Episode 71
大洪水という苛烈な災厄が過ぎ去ってから三日三晩。ようやく洛水の流れは、狂おしい怒涛の衣を脱ぎ捨て、下流一帯に偽りとも思える穏やかさを取り戻しつつあった。
川の両岸には、灰色の泥土が分厚く、粘りつくように堆積していた。上流から濁流に引き裂かれ、押し流されてきた巨大な樹木が、木造橋の橋脚の根元に幾重にも絡みつき、息苦しいほど雑然とした瓦礫の山を築いている。砂州には、何艘もの竹筏が無残な姿で横たわっていた。船底には、川底に転がる鋭い岩に貫かれた無数の穴が開き、まるで蜂の巣のようだった。
命懸けの災難を辛うじて生き延びた漁村の人々も、疲労に身を蝕まれながら、家屋の修繕に取りかからねばならなかった。倒された垣根を立て直し、洪水に奪われた生活用品の残骸を拾い集める。誰もが、失われた日常を取り戻そうと忙しなく動き回っていた。
その朝、私は再び川辺の船着き場へと足を運んだ。
三日間の手当てのおかげで、両手の傷口はすでに塞がっていた。だが、皮膚に刻まれた擦過傷の跡は、まだ赤く生々しく残っている。
謝重山の形見である鉄の腕輪は、細い麻縄に通し、肌着の内側、胸元に近いところへ大切に隠してあった。歩法の稽古に使う竹の枝も持ってきている。ただし、昨日の稽古で先端が割れてしまったため、そこだけは新しい竹に取り替えてあった。
今回、山を下りてきた目的は至って単純だった。范有世から借りていた麻縄を返すためである。
船着き場に着くと、有世はひっくり返した竹舟の船縁に腰掛け、小刀を手に、舵の軸にこびりついた腐った苔や木屑を丹念に削り落としていた。
遠くに私の姿を見つけるなり、彼は小刀を置き、大きな声で尋ねてきた。
「おい、手の傷はもうすっかり治ったのか?」
「ほとんど治ったよ」
「ちょっと見せてみろ」
私は素直に手を差し出した。
有世は私の手首をつかみ、包帯の巻かれた手を裏返したり表返したりしながら観察する。やがて満足げに頷いた。
「劉花という娘、なかなか手当ての腕がいいな。化膿もしていないし、腫れもない」
「最初から大したことはないと言っただろう」
「お前はいつだって、何かあるたびに『大丈夫だ』の一言で済ませようとするんだからな」
私は思わず吹き出した。
それから懐に手を入れ、きれいに洗って乾かしておいた麻縄を取り出し、彼に差し出した。
「ほら、縄を返すよ」
有世はそれを受け取り、結び目を念入りに確かめてから、くるくると巻いて懐にしまった。
「そのまま持っていてもよかったのに。うちには同じような縄がまだいくらでもあるぞ」
「借りたものは返す。それが筋というものだ」
有世は一瞬だけこちらに視線を向けたが、それ以上は何も言わなかった。
しばらくして、彼は川の上流へと目を向け、考え込むような口調で話し始めた。
「この前の洪水のせいで、山の上の村々から家畜を探しに来ている者が大勢いる。お前は森の奥深くで暮らしているんだ。道中、そいつらと出くわすこともあるだろう。もしひどい怪我をした家畜を見つけても、勝手に村へ連れ帰ろうなどとは思うな。まずは飼い主に知らせてやるんだ。いいな?」
私は頷いて、その言葉を胸に刻んだ。
「分かった」
有世は首を伸ばし、雲一つない青空を見上げた。
「ここ数日の天気はどうにも落ち着かないな。東の山並みには黒雲が何度も湧き上がっている。また大雨になるかもしれん」
「気をつけて見ておくよ」
私はその場を立ち去ろうとした。だが、背を向けたところで、有世が不意に呼び止めた。
「バン」
「何?」
「洪水の日のことだが……俺はお前を責めてなんかいないぞ」
私は足を止め、振り返って彼を見た。
有世は、ゆっくりと流れていく川面に目を落としながら、言葉を選ぶように続けた。
「あの猪も、この大洪水も、もともとは自然がもたらした災いだ。お前がわざと引き起こしたわけじゃない。世の中で本当に恐ろしいのは、人が過ちを犯すことそのものじゃないんだ。自分の過ちに気づいた後も、己を省みようとせず、認めることさえ拒むことだ」
私はその場に立ち尽くし、黙って耳を傾けた。
