Episode 67
東の山並みがいつから夜の闇に覆われていたのか、もう定かではなかった。
人の気配も絶えた深い原生林を、骨の髄まで凍てつかせるような冷たい風が吹き抜けていく。古い松の枝葉の隙間をすり抜けた風は、湿った地面に散らばる枯れ葉を、かさかさと音を立てながら滑らせていった。
切り立った断崖の斜面には、たいまつの火がいくつか、ちらちらと揺れていた。その光は、獲物を求める飢えた獣の目のように、濃く立ち込める夜霧の向こうに現れては消える。
さらに谷の奥へ目を向けると、廃墟となった製錬所が、まるで巨大な亡霊のごとく闇の中に浮かび上がっていた。黒ずんだ瓦屋根は崩れ、途中で折れた煙突は、切っ先を失った剣のように無残な姿をさらしている。
俺は大きな岩の陰に身を縮め、製錬所の内部から漏れる、弱々しい黄色い光をじっと見つめていた。視線の先にあるのは、わずかな隙間しかない扉だ。
すぐ隣では、ファム・フウ・テーが不気味なほどの静けさを保っていた。
彼はもう、ほぼ一刻近くもの間、同じ姿勢を崩していない。ときおり、製錬炉の方からかすかに聞こえてくる物音に耳を澄ませるように、ほんの少し首を傾けるだけだった。
やがて、フウ・テーはとうとう我慢できなくなったのか、声を押し殺して囁いた。
「……いつまでも、こうして夜が明けるのを待っているわけにはいかないぞ、バン」
「分かっている」
「それで、これからどうするつもりなんだ?」
俺は目を細め、谷の外へと続く細い山道を見下ろした。
「ここに来てから、見張りの数は三人だと分かった。一人は正門に立ったまま動かない。もう一人は西側の壁沿いを絶えず巡回している。そして最後の一人は建物の中にいて、チョン・ソン殿が捕らえられている場所のすぐそばを離れない」
三人とも、腰にはすぐに抜けるよう武器を帯びていた。
俺には大した武芸の心得などない。フウ・テーにしても、幼い頃から慣れ親しんできたのは、船を漕ぎ、泳ぎ、網を引き、川岸で力仕事をすることくらいだ。
そんな俺たち二人が、何の策もなく正面から突っ込んだところで、それは自ら首を差し出し、斬られるのを待つようなものだった。
「まずは、奴らがチョン・ソン殿を別の場所へ移送するつもりなのか、確かめる必要がある」
俺は声を低くして答えた。
「奴らがあの人を助けて、どこかへ連れていくとでも思っているのか?」
「この製錬所には、もう採掘できる鉱石も、手に入れる価値のある資料も残っていない。奴らの目的がまだ果たされていないのなら、いつまでもあの人をここに閉じ込めておく意味はない」
そこで言葉を切り、俺は崩れた窓枠へと視線を向けた。
「だが、背後にいる連中が納得のいく答えを得ないかぎり、あの人を簡単に殺すこともないだろう」
フウ・テーは複雑な眼差しで俺を見た。
「お前、本当によくそこまで考えるな、バン」
「災いが降りかかってきたとき、逃げ道が分からなかったらどうする。よく考えておかなければ、いざというときに生き延びられないだろう」
フウ・テーは乾いた笑いを漏らした。
だが、その口元に浮かんだ笑みも長くは続かず、すぐに緊張した表情へと戻っていった。
俺は身をかがめ、親指ほどの小石を拾った。そして、道の右側にある路肩へ向かって、そっと放った。
コツッ。
石が岩壁に当たる音は、ほとんど聞き取れないほど小さかった。
それでも、巡回中の見張りは即座に振り返った。たいまつを高く掲げ、音のした方をくまなく照らしながら、慎重に歩み寄っていく。
俺は、そいつを長々と見つめたりはしなかった。
空き地を横切るときの足取り。風の当たらない壁の隅で立ち止まる癖。そして、元の持ち場へ戻る前に、周囲を振り返って確かめる仕草。
俺が観察したのは、そうした細かな動きだった。
あの男の巡回には、完全に一定した周期があるわけではない。暗い曲がり角に差しかかるたび、いったん足を止め、左右両方の気配を確かめてから歩き出す。
音も立てずに、あいつの目をかいくぐるのは、命懸けの難事だった。
