Episode 74
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夜が明け始めたばかりだった。ほのかな光が、洞窟の入り口にまだ残る冷たい霧を淡く照らし出している。
洞窟の中では、塩壺は数日前からすっかり空になっていた。先日採っておいたわずかな山の果実も、ほとんど食べ尽くしてしまい、残っているのは乾燥した栗が数粒と、朽ちかけた樹皮が少々だけだった。
俺の衣の帯に丸くなっていた小さなリスが、ふいに頭を跳ね上げた。前脚で襟元をしっかりとつかみ、くりくりとした黒い瞳を忙しなく動かす。そして、その視線はやがて俺の腰に提げられた、使い古しの粗末な麻袋へと釘づけになった。
「おい、チウ・バン。今度の山下りでは、腹の足しになるようなものをちゃんと持っていくんだろうな?」
リスは鼻先を突き出し、くんくんと匂いを嗅いだ。
「もちろんだ」
「本当か? まさか、この私を騙そうってんじゃないだろうな!」
「香ばしい栗をたっぷり持っていくさ」
その途端、リスは耳を垂らし、口をへの字に曲げた。
「ふん。あんな乾ききった味気ない栗なんぞ、誰が食べたがるものか」
「じゃあ、何が食べたいんだ?」
「村や町の人間が普段食べているようなものだ」
俺は少し考え込んだ。
「精製した塩か?」
「塩なんて、どうやって食べるんだ? 味も何もないじゃないか」
「なら、山の蜂蜜にしよう」
「蜂蜜」という言葉を聞いた途端、リスの両耳がぴんと立った。目がまばゆいほどに輝く。
「この辺りに蜂蜜があるのか!?」
「ラックトゥイの渡し場に品物を持っていけば、交換してもらえるかもしれないって言ったんだ。袋の中に隠し持っているとは言ってないぞ」
リスはしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがて不機嫌そうにぷいっと顔を背けた。どうやら、これ以上は一言も口を利いてやらないという意思表示らしい。
俺は思わず小さく笑いを漏らした。
乾燥させたシイタケと、いくつかの薬草、そしてまだ食べられる山の果実を詰め込んだ小さな竹籠を手に取り、外へ出る。
森の奥と麓の市を一人で往復するのは、これが初めてではない。近頃では、ラックトゥイの渡し場周辺に暮らす人々も、森の中でひっそりと暮らす風変わりな子供の顔を、次第に見慣れてきていた。もっとも、時折、好奇心と警戒心が入り混じった視線を向けられることには変わりない。
とりわけ、俺のそばにはいつも、何やら口をもごもご動かしながら値段交渉までしてくる小さなリスがいるのだから。
村へ下る小道は、険しい小さな峠を一つ越えなければならない。
この道はもともと、北側の村々からラックトゥイの渡し場へ荷を運ぶ商人たちが、荷車を引いて頻繁に行き来する主要な街道だった。道の両側には低いながらも切り立った岩壁が連なり、その下には一年を通して絶えることなく流れ続ける小川がある。
数日前の大雨のせいで、あちこちの道が水流に削られ、無残に崩れていた。村人たちは普段、より安全な迂回路を選ぶ。しかし、市が閉まる前にラックトゥイの渡し場へたどり着こうと思えば、この小さな峠を越えるのが唯一の近道だった。
俺は歩みを進めながら、湿った土の上に深く刻まれた車輪の跡を注意深く観察した。
つい先ほど、馬車が一台ここを通ったらしい。
車輪の轍は左右で深さが異なり、左側のほうが明らかに深く沈んでいる。荷重が偏っている証拠だ。さらに、泥の上に残された蹄の跡も、時折ひどく片側にずれている。前方で馬車を引いている馬が、脚を痛めているか、何らかの傷を負っているのだろう。
俺はその場にしゃがみ込み、車輪の周囲に残るまだ新しい泥へ、そっと指先を触れた。
「積み荷が重すぎるな」
リスが顔を突き出し、下を覗き込む。
「また食べ物でも落ちてるのか?」
「さあな」
「食べられるものもないのに、そんなものを気にして何になるんだ。面倒くさい」
「ただ観察して、経験を積んでいるだけさ」
リスはひどく憂鬱そうにため息をついた。
「お前はいつだって、口をぽかんと開けて眺め回してばかりだな」
俺は笑い、すっと立ち上がると再び歩き始めた。
だが、次の曲がり角を越えようとした、そのときだった。
前方から、人々の切羽詰まった叫び声が響いてきた。
「手綱をしっかり握れ! 馬が暴れ出すぞ!」
「車輪が穴に落ちた! 完全に挟まって動かん!」
「そこを離れろ! 崖下にいるんじゃない、早くどけ!」
直後、木材が砕け散る耳障りな音が、辺り一帯に響き渡った。
バキッ!
