉じた。


「今日はここまでにしておいた方がよさそうね」


 僕は頷き、店主に礼を告げると、帰る支度を始めた。


 ところが、ちょうど店の外へ足を踏み出そうとした瞬間、突然、外は土砂降りの雨に見舞われた。


 重たい雨粒が陰陽瓦の屋根を激しく叩きつけ、瞬く間に大きな嵐へと変わっていった。


 店主は慌てふためき、急いで窓辺へ駆け寄ると、すべての窓を固く閉め始めた。


 Viên Anhは白く煙る雨の向こうを見つめた。


「どうやら、足止めされてしまったみたいね。雨がすっかり止むまで待たないと、外には出られそうにないわ」


 僕はどんよりと曇った空を見上げた。


「駄目だ。日が暮れる前には帰らないといけない」


「それなら、もう少しだけ我慢して待っていられる?」


「仕方ないな」


 雨脚はますます強まっていった。


 軒先から流れ落ちる雨水は、白い滝のような筋となって地面へ降り注いでいる。目の前の土道はたちまち泥濘と化し、行き交う人々も慌ただしく屋根のある場所を探して駆け込んでいった。


 古書店の中では、店主が濡れない場所へ紙の束を移そうと、慌ただしくあちらこちらを行き来していた。


 バンッ!


 耳をつんざくような音が響いた。


 屋根の瓦が一枚、強風に煽られて吹き飛ばされ、店先の棚のすぐ脇へと音を立てて落下したのだ。


 屋根にできた穴から雨水が激しく流れ込み、店の中へ一気に降り注いだ。


「しまった! あそこの貴重な古書が駄目になってしまう!」


 店主は慌てて叫び、慌ただしく駆け寄った。


 木製の書棚の足元に置かれていた古書の入った箱は、すでに底の部分が雨水を吸って、びしょ濡れになっていた。


 今すぐ別の場所へ移さなければ、中に入っている本はすべて、ふやけて原形を失ってしまう。

 僕は一瞬たりとも躊躇せず、すぐさま駆け寄った。


「僕も手伝います!」


 身をかがめ、両腕で本の入った箱を抱え込む。


 しかし、その箱はあまりにも重かった。しかも、底の部分は雨水を吸ってすっかり脆くなっている。僕が持ち上げた途端、箱の隅が無残に裂け、何冊かの分厚い本が次々と床へ落ちてしまった。


 Viên Anhは素早く僕のそばへ駆け寄った。


「箱ごと持ち上げようとしないで! 早く本を何冊かずつ取り出して!」


 そう言うなり、彼女は羽織っていた青い外套を脱ぎ、長机の上へ丁寧に広げた。


「本は全部ここに置いて! 絶対に雨水を染み込ませないで!」


 僕はすぐさま彼女の指示に従った。


 店主の老人は、乾いた布を探そうと慌てて店の奥へ走っていった。


 そんな一刻を争う状況の中でも、Viên Anhは驚くほど手際よく本を選り分け、一冊ずつ積み重ねて高い場所へ移していった。まったく取り乱した様子もなく、衣服が雨水を吸って身体に張り付いていることさえ気に留めていない。


