↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
73/83

Episode 73

 空が白み始めたばかりの頃、薄い朝霧が岩窟の入り口にまとわりつくように漂い、まだ完全には晴れずにいた。苔むした岩肌から垂れ下がる無数の木の根には、夜露の雫が残っている。明け方の淡い銀色の光を受け、それらは透き通った宝石の粒のようにきらきらと輝いていた。


 僕は洞窟の入り口の外に腰を下ろし、裸足の両足を冷え切った平らな岩に押し当てていた。両手には、滑らかになるまで削り整えた小さな木の棒を固く握りしめている。


 今、僕は歩法の練習をしていた。


 竹林の中で青衣の少年が剣を抜く姿を目の当たりにし、さらにフア・ティン・ティーとの短くも強く印象に残る邂逅を経験して以来、僕の心には一つの真理が深く刻まれていた。


 他人を打ち倒す術を身につけたいのなら、まずは地面にしっかりと立つ術を学ばなければならない。


 しかし、あのフア家の少女から初歩の手ほどきを受けたことで、僕はその先にある、もう一段深い道理にも気づいた。


 ただ両足で立っていればいいというわけではない。いつ前に進み、いつ後ろに退くべきなのかを知り、天地の間にある危うい均衡を崩すことなく、全身の重心を滑らかに移動させなければならないのだ。


 僕は慎重に左足を前へ踏み出し、膝をほどよく曲げる。右足は後ろに置き、しっかりと身体を支えた。


 それからゆっくりと、細心の注意を払いながら、全身の重みを右側へ移していく。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 四歩目に差しかかった瞬間、焦って力を込めすぎたせいで、足元の岩の隙間にひっそりと生えていた青々しい苔の上を、左足が勢いよく滑ってしまった。


 ドサッ!


 僕は仰向けにひっくり返り、冷たい地面に尻をしたたかに打ちつけた。


 長い眠りからようやく目を覚ました小さなリスが、枯れ葉で作った巣から毛むくじゃらの頭をのそのそとのぞかせた。そして、どこか哀れむような目つきで僕を見下ろした。


「またひっくり返ったのか?」


「ここの岩が滑りやすすぎるんだよ」


「前に転んだときも、岩のせいにしていただろう」


「あのときは泥のせいだった」


「つまり、問題があるのは岩でも泥でもなく、お前の足そのものってことだな」


 僕はむっとして、足元に落ちていた枯れ葉を拾い、ぐしゃりと握りつぶしてからリスに向かって投げつけた。


 リスは目にも留まらぬ速さで身をかわし、わざとらしく勝ち誇った声で鳴いてみせた。


 僕はしょんぼりと立ち上がり、服にこびりついた土や埃を払い落とした。


 この辺りには、毎日そばに付き添って拳法の型や技の一つひとつを教えてくれるような達人などいない。


 僕が身につけてきたものは、すべて偶然のように訪れた短い出会いの中から拾い集めたものだった。ある者が何気なく口にした一言、別の者が一瞬だけ見せた身のこなし。それらを手がかりに、自分の身体を使って何度も試し、何百回と繰り返しながら、ようやくその本質の一端を身体に覚え込ませていく。


 それでも、僕は決して焦ってはいなかった。


 人里離れた深い山の中で暮らしていると、よく分かることがある。森に生まれたばかりの獣の子が速く走りたいと思うなら、まずは四本の足を地面に確かに着けることを覚えなければならない。獲物を狩ることを考えるのは、その後だ。


 結局のところ、人間も自然界に生きる万物と大して変わらないのだろう。


 僕は木の棒を拾い直し、もう一度最初から練習をやり直そうとした。


 そのとき、谷間の方角から、妙に不自然な音が聞こえてきた。


 いつも耳にしている、せせらぎの音ではない。


 もっと重々しく、濁った響きだった。ときおり、水底に沈んだ大岩同士がぶつかり合うような、乾いた衝突音まで混じっている。


 僕は眉をひそめ、手にしていた木の棒をだらりと下ろした。


 以前、ラックトゥイの渡し場を襲った凄まじい洪水を経験して以来、僕の中には水のわずかな変化さえ敏感に察知する、生存本能が刻み込まれていた。


 ここ数日、季節の変わり目の雨はすっかり弱まっていた。しかし、山の高所に蓄えられた大量の水は、まだ十分に引いていない。上流で突然、激しい雷雨でも降ろうものなら、普段は小さな渓流にすぎないこの川も、たちまち何もかも呑み込む猛獣へと変わってしまう。


 僕は練習を中断することにした。


「ちょっと谷の方へ行って様子を見てくる」


 そう言うと、リスは素早く僕の肩に飛び乗った。


「遠くまで行くなって、あれほど言っただろう!」


「川のそばまで行って、少し様子を見るだけだ。すぐ戻るよ」


「お前が問題を起こす前には、いつもそう言うんだよな」


 僕は吹き出したが、ぶつぶつと文句を言うリスを完全に無視し、足早に渓流の方へ向かった。


 谷間の渓流は、僕の洞窟からそう遠くない場所にある。


 そこは、巨大な岩々の間を縫うように流れる細い支流で、鬱蒼と茂る森林を二つに分断するかのように、深い渓谷の底を流れていた。


 普段なら、大人の膝に届くか届かないか程度の水深しかない。だが、何日も激しい雨が降り続いたせいで、水量はすっかり増し、その流れも以前とは比べものにならないほど荒々しくなっていた。


 僕は草の生い茂る岸辺に沿って歩き、慎重に川岸へと近づいた。


 身をかがめ、乾いた小枝を一本拾い上げると、濁流の中へ放り投げる。


 小枝はたちまち激流にさらわれ、目にも留まらぬ速さで流されていった。突き出た岩にぶつかると一回転し、次の瞬間には、鬱蒼と茂る葉の下に隠れていた深い渦の中へと吸い込まれていった。


 僕は目を細め、流れの軌道を追った。


「この辺りは、思った以上に深いうえに流れも速いな……」


 肩の上のリスが、不安げにチチチッと鳴いた。


 しかし、僕が返事をするより先に、対岸から鋭い怒声が飛んできた。


「それ以上、近づくな! 馬鹿な真似はよせ!」


 僕は驚いて、勢いよく顔を上げた。


 対岸の、切り立った崖の縁に立っていたのは、淡い青色の動きやすそうな衣をまとった少女だった。艶やかな黒髪を高い位置で結い上げ、腰には短めの長剣を差している。


 フア・ティン・ティー。


 その姿と、相変わらずの気の強そうな佇まいを見れば、すぐに分かった。


 彼女のすぐ後ろには、この前の竹林で一緒にいた少年の従者が、身をすくめるようにして立っていた。彼は荷物の入った竹籠を胸に抱え、恐怖で顔を青ざめさせている。


 そして二人の足元では、崖沿いに続いていた小石敷きの細道が、先日の豪雨によって大きく崩落していた。道の一部がごっそりと削り取られ、両岸の間には底の見えないほど深い空隙が生まれている。