「バン」
フウ・テーがそっと俺の肩を叩き、前方を指さした。
「見ろ」
製錬所の裏手、壁際に設けられた小さな扉が、突然開いた。
屈強な男が二人、長い木製の担架を担いで出てきた。二人はそれを、暗い色の幌をかけた荷車の脇に置くと、すぐさま建物の中へ引き返していった。
それから数分もしないうちに、灰色の衣をまとった男が扉口に姿を現した。
揺れるたいまつの明かりの下で、男はそばにいた松明持ちの見張りと、二言三言、言葉を交わした。
折よく風は俺たちのいる方から向こうへ吹いていた。おかげで、途切れ途切れながらも、話の内容を聞き取ることができた。
「……夜が明けきる前に……」
「……北の中継所へ直行させろ……」
「……もう、ここにあの爺さんを隠しておくわけにはいかん……」
話を終えると、灰衣の男は身を翻し、再び建物の中へ消えていった。
フウ・テーが俺を振り返った。声には、どこか沈んだ響きがあった。
「お前の読みは神懸かり的だな、バン。奴ら、本当にここからずらかるつもりらしい」
俺は答えなかった。
ただ、担架と幌付きの荷車を見据えていた。
もし夜明け前にタ・チョン・ソンが連れ去られてしまえば、俺たちは二度と彼の行方を追えなくなるかもしれない。
だからといって、今すぐ敵の包囲の中へ飛び込む必要はなかった。
俺は荷車に目を向け、それから谷底へと続く一本道を端から端まで見渡した。
東側の道を通るなら、荷車は必ず、そそり立つ二つの岩壁に挟まれた狭い道を通らなければならない。
機会さえあれば、そこで足止めできるかもしれない。
だが、荷車を止めて人を救い出す算段を立てる前に、まずはチョン・ソン殿が自力で歩けるほどの体力を残しているか、俺自身の目で確かめなければならなかった。
俺は小枝を拾い、湿った地面に簡単な見取り図を描いた。
「正門は厳重に警戒されている。西側には絶え間ない巡回がある。製錬所の裏には小さな扉があるが、あそこも連中が頻繁に出入りしている」
フウ・テーは地面に描かれた図を覗き込んだ。
「となると、残っているのは一つだけか……北側だな」
俺は頷いた。
製錬所の北側を回り込んだ先には、かつて製錬炉が稼働していた頃に使われていた、古い鉱滓排出管がある。
その入口は土砂や枯れ葉に半ば埋もれていた。
俺がそれを見つけたのは、夕方、山壁に沿って遠回りしていたときのことだ。
排出管は、製錬所の床面よりも低い位置にある窪地へと直接つながっている。入口の大きさも、痩せた子供なら何とか這って通れるほどだった。
だが、内部が崩落しているのか、それとも途中で何かに塞がれているのか、それだけは確かめてみなければ分からない。
「俺が中を調べてくる」
そう告げた途端、フウ・テーが俺の袖をつかみ、目を剥いた。
「お前、頭がおかしくなったのか? あんな真っ暗な穴の中に、本当に潜り込むつもりか?」
「ああ」
「中で誰かが待ち伏せしていたらどうするんだ?」
「引き返して逃げる」
「じゃあ、中に獣が閉じ込められていたら?」
俺はまっすぐにフウ・テーの目を見て、平然と答えた。
「そいつより速く逃げるさ」
フウ・テーはしばらく俺を睨みつけていた。
やがて、俺の目に浮かぶ頑固な決意を悟ったのだろう。諦めたように、深いため息をついた。
「……分かった。だが、俺も一緒に行く」
俺はきっぱりと首を横に振った。
「駄目だ。二人そろって中に入って、途中で管が崩れたり、身動きが取れなくなったりしたらどうする? 外で助けを呼んだり、合図を送ったりする奴がいなくなる」
フウ・テーは不服そうな顔をしたものの、俺の言い分には反論の余地がなかった。
結局、彼は腰に巻いていた丈夫な麻縄を解き、その端を俺の手に押しつけた。
「これを体に結びつけておけ。中で何かあったら、力いっぱい三回引っ張れ。俺が外から、何が何でも引きずり出してやる」
俺は麻縄を受け取り、頷いた。
「分かった」