 僕は機転を利かせ、何枚かの薄い板を拾い集めて箱の底に敷き、水浸しになった床から箱を浮かせた。


「まだ水が入り込んでいる場所がある!」


 僕は壁際の隅を指差して叫んだ。


 Viên Anhは即座にそちらへ視線を向けた。


 瓦屋根の隙間から細い水の流れが生じ、貴重な古書が並ぶ書棚へ向かって、ちょうど真っすぐに流れ落ちていた。


 彼女は一瞬で状況を判断した。


「ここに板を斜めに立てかけて、水の流れる向きを変えて!」


 僕は周囲を見回した。


 すると、壁際の隅に、古びた木製の戸枠が無造作に放置されているのが目に入った。


 僕はそれを引っ張り出し、雨漏りしている場所の下へ斜めに立てかけた。


 水の流れはすぐさま向きを変え、下に置かれていた銅製のたらいへと滑り込んでいった。


「これで大丈夫ね!」


 Viên Anhはほっと息を吐いた。


 僕たちはそのまま、残っている本の運び出しを続けた。


 やがて、布を手にした店主が慌ただしく戻ってきた頃には、貴重な古書の大半が無事に乾燥した場所へ移されていた。


 老人は額に浮かんだ大粒の汗を拭い、心底安堵したように胸を撫で下ろした。


「助かった……。もう少しで、わしの財産がすべて台無しになるところだった……」


 そして、ずぶ濡れになった二人の子供へ振り返ると、深々と頭を下げた。


「本当にありがとう……。二人とも、わしの大切な財産を救ってくれて、心から感謝するぞ」


 Viên Anhは手に残った水滴を軽く払った。


「いえ、お気になさらないでください」


 僕が長机の上に置いてある外套を取りに戻ろうとした、その時だった。


「おやおや、お嬢さん! その外套、すっかりびしょ濡れではありませんか……」


 店主が驚いたように声を上げた。


「大丈夫ですよ。乾かせば済むことですから」


 彼女は自分の衣服に目を落とした。雨水をたっぷり吸った裾を見つめた後、ふと僕の方へ視線を向けた。


「あなたも全身ずぶ濡れじゃない」


 僕も俯いて自分の姿を確かめた。


 粗末な衣服の裾には、泥と雨水がべったりとこびりついている。


「別に問題ないよ。慣れているから」


「普段から、雨に濡れたり、炎天下を歩いたりしているの?」


「時々ね」


「風邪を引いて病気になったらどうするの?」


「そりゃ、困るよ」


「困ると思っているのに、どうしてそんなに平然としていられるの?」


 僕は苦笑した。


「だって、『困った』って言ったところで、濡れた服が勝手に乾いてくれるわけじゃないだろ?」


 それを聞いたViên Anhは、鈴の音のように澄んだ声で笑い出した。


 店主の老人は二人の子供を見比べ、何度も首を横に振った。


「まったく、若いというのは恐れ知らずで困ったものじゃな」


 それから一本の線香が燃え尽きるほどの時間が過ぎ、ようやく嵐は完全に収まった。


 親切な店主は僕たちに乾いた布を二枚持ってきてくれた。身体についた水気を拭き取った後、Viên Anhは再び古書を広げた。


 彼女は残されたページを根気強く読み進めていく。


 僕はその傍らに立ち、どうしても理解できない古代文字の一つひとつを、必死に記憶へ刻み込もうとしていた。


 その時、彼女の手が、あるページの上でぴたりと止まった。


 そこには、松の木の下で結跏趺坐し、静かに瞑想する人物の姿が描かれていた。


 線は実に簡素で、飾り気のない素朴なものだった。


 人物は両足を組んで座り、両の掌を上に向けて腹の前に置いている。そして、その頭頂部には、一つの円環が浮かんでいた。


 僕は一目見ただけで気づいた。


 それは、深い森の中にある石碑に刻まれていた図像と、まったく同じものだった。


「見てくれ!」


 僕は思わず指を差した。


 Viên Anhも僕の指先を追った。


「本当だ……。そっくりね」


 彼女は図の下に記された小さな文字を慎重に読み解いた。


「……『脈を守る者』」


 ところが、その直後、彼女はふと動きを止め、眉をひそめた。


「いえ、少し違うかもしれないわ。この文字は単に『守護者』とも訳せるけれど、『元気の流れを守護する者』という意味にも取れるの」


 僕は食い入るように図を見つめた。


「それで、石碑に刻まれたあの瞑想している人物は、いったい何者なんだ?」


「それは分からないわ」