続いて、馬のいななきが狭い峠の岩壁に反響し、空気を震わせた。
俺は即座に歩調を速め、前方へ駆け出した。
険しい曲がり角の先には、深い谷間をまたぐ古びた石橋が架かっていた。
橋そのものはそれほど長くない。しかし、道幅は狭く、馬車が一台通るのがやっとだった。片側の石欄干はいつの頃か崩れ落ちており、その下には大小の石塊が無秩序に積み重なっている。谷底を流れる水は激しく渦巻き、岩壁に叩きつけられて、耳をつんざくような轟音を立てていた。
その狭い石橋の中央に、荷物を満載した馬車が立ち往生していた。
右後輪が、石橋の路面に走った大きな亀裂へ深く落ち込んでいる。車軸は片側へ大きく傾き、それに引きずられるように、重たい荷箱全体が崩れた欄干の方向へと傾斜していた。
馬車を引く馬は、極度の恐怖に陥っていた。
前脚を何度も跳ね上げては、石橋の上を踏み荒らしている。御者は血の気を失った顔で手綱にしがみつき、必死に馬を抑え込もうとしていた。しかし、手綱を強く引けば引くほど、馬は痛みに耐えかねたように、さらに激しく暴れ回る。
馬車の周囲では、きちんとした身なりをした三人の大柄な護衛たちが、救出のために右往左往していた。
一人は額に傷を負い、鮮血がこめかみを伝って流れ落ちている。もう一人は車輪に石を噛ませようと悪戦苦闘していた。そして三人目は、濃い藍色の外套をまとった一人の少女の傍らに立ち、警護を続けている。
少女は俺と同じくらいの年頃だった。おそらく、俺より一、二歳ほど年上だろう。
艶やかな黒髪はきちんと結い上げられ、頭には飾り気のない木製の簪が一本挿されている。衣装は質素でありながら洗練されており、その生地も縫製も、庶民が着る粗末な布衣とは比べものにならないほど上等だった。腰には短めの長剣を佩いている。鞘は深い闇を思わせる漆黒で、柄には銀糸の組紐がきらめいていた。
少女は決して泣き叫んだり、恐怖に震えたりはしていなかった。
それどころか、鋭い眼差しを動かなくなった車輪へと向けたまま、次々と毅然とした指示を飛ばしていた。
「絶対に馬車を後ろへ引き戻してはならない!」
護衛の一人が慌てて言い返す。
「お嬢様! しかし、後ろへ引かなければ馬車ごと谷底へ転落してしまいます!」
「そんなことは百も承知だ!」
「危険です! どうか少しお下がりください!」
「まずは馬をしっかりと抑えなさい!」
少女は勢いよく振り返り、冷徹なまでに厳しい声で言い放った。
「この馬が暴れ続ければ、手綱に引っ張られて車軸全体がさらに歪む。その時になれば、あなたたちが十人いたところで、何一つ守りきれなくなるわ!」
護衛がなおも言い返そうとしていた、そのとき、俺が彼らのもとへたどり着いた。
俺は冷静に馬を見やり、車輪を見つめ、それから慌てふためく人々へと視線を巡らせた。
「そんなやり方を続けていたら、馬車はますます早く傾いていくだけだぞ」
それを聞いた護衛の一人が、勢いよくこちらを振り返った。
「どこの小僧だ! でたらめをほざいていないで、とっとと失せろ!」
俺は一歩も退かなかった。
馬車の車体から欄干へと張られた太い綱を指さす。
「その綱の結び方、完全に間違っているぞ」
男は顔を真っ赤にして睨みつけてきた。
「貴様、いったい何様のつもりだ! この場で偉そうに指図するんじゃない!」
「綱が締めつけているのは、すでに亀裂の入った車体の骨組みだ。このままさらに引っ張れば、その部分はすぐに真っ二つに折れる」
その言葉を聞いた藍色の衣の少女が、こちらへ目を向けた。先ほどよりも落ち着いた声で問いかけてくる。
「あなたには、もっと良い解決策があるの?」
「たぶん、ある」
「たぶん、ですって?」
「まだ実際に馬車の重量を確かめていないからな」
少女は、どうにも曖昧な俺の答えに納得がいかない様子だった。
「目で見ただけでは、その重さを判断できないということ?」
「できないな」
俺は馬車へ近づき、車体の側面に走る長い亀裂を細かく観察した。そして、むき出しの手のひらを横木に当て、軽く押してみる。
馬車全体がびりびりと震えた。
その瞬間、下側の車輪は、石橋の亀裂へさらに深く沈み込んだ。
俺は慌てて手を引っ込める。
「無闇に力を加えるな。まずは車輪を持ち上げる方法を考えないといけない」
手綱を必死に押さえ込んでいた護衛の一人が、嘲るように鼻を鳴らした。
「お前は自分をどこぞの達人か何かだと思っているのか? 鼻水も垂らしきっていないような小僧のくせに、この俺たちに馬車の救出方法を説教するとはな!」
俺は男の目を真っ直ぐに見返した。
「それで、あんたには俺より良い考えがあるのか?」
男は口をつぐんだ。言い返そうにも、一言も出てこないらしい。
藍色の衣の少女は、形の整った眉をわずかに寄せた。だが、俺を叱責したり追い払ったりはしなかった。再び視線を動かなくなった馬車へ戻し、問いかける。
「その車輪を持ち上げるには、どんな道具が必要なの?」
「しっかりした支点と、長い梃子になる木材。それから、丈夫に編まれた綱が必要だ」
「こんな場所で、そんなものが手に入るの?」
「長い木材なら、あそこの橋の下にある」
俺は谷の縁を指さした。
そこには、流れ着いた朽ちかけた大木が、川岸にある二つの大岩の間に挟まっていた。
「ただ、問題はあれを引き上げるには、少なくとも二人が危険を冒して下まで降りなければならないことだ」
額に傷を負った護衛が、即座に首を横に振った。
「絶対に無理だ! あそこの岩は脂を塗ったように滑る。足を踏み外せば、そのまま命を落とすぞ!」
少女は、暗く深い谷底へと目を向けた。
「なら、私が取りに行くわ」
「お嬢様! なりません!」
「私には軽功がある。これくらいの崖を上り下りするのは、それほど難しいことではないわ」
「危険すぎます! どうしてもお許しするわけにはまいりません!」
少女はそれ以上、彼らと言い争うつもりはないようだった。
腰に佩いていた短い長剣を迷いなく外し、荷箱の上へ丁寧に置く。それからしゃがみ込み、布靴の紐をしっかりと結び直した。
俺は慌てて制止する。
「わざわざ危険を冒してまで、下へ降りる必要はない」
少女が振り返った。
「あなたが谷底に長い木材があると言ったのでしょう?」
「最初は確かに、下にある木を見ていた。だが、こちら側の岩壁をよく観察してみたら、古い松の巨大な根が、岩肌から大きく突き出しているのが見えたんだ」
俺は橋の側面、崖の斜面に沿って伸びる岩壁を指さした。そこには、節くれ立った太い根が何本も地表へと露出している。
「あの根を支点として利用すればいい。わざわざ危険な谷底まで降りる必要はない」
この場に少年の従者は姿を見せていなかったが、年老いた御者は、依然として必死に馬の手綱を抱え込んでいた。顔色は、もはや青白いどころか、紙のように真っ青だった。
藍色の衣の少女は、俺が指し示した方向へ視線を向けた。疑念を含んだ眼差しが、こちらへ戻ってくる。
「本当にできるの?」
「絶対に成功するとまでは言えない」
「ま……また、確かではないというの?」
「だが、この方法なら、馬車をこれ以上傾けることなく試すことができる」
少女はしばらくの間、俺の顔を探るように見つめていた。
やがて、くるりと護衛たちのほうを向く。