 その一方で、フア・ティン・ティーの視線は、対岸にある一点に釘付けになっていた。


 シダの葉が密集して生い茂る陰に隠れた、危うい岩棚の上。


 そこには、濃い緑色の三角形をした葉を持つ薬草が一株、ひっそりと横たわっていた。葉の裏側には幻想的な淡い赤色が浮かび、その周囲には微かな香りが漂っている。


 僕はその薬草を一目見て、それが何なのかを理解した。


 雪心藤(せっしんとう)。


 湿気が多く、冷涼な場所に自生する希少な薬草だ。煎じて飲めば、熱を下げるだけでなく、骨の痛みを和らげる薬としても用いられる。


 千金を積んでようやく手に入るほどの至宝ではないが、こんな人里離れた山奥で見つけるとなれば、砂漠で針を探すようなものだろう。


 僕の姿に気づいたフア・ティン・ティーは、わずかに目を見開き、整った眉をかすかに寄せた。


「またあんたなの?」


 僕は口元を吊り上げ、何事もないかのように手を振った。


「おや、奇遇だね。こんにちは」


「あんた、こんな辺鄙な場所をうろついて、一体何をしているのよ?」


「水の音が大きくなっていたから、様子を見に来ただけだよ」


「どこへ行っても、騒ぎを聞きつけては野次馬をしているだけなの?」


「そういうわけでもないよ。たまには食べ物を拾いに行ったりもするしね」


 彼女の後ろにいた従者の少年が、僕を睨みつけた。続いて肩の上にいるリスにも視線を向ける。どうやら何か罵声を浴びせたいようだったが、かろうじて口をつぐんでいた。


 フア・ティン・ティーは、僕と無駄話を続ける気など微塵もないようだった。


 彼女は視線をずらし、対岸にある雪心藤を真っすぐ指さした。


「あそこへ渡る方法を知らない?」


「普通の道はあれだけ崩れているんだ。安全に通れる道なんて、もう残っていないよ」


「道があるかどうかを聞いているの。あるの、ないの?」


「あるにはあるよ」


「どこ? 早く教えなさい」


 僕は手を上げ、上流の方を指さした。


「流れに沿って上流へ二百歩ほど進めば、雷に打たれて倒れた古い松の木が、両岸をつなぐように横たわっている。ただ、先日の雨で幹の内部まで水が染み込んで腐っているかもしれないし、激流に押されて位置がずれている可能性もある。渡るのはかなり危険だと思う」


 フア・ティン・ティーは、僕の指さす方向へ顔を向けた。


「つまり、かなり遠回りしなければならないということ?」


「そうだね」


「それでは間に合わないわ」


「そんなに急いで、その薬草が必要なの?」


 彼女は黙り込んだ。


 すると、後ろにいた従者が慌てて主人に代わって口を開いた。


「お嬢様は、どうしても雪心藤を手に入れて、すぐに持ち帰らなければならないのです! 屋敷では重い病に伏せている方が、お薬を待っておられるのです!」


 フア・ティン・ティーは素早く振り返り、鋭い声で叱りつけた。


「黙っていなさいと言ったでしょう!」


「も、申し訳ございません……! 私めが余計なことを……」


 少年は慌てて頭を垂れた。


 僕は、病に伏せている人物が誰なのか、それ以上尋ねようとはしなかった。


 ただ薬草に視線を戻し、目の前を流れる激流を改めて見極めた。


「もし、ここから向こうへ飛び越えようなんて考えているなら、絶対に成功しないよ」


「こんな厄介な川を飛び越えるつもりなんて、最初からないわ」


「じゃあ、どうするつもり?」


「自分で川底の岩を伝って渡るわ」


 僕は身をかがめ、渓流の底を注意深く観察した。


 濁った水の中には、ところどころ薄い岩盤が顔をのぞかせ、こちらの岸から川の中央にぽつんと浮かぶ小さな岩棚まで、途切れ途切れに連なっている。


 岩と岩の間隔は、それほど離れていない。


 問題は、その表面がどれも油を塗ったように滑らかな苔で覆われていることだった。さらに、激流が岩の側面を激しく打ちつけている。特に最後の区間では、切り立った二つの岩壁の間に水流が押し込められ、勢いが一段と増していた。


「そこへ降りるのはやめたほうがいい。とても危険だよ」


「足場の見極め方も、体のバランスの取り方も心得ているわ」


「僕だって、それくらい分かるけどね」


「なら、さっきから何を見ていたというの?」


 僕はそれ以上、言い争うことをやめた。


 身をかがめて、少し長めの枯れ枝を拾い上げると、力いっぱい川へ投げ込んだ。


 枝は三つ目の水中の岩に差しかかった瞬間、目に見えない力に引き寄せられたかのように横へ弾かれた。くるくると何度も回転したかと思うと、そのまま深い渦の中へと消えていった。


 僕は、その真っ黒な渦を指さした。


「川底の水が逆巻いて、あそこに大きな渦を作っているんだ。足を滑らせて落ちれば、たちまち水流に引き込まれ、水底の岩の隙間に身体を挟まれてしまう。そうなったら、神仙だって助けられないよ」


 フア・ティン・ティーは暗い水面を冷ややかに見下ろし、傲然と言い放った。


「岩にしっかりつかまって渡るくらい、わけないわ」


「それは結構なことだね。でも、もし足を置いた岩そのものが滑ったら、どうするの?」


「私がその程度のこともできないと思っているの?」


「君の腕前がどれほどのものか、僕には分からないからね」


 あまりにも率直で、遠慮の欠片もない僕の返答に、少女は怒りで言葉を詰まらせた。


 実際のところ、僕には彼女をからかったり、挑発したりするつもりなどなかった。


 ただ、目の前にある現実をありのままに見て、判断を下しただけだ。


 彼女が剣を振るう姿は、この目で見たことがある。しなやかで、動きも僕よりはるかに速い。だが、相手が自然の猛威ともなれば話は別だ。人間がどれほど武芸を磨こうとも、その力が時として何の役にも立たなくなることはある。