有世は顔を上げ、私をまっすぐに見つめた。
「お前はあの災難の中で、自分の至らなさをきちんと思い知ったはずだ。ならば次からは、二度とあんな無茶をするな」
私は唇を引き結び、小さく頷いた。
「この言葉、心に刻んでおくよ」
私は洛水の船着き場を後にした。
有世はその場に立ったまま、私の小さな背中を静かに見送っていた。赤土の道が曲がる先へと姿が消えるまで、彼はずっと目を離さなかった。
彼の心の中で、林兆斌という少年は、いつまでも奇妙で矛盾に満ちた子供だった。
人里離れた深い森で、たった一人で暮らしている。自分の生い立ちや過去についてはほとんど語ろうとしない。そのくせ、普通の人間なら何としても避けようとする厄介事に、なぜか自分から足を踏み入れてしまう悪癖がある。
もしかすると、遠からぬ未来に、そのお節介な性分こそが、彼を幾千里もの果てへと続く旅路に導くことになるのかもしれない。
だが、今の有世にとっては、そんな先のことよりも、あの少年が自分から死地へ飛び込むような真似を少しでも減らしてくれることのほうが、よほど大切だった。
私はまっすぐ洞窟へ帰ることはしなかった。
代わりに北側の小川に沿って道を曲がり、雨上がりに生える干し茸を少しばかり採りながら、大洪水の前に川岸へ仕掛けておいた小さな罠を確かめていくことにした。
先日の鉄砲水は、この辺りの地形をすっかり変えてしまっていた。濁流に削られた土手には深い溝が刻まれ、山の斜面から転がり落ちてきた巨岩が、道の真ん中に居座っている場所もあった。
そのため、歩く速度はいつもよりずっと遅くならざるを得なかった。
小さなリスは私の肩の上で跳ね回り、ときおり首を伸ばしては、栗の実が落ちていないかと辺りを見回していた。
「なあ、この山道、昨日まではこんなでっかい岩なんてなかったよな?」
「上のほうから洪水に流されてきたんだろう」
「じゃあ、あの浅い小川のあたりには、流されてきて取り残された魚が山ほどいるはずだぞ!」
私は横目でそいつを見た。
「お前の頭の中には食べ物のことしかないのか?」
「食べなきゃ、どうやって生きるために働く力を蓄えるんだよ?」
私は声を上げて笑った。食い意地の張った小動物と議論する気など、さらさらなかった。
私たちは背の低い竹林をかき分け、その先にある高い岩壁へと近づいていった。岩壁の上からは、小さな沢が勢いよく流れ落ち、さらさらと音を立てていた。
もともと、ここは水量の乏しい痩せた沢にすぎなかった。だが、大洪水によって上流から大量の水が押し寄せた結果、折れた枝や泥土があちこちに堆積し、辺り一帯はひどく荒れ果てていた。
大きな岩を迂回しようとした、そのときだった。
前方から、聞き慣れない音が響いてきた。
低く、くぐもった唸り声。
そして、その直後に、人間の苛立った怒鳴り声が続いた。
「じっとしていろ! 暴れるなと言っているだろう!」
私はすぐさま足を止め、息を潜めて耳を澄ませた。
男の声はそれほど大きくはなかったが、苛立ちとどうしようもない焦燥がにじんでいた。その合間には、牛の蹄が岩や砂利を掻きむしる、ざりざりとした音が聞こえてくる。
私は腰を落とし、茂みをなす野生のサルスベリの陰を縫うようにして、慎重に近づいていった。
緩やかな斜面の下で、一頭のたくましい黒牛が、二本の古木の間に挟まれて身動きが取れなくなっていた。
首に結ばれた縄は、複雑に絡み合った木の根に幾重にも巻きついている。さらに、後ろ脚の一本が、折れた枝や薪のような木片の山に押し潰されていた。
牛が恐怖に駆られて暴れるたび、古木はわずかにずれ動く。そのたびに、沢へ崩れ落ちかねないほどの重い木々の山全体が、不穏に揺れていた。
そして、牛のすぐそばには、一人の少年が立っていた。
年の頃は十一、二歳といったところだろう。しかし、その体格は同年代の子供たちに比べて明らかに大きかった。肩幅は広く、腕には鍛え上げられたような筋肉が盛り上がっている。黒く豊かな髪は、粗末な布切れで後ろにまとめられていた。