「この少年の指示をよく聞き、その通りに動きなさい」
先頭に立つ護衛は、あからさまに不満げな顔をした。
「お嬢様。我々は由緒ある側近の護衛です。どうして素性も知れぬ、そこらをうろついている子供の言うことなど聞かねばならないのですか?」
少女は男を真っ直ぐに見据え、氷のように冷たい声で言った。
「では、あなたたちにはそれより良い考えがあるの?」
「そ、それは……」
「何の役にも立たないのなら、黙って命令に従いなさい!」
声を荒らげたわけではなかった。
それでも、その声に宿る威厳と揺るぎない決断に、護衛たちはたちまち口を閉ざした。もはや、誰一人として反論しようとはしない。
俺はさっそく作業に取りかかった。
まず、誤った位置に結びつけられていた綱のもとへ向かい、緩んだ結び目をきっぱりと解いた。それから、まだ亀裂の入っていない、馬車の頑丈な骨組みへと結び直す。
次に、綱の反対側を大きな松の根へと慎重に回した。さらに、岩壁の鋭い突起に綱が直接擦れないよう、古布を何枚か挟んで保護する。
「長くて丈夫な木を一本、早く探してこい!」
護衛の一人が、すぐさま駆け出した。
年老いた御者は相変わらず馬を必死に押さえ込んでいたが、脚を負傷した馬は痛みのせいで、ますます激しく暴れ始めていた。
俺は馬のほうへ、ゆっくりと歩み寄った。
「もう手綱を力任せに引っ張るな!」
俺が声を張り上げると、御者は慌てて叫び返した。
「この馬は今にも馬車ごと谷底へ叩き落とそうとしているんだぞ! 強く押さえつけなければ、どうしろというんだ!」
「お前が強く引けば引くほど、こいつは恐怖で我を忘れてしまう」
「なら、どうすればいいっていうんだ!」
俺は、恐怖で血走った馬の瞳をじっと見つめた。
「人の声を聞かせてやるんだ。まずは恐怖を和らげ、落ち着かせる」
俺は一歩ずつ、できる限り静かに近づいていった。
馬の正面から真正面に突っ込むような真似はしない。刺激を与えないよう、斜め前方の死角に回り込む。馬が俺の存在を自然に認識できる位置を選びながら、慎重に歩みを進めた。
「大丈夫だ……心配するな……」
馬はたてがみを大きく振り乱し、鼻を鳴らして威嚇してきた。
俺は即座に足を止め、石像のように動かなくなった。
「誰もお前を殴ったり、傷つけたりしないからな」
俺は低く、穏やかな声で、一定の調子を保ちながら語りかけた。
年老いた御者は、まるで頭のおかしな人間でも見るような目で俺を見つめていた。
しかし意外なことに、すぐそばに立っていた藍色の衣の少女は、一言も制止の言葉を口にしなかった。
張り詰めた数度の呼吸が過ぎる頃には、馬の暴れ方も少しずつ弱まってきた。
白く濁った息を荒々しく吐き出してはいるものの、先ほどのように狂ったように地面を蹴りつけ、手綱を引きちぎろうとすることはなくなっていた。
俺はゆっくりと、素手を馬の顔の前へ差し出した。
「おい、そいつに触るな! 危険だぞ!」
御者が慌てて警告を発する。
俺はその声を聞き流した。
ただ、馬の鼻先から少し距離を保ったまま手を差し出し、馬のほうから近づいてくるのを辛抱強く待った。
やがて馬は、わずかに頭を垂れ、鼻先を伸ばして俺の手のひらをくんくんと嗅ぎ始めた。
俺はそっと、その温かな首筋に手を添えた。
「いい子だ……もう大丈夫だぞ」
それから御者へ顔を向け、指示を出す。
「この姿勢のまま、静かに立たせておいてくれ。もう手綱を強く引っ張るな」
御者は一瞬ためらったものの、最後には渋々と俺の指示に従った。
ちょうどその頃、梃子に使う木材が運ばれてきた。
俺は木材のしなりと強度を慎重に確かめた。それから一方の端を車体の下にある横木の奥深くへ差し込み、もう一方の端を大きな丸石の上に置いて支点とした。さらに、力が加わった際に木材が滑らないよう、支点に近い部分へ綱を巻きつけておく。
藍色の衣の少女が、俺のそばへ歩み寄ってきた。その瞳は、興味深そうに輝いている。
「その木を梃子として使うつもりなのね?」
「ああ」
「でも、これほど重いものを持ち上げるには、よほど力のある大人でなければ難しいでしょう?」
「力のある人間が二人、必要だ」
少女は二人の護衛へ視線を向けた。
「あなたたち二人、すぐに位置について」
二人の護衛は即座に前へ出た。
俺はそれぞれの立ち位置を指示する。
「二人とも、この木の両端をしっかりと押さえてくれ。俺が三つ数えたら、一斉に力を込めて下へ押し込むんだ」
すると、藍色の衣の少女がふいに問いかけた。
「では、私は何をすればいいの?」
「君には綱をしっかりと押さえていてほしい」
「私にも、馬車を持ち上げるだけの力はあるわ」
「君ならできるだろうな」
「だったら、どうして私だけ綱の番なの?」
俺は綱が固定されている位置を指さした。
「車を持ち上げる人間は、一か所に集まって力を合わせなければならない。一方、この綱には、車輪が滑って再び岩の隙間へ落ち込まないよう、常に張力を保ち続ける役目がある。だから、専任で綱を押さえる人間が必要なんだ」
少女は俺が指し示した場所をじっと見つめ、それからきっぱりとうなずいた。
「分かったわ。理解した」
すべての準備は、滞りなく整った。
俺はもう一度かがみ込み、仕掛け全体の安定性を確かめる。
「待ってくれ。まだだ」
手を伸ばし、木材の支点の下に挟まっていた小さな小石を取り除く。
「これで問題ない」
二人の護衛が、荒々しい手を梃子の両端へとしっかり押しつけた。
藍色の衣の少女も、両手で固定用の綱を固く握り締める。
俺は車輪のすぐそばに立ち、石橋の亀裂へ全神経を集中させた。
「一……」
「二……」
太い麻縄が次第に張り詰め、ぎしぎしと不穏な音を立て始める。
「三!」
二人の護衛が同時に雄叫びを上げ、全身の力を込めて梃子を押し下げた。
重い馬車が、激しく揺れ動く。
右後輪が、わずかに指一本分ほど持ち上がった。だが、車輪の縁は依然として岩の裂け目に引っかかったままだった。
「手を止めろ!」
俺は即座に作業の中断を命じた。
二人の護衛は梃子から手を離し、肩で息をしながら激しく呼吸を繰り返した。
額に傷を負った護衛が、青ざめた顔で呟く。
「やはり、持ち上がらない……!」
「まだ終わっていないと言っただろう」
俺は身を屈め、細かい部分まで確かめた。
確かに車輪は亀裂から浮き上がっている。しかし、外側の木製の縁が、岩のごつごつとした突起に引っかかり、動きを妨げていた。
俺はすかさず小さな木片を拾い上げ、車輪と岩の隙間へきっちりと差し込んだ。
「これで、あと一度だけ力を加えればいい。さっきほど力を入れる必要はない」
そのとき、ふと頭の中に、かつてフア・ティン・ティから教わった言葉がよみがえった。
――武を修める者は、ただその場に踏みとどまり、相手の攻撃を待ち続けてはならない。足場を固めるのは、力を蓄え、いつでも自在に前後へ進退できるようにするためだ。
この状況にも、まったく同じことが当てはまる。
力任せに押し続ければ、すべてが思い通りに運ぶというわけではない。状況に応じて柔軟に調整し、やり方を変え、そして最も適切な瞬間に手を止める判断が必要なのだ。
俺は深く息を吸い込み、拳を固く握った。
「準備しろ。もう一度いくぞ」
梃子が、再び押し下げられる。
車輪が、ほんのわずかに動いた。
カチッ!
