Episode 72
その朝、古い山並みの上空には、太陽の光がまるで差していなかった。
白く濁った雲が低くたなびき、遠くの峰々を覆い尽くしている。その様は、まるで目に見えぬ喪の白布が垂れ下がっているかのようだった。冷たい霧が松の葉一枚一枚に濃くまとわりつき、重たげな水滴となって、湿った地面へぽたり、ぽたりと落ちていく。その音に、昨年から積もった厚い腐葉土の下で身を縮めていた虫たちが、かすかに目を覚ました。
僕は古びた石碑の前にしゃがみ込み、冷え切った地面に両膝をついていた。
この場所を初めて見つけてから、ここを訪れるのは今日で三度目になる。
石碑は、節くれ立った古松の根元に寄りかかるようにして、半ば地中に埋もれていた。青々とした苔がその表面のほとんどを覆い尽くしている。長い歳月に削られながらも、碑の上部には、蓮華座に結跏趺坐する道士の浮き彫りが、かろうじて残されていた。両手を組み、腹の前に整然と置いた姿である。
しかし、その顔は長い年月に食い荒らされたように平らになり、今では記憶の奥に漂う幻影のような、ぼんやりとした輪郭しか残っていなかった。
僕の肩には、小さなリスがぴったりと寄り添っていた。
そいつは乾いた栗の実を両前足でしっかり抱え込み、ぽりぽりと音を立ててかじりながら、いかにも理解できないといった目つきで僕を眺めている。
「お前、朝からずっとその苔だらけの石ころを睨みつけてるじゃないか。飽きないのか?」
「うん」
「そんなごつごつした石の、どこが面白いんだよ。いくら眺めたって美味くも何ともないだろう?」
「美味しいと思って眺めているわけじゃないよ」
リスはむっと唇を尖らせ、栗をがりがりとかじり続けた。もはや、それ以上僕に構う気はないらしい。
僕は道端から枯れ草を一本摘み取り、石碑の表面にこびりついた厚い苔を慎重に払い落としていった。
腐りかけた苔の下から、小さな線刻が姿を現す。
それは、ありふれた装飾文様とは明らかに違っていた。むしろ、長い年月に削られ、原形をほとんど失いかけた古代の文字のように見える。
僕は懐から、先日、渓流のほとりで拾った陶片を取り出した。そして、石碑に刻まれた線と見比べるため、その破片をそっと近づけた。
短く途切れた一本の横線。
平行に並んだ二本の縦線。
そして、奇妙にうねる一本の曲線。
僕は首を傾げ、眉をわずかに寄せた。
「下の漁村に住んでいる人たちの文字とは、まるで似ていないな……」
リスが横から首を突っ込んできた。
「おい。お前、いつから字なんか読めるようになったんだ?」
「知らない」
「読み書きもできないくせに、そんなものを眺め回して何になるんだよ。目が疲れるだけだろ」
「分からないからこそ、よく見なきゃいけないんだよ」
リスは小さく鼻を鳴らし、呆れたように何度も首を横に振ると、再び栗の実にかじりついた。
僕は指先を伸ばし、石に刻まれた窪みをそっとなぞった。
石の冷たさが皮膚を通して、じんと伝わってくる。
そのとき、僕の指がぴたりと止まった。
浮き彫りの人物像、そのすぐ下に、小さな異変があったのだ。
そこには、ひどく奇妙な亀裂が走っていた。
風化や木の根によって自然に生じたものでは、到底あり得ない。真っ直ぐで、深く、石碑の下端近くまで縦に伸びている。
試しに指で強く押してみた。
何も起こらない。
