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Episode 70

 果てしない空の彼方、幾重にも連なる雲から、ただ静かに降り注ぐだけの雨もある。


 だが、激しい暴風や濁流のような大災害は、往々にして人目につかぬ上流の片隅から始まるものだ。下流に暮らす者たちが、どれほど首を伸ばし、待ちわびるように上流を見渡したところで、目前に迫る破滅の兆しなど、決して目にすることはできない。


 その朝、東方の山々を覆う空は、いつもと変わらぬ澄み切った青色をたたえ、まるで水面のように穏やかだった。


 朝の柔らかな陽光が、鬱蒼と茂る松の葉の隙間を縫って差し込み、青々と苔むした岩肌を照らしている。鳥たちは枝から枝へと飛び移りながら、楽しげにさえずり、小さな野生動物たちは、さらさらと流れる小川のほとりで餌を探していた。


 ラム・チエウ・バンは、まだ夜明け前の暗いうちから目を覚ましていた。古松の根元で歩法と剣の基本動作を根気よく繰り返し、ひと通りの稽古を終えると、ようやく粗末な布袋を肩に掛け、のんびりと山を下り始めた。


 幾度となく汗を流し、全身に痣ができるほど転んできた甲斐もあり、今では三歩進んで二歩退くという歩法を、ようやく身につけていた。方向転換の際にも、以前のように自分の足につまずいてひっくり返ることはなくなった。手にした剣の動きには、まだ明確な形が備わっていないものの、少なくとも足運びだけは、稽古を始めた頃のようなぎこちなさや硬さを失いつつあった。


 今日の目的は、ラク・トゥイの船着き場まで足を運び、当面の食糧となる白米を少しばかり手に入れることだった。


 小さな布袋の中には、タ・チョン・ソンから記念にもらった鉄の腕輪が大切にしまわれていた。そのほか、森で採った干し果実と、老鍛冶師が残してくれたわずかな金銭も入っている。


 もちろん、その金を無駄遣いするつもりはなかった。


 人里離れた深山幽谷で、たった一人、野生の暮らしを続ける身だ。たとえ金銀財宝を山ほど抱えていたところで、使いどころを知らなければ、命をつなぐ一息にさえ換えられない。


 そのとき、賢い小さなリスがひょいと僕の肩に飛び乗った。前足で、先ほど拾ったばかりの栗をしっかり抱え込んでいる。


「おい、バン。今日は市場まで連れていってくれるって約束したんだ。森の酸っぱい木の実なんかより、ずっとうまいものを買ってくれるんだろうな?」


「何が食べたいんだ?」


「甘いお菓子!」


「どんなお菓子だよ。注文が多いな」


「ふわふわで、いい匂いがして、かじったら中からおいしい餡がたっぷり出てくるやつ!」


 僕は横目でリスを鋭く睨んだ。


「いつから森に住むリスが、そんな手の込んだ餡入り菓子を欲しがるようになったんだ?」


「枝の間を飛び回ってるスズメたちが、こっそり教えてくれたんだよ!」


「スズメだって、肉餡だの砂糖餡だのが入った菓子を食べるのか?」


「ふん、あいつらは食べないさ。でも、人間の家の軒先に止まったとき、家の中からすごくいい匂いが漂ってきたんだって!」


 僕は思わず吹き出した。


「わかった、わかった。あとで小銭が余っていたら、一つ買ってやるよ」


 リスは大いに満足したらしく、ふさふさとした長い尻尾を僕の首に巻きつけた。まるで温かな毛糸のマフラーのようだった。


 僕たちは、漁村へと続く見慣れた山道を、のんびりと歩いていった。


 下流へ近づくにつれて、人々の暮らしの音が次第にはっきりと聞こえてくる。ラク・トゥイの船着き場の近くまで来ると、目の前には、川岸に沿って所狭しと停泊する小さな竹舟の群れが広がっていた。荷役人足たちは互いに掛け声を交わしながら、荷物を担いで忙しなく行き来している。川沿いに建ち並ぶ漁師小屋からは、白い炊煙が細い筋となって立ち上り、ゆっくりと空へ溶け込んでいった。


 しかし、今日の船着き場には、いつもとは明らかに異なる様子があった。


 普段よりも騒がしく、慌ただしい。それだけではない。人々の間には、どこか落ち着かない、不穏な空気が漂っていた。


 そして、次の瞬間。


 僕の目に飛び込んできた、ほんの些細な異変が足を止めさせた。


 今日の川の水は、異常なほど濁っていたのだ。


 かつては澄んだ青緑色をしていた水面が、今では泥を溶かし込んだような、濃い黄灰色に変わっている。無数の枯れ葉が大きな塊となって流れ、その間には、流されてきた折れ枝がいくつも入り交じっていた。


 普段なら船着き場の脇を穏やかに流れているはずの川が、今日は荒々しく渦巻いていた。大きな水の渦がいくつも生まれ、船着き場を支える木杭に激しくぶつかっている。そのたびに、ゴボゴボという低く不気味な音が水面の下から響いてきた。


 僕はその場に立ち尽くした。


 鋭い眼差しを上げ、遥か彼方の上流を見据える。


 地平線の向こう、そびえ立つ二つの山脈が交わるあたりに、鉛色の重たい雨雲が、木々の梢に届きそうなほど低く垂れ込めていた。


 雲そのものは、それほど大きくない。だが、川が山腹を抱くように蛇行し始める、あの危険な曲がり角の真上に、まるで蓋をするかのように居座っている。


 僕は膝を折り、素手でそっと川面に触れた。


 ひどく冷たい。


 水に呑み込まれていく枯れ葉を目で追い、それから、木橋の橋脚のすぐそばに引っかかっている小枝へと視線を移した。


 その枝は激流に押しつけられ、橋脚に強く固定されたような状態になっていた。しかも、激しい水圧にさらされ、絶え間なく大きく震えている。


「妙だな……」


 僕が小さくつぶやくと、肩の上のリスが、ぴくりと頭を持ち上げた。首を傾げ、不思議そうに尋ねてくる。


「何が妙なんだ? そんな石みたいに突っ立って」


「昨夜、山の上では、激しい雨なんてまったく降っていなかった」


「それがどうしたんだよ? 雨が降らなくたって、川の水位が上がったり下がったりすることくらいあるだろ」


 僕はもう、それ以上言い返さなかった。


 渦巻く川の流れを、さらに数秒ほど凝視したあと、船着き場へ向かって一気に駆け出した。


 ファム・フウ・テーは、大きな輸送船の舷側にしっかりと立ち、船頭の老人を手伝いながら、係留用の綱を結び直していた。


 遠くから駆け寄ってくる僕の姿を見つけると、彼は手近にあった小さな野生のリンゴを一つ、気軽に投げてよこした。


「ちょうどいいところに来たな、バン! 今日は南から商船が川を遡って荷物を運んできてるんだ。俺は干し魚を少し買い込んでおこうと思っていたところさ」


 僕は飛んできたリンゴを片手で受け止めたものの、かじる気にはまったくなれなかった。


「フウ・テー、みんなに伝えてくれ。今すぐ船を川の中央に出すのをやめさせるんだ!」


 フウ・テーは勢いよく振り返り、目を丸くした。


「何だって? どうして止めなきゃならない?」


「川の水位が異常な速さで上がっている」


 彼は顔を伏せて濁った水面を見下ろし、それから僕に視線を戻した。


「そんなことなら俺も知ってるさ。ここ数日、水位はずっと不安定だっただろう」


「ただ水位が上がっているだけじゃない。上流から洪水が押し寄せてくる!」


 フウ・テーは疑わしげに身を乗り出し、次々と流れていく折れ枝を注意深く見つめた。


「何か見つけたのか?」


 僕は遥か向こう、山裾にある川の曲がり角を指さした。


「水の色をよく見てくれ! 昨夜、山では激しい雨なんて降っていない。それなのに、一晩で川がこんなに泥だらけになり、無数の折れ枝まで流れてきているんだ。上流で大規模な土砂崩れが起きたか、あるいは大きな支流のどこかが土砂で塞がれ、その後、堰き止めていた土砂が突然崩れて、水が一気に流れ出した可能性が高い!」


