↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/83

Episode 76

 明け方。朝靄がまだ老いた松の枝葉を優しく包み込んでいる頃、僕は小さな籐籠を大切そうに抱え、岩穴から外へ出た。


 先日、森で傷を負っていた野ウサギは、何日にもわたる手厚い世話のおかげで、今ではすっかり元気を取り戻していた。四本の足でしっかりと立てるようになり、ときおり古傷の疼きがぶり返すのか、後ろ足を少しばかり縮こまらせることはあったものの、もう十分に自力で歩けるほど回復している。


 僕は岩穴からさほど離れていない、若草が青々と生い茂る開けた場所まで行くと、そっとウサギを地面に下ろした。


 ウサギはその場でしばらく呆然と立ち尽くし、長い耳をぴくりと立てて、周囲の様子を窺っている。


 僕はしゃがみ込み、摘んできたばかりの柔らかな若葉をひとつかみ、目の前に置いてやった。


「ほら、食べて元気をつけな。今日からはもう、本当の住処に帰っていいんだぞ」


 ウサギは頭を低くし、新鮮な葉の匂いをくんくんと嗅いだ。


 その様子を、近くの苔むした岩にちょこんと座り込んだ小さなリスが眺めていた。両前足で栗をしっかり抱え込み、僕の一挙一動をじっと観察している。


「おい、趙彬。まさか、こんなに美味そうな獲物を本当に逃がすつもりなのか?」


「うん。自然に帰してやるんだ」


「なんで太らせてから肉にしないんだ?」


「そんな気分じゃない」


「じゃあ、何のためにあんなに手間暇かけて、薬や水まで使って傷を治してやったんだよ?」


 僕は目を上げてリスを見つめ、平然と答えた。


「怪我をしていたからだよ」


「それなのに、治った途端に野放しにするなんて……お前、よっぽど暇を持て余しているんじゃないのか?」


「それがどうしたんだ?」


 リスはきょとんと目を瞬かせ、しばらく懸命に考え込んでいた。だが、結局反論できるような理屈は何ひとつ思いつかなかったらしい。仕方なく唇を尖らせてうつむき、再び栗をかじり始めた。それでも、ときおり未練がましそうにウサギへ視線を向けている。


 僕はそっと手を伸ばし、ざらついた手のひらをウサギの前に差し出した。


「さあ、行っておいで」


 ウサギはびくりと体を震わせ、慌てて数歩後ずさった。けれど、僕に害意がないと感じ取ったのだろう。次の瞬間、草むらの中へ勢いよく跳び込んでいった。


 ずいぶん遠くまで走っていったところで、ウサギはふいに立ち止まり、くるりと振り返った。そして、最後にもう一度だけ僕を見つめた。


 僕は優しく微笑んだ。


「もう二度と振り返らなくていいからな。それから、これからは誰かの仕掛けた罠にかからないよう、気をつけるんだぞ」


 ウサギはひと跳びすると、そのまま茂みの奥へ姿を消した。


 僕は立ち上がり、膝にこびりついた泥を払った。


 すると、リスが目にも留まらぬ速さで僕の肩へ駆け上がってきた。


「もう眺めるウサギもいなくなっちまったな。さて、今日は何を食べて腹を満たすんだ?」


「森の果物でも食べようか」


「またあの酸っぱくて渋いやつをかじるのかよ?」


「それとも、少し時間を割いて村まで下りて、甘いパンを買って大王様に献上するっていうのはどうだ?」


「甘いパン」という言葉を聞いた途端、リスは両前足で僕の襟元をぎゅっと掴んだ。


「今すぐ出発だ!」


 ところが、村へ向かって足早に歩き出そうとした当初の予定とは裏腹に、僕の視線はいつの間にか北の山並みへと向かっていた。


 先日、落雷で倒れた木の根元から、偶然にも古びた木箱を見つけて以来、僕の胸の内にはずっと、解けない疑念と落ち着かない思いが残っていた。


 あの古い地図だ。


 地図に記された暗紅色の円は、年老いた古松の根元にある古代の石碑の位置を、正確に示していた。それだけではない。箱の中に収められていた金属製の鉤も、以前、森で灰色の衣をまとった連中が使っていた、あの鋭利な道具とよく似た形をしていた。


 地図そのものは今、手元にない。それでも、そこに描かれていた図形や記号の一つひとつは、すでに僕の記憶に深く刻み込まれている。


 僕は、もう一度北の森へ戻ることにした。


 手当たり次第に土を掘り返すためでもなければ、愚かにもあの危険な連中の前にのこのこと姿を現すためでもない。


 ただ、あの木箱が誰かに持ち去られてしまったのか、それとも何か手掛かりが残されているのかを確かめたいだけだった。


 北の森を横切る小道は、今日に限って不気味なほど静まり返っていた。


 以前、薪を拾いに山へ入っていた村人たちの姿は、すっかり見えなくなっていた。先日の火災で焼け焦げた木々は、黒々とした亡霊のように立ち尽くし、風が吹き抜けるたび、乾いた枝が折れてぱらぱらと地面に落ちていく。