丈夫な縄を腰に巻きつけ、結び目が三重になっていることを慎重に確かめる。
それから、身を低くかがめ、黒々と口を開けた鉱滓排出管へと進んだ。
暗闇へ潜り込む直前、俺は最後に一度だけ振り返った。
「無茶だけはするなよ」
フウ・テーは一瞬、きょとんとした顔をした。
それから、呆れたように薄笑いを浮かべ、首を横に振った。
「その台詞は、本来なら俺がお前に言うべきものだろうが。この石頭め」
俺は、それ以上言い返さなかった。
身を折り曲げ、墨を流したような暗闇の中へと、ゆっくり這い進んでいった。
鉱滓排出管は、想像していたよりもずっと狭かった。
管の内壁には、厚くこびりついた煤がびっしりと付着している。その下には、長い年月を経て固まった古い灰が、刃物のように鋭い塊となって堆積していた。
俺は肘と膝を使って這うしかなかった。
頭を突き出したまま進めば、壁から飛び出した割れた煉瓦にぶつけてしまう。そうならないよう、細心の注意を払いながら、少しずつ前へ進んだ。
鼻腔には、硫黄と石炭の刺激臭が容赦なく流れ込んでくる。目にしみるうえ、息をするのも苦しかった。
奥へ進むにつれて、排出管は徐々に下方へ傾斜していった。
天井から土砂が崩れ落ち、道の半分ほどを塞いでいる箇所もあった。しかし幸い、前方には何とか体を滑り込ませられる程度の隙間が残されていた。
俺は麻縄を後ろに引きずりながら、少しずつ這い進んだ。
目指すのは、管の奥からかすかに漏れてくる、黄色い光だった。
そして最後の隙間をどうにか抜けた、そのとき。
頭上から、低く濁った男たちの声が、驚くほどはっきりと降ってきた。
「空が白む前に、あの爺さんを移送しろ。北の中継所の連中も、いつまでも待ってはくれんぞ」
「それで、あの鍛冶場の機密記録と資料はどうする?」
「家中をひっくり返して探したが、まだ見つからん。残るは最後の製法だけだ」
「あの野生児が、それを持っているという可能性は?」
しばしの沈黙が流れた。
数度の呼吸が過ぎたあと、灰衣の男の冷酷な声が響いた。
「本当にあのガキの手に渡っているのなら……俺自ら出向き、そいつの首を掻き切ってでも取り戻す」
俺はその場で動きを止めた。
全身が凍りついたように硬直する。
チョン・ソンの資料の束は、すでに誰にも知られていない別の場所へ隠してある。
だが、それで俺の身の安全が永遠に保障されたわけではなかった。
灰衣の男が俺を事件に関わった人間だと確信している以上、いつまでも逃げおおせるとは限らない。
何より、ここでこれ以上、聞き耳を立てているわけにはいかなかった。
俺は再び前進し、排出管の突き当たりまで這い進んだ。
そこには、古い道具置き場へ通じる、小さな亀裂があった。
ひび割れた石壁の向こうには、部屋の隅に積み上げられた砕けた石炭が見える。床には、歪んだ鉄製の火ばさみが何本か、無造作に転がっていた。
俺は指先で、隙間を塞いでいる腐りかけた木板を、そっと押した。
周囲に見張りはいない。
慎重に体を滑り出させ、服にこびりついた真っ黒な煤を手で払い落とす。それから、動くものがないか、じっと耳を澄ませた。
隣の客間から、男たちの話し声が聞こえてくる。
その中に混じる、聞き覚えのあるしわがれ声を、俺はすぐに聞き分けた。
タ・チョン・ソンの声だった。
「もう貴様らに話すことはないと、何度言えば分かる。斬るなり殺すなり、好きにするがいい」
灰衣の男が冷ややかに言い返す。
「まだ自分の置かれた状況が分かっていないようだな、チョン・ソン。最後の鉱石に関する記録は、外にいる大勢の人間の生死を左右するものだ。いつまでも意地を張って渡さないというのなら、こちらも最悪の手段を取らざるを得ない」
チョン・ソンは鼻で笑った。
その笑い声には、深い疲労と侮蔑が滲んでいた。
「天下のために働いているから、貴様ら暗殺者の所業も正義のためだと信じろ、とでも言うつもりか?」
「お前に信じてもらう必要などない」
「なら、その偽善者めいた口を閉じろ!」
バンッ!