 フウ・テーは、すぐには反論しなかった。


 何しろ彼は、生まれたときからこの川に寄り添って生きてきた人間だ。水辺で暮らす者としての経験は十分にあり、川の異変を見分けるだけの知識も持っている。


 ただ、これまで季節ごとに起こる増水といえば、せいぜい人々の往来を少しばかり妨げる程度だった。これほど突然、人の命を脅かす災害に変わるなど、彼も考えたことがなかったのだろう。


「もしかしたら、上流で何かが詰まって、いつもとは違う流れになっているだけかもしれないだろ?」


 フウ・テーは声を落として推測した。


「僕だって、絶対にそうだと断言できるわけじゃない。でも、もし僕の予想が当たっていたら、この洪水は、僕たちが準備を整えるまで待ってはくれない!」


 フウ・テーは、暗い雲の垂れ込める上流へと目を向けた。


 ほんの一呼吸ほど迷ったあと、彼は係留用の綱を放し、船から船着き場へ飛び降りた。そして、大股で歩き出し、船着き場の責任者を探しに向かった。


 船着き場の責任者は、ドー・ヴァン・カンという男だった。


 背が高く、がっしりとした体格をしており、日焼けした肌に、鐘を打ち鳴らしたような大きな声を持つ中年男である。


 そのとき彼は、大きな筏の上で積み荷の点検を指揮していた。慌てて駆け寄ってきたフウ・テーから事情を聞くなり、眉間に皺を寄せ、大声で怒鳴りつけた。


「船を止めるだと? 馬鹿を言うな! いったい何を根拠にそんなことを言うんだ!」


 フウ・テーは慌てて川面を指さした。


「カンさん、川の色を見てください! 泥でひどく濁っているうえに、あれほど大量の流木やゴミが流れているんですよ! 上流で何か大変なことが起きているに決まっています!」


 ドー・ヴァン・カンは川の流れをちらりと眺めただけで、さほど関心も示さず、手を振って何度も首を横に振った。


「俺はこのラク・トゥイの船着き場で、もう二十年以上も商売をしているんだ。満ち潮も引き潮も、増水も何度も見てきた。船の錨を下ろして、綱をあと何重か巻きつけておけば済む話だろう。何をそんなに大騒ぎする必要がある?」


 僕はそばで様子をうかがっていたが、とうとう黙っていられず、口を挟んだ。


「皆さん、できるだけ早く船を全部引き上げて、老人や子供たちも連れて高台へ避難させたほうがいいです!」


 ドー・ヴァン・カンは勢いよく振り返り、僕を睨みつけた。


「お前は、あの野生児か?」


 僕はすぐに、その険しい顔に見覚えがあることを思い出した。


 数日前、狂暴化したイノシシが小さな集落に突っ込んできたとき、出入り口にどっしりと陣取っていた、あの船着き場の責任者だ。


 ドー・ヴァン・カンは僕の腰に差した竹の枝に目をやると、いっそう軽蔑するような、不快そうな表情を浮かべた。


「お前、森の奥で勝手に暮らしているあのガキだろう?」


「はい、そうです」


「この前は、あの馬鹿なイノシシのせいで村中を大騒ぎにさせたくせに、今日は今度は船着き場の管理方法まで、ここにいる大人たちに説教しに来たってわけか?」


 それを聞いたフウ・テーが、すかさず一歩前へ出て僕をかばった。


「カンさん、今回ばかりは冗談じゃありません! どうか慎重に判断してください……」


 ドー・ヴァン・カンは目を剥き、彼の言葉を遮った。


「お前がこいつと仲良くしているのは知っている。だが、こんなガキの言いなりになって、自分の仕事まで忘れるんじゃない! 今回の商船は、明日の夜明け前までに荷を全部届けなきゃならんのだ。こんな馬鹿げた話を聞いていたら、ここの商売は全員おしまいだぞ!」


 僕は、彼の横柄な態度に腹を立てることはなかった。


 ただ黙ったまま、刻一刻と水位を増していく川を見つめていた。


「洪水を信じてもらえないのなら、せめて老人と子供たちだけでも、今すぐ高台へ避難させてください。お願いできませんか?」


 ドー・ヴァン・カンは胸の前で腕を組み、傲慢に顎を突き上げた。


「俺の許可なしに、勝手に持ち場を離れることは絶対に許さん!」


 フウ・テーはまだ食い下がろうとしたが、僕は慌てて彼の服の裾をそっと引いた。


「もういい。やめておこう」


「でも……」


「ああいう頑固な人間と、いくら理屈を並べたところで無駄だ」


 僕は船着き場の岸辺に密集している船や筏を見渡した。


「僕が一人で上流まで行って、いったい何が起きているのか確かめてくる」


 そう言い終えると、僕は身を翻し、川岸に沿って上流へ続く小道を全速力で駆け出した。


 フウ・テーは、遠ざかっていく僕の背中を呆然と見送っていた。やがて、勢いよく振り返って、濁流と化しつつある川を見つめる。二呼吸ほど考え込んだあと、彼は船着き場の責任者に向かって、はっきりと言い放った。


「カンさんは、その荷物でも守っていてください! 俺は先に、小舟を何隻か岸へ引き上げてきます!」


 ドー・ヴァン・カンは止めようとはしなかった。ただ鼻を鳴らし、言うことを聞かない二人の子供を、苛立たしげに睨みつけるだけだった。


 だが、あの横柄な責任者は、まだ知る由もなかった。


 ほんの半刻も経たないうちに、自分の両目を見開き、なぜ森育ちのあの子供が、まるで神の啓示を受けたかのように災害を言い当てたのかと、恐怖に震えることになるのを。


 僕は川の流れに逆らうように、上流へ向かって走り続けた。


 山道はでこぼこしていたものの、それほど歩きにくいわけではない。ただ、川の水が岸を越えてあふれ出していたため、ぬかるんだ水たまりを何度も越えなければならなかった。


 茨の茂みには、流されてきた折れ枝がいくつも引っかかっている。さらに、山肌から転がり落ちてきたばかりと思われる大きな岩が、道を塞いでいた。


 そのどれもが、上流で大規模な土砂崩れが起きたことを、はっきりと物語っていた。


 しばらくして、僕は道が大きく曲がる危険な場所で立ち止まり、荒い息を整えた。


 そこは、高くそびえる二つの岩壁が迫り合い、川幅を狭い喉元のように絞り込んでいる場所だった。


 そのため、ここでは下流と比べものにならないほど流れが速い。


 川面には、黒々とした巨大な渦がいくつも浮かび上がっていた。無数の木の葉を呑み込んでは、再び空中へと弾き飛ばしている。腐りかけた古木が横向きに流されてきたかと思うと、激流に押しつけられ、岩壁に激突した。轟音とともに、幹は大きく二つに折れた。