 フア・ティン・ティーは一瞬、僕を鋭く睨みつけた後、冷たく顔を背けた。


「あなたが何と言おうと関係ないわ。私には私のやり方がある」


 そう言うと、彼女は最初の水中の岩へ足を踏み出そうとした。


 従者の少年は慌てて駆け寄り、彼女の衣の裾を必死につかんだ。


「お嬢様! 危険すぎます! どうか無茶をなさらないでください!」


「手を離しなさい!」


「ですが、もし何かあったら……!」


「離しなさいと言っているでしょう!」


 少年は震える手を、どうすることもできずに引っ込めた。


 フア・ティン・ティーは、意を決して左足を二つ目の岩へと踏み出した。


 膝を軽く曲げ、全身の重心をできる限り低く落とす。片手で剣の柄を固く握り、もう片方の手を横へ広げてバランスを取っていた。


 その動きは、実に無駄がなく、きびきびとしていた。


 彼女は続けて、次の岩へと足を移す。


 ところが、三つ目の岩は水面よりも低い位置に沈み込んでいた。


 彼女の足が岩に触れた、その瞬間。


 上流から押し寄せてきた白波が勢いよく覆いかぶさり、靴底に付着していた苔の上から、足場を支える摩擦を一瞬にして奪い去った。


 細身の身体がたちまち大きくよろめき、左右に激しく傾いた。


「お嬢様ぁっ!」


 従者の悲痛な叫びが、谷間に響き渡った。


 まさに一瞬の出来事だった。


 フア・ティン・ティーは驚くほど素早く反応した。腰の短剣を一気に抜き放つと、その鋭い切っ先を水中の岩に走る亀裂へと力任せに突き刺した。


 手首と腕の筋力を総動員し、渦巻く水流の縁ぎりぎりで、どうにか身体を踏みとどまらせた。


 僕は、すぐさま川へ飛び込むような真似はしなかった。


 今この状況で焦って激流の中へ飛び込んだところで、誰かを助けられるどころか、自分まで災難に巻き込まれるだけだと分かっていたからだ。


 下手をすれば、二人そろって川に呑み込まれてしまう。


 僕は素早く腰に緩く巻きつけていた麻縄をほどき、その片端を岸辺にしっかりと根を張った古松の幹に結びつけた。


 フー・テーが以前教えてくれた結び方を思い出し、慎重に三重の結び目を作る。


 それから、残った縄の先端を力いっぱい対岸へと投げ放った。


「縄の端をつかんで!」


 フア・ティン・ティーは剣を握りしめたまま、驚いた目で目の前を飛んでくる縄を見つめた。そして、左手を伸ばしてそれをつかんだ。


「早く手首に巻きつけるんだ!」


「必要ないわ!」


「死にたいなら、その意地っ張りを最後まで貫けばいい!」


 フア・ティン・ティーは奥歯を強く噛みしめた。やがて、しぶしぶ縄を左手首に何重にも巻きつけ、しっかりと固定した。


 僕は岸に残った縄を両手で握りしめ、全身に力を込めて引き締めた。


 太い麻縄は弦のように張り詰めたが、古松は深く根を張っているおかげで、少しも揺らぐことはなかった。


 対岸に立つ従者は、まるで怪物でも目の当たりにしたかのように、呆然と僕を見つめていた。


「お、お前……一体何をやっているんだ?」


「まさか、僕が凧揚げでもして遊んでいるように見えるのか?」


 僕は鋭い目つきで少年を睨んだ。


 少年は口をぽかんと開けたまま、何も言い返せなかった。


 僕は両手で縄を強く握り続けた。


 しかし、決して力任せに引き寄せようとはしなかった。急激に引っ張れば、その反動で水流が彼女の身体を弾き飛ばし、かえって川へ落としてしまう恐れがある。


 だから僕は、縄に適度な張りを保たせることだけに集中した。


 彼女が岩の亀裂に食い込んだ剣を引き抜くための、確かな支点を作るためだ。


「水の流れに逆らって踏ん張ろうとするな! 右手の三時の方向にある岩へ足を置くんだ! ほら、かすかに白く光っているところだ!」


 僕は渓流の轟音に負けないよう、大声で叫んだ。


 フア・ティン・ティーは顔を伏せ、足元を探した。


 確かに、彼女の足元のすぐそばに、ほかの場所より苔の少ない、ざらついた小石交じりの岩肌があった。ただし、その半分は濁流に覆い隠されている。


 彼女は唇を噛みしめ、縄にかかる力を利用しながら、慎重に足を移した。


 押し寄せた濁流が勢いよく彼女のふくらはぎを打ちつけた。それでも、その下にあるざらついた岩は、確かな足場となって彼女の重心を支えてくれた。


「よし! その調子だ! 次の一歩を踏み出して!」


 彼女は、さらにわずかな距離を進んだ。


 僕は水面を見渡し、流れていく葉の動きを目で追いながら、水流の向きを慎重に読み取った。


 そして、その地点の流れがわずかに弱まったのを見て、すかさず声を張り上げた。


「そこで止まれ!」


 フア・ティン・ティーは即座に足を止めた。


「次は左足を斜めに踏み出すんだ! 絶対に水面を見下ろすな! 目の前に倒れている、あの松の幹に視線を固定しろ!」


 彼女は僕の指示に従い、一つひとつ動作を重ねていった。


 一歩、また一歩。


 冷たい激流が荒れ狂う中、彼女はどうにか川の中央に浮かぶ小さな岩棚までたどり着いた。


 そこまで来れば、もう大丈夫だった。


 安全な足場を確保した彼女は、向こう岸の崖から突き出している太い木の枝に手を伸ばし、それをつかんで岸へとよじ登ることができた。


 彼女の靴がようやく乾いた地面に触れた瞬間、フア・ティン・ティーは勢いよく振り返り、僕を睨みつけた。


「もう、その忌々しい縄を放してもいいわよ!」


 僕は痺れた両手の力を緩め、縄をたぐり寄せて巻き取った。


「君なら誰の助けも借りずに、あそこを悠々と渡りきるものだと思っていたよ」


「私はもともと、一人で渡りきるだけの力があったわ」


「でも結局、僕の縄につかまることになったじゃないか」


 フア・ティン・ティーは悔しそうに唇を引き結んだ。どうやら、言い返す言葉が見つからないらしい。


 そのとき、従者の少年が慌てて主人のもとへ駆け寄ってきた。


 ようやく安堵したのか、彼はまるで鬼門をくぐり抜けてきたかのように、深いため息をついた。