今度は陶片の鋭い縁を使って、石碑の根元に固まった泥を慎重に削り落とした。
コツン。
静寂の中に、乾いた、空洞を思わせる音が響いた。
僕は息を呑んだ。
さらに何度か、石碑の根元を叩いてみる。
コツ……コツ……コツ……。
返ってくる音は、やはり中が空っぽのように響いた。普通の、密度の高い石塊を叩いたときの音とは明らかに違っている。
「この石碑の下は……空洞だ。間違いない。何かが隠されているんだ」
それを聞いたリスは、栗の実を取り落とし、耳をぴんと立てた。
「おい、まさか掘り返したりするんじゃないだろうな!」
「どうして?」
「馬鹿なことをするな。……蛇の臭いがする」
僕は顔を下げ、周囲に生い茂る雑草を見渡した。
「蛇? どこにいるんだ?」
「分からない。だが、あの生臭くて冷たい臭いだけは、絶対に嗅ぎ間違えない」
僕はすぐに掘り返すのをやめた。
その場に立ち上がり、周囲の茂みを念入りに観察する。しばらく探していると、古松の根の下に、小さな穴が隠れているのを見つけた。穴の周囲には、つい先ほど外へ押し出されたばかりのような、新しい泥土が散らばっている。
穴の中では、黒と白の縞模様を持つアマガサヘビが、とぐろを巻いてじっとしていた。
小さく鋭い目が、こちらを向いている。
僕はゆっくりと、後ろへ二歩下がった。
「分かった。今日はもう掘らないことにするよ」
リスはほっと胸を撫で下ろし、いかにも賢明な判断だと言わんばかりに、満足げに頷いた。
だが、その息苦しい沈黙を破るように、遠く霧に包まれた山の頂から、澄んだ音が突然響いてきた。
――ゴォン。
寺の鐘だった。
低く、重々しい音色が山々の彼方まで広がり、凍てつく山風に断ち切られながら、途切れ途切れに届いてくる。
僕は弾かれたように顔を上げた。
――ゴォン。
再び鐘が鳴った。
今度は先ほどよりもずっと弱々しい。まるで誰かが、残された力のすべてを振り絞り、朽ちかけた鐘の綱を必死に引いているかのようだった。
リスは驚いて、首筋の毛を逆立てた。
「この音、どうにも気に入らないな」
「どうしたんだ? お前も鐘の音が苦手なのか?」
「違う。ただ、人間の気配がする場所が嫌いなんだ」
僕はかすかに笑った。
「それなら、ここで待っていてよ」
僕が一歩踏み出した瞬間、リスは目にも留まらぬ速さで跳び上がり、僕の肩にしがみついた。
「誰が一人で待っていろと言った! 人間は嫌いだが、お前を危ない場所へ一人で行かせるつもりはないぞ!」
僕はそれ以上言い返さず、肩から滑り落ちないように、そっと手を添えた。
こうして僕たちは、細く険しい山道を、一歩ずつ登り始めた。
道は高くなるにつれて、次第に狭まり、曲がりくねった一本の糸のようになっていく。両脇には松の木々が密集し、まるで自然が作り上げた牢獄のように行く手を閉ざしていた。地面から剥き出しになった節くれ立つ根は、飢え死にした亡者の骨ばった手のように、通りすがる者の足を掴もうとしている。
僕はひどく慎重に歩いた。
靴先で一つ一つ石の具合を確かめてから足を置き、苔に覆われた滑りやすい場所には決して近づかない。
線香が半分ほど燃える頃、古びた竹林を抜けた先に、苔むした瓦屋根がかすかに姿を現した。
小さな古寺だった。
すでに廃れて久しいらしい。