 僕は勢いよく顔を上げ、山肌を見渡した。


 山の斜面の一角が、丸ごと崩れ落ちていた。


 そこには、赤土がむき出しになった巨大な傷跡が広がっている。むき出しになった大木の根が、切り立った崖から無数に垂れ下がり、崩れた土砂は今なお泥となって、ぼたぼたと流れ落ちていた。


 そして、その崩落跡のすぐ奥では、濁った小川が岩の裂け目を押し破り、轟々と音を立てながら下方へ流れ落ちていた。


 すべての謎が解けた。


 どうやら昨夜の雨によって、山中を流れる大きな支流の一部が土砂崩れに巻き込まれ、土砂や岩によって完全に塞がれてしまったらしい。その結果、上流には巨大な天然の湖ができあがった。


 しかし、そこに蓄積された水は、刻一刻と水位を増していった。そして、ついに水圧が土砂の壁の限界を超えたとき、天然の堤防は夜のうちに決壊したのだ。


 その瞬間、数万トンもの泥水と木々が一気に押し流され、下流の本流へと流れ込んだのである。


 この種の洪水は、下流で雨が降る必要などまったくない。


 船着き場で暮らす人々が、今日も何事もない晴天だと信じ込んでいる、その瞬間にさえ、突然頭上から襲いかかってくることがあるのだ。


 僕は再び膝を折り、大きな落ち葉を一枚拾い上げ、激流へ投げ込んだ。


 葉が水面に触れたと思った次の瞬間、わずか半丈も流れないうちに激しい渦へと呑み込まれ、蛇行する川の曲がり角の向こうへ、跡形もなく消えてしまった。


 僕は遠くに見えるラク・トゥイの船着き場へと顔を向けた。


 もし水位があと数寸でも上がれば、岸辺に係留されている船や筏の綱は、間違いなく引きちぎられるだろう。そして、船着き場に集まって商売をしている人々もまた、容赦のない濁流に呑み込まれ、川底へ引きずり込まれる危険があった。


 これ以上、一瞬たりとも無駄にはできない。


 僕はすぐさま身を翻し、来た道を全速力で駆け戻ろうとした。


 だが、数歩走り出した、そのときだった。


 耳をつんざくような、異様で恐ろしい音が突然響き渡った。


 ゴォン……ゴォン……ゴォン……。


 それは上流の奥深くから押し寄せてくる音だった。


 初めは夏の雷鳴のようにも聞こえたが、途切れることなく長く続いている。まるで、何千もの巨大な岩塊が、一斉に山頂から転げ落ちてくるかのようだった。


 僕はぎょっとして振り返った。


 遥か彼方、あの川の曲がり角の向こうから、巨大な茶褐色の水の壁が、轟音を上げながら押し寄せてきていた。


 川面は恐ろしい勢いで盛り上がり、岸辺の雑草も、砂州も、わずか数度の呼吸を交わすほどの間に、跡形もなく水の下へと沈んでいった。


 もはや、引き返す余地はなかった。


 僕は両脚に残された力をすべて振り絞り、狂ったようにラク・トゥイの船着き場へ向かって走り出した。


「洪水だ! 逃げろ!」


 静まり返っていた森の空気を、僕の叫び声が切り裂いた。


「洪水が来るぞ! みんな、急いで高台へ逃げるんだ!」


 息も絶え絶えになりながら、僕がラク・トゥイの船着き場へ戻ってきたとき、フウ・テーはちょうど仲間たちに声をかけ、小さな竹舟を二隻、ようやく高台まで引き上げたところだった。


 僕のかすれた叫び声を聞くと、フウ・テーは驚いて振り返り、上流へと目を向けた。


 直後、天地を揺るがすような、低く重い轟音が響き渡った。


 そして次の瞬間、川面が突如として垂直に立ち上がった。


 濁流の巨大な壁が岸の岩場を乗り越え、無数の折れ枝、泥土、そして何丈もの長さがある大木を巻き込みながら押し寄せてきた。


 岸辺に係留されていた船や筏は、あまりの水圧に激しく揺さぶられ、まるで木材の一片一片が引き剥がされるかのように軋んでいた。薪を積んだ筏を繋ぎ止めていた麻縄は、今にも千切れそうなほど張り詰め、耳障りな悲鳴のような音を立てている。


 その凄まじい光景を目の当たりにしたドー・ヴァン・カンは、顔面から血の気が引き、丸々とした顔を一瞬にして蒼白にした。


「係留綱を切れ! 住民を全員、高台へ避難させろ! 急げ、早くしろ!」


 船着き場は、たちまち極度の混乱に陥った。


 子供を抱え、悲鳴を上げながら水辺から逃げ出す者。絶望した表情で刃物を振るい、係留綱を切断しようとする者。慌てふためきながら、小舟を岸へ押し上げようとする者。


 人々の悲痛な叫び声、朽ちかけた木材が激突して砕ける音、そして荒れ狂う濁流の咆哮が入り交じり、まるで死の交響曲を奏でているかのようだった。


 僕はフウ・テーのもとへ駆け寄った。


「もう荷物のことなんか気にするな! 流されそうになっている大きな筏の綱を切るんだ!」


 フウ・テーは何度も大きくうなずき、もはや言い返すこともなく、鋭い刃物を手に薪を積んだ筏へ駆け寄った。


 係留綱はすでに限界まで張り詰めていた。このまま放置すれば、巨大な筏が激流に引きずられ、岸の杭ごと引き抜かれた末に、船着き場そのものを押し潰しかねない。


 彼は汗を拭う間もなく、刃を振り下ろして綱を断ち切った。そして、大声で叫んだ。


「みんな、岸から離れろ! 水辺に近づくな!」


 僕は素早く視線を巡らせ、川沿いに並ぶ倉庫群へ目を向けた。


 一隻の小さな竹舟が、激しい波に煽られて岸壁に叩きつけられていた。船の上には、まだ二人の男が取り残されている。


 一人はどうにか身を投げ出し、岸辺の土の上にしがみつくことができた。だが、もう一人は船縁と木杭の間に足を挟まれ、身動きが取れなくなっていた。


 僕は迷うことなく、その場へ駆け出した。


 辺りを見回して使えそうな綱を探し出すと、力いっぱい男に向かって投げつけた。


「この綱の端をしっかり掴め!」


 男は慌てて綱を掴んだ。


 僕は、自分のような痩せた十歳の子供が、一人の大人を激流の中から単独で引き上げられるはずがないと理解していた。


 だからこそ、綱を近くにあった松の太い幹へ固く巻きつけ、斜めに引っ張ることで、木を支点として利用したのだ。


 僕の動きを見たフウ・テーも、すぐに意図を察したらしい。彼は迷わず駆け寄り、僕に加勢した。

 二人の子供は力を合わせ、全身の力を振り絞って綱を引いた。


 男が船縁からどうにか引き剥がされた、その直後だった。小さな竹舟は濁流に激しく叩きつけられ、ひっくり返ったかと思うと、木杭に正面から激突した。次の瞬間、船体は無数の木片となって砕け散り、そのまま濁流の中へと呑み込まれていった。