鈍い打撃音が響いた。
続いて、何かの家具が派手な音を立てて倒れる。
俺は、もう一秒たりとも躊躇しなかった。
ひび割れた壁に沿って進み、主室へ通じる扉の脇に身を寄せた。
室内では、タ・チョン・ソンが太い木の柱に縛りつけられていた。両腕は背後へ回され、荒縄で手首をきつく締め上げられている。右脚には血の滲んだ包帯が巻かれ、顔色は紙のように青白かった。
それでも、その目には決して屈しない意志が宿っていた。
そして、彼の目の前に立っているのが、あの灰衣の男だった。
男が背を向け、仲間に何かを命じようとした瞬間、俺はすかさず身を引き、視線の届かない隅へと退いた。
敵が圧倒的に有利な今、無謀に飛び込むわけにはいかない。
しかし、だからといって、彼らがチョン・ソンを幌付きの荷車へ運び込むのを黙って見ているわけにもいかなかった。
俺は室内を見渡し、ほかに逃げ道がないか探った。
壁のすぐ下に、小さな正方形の窓がある。
かつては、炉から出た灰を外へ捨てるために使われていたものだ。窓の向こうには、暗い窪地が広がっている。その先は、山峡へとまっすぐ下る小道につながっていた。
この小窓を開けることができれば、チョン・ソンはそこから逃げられるかもしれない。
だが、問題は彼が縛られていることだった。
そして、灰衣の男が不意に振り返りさえすれば、すべての計画は水泡に帰す。
俺は膝をつき、床に落ちていた長い鉄釘を拾い上げた。それを道具代わりにして、虫食いだらけの木製の窓止めを慎重にこじ開けようとする。
音を立てないよう、力の加減にも細心の注意を払った。
しかし、窓止めは錆びついて固くなっており、びくともしなかった。
ようやく、わずかに緩んだところで。
扉の向こうから、重い足音が近づいてきた。
俺は即座に手を離し、煤にまみれた暗がりの奥へと身を引いた。
次の瞬間、部屋の扉が勢いよく開いた。
たいまつを持った見張りが入ってくる。片手には、なみなみと水を注いだ素焼きの椀を持っていた。
男はチョン・ソンの前まで歩み寄ると、顎をしゃくり、椀の水を彼の足元へぶちまけた。
「一口くらい飲んでおけ。北側の坂道はまだ長いぞ、爺さん」
チョン・ソンは足元の椀に目を向けようともしなかった。
「喉は渇いておらん」
「まさか、こんなところで飢え死にするつもりか?」
「今の俺にとっては、どこで死のうと同じことだ」
見張りは不機嫌そうに眉をひそめたが、それ以上は言い争わなかった。
不満げに立ち上がり、扉へ向かいながら、ぶつぶつと独り言を漏らす。
「まったく、どこまでも強情な爺さんだ。荷車の準備でも確認してくるか……」
扉が閉まった。
俺は深く二度呼吸するのを待ってから、ようやく暗がりを抜け出した。
俺の姿を目にした途端、チョン・ソンは目を見開いた。あまりの驚きに、思わず叫び声を上げかけるほどだった。
「お前……どうして、こんなところにまで入り込んできた?」
「助けに来ました」
「お前、正気か!」
彼の声はしわがれていた。それでも外に聞こえないよう、必死に声量を抑えている。
「奴らは三人いる。全員、鋭い武器を持った暗殺者だ。お前、自分の命ひとつで人を救い出せるとでも思っているのか?」
俺は返事をせず、彼の背後へ素早く回り込んだ。膝をつき、手探りで手首を縛る縄の結び目を探る。
「奴らと戦うつもりはありません」
「ならば、いったい何をするつもりだ?」
「あなたをここから逃がします」
チョン・ソンは俺を睨みつけた。
そこには怒りと、どうすることもできない無力感が入り混じっていた。
「この頑固者め……!」
彼が叱責を言い終えるより早く、俺は最初の結び目を解いた。
縄を勢いよく引き抜く。荒縄が皮膚を擦り、チョン・ソンは痛みに顔をしかめた。
「すみません」
「痛いかどうかの問題ではない!」
チョン・ソンは歯を食いしばった。
「お前には、資料の束を渡したはずだろう! お前の役目はもう終わった。それなのに、なぜわざわざ危険を冒して、ここへ戻ってきたのだ!」
俺の手が、一瞬だけ止まった。
そして、年老いた男の顔を見つめながら、ゆっくりと答えた。
「だって、あなたはまだ、ここに縛られているじゃないですか」
チョン・ソンは衝撃を受けたように目を見開き、完全に言葉を失った。
俺はうつむいたまま、残っている縄を解く作業を続けた。
「もう話している暇はありません。ぐずぐずしていたら、逃げる時間がなくなります」
チョン・ソンはしばらく俺を見つめていたが、やがて深いため息をつき、顔を背けた。
「お前の短刀を貸せ」
俺は懐に隠していた小刀を抜き、彼に手渡した。
チョン・ソンは鋭い刃を使い、手首に残っていた縄を自ら切り始めた。腕の傷が動きを妨げ、刃を扱うだけでもひどく時間がかかる。動かすたびに痛みが走るらしく、額には脂汗が滲んでいた。
最後の縄が断ち切られると、彼はすぐさま両手をついて立ち上がり、試しに右足を地面へ下ろした。
途端に、傷口を鋭い痛みが貫いた。
彼の体がぐらりと傾き、膝から崩れ落ちそうになる。
俺は素早く駆け寄り、その腰を抱えるようにして支えた。自分の肩を差し出し、彼の体重を受け止める。
「俺が支えます」
「わ、私は……自分で歩ける」
「今は無理をしないでください」
俺はチョン・ソンを支えながら、掛け金を外した小窓の前まで歩いていった。
そして肩を当て、力いっぱい突き飛ばす。
バキッ!