ついに、車輪の縁が死の裂け目から完全に抜け出した。
だが、問題はまだ終わっていなかった。
上に積まれた荷箱の重心は、崩れた欄干の方向へ大きく偏っていた。その支えが突然失われたことで、荷箱全体が勢いを失ったように滑り出し、危険なほど大きく横へずれたのだ。
「綱を引け! 早く押さえろ!」
藍色の衣の少女は慌てて綱を腕に巻きつけ、反動を抑え込むために、身体ごと後ろへと引いた。
二人の護衛も、手にしていた梃子を放り出すと、慌てて馬車へ駆け寄り、肩をぶつけるようにして車体を支えようとした。
俺は瞬時に、あらかじめ用意しておいた補助ロープの先端をつかみ、全身を地面へ押しつけるようにして、体重をかけた。
ロープは限界まで張り詰め、風を切るような耳障りな音を立てた。
凄まじい牽引力に引きずられ、俺の身体は前方へ数寸ほど滑っていく。
靴底が湿った泥土に深く食い込み、両手のひらには骨まで響くような激痛が走った。
肩に乗っていた小さなリスは、驚きのあまり甲高い悲鳴を上げ、勢いよく飛び降りると、近くの岩にしがみついて吹き飛ばされないように身を守った。
「しっかり押さえてくれ!」
俺は喉が潰れそうなほど声を張り上げた。
藍色の衣をまとった少女も、白い歯を食いしばり、両手に血が滲むほど強くロープを握り締めていた。しかし、その華奢な身体は凄まじい引力に抗いきれず、馬車のすぐそばから前方へずるずると引きずられていく。
その危険な光景を目にした俺は、思わず声を荒らげた。
「馬鹿な真似をするな! 人間の腕力だけで、素手のまま押さえ込もうとするんじゃない!」
俺は近くに立つ松の木を指さした。
「あの松の幹にロープを回せ! 早く!」
少女は察しがよかった。すぐさまロープの通し方を変え、頑丈な松の幹へと巻きつける。そして、自分の全体重を利用して、しっかりと引き留めた。
それによって、巨大な牽引力の一部が木へと分散された。
馬車はようやく動きを止めた。
車体の側面から、乾いた嫌な音が響いたものの、幸いにも主要な骨組みが完全に崩壊することはなかった。
その場にいた全員が、まるで死の淵から這い戻ってきたかのように、荒い息を繰り返した。
老いた御者は、その場の地面に崩れ落ちそうになり、両脚からすっかり力が抜けていた。
俺もまた、疲れ果てた両腕をだらりと垂らした。死線をくぐり抜けるような綱引きの末、両手のひらは赤く腫れ、血が滲んでいる。皮膚が長く裂けた傷跡が手のひらを横切り、そこから血が絶え間なく滴り落ちていた。
藍色の衣の少女が、ゆっくりと俺のそばへ歩み寄ってきた。その瞳は、俺の傷ついた手に注がれている。
「手を怪我したのね」
「大したことない。表面を少し擦りむいただけだ」
「手を見せて」
俺はきょとんとして彼女を見つめた。
「また手当てしてくれるのか?」
少女は一瞬、きょとんとした。どうやら俺の言葉の意図が分からなかったらしい。
「……今、何か言った?」
「いや、何でもない」
彼女は袖の中から清潔な絹の細帯を素早く取り出し、血の滲む俺の手のひらへ丁寧に巻きつけた。結び方は少々不器用で、滑らかさには欠けていたものの、ひどく念入りで、しっかりと固定されていた。
「あなた、本当の名前は何というの?」
「ラム・チエウ・バン」
「ラム・チエウ・バン……」
彼女はその名を二、三度、口の中で繰り返した。まるで心に刻み込もうとするかのように。
「私は、ザー・ビン・ハイン・サーよ」
俺は小さくうなずいた。
「いい名前だな。ちゃんと覚えておくよ」
ハイン・サーは顔を上げ、柳の葉のように整った眉をわずかに持ち上げた。
「あなた、私の身の上については、まるで興味がないみたいね」
「名前なら、今教えてくれたじゃないか」
「そういう意味で聞いているんじゃないわ」
「じゃあ、どういう意味だ?」
ハイン・サーは三人の護衛たちが荷物を点検している様子をちらりと眺め、それから馬車へと視線を戻した。
「あなたのようなぼろをまとった子供が、どうして護衛を大勢引き連れ、山のような荷物を積んだ馬車に乗るお嬢様と、こんな辺鄙な場所で出会ったのか。不思議に思わないの?」
俺は少しの間、考え込んだ。
「正直に言えば、多少は気になっている」
「だったら、どうして聞かないの?」
「話したければ、そっちから話してくれるだろう。他人の事情にわざわざ首を突っ込む必要もないさ」
ハイン・サーはしばらく黙り込んだ。
そして俺の頭の先から足元まで、ゆっくりと視線を走らせた。
継ぎ接ぎだらけの古びた衣服。砂や泥にまみれた裸足。少し乱れた髪。そして襟元から顔を覗かせ、きょろきょろと周囲をうかがっている小さなリス。
どこをどう見ても、名家に仕える召使いには見えない。ましてや、裕福な家の若様などとは到底思えなかった。
だが、この野生児のような子供は、経験豊富な護衛たちですら見落としていた肝心な点を、あっさりと見抜いていた。
その鋭い洞察力が、彼女の中に言いようのない興味を呼び起こしていた。
「あなたは一体、どんな場所に住んでいるの?」
「森の奥だよ」
「森の奥?」
「そう」
「ちゃんとした家はあるの?」
「岩穴が一つある」
ハイン・サーは驚きを隠せなかった。
「まさか、あんな荒れ果てた洞窟で一人暮らしをしているの?」
「そこが俺の家だからな」
彼女は俺をじっと見つめた。どうやら、まだ何か聞きたいことがあるようだった。
だが、そのとき、護衛長がこちらへ歩み寄り、報告を始めた。
「お嬢様、馬車の補強は無事に完了いたしました。積み荷もすべて無事で、破損したものは一つもございません。いつでも出発できます」