 その表情を見る限り、どうやら彼は最初から最後まで、自分でも気づかないうちに息を止めていたらしい。

 僕は縄を片づけ、腰帯にきちんとしまい込んだ。


「雪心藤は、間違いなく向こう岸に生えていたんだよね?」


 フア・ティン・ティーは肯定するように頷いた。


「それなら、さっさと採ろう。ただし、根こそぎ引き抜くのは駄目だ。若い葉と、必要な分だけの茎を切り取るようにしてくれ」


「分かっているわ。いちいち偉そうに説教しなくてもいい」


「それなら結構」


 僕はその場を離れようと踵を返した。


 しかし、背後から彼女の冷ややかな声が飛んできた。


「ねえ、ラム・チエウ・バン」


 僕は足を止め、振り返った。


「今度は何?」


「あなた……ここで待っていて、帰るときにも少し手を貸してくれない?」


 僕は彼女の顔をじっと見つめた。


 フア・ティン・ティーはわずかに顔を横へそらした。白い頬に、ほんのりと薄紅色が差している。だが、その口調は相変わらず高慢で、まるで目下の者に恩恵を施してやるかのようだった。


「変な勘違いはしないでよ。ただ、この辺鄙な山奥で、これ以上貴重な時間を無駄にしたくないだけだから」


 僕は前方の細道を眺め、それから眼下の激流へ視線を移した。


「分かったよ」


 薬草を採り終えるまでには、茶を半分ほど飲む時間がかかった。


 フア・ティン・ティーは薬草の前にしゃがみ込み、袖の中から鋭く研がれた小さな短刀を取り出した。そして、僕の忠告どおり、茎の節を一つひとつ丁寧に切り取っていく。


 僕は腕を組み、周囲の様子を眺めながら立っていた。


 ちょうど彼女が濃い緑色の草束に手を伸ばし、籠へ収めようとしたそのとき、僕は突然声を上げた。


「待って」


 フア・ティン・ティーの手がぴたりと止まり、不機嫌そうに顔を上げる。


「今度は何のつもり?」


「その草は採らないで」


「どうしてよ? あなたが雪心藤だと言ったんじゃない」


「ちょっと貸して。匂いを確かめてみる」


 彼女は疑わしげな顔をしながらも、草束を鼻元へ近づけた。


 鼻を突く、少し刺激の強い臭いが漂ってくる。


「別に、おかしなところなんて見当たらないけど?」


「葉の形はそっくりだけど、これは本物の雪心藤じゃない」


 フア・ティン・ティーは目を見開き、驚いたように僕を見た。


「何を馬鹿なことを言っているの?」


 僕は彼女のそばまで歩み寄り、短刀の先で葉を一枚ひっくり返した。そして、鮮やかな緑色の葉脈を指し示す。


「よく見てごらん。本物の雪心藤なら、葉柄から葉先に至るまで、鮮やかな赤い葉脈が一本通っているんだ。ところが、君が持っているそれは、葉脈がどこまでも緑色のままだ。赤みがあるのは葉柄の付け根だけ。それも、いかにも不自然な色をしている」


 フア・ティン・ティーは半信半疑のまま尋ねた。


「本当に間違いないの?」


「絶対とは言い切れないけど、九割方、偽物だと思う」


「だったら、どうしてわざわざ口を挟んだのよ?」


「何かおかしいと思ったから、念のため注意しただけだよ」


 フア・ティン・ティーは僕を焼きつくさんばかりの目で睨みつけると、草束を慎重に地面へ置いた。


 それから竹籠の中に手を入れ、小さな獣皮で装丁された古い薬草図鑑を探し出した。慌ただしくページをめくり、薬草の図解が載っている箇所を開く。


 挿絵は多少粗雑だったものの、一見すると瓜二つに見える二種類の植物が、拡大図によってはっきりと描き分けられていた。


 彼女は細かな特徴を一つずつ照らし合わせていく。


 そして、その顔色がみるみる青ざめていった。


「くそっ……本当に騙されたのね……」


 彼女は歯を食いしばり、小さく吐き捨てた。


 そばにいた従者の少年が、慌てて首を伸ばして覗き込む。


「お、お嬢様、それでは……この草は、人を死に至らしめる毒草なのですか?」


「すぐに命を奪うほどの毒性はないわ。でも、病人が本物の薬の代わりにこれを飲めば、病状はさらに悪化して、死期を早めることになるでしょうね!」


 彼女は勢いよく図鑑を閉じ、複雑な眼差しで僕を見つめた。


「こんな専門的な知識……一体どこで身につけたの?」


「山の麓にある漁村だよ」


「あんな貧しくて、荒れ果てた漁村に、薬学に精通した人間がいるというの?」


「人を救うために薬を調合していた女医さんから、少し教わったんだ。それに、僕はずっと深い森の中で暮らしているからね。自分の身で経験して学んだこともある」


「女医ですって? 名前は?」


「ハー・ティン・ルウ・ホア」


 フア・ティン・ティーはわずかに眉を寄せた。


 その名前を忘れないようにするかのように、口の中で小さく繰り返す。どうやら、その名は彼女の記憶に少なからぬ印象を残したらしい。


 僕はそれ以上、彼女と言い争うつもりはなかった。


 腰を落としてその場にしゃがみ込み、周囲にある湿った岩の隙間を一つずつ観察し始める。


「本物なら、きっとこの近くに生えているはずだ」


「本当にこの辺りにあると言い切れるの?」


「確証はないよ。でも、雪心藤には極端な日陰を好む性質がある。根は冷え切った岩の奥深くに張り、そこに溜まった露から水分を吸収するんだ。さっきの草が生えていた場所は日差しが直接当たりすぎていた。あそこが本来の生育地であるはずがない」


 僕は立ち上がり、比較的高くそびえる岩壁の麓に沿って歩き始めた。暗く狭い岩の裂け目を、一つひとつ丹念に調べていく。


 フア・ティン・ティーも黙って僕の後をついてきた。


 従者の少年は竹籠を見張るように、その場に残された。時折、荒涼とした周囲を不安げに見回している。


 僕は渓流の一角を覆い隠すように傾いている、巨大な丸石の前で足を止めた。


 その岩の根元には、人ひとりがかろうじて覗き込めるほどの狭く暗い空間があった。そこには冷たい水蒸気が立ち上り、岩に付着した苔の表面には無数の細かな露が結晶のように宿っている。