腐りかけた木戸が、鈍い音を立てて外側へ吹き飛んだ。
山峡から吹き込んできた冷たい風が、勢いよく室内へ流れ込んでくる。
窓の外には、断崖に沿って細く伸びる険しい斜面が広がっていた。その道は曲がりくねりながら、深い谷底の渓流へと続いている。
俺は振り返り、チョン・ソンの顔を見た。
「行けますか?」
彼は外に広がる漆黒の闇を見つめ、それから迷いなく頷いた。
「行くぞ」
俺たちが窓から這い出した、その瞬間だった。
大部屋の方から、耳をつんざくような怒号が響き渡った。
「侵入者だ! 逃がすな、捕らえろ!」
俺は一度たりとも振り返らなかった。
歯を食いしばり、チョン・ソンを支えながら、岩肌に身を寄せるようにして険しい山道を急いで下る。そこは、かつてレー・ヴァン・ディンが教えてくれた道だった。
足を負傷しているチョン・ソンは、一歩踏み出すたびに傷口を激しく擦り、骨身に染みる痛みに耐えなければならなかった。そのため、俺たちの歩みは目に見えて遅くなっていく。
一方、背後から迫る追っ手の足音は、刻一刻と近づいていた。
「谷の下へ回り込め! 先回りして道を塞げ!」
灰衣の男の怒声が、夜の静寂を引き裂いた。
俺は即座に足を止めた。
目の前の山道は、狭い岩の裂け目に行く手を阻まれている。ここから先へ進むには、断崖の縁に張りつくような、滑りやすい地面を渡らなければならない。
昼間なら、木の根にしがみつきながら進むこともできるだろう。
しかし、今は周囲を見渡すことさえ難しい深い闇の中だ。
足を一度踏み外せば、二度と這い上がれない谷底へ真っ逆さまだった。
俺はチョン・ソンに尋ねた。
「ほかに道はありませんか?」
「私も……この道を通るのは初めてだ!」
俺は岩の裂け目を覗き込んだ。
眼下から、渓流の水音が聞こえてくる。
激しく水が流れる音ではない。だが、静かな夜の中では、はっきりと耳に届いていた。
そのとき、俺はふと思い出した。
北側の渓流だ。
そこには、白く平らな岩がいくつも連なり、山腹をぐるりと回る細い小道があったはずだ。
あそこまで下りられれば、追っ手を撒けるかもしれない。
しかし、ここから渓流までの高低差は相当なものだった。チョン・ソンほどの重傷を負った人間が、自力で飛び降りられるような場所ではない。
俺は周囲を素早く見回した。
そして、希望の光を見つけた。
落雷によってへし折られた、大きな松の木が一本。根元はまだこちら側の岩壁に深く食い込んでいるが、幹は斜めに倒れ、岩の裂け目をまたぐように伸びていた。
天然の丸木橋になっている。
「俺の背中にしっかりつかまってください!」
「駄目だ!」
チョン・ソンは即座に拒絶した。
「お前のような痩せっぽちが、私の体重を支えられるものか! 離れろ。自分のことは自分で何とかする!」
「だったら、ご自分の足で歩いてください!」
俺は彼の反論を待たず、倒木の上へ足を乗せた。
雨水を吸った木は半ば腐りかけていたが、子供一人の重さなら、どうにか耐えられそうだった。
俺は体の向きを変え、節くれだった手を彼に差し出した。
「これにつかまってください。ゆっくりでいいです。絶対に下を見ないでください」
チョン・ソンは、差し出された小さな手をじっと見つめた。
その一瞬、彼の脳裏には、初めて俺と出会ったときの光景が蘇っていたのかもしれない。
あの鍛冶場の軒先で、擦り切れた布袋を抱え、警戒心に満ちた目でこちらを見つめていた小さな子供。
あのとき彼は、俺のことを、森の中で迷い込んだだけの世間知らずな子供だと思っていたのだろう。人生の荒波など知る由もなく、世の中の恐ろしい出来事とは無縁の存在だと。
だが今、その子供が手を差し伸べ、自らを死の淵から救い出そうとしている。
チョン・ソンはわずかに震える手を伸ばし、俺の手をしっかりと握った。
俺たちは、倒れた松の幹の上を歩き始めた。
俺が先頭に立ち、足場を確かめながら、一歩ずつ進んでいく。
つま先を木の皮の凹凸に押し込み、指先で木目の隙間をつかむ。山風が吹きつけ、倒木が大きく揺れるたびに、俺はその場で動きを止めた。
木の揺れが収まり、再び安定するのを待ってから、ようやく次の一歩を踏み出す。
背後のチョン・ソンは、完全に沈黙していた。
ここでどちらか一人でも取り乱せば、二人そろって眼下の暗い谷底へ落ちていく。
彼はそれを理解していたのだ。
やがて、俺たちの足がようやく対岸の頑丈な岩場に触れた。
俺は安堵の息を吐いた。
だが、体を起こす間もなかった。
ドドドドッ!