 僕は数歩後ずさりし、途切れ途切れの荒い息をついた。


 しかし、息を整える間もなく、背後から幼い子供の悲痛な泣き声が響いてきた。


 六歳ほどの少女が、倉庫の近くにある石段の上で、恐怖に震えながら立ち尽くしていた。履いているスカートの裾が、魚を入れた竹籠に絡まり、身動きが取れなくなっている。その母親は、娘を助けようと必死に水の中へ踏み込んだものの、押し寄せた波に足をすくわれ、泥の中へ転倒してしまった。


 ちょうどそのとき、成人の背丈ほどもある巨大な流木が、凄まじい勢いで二人のほうへ押し流されてきた。


 考える暇などなかった。


 僕は一目散に駆け出した。


「早く娘さんを抱き上げて!」


 母親は慌てて立ち上がろうとしたが、すでに腰の高さまで水が迫っており、足を持ち上げることさえままならなかった。


 僕は少女のもとへ駆け寄ると、小さな両手で竹籠を力いっぱい引っ張り、無理やり取り外した。そして少女を抱き上げ、より高い石段の上へと運んだ。


 母親は娘を抱きしめ、泣き叫びながら、山へ避難する人々の後を追って必死に走り去っていった。


 僕は二人の背中を見届けると、慌てて再び振り返った。


 水位はすでに倉庫の物資置き場の石段まで達していた。


 入口付近に高く積まれていた米袋は、次々と水を吸い込み、ずっしりと重くなり始めている。一人の作業員がそれを運び出そうと飛び込んだが、足を滑らせ、濁流の中へ転倒してしまった。


 その姿を見つけたフウ・テーが、すぐさま駆け寄って男を助け起こした。


「もう米を運び出そうとするな! そんなものは放っておけ!」


 男は激しく咳き込みながら、絶望したような声で叫んだ。


「駄目だ! あれは我が家が一か月間食いつなぐための食料なんだぞ!」


 フウ・テーは歯を食いしばった。


「人間さえ生きていれば、米なんて後からいくらでも手に入る! さっさと立て!」


 そう言うと、彼は全身の力を込めて男を引き起こし、そのまま石段の高い場所まで引きずるように連れていった。


 僕は、濁流にさらわれて見えなくなっていく米袋を見つめた。胸の奥に、言いようのない痛みが込み上げてくる。


 だが、フウ・テーの言っていることは間違いなく正しかった。


 儚い物を捨てることでしか、かけがえのない命を守れないときもあるのだ。


 そのとき、住民たちが一斉に逃げ惑う船着き場の最も外れた場所から、ひどく狼狽した叫び声が響いた。


「大変だ! まだ船に取り残されている人がいるぞ!」


 僕は驚いて勢いよく振り返った。


 遠くのほうで、小さな竹舟が係留杭のそばに取り残され、波に激しく揺さぶられていた。その不安定な船の上には、年老いて衰えた船頭と、一つの薬籠を胸に抱えた女性が乗っていた。


 その女性は、ほかでもないハー・ティン・リウ・ホアだった。


 僕は一瞬で彼女だと気づいた。


 今日、リウ・ホアは川の対岸に住む移住者の一家へ薬草を届けるため、船着き場を訪れていた。おそらく、突然洪水が襲いかかったとき、まだ岸にたどり着いていなかったため、そのまま川の中央に取り残されてしまったのだろう。


 フウ・テーも見覚えのある姿に気づき、激しく動揺した。


「リウ・ホアだ!」


 リウ・ホアは船内でよろめきながら、荒れ狂う波の中で転落しないよう、両手で必死に船縁を掴んでいた。


「みんな、近づかないで! 係留綱がもう切れそうなの!」


 老船頭は慌てて綱を解こうとしていた。しかし、係留杭そのものが水圧によって傾いてしまっている。さらに運悪く、綱の片端が舵の軸に固く巻きついており、船体は完全に動きを封じられ、流れに合わせて向きを変えることすらできなくなっていた。


 僕は素早く状況を見極めた。


 もし船が横向きになったまま係留綱が突然切れれば、激流は船体を木橋の橋脚へと一直線に叩きつけるだろう。そのとき、船に乗っている二人は、間違いなく濁流の中へ投げ出されてしまう。