正門は半分ほど崩れ落ち、朽ち果てた木の扉が二枚、擦り減った石段の脇に傾いて倒れかかっている。本堂の正面に斜めに掛けられた扁額には、かつて鮮やかだったはずの朱塗りや金箔が無残に剥がれ落ち、文字すら判別できないほどだった。ただ一文字だけが、かすかに滲んだ輪郭を残している。
僕には、その文字がどう読まれるのかさえ分からなかった。
警戒しながら、雑草の生い茂った境内へ足を踏み入れる。
境内の中央には、とうの昔に水の涸れた古井戸があった。割れた敷石の隙間からは、一本の大きな菩提樹が伸びている。その幹は本堂の屋根へ覆いかぶさるように、大きく傾いていた。縦横無尽に広がった根は敷石を丸ごと抱え込み、締めつけ、砕き、広い境内の一角を無残に引き裂いている。
人影はない。
ただ、砕けた瓦の隙間を吹き抜ける風が、うめき声にも似た音を立てていた。時おり、青銅の鐘が乾いた音を一つ、山中に響かせる。
僕は顔を上げた。
本堂の裏手にある、小さな鐘楼。その上に、古びた鐘が不安定に吊り下がっている。鐘を鳴らすための綱は垂れ下がっていたが、その先端は無残にほつれ、わずかな切れ端だけが朽ちた木の梁に引っかかっていた。
僕は周囲を見渡した。
「誰かいるのか?」
返事はない。
岩壁から声が反響してくるだけだった。
僕は慎重に本堂へ足を踏み入れた。
内部は薄暗く、背筋が凍るほど冷え切っていた。祭壇に安置された仏像は片腕を失い、あらゆる場所に分厚い埃が積もっている。祭壇の背後にある壁には、長く裂けた亀裂が一本走っていた。
灰色の床に目を落としたとき、僕の視線があるものを捉えた。
足跡だった。
大きさからして、僕と同じくらいの年頃の子供のものだろう。
僕は腰を低くし、注意深く観察した。
足跡に残った泥は、まだ湿っている。完全には乾いていなかった。
つまり、誰かがつい最近ここを訪れたということだ。
僕は黙って足跡を追い、本堂の裏手へ回った。やがて、小さな木の扉の前で足を止める。扉は、わずかに開いていた。
ギ……ギィ……。
そっと扉を押し開け、中へ入る。
そこは狭く、湿気のこもった部屋だった。何百冊もの古書が放つ、黴臭い匂いが充満している。
大半の書物はすでに朽ち果て、灰になりかけていた。背表紙は剥がれ、頁は死者の肌のように黄ばんでいる。
破れた窓枠のそばには、質素な木机が一つ置かれていた。
机の上には、とうの昔に油の尽きた灯明皿と、すっかり冷めた粥の入った陶器の椀がある。粥の表面には薄い膜が張っていた。
そのすぐ隣には、粗末な木剣が一本置かれている。
僕は床へ視線を落とした。
足跡は、木机のすぐ脇で途絶えていた。
「ここで、何を探しているの?」
朽ちた書棚の向こうから、冷ややかな声が突然響いた。
心臓が跳ね上がった。
僕は驚いて半歩後ずさり、身構える。
暗がりの中から、一人の少女がゆっくりと姿を現した。
年頃は僕と同じくらい。
色褪せた薄緑色の粗末な衣を身にまとい、長い黒髪を一本の簡素な麻紐でまとめている。衣の裾には汚れが染みつき、布靴には乾いた泥がこびりついていた。
その顔には、恐怖も戸惑いも微塵もなかった。
むしろ、どこまでも冷たく、他人を寄せつけないような雰囲気が漂っている。
右手には、ぼろぼろになった古書を一冊抱えていた。
僕はしばらく彼女を見つめ、それから手にした本へ視線を移した。
「寺の鐘の音が聞こえたんだ」
「それで?」
「誰かが困っているのかと思った」
「それで、困っているのが私だと思ったの?」