 Viên Anhは次のページをめくった。


 しかし、そのページも半分ほど破り取られていた。残された断片的な文字だけでは、とても文章として意味を成していない。


 彼女は顔を上げ、店主へ尋ねた。


「こちらのお店には、これに関連する別の写本は残っていませんか?」


「もうありませんよ、お嬢さん。この本は、ずっと昔に亡くなった商人から買い取ったものです。最後のページは、わしの手に渡る前からすでに破れていたそうです」


 Viên Anhは残念そうに、小さくため息をついた。


「本当に惜しいわね……」


 僕は途切れ途切れに残された文字をじっと見つめていた。


 その時、不意に一つの考えが頭をよぎった。


 破損したページには、三つの記号が隣り合わせに描かれている。


 一つは炎。


 一つは円。


 そして、もう一つは波のような形をしていた。


 僕は最初の記号を指差した。


「この模様なら、僕も実際に見たことがある」


 Viên Anhは驚いたように目を見開いた。


「どこで?」


「ある鍛冶職人の鉄の指輪に刻まれていたんだ」


「その鍛冶職人って、誰なの?」


「Tạ Trọng Sơnだ」


 Viên Anhは黙り込んだ。


 その名前は、彼女の心の奥底に眠っていた何らかの記憶を呼び起こしたようだった。


 しかし、彼女はそれ以上何も言おうとはしなかった。


 長い沈黙の後、ようやく口を開いた。


「その人は、今も生きているの?」


「分からない。ずいぶん前に、こっそりこの辺りを去ってしまったから」


 Viên Anhは俯き、古書のページを見つめた。


「もしかすると、その人こそが、すべての謎を解く鍵を握っているのかもしれないわね」


 僕は何も答えなかった。


 Tạ Trọng Sơnが古い鍛冶場から逃げ延びる際、かつて僕が彼の命を救うために手を貸したという事実を明かすつもりはなかった。


 あの出来事の裏には、あまりにも不透明で危険な事情が絡んでいる。


 Viên Anhも僕の態度から何かを察したのか、それ以上追及してこなかった。


 彼女は静かに本を閉じた。


「そろそろ、調べるのはここまでにしましょう」


 僕は頷き、店主に礼を述べてから帰り支度を始めた。


 しかし、店の扉を開けようとする直前、Viên Anhが突然僕を呼び止めた。


「Lâm Triệu Bân」


 僕は振り返った。


「どうした?」


 彼女は手帳から小さな紙片を一枚ちぎり取ると、素早く筆に墨を含ませ、先ほど古書の中で見つけた三つの記号を描き写した。


「これを持っていって。あなたが隠している品物と照らし合わせてみて」


 僕は差し出された紙片を受け取った。


「ありがとう」


「でも、よく覚えておいて。勝手に石碑を掘り返すような無茶だけは、絶対にしないこと」


 僕は彼女をじろりと睨んだ。


「どうして君もHứa Tình Thyも、口を開けば僕にそんなことばかり言うんだ?」


「だって、あなたにはそういう無茶を平気でやらかしそうな素質が十分にあるもの」


 僕は返す言葉もなく、諦めて肩をすくめた。


 僕たちは連れ立って古書店を後にした。


 激しかった雨はすっかり弱まっていたものの、土道にはまだ水が溜まり、ぬかるみがあちらこちらに広がっていた。


 泥水の溜まった水たまりには、どんよりとした灰色の空が映り込んでいる。時折、馬車の車輪がそこを通り過ぎるたび、水と泥が周囲へ勢いよく跳ね上がった。


 Viên Anhは店に来た時よりも、いくぶんゆっくりと歩いていた。


 その時、僕の目に、通りの向こう側にある軒下で、じっとこちらを見つめている男の姿が映った。


 茶色の衣をまとった男だった。


 その様子は、通りすがりの旅人とは明らかに異なっていた。


 同じ場所に長い間立ち尽くし、露店の商品にも目を向けず、誰かと話をする様子もない。


 そしてViên Anhが一歩進むたびに、その鋭い視線だけが彼女の動きを追い続けていた。


 僕がちらりと男の方へ目を向けると、彼は途端にばつが悪そうに顔を背けた。


 Viên Anhも、すでにその異変に気づいていた。


 彼女は決して後ろを振り返らず、ごく小さな声で囁いた。


「向こう側の軒下に立っている、茶色の服を着た男が見える?」


「ああ」


「これから先、絶対にあの男の方を見たりしないで」