 僕はフウ・テーのほうを向いた。


「船首を引いて、岸のほうへ向きを変えさせるんだ!」


 フウ・テーは渦巻く川の流れを見つめ、激しく首を横に振った。


「無理だ! こんな水圧の中じゃ、俺たち二人だけで逆向きに引っ張るなんてできるわけがない!」


「流れに逆らう必要はない! 綱が完全に切れる前に、船の向きを少し斜めに変えればいいんだ!」


 フウ・テーはすぐに僕の意図を理解した。


 彼は丈夫な長い綱を手に取ると、その一端を船着き場の近くにある太い木の幹へしっかりと結びつけた。それからもう一方の端を丸め、激しく揺れる竹舟に向かって投げた。


 一度目は、綱が届かず水面へ落ちた。


 二度目は、船縁をかすめるようにして引っかかった。


 リウ・ホアは素早く身をかがめて綱を掴み、老船頭の手に押し込んだ。


 僕は張り詰めていく綱の具合を見ながら叫んだ。


「船首に結びつけるよう伝えてくれ! 絶対に船体の中央に結ぶな!」


 フウ・テーは川に向かって、声の限り叫んだ。


 老船頭は言われたとおりにしようとしたが、年老いた両手は震え続け、まともな結び目を作ることさえできなかった。


 見かねたリウ・ホアは薬籠を船内に置き、身を低くして這うように近づき、老人を手伝った。


 彼女は青ざめた顔を勢いよく上げ、岸辺に目を向けた。そして、フウ・テーの隣でこちらを見つめている僕と目が合った。


「ラム・チエウ・バン!」


 僕は声を張り上げて答えた。


「聞こえてる!」


「あとでこの綱を、絶対に離さずしっかり握っていて!」


 彼女は水の轟音に負けないよう、声を張り上げた。


 僕は力強くうなずいた。


 フウ・テーは綱を松の幹に何重にも巻きつけ、引く力を調整できるだけの長さを残した。流れの向きを注意深く観察し、船が流れに沿って動きやすくなる瞬間を待っている。


「バン! 俺が引けと叫んだら、絶対に手を離すなよ!」


 僕は血のにじんだ両手で、綱を固く握りしめた。


 そのとき、頭の中にふと、以前フウ・テーから教わった三重結びの結び方が浮かんだ。


 前にそれを使ったのは、傷口を縛って手当てしたときだった。だが今日は、その結び方一つが、あの船を濁流に呑み込まれる運命から救えるかどうかを左右する。


「引けえっ!」


 フウ・テーの怒号が響いた。


 僕たち二人は全身の力を込め、綱を一気に引っ張った。


 すると、竹舟の船首がわずかに角度を変えた。


 しかし、その瞬間だった。


 新たな濁流が押し寄せ、さらに凄まじい力を船体に加えた。


 綱は今にも二つに裂けそうなほど張り詰め、僕たち二人の身体は泥地の上を数寸ほど引きずられた。


 僕は歯を食いしばり、できる限り重心を低くした。両足の十本の指先まで泥の中に食い込ませ、身体を支える。


 川の流れに逆らって引っ張るような真似はしなかった。フウ・テーから教わったとおり、斜めの角度を利用して水の力を受け流すことだけに集中した。


「踏ん張れ! 絶対に倒れるな!」


 フウ・テーが声を張り上げた。


「大丈夫だ!」


 竹舟は少しずつ向きを変え始め、船首は岸辺近くの比較的浅い渦へと向き始めた。


 老船頭は半分に折れた櫂を振り回し、命懸けで川底へ差し込んで船のバランスを保とうとしていた。


 リウ・ホアは薬籠を胸に抱きしめたまま、船底に膝をついて身を低くしている。


 船と岸との距離が、あと数丈ほどになったときだった。


 上流から流されてきた巨大な流木が、突然船尾へ激突した。


 ドンッ!


 竹舟の船体は激しく揺れ、片側へ大きく傾いた。


 リウ・ホアが悲鳴を上げ、そのまま水中へと投げ出された。彼女の手から薬籠が離れ、川底へ沈んでいく。


 フウ・テーが慌てて怒鳴った。


「綱を離すな!」


 僕は両腕の力を振り絞って綱を握り続けた。しかし、以前負った手のひらの傷に、鋭い痛みが走った。


 麻縄の粗い繊維が傷口へ直接擦れ、白い包帯はたちまち鮮血を吸い込み、真っ赤に染まっていく。


 それでも、僕は絶対に手を離さなかった。


 あと少しだけ。


 あとほんの少しだけ、あの忌々しい渦を抜けさえすればいい。


 だが、自然の力は、人間の想像や計算を遥かに超えていた。


 バキッ!


 乾いた破裂音が響いた。


 綱を固定していた頑丈な木杭に、亀裂が走り始めたのだ。


 フウ・テーは揺れ動く杭へ目を落とし、顔色を一変させた。


「バン! 手を離せ!」


 僕は呆然とした。


「えっ?」


「杭が折れるぞ! このままじゃ、お前まで引きずり込まれる! 早く綱を離せ!」


 僕は、弓の弦のように張り詰めた綱を見つめた。


 このまま意地を張って握り続ければ、杭が折れた瞬間、反動で僕たち二人とも濁流へと弾き飛ばされることになる。


 僕は歯を食いしばり、両手を離した。


 ビュンッ!


 綱は凄まじい勢いで弾け飛び、地面を激しく叩きながら大きく跳ね上がった。


 そして竹舟は、荒れ狂う濁流にさらわれ、一瞬にして遠くへと流されていった。


 ほんのわずかな瞬間、僕の目に焼きついたのは、リウ・ホアが必死に船縁へ手を伸ばしてしがみつく姿と、老船頭がどうすることもできず、折れた櫂を激流へ突き立てている光景だけだった。


 フウ・テーは勢いよく身体を翻し、叫んだ。


「川岸を走って下流へ追うぞ!」


 僕はすぐさま、弦から放たれた矢のように駆け出した。


 竹舟は濁流に押し流され、岩礁が無数に広がる狭い川筋へと向かっていた。


 岸辺には、刃物のように鋭く尖った巨大な岩がいくつも突き出している。船がそこへ激突すれば、間違いなく粉々に砕け散るだろう。


 さらにその先には、長年の風雨によって柱が腐り、今にも崩れそうな古い木橋が架かっていた。あれでは、船が少しでも強く衝突すれば、とても耐えられない。


 僕は岸壁に沿って走りながら、人が近づけるほど水深の浅い場所を必死に探した。


 自分が激流へ飛び込んで人を救うことなど、できないとわかっていた。


 水の勢いはあまりにも凄まじい。飛び込めば、待っているのは死だけだ。


 だが、少し下流には浅い岩場がある。そこでは、川の流れが細長く突き出した中州によって分断されていた。


 あの場所まで船を誘導できれば、比較的流れの穏やかな浅瀬へ自然に入り込ませることができるはずだった。


 僕は勢いよく振り返り、フウ・テーに向かって叫んだ。


「下流に浅い岩場がある! そこへ船を誘導できれば、まだ助けられる!」


 フウ・テーは川の先を見つめた。


「あそこなら知ってる! だが、船より先にたどり着かなきゃならないぞ!」


 僕たち二人は、残された体力をすべて使い果たす勢いで走り出した。


 僕は真っ先に浅瀬へ到着すると、木の枝に引っかかっていた古い綱を拾い上げた。


 その一端を頑丈な古松の根元へしっかりと結びつけ、もう一方を握ったまま、フウ・テーへ投げ渡した。


「そっち側を頼む! 僕はもう少し水際に近いところへ出る!」


 フウ・テーはすかさず声を荒らげて制止した。


「駄目だ! 岩が滑りやすい! 転んで川に落ちたら、今度こそ終わりだぞ!」


「高い岩場の上に立つだけだ!」


「ラム・チエウ・バン!」


 フウ・テーは、血にまみれた僕の両手に目をやり、それから目の前で唸りを上げる濁流へと視線を戻した。


「今度はお前自身が、助けられる側にならないようにしろ!」


 僕は一瞬、動きを止めた。


 フウ・テーの言うことが正しいのは、十分に理解していた。


 だが、あの船はもうすぐそこまで流されてきている。


 そして、リウ・ホアはまだ船の上にいた。


 老船頭は残された体力を振り絞り、必死に船の向きを変えようとしていた。しかし、半分も残っていない櫂では、もはやどうすることもできなかった。


 僕は岸辺を見つめ、それから手元の綱へ視線を落とした。


 ふと、頭の中に三重結びの結び方が浮かんだ。古松の倒木の上で何度も繰り返した、バランスを取るための稽古も思い出す。そして、流れに逆らって無理に引っ張ってはいけないという、フウ・テーの教えも。