「まだ分からないから、確かめに来たんだ」
少女はわずかに眉をひそめ、口元をぴくりと動かした。
「あなたって、本当に変な話し方をするのね」
「何度もそう言われたことがあるよ」
少女は僕の肩にしがみついているリスへ目を向けた。
「その動物は、あなたが飼っているの?」
「こいつが勝手についてきたんだよ」
リスはその言葉を聞くや、ぷいと顔を背けた。いかにも、そんなことはどうでもいいと言わんばかりだった。
少女はしばらく僕を値踏みするように眺めてから、尋ねた。
「あなた、字は読めるの?」
「あまり読めないよ」
「それなのに、よくここへ入ってこられたわね」
「鐘の音が聞こえて、足跡も見つけたから、そのまま追ってきたんだ」
「他人の足跡を追いかけるのが癖なの?」
「うん」
少女は手にしていた古書を、そっと閉じた。
「そんなことをしていたら、泥棒と間違われるかもしれないわよ?」
僕は部屋の中を見回した。
ここにある書物は、誰かにただで譲ったところで欲しがる者などいそうにないほど朽ち果てている。冷めた粥にも、何の価値もなさそうだった。何より、目の前の少女自身も、裕福な暮らしをしているようには到底見えない。
「ここには盗むようなものなんてないよ」
少女は黙り込んだ。
そして、不意に顔を上げて尋ねた。
「じゃあ、どうして寺の鐘が鳴ったのか分かる?」
「綱が切れていたから、強い風に吹かれて鐘が揺れたんじゃないかな」
「風じゃないわ」
少女は窓際へ歩み寄り、外にある鐘楼を指さした。
「私が引いたの」
僕は呆気に取られて顔を上げた。
「でも、綱は切れていたんじゃないの?」
「結び直したのよ」
「なら、どうしてしっかり結ばなかったの?」
「鐘を支えている木の梁が、もう腐って折れかけているからよ」
僕は目を細め、彼女の指さす方向を見た。
確かに、鐘を吊るす横木の中央部分は腐り切っており、片端には大きな裂け目が走っている。新しく結び直された綱は、その梁に仮止めされていたが、結び目はひどく緩く、どう見ても安全とは言い難かった。
「これ以上強く引いたら、鐘も梁も一緒に落ちてくるよ」
「分かっているわ」
「分かっているのに、どうしてわざわざ引くんだ?」
少女はすぐには答えなかった。
彼女は振り返り、薄暗い本堂の方をじっと見つめた。
壊れかけた仏像が、陰の中で静かに佇んでいる。
「ただ、もう一度、鐘の音を聞きたかっただけ」
僕は、それ以上尋ねなかった。
人の胸の奥底には、無理に暴いたり、急いで説明を求めたりするべきではない思いもある。
それくらいのことは、僕にも分かっていた。
少女は古書を机の上に置いた。
僕は窓辺に立ったまま、荒れ果てた寺の境内を見渡した。
高い梢から、黄色く枯れかけた菩提樹の葉が一枚、ひらりと舞い落ちる。葉は涸れた井戸の中で何度か回転し、やがて底に静かに沈んだ。
「ここで一人暮らしをしているの?」
僕は小さな声で尋ねた。
「違うわ」
「じゃあ、ほかにも誰かいるの?」
「前はね」
「その人はどこへ行ったの?」
「行ったきり、帰ってこないわ」
「いつ帰ってくるの?」
「分からない」
僕は軽く頷いた。
「そうなんだ」
しばらくして、少女がじっと僕を見つめた。
「この不気味な場所に、どうして私が隠れているのか、聞かないの?」
「話したくなったら、自分から話すと思うよ」