 僕は彼女に視線を向けた。


「知り合いなのか?」


「いいえ」


「知り合いでもないのに、どうしてあいつは君をあんなにじろじろ見ているんだ?」


 Viên Anhは一瞬だけ沈黙した。


「きっと、ほかの誰かを探しているだけよ」


 僕はその曖昧な答えを、まったく信用しなかった。


 頭の中に、以前出会った傷だらけの灰色の衣の少女、あの一帯を執拗に捜索していた灰色の衣の集団、そして深い森の中で見つけた奇妙な足跡が次々と思い浮かんだ。


 Viên Anhは、以前の灰色の衣の少女とは明らかに違う。


 しかし、彼女の異常なまでの警戒ぶりを見れば、誰かに密かに監視されることには慣れているようだった。


「君の周りには、護衛についている人はいないのか?」


 僕は尋ねた。


「いるわよ」


「どこに?」


「三叉路のところで待っているわ」


 僕は頷いた。


「それなら、僕はここで失礼するよ」


 Viên Anhは少し意外そうな表情を浮かべた。


「それだけ? 何も聞かずに行ってしまうの?」


「迎えがいるんだろう?」


 彼女は僕の顔をじっと見つめ、それから、ほっとしたように小さく微笑んだ。


「あなたって、本当に面倒事に関わりたくない人なのね」


 僕は肩の上に乗っているリスを指差した。


「毎日こいつに付きまとわれているだけで、もう十分なんだよ」


 その言葉を聞いたリスは、すぐさま身体を揺らし、チチチッと鳴いて抗議した。


 Viên Anhは思わず声を立てて笑った。


 彼女は片手を伸ばし、髪を結んでいる絹紐をそっと整えた。


「Lâm Triệu Bân」


「何?」


「これから先、もし似たような奇妙な記号を見つけることがあったら、必ず丁寧に記録しておいて。元の状態を勝手に壊したり、傷つけたりしては駄目よ」


「分かったよ」


「本気で言っているのよ。冗談じゃないからね」


「こっちだって、至って真面目に聞いているさ」


 彼女は満足そうに頷いた。


 それから、僕たちは三叉路で別れることになった。


 僕は北へ向かって足早に歩き出した。


 Viên Anhは南へと進んでいった。


 僕は一度も振り返らなかった。


 ところが、半里ほど歩いた頃、背後から激しい足音が近づいてくるのが聞こえた。


 茶色の衣をまとった中年の男が、三叉路に駆け込んできた。そして、慌てた様子でViên Anhの傍らへ駆け寄った。


「お嬢様!」


 Viên Anhは振り返った。


「Trần叔父さん」


 男は彼女の頭から足元までを念入りに見回した。その顔には、心配と困惑が入り混じっている。


「どうして勝手に隊列を離れて、一人で出歩かれたのですか!」


「古書を何冊か買いに町へ出ただけよ」


「それなら、せめて一言、我々に知らせてくださってもよかったでしょう!」


「机の上に書き置きを残しておいたじゃない」


「『本屋へ行く』と三文字だけ書いて、この人混みの中へ消えてしまわれたのですよ! それだけで、いったい我々にどうやってお嬢様を探せというのですか!」


 Viên Anhは少しだけ俯いた。


「ごめんなさい、叔父さん」


 男はさらに叱ろうとしたが、彼女の衣服がまだ雨と風に濡れたままなのを見て、諦めたように大きくため息をついた。


「もういいでしょう。すぐに宿場へ戻りなさい。ご主人様が、あなたからの報告を今か今かとお待ちです」


 Viên Anhは頷いた。


 立ち去る前に、彼女はふと、僕が歩いていった道の方へ目を向けた。


「Trần叔父さん」


「はい?」


「Lâm Triệu Bânという名前を聞いたことはある?」


 男は少し考え込んだ。


「いいえ、一度も聞いたことがありません。その少年は何者ですか?」


「落水の渡し場の近くにある森で、一人暮らしをしている子よ」


 男は目を細めて彼女を見た。


「その少年と知り合いなのですか?」


「今日、偶然出会ったばかりよ」


「なるべく、見知らぬ人間とむやみに親しくなるのはお控えください。特に、あのような野生児とは関わらない方がよろしいかと」


「自分のことくらい、ちゃんと分かっているわ」


 そう言うと、彼女は背を向けて歩き出した。


 男もその後ろに付き従い、それ以上何かを尋ねることはなかった。


 ---