 僕がわざわざ愚かな真似をして、水へ飛び込む必要はない。


 必要なのは、正確な位置と適切なタイミングで支点を作り、船が通り過ぎる瞬間に、船上の人間が自ら綱を掴めるようにすることだ。


 僕は足元の安定した高い岩場へ登り、松の根元に綱を固く巻きつけた。結び目を念入りに確認し、何度か強く引っ張って、決して緩まないことを確かめる。


 すぐ隣に立つフウ・テーは、僕の意図をすっかり理解していた。


「俺が綱の端を投げて、船に引っかける!」


 僕は迷いなくうなずいた。


 その直後、竹舟が川の曲がり角の向こうから、凄まじい速さで姿を現した。


 濁流の渦に激しく翻弄され、船体は何度も大きく揺れながら、今にも転覆しそうなほど傾いている。


 リウ・ホアは両手で必死に船縁へしがみついていた。濡れた黒髪が頬に張りつき、血の気の失せた顔は、まるで死人のように青白かった。


 フウ・テーは綱を大きく振りかぶり、力いっぱい投げた。


 一度目は、船まで届かず遠くへ落ちてしまった。


 二度目、老船頭が身を乗り出し、どうにかその端を掴んだ。


 老人は綱を船の係留柱に巻きつけ、必死に引き止めようとした。だが、片手で櫂を操り続けなければならず、もう一方の手だけではまともに結び目を作ることができない。


 それを見たリウ・ホアは、すぐさま這うようにして近づいた。


「貸してください!」


 彼女は力いっぱい両手で綱を掴み、結びつけようとした。しかし、船体が激しく揺れ続けているため、今にも川へ投げ出されそうになっていた。


 綱の端がしっかりと固定されたのを確認すると、僕は声を張り上げた。


「無理に逆方向へ引っ張っちゃ駄目だ! 船の向きが自然に変わるのを待つんだ!」


 フウ・テーはすぐさま岸辺に立っていた住民たちへ合図を送った。


 人々は一斉に綱へしがみつき、力を合わせた。しかし、船を無理やり岸へ引きずり込もうとはしなかった。


 彼らは水の勢いを利用しながら、船首が流れに沿って正しい方向を向くように支え、船体が尖った岩場へ真正面から激突するのを防いでいた。


 洪水は船を押し流し、綱のそばを通過していく。


 綱は限界まで張り詰め、風を切るような耳障りな悲鳴を上げた。


 竹舟は激しく揺れながら一回転し、中州の向こう側に広がる浅瀬へと、少しずつ滑り込んでいった。


 老船頭はすぐさま、折れた櫂の残骸を川底の泥へ突き立てた。


 ゴツン。


 軽い衝撃音が響く。


 竹舟の船底が、水中に隠れていた砂州へ浅く乗り上げたのだ。


 フウ・テーは人々に声をかけ、綱を全力で引くよう指示した。船首を岸辺へぴたりと寄せ、これ以上流されないようにするためだった。


 僕は岩場を駆け下り、リウ・ホアに向かって素手を差し出した。


「僕の手を掴んで! 早く!」


 彼女は差し出された手を強く握りしめ、思い切って竹舟の船縁から飛び降りた。


 足が地面に触れた瞬間、彼女は疲労で身体を支えきれず、その場に膝をついてしまった。


 僕は慌てて身を屈め、彼女の肩を支えた。


 リウ・ホアは水に濡れた顔を勢いよく上げ、僕を見つめた。


 澄んだ瞳には、恐怖のあまり浮かんだ涙がまだ残っている。彼女は荒い息をつきながら尋ねた。


「あなた……あなたの怪我は、ひどくないの?」


 僕は血まみれになった自分の手のひらを見下ろし、それから掠れた声で小さく笑った。


「このとおり、まだぴんぴんしているよ」


 リウ・ホアは笑わなかった。


 彼女は僕の手にある無惨な傷口をじっと見つめると、慌てて袖の中から清潔な絹の手巾を取り出した。そして、出血を抑えるため、僕の手のひらへ慎重に巻きつけていく。


「無理に動かさないで」


 その声は、普段よりもずっと厳しく、毅然としていた。


 僕は素直に座り込み、じっとしていた。


 そこへ、ようやくフウ・テーも息を切らしながら駆けつけてきた。衣服は全身びしょ濡れで身体に張りつき、綱を引いた両手のひらには擦り傷ができ、血が滲んでいた。


 彼は僕たちを一瞥すると、そのまま岩場にどさりと腰を下ろした。


「ああ、天地に誓って言うぞ……もう二度と、誰にも洪水の季節に船へ乗らせたりしない!」


 リウ・ホアは勢いよく彼を振り返った。


「今日ここまで走ってこなかったら、あなたも船の上で命を落としていたかもしれないのよ?」


 フウ・テーは何も言い返さなかった。


 ただ顔を上げ、川面を見つめた。そこには、つい先ほど死の淵から逃れた竹舟が、泥混じりの砂州に傾いたまま乗り上げている。


 長い沈黙のあと、彼はようやく、ひきつったような笑い声を漏らした。


「本当に運がよかった……こうしてまだ息をしていられるんだからな」


 それ以上、誰も言葉を発しなかった。


 三人の子供たちは、ただ静かに川岸へ座り込み、いくつもの曲がり角を越えて轟音を響かせる洪水の流れに耳を傾けていた。


 凄まじい洪水は、夕暮れを迎えるまで続いた。


 川沿いに建ち並ぶ貧しい藁葺き屋根の家々は、深く水に浸かり、穀物倉庫の食料も大きな被害を受けた。小さな竹舟のうち、何隻かは容赦ない濁流にさらわれ、跡形もなく消え去ってしまった。


 それでも、幸いなことに、早い段階で警告が発せられ、人々が迅速に避難したおかげで、住民の大半は洪水のピークが到達する前に安全な高台へ逃れることができていた。


 しかし、誰もが無傷で済んだわけではない。


 薪を積んだ筏を救おうとした狩人の一人は、腕を折られてしまった。また、別の幼い子供は鋭い岩でふくらはぎを深く切り裂かれ、急いで担架に乗せられ、医師のもとへ運ばれていった。


 リウ・ホアは臨時の救護所に残り、負傷者たちの傷を洗い、応急処置や包帯の交換に力を尽くしていた。自分自身もほんの一歩間違えれば命を落としていたというのに、彼女は疲れを訴えることも、弱音を吐くこともなかった。


 僕は、乾いた家の軒先に腰掛け、黙って彼女の働く姿を眺めていた。


 彼女は傷口を洗浄し、新しい包帯へと取り替え、高熱に苦しむ患者の呼吸を確かめ、家族には清潔な水を沸かして、温かいうちに飲ませるよう丁寧に言い聞かせていた。


 その一つ一つの動作は、僕が初めて彼女と薬屋で出会ったときと同じように、細やかで慎重だった。


 フウ・テーが僕の隣に腰を下ろした。傷だらけの両手には、粗末な布がぐるぐると巻かれている。


「おい、バン。さっきから何をぼんやり眺めてるんだ?」


「リウ・ホアを見ているんだ」


 フウ・テーは僕の視線を追い、軽くうなずいた。


「あの子は昔から医術を心得ているんだ。母親もかつて、この辺りで薬を調合して、貧しい人たちを大勢助けていたらしい」


 僕は黙ったまま、何も答えなかった。


 頭の中には、リウ・ホアと初めて出会ったときの記憶が蘇っていた。


 彼女は、自分にとって貴重な薬草の根を差し出してまで、貧しい患者のための薬を手に入れようとしていた。恩を売るような施しを受けることも、それを借りとして背負わされることも、頑なに拒んでいたのだ。