 僕は身を乗り出し、腐りかけた枯れ葉の群れを素手で慎重にかき分けた。


 すると、その奥から濃い緑色の葉を持つ薬草の一群が、はっきりと姿を現した。


 三角形の三辺を持つ葉。


 裏側には、特徴的な淡い赤色が浮かんでいる。


 そして何より、葉柄から葉先のすぐ手前まで、鮮やかな赤い葉脈が一本、まっすぐに走っていた。


「見つけたよ」


 フア・ティン・ティーは急いで駆け寄ってきた。


 今度ばかりは不用意に採ろうとせず、獣皮の図鑑を大きく開き、葉の一枚一枚を丹念に照らし合わせる。


 そして、間違いなく本物であると確認してから、ようやく満足げに微笑んだ。


 彼女は短刀を取り出し、茎を一本ずつ丁寧に切り取っていく。


「……ありがとう」


 その声はあまりにも小さく、注意していなければ渓流の轟音にかき消されてしまうほどだった。


 僕は一瞬きょとんとして振り返った。


「今、何か言った?」


「邪魔だから、そこを少しどきなさいと言ったのよ」


「ああ、そういうことか」


 フア・ティン・ティーは僕を横目で鋭く睨んだ。


「聞き間違えたのなら、好きなように想像していればいいわ」


 僕は心の中で小さく吹き出した。


 彼女のあの高慢なくせに、どこか憎めない一面をわざわざ暴こうとは思わなかった。


 山を下り、再び渓流の岸辺へ戻ってきた頃には、空の様子がいつの間にか一変していた。


 頭上には、黒々とした重たい雲が幾重にも広がっている。


 山頂から吹き下ろす冷たい風が、肌を刺すような水気を含んで何度も吹きつけてきた。森の木々は激しく揺れ、乾いた葉が強風に巻き上げられて、水面の上をはらはらと舞っていく。


 従者の少年は空を見上げ、慌てた様子で叫んだ。


「お嬢様、大変です! 今にも大雨が降り出しそうです! 早く山を下りましょう!」


 フア・ティン・ティーは顔を上げ、力強く頷いた。


 僕も帰ろうと背を向けたが、石の小道へ足を踏み出す直前、彼女の声に呼び止められた。


「ちょっと、動かないで!」


「今度は何だよ、お嬢様?」


「さっき、縄を引っ張っていたときの姿勢をしてみなさい」


「どんな姿勢?」


「私を助けたとき、全身に力を込めて踏ん張っていたときの姿勢よ」


 僕は少し戸惑ったものの、言われたとおりに両足を広げた。


 左足を前に出し、膝を軽く曲げる。重心をできる限り低く落とし、右足を後ろに置いて身体を支える。


 フア・ティン・ティーは僕の前まで歩み寄り、頭から足元までじっくりと見定めた。


「右足をもう少し後ろに下げて。今の位置だと、左足に近すぎるわ」


「後ろに下げすぎたら、相手が反撃してきたときに引っ張る力が弱くなるんじゃない?」


「確かに、あなたの腕力は大したものだったわ。でも、もし敵が突然反撃して、あなたを前方へ引き倒そうとしたらどうなると思う? 身体の重心が崩れて、そのまま地面に顔から突っ込むことになるわよ」


 そう言うと、彼女はためらうことなく近づき、革靴の先で僕の右足を軽く押し、さらに半歩ほど後ろへずらした。


「正しい間隔はこれくらいよ」


 僕は身体を軽く上下させ、全身の重心を移動させてみた。


「前に出した左足を支点にして、しっかり踏ん張るの。でも、後ろの右膝を絶対に固めてはいけないわ。実戦で身体の向きを変えたり、攻撃の方向を切り替えたりするときには、後ろ足がすぐに動けるだけの柔軟さが必要なの」


 僕は唇を引き結び、彼女の指示どおりに身体を動かしてみた。


 初めて試したときは、身体が大きくよろめき、危うく転びそうになった。


 しかし、二度目になると、先ほどよりもずっと長く均衡を保てるようになっていた。


 フア・ティン・ティーはわずかに頷き、満足げな表情を浮かべた。


「悪くないわ。さっきよりずっと安定している」


 僕は自分の両足を見下ろし、驚いたように呟いた。


「そういうことだったのか……。僕は今まで、しっかり立つというのは、杭のように地面へ足を打ち込んで、一歩も動かずにいることだと思い込んでいたよ」


 彼女は鼻で笑った。


「それは断頭台の上で死ぬのを待つ愚か者の立ち方よ。本当に武芸に通じた者なら、相手が襲いかかってくるのを、同じ場所に突っ立って待ったりはしないわ。しっかり立つというのは、力を蓄えておき、必要なときにいつでも自由に前進し、後退できるようにすることなの」


 僕は顔を上げ、彼女を見つめた。


 その簡潔な教えは、かつて青衣の少年から教わったものとは、まるで違っていた。


 一人は、転ばずに立つ方法を教えてくれた。


 そしてもう一人は、自由自在に攻防へ転じられる立ち方を教えてくれている。


 それまで断片的にしか理解できていなかった武芸の知識が、頭の中で少しずつつながり、一筋の光を放ち始めた。


「じゃあ、両手はどうすればいいの?」


 僕は無意識のうちに尋ねていた。


 フア・ティン・ティーは、僕の腰帯に差してある短い木の棒へ目を向けた。


「その乾いた枝切れを、何に使っているの?」


「技を練習するために持ち歩いているんだ」


「ちょっと貸しなさい」


 彼女は僕の手から木の棒を取り上げ、片手で実に手慣れた様子で握った。


「犬を追い払う棒でも持つみたいに、力任せに握り締めては駄目よ。武器を振るうときは、手首を水の流れのように柔らかく、しなやかに使うの。剣を一度振るうたびに、筋肉の力をすべて使い切る必要なんてないわ」