身につけている衣服はぼろぼろで、乾いた泥にまみれている。背中には、肩紐の壊れた竹籠を背負っていた。
少年は、牛の脚を押さえつけている丸太を、持てる力のすべてを振り絞って持ち上げようとしていた。
歯を食いしばり、首筋から両腕にかけて無数の青筋を浮かべている。力を使い果たしかけた顔は、真っ赤に染まっていた。
丸太が、ほんのわずかに持ち上がる。
だが、次の瞬間には、ずしりと重い音を立てて元の位置へと落ちてしまった。
「この頑固な牛め……!」
少年は息を荒げながら、小さく悪態をついた。
そして足の位置を変え、腰を落として、再び力を込めた。
私はしばらくその様子を眺めていたが、やがて落ち着いた声で告げた。
「そんなふうに力任せに持ち上げようとしても、どうにもならないぞ!」
少年はびくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。鋭い眼差しが、こちらを睨みつける。
「誰だ!」
「僕だよ」
私はゆっくりと茂みから姿を現した。手には、いつもの竹の枝を持っている。
少年は私の頭から足元までをじろじろと眺め、警戒心を露わにした。
「お前は何者だ?」
「この森に住んでいる者さ」
「どこのどんな場所に住んでいるかなんて聞いていない」
「じゃあ、何を聞きたいんだ?」
少年は不快そうに眉をひそめた。どうやら、私の曖昧な返答が気に入らないらしい。
「俺のことに口を出すな。自分で何とかできる」
私は、牛の脚を押さえつけている丸太に目を向けた。
「このまま正面から何度も持ち上げようとしたら、牛の脚を助けるどころか、上に積み重なった木が崩れて、お前も牛もまとめて押し潰されるかもしれないぞ」
少年は歯を食いしばり、頑なな口調で言い返した。
「そんなことは分かっている!」
「分かっていて、まだ同じことを続けるのか?」
「じゃあ、お前には何かもっといい策でもあるのか?」
私は周囲の地形を注意深く見渡した。
左手には切り立った岩壁。右手には、自然に傾いた大きな岩がある。丸太は二つの太い木の根の間に挟まれており、根元の部分はまだ深く地面に食い込んでいた。
人の力だけで直接持ち上げようとすれば、丸太の重みはすべて牛の脚にかかってしまう。だが、適切な支点を設ければ、梃子の原理を利用して、それほど大きな筋力を使わずとも、丸太を少しずつ持ち上げることができるはずだ。
私は傾いた岩を指さした。
「丈夫な丸太を二本、探してきてくれ」
「何に使うんだ?」
「梃子にする」
「お前、それの使い方を知っているのか?」
「洞窟の入り口を塞いでいた大きな岩を動かすときに、この方法を使ったことがある」
少年はそれ以上何も尋ねず、すぐに身を翻した。素早く辺りを探し回り、手頃な太さの木を二本運んでくる。
私はしゃがみ込み、慎重に位置を測った。大きな木の根を支点に選び、一本目の丸太を大木の下に差し込む。続いて、もう一本を隙間に噛ませた。
「お前は反対側の端を押さえてくれ」
「分かった」
「合図をよく聞け。絶対に一度に力を入れるな。僕が三つ数えたら、初めて強く押し下げる。いいな?」
「分かった」
私は両手を丸太にぴたりと押し当てた。
「一……」
意識を木の根の支点へと集中させる。
「二……」
少年は腰を低く落とし、膝を曲げて力を込める態勢に入った。
「三!」
私たちは同時に全力を込め、丸太を下へ押し下げた。
大きな圧力を受けた木が、たわむようにしなった。
その瞬間、重い大木がゆっくりと持ち上がった。
牛の脚の下に、ようやく隙間が生まれる。
私はすぐさま声を張り上げた。
「そこで止めろ!」
少年は全身に力を込めたまま、ぴたりと動きを止めた。
私は素早く小さな薪を隙間に差し込み、丸太が落ちないよう固定した。それを確認してから、ようやく力を緩める合図を出す。
二度目の試みでは、大木をさらに高く持ち上げることに成功した。
牛は暴れながらも、押し潰されていた脚をどうにか引き抜くことができた。だが、首に巻きついた縄は、依然として木の根に絡まったままだった。
牛が恐怖に駆られ、激しく身をよじる。