 僕は落ち着いて、以前たどった足跡を追っていった。


 倒木の根元へ真っすぐ近づくような真似はしない。密集した竹藪を迂回し、その陰に身を潜めて、周囲に不審な動きがないか念入りに確かめてから、ようやく近づいた。


 これは、灰色の衣をまとった連中と幾度となく命懸けの遭遇を繰り返すうちに、身につけた極めて貴重な生存術だった。


 深い森の中では、肉食獣も確かに恐ろしい。だが、それ以上に何万倍も恐ろしいのは、自分の痕跡を巧みに隠す術を心得た人間だ。


 僕は身をかがめ、地面を注意深く観察した。


 松の根元を取り囲む土には、つい最近ついたばかりの足跡がいくつも残っていた。


 少なくとも、三人の人間がここを訪れている。


 一人目は硬い革底の靴を履いており、足取りがひどく重い。


 二人目は足取りが軽く、身のこなしも優雅だった。だが、歩幅の間隔が恐ろしいほど一定している。


 そして最後の一人は、明らかに左足を大きく負傷していた。左側の靴跡だけがひどく深く沈み込んでおり、地面には何度も足を引きずった跡が残っている。


 僕は眉をひそめ、足跡の続く方向へ視線を向けた。


 木箱は跡形もなく消え失せていた。


 残されていたのは、深く掘り返された土の窪みと、あちこちに散らばった朽木の破片、それから赤錆の浮いた鉄釘が一本だけだった。


 僕はしゃがみ込み、小さな木片を拾い上げて眺めた。


 その表面には、まだかすかな刻み目が残っていた。


 曲線を描く一本の線。


 そのすぐ脇には、地図に記されていたものとよく似た、小さな円形の点が刻まれている。


 僕の脳裏に、すぐさま廃寺が描かれたあの地図がよみがえった。


 そして、気づけば北の霧に包まれた山並みを見つめていた。


 あの連中が木箱を持ち去ったのなら、古松の根元にある古代の石碑の所在についても、すでに突き止めている可能性が高い。


 がさり……。


 背後から、極めて小さな物音が聞こえた。


 僕は愚かにも、勢いよく振り返ったりはしなかった。


 代わりに、地面にぼんやりと映る影へ素早く目を走らせる。


 密集した竹藪の向こうに、人影が一つ浮かび上がった。


 僕は慎重に手を伸ばして枯れ枝を一本折り取り、勢いよく立ち上がって振り向いた。


「そこに隠れているのは誰だ?」


 返事はなかった。


 僕が正面を見据えると、十歩ほど離れたところに一人の少女が静かに立っていた。


 彼女は質素な薄灰色の服をまとい、その上から、擦り切れてぼろぼろになった外套を無造作に羽織っていた。長い黒髪は後ろで低く結われており、こめかみのあたりからこぼれ落ちた数本の髪が、青白い額にかかっている。


 血の気を失った顔には、長い間まともに食事を取れていないような衰弱が見て取れた。だが、その黒々とした瞳だけは異様なほど鋭く、周囲のあらゆるものを見逃すまいとするかのように冴えわたっていた。


 僕はすぐに彼女が誰なのか気づいた。


 以前、深い森の中で偶然出会い、重傷を負っていたところを助けた少女だ。


 あのとき、刃物を突きつけて僕の顔を切りつけると脅し、名前を明かすことを頑なに拒み、助けを受けた直後には跡形もなく姿を消した、あの少女だった。


 そして、彼女もまた、僕にすぐ気づいたようだった。


 冷ややかな視線が、まず僕の肩に乗った小さなリスをかすめ、それから枯れ枝を握る僕の手へと向けられる。


「お前、まだのうのうと生きていたのね?」


 僕は目を瞬かせた。


「僕だって、君はとっくにあの世へ行ったものと思っていたけどね」


 少女は少しも笑わなかった。


「そんな話をするために、ここに来たわけじゃない」


「じゃあ、わざわざこんなところまで来て、何を聞きたいんだ?」


 彼女は倒木の根元へ視線を走らせた。そこには、もはや何も残っていない。


「ここで何か見つけたの?」


 僕はじっと彼女を見つめた。


「君はこのいまいましい場所について、ずいぶん詳しいみたいだね?」


「先に私が質問したのよ」


「僕には答える気がない」


 二人の視線が真正面からぶつかり合い、周囲の空気が凍りついたかのように張り詰める。


 冷たい山風が竹藪を吹き抜け、枯れ葉を巻き上げながら、僕たちの足元をさらさらと通り過ぎていった。


 やがて、沈黙を破ったのは少女のほうだった。


「誰かが、ここに埋められていた木箱を持ち去った。そうでしょう?」


 僕はすぐには肯定しなかった。


 この少女の正体が、あの灰色の衣をまとった連中と何らかの関係を持っているのかどうか、僕にはまったく分からない。ましてや、彼女が何を企んでいるのかなど知る由もなかった。


 ただ、その落ち着き払った態度から、この一帯については誰よりも詳しいことだけは確かだった。


「君もあの木箱を探しているの?」


「そうかもしれない」


「中には、いったい何が入っているんだ?」


「どうしても取り戻さなければならないものよ」


「それは何?」


 少女は冷ややかに僕を見た。


「最近、ずいぶん図太くなったようね。前よりも遠慮なく、私にあれこれ尋ねるようになったじゃない」


 僕は気恥ずかしくなって、頭を掻いた。


「前に名前を聞いただけでも、君は平気な顔で教えてくれなかったじゃないか」


「それで? 今も知りたいの?」


「うん」


「知ってどうするの?」


「またどこかで偶然会ったとき、どう呼べばいいか分かるだろ?」


 少女は黙り込んだ。


 見知らぬ子供が、そんな些細なことをいつまでも覚えているとは思わなかったのだろう。彼女の顔には、ほんのわずかな戸惑いが浮かんでいた。


 だが、次の瞬間には何事もなかったかのように歩き出し、倒木の根元へ近づくと、地面に残された足跡を注意深く観察し始めた。


「確かに、私たちより先に三人がここへ来ているわね」


 僕は彼女を横目で見た。


「君にも分かるの?」


「靴跡を見れば分かる」


 彼女は泥の上を指さした。


「一人目は左足の踵に体重をかけて歩いている。靴底もひどくすり減っているわ。二人目は踵に鉄鋲を打った硬い靴を履いている。そして三人目は左足を怪我しているから、靴跡が深く、地面を引きずった痕跡も残っている」