 夕暮れ時、僕はようやく洞窟へ戻ってきた。


 Viên Anhが書き残してくれた紙片を平らな岩の上に置き、隠しておいた品々を一つずつ取り出した。


 洞窟の入口から差し込む薄暗い光の下で、僕はそれぞれの記号を慎重に照らし合わせた。


 炎の図。


 円の図。


 水の流れを表す図。


 三つの記号は、異なる品物のあちこちに繰り返し現れていた。しかし、そのたびに刻まれている位置には、それぞれ特有の違いがある。


 僕は鉄の指輪を紙片の横へ並べた。


 指輪に刻まれた炎の模様は、最初の記号とほとんど完全に一致している。


 次に、漆黒の金属片を取り出した。


 その下端には、二番目の記号とよく似た曲線が刻まれていた。


 そして最後に、木箱の中から拾った金属製の留め具を手に取った。


 円の内側へ三本の曲線が渦を巻くその模様は、三番目の記号と寸分違わぬほど一致していた。


 僕は長い間、目の前に並べた品々を黙って見つめていた。


「この三つは……」


 僕は目の前の品々から視線を離さず、静かに呟いた。


「間違いなく、何の関係もない独立した品物というわけじゃない」


 栗の実を一生懸命かじっていたリスが、突然顔を上げた。


「さっきから何をぶつぶつ呟いているんだ?」


 僕は乾いた木の枝を使い、地面に三つの図形を描いた。


「おそらく、この三つは組み合わせることで、何かを開くために作られたものなんだ」


 リスは僕が描いた不格好な図を細めた目で眺めた。


「何を開くんだ?」


「それが分からないんだよ」


「また分からないのか? お前はいつも何も知らないな」


 僕は思わず吹き出した。


 そして、紙片に描かれた記号をもう一度見つめた。


 おそらく、これらは忘れ去られた古代の施設を示す、何らかの位置情報なのだろう。


 もしかすると、灰色の衣をまとった連中が躍起になって、こうした品々をかき集めているのも、そのためなのかもしれない。


 あるいは、すべては遥か昔に滅び去った、謎の組織が残した遺物にすぎないのかもしれない。


 手元に十分な証拠がない以上、軽率に結論を出すつもりはなかった。


 僕は一つひとつの品物を、元の隠し場所へ慎重に戻していった。


 Viên Anhが書いてくれた紙片だけは丁寧に折り畳み、鉄の指輪のすぐ横へ置いた。


 その後、僕は竹の枝を手に取り、洞窟の外へ出た。


 今日の鍛錬はいつもより遅い時間からの始まりとなったが、途中で投げ出すつもりは毛頭なかった。


 左足を前へ。


 右足を滑らかに運ぶ。


 重心を落とす。


 身体を柔軟に翻す。


 軸足を崩さず、一歩後ろへ下がる。


 僕は額に大粒の汗が浮かぶまで、その基本動作を何度も何度も繰り返した。


 そして、ようやく足を止めた時、ふとViên Anhの言葉が脳裏に蘇った。


 ――一つひとつの記号を機械的につなぎ合わせて、勝手な解釈をしてはいけないわ。


 僕は俯き、地面に描いた図を見つめた。


 おそらく、あの少女の言うことは正しかったのだろう。


 たった一つの記号だけでは、大したことは分からない。


 一つの出来事についても、同じことが言える。


 全体像を本当に理解しようとするのなら、その背後に隠された、目には見えないつながりを見抜かなければならない。


 僕はその場にしゃがみ込み、手のひらで地面に描いた不格好な図をすべて消し去った。


 今の僕の心には、何としてでも答えを見つけ出さなければならないという焦りも、追い立てられるような切迫感も、もうなかった。


 僕の目の前には、果てしなく広がる大自然の世界がある。


 その広大な世界は、まだ自分自身の足で歩き出し、探究していくことを待っているのだから。


 ---


 同じ頃、落水の渡し場から遠く離れた、人気のない宿場では、Trần Viên Anhが窓辺に静かに腰掛けていた。


 彼女の目の前には、一冊の古書が開かれている。


 その後方では、佩剣した中年の男、Trần Trọng Nghĩaが、荷物を念入りに点検していた。


「お嬢様。明日、ここに長居することはできません。そろそろ出立しなければなりません」


「どこへ行くの?」


「府城へ向かい、ある方とお会いする予定です」


 Viên Anhはすぐには答えなかった。


 ただ俯いて、自分で書き記した小さな紙片を眺めていた。そこには、三つの古代文字が不格好ながらも丁寧に描かれている。