その衝撃で、大木が大きく揺れた。
次の瞬間、斜面の泥土が大きく崩れ落ちてきた。
私は慌てて叫んだ。
「早く逃げろ!」
少年は縄から手を放し、横へ飛び退いた。二人がその場を離れた直後、上方から大量の土砂と岩石が雪崩のように押し寄せ、大木まで危険な勢いで斜面を滑り落ちていった。
轟音が響いた。
岩の破片がぶつかり合う音が、谷間全体を震わせる。
牛はどうにか命を取り留めていたが、首に絡みついた縄は、まだ木の根に固く引っかかったままだった。
少年は立ち上がるや否や、縄をつかもうと駆け寄った。
「引っ張るな!」
私の警告が飛ぶ。
だが、少年はすでに縄の結び目をつかみ、力任せに引きちぎろうとしていた。
縄がさらに強く締まる。
苦痛に襲われた牛は、激しく暴れ始めた。
その勢いに引きずられ、少年は足を取られて地面に仰向けに倒れ込んだ。
私はためらわずに駆け寄った。
小さな短刀を抜き、身を低くして、結び目の外側にある縄を切り始める。細い刃では、水を吸って硬くなった麻縄を断ち切るのに、かなりの時間がかかった。
ぷつり。
ついに縄が切れた。
牛はよろめきながら立ち上がった。だが、後ろ脚は震え、今にも崩れ落ちそうなほど頼りなかった。
少年は地面に手をつき、もがくように上半身を起こした。そして、しばらく呆然と牛を見つめた後、ようやく安堵の息を吐き出した。
「もう少しで……」
私は立ち上がり、両手についた泥を払い落とした。
「次から、牛を助けたいのなら、あんなふうに暴れているときに縄を引っ張るな。絶対にだ」
少年は顔を上げ、少し呆気に取られたように私を見つめた。
「分かった……」
「それ、さっきから何度も聞いているぞ」
「分かってる」
少年は一瞬、言葉に詰まった。
私は笑わなかったが、目元にはかすかな揶揄の色が浮かんでいた。
少年はしばらく私の顔を見つめていたが、次の瞬間、突然大声で笑い出した。
その笑い声は静まり返った谷間に響き渡り、つい先ほどまで辺りを覆っていた張り詰めた空気を、すっかり吹き払ってしまった。
牛は危機を脱したものの、後ろ脚にはかなり深い傷を負っていた。
少年は慎重に傷の具合を確かめた。どうにか自力で歩くことはできそうだが、長い距離を移動するのは難しいと判断したらしい。
彼は竹籠の中に手を入れ、乾燥させた薬草をひとつまみ取り出した。それを手のひらで揉み潰し、血のにじむ牛の傷口へ直接塗りつける。
私はその手つきを注意深く観察した。
「お前、薬草の扱いも知っているのか?」
「それほど詳しいわけじゃない」
「それは何の葉だ?」
「止血に使う薬草だ。母さんが小さい頃から教えてくれた」
私は身をかがめ、その葉に鼻を近づけて匂いを嗅いでみた。
わずかな苦みを含んだ薬草の香りがした。森でよく見かける有毒植物のような、鼻を刺す刺激臭はない。
「家から持ってきたのか?」
「ああ」
少年は古びた布を裂き、牛の傷口にきつく巻きつけて止血した。それから立ち上がり、服についた泥を払い落とした。
「俺の名は野象だ」
私は顔を上げて彼を見た。
「野象?」
「ああ。村の連中はみんな、そう呼んでいる」
「どうしてそんな変わった名前なんだ?」
野象は、二人で力を合わせて持ち上げたばかりの木々に目を向けてから答えた。
「人並み外れた力があるからだ。まだ小さかった頃、一人で大きな丸太を引きずったことがある。あれは、力自慢の大人が二人がかりで運ぼうとしても、なかなか持ち上がらなかった代物だった」
私は彼の頭から足元までを眺めた。
「それほどの怪力があるのに、さっきはどうして自分一人でこの丸太を持ち上げられなかったんだ?」
少年は眉を寄せ、不機嫌そうに言い返した。
「俺の力を馬鹿にしているのか?」
「いや。ただ不思議に思っただけだ」
「そ、それは……この丸太が重すぎたからに決まっているだろう!」
私は小さく頷いた。
「なら、これからは力任せに押し通そうとするな。力だけに頼るのではなく、知恵と支点の使い方を覚えることも大切だ」
野象はすぐには答えなかった。