 彼女は木の棒を軽く前方へ振り出し、手首を滑らかに一回転させると、胸元へと静かに引き戻した。


 極めて単純な動作だった。


 しかし、その軌道には無駄がなく、鋭く、そして実に鮮やかな切れがあった。


「自分でもやってみなさい」


 僕は木の棒を受け取り、彼女の動きをそっくり真似してみた。


 だが、結果はひどいものだった。


 力を込めすぎたせいで、棒の先端は本来の一直線の軌道から大きく逸れてしまった。


 フア・ティン・ティーは近づいてくると、僕の手首を指先で軽く叩いた。


「肩の力で腕全体を引っ張っているじゃない! 全然違うわ。武器の動きを導くのは手首よ!」


 彼女はもう一度、根気強く最初から手本を見せてくれた。


 僕は深く息を吸い込み、意識を集中させて二度目の挑戦に臨んだ。


 今度こそ、手にした木の棒はまっすぐな軌跡を描いた。先ほどのように大きくぶれることもなかった。


「まあ、及第点ね」


「もしかして……わざわざ僕に武芸を教えてくれているの?」


「思い上がらないでちょうだい。ただ、武器の扱い方も知らない人間が、間違った使い方をして自分の手足を壊すところなんて見たくないだけよ」


「そもそも、僕は本物の剣なんて持っていないけどね」


「それなら、なおさら好都合じゃない」


 籠を見張っていた従者の少年は、とうとう我慢できなくなったらしい。


 彼は思わず、くすくすと笑い声を漏らした。


 フア・ティン・ティーは即座に振り返り、鋭い目つきで睨みつけた。


「あなた、何がおかしいのよ!」


 少年は慌てて頭を垂れ、両手を合わせて謝罪した。


「も、申し訳ございません! お嬢様を笑ったわけではございません! た、ただ少々むせてしまっただけでございます!」


 僕は二人の主従を眺め、思わず一緒になって吹き出した。


 素朴な笑い声が冷たい谷間に響き渡り、僕たちの間に漂っていたよそよそしさや、彼女の高慢な態度も、ほんの少しだけ和らいだように感じられた。


 その後、僕たち三人は再び渓流に沿って上流へ向かい、以前僕が話した倒木のある場所を目指して足を速めた。


 その木は渓谷の両岸にまたがるように倒れていた。しかし、洪水に襲われた際に幹の中央部が長いこと水に浸かっていたため、内部はすでに腐り果てていた。


 下を流れる激流そのものは、それほど深くない。


 だが、川底からは無数の鋭い岩が突き出しており、まるで悪鬼の牙のように、落ちてきた者の身体を引き裂こうとしている。


 フア・ティン・ティーは腐った倒木をじっと見つめた。


「さっき、中央部分はすっかり腐っていると言っていたわよね?」


「そのとおりだよ」


「それで、あなたの考えでは、どうやって向こう側まで渡ればいいの?」


 僕は身をかがめ、小さな枝を拾い上げると、倒木の表面をコンコンと叩いた。


 両端からは硬く詰まった音が返ってきたが、中央部分に差しかかると、ポコポコと空洞を叩くような鈍い音に変わった。


 僕はその中央部分を指さした。


「この腐った部分には、絶対に足を乗せてはいけない」


「だったら、また遠回りして戻らなければならないの?」


「下の方に、別の大きな松の枝が流されてきて、二つの岩の間に挟まっている場所がある。あれを足場にすれば、向こう側へよじ登れるはずだよ」


 僕は下方の岩の隙間を指さした。


 フア・ティン・ティーは目を細め、僕の指先を追った。


「まさか、あんなひどい場所を下りるつもりなの?」


「僕は君より身体が小さくて細い。その分、体重もずっと軽いからね」


「その小柄な身体が、この状況で生き残るための切り札になるとでも思っているの?」


「少なくとも、ここで突っ立ったまま口論しているよりは役に立つと思うよ」


 彼女はそれ以上、言い争おうとはしなかった。


 僕はすぐに麻縄を取り出し、片端を岸辺に生えている大木の根元へ固く結びつけた。


 それから重心をゆっくりと落とし、泥に覆われた急斜面を慎重に滑り降りていく。


 足先で一歩ごとに足場を探りながら、両手だけは決して縄から離さなかった。


 やがて、岩の隙間に挟まっている倒木のところまでたどり着くと、僕は腰をかがめ、麻縄を力いっぱい引き上げて、手を支えるための確かな支点を作った。


 その瞬間、下にある腐った倒木が小刻みに震えた。


 ミシッ……。


 木材の繊維が裂ける、乾いた音が響いた。


 僕は即座に動きを止めた。


 愚かにも、さらに力を加えようなどとは考えなかった。


 ひび割れが広がっていく様子を注意深く見極めると、すぐさま縄の向きを変え、隣にある自然の岩棚へと固定し直した。


 それから半刻ほど試行錯誤を重ね、ようやく僕のような軽い体重の者なら、どうにか安全に渡れるだけの足場を作り上げた。


 フア・ティン・ティーは高い岸辺に立ったまま、腕を組み、最初から最後まで僕の作業を眺めていた。


 そして、感想を一言だけ口にした。


「あなたの動きは、カタツムリみたいにのろいわね」


「一歩早く閻魔様に会いに行くくらいなら、遅くても生きていたほうがいいよ」


「私だって、自分の命は大切にしているわ」


「それなら、ここで待っていて。もう一度きちんと確かめてから合図するから」


 僕は縄の結び目を一つずつ念入りに確認した。


 何度か強く引っ張ってみて、支点が緩んだり、ずれたりしないことを確かめてから、ようやく顔を上げ、彼女に合図を送った。


 フア・ティン・ティーは、僕が素手で岩にしがみつきながら作り上げた、素朴な渡り道を見つめた。


 その口調には、わずかな感嘆がにじんでいた。


「あなたには、深い内功も優れた武芸の腕もないようね。それなのに、生死を分けるような状況への対処には、驚くほど鋭い勘と知恵を持っている」


「野生の中で生き延びてきた者の本能だよ」


「それだけ?」


「それだけだよ」


 彼女は僕をじっと見つめた。


 その瞳には、どこか言葉にしがたい感情が浮かんでいた。


「あなたは幼い頃から、こんな人里離れた山奥でずっと一人で暮らしてきたの? 両親や、身の回りの世話をしてくれる家族もいないの?」


 不意に投げかけられた質問に、縄を巻き取っていた僕の手が途中で止まった。


 周囲の空気が、突然、完全な静寂に包まれた。


 その一瞬、僕の脳裏には、ずっと昔の光景がよみがえった。


 揺らめく焚き火の明かりの下に寄り添う、二つの朧げな人影。


 輝かしい夜明けを迎えようと交わされた、切実な約束。


 そして、深い森の中で、今日もまた帰らぬ誰かを待ち続ける孤独な子供の姿。


 やがて僕は静かに視線を落とし、手にした縄を再び巻き始めた。


「一人で暮らすことには、もう慣れたよ」


「それで、あなたの両親は?」


「もう、ここにはいないよ」


 僕はごく自然に答えた。


 あまりにも穏やかで、どこか感情を失ったような口調だった。相手の同情や好奇心を引き出そうという気持ちは、微塵もなかった。


 フア・ティン・ティーも察したのだろう。それ以上、無理に尋ねようとはしなかった。


 彼女は顔を上げ、濁流が渦巻く渓流の方へ視線を向けた。


 そのとき、冷たい山風が吹き抜け、乾いた葉が数枚、僕たちの足元へひらひらと舞い落ちた。


「だったら、これからは、こんな鬱蒼とした森に長い間一人で居座るような馬鹿な真似はしないことね。いい?」


 僕は勢いよく顔を上げた。


「どうして駄目なんだよ?」


「あなたはまだ未熟すぎるわ。危険が訪れたとき、自分の命を守り抜けるだけの力がまるで足りていないからよ」


「逃げる方法なら知っているよ」


「逃げるですって? 逃げることが、いつまでもあなたの命を救ってくれる万能の手段だと思わないことね」


「じゃあ、君なら危険に遭遇したとき、どうする?」


 フア・ティン・ティーは、細くしなやかな手を腰の長剣の柄にそっと添えた。


「いつ逃げるべきなのか、そして、いつその場に踏みとどまって最後まで立ち向かわなければならないのか。その見極めができなければ駄目よ」


 僕はしばらく呆然と彼女を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「君の教え、覚えておくよ」


 彼女はくるりと身を翻し、先に歩き出した。


「行きましょう。もうすぐ激しい雨が降り出すわ」


 彼女の予想は的中した。


 僕たちが苦労して山麓まで戻ってきた頃には、最初の雨粒が激しく降り注ぎ始めていた。


 初めはまばらな雨にすぎなかった。


 しかし、ほんの瞬く間にそれは一面を覆い尽くす白い水の壁となり、険しい山道を丸ごと呑み込んでしまった。


 従者の少年は慌てふためきながら、持ってきた紙傘を広げた。だが、その傘はすでにかなり古びており、竹骨の一本が折れていた。そのせいで、雨水は容赦なく傘の内側へ流れ込み、少年の肩に直接滝のように降り注いでいた。