ハイン・サーは小さくうなずき、念を押すように命じた。
「もう一度、隅々まで念入りに確認しなさい。これ以上、荷物が谷底へ落ちるような不手際は絶対に許さないわ」
「かしこまりました!」
彼女は振り返り、俺の目を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは何が欲しいの?」
俺は目を瞬かせた。
「何のことだ?」
「あなたは私の馬車を救ってくれたのでしょう? 何か見返りに欲しいものがあるはずよ」
「ラックトゥイの渡し場へ行って、薬草を少しの塩と交換したいだけだ」
ハイン・サーは俺の腰に提げられた質素な竹籠へ目を向けた。
「それだけなの?」
「うん。それだけだ」
彼女はすぐに護衛の一人へ向き直り、命じた。
「すぐに塩を一袋、十分な量を用意して。それに上等な精白米と、傷によく効く高級な軟膏も一箱つけなさい」
護衛はためらいがちに口を開いた。惜しむような表情を浮かべている。
「お嬢様、そのような貴重な品々を、あの子供に与えるというのは……」
「私が用意しろと言ったのよ。さっさと取りに行きなさい!」
護衛は不満を押し殺し、渋々ながら頭を下げて命令に従った。
俺は慌てて手を振り、断ろうとした。
「そんなにたくさんはいらない。受け取れないよ」
「あなたは私たちを窮地から救ってくれたのよ」
「ただ、立ち往生していた馬車を助けただけだ」
「その馬車は、私の財産なの」
「だったら、最初の予定どおり薬草を塩や米と交換してくれれば、それで十分だ」
ハイン・サーはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて吹き出すように笑い、うなずいた。
「いいわ。そこまで言うなら、きちんと売買として清算しましょう」
彼女は、他人の善意や救いの手を、返しきれない恩義という重荷に変えたくはないのだろう。
そして俺もまた、自分が費やした労力に見合わないものを受け取るつもりはなかった。
二人は互いの考えを暗黙のうちに理解し、それ以上言い争うことはなかった。
すべての荷物がしっかりと固定され、馬車は再び出発の準備を整えた。
ハイン・サーが車台へ足をかけようとした、そのとき、背後から俺の声が彼女を呼び止めた。
「ザー・ビン・ハイン・サー」
彼女は勢いよく振り返った。
「今度は何?」
「君の馬車を引いている馬だが、脚の怪我がかなりひどい。このまま砂利だらけの険しい道を、重い荷物を引かせて歩かせ続けたら、傷口がさらに悪化するぞ」
老いた御者が、すぐさま不満げに口を挟んだ。
「日が完全に暮れる前に、次の宿場まで急がなければならないんですぞ! こんなところで無駄に立ち止まっている時間などありません!」
俺は御者の言葉を無視し、落ち着いた声で馬を見つめた。
「少なくとも、傷口の泥を洗い流して、簡単な手当てくらいはしておくべきだ」
ハイン・サーは迷うことなく馬車から降りた。
「この子の言うとおりにしなさい。すぐに取りかかって」
老いた御者は深いため息をついたものの、もはや何も言い返せなかった。
俺は竹籠から清潔な水筒を取り出し、馬の脚の傷口にこびりついた泥を丁寧に洗い流した。
それから、腫れを抑える効能のある野草を何枚か摘み、二つの石で細かく潰して、血の滲んだ傷口へ直接塗りつけた。
ハイン・サーは俺の隣にしゃがみ込み、一つ一つの動作を注意深く観察していた。
「薬草の知識まであるの?」
「少し知っているだけだよ」
「誰に教わったの?」
「村の親切な人たちから、いろいろ教えてもらったんだ」
「あなた、本当に妙なことをたくさん覚えているのね」
俺は彼女に返事をしなかった。
今は目の前の馬の足首に、意識を集中させていた。
傷自体はそれほど深くない。しかし、泥や砂との摩擦が繰り返されたせいで、周囲の皮膚は赤く腫れ上がっている。荷の重さを減らさなければ、いずれ感染症を起こし、さらに苦しむことになるだろう。
俺は清潔な布を一枚取り出し、傷ついた足首へ緩く巻きつけた。血の巡りを妨げないよう、あえて適度な隙間を残しておく。
「絶対にきつく縛りすぎないでくれ」
ハイン・サーはうなずき、その言葉を心に留めるようにした。
「私から命じて、馬車に積んでいる重い荷物をいくらか減らし、別の馬に分けて運ばせるわ」
「そのほうが、この馬にとってずっといい」
彼女は顔を上げ、俺を見つめた。
「あなたは動物が好きなのね?」
「ああ」
「どうして?」
「こいつらは、いつだって正直に生きているからな。嘘をつくようなことも知らない」
ハイン・サーは、わずかに首を横に振った。
「考えが単純すぎるわ。動物はただ、生きるための本能を美しい言葉で覆い隠す術を知らないだけよ」
「じゃあ、動物と人間には何か違いがあるっていうのか?」
「もちろん」
彼女はすっと立ち上がり、絹の衣の裾についた埃を軽く払った。
「この世には、明日を生き延びるためだけに嘘をつく人間もいる。でも、自分の利益のためだけに幾千、幾万もの嘘を並べ立て、他人を死へ追いやる人間もいるのよ」
俺は呆気に取られ、顔を上げて彼女を見つめた。
まさか、俺とそう年の変わらない少女の口から、これほど冷酷で、深い洞察を含んだ言葉が出てくるとは思わなかった。
ハイン・サーは、二人の護衛が馬車を点検している、曲がりくねった峠道のほうへ目を向けた。
「父が昔、私に教えてくれたことがある。権力を握る者は、多くの人間の運命を左右する力を持つ。けれど、それは、その者の判断が常に正しいという意味ではない、と」