 そして今日もまた、彼女はこの荒れ果てた場所に残り、自分の命さえ顧みず、人々を救うために力を尽くしている。


「本当に、いい人だな」


「そうだな。本当にそう思う」


 フウ・テーは、それ以上何も付け加えなかった。


 しばらくすると、リウ・ホアが宿舎の一室から出てきた。手には温かな水を張った椀と、清潔な布をいくつか持っている。


「手を出して」


 僕は素直に、怪我をした手のひらを差し出した。


 彼女は固く結ばれた古い包帯を慎重に解き、傷口にこびりついた血を洗い流すと、新しい包帯を巻き直した。


 今度は結び目をしっかりと締め、余った布の端を邪魔にならないよう内側へ丁寧に収めてくれた。これなら、物を掴むときにも引っかかることはないだろう。


「これからは、汚れた水が傷口に入らないように気をつけてね」


「わかった」


「口ではわかったと言うけれど、自分の身体を大切にしようとしたことなんて、一度もないでしょう?」


 僕は言葉に詰まった。


 責めるようでいて、どこか心配する気持ちの滲んだ彼女の言葉に、どう返せばいいのかわからなかった。


 リウ・ホアは、澄んだ瞳でしばらく僕を見つめ、それから小さくため息をついた。


「次に危険なことに遭遇したら、まずは自分の命を守ることを考えて。あなたがこんなふうに無茶をして大怪我をしたら、今度は周りの人たちが心配しなければならなくなるんだから」


 その言葉は、先ほどフウ・テーから言われた忠告と、頭の中で重なった。


 ――今度はお前自身が、助けられる側にならないようにしろ。


 僕は俯いた。


「君の言葉、肝に銘じておくよ」


 リウ・ホアは小さくうなずき、立ち上がって部屋の中へ戻ろうとした。


 だが、二歩ほど進んだところで、ふと足を止めた。


 そして、振り返った。


「ラム・チエウ・バン」


「どうした?」


 彼女は僕のほうを振り向かなかった。


「今日、船を岸へ引き寄せてくれた、あの運命を変える一手に感謝しているわ」


 僕は彼女の背中を見つめ、静かに答えた。


「大したことじゃないよ」


 彼女はそのまま歩き出し、部屋の中へと戻っていった。


 僕は破れた布の仕切りの向こうへ消えていく彼女の後ろ姿を、ぼんやりと見送っていた。


 やがて、フウ・テーのほうへ向き直って尋ねた。


「なあ、フウ・テー。リウ・ホアが、どうしていつもあんなに大きな薬草袋を持ち歩いているのか、考えたことはあるか?」


 フウ・テーは包帯で覆われた自分の両手を見下ろした。


「さあな……。きっと、この世には傷ついて、苦しんでいる人間があまりにも多いってことを、あの子は自分の目で嫌というほど見てきたんじゃないか」


 僕は、それ以上尋ねなかった。


 顔を上げ、ラク・トゥイの川へと視線を向ける。


 水位はようやく下がり始め、午後のような荒々しさも失われつつあった。流れは少しずつ穏やかになり、折れた枝や無残に引き裂かれた木の葉が、岸辺の砂地へと流れ着いている。


 それらは、たった今終わったばかりの戦いに残された、痛ましい戦利品のように、静かに横たわっていた。


 やがて、赤く燃える夕日が空を染め始めた。


 ラク・トゥイの船着き場からは、いつもの賑わいや喧騒が完全に失われていた。


 幸いにも流されずに残った竹舟は、すべて高台へ引き上げられ、濡れた食料は倉庫へと運び込まれていた。貧しい住民たちは、破れた屋根や洪水に押し倒された柵を、少しでも早く直そうと黙々と作業を続けている。


 僕は川岸に立ち尽くし、濁りきった流れをじっと見つめていた。


 今朝、洞窟を出たとき、僕の頭にあったのは、船着き場で白米を少しばかり手に入れることだけだった。


 もしあのとき、川の色がおかしいことに気づかず、何事もないように通り過ぎていたら、今頃、この漁村の人々は誰一人として逃げることができなかったかもしれない。


 それでも、全力を尽くして警告を発したにもかかわらず、僕にはすべてを救うことなどできなかった。


 白米の詰まった袋は、濁流に呑み込まれた。


 小さな竹舟は、跡形もなく流されていった。


 人々は怪我を負い、住む家を失った。


 そして、フウ・テーがあれほど迅速に決断してくれなければ、あの船に取り残されていた人々は、二度と明日の太陽を目にすることができなかったかもしれない。


 僕は俯き、白い包帯に包まれた両手を見つめた。


 僕は、生き延びるための綱の結び方を学んだ。


 倒れた松の幹の上で、身体の均衡を保つ方法も学んだ。


 そして、自分より遥かに強大なものに対し、愚かにも真正面から立ち向かってはならないという、身に染みる教訓も学んだ。

 今日、僕はそれよりもさらに大きな真理を知った。


 人間の力が嵐や暴風の前ではあまりにも小さなものとなるとき、僕たちは自然の力に逆らうのではなく、その流れに身を委ねる術を学ばなければならない。自然の力を借り、その勢いを利用することを覚えなければならないのだ。


 この世のすべてが、力ずくで屈服させられるわけではない。


 ときには、過酷な世の中を生き抜くために、自分を押し流そうとするものが何なのかを正しく見極め、その流れに身を任せながら、そこから這い上がる方法を見つけなければならない。


 フウ・テーが歩み寄り、僕の隣に並んだ。


「今から山へ帰るつもりか?」


「ああ。もうすっかり日が暮れてしまったからな」


 フウ・テーは複雑な眼差しで僕を見つめた。


「明日はもう、妙な気を起こしてここへ下りてくるんじゃないぞ。みんな家の修繕で忙しいが、こっちは俺たちで何とかできる」


 僕は彼を見た。


「僕だって手伝いに来られるだろう?」


「お前の気持ちはわかってる。だが、お前だって傷を治すために休まなきゃならないだろう」


 僕はそれ以上、彼と言い争うことをやめた。


 フウ・テーはしばらく黙って川の流れを眺めていたが、やがて小さく笑った。


「なあ、バン。俺がまだ小さかった頃、馬鹿なことを考えていたんだ。自分が誰よりも上手く、誰よりも巧みに舟を操れるようになれば、どんな激流にも流されることなんてないと思っていた」


 僕は彼のほうを向いた。


「それで、今はどうなんだ?」


「今になってわかったよ。どれほど技を磨いたところで、そんなものがまるで役に立たないほど、川の力が強くなるときだってあるんだ」


 彼は白い歯を覗かせ、苦笑した。


「それでも、俺はこれからも泳ぎを覚え、舟の操り方を学び続けるつもりだ。川の力が怖いからって、一生怯えながら岸辺に閉じこもるような臆病者にはなりたくないからな」


 僕は黙って、流れていく水を見つめていた。


 その言葉は、僕の心の奥深くに響いた。


 ふと、自分が手探りで歩み始めた武の道を思い起こす。


 今の僕には、まだ卓越した武功などない。


 師匠について武術を学んだこともなければ、生死を懸けた本当の戦いを経験したこともない。


 だが、ほんの数度の危険や失敗を経験しただけで恐れを抱き、すべてを投げ出してしまったなら、僕はいつまで経っても、この古びた森の中をうろつくだけの野生児で終わるだろう。