荒々しい足音が、岩の裂け目の入口まで迫ってきた。
灰衣の男が追いついたのだ。
男は燃え盛るたいまつを高く掲げ、裂け目を横切るように倒れた松の幹を照らし出した。
対岸に立つ二つの人影を見つけた瞬間、炎に照らされた男の顔が憤怒に歪んだ。
男は腰の短刀を引き抜くと、こちらに向かって怒鳴りつけた。
「そこを動くな! もう逃げ場はないぞ!」
俺は一言も返さなかった。
灰衣の男は歯ぎしりしながら、倒木の上へ足を踏み出した。
だが、半分ほど渡ったところで、足元の腐った木が乾いた音を立てた。
ミシッ、ミシミシッ!
靴の下の木材が沈み込み、今にも折れそうにたわむ。
男はぎょっとして動きを止め、慌てて足を引き戻した。
チョン・ソンは背筋を伸ばし、夜闇の向こうにいる追っ手を冷ややかに見据えた。
「まだ命を懸けて追ってくるつもりか?」
灰衣の男は短刀の柄を強く握りしめた。手の甲には青筋が浮かび上がっている。
「その爺をこちらへ引き渡せ! まだ何一つ終わっていないぞ!」
チョン・ソンは鼻で笑った。
その嘲るような声が、山々の間に響き渡る。
「そうだな……確かに、まだ何も終わってはいない」
彼は背を向け、闇の向こうへ歩き出した。
「だが、貴様の望む形で終わることはない!」
俺は急いで彼を支え直し、斜面を下って北側の渓流へ向かった。
灰衣の男は、腐りかけた倒木をそれ以上渡ろうとはしなかった。
丸木橋の途中で立ち尽くし、二人の姿が木々の陰に消えていくのを、ただ怒りに満ちた目で見送っていた。
やがて、堪えきれなくなった男の怒号が山中に轟いた。
「散開しろ! ほかに回り込める道を探して追え!」
遠くから、兵靴が枯れ葉を踏み荒らす音が押し寄せてくる。
時間は、もう残されていなかった。
俺はチョン・ソンを支え、さらに歩みを速めた。そして渓流のほとりに生い茂る葦の群れへと、深く身を潜めた。
夜はゆっくりと明け始め、空は濁った灰色へと変わっていった。
ようやく安全な渓流の岸辺にたどり着いた頃には、チョン・ソンは完全に体力を使い果たしていた。
彼はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
俺は風を遮れる平らな岩を見つけると、彼を支えて座らせた。それから急いで冷たい渓流水をすくい、血の滲む傷口を洗い流した。
手首に巻かれていた白い布は、すでに鮮血で真っ赤に染まっていた。縄で締めつけられた部分には、ぞっとするほど濃い紫色の痣が刻まれている。
チョン・ソンは、震える俺の手を見下ろした。
「お前……その手も、ひどい傷じゃないか」
俺は顔を下げ、自分の手の甲に目を向けた。
岩壁に擦れたせいで、あちこちの皮膚が裂け、血が滲んでいた。
「大丈夫です」
チョン・ソンはしばらく黙って俺を見ていたが、やがて胸元に手を差し入れ、残っていた清潔な布切れを取り出した。
「手を出せ」
俺は意外に思い、目を瞬かせた。
「まだきれいな布を持っていたんですか?」
「私は鍛冶職人だ。用心深さが身に染みついている」
そう言うと、彼は自ら俺の傷の手当てを始めた。
手つきは少々荒っぽく、ハー・ティン・リュウ・ホアのような繊細さや滑らかさはなかった。
それでも、包帯代わりの布を結ぶ手際は確かだった。
きつく締めすぎて痛みを与えることもなく、かといって緩すぎて外れてしまうこともない。
彼が結び目を整える様子を見ているうちに、俺はふと、少し前にフウ・テーから教わった三重結びを思い出した。
この世で生きる人間は、誰しもそれぞれの生き抜く術を身につけているのだ。
手当てを終えると、チョン・ソンは顔を上げ、東の空を見つめた。
山の向こうが、うっすらと明るくなり始めている。
「私がお前に預けた資料の紙束は……きちんと隠したか?」
「誰にも見つけられない、安全な場所に隠しました」
「そうか。それならいい」
彼は目を細め、長く安堵の息を吐いた。
「これで、お前の役目は完全に果たされたというわけだ」
俺は枯れ葉の積もった地面に腰を下ろし、考え込むように尋ねた。