 僕は内心、驚きを隠せなかった。


 僕自身も同じような痕跡には気づいていた。だが、彼女のように細部まで正確に分析できたわけではない。


「以前は、獣や人間の足跡を追う仕事でもしていたの?」


「いいえ」


「じゃあ、どうしてそんなに目が利くんだ?」


 少女は答えようとせず、細い指先で掘り返されたばかりの土にそっと触れた。


「連中が木箱を持ち去ったのは、そう昔のことではないわ。土はまだ湿っているし、地中の温度もほとんど変化していない」


 僕は彼女の顔をじっと見つめた。


「連中の行方を追うつもりなの?」


「違う」


「じゃあ、何をしにここへ来たんだ?」


「誰が裏で糸を引いて、木箱を持ち去らせたのかを突き止めたいのよ」


 僕は少し考え込んだ。


「どうやら、僕たちは同じ手掛かりを追っているみたいだね」


「違うわ」


 少女はきっぱりと首を横に振った。


「お前は、今ここで何が起きているのか、ただ好奇心から知りたがっているだけ。私が知りたいのは、裏で糸を引いている黒幕を引きずり出すことよ」


 彼女の言葉に隠された事情を、僕はまだすべて理解できていなかった。


 それでも、一つだけ確信できることがあった。


 木箱が盗まれたと知っても、この少女はまったく動揺していなかった。驚く様子すら見せない。まるで、こうなることをずっと前から予測していたかのようだった。


 僕たちは連れ立って、倒木からさほど離れていない、細い岩の裂け目へと歩き出した。


 少女が先に立って道を進む。その足取りはしなやかで、野生の猫のように軽い。低く垂れ下がった枝が行く手を遮ると、無理に手で払いのけるのではなく、身体を巧みに傾けて、音を立てないように脇をすり抜けていく。


 僕は少し距離を空け、その後ろを黙ってついていった。


 肩に乗っていた小さなリスが、僕の襟元をぎゅっと掴んだ。


「あいつ、どうにも気に入らないな」


「どうして?」僕は小声で尋ねた。


「あの娘からは、危険な匂いがぷんぷんする」


 僕は答えなかった。


 自分もまったく同じことを感じていたからだ。


 彼女が僕に向けて殺気を放っているというわけではない。そうではなく、彼女の用心深さが常軌を逸しているのだ。


 周囲を警戒するときは、必ず逃げ道を確保できる場所を選ぶ。立ち止まって休むときでさえ、決して森に背中を向けようとはしない。


 それは、普通の身寄りのない子供が身につけるような生活習慣ではなかった。


「普段はどこに住んでいるの?」僕は興味本位で尋ねた。


「決まった場所はないわ」


「じゃあ、夜はどこで寝るの?」


「人間が近づかない場所よ」


 僕は彼女を横目で見た。


「それはずいぶん大変そうだね」


「お前はどうなの?」


「僕には岩穴があるよ」


「本当に一人で岩穴に住んでいるの?」


「うん」


「家族や親しい人はいないの?」


 僕は前方に続く小道へ視線を戻した。


「誰もいないよ」


 少女はそれ以上、何も尋ねなかった。


 しばらく歩いたところで、彼女は突然、大きな岩の裂け目の脇で足を止めた。


 岩の隙間の下には、小さな渓流が流れていた。苔むした岩の間を水がさらさらと抜けていく。そのすぐ脇には、雨風をしのぐには十分な広さの、乾いた岩陰があった。二人なら何とか身体を縮めて入り込めそうだった。