 森の外に、どれほど広く、どれほど壮大な世界が広がっているのか。それを知ることさえ、一生叶わなくなる。


 僕はそっと拳を握り、決意を込めてうなずいた。


「言いたいことはわかったよ」


 フウ・テーは小さな布袋を差し出した。


 中には、真っ白な餅が二つと、ひとつまみの精製された塩が入っていた。


「持っていけ。腹の足しにしろ」


「またか?」


「今日、お前はこの船着き場を救ってくれたんだ。俺には大したお礼なんてできない。だからって、腹を空かせたまま一人で山へ帰らせるわけにもいかないだろう?」


 僕は微笑みながら、その袋を受け取った。


「ありがとう、フウ・テー」


 彼は手を伸ばし、僕の肩を軽く叩いた。


「次に傷が治って山から下りてきたら、竹舟を操って波を乗り越える方法を教えてやる。だが、手が完全に治ってからだぞ!」


 僕は目を瞬かせた。


「本当か?」


「当たり前だ。嘘をついてどうする。ただし、初日からお前に櫂を握らせるなんて思うなよ」


「どうしてだよ?」


「お前の死体を川底まで潜って探しに行く趣味なんて、俺にはないからな!」


 僕は思わず吹き出した。


 二人の子供は、船着き場の入口にある分かれ道で正式に別れた。


 僕は一人、いつもの小道を黙々と歩き始め、深山幽谷へと続く山道を上っていった。


 やがて高い岩場まで登り切ったとき、ふと足を止め、振り返った。


 最後にもう一度、船着き場を見下ろす。


 ラク・トゥイの船着き場は、すでに夜の帳と、かすかに残る夕暮れの光に包まれていた。


 川岸には粗末な藁葺き屋根の家々が低く立ち並び、炊事の煙がゆっくりと立ち上っている。そして、洪水を経た川は、今なお濁った色を残し、重たい泥を含んだまま流れ続けていた。


 僕はしばらく、その景色を黙って見つめていた。


 やがて、意を決して前を向き、再び歩き出した。


 その夜、暗い洞窟の中で、ラム・チエウ・バンはもらった二つの餅を平らな岩の上にそっと置いた。そして、そのうちの一つを半分に割り、ちょこんと座っている小さなリスに分け与えた。


 リスは一口かじるなり、顔をしかめて不満そうに言った。


「ふん、たいしてうまくないじゃないか。森で採れる俺のお気に入りの木の実のほうが、ずっとおいしいぞ」


 僕は小さく笑った。


「さっきまで、どうしても食べたいって騒いでいたのは誰だったかな?」


「ちょっと味見してみたかっただけさ」


 僕はもう、それ以上言い返さなかった。


 竹の枝を手に取り、洞窟の外にある平らな空き地へと歩み出る。


 手のひらの傷はまだ血が滲み、ずきずきと痛んでいた。それでも、僕は決して稽古を投げ出そうとはしなかった。


 ただ静かに、最も基本的な歩法を繰り返す。手を強く振り回したり、無理に剣を大きく振るったりはしない。


 一歩、前へ。


 一歩、後ろへ。


 身を翻し、方向を変える。


 足を止め、重心を安定させる。


 頭の中では、今日の朝に目撃した荒れ狂う濁流の光景が、何度も繰り返し蘇っていた。


 洪水が押し寄せたときの轟音。


 今にも引きちぎれそうなほど、限界まで張り詰めた綱の姿。


 そして、人々の命が水の中へ呑み込まれそうになった、あの瞬間。


 自分一人の力で、どうにかできるような問題ではなかったことは、十分に理解していた。


 僕一人で天を支え、船を岸まで引き寄せることなどできるはずもない。


 けれど、僕は周囲の人々と力を合わせる方法を学んだ。互いに信頼し、一本の綱を一緒に握り、力を合わせて状況を変え、危機に瀕した命を安全な場所へと導くことを覚えたのだ。


 たった一人の人間は、おそらくひどく弱い。


 到底成し遂げられないような大事を、独力で成し遂げることなどできないかもしれない。


 しかし、周囲の人々の力を理解し、信じる術を知っていれば、初めは不可能に思えたことさえ、時として現実に変えることができる。


 僕は竹の枝を地面に置き、洞窟の入口に静かに腰を下ろした。


 両脚を組み、ゆっくりと夜空を見上げる。


 いつの間にか、嵐をもたらした黒い雲はすっかり消え去っていた。


 漆黒の天空には、無数の星々が姿を現している。その一つ一つが冷たく澄んだ光を放ち、静寂に包まれた高い山々の頂を、ひっそりと照らしていた。


 僕は不意に、父と母のことを思い出した。


 東の空から太陽が昇る頃には、必ず帰ってくる。


 かつて二人が残した、あの約束を。


 幼かった頃の僕は、その言葉を信じ、幾度となく月が満ち欠けするのを辛抱強く待ち続けた。


 だが、森の奥深くで成長した今になって、ようやく一つの残酷な真実を知った。


 二度と帰ってこない人たちがいるのは、約束を破り、帰ることを望まなくなったからではない。


 ただ、運命が彼らから、帰るという選択肢そのものを奪ってしまっただけなのだ。


 僕はうつむき、ざらついた両手を膝の上にそっと置いた。


 これから先、人生の嵐に見舞われたとき、僕がいったいどれほど多くの命を守れるのか、今の自分にはまったくわからない。


 それでも、一つだけ確かなことがある。


 誰かに手を差し伸べる機会が訪れたとき、その人を見捨てて背を向けるような卑怯者には、決してなりたくない。


 遠く下流では、ラク・トゥイの川が今なお絶え間なく岩の狭間を流れ続け、暗い上流から運ばれてきた泥土や枯れ枝を、その流れに乗せて運び去っていた。


 貧しい藁葺き屋根の一軒が流されたからといって、川は立ち止まったりしない。


 一隻の竹舟がかろうじて死を免れたからといって、急に優しく、穏やかな流れへと変わるわけでもない。


 水は、いつまでも水のままだ。


 人間は、いつまでも人間のままだ。


 ただ、あの凄まじい洪水を自らの目で見届けた者だけが、揺るぎない大地のありがたさと、寄りかかることのできる誰かの肩の尊さを、本当の意味で理解できるのだろう。


 その夜、ラム・チエウ・バンは、剣術の高等な技を一つたりとも新たに習得したわけではなかった。


 だが、彼は大洪水という自然の力の中に宿る圧倒的な強さと、見知らぬ者同士の手が固く結ばれることで、一つの命を救うことができるという真理を悟ったのだった。


 一方、ラク・トゥイの船着き場では、フウ・テーが夜を徹して、切れてしまった係留綱の補修に励んでいた。


 リウ・ホアは薄暗い灯油の明かりのそばに静かに座り、残された薬草を一包みずつ丁寧に選り分けていた。重傷を負った人々の治療に備えるためだった。


 その場にいた誰一人として、こんな辺境の山や川で偶然のように交わされた出会いが、野生育ちの一人の少年の人生を形作る、大切な道標になりつつあるとは思いもしなかった。


 そして、いつの日か本当の戦争が勃発したとき、この平穏なラク・トゥイの川が、今日の洪水など比べものにならないほど凄惨で、耐え難い別離と死別の数々を目撃することになるなど、誰も知る由もなかった。


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