 フア・ティン・ティーは眉をひそめ、不機嫌そうに言った。


「薬籠をこちらへ渡しなさい」


「だ、大丈夫です、お嬢様! 私がお持ちしますので……」


「渡しなさいと言っているでしょう!」


 彼女は有無を言わせず薬草の入った籠を取り上げると、その上から防水加工された油布を丁寧に巻きつけた。そして、自分の胸元に抱き寄せ、雨から守るように覆い隠した。


 僕は鬱蒼と茂る松の木の下に身を寄せ、真っ白に染まった雨空を見上げた。


「あなたは、すぐに自分の洞窟へ帰らないの?」と、フア・ティン・ティーが横目で尋ねた。


「雨脚が少し弱まるまで待ってから考えるよ」


「あなたのあのぼろ洞窟は、一体どの辺りにあるの?」


「向こうにある原生林の奥深くだよ」


 フア・ティン・ティーは僕の指さす方向を振り返った。


 すると、その表情がわずかに変わった。


「あなた……本当に、あんな人跡未踏の森の中で一人暮らしをしているの?」


「うん、そうだよ」


「夜になって、恐ろしくなったりしないの?」


 僕は少し考えた。


「正直に言えば、怖くなることだってあるよ」


「怖いくせに、どうしてそんな化け物でも出そうな場所に住み続けているの?」


「だって……あそこが僕の家だから」


 彼女は一瞬、呆気に取られたように僕を見つめた。


 それ以上、何も言葉が出てこないらしかった。


 しばらく沈黙が続いた後、フア・ティン・ティーは突然薬籠の中へ手を入れ、小さな黒い油布を一枚取り出した。


 そして、何気ない仕草で僕の方へ放り投げた。


 僕は慌てて手を伸ばし、それを受け止めた。


「これ、僕にくれるの?」


「勘違いしないでちょうだい。あなたの肩にいる、そのずる賢いリスに恵んでやるだけよ」


 僕の肩の上で身を縮めていたリスは、自分のことを言われたと分かると、勢いよく顔を上げた。


 ぱちぱちと瞬きをしながら油布を眺め、それからフア・ティン・ティーへ視線を移す。


「どうしてそいつに?」


「雨をしのぐために決まっているでしょう。こんな冷たい雨に毛を濡らしたら、病気になって死んでしまうかもしれないじゃない」


 僕は思わず声を上げて笑った。


「ありがとう」


「黙りなさい。それに、勝手に親しみを感じて変な勘違いをしないことね。私はただ、こんなくだらない理由で動物が間抜けな死に方をするところを見たくないだけよ」


 彼女はくるりと背を向け、歩き出した。


 ただ、その足取りは、先ほどまでよりも心なしか速くなっていた。


 後ろをついていく従者の少年は、危うく足をもつれさせながらも、笑いをこらえようとして顔を真っ赤にしていた。


 フア・ティン・ティーは振り返りもせず、冷たい声で脅しをかけた。


「まだ笑い声を漏らしてみなさい。置いていくからね。雨の中を一人で歩いて帰ることになるわよ!」


 少年は瞬時に口を閉じ、血の気の引いた顔で背筋を伸ばした。


 僕は松の木の下に立ったまま、二人の後ろ姿が雨の帳に紛れて見えなくなるまで、静かに見送っていた。


 それから、油布を丁寧に折り畳み、服の内側の袋へ大事にしまい込んだ。


 小さなリスは素早く僕の温かな襟元へ潜り込み、小さな頭だけを外にのぞかせて、ぶつぶつと呟いた。


「まったく、あのお嬢様は、虎みたいに気性の荒い女の子だな」


「そうだね」


「でも、よく考えてみれば、そこまで悪い娘でもなさそうだ」


「そうだね」


「なあ、チエウ・バン。お前、ああいう口うるさくて気の強い女の子が好みなのか?」


 僕はリスを鋭く睨みつけた。


「僕は、生き残るための結び方を知っている人間が好きなだけだよ」


 リスは数秒ほど呆然としていた。


 やがて、どうしてもこの奇妙な飼い主の頭の中を理解できないとでも言いたげに、甲高い声でひと鳴きした。


 森を襲った豪雨がようやく完全に上がったのは、夕暮れ時だった。


 僕が岩窟へ戻り着いた頃には、辺りはすでに夜の帳に包まれ始めていた。


 僕は油布を枯れ葉で作った寝床の隅に丁寧に置き、それから小さな木の棒を取り出した。


 そして、平らな岩の前に一人で立ち、フア・ティン・ティーに教わったばかりの足運びを、もう一度じっくりと練習し始めた。

 今度は、愚かにも足を身体から遠く離して踏み出すような真似はしなかった。


 膝をわずかに曲げ、重心をできる限り低く落とす。後ろ足の関節は固めず、いつでも動けるように力を抜いておく。


 僕は静かに身体を左へ移動させた。


 それから、今度は右へ。


 一歩、前へ。


 一歩、後ろへ。


 両足はごく小さな弧を描くように動いていく。剣を振るう武林の達人が披露するような、威風堂々とした姿には到底見えない。


 それでも、先ほどまで感じていた身体のぐらつきや足元の不安定さは、かなり和らいでいた。


 僕は思い切って、身体の向きを変えてみることにした。


 だが、その直後だった。


 後ろの軸足が、またしても滑ってしまった。


 僕は再び、岩の床へ派手に転がった。


 小さなリスが枯れ葉の山から顔をのぞかせ、見慣れた眼差しで僕を眺めている。


 僕は冷たい岩床に仰向けになったまま、しばらく呆然と暗い洞窟の天井を見つめていた。


「この道は……本当に、まだまだ先が長そうだな」