 少女は身をかがめ、岩陰の奥へ手を差し入れて、小さなものを取り出した。


 擦り切れた布袋だった。


 中には、石のように硬くなった干し餅が数切れ、小さな短刀が一本、そして色褪せた包帯が一巻き入っていた。


 僕の視線は、何気なくその包帯に留まった。


「腕の傷は、もうすっかり治ったの?」


 少女は黙って、だぶついた袖をまくり上げた。


 左腕には、まだ長く不規則な傷痕がくっきりと残っていた。周囲の皮膚はすでに塞がっていたものの、傷を負ったときの痕跡までは消えていない。


「治ったわ」


「それならよかった」


「この前、お前に渡した黒い玉は、ちゃんと持っているでしょうね?」


 僕はわずかに動きを止めた。


 彼女の目をまっすぐ見つめる。


「黒い玉って、何のこと?」


「森の中で、お前に預けたものよ」


 そこでようやく思い出し、僕は服のポケットに手を入れて、小さな黒い玉を取り出した。


 その表面は滑らかで、中央には奇妙に尾を曲げた鳥の浮き彫りが施されている。遠目には、まるで一枚の葉のようにも見える形だった。


 少女は青白い手を差し出した。


「返して」


 彼女は黒い玉をしばらくじっと眺めていた。


 細い指先が、精巧に刻まれた模様をそっとなぞる。


「ずいぶん大切に保管してくれたのね」


「君が自分で僕に預けたんじゃないか」


「私が渡したのは、あのときの忠告を忘れないようにするためよ」


「忠告って?」


 少女は顔を上げ、僕を見た。


「見知らぬ人間を、簡単に信用してはいけないということ」


 僕は思わず吹き出した。


「ちゃんと覚えているよ」


「それなのに、どうしてわざわざ後をつけて、こんなところまで来たの?」


「だって、僕はもともと君を信用なんてしていないからね」


 少女は一瞬、言葉を失った。


 僕は平然と言葉を続ける。


「ただ、君がいったい何を企んでいるのか、気になって後をつけてきただけだよ」


 彼女は数秒間、僕をじっと見つめていた。


 それから突然、小さく笑い声を漏らした。


 ほんの一瞬の、かすかな笑みだった。


 それでも、その笑顔は普段の彼女の顔に張りついていた冷淡さと距離感を、幾分か和らげていた。


「お前は、本当に変わった子ね」


「その言葉、今日だけで二回目だよ」


「じゃあ、次からは言わないことにするわ」


 そう言うと、少女は黒い玉を大切そうに懐へしまった。


 僕は彼女の動作を見つめながら尋ねた。


「そんなに取り戻したかったの?」


「これは、この世に残された唯一のものなの。私がかつて、どこかに属していたのだと証明してくれる……たった一つのものよ」


 その声はひどくか細く、渓流のせせらぎに溶けて消えてしまいそうだった。


 僕はそれ以上、何も尋ねなかった。


 僕自身も、心の中に触れられたくない悲しい記憶を抱えている。だからこそ、世の中のすべての事情を、誰かに打ち明けられるわけではないことくらい、よく分かっていた。


 そのときだった。


 小さなリスが、突然二つの耳をぴんと立てた。


 そして東側の小道へ顔を向けると、警戒するように短く鳴いた。


 僕はすぐに物思いから覚め、リスの視線を追った。


 少女も異変に気づいたらしい。


 素早く立ち上がり、腰に差した短刀の柄へ、冷たい手をそっと添えた。


「誰かが近づいてくる」


 僕は耳を澄ませた。


 こつ、こつと、地面を踏みしめる足音が聞こえてくる。


 一人ではない。


 少なくとも二人はいる。


 足取りはかなりゆっくりしている。あちこちを探りながら、何かを探し求めているようだった。


 少女が鋭い目つきで僕を振り返った。


「早く別の道から逃げなさい」


「君はどうするの?」


「私はここに残る」


「どうして逃げないんだ?」


「連中の狙いは私だからよ」


 僕は彼女を見つめた。


「自分から捕まりに行くつもりなの?」


 彼女は何も答えなかった。


 灰色の外套を頭からすっぽりとかぶり、岩陰の奥へと身を引いていく。


 僕はすぐさま周囲の地形を見回した。


 この岩の裂け目には、二つの道が通じている。一つは渓流に沿って下へ続く道、もう一つは東側の小道へそのままつながる道だ。


 あの連中がここまで近づいてきたら、僕たちは挟み撃ちにされてしまう。


 僕は下を流れる速い渓流へ目を向け、決心した。


「いいから、僕についてきて!」


 少女は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。


「お前の施しなど必要ないわ」


「君に意見を聞いた覚えはないよ」


 僕はすぐさま崖の縁に生い茂る茂みへ駆け寄り、その太い枝を掴んだ。鋭い棘が密集していたが、構わず手で押し分ける。


 すると、その茂みのすぐ裏に、細く険しい小道が隠れていた。


 以前、果物を摘みに来たとき、偶然見つけた道だった。


 そこはひどく狭く、身をかがめなければ通り抜けられない。ようやく一人が身体を横にして、どうにか通れるほどの小さな抜け道だった。

 少女は驚いたように僕を見つめた。


「こんな道があることを知っていたの?」


「うん」


「だったら、どうしてさっき言わなかったのよ?」


「君が聞かなかったからね。わざわざ教える必要もないだろ?」


 少女は悔しそうに唇を噛み、歯を食いしばった。


 それでも、結局は大人しく身をかがめ、先に岩の隙間をくぐり抜けていった。


 僕たちが生い茂る葉の陰に姿を隠した直後、岩の裂け目のすぐ外から、どたどたと荒々しい足音が響いてきた。


 低く濁った男の声が聞こえる。


「ここに、ついさっき誰かが通った足跡があるぞ」


 もう一人の男が冷ややかに尋ねた。


「痕跡は新しいのか?」


「間違いない。つい先ほど、二人ほどがこの辺りに潜んでいたようだ」


 僕は思わず足を止めた。


 少女はすぐ後ろにぴったりと身を寄せていた。


 彼女はそっと手を伸ばし、僕の服の裾をつまむと、物音を立てずにじっとしていろと合図した。


 二人の男は大股で歩き、岩陰のすぐそばまで近づいてきた。


 一人が地面に顔を近づけ、足跡を念入りに調べる。


「子供の靴跡に見えるな」


「隣にあるほうはどうだ?」


「ずいぶん軽い。おそらく、俺たちが捜しているあの小娘だろう」


 男は立ち上がり、周囲を鋭く見回した。


「まだこの近くをうろついているはずだ。隅々まで捜して見つけ出せ!」


 僕のいる場所からは、男たちの顔を確認することはできなかった。ただ、足音が辺りを探りながら、少しずつこちらへ近づいてくるのが聞こえるだけだった。


 しかし、その声の中に、僕を凍りつかせるものが一つあった。


 あの灰色の衣をまとった男だ。


 以前、僕の岩穴の周辺をうろつき、後をつけてきた、あの男に違いない。


 僕は無意識のうちに拳を強く握りしめた。


 すると、背後にいた少女がそっと僕の肩に触れ、首を横に振った。


 今は動くな、という合図だった。


 彼女は小石を別の方向へ投げ、男たちの注意をそらそうとしていた。


 だが、まさに一触即発というその瞬間だった。


 頭上にあった朽ちた枯れ枝が、突然折れて落ちてきた。


 バキッ!