「それで、あなたは? これからどうするんですか?」
「この山を離れるつもりだ」
「どこへ行くんですか?」
「それも、まだ決めていない」
チョン・ソンは、丸い小石の間をさらさらと流れていく渓流に目を向けた。
「誰も私の過去を知らないような、人里離れた場所へ行くかもしれない。あるいは、あの黒い鉱石の正体を本当に知る者たちを探し出し、すべての罪を明るみに出すことになるかもしれん。私は長い間、卑怯にも逃げ続けてきた。だが、残された人生まで恐怖の中に埋めたまま、終わらせるわけにはいかない」
俺には、彼を引き止める言葉がなかった。
以前の俺は、大人というものは、世の中のあらゆる問いに対する答えを知っているものだと思っていた。
だが、今、目の前にいるチョン・ソンもまた、過去の過ちに苦しみ、明日の保証など何一つない道を選ぼうとしている、ただの一人の人間にすぎなかった。
彼はもう、何も知らなかった頃のように、気楽な鍛冶職人へ戻ることはできない。
起きてしまった出来事も、失われた命も、そして四年前から彼が胸の内に抱え続けてきた恐ろしい秘密も、すべて彼の人生の一部となっていた。
金では清算できない負債がある。
口先だけの謝罪では、決して消し去れない過ちがある。
それでも、人には選ぶ権利がある。
自らの過ちを、これ以上繰り返さないという道を。
チョン・ソンは俺に目を向けた。
その眼差しは厳粛でありながら、深い感謝に満ちていた。
「お前に命を救われるのは、これで二度目だな、バン」
「俺はただ、あそこから逃がしただけです」
「違う」
彼は静かに首を横に振った。
「お前には、私を見捨てて、一人で逃げるという選択肢もあった。それなのに、お前は自ら危険な場所へ戻ることを選んだのだ」
そう言うと、彼は節くれだった手で俺の頭をそっと撫でた。
「私はかつて、愚かにもこう信じていた。他人が持ち込んできた危険な仕事に、自分が目をつぶってさえいれば、道義的な責任など負わずに済むのだとな。だが、鍛冶場が崩れ落ちたあの日、ようやく目が覚めた。結局、私は自分自身を欺いていただけだったのだ」
俺は黙って座り、彼の言葉を一つひとつ胸に刻み込んだ。
チョン・ソンは、さらに声を落として続けた。
「過去を修復することはできない。だが、これ以上、悪魔に手を貸さないと決めることはできる」
彼は一度言葉を切り、俺の目をまっすぐに見つめた。
「そして、お前も覚えておけ。今日、一人を救えたからといって、明日にはすべての人々を救えるなどと、思い上がってはならん」
俺は顔を上げた。
チョン・ソンは、悲しげな笑みを浮かべた。
「私は、お前に世の中へ無関心になれと言っているのではない。ただ、一つだけ分かってほしい。誰かを守りたいのなら、まず自分に何ができるのか、己の力量を見極めなければならん」
その言葉を聞いた瞬間、俺の脳裏に、あの巨大な猪が小さな集落を蹂躙したときの光景が蘇った。
巻き添えになった罪のない人々。
そして、夜の闇の中、暗殺者たちに追い詰められ、逃げ場を失った自分自身。
俺は、善意さえあれば、どんな問題でも解決できると思い込んでいた。
そこには計算も、理性も、十分な備えもなかった。
その甘さが、あれほどの危険を招いたのだ。
だが、だからといって、失敗を言い訳にしてすべてを諦め、他人の苦しみに無関心な冷たい人間になりたいわけでもなかった。
「分かりました、先生」
「それならいい」
空は徐々に明るさを増していった。
チョン・ソンは立ち上がり、手当てした傷を自ら確かめると、古びた上着を肩に掛けた。
今の彼には、刀も、余計な道具もほとんど残されていない。
腰に提げているのは、簡素な修理道具をいくつか収めた、小さな革袋だけだった。
俺は彼を見上げ、名残惜しさを抑えながら尋ねた。
「もう行ってしまうんですか?」
「ああ」
「本当に、一人で行くつもりなんですか?」
チョン・ソンは、遠くまで伸びる細い山道を見つめた。