彼は黙って、丸太の下に置かれた二本の木を見つめた。それから、先ほど支点として利用した岩へと視線を移す。
「さっきの支点の使い方……あんな方法を、よくすぐに思いついたな」
「洞窟の入り口を塞いでいた岩を動かすために使ったことがあるんだ」
「お前、本当に森の奥で一人暮らしをしているのか?」
「うん」
野象は私の継ぎ接ぎだらけの衣服に目をやり、それから肩の上にちょこんと座っている小さなリスへと視線を移した。
「このちゃっかりした小動物まで、お前と一緒に暮らしているのか?」
自分のことを話題にされた途端、リスはぴんと両耳を立て、地面へひょいと飛び降りた。
「おい! 俺にはちゃんとした王族らしい名前があるんだぞ!」
野象はびくりと飛び上がり、驚いて半歩後ずさった。
彼は目を丸くしてリスを凝視し、それから再び私の顔を見上げた。
私は平然と答えた。
「こいつはもともとおしゃべりなんだ。適当に聞き流しておけばいいよ」
野象はしばらくリスを眺めていたが、やがて豪快に笑い出した。
「この森には、本当に妙なことが多すぎるな!」
彼は、私が動物の言葉を理解できるという奇妙な能力について、それ以上問い詰めようとはしなかった。単なる他愛もない冗談だと思ったのかもしれない。あるいは、人間はこの世に存在するあらゆる秘密を、何もかも突き止める必要などないと考えたのだろう。
私は鼻息を荒くしている牛に目を向けた。
「その牛はどこへ連れて帰るつもりなんだ?」
「南の村だ。俺の家は、あの丘の向こう側にある」
「その脚の具合で、ちゃんと歩けるのか?」
「ゆっくり連れて帰るさ」
私は前方に続く、険しい坂道を見やった。
「上の土砂崩れが起きた場所は通らないほうがいい。あそこはまだ泥土が十分に固まっていない。いつ再び崩れてもおかしくないぞ」
野象は忠告を受け止めるように頷いた。
彼は背負っていた竹籠を下ろし、新しい縄を取り出して牛の首に結びつけた。
「助けてくれてありがとう」
「気にしなくていいよ」
野象は私を見つめた。何かまだ言いたいことがあるようだったが、結局、口にしたのは別の問いだった。
「お前の名前は?」
「林兆斌」
野象はその名を、確かめるように小さく繰り返した。
「林兆斌……」
そして、節くれ立った大きな手を、私の目の前に差し出した。重労働によって硬くなった、無骨な手だった。
私はその手をしばらく見つめてから、自分の手を伸ばして握り返した。
握手は、ほんの一瞬で終わった。
だが、手を離したとき、野象の視線は私の小さな両手に留まっていた。
「お前、武芸の稽古をしているんだろう?」
「まだ始めたばかりだけどね」
「どこかの師匠について、修行したことはあるのか?」
「ないよ」
野象は私の腰に差してある竹の枝に目を向けた。
「だったら、もう少し技を教えてやろうか?」
私は意外そうに顔を上げた。
「お前も武芸を使えるのか?」
「いや、剣術なんてまるで知らん。ただ、昔、親父から組み討ちの技をいくつかと、全身の力をうまく使う方法を教わったことがある。親父はよく言っていた。どれほど腕力に恵まれていようと、しっかり足を据える術を知らなければ、ただ動き回るだけの木偶にすぎないとな」
私は思わず吹き出した。
「お前の父親の教え、どこかで聞いたことがあるな。以前、旅の途中で出会った人が言っていたことと、そっくりだ」
「誰だ、それは?」
「昔、人生の中で出会った人さ」
野象はそれ以上、深く追及しなかった。
彼は牛の尻を軽く叩き、歩き出すよう促した。
谷間を後にしようと背を向けかけたところで、彼はふと思い出したように振り返り、声を張り上げた。
「次に会う機会があったら、親父から教わった組み討ちの技をいくつか教えてやるよ!」
私は頷いた。
「いいよ」
野象は微笑み、牛の縄を引きながら、谷の向こうへと歩き去っていった。
私はそのがっしりとした背中を、周囲の生い茂る木々の向こうに消えてしまうまで、じっと見送っていた。
野象が本当はどのような家柄の出なのか、家族がどんな仕事をしているのか、あるいは、あれほど並外れた怪力を持つ少年が、なぜ一人で牛を連れて山に入っていたのか。私には何一つ分からなかった。