「Trần叔父さん」


「はい?」


「『浄心古寺』という地名を聞いたことはある?」


 Trần Trọng Nghĩaは荷物を整理していた手を、ぴたりと止めた。


「なぜ急に、あの寂れた場所のことなど気にされるのですか?」


「古い書物の中で、その名前を偶然見つけたの」


 Trần Trọng Nghĩaはゆっくりと歩み寄った。


「そこは、遥か昔に廃寺となり、長い年月の果てに埋もれてしまった古寺です。その周辺に暮らす人々でさえ、今ではその存在を覚えている者はほとんどおりません」


「叔父さんは、そこへ行ったことがあるの?」


「一度もありません。しかし、幼い頃に父から聞いた話では、かつてその寺は、巨大な地下水脈の上に建てられていたそうです。ところが、天地を揺るがすほどの大地震が起こり、寺の建物はすべて地盤の下へ沈み込み、完全に埋没してしまったとか」


「その災害を生き延びた人はいなかったの?」


「真相を知る者は、誰もいないでしょう」


 Viên Anhは俯き、古書のページを見つめた。


「それなら、どうして人々は、わざわざ遠く離れた場所に、瞑想する人物が刻まれた石碑を建てたのかしら?」


 Trần Trọng Nghĩaには、答えることができなかった。


 彼はしばらく古書を見つめた後、紙片に描かれた三つの記号へと視線を移した。


 長い沈黙の後、ようやく低く掠れた声で口を開いた。


「世の中には、わざわざ掘り起こして語り継ぐべきではないからこそ、地中深くへ埋められた真実というものもあるのです」


 Viên Anhは古書を閉じた。


「でも、一度埋もれてしまったからといって、誰一人として真実を探ろうとしてはいけないの?」


 男は彼女の目をまっすぐに見つめた。


「お嬢様。この世の秘密がすべて、掘り返して白日の下にさらされるべきものとは限らないのです」


 Viên Anhは黙り込んだ。


 ふと、泥だらけの野生児と、その肩にちょこんと乗っていた小さなリスの姿が、脳裏に浮かんだ。


 Lâm Triệu Bân。


 深い森の中で一人暮らしをしている少年。読み書きもろくにできないというのに、驚くほど鋭い観察眼と直感を持ち合わせている。


 あの少年が、外の世界で渦巻いている途方もない陰謀をすべて理解できるとは、彼女も思っていなかった。


 しかし、あの純粋さと、生き延びるために身につけた本能こそが、彼を思いも寄らぬ重大な秘密へと導いていくのかもしれない。


 Viên Anhは意を決したように手を伸ばし、古書をぱたりと閉じた。


「Trần叔父さん。明日の朝は、できるだけ早く出発しましょう」


「承知いたしました、お嬢様」


「でも、この町を離れる前に、もう一度あの古書店へ寄りたいの」


 Trần Trọng Nghĩaは、呆れたようにため息をついた。


「またですか……」


 Viên Anhは顔を上げ、いたずらっぽい笑みを口元に浮かべた。


「安心して。今度は必ず、事前に叔父さんへ伝えておくから」


 男はどうしようもないといった様子で、首を横に振った。


「まったく……分かりました。お好きになさってください」


 窓の外では、すでに夜の帳が万物を覆い尽くしていた。


 小さく温かな部屋には、一本の灯明がともされ、その炎がかすかに揺れている。


 そして、はるか彼方の深い原生林では、一人の少年が、険しい武の道を歩むための最初の一歩を、今もひたむきに磨き続けていた。


 少年はまだ気づいていない。


 今日、何気なく目にした古書の頁が、これから先の人生において、幾度となく自分の前に現れることになるなどとは。


 また、雨風をしのぐ軒下で偶然出会ったTrần Viên Anhという少女が、やがて自分の人生において、生死を分かつほど欠かすことのできない存在になるなど、想像すらしていなかった。


 しかし、今この瞬間の二人は、ただ偶然すれ違っただけの人間にすぎない。


 一人は、地中深くに埋もれた秘密を探ろうとする好奇心を抱き。


 もう一人は、広大な原生林の外に広がる世界を、その目で確かめたいと願っていた。


 そして二人の間には、まだ、たった一冊の本の頁が開かれたばかりだった。

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