「もし、話したくなかったら?」
「それなら、それでいいよ」
少女は一瞬、目を見開いた。
これまでの人生で、彼女は他人の秘密を何としてでも聞き出そうとする人間に、嫌というほど出会ってきたのかもしれない。
だからこそ、見ず知らずの子供があまりにもあっさりと引き下がったことに、戸惑いを隠せないのだろう。どう返せばいいのか分からず、言葉を失っているようだった。
彼女は視線を落とし、手にしていた古書を机の上へ置いた。
「あなたの名前は?」
「林兆斌」
「私は……」
少女は、そこで言葉を呑み込んだ。
その目が、無意識のうちに、半開きになった扉の方へと向けられる。
僕はそのためらいに気づいたが、わざと気づかないふりをした。
少女は答えを変えた。
「周りの人からは、阿寧と呼ばれているわ」
「阿寧?」
「そうよ」
「分かった」
「本当の名前を聞こうとは思わないの?」
「みんながそう呼んでいる名前なんでしょう?」
阿寧は僕をじっと見つめたあと、小さく息を吐いた。そして俯き、古書の頁をめくり始めた。
「あなたって、本当に変わった人ね」
世間の人間からそんな言葉を浴びせられることには、もう慣れきっていた。僕の耳はすっかり鈍くなり、少しも気にならない。
僕は木机へ歩み寄った。
彼女が開いていた古書の頁には、偶然にも、古松の根元にある石碑とそっくりの絵が描かれていた。その下には、曲がりくねった古代文字がびっしりと書き込まれている。
僕の視線は、その頁に釘づけになった。
「これ、山の斜面にある古松の根元に立っていた石碑じゃないか?」
阿寧は弾かれたように顔を上げた。
その瞳に、かすかな光が宿る。
「あなた、あそこを知っているの?」
「数日前、偶然見つけたんだ」
「その石碑に触れた?」
「触れたよ」
「裏側に刻まれた奇妙な模様には気づいた?」
僕はきっぱりと首を横に振った。
「いや。石碑は地面に沈み込んで傾いていて、裏側が土にぴったりと押しつけられていた。僕には持ち上げられなかったんだ」
阿寧は古書をばたりと閉じ、厳しい口調で言った。
「絶対に掘り起こしては駄目よ」
「どうして?」
「私だって、あの石碑の下に何が埋まっているのか、まだ突き止められていないんだから」
「僕も気になっているんだ」
「だからこそ、勝手に触ってはいけないと言っているの」
僕はこくりと頷いた。
「本当は掘り返して確かめようと思っていたんだけど、残念ながら、あそこには番をしているアマガサヘビがいたから、やめたんだ」
阿寧は半信半疑といった目で僕を見た。
「あなた、本当にあの重たい石碑を掘り起こそうとしていたの? 下敷きになれば、潰されてしまうかもしれないのに。そんな、どうでもいいような文字を確かめるためだけに?」
「うん」
「死ぬのが怖くないの?」
「怖いよ。僕は蛇が大の苦手なんだ」
僕の肩にいたリスは、その言葉を聞いた途端、逃げるように首をすくめ、僕の襟元へ頭を潜り込ませた。
その様子を見た阿寧は、とうとう堪えきれず、くすくすと笑い出した。
それはとても柔らかく、澄んだ笑い声だった。窓の外で吹き荒れる風の音に、今にも呑み込まれてしまいそうなほどかすかな声。
それでも、僕の耳にははっきりと届いていた。
ちょうどそのとき、谷の方から突如として猛烈な風が吹きつけた。
朽ちかけた木製の窓が勢いよく吹き飛ばされ、壁に激突する。
――バァン!