それでも、あの大きな手の感触だけは、はっきりと心に刻まれていた。
あれほど重い丸太を持ち上げられるというのに、絡まった縄をほどく術はまるで知らない少年。
一方の私は、体も小さく、腕力にも恵まれていない。だが、自分の力では到底持ち上げられないものを動かすための鍵が、支点の使い方にあることを見つけ出した。
人は誰しも、生まれながらに何らかの違いを持っている。
だが、それぞれの違いを理解し、互いに力を合わせることができれば、一人では決して成し遂げられないことさえ、可能になるのだ。
私はすぐに洞窟へ戻ることはしなかった。
野象が去った後も、小川に沿って歩き続け、北側の山腹へ回り込む道を探した。洪水によって森の景観はすっかり変わり、古くからあった山道の中には、永遠に土砂の下へ埋もれてしまったものもある。だがその一方で、これまで大樹の根に覆い隠されていた空き地が、思いがけず姿を現している場所もあった。
しばらく進んだところで、私は偶然、岩壁の麓に斜めに横たわる、平らで大きな岩板を見つけた。
その滑らかな表面には、古びた線刻の模様が刻まれていた。
私はしゃがみ込み、手で表面を覆う苔を丁寧に払い落とした。
それは、長い年月の風雨にさらされ、すっかり色褪せた石刻だった。
大きな蓮華座の上に、一人の道士が結跏趺坐している。両手は腹の前で印を結び、その頭上には、緩やかにうねる線で描かれた光輪が浮かんでいた。
像の下には、いくつかの古文字が刻まれている。
しかし、私にはその意味を読み解くことができなかった。
私はしばらく黙って石刻を見つめていた。そして、そっと指先を伸ばし、冷たい石の表面に刻まれた線をなぞった。
その瞬間、頭の中に、見知らぬ世界の断片的な記憶が不意によみがえった。
真っ白な廊下。遠くまで響き渡る足音。古びた書類の束。そして、永遠に去ってしまい、もう二度と引き留めることのできない人々の後ろ姿。
私は思わず指を引っ込めた。
なぜ、この石刻を目にすると、これほど不思議な安らぎを覚えるのだろう。
おそらく、石の中の人物が静かに瞑想する姿が、幼い頃に夢の中で体験した、あの完全な静寂を思い起こさせたからにすぎないのかもしれない。
石板のすぐ傍らには、砕けた陶器の破片が一つ落ちていた。その表面には、かすかな文字の跡が残っている。
私はそれを拾い上げ、付着した土や砂を払い落とした。
何が書かれているのかは分からなかったが、それでも私は慎重にその破片を懐へしまった。
いつの日か、運よくこれを読める人に出会えるかもしれない。
私はすっと立ち上がり、前方に続く山道へと目を向けた。
この広大な原生林には、凶暴な獣や毒草、そして黒い金属鉱石にまつわる不気味な秘密が潜んでいるだけではない。
遠い昔の人々が残した無数の痕跡もまた、深く眠っているのだ。朽ち果てた古い祠、崩れ落ちた廃寺、忘れ去られた山道、そして後世に語り継がれることのなかった数々の物語。
私は、自分が家と呼んでいるこの森が、実のところ、幾世代もの人々が訪れては去っていく姿を見届けてきた場所なのだと、ぼんやり理解し始めていた。
そして私は、そのような場所で生き延びることができた、ただの幸運な子供にすぎない。
洞窟の入り口に戻り着いた頃には、太陽はすでに西へと傾き、夕焼けが空の一角を鮮やかな朱色に染め上げていた。
私は陶器の破片を、謝重山の形見である鉄の腕輪を置いている傍らの石板の上にそっと置いた。
その後、自分の手の傷を確かめ、竹の枝を手に取って、空き地へ出て歩法の稽古を再開した。
今日、剣の型を練習するつもりはなかった。
重い物を持ち上げる際に、身体の重心をどう移動させるか。それを重点的に練習することにした。前後に足を運ぶ動作に、腰を低く落とす姿勢を組み合わせる。
それらは、許情詩の見せる華麗な剣技とはまるで異なるものだった。しかし、身体に大きな負荷がかかったとき、いかにして均衡を保ち、重力を適切に分散させるかについて、私に多くのことを教えてくれた。