 男の一人が驚いて、音のした方向へ勢いよく振り返る。


「いたぞ! あっちだ!」


 男は叫ぶなり、こちらへ猛然と駆け出した。


 少女の反応は、恐ろしいほど素早く、そして容赦がなかった。


 彼女は僕を勢いよく横へ押しのけると、身体を低く沈め、男が伸ばしてきた手を紙一重でかわした。


 薄暗い木陰で、短刀の刃が冷たく閃く。


 キンッ!


 男も瞬時に反応し、短刀を抜いて、少女の一撃を真正面から受け止めた。


 僕は、彼女がこれほどまで俊敏かつ容赦のない動きで戦う姿を、これまで一度も見たことがなかった。


 彼女は左手で相手の手首をがっちりと掴み、右手の短刀を反転させると、脇の下に生じた急所の隙間へ一気に突き込んだ。


 男は苦痛に顔を歪め、後ろへ飛び退いた。


 しかし、体格も腕力も男のほうが圧倒的に勝っていた。


 男は獣のように唸り声を上げると、肩を思いきり前に突き出し、凄まじい勢いで体当たりを食らわせた。


 少女の身体が後方へ吹き飛び、細い背中が岩壁に激しく叩きつけられた。


 彼女が痛みに顔をしかめ、息を呑む音がはっきりと聞こえた。


 まだ完全には癒えていない左前腕の古傷が、明らかに攻撃の速度を鈍らせている。


 その直後、もう一人の男が援護に駆けつけた。


「捕まえたぞ!」


 男が勢いよく飛びかかる。


 もはや、僕も黙って見ているわけにはいかなかった。


 周囲を素早く見回し、手近にあった長い枝をつかむ。頭上に広がる棘だらけの茂みに向かって、それを力いっぱい振り下ろした。


 バサバサッ!


 大量の枯れ枝や鋭い棘が、まとまって男の頭上へ降り注いだ。


 男は枝に手足を絡め取られ、慌てて身をすくめながら立ち止まった。


 その隙を逃さず、僕は少女の手首を強く掴んだ。


「早く逃げるよ!」


 二人で一斉に駆け出し、急な斜面を全速力で駆け下りた。


 足元では無数の小石が転がり、湿った土に足を取られるせいで、斜面を滑り落ちる速度はみるみる増していく。


 僕は、以前ズア・トゥオンから教わった、転倒するときの基本を思い出した。


 すぐさま身体の重心をできる限り低くする。バランスを崩したからといって、無理に立ち上がろうとしてはいけない。


 僕はしばらく斜面を滑り落ちた後、その勢いを利用して身体を横に傾け、下方に広がる背の低い草むらへ転がり込んだ。


 ドサッ!


 背中に鈍い激痛が走ったが、幸い骨が折れたわけでも、深刻な怪我を負ったわけでもなさそうだった。


 少女もそのすぐ後ろから斜面を転げ落ちてきた。


 彼女は必死に体勢を立て直そうとしたが、左足が不注意にも松の根に引っかかり、身体が大きく傾いて、そのまま横向きに転倒した。


 僕はすぐに手を伸ばした。


 少女は僕の手首を力いっぱい掴んだ。


 そのまま二人そろって、渓流のすぐ脇に広がるぬかるんだ地面へ転がり込んだ。


 バシャッ!