梁の上に積もっていた埃が、ぱらぱらと降り注いだ。
同時に、書棚の最上段に置かれていた分厚い本が、風に煽られて木の縁から滑り落ちる。
その真下には、阿寧がいた。
反射的に、僕は手を伸ばした。
ずしりと重い本が僕の前腕に激しくぶつかり、そのまま床へ落ちて鈍い音を立てた。
阿寧はびくりと身を震わせ、慌てて後ろへ下がった。
「あなた……」
「大丈夫だよ」
僕は本が当たった前腕をさすった。
皮膚には赤い筋がくっきりと浮かび上がっていたが、幸い、出血するほどの傷にはなっていない。
阿寧は身を屈めて本を拾い上げ、埃を払い落とした。背表紙が壊れていないかを念入りに確かめてから、ようやく僕を見上げた。
「どうして私の代わりに受け止めたの?」
「頭に当たりそうだったから」
「自分で避けられたわ」
「そうかもしれないね」
僕は落ち着いた声で答えた。
「でも、僕の方が近くにいたから。手を伸ばせば受け止められたんだ」
阿寧は言葉に詰まり、返す言葉を見つけられずにいた。
彼女は本を胸に抱きしめたまま、僕の前腕に残る赤い痕へ、ふと視線を落とした。
一拍の沈黙のあと、机へ歩み寄り、引き出しを開けて清潔な布を取り出す。
「腕を出して」
「どうして?」
「手当てをするの」
「そんなことしなくてもいいよ。少し擦っただけだから」
「必要かどうかなんて、私は聞いていないわ」
僕は仕方なく、おとなしく腕を差し出した。
阿寧は白い布を、僕の前腕に丁寧に巻きつけていく。結び目はあまり器用とは言えなかったが、しっかりと固定されていた。
「水に濡らさないこと」
「分かった」
「勝手に早く外したりもしないで」
「分かったってば」
「本当に聞いているの?」
「ちゃんと聞いているよ」
少女が顔を上げた。
僕の視線は、いつの間にか肩の上で丸くなっているリスへと向いていた。
阿寧は呆れたようにため息をつくと、布の結び目をもう少しだけ強く締めた。
「痛いよ」
「なら、次からはちゃんと言うことを聞くのね」
「でも、正直に言うとね」
僕は彼女を見つめ、何でもないことのように続けた。
「次も本が落ちてきたら、やっぱり受け止めると思うよ」
阿寧が結び目を作っていた両手が、不意にぴたりと止まった。
彼女は、それ以上何も口にしなかった。
僕が荒れ果てた古寺を後にする頃には、夜の帳が下り、山も森もすっかり闇に呑み込まれていた。
正門まで歩いてきたところで、背後から阿寧の呼び声が飛んできた。
「林兆斌!」
僕は足を止め、振り返った。
阿寧は崩れかけた寺の軒下に佇み、古書を両腕でしっかりと抱きしめていた。
「馬鹿な真似をして、勝手に石碑を掘り起こしたりしないでよ」
「分かっているよ」
「本気で言っているのよ。冗談じゃないから」
「僕だって本気だよ」
彼女は僕をじっと見つめていた。まだ何か言いたげな様子だったが、結局、口にはしなかった。
ただ、手を伸ばし、僕の前腕に巻かれた包帯をそっと指さした。
「その布、大切に扱ってね」
僕は手を上げ、軽く振ってみせた。
「次に会ったときに返すよ」
「返さなくていいわ」
「じゃあ、もらっておいていいの?」
「ええ」
僕は頷き、背を向けて夜の闇へと歩き出した。
かなり遠くまで歩いた頃、背後から再び寺の鐘の音が聞こえてきた。
――ゴォン。
今度の鐘の音は、夕刻に聞いたものよりも澄み渡り、長く、どこか胸を締めつけるような余韻を残していた。
僕は振り返り、鐘楼を見上げた。
そこには阿寧の姿があった。彼女は新しく繋ぎ直した縄を両手で握り、乱暴に引くことなく、ほどよい力加減でそっと一度だけ引き下ろしていた。
古鐘が、低く深く鳴り響く。
その音色は朽ちかけた寺の屋根を越え、古びた竹林を貫き、静かに山深い森の彼方へと溶け込んでいった。
僕はその光景を、しばらくの間、じっと眺めていた。
小さなリスが僕の襟元に頭を潜り込ませ、囁くように言った。