ふと、野象のことを思い出した。
再び会う機会があれば、父親から伝授されたという組み討ちの技について尋ねてみてもいいかもしれない。
あるいは、私たちにはもう二度と、再会する機会など訪れないのかもしれない。
果てしなく広がるこの大自然の中では、ほんの短い出会いが、握手一つと、慌ただしい挨拶、そして実現するかどうかも分からない約束だけで終わってしまうこともある。
だが、私は未来を急いで推し量ろうとはしなかった。
ただ、今日一日で、また一つ大切な教訓を得ることができた。そのことだけを心に留めておいた。
真の強さとは、決して単に重い物を持ち上げられる能力ではない。
その物体にどこから力がかかっているのか、弱点はどこにあるのか、そして、すべてが崩れ落ちてしまう前に、いつ手を止めるべきなのか。それを深く理解することこそが、本当の強さなのだ。
私は竹の枝を置き、額に浮かんだ汗を手で拭った。
岩の上で怠惰に丸くなっていた小さなリスが、不意に尋ねてきた。
「なあ、お前、さっきの大男のことをずいぶん気に入ったみたいだな?」
「野象のこと?」
「そうだよ。あいつとは、いつもよりずいぶん長く話していたじゃないか」
「お互いに、たまたま助け合っただけだよ」
「じゃあ、またあいつに会いたいと思っているのか?」
私は顔を上げ、森の奥から静かに迫ってくる夜の闇を見つめた。
「どうだろうね」
リスはそれ以上、問い返してこなかった。
しばらくすると、ひょいと地面に飛び降り、私の古着の上で体を丸めて眠り始めた。
私は洞窟の入り口にぼんやりと座り込み、老いた松の木々の向こうへ、最後の夕日の光がゆっくりと消えていくのを眺めていた。
そのとき、私の脳裏には、これまで人生の中を通り過ぎていった人々の姿が、次々と鮮明によみがえっていた。
現実的で、揺るぎない信念を持つ有世。
慈悲深い心を持ち、黙って人を救う劉花。
鋭い剣と、誇り高い気性を持つ許情詩。
過去の重荷と後悔を背負った謝重山。
そして今日出会った、逞しい力と真っ直ぐな心を持つ野象。
彼らは皆、それぞれまったく異なる道筋を通って、私の人生に足を踏み入れた。
ある者は、縄の結び方を教えてくれた。
ある者は、剣の初歩を一つ授けてくれた。
ある者は、善意にも限界があることを思い知らせてくれた。
またある者は、いまだ解き明かされていない、驚くべき秘密を私の心に残していった。
そして今日、野象は素朴な握手と、何の飾り気もない約束を一つ、私に残していった。
だが、その頃の林兆斌には、思いも寄らないことだった。
遠く離れた地平の彼方で、この子供たちの運命が、いつの日か、想像を絶するほど過酷な道の上で交わることになるなどとは。
そこには、もはや青々とした草原も、澄み切った小川も存在しない。
広大な空を埋め尽くす軍旗、刀剣と槍、そして砂塵を巻き上げて大地を踏み鳴らす軍馬の蹄音だけが、彼らを待ち受けている。
その日が訪れたとき、彼らはもう、老松の木陰で一頭の黒牛を助けるために力を合わせることはないだろう。
彼らは血に染まった戦場のただ中に立たされ、一つの判断の誤りや、ほんの一瞬の躊躇が、万を超える人々の命を奪いかねない状況に直面することになる。
だが、それは何年も先の話だ。
今の林兆斌は、結局のところ、まだ十歳の子供にすぎない。
私は冷たい洞窟の入り口に横になり、小さな鉄の腕輪を枕元に置いてから、ゆっくりと目を閉じた。
外では、山風が相変わらず竹林の間を吹き抜けていた。
深い谷底から、孤独な夜鳥の鳴き声が一つ、かすかに響いてくる。
そして、古松の大樹が枝を広げるその下で、二人の子供が交わした約束は、出会ったときのまま、少しも色褪せることなく残っていた。
――次に会ったとき、親父から教わった組み討ちを見せてやるよ。
私には、その「次」がいつ訪れるのか、まだ分からなかった。
それでも、その約束だけは、確かに心の奥深くへと刻み込んでいた。
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