彼女はくるりと振り返り、俺がじっと見つめていることに気づいた。
「では、あなたはどう思うの、ラム・チエウ・バン?」
俺は馬の首筋をそっと撫でながら、落ち着いて答えた。
「自分で決断を下した人間なら、その決断が招いた結果に対して、最後まで責任を負うべきだと思う」
ハイン・サーは、すぐには答えなかった。
冷たい峠風が不意に吹き抜け、彼女の髪を結ぶ絹紐と外套の裾を、はためかせた。
しばらくして、彼女はようやく小さくうなずいた。
「私も、あなたとまったく同じ考えよ」
馬車が再び出発しようとしていた頃、ハイン・サーは不意に衣の懐へ手を差し入れ、小さなものを取り出して俺へ差し出した。
それは、葉の形をした薄い玉飾りだった。大きさは指の節二つ分にも満たず、縁は滑らかに磨き上げられ、表面には葉脈が実に精巧かつ生き生きと彫り込まれていた。
彼女はそれを、俺の手のひらへそっと置いた。
「今日、私の馬車を救ってくれたことへの証として、これを預けておくわ」
俺は高価そうな玉飾りをじっと見つめ、首を横に振った。
「こんな贅沢なものはいらないよ」
「別に、ただであげると言っているわけじゃないわ」
「それはどういう意味だ?」
「これは約束の証よ。いつかまた会う機会があったら、それを私に返しに来なさい。そのときには、これに釣り合うだけの価値がある別の品を、きちんとお礼として渡すわ」
俺は彼女を見つめ、それから再び葉の形をした玉飾りへ視線を落とした。
「俺が恩知らずで、君の顔を忘れてしまうとでも思っているのか?」
「むしろ、次に会ったときには、私の顔がどんな形をしていたかさえ覚えていないんじゃないかと心配しているのよ」
俺は思わず吹き出した。
「俺の記憶力は悪くない。そう簡単に忘れたりしないさ」
「なら、ちゃんと持っていて。なくさないようにね」
俺は玉飾りを粗末な布袋の奥へ、丁寧にしまい込んだ。
ハイン・サーは馬車へと乗り込んだ。
深紅の幕が下りて視界を遮る直前、彼女はなおもこちらへ顔を向け、声を張り上げた。
「ねえ、ラム・チエウ・バン!」
「何だ?」
「今度また縁があって会えたら、そのときあなたがどんな新しい技を身につけているのか、ぜひ確かめてみたいわ!」
俺は白い布を巻かれた手を高く掲げ、ひらひらと振ってみせた。
「次に会うまでには、もっと頑丈な結び方を覚えておくよ!」
ハイン・サーは晴れやかな笑みを浮かべて笑った。
そして、深紅の幕が静かに下りた。
馬車はゆっくりと車輪を回し始めた。
木製の車輪が砂利道を軋ませる音が響く。やがてその音は少しずつ小さくなり、山腹を縫うように曲がる道の向こうへと消えていった。
俺はその場に立ち尽くし、馬車の消えた方向をぼんやりと見つめていた。
小さなリスがよじ登ってきて、俺の肩にしっかりとしがみついた。
「おい、さっきの小娘、ずいぶん金持ちだったじゃないか。見たこともないような上等な品を、山ほど持っていたぞ」
「ああ」
「それに、お前にはあんな綺麗な贈り物までくれたんだぞ」
「ああ」
「だったら、どうして蜂蜜の壺をいくつか交換してくれって頼まなかったんだ? 私の分も含めてな!」
「俺から頼んだわけでもないのに、そんなことを言えるかよ」
「じゃあ、どうしてあんなものを馬鹿正直に受け取ったんだ?」
「それは……彼女が、また俺たちに会いたいと思っているからさ」
リスは一瞬、ぴたりと黙り込んだ。
それから、何気ない調子で尋ねてきた。
「お前も、あの小娘にまた会いたいのか?」
「さあな。自分でもよく分からない」
俺は玉飾りを袋の奥へしまい直し、竹籠を肩に掛けた。
「行こう。もう遅い。ラックトゥイの渡し場の市も、そろそろ店じまいが始まる頃だ」
夕暮れ時のラックトゥイの渡し場は、相変わらず喧騒に包まれていた。まるで市場全体がひっくり返ったかのような騒がしさだった。
川岸に沿って露店が所狭しと並び、干し魚の生臭い匂い、焼きトウモロコシの香ばしい匂い、そして漢方薬特有の青臭い香りが混ざり合い、蒸し暑い空気の中を漂っている。
買い手と売り手が泥だらけの道にひしめき合い、あちこちで値段交渉の声が飛び交う。耳を塞ぎたくなるほどの騒々しさは、いつまで経っても途切れることがなかった。
俺は渡し場のすぐそばにある、いつもの薬草店へと足を向けた。
ハー・ティン・リウ・ホアが、竹の盆の上に小さな薬草の包みを一つずつ並べながら、熱心に仕分けをしていた。
黒髪はきちんと結い上げられ、袖は肘の上までまくり上げられている。その白い腕が露わになり、指先には淡い黄色の薬粉が付着していた。
店先に俺の姿がちらりと見えた途端、彼女は勢いよく顔を上げた。
「また一人でこっそり山を下りてきたの?」
「はい。乾燥させたキノコを持ってきたので、米と塩に交換しようと思って」
リウ・ホアは、俺の両手へ視線を落とした。
「また怪我をしたの?」
「大したことないですよ、ホア姉さん」
彼女は手にしていた薬草を放り出すと、すぐさま俺の腕を引っつかみ、さっき巻いてもらったばかりの絹布を乱暴にほどいた。
傷はそれほど深くなかったものの、黒い泥と汗がべっとりと付着していた。
リウ・ホアは眉をきつく寄せた。
「またどこかで騒ぎを起こしたの? それとも、頼まれもしないのに他人の厄介事に首を突っ込んできたの?」
「峠で立ち往生していた馬車を助けただけですよ」
「どこの峠?」
「北側の峠道の曲がり角です」
「危ない場所には近づかないようにって、何度言えば分かるの?」
「分かってますよ」