「行こう」
「ああ、行こうか」
僕は再び歩き始め、山道を下っていった。
その夜、僕が岩穴へ戻った頃には、辺り一面がすっかり闇に包まれていた。
平らな岩の上に、拾ってきた陶片を置く。その隣には、炎の紋様が刻まれた鉄の指輪を並べた。
それから、腕に巻かれていた包帯をほどき、腫れの引き始めた傷跡を確かめる。布を丁寧に畳み、脇へ置いた。
乾いた落ち葉の寝床で丸くなっていたリスが、目だけをこちらへ向けた。
「お前、本当に暇を持て余しているんだな。他人のぼろ布なんか拾ってきて、一体何に使うつもりなんだ?」
「くれたんだから、もらっておいただけだよ」
「そんなもの、食えるわけでもないだろうに」
「生まれてくるものが、何もかも食べるためだけにあるわけじゃないよ」
リスは大きな欠伸を一つすると、そのまま眠りに落ちた。
僕は小さく笑い、乾いた薪を一本手に取ると、地面に簡単な図を描き始めた。
まず、あの石碑の形を描いた。
次に、苔むした鐘楼を描く。
そして、阿寧が見せてくれた古書の頁に記されていた、厳かな雰囲気を漂わせる奇妙な古代文字も、一つ一つ描き写していった。
その意味こそ理解できなかったが、僕の記憶には、それぞれの線や形が寸分違わず刻み込まれていた。
かなりの時間をかけて、ようやく僕は手を止めた。
石碑の図が描かれた頁、その右下の隅に、見覚えのある小さな紋章があった。
閉じた円の内側に、激しく燃え盛る炎が描かれている。
それは、鍛冶職人の謝重山が持っていた、あの鉄の指輪に刻まれた紋章と、まったく同じものだった。
僕は指輪を拾い上げ、揺らめく焚き火の残り火にかざした。
その紋章は、後から付け足されたものでは決してなかった。
鉄そのものに深く打ち込まれた刻印であり、容赦なく時を重ねてきた歳月によって、その輪郭はすっかり摩耗し、滑らかになっていた。
僕の脳裏に、謝重山が意味ありげに語っていた言葉が蘇る。
古い製錬炉。
黒鉄鉱。
そして、決してみだりに手を触れてはならない禁忌の品々。
僕は隣り合う二つの品を、黙って見つめていた。
深い森の奥にひっそりと隠された古代の石碑。
そして、老鍛冶師の鉄の指輪に刻まれた謎の紋章。
この二つの間には、何かしらの繋がりがあるのだろうか。
今の僕には、何一つ確かなことが分からなかった。判断を下すには、あまりにも手掛かりが少なすぎる。
だからこそ、早まった結論を出すつもりはなかった。
僕は指輪を大切に懐へしまい、地面に描いた乱雑な線や図を手で消し去った。
岩穴の外では、風が松林を吹き抜け、冷たい唸り声を幾度となく響かせていた。
リスはすっかり深い眠りについている。
僕は岩の縁に背中を預け、両手を枕代わりにして横たわった。そして、墨を流したように真っ暗な洞窟の天井を、ただじっと見つめていた。
耳の奥には、今も澄み渡った寺の鐘の音が残っている。
少女の姿も、脳裏から離れなかった。
阿寧という名の、あの少女。
そして、彼女が繰り返した警告。
――勝手に石碑を掘り起こしたりしないでよ。
僕は暗闇の中で、かすかに口元を緩めた。
「明日は……掘り起こさないよ」
そう呟いて、僕はゆっくりと目を閉じた。
しかし、皮肉なことに。
人の気配すらない静寂に包まれた深い森、その老いた古松の根元では、石碑を取り囲む泥土が、突如としてわずかに崩れ落ちていた。
石碑の裏側を覆っていた大きな苔の塊が、剥がれ落ちる。
暗闇の中、土に深く埋もれた石の裏側で、二列目となる古代文字が、少しずつその姿を現し始めた。
そして、その文字のすぐ下には、地獄の業火を思わせる、激しく燃え盛る炎の逆さ紋が刻まれていた。
その瞬間を目撃した人間も、生き物も、一匹としていなかった。
ただ一匹、小さなアマガサヘビが音もなく通り過ぎ、やがて深い岩の裂け目へと姿を消していった。