 水が盛大に跳ね上がり、僕たちの身体は頭から足先までずぶ濡れになった。


 肩に乗っていた小さなリスは、驚きのあまり飛び上がり、大きな岩にしがみついて甲高い声でわめき散らした。


 僕は真っ先に立ち上がった。


「怪我はない?」


 少女は答えなかった。


 ただ、目を見開いたまま、斜面の上方をじっと見つめている。


 二人の男は、まだこちらまで追いついてきていないようだった。


 僕はすぐさま彼女の腕を引っ張り、渓流沿いにあった薄暗い岩穴へ身を潜めた。


「ここにしゃがんで!」


「自分の身くらい、自分で守れるわ」


「左足から血が流れているじゃないか!」


 少女はようやく足元へ目を落とした。


 左脚のズボンは大きく裂け、その下のふくらはぎには新しい擦り傷ができていた。鮮血がじわじわと滲み出ている。


 彼女は服の裾で適当に血を拭うと、歯を食いしばって立ち上がろうとした。


 僕は彼女の肩を押さえ、無理やり座らせた。


「いい加減、強がるのはやめなよ」


「手を離して」


「まともに歩けるようになったら、ちゃんと離してあげる」


 彼女は何か言い返そうとしたが、骨まで響くような痛みに耐えきれなかったのだろう。結局、大人しく腰を下ろした。


 僕は腰のあたりから、以前リュー・ホアにもらった薬袋を取り出した。


 清潔な布に白い薬粉を薄く振りかけ、彼女へ差し出す。


「早く自分で塗って」


「同情なんていらないわ」


「君は本当に、フア・ティン・ティっていう子とそっくりだね」


「フア・ティン・ティって誰よ?」


「誰でもないよ」


 少女は僕の手から薬袋をひったくった。


 薬を傷口に塗りながら、彼女は顔を上げて僕を見た。


「そもそも、お前は何者なの? どうしてあの連中と関わることになったのよ?」


「それはこっちが聞きたいくらいだよ」


「お前は、触れてはいけないものに手を出したのよ」


「ただ偶然、土の中に埋まっていた木箱を見つけただけだよ」


 少女の手がぴたりと止まった。


「中を開けて見たの?」


「うん」


「何が入っていた?」


「地図が一枚と、布の切れ端、それに金属製の何かが一つ」


 少女は口を閉ざした。


 その表情が目まぐるしく変化したのを、僕は見逃さなかった。


「その品々が何なのか、君は知っているの?」


「一つだけ、はっきり分かっていることがある。あれは、今私を追い回している獣同然の連中の持ち物ではないわ」


「じゃあ、本当の持ち主は誰なの?」


「とうの昔に死んだ者たちよ」


 僕は思わず言葉を失った。


 その返答によって、僕の脳裏には謝重山のこと、古い鍛冶場に隠されていた秘密、そして何年も前に起きた凄惨な事故で命を落とした人々の記憶が、突然よみがえった。


「死んだ人たちって、いったい誰のこと?」


 少女は黙り込んだまま、それ以上説明しようとはしなかった。


 短い沈黙の後、彼女は手をついて、どうにか立ち上がった。


「もう行くわ」


 僕は血の滲む彼女のふくらはぎへ目を向けた。


「その足で、あとどれくらい歩けると思っているの?」


「生き延びるくらいはできるわ」


「君は口を開けばいつも大丈夫だと言うけど、一度だって本当に大丈夫そうだったことはないよ」


 少女は鋭い目つきで僕を睨みつけた。


「じゃあ、私にどうしろというの? ここでじっとして、あいつらが刃物を持って捕まえに来るのを待てばいいわけ?」


 僕はもう、彼女と言い争うつもりはなかった。


 代わりに、向こう側に広がる深い茂みへ視線を向けた。


「南へまっすぐ続く、使われなくなった細い山道があるんだ。そこを通れば、漁村の近くにある地下水の湧き出す場所へ出られる。あとは、その道をたどって逃げればいい」


「お前はどうするの?」


「僕は自分の岩穴へ戻るよ」


 少女は理解できないものを見るような目で僕を見つめた。


「あいつらがお前の岩穴まで捜しに来るとは思わないの?」


「怖いに決まっているだろ」


「それほど怖いのに、どうしてここに残ろうとするの? 愚かにもほどがあるわ」


「だって、あそこは僕の家だからね。一生逃げ回って暮らすわけにはいかないよ」


 少女はうつむき、黙り込んだ。


 僕は手を伸ばし、大きな岩にしがみついていたリスを抱き上げ、再び肩へ戻してやった。


「南の大きな道までは、一緒に行ってもいいよ。そこまで行ったら、お互い別々の道を進もう」


「お前と一緒に行くのは嫌よ」


「そう。なら、好きにすればいい」


 僕はそれ以上、彼女を説得しようとはしなかった。


 少女は、僕があっさり引き下がったことに少し驚いたようだった。


 しばらく僕を見つめていたが、やがてようやく口を開いた。


「南の道を通って行くわ」


「うん」


「私に会ったことは、誰にも絶対に話さないで」


「分かった」


「それから……あの木箱のことを、これ以上馬鹿みたいに追いかけないで」


「それについては、約束できないかな」


 少女は眉をひそめた。


「どうして?」


「この一連の出来事の裏に、いったいどんな秘密が隠されているのか、僕自身の目で確かめたいからだよ」


 彼女は再び口を閉ざした。


 しばらくして、少女は服のポケットに手を入れ、黒い玉を取り出すと、僕に差し出した。


「これを持っていて」


「さっき返してくれって言ったばかりじゃないか」


「今度は私が、お前に渡したいのよ」


 僕は黒い玉を見つめた。


「これを持っていて、どうするの?」


「いつか誰かに、その玉について問い詰められることがあったら、森で偶然拾ったと答えなさい」


「でも、実際には拾ったわけじゃないよ」


「だったら、嘘をつけばいいわ」


 僕は目を丸くして彼女を見つめた。