「分かっているのに、どうして自分から飛び込んでいくの?」
俺は何も言えず、黙って座り、彼女に傷を洗ってもらうことにした。
「もしあそこで見捨てていたら、馬車はそのまま谷底へ転落していたんです」
リウ・ホアは深いため息をついた。それ以上、俺を責めることはなかった。
軟膏を傷口に塗り、真っ白な包帯を丁寧に巻き直して、最後にきれいな結び目を作る。
「次に英雄気取りで誰かを救おうとする前に、自分の力で本当にその後始末までできるのか、よく考えてから行動しなさい」
「ちゃんと状況を観察してから動きましたよ」
「十分すぎるほど観察した、ですって?」
「はい」
リウ・ホアはまた一つ、ため息をついた。
彼女はもう、ラム・チエウ・バンという少年が時折、身体中に新しい擦り傷を作って山から下りてくることに慣れきっていた。あるときは身体のあちこちに大きな痣を作り、またあるときは森の奥で拾ってきた奇妙な品々を持ち帰る。
「それで、今日は道中で誰か見知らぬ人に出会ったりしなかった?」
「お嬢様に会いました」
リウ・ホアは勢いよく顔を上げた。瞳に、かすかな光が走る。
「どこのお嬢様?」
「ええと、ザー・ビン・ハイン・サーという名前です」
薬草の包みを並べていたリウ・ホアの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「あ、あなた……その人とは前から知り合いだったの?」
「いえ。今日、たまたま出会っただけです」
「その人は……どんな人だったの?」
俺は少し考え込んだ。
「周りには護衛が大勢いて、話し方も、まるで誰かに命令するのが当たり前みたいな感じでした。でも、本当は悪い人じゃないと思います」
リウ・ホアは、ふっと小さく笑った。
「たった一度会っただけで、その人の善し悪しを判断するなんて、随分と思い切ったことを言うのね」
「そういうわけじゃありませんよ。ただ、卑劣な人間ではないと思っただけです」
「そうなの?」
彼女は顔を伏せ、再び机の上の薬草をせっせと整理し始めた。
俺はまったく気づいていなかった。
このとき、リウ・ホアの瞳がかすかに揺らぎ、言葉にできない複雑な思いを宿していたことに。
俺は竹籠を置き、乾燥させたキノコと薬草を取り出した。
「塩を少し交換してもらえますか?」
リウ・ホアは手慣れた様子で、一つ一つ重さを量り始めた。
「もちろん。でも今回は、全部のキノコを引き取るわけにはいかないわ。このキノコはまだ若すぎるし、乾燥も不十分よ。これでは長期保存できないもの」
「じゃあ、少しだけ交換してもらえれば大丈夫です」
「その代わりに、上等な精白米を半キンほど多めにつけてあげる」
「それは受け取れませんよ」
「また頑固になって、断るつもりなの?」
「別の品を持ってきて、その分を埋め合わせます」
リウ・ホアは顔を上げ、きっぱりとした口調で言った。
「人があなたに手を差し伸べるのは、必ずしも何か見返りを要求するためじゃないのよ」
俺はふと、今朝、峠道でザー・ビン・ハイン・サーが口にした言葉を思い出した。
もう反論することはせず、ただ薄く微笑んだ。
リウ・ホアは小さな米袋を俺の籠へ入れた。
「持って帰って、お粥でも作って食べなさい」
「ありがとうございます、ホア姉さん」
「待って……まだあるわよ」
彼女は薬籠の隅を探り、小さな深緑色の錦袋を取り出すと、俺のそばへそっと置いた。
「これは上等な傷薬よ。私が自分で調合したものだから、護身用に持っておきなさい。身体中を傷だらけにしてから、這うようにして私のところへ戻ってくるような真似はしないでちょうだい」
俺は嬉しそうにそれを受け取った。
「ちゃんと覚えておきます」
「その台詞、もう何度聞かされたことかしらね」
「でも、毎回ちゃんと実践していますよ」
リウ・ホアは堪えきれず、くすりと吹き出した。
ようやく俺が重い腰を上げ、再び原生林の奥へと戻り始めた頃には、すでに夕暮れもかなり深まっていた。
小川のほとりにある、草木の生い茂った空き地を通りかかったとき、俺はふとそちらへ目を向けた。
そこは数日前、ヤー・トゥオンが泥にはまった黒牛を必死に救い出していた場所だった。
しかし、辺りはひっそりと静まり返っており、人影一つ見当たらなかった。
そのとき、肩に乗っていた小さなリスが、警戒するようにチチッと鳴いた。
道端に生い茂るクサイチゴの茂みから、ごくかすかな物音が聞こえてきたのだ。
俺は足を止め、すぐさま身構えた。
「そこに隠れているのは誰だ?」
返事はなかった。
俺は慎重に茂みへ近づき、枯れ枝で葉をそっと押し分けて中を覗き込んだ。
そこには、枯れ葉の下で小さく身体を丸めた一羽の雀がいた。
片方の翼はひどく傷つき、血にまみれている。露に濡れた羽毛も、すっかりずぶ濡れになっていた。
そのすぐそばには、巧妙に隠されていた細い仕掛け罠があり、半ば引きちぎられた状態で残っていた。
俺は胸を痛めながら、その場に膝をついた。
「まったく……ここにも無慈悲な罠を仕掛けて、森の獣を捕らえようとする奴がいるのか」
雀は破れた翼を必死にばたつかせ、逃れようともがいた。しかし、どうしても飛び上がることはできない。
俺はそっと二本の指で小鳥を持ち上げ、傷の具合を確かめた。
「よかった……翼の骨は粉々になっていない。皮膚と肉が裂けて、打撲を負っているだけだ」
リスはその小鳥をちらりと眺め、口を尖らせた。
「そいつを洞窟に連れて帰るのだけはやめろよ。どうせ私のことをつつき回すに決まってる」
「つつかれるのが怖いのか?」