「私は、あの製錬所で何があったのかを公にするつもりだ。個人的な恨みを晴らすためではない。同じ過ちを、ほかの誰かに繰り返させないためだ」
俺は頷き、それ以上、彼を引き止めなかった。
数歩進んだところで、チョン・ソンはふと立ち止まり、振り返った。
「バン」
「はい?」
「お前は今でも、武芸を学びたいと思っているか?」
「はい。学びたいです」
「ならば、本当に徳を備え、正統な武芸を受け継いだ師を探し、その門下に入れ。森の中で枯れた竹の枝を振り回しながら、いつまでも独学を続けるな。幼い頃に身についた拳法の誤りは、早いうちに正さなければ、大人になってからでは一生直せぬ悪癖になることもある」
俺は唇を引き結び、その言葉を心に刻むように頷いた。
チョン・ソンは、俺に秘伝の内功の奥義を授けることもなければ、将来、武林を震撼させる大高手に育ててやると約束することもなかった。
ただ懐に手を入れ、角が滑らかになるまで磨き上げられた、小さな鉄の輪を取り出した。そして、それを俺の掌に置いた。
「これは宝飾品としての価値など、大してない。私が若い頃に、自分の手で打ち出したものだ。修理を終えた金属製品に押す印として使っていた。気に入ったのなら、持っておくといい」
俺は手の中にある小さな鉄輪を見つめた。
磨き上げられた金属の表面には、素朴ながらもくっきりと、一つの炎が刻まれていた。
俺はその輪を、掌の中でぎゅっと握りしめた。
「大切にします」
チョン・ソンは最後に一度だけ頷くと、今度こそ迷いなく背を向け、歩き去っていった。
今度の俺は、裸足のまま彼の後を追いかけたりはしなかった。
俺は古びた木造の小屋の前に立ち尽くし、朝霧の幾重もの向こうへと消えていく老人の背中を見送った。
やがて、山道は白い霧に覆われ、その姿は完全に見えなくなった。
もう二度と、この生涯で彼に会うことはないのかもしれない。
俺には、それが分かっていた。
それでも、あの短い出会いが無意味だったとは思わない。
タ・チョン・ソンは、兵法書にも武功秘録にも決して記されていない教えを、俺に残してくれた。
人は、すでに起きてしまった災いをなかったことにはできない。
だが、今この瞬間から自分が選ぶ一歩一歩に、責任を持つことはできるのだ。
俺は小さな鉄輪を胸元の革袋へ大切にしまい込み、踵を返した。
そして再び、原生林の奥へと足を向けた。
東の山頂からは、すでに太陽が顔を出し始めていた。
温かな朝日が、広大な森へと最初の光を注いでいる。
俺はこれからも、生きていかなければならない。
狩りをして食料を確保し、体を鍛え、そして自分にとって唯一の居場所であるこの森を守る方法を探していく。
黒い鉱石にまつわる暗い秘密は、いまだすべてが明らかになったわけではない。
灰衣の男と、その背後にいる組織も、簡単に手を引くはずはなかった。
チョン・ソンから託された機密資料も、今なお人目につかない場所へ安全に隠してある。
だが、少なくとも、あの老鍛冶師は本当の意味で自由になった。
そして何より、今回は無謀な勇気や血気にはやる衝動だけで、誰かを救おうとしたわけではなかった。
俺は、辛抱強く機会を待つことを覚えた。
周囲の地形を観察することを覚えた。
退路を確保することを覚えた。
そして、信頼できる人間の助けを借りることを覚えたのだ。
それは、小さな勝利だった。
勝利を告げる高らかな角笛はない。
誰一人として、俺を天下無双の英雄と称えたりはしない。
ただ一人、まだ十歳の子供が、森の奥を静かに歩いていく。
その懐には、小さな鉄の輪が、穏やかな眠りにつくように収まっていた。
だが、ときに偉大な人間の第一歩は、金糸や絹で飾られた華やかな大通りから始まるわけではない。
それはいつだって、ぬかるんだ山道の片隅から始まる。
一睡もできなかった長い夜を越え、一人の子供がようやく、一つの真理を悟ったときに。
本当の勇気とは、恐怖を知らないことではない。
自分が何を恐れているのかを正しく理解したうえで、それでもなお、自らの良心に恥じない行いを選び取ることなのだ。