 この少女が自分から僕に嘘のつき方を教えてくれたのは、これが初めてだった。


 彼女の真意はどうしても理解できなかった。それでも、直感が告げていた。


 彼女は何か、とても大切なものを守ろうとしている。


「分かった。そうするよ」


 少女はきっぱりとうなずいた。


 そして背を向け、そのまま立ち去ろうとした。


「待って!」


 彼女は足を止めた。


「まだ何かあるの?」


「君はまだ、自分の本当の名前を教えてくれていないじゃないか」


 少女は振り返らなかった。


「それは、また別の機会にしましょう」


「その別の機会って、いつなの?」


「お前がすべてを理解できるくらい、大人になったときよ」


 そう言い残すと、少女は身を翻し、瞬く間に深い茂みの向こうへ姿を消した。


 僕はその場に立ち尽くし、彼女が去っていった方向をぼんやりと眺めていた。


 小さなリスが襟元から顔を出し、ぶつぶつと不満を漏らす。


「俺は、あの娘がどうにも気に入らない」


「その台詞、もう何回聞いたことか」


「やっぱり危険な感じがするんだよ」


「うん」


「だったら、どうしてあの娘を好き勝手に行かせたんだ?」


「自分が何者なのかも分からない相手を、無理やり引き止めることなんてできないよ」


 リスはようやく口を閉ざした。


 僕は黒い玉を大切にしまい、身体の向きを変えて岩穴へと歩き出した。


 その日の午後、僕は一人で村へ下りていった。


 ハー・ティン・リュー・ホアの薬屋に立ち寄り、皮膚に塗る傷薬をいくらか買い足すことにした。


 彼女は、泥だらけになった僕の服を一目見ただけで、すぐに事情を察したようだった。


「あら、また喧嘩に巻き込まれたの? それとも、どこかで転んできたの?」


「ちょっとした擦り傷だよ、姉さん」


 彼女は僕の腕をつかむと、椅子に座らせた。


「ほら、手を出して。見せてみなさい」


「手じゃないよ」


「じゃあ、足なの?」


「違うよ」


「いったい、どこを怪我したの?」


 僕は、茨の枝に引っかかれてできた、前腕の小さな擦り傷を指さした。


 リュー・ホアは疑わしそうに僕を横目で見た。


「たったこれだけ?」


「うん」


 彼女はほっと胸をなで下ろしたものの、念のため、丁寧に傷口を洗ってくれた。


「今日はまた、どこを歩き回っていたの?」


「森の奥のほうだよ」


「何か変わったことはなかった?」


「別の人を追いかけている、見知らぬ男たち二人に出くわしたんだ」


 リュー・ホアの手が、薬を塗る途中でほんの一瞬止まった。


「危険だったの?」


「うん。かなりね」


「その人たちに殴られたり、怪我をさせられたりしなかった?」


「そんなことはなかったよ」


 彼女は真剣な眼差しで僕を見つめた。


「バン、これからは本当に気をつけなさい。世の中には、漁村に住んでいる私たちのように、親切で優しい人ばかりがいるわけじゃないのよ」


 僕は素直にうなずいた。


「そんなことは、ちゃんと分かっているよ」


 リュー・ホアは真っ白な包帯を丁寧に巻き直した。


「姉さんはね、いつか誰かが慌てて駆け込んできて、あなたが深い森の中で命を落としたなんて知らせを聞くことになるんじゃないかと、本当に心配なの」


 僕は彼女の瞳をまっすぐに見つめた。


 その声はひどく穏やかだったが、そこには飾り気のない、心からの心配が込められていた。


 いつものように冗談を言ってごまかす気にはなれなかった。


「ちゃんと自分の身は守るよ。だから安心して、姉さん」


 リュー・ホアは満足そうにうなずいた。


 それから、店のカウンターの下に手を伸ばし、小さな布袋を取り出した。


「これを持っていきなさい」


「何なの?」


「傷薬と、少しの塩、それから乾燥させたトウモロコシの餅が何枚か入っているわ」


「さっき薬を買ったばかりだよ」


「いざというときのために持っておくの。森ではいつ何が起こるか分からないでしょう?」


「僕だって、自分で食べ物くらい調達できるよ」


「そんなことは分かっているわ。あなたなら、自分のことくらい自分で何とかできるでしょうね」


 リュー・ホアは半ば無理やり、その布袋を僕の手に押し込んだ。


「でも、森にいつでも食べ物があるとは限らないのよ」


 僕は布袋を受け取った。


「ありがとう、リュー・ホア姉さん」


「次に村へ下りてきたときも、忘れずにこの薬屋へ顔を出すのよ」


「うん」


 僕は薬屋を後にした。


 リュー・ホアはその場に立ったまま、港の人混みの中へ少しずつ遠ざかっていく僕の後ろ姿を、静かに見送っていた。


 彼女の胸の内には、正体の分からない不安が依然としてわだかまっていた。


 林朝彬は今、十歳という年齢にはあまりにも複雑すぎる世界へ、少しずつ足を踏み入れようとしている。


 それが、この子にとって幸運なのか、それとも災いなのか。


 彼女には、まだ見当もつかなかった。


 僕が疲れ切った身体を引きずって岩穴へ戻った頃には、すでに夜の帳が辺り一面を覆っていた。


 買ってきた品々の入った袋を下ろし、黒い玉を取り出すと、欠けた陶器の破片と、無骨な鉄の指輪のすぐ隣に置いた。


 今回は、暗い隅の奥深くへ隠してしまうつもりはなかった。


 むしろ、目につきやすい場所に、きちんと据えておくことにした。


 黒い玉に刻まれた、奇妙に尾を曲げた鳥の模様が、かすかな月明かりを受けて淡く輝いている。


 僕はそれを、しばらくじっと見つめていた。


 ふと、あの少女が以前口にした言葉を思い出す。


「あれは、この世に残された唯一のものなの。私がかつて、どこかに属していたのだと証明してくれる……たった一つのものよ」


 彼女が過去に何を失ったのか、僕にはまったく分からなかった。


 なぜ、あれほど残酷な人間たちが、彼女を執拗に追い詰め、命まで奪おうとしているのかも分からない。