「誰が怖がっているものか。ただ、目障りなだけだ!」
俺は思わず吹き出した。
竹籠の底に柔らかな葉をきれいに敷き詰め、その上に雀をそっと寝かせる。
だが、身を翻して歩き出そうとした瞬間、近くの木の根元に、ひどく奇妙なものがあることに気づいた。
細い鋼線が、極めて巧妙な結び方で松の幹に固く巻きつけられていたのだ。
その結び方は、山麓の村に住む猟師たちが普段使っているような、粗雑な罠の仕掛け方とは明らかに異なっていた。
俺は身を屈め、間近で調べ始めた。
鋼線の片端には、鋭利な刃物で一気に断ち切られたような、滑らかな切断面が残っていた。
俺は指先を伸ばし、そっと触れてみる。
鋼線はまだ新しく、錆もほとんど浮いていない。硬さも失われていなかった。
つまり、この罠はそれほど昔に仕掛けられたものではない。
俺は勢いよく顔を上げ、白く霞んだ霧の向こう、森のさらに奥へと視線を走らせた。
鬱蒼と立ち並ぶ古松の幹の間を、黒い影が一つ、驚くほど素早く横切った。
ほんの一瞬だった。
だが、自分の目が見間違えたのではないことだけは、はっきりと分かっていた。
「……誰かが、こちらを監視している」
小さなリスは怯えたように、俺の襟元へ深く潜り込んだ。
「早く逃げよう!」
俺は決して、その影を追いかけるような愚かな真似はしなかった。
ただ、地面に落ちていた奇妙な鋼線を拾い上げ、大きな葉で丁寧に包んでから竹籠の中へしまい込んだ。
「俺たちがこれを見つけたことを、奴らに気づかせるなよ」
リスには何のことやらさっぱり分からなかったようだが、それでも素直に口を閉じた。
俺は負傷した雀の入った竹籠を背負い、そのまま洞窟へと戻った。
その夜、俺はザー・ビン・ハイン・サーから預かった葉の形をした玉佩を、無骨な鉄の指輪のすぐ隣に置いた。
別に、二つの品に何か特別な繋がりがあったわけではない。
ただ、人から贈られたものを失くしたくなかった。それだけだった。
俺は雀の傷口へ丁寧に薬を塗り、洞窟の入り口に近い隅に用意した、柔らかな葉を敷き詰めた巣へと寝かせた。
リスはずっと遠くのほうに身を寄せ、ときおり警戒心をあらわにしながら、小鳥の様子をちらちらと窺っていた。
俺は揺らめく焚き火のそばに腰を下ろし、静かに沈思した。
そして、竹の枝を一本取り出すと、基本的な歩法の練習を再開した。
一歩、前へ。
一歩、後ろへ。
身体の重心を移す。
しなやかに身を翻す。
今回は、ようやく身体の均衡を完全に保てるようになっていた。もう以前のように、無様にひっくり返ることもない。
俺は黙って自分の足元を見つめ、さらに何度か同じ動きを繰り返してみた。
洞窟の外では、山風が鬱蒼と茂る松林を吹き抜け、幾度となく唸り声を上げていた。
深い森の闇の奥には、俺がまだ触れることすらできない、数え切れないほどの暗い秘密が眠っている。
だが、その頃のラム・チエウ・バンには、知る由もなかった。
はるか遠いどこかで、ザー・ビン・ハイン・サーの馬車が進んでいる街道沿いに、馬車が峠で立ち往生したという急報が、ある秘密の人物のもとへ届けられていたことを。
その人物は、一枚の薄い報告書を冷ややかに手に取り、末尾に記された緊急報告の文面を何度も読み返していた。
――森の中で暮らす、身寄りのない子供。
――綱の扱いに長け、地形にも精通している。さらに、水流のわずかな変化さえ鋭く見抜く観察眼を備えている。
男は報告書を木製の机へと置いた。
「さて……この話、なかなか興味深いとは思わないか?」
向かいに控えていた近衛の男が、深々と頭を垂れる。
「恐れながら申し上げます。所詮は、野山で育った小僧にすぎないかと存じます」
男は返答することなく、ゆっくりと身を翻した。
深い闇に包まれた窓の外へ、思慮深い眼差しを向ける。
「この世において、制御の及ばぬ厄介な存在というものは、往々にして、誰からも顧みられない子供から始まるものだ」
男は指先で、机の表面を一定の間隔で軽く叩いた。
「引き続き、人を遣わして密かに監視させろ。こちらの存在を、決してあの子供に悟られてはならん」
それと同じ頃。
大森林の奥深く、暗い岩窟の中では、ラム・チエウ・バンがすでに深い眠りに落ちていた。
自分が知らぬ間に、古い石碑の下に埋められた何かを探し求め、暗躍する者たちの黒い渦へ、ほんの一歩足を踏み入れてしまったことなど、夢にも思っていなかった。
また、いつの日か、衣の奥深くにしまい込んだ葉の形をした玉佩が、天を覆うほどの戦火と煙の中で、二人の人間が互いを見分けるための、唯一の証となることも。
しかし、その日が訪れるのは、まだずっと先の話だ。
今この瞬間、ラム・チエウ・バンは、相変わらず孤独な十歳の少年にすぎなかった。
ただ、地面の上にしっかりと立つ方法を学び、周囲のあらゆるものを観察する方法を学び、そして一つの真理を少しずつ理解し始めている、そんな少年だった。
それは、力というものが、必ずしも腕に宿る筋骨隆々とした肉体の中にあるとは限らない、ということだ。
時には、たった一本の綱を、最も適切な瞬間に、最も巧みに操ることの中にこそ、本当の力が宿っているのかもしれない。
ブックマークしてくださって、本当にありがとうございます!
皆さんの応援が、物語を書き続ける一番の力になります。
これからも少しずつですが、心を込めて更新していきますので、
最後まで見届けていただけたら嬉しいです。
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