 リスは黙って僕のそばまで這い寄ると、後ろ足で乾燥した栗を一粒、僕の膝元へ押し転がした。


「とりあえず、これでも食べておけ。食べ終わる頃には、少しは頭の回転もよくなるだろうさ」


 僕は栗を拾い上げ、思わず吹き出した。


 その夜、僕はそれ以上、無理に鍛錬を続けようとはしなかった。


 燃え尽きかけた焚き火のそばに腰を下ろし、これまで集めてきた品々を一つずつ取り出しては、揺らめく炎の明かりにかざしながら念入りに調べた。


 燃え盛る炎の紋様が刻まれた、粗削りな鉄の指輪。


 判然としない文字のような紋様が刻まれた、砕けた陶片。


 先日、灰色の衣をまとった男から拾った黒い布切れ。


 そして、竹筒の中にひそかに隠されていた、正体不明の黒い金属片。


 一見したところ、それらの品々には何の共通点もないように思えた。


 しかし、僕の直感は告げていた。


 これらは決して、何の関係もなく偶然そこに存在していたものではない。


 僕は陶片を手に取り、鉄の指輪のすぐそばに並べてみた。


 陶片に刻まれた紋様は、長い年月の中で風化し、細部がすっかり擦り減っていた。だが、焚き火の明かりにかざして角度を変えたとき、隅の方に隠されていた小さな記号が、ふいに鮮明な姿を現した。


 閉じられた一つの円環。


 その内側には、地獄の業火を思わせる炎の図柄が描かれていた。


 僕はその記号を、長い間じっと見つめ続けた。


 やがて、すべての品を洞窟の最も奥まった場所へ慎重にしまい込み、外へ出る際には決して持ち歩かないことにした。


 まだ解き明かされていない秘密に、今の穏やかな暮らしをこれ以上かき乱されたくはなかったのだ。


 明日になれば、また食べ物を探しに出かけなければならない。


 水瓶を担いで、渓流まで水を汲みに行かなければならない。


 そして、一歩一歩、歩法の鍛錬を続けていかなければならない。


 この深い森には、僕がまだ一度も触れたことのない、あまりにも多くの謎が眠っている。


 僕は身体を横たえ、大きな枯れ葉を一枚引き寄せて腹の上に掛けた。


 洞窟の外では、夜の帳が万物を覆い尽くし、山風が寂しげな唸り声を上げながら吹き荒れていた。


 しかし、深い森のさらに奥。


 古びた巨大な松の根元に、あの古びた石碑が鎮座する場所では、招かれざる客たちが静かに足を踏み入れていた。


 顔をすっかり覆い隠した二つの黒い影。


 その足元には、ぬかるんだ泥の上に、まだ新しい足跡がくっきりと刻まれていた。


 一人がしゃがみ込み、荒々しい手つきで石碑の根元にこびりついた泥の塊を払いのけた。もう一人はその背後に立ち、周囲を取り囲む鬱蒼とした木々へ、警戒を怠ることなく視線を走らせている。


「何か痕跡は見つかったか?」


「ああ」


「どこにある?」


 しゃがみ込んでいた男が人差し指を伸ばし、石碑の裏側を真っすぐに指さした。


「見ろ。この封印の紋様……やはり、何者かがすでに手を加えている」


 背後に立っていた男は、ゆっくりと身をかがめた。


 彼の視線は、逆さに燃え盛る炎を象った浮き彫りに釘付けになっていた。


 男は長い間、言葉を発することもなく、その場に凍りついたように立ち尽くしていた。


 やがて、ゆっくりと衣の内側へ手を差し入れると、手のひらほどの大きさをした黒光りする金属片を取り出し、石碑に刻まれた紋様のすぐ隣へと近づけた。


 二つの紋様は、恐ろしいほど寸分違わず重なり合った。


 まるで、最初から一つのものだったかのように。


「やはりな……すべてが単なる偶然というわけではなかったか」


「至急、王都へ報告を上げる必要があるのでは?」


 男は黒い金属片を引き戻し、再び厳重にしまい込んだ。


「今はまだ、その必要はない」


「しかし、もしも……この石碑の下に埋められているものが、本当にまだ生き残っているとしたら……」


「まだ報告する必要はないと言ったはずだ!」


 声そのものは決して大きくなかった。


 だが、その言葉には凍てつくような威圧感が込められていた。背後にいた男は、たちまち顔を伏せ、恭しく命令に従う。


 肌を切り裂くような冷たい風が、鬱蒼と茂る松の梢を吹き抜けていった。


 男は立ち上がり、節くれだった両手に付着した乾いた泥を軽く払い落とした。


「我々がこの場所を突き止めたことは、絶対に第三者へ知られてはならない」


 二人は静かに身を翻すと、元来た古い山道をたどり、夜の闇の中へと姿を消していった。


 古びた松の根元では、石碑が相変わらず沈黙を保ち、暗闇の中にひっそりと佇んでいた。


 その下に、一体どれほど恐ろしい災厄が封じられているのか。


 それを知る者は、誰一人としていなかった。


 そして、そこからさほど遠くない寂れた岩窟で、十歳の少年が今日も黙々と、地面に確かな足跡を刻むための歩みを学んでいることなど、誰にも想像できなかっただろう。


 一見すれば、この二つの出来事に何の接点もないように思える。


 だが、その実、ラム・チエウ・バンという名がこの世に現れるよりも、はるか以前から、運命という巨大な歯車はすでに音もなく動き始めていた。


 そして今、すべての者を、同じ残酷な運命の軌道へと引き寄せようとしていたのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。