 ただ、一つだけ確かなことがあった。


 彼女は、自分が今もこの世に生きているという事実を、誰にも知られたくないのだ。


 僕は大きな松の葉で黒い玉を丁寧に包み、岩穴の中でもっとも見つかりにくい場所へしまい込んだ。


 それから、燃え尽きかけた焚き火のそばに腰を下ろした。


 小さなリスが僕の膝の上で身体を丸め、頭をうずめる。


「また何をぼんやり考え込んでいるんだ?」


「ちょっと考え事をしていたんだ……」


「また、昼間の変な娘のことか?」


 僕は小さくうなずいた。


 リスは大きなあくびを一つした。


「俺の意見を言わせてもらえば、お前はこの岩穴に縮こまって、一歩も外に出ないのが一番安全だと思うぞ」


「そうかもしれないね」


 僕は顔を上げ、岩穴の入口から外を眺めた。


 深い闇の中、老いた松の枝葉が、吹きすさぶ風に揺られてざわざわと音を立てている。


 耳の奥では、少女の冷たい声が何度もよみがえっていた。


「お前は、触れてはいけないものに手を出したのよ」


 僕には、まだその言葉の本当の意味を完全に理解することはできなかった。


 だが、これだけは分かっていた。


 一度目にし、一度経験してしまった奇妙な出来事を、何もなかったかのように装うことなど、もうできない。


 これからも武芸の鍛錬を続けよう。


 これまでどおり、定期的に村へ下りて、物々交換を続けよう。


 ヒウ・テーやリュー・ホア、ズア・トゥオンをはじめとする仲間たちのもとにも、変わらず顔を出そう。


 そして、この広大な原生林の奥深くに埋もれている数々の謎については、少しずつ、その覆いを剥がしていけばいい。


 焦らないこと。


 無謀な行動で、自ら死地へ飛び込まないこと。


 今の僕にできるのは、それがすべてだった。


 まだ十歳の子供にすぎない僕が、この時点でできることなど、その程度なのだから。


 その頃、果てしなく広がる原生林から遠く離れた、とある場所では、灰色の衣をまとった二人の男が、沈香木で作られた机の前に、恭しくひれ伏していた。


 机の上には、奪取した木箱に収められていた地図が広げられている。


 机の奥には、一人の中年男が腰を下ろしていた。男は年季の入った荒々しい指先で、長い歳月のうちに色褪せた地図の線を、丹念になぞっている。


「木箱が、以前に誰かによって開けられていたかどうか、詳しく調べたのか?」


「はっ、旦那様。明らかにこじ開けられた形跡がございました」


「ということは、誰かが先にこの地図を見ていた可能性があるということか?」


「その可能性は非常に高いかと存じます」


 男の指が、老松の根元に記された暗紅色の円の上で止まった。


「では、黒い金属片のほうはどうなった?」


「申し訳ございません。すでに紛失しておりました」


 男は勢いよく顔を上げた。


 その目に、獰猛な光が宿る。


「それを持ち去った不届き者は、いったい何者だ?」


「いまだに所在は突き止められておりません。ただ、その一帯を頻繁に出入りしている、見慣れない子供が一人いるとの報告がございます」


「子供だと?」


「はい。年の頃は十歳ほど。深い森の中で一人暮らしをしており、いつも小さなリスを連れ歩いているそうです」


 男は黙り込んだ。


 しばらく考え込んだ後、ゆっくりと地図を畳んだ。


「その子供のことは放っておけ。決して手を出すな」


 ひざまずいていた部下の一人が、驚いたように顔を上げた。


「しかし、旦那様。万が一、そいつが何か重要な秘密を握っていたら……」


「私の命令だ。絶対に手を出してはならん」


 男の声が一段と低くなり、凍りつくような冷気を帯びた。


「我々があらゆる手段を尽くして探し求めているものが、鼻水もろくに拭けないような小僧の手に渡っているはずがない」


 男は立ち上がると、広々とした窓辺へ向かって歩き出した。


 外では、冷たい月が灰色の雲間に浮かんでいる。


「それで、あの小娘の行方はどうなった?」


「いまだ発見には至っておりません、旦那様」


 男は目を細め、果てしなく広がる夜の闇を見据えた。


「引き続き人手を増やして捜せ。何としても見つけ出すのだ」


 一瞬だけ言葉を切り、さらに冷酷な声で付け加えた。


「そして、よく覚えておけ。今度こそ、二度と逃がすな」


 薄暗い室内では、油灯の炎が不規則に揺らめいていた。


 壁に映し出された男の影は、長く歪みながら伸び、見るもおぞましい怪異のような姿へと変貌していた。


 そして、その原生林の向こう側では、林朝彬が疲れ果てた身体を横たえ、深い眠りに落ちていた。


 彼はまったく気づいていなかった。


 名も知らぬ一人の少女との、ほんの一度の偶然の再会。


 たったそれだけの出来事によって、自分がすでに、天下の運命を覆しかねない巨大な陰謀の核心へと、大きく一歩踏み込んでしまっていたことなど。

ブックマークしてくださって、本当にありがとうございます!

皆さんの応援が、物語を書き続ける一番の力になります。

これからも少しずつですが、心を込めて更新していきますので、

最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

もしこの記事が少しでも面白いと思ったら、評価をお願いします。下にスクロールすると、評価ボタン(☆☆☆☆☆)があります。


このページをブックマークしていただけると、とても嬉しいです。ぜひやってください。


もしよろしければ、フィードバックもお聞かせください。


評価、ブックマーク、いいねなどは、私が執筆する大きな励みになります。


どうもありがとうございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。