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Episode 66

 その朝、老いた松の梢にまとわりつく濃霧が、淡い朝日にいまだ払いのけられずにいた頃、私はひっそりと、村へ続く石畳の道の入り口に立っていた。


 謝重山(しゃ・ちょうざん)の鍛冶場は、死んだような静寂に沈んでいた。煙突からは、いつもなら立ちのぼっているはずの白煙が一筋も見えない。鉄を打つ鋭い槌音も、山あいに響き渡ることはなかった。


 低い軒先には、客の来訪を知らせる小さな銅鈴が、相変わらずぶら下がっていた。しかし、鈴を吊るしていた麻紐はいつの間にかぷつりと切れ、短く残った端切れだけが、山の斜面から吹き下ろす冷たい風に、かさかさと頼りなく揺れている。


 ここを訪れるのは、これで三度目だった。


 一度目は、木戸が固く閉ざされていた。


 二度目は、軒先から中の様子をうかがった。人の囁き声も、何かが動かされる物音も、確かに聞こえた。だが、敷居の前に見慣れぬ足跡がいくつも残されているのを見つけ、どうしても中へ踏み込むことができなかった。


 そして、三度目となる今。


 生き物の気配は、微塵もなかった。


 その家は、歳月の流れに忘れ去られた廃寺のようだった。ただし、軒先には、鍬や鋤に仕上げられるのを待つ粗鉄の棒が、いまだ幾本も無造作に転がっていた。


 私は息を殺し、敷居に足をかけると、木戸にそっと手を添えた。


 鍵はかかっていなかった。


 ぎい……。


 扉は軋んだ音を立て、ゆっくりと内側へ開いていく。その隙間から、荒れ果てた室内が露わになった。


 製品を並べていた大きな木机は、横倒しになって片隅へ追いやられていた。脚を折られた腰掛けが壁際に転がり、粗鉄の棒や鍛冶道具は、血なまぐさい強奪の跡を物語るかのように、床一面に散乱している。


 炉の灰は、とっくの昔に冷えきっていた。


 ひっくり返った机の天板には、何かが激しく擦りつけられたような、乱雑で深い傷が長々と刻まれている。積もった埃を引き裂くその痕跡は、重く、鋭利な物体が力任せに引きずられたことを思わせた。


 私は、焦って室内へ踏み込んだりはしなかった。


 戸口に足を止めたまま、鋭い眼差しで左から右へと視線を巡らせる。どれほど些細なものでも、見落とすわけにはいかなかった。


 書類を収めていた木箱は、机の下に押し込まれたまま残っていた。しかし、蓋は完全にこじ開けられている。小さな引き出しも半ば以上引き抜かれ、中は空っぽだった。残されていたのは、ほつれた縄の切れ端と、古びて錆びついた鉄釘が数本ばかり。


 私の脳裏に、鍛冶場の地下にある暗い穴蔵がよぎった。


 以前、謝重山は厚手の紙包みを私に託し、本当に安全な場所へ運ぶよう言いつけた。あの包みのほかにも、ここに何かを隠していたのかどうか、私にはわからない。


 だが、目の前の木箱が、隅々まで探り尽くすように荒らされているのは明らかだった。


 私は身を屈め、敷居のあたりへ目を凝らした。


 湿った土の上には、三人分の足跡が乱れて重なっていた。二人分は家の奥へ向かい、もう一人分は反対に、外へ引き返している。


 横倒しになった机のすぐそばには、小さな血痕が一つ残っていた。鮮やかだったはずの血は、すでに黒ずみ、煉瓦の床に凝り固まっている。


 乾いた血の跡一つから他人の負傷の程度を見抜けるほど、私は実戦の経験も医術の心得も持ち合わせていなかった。


 それでも、脳裏には、白い布を巻かれ、血に汚れていた謝重山の左腕が浮かんでいた。


 おそらく、あの古傷が、侵入者に抗う最中に再び裂けたのだろう。


 私は家の中へ足を踏み入れた。


 床に足を下ろすたび、動作を極限までゆっくりと抑え、細心の注意を払った。残された痕跡を無用に乱したくなかったし、眼前で起きた悲劇の真相を解く手掛かりを、一つたりとも見逃したくなかった。


 炉の土台の下には、鉄挟みが一本落ちていた。頑丈なはずのそれは、何者かに力ずくで折り曲げられ、無惨に歪んでいる。


 そのすぐ隣では、竈の灰が半円を描くように踏み荒らされていた。重い身体がそこを引きずられたかのような跡だった。


 私は片膝をつき、灰の縁に指先をそっと触れた。


 冷たい。


 氷のように、冷えきっていた。


 私ははっと顔を上げ、暗がりに沈む炉を見つめた。その瞬間、自分が何よりも不安を覚え、胸の奥をざわつかせているものの正体に気づいた。


 部屋の荒廃でも、道具が散乱していることでもない。


 この場所を覆い尽くす、徹底した静寂だった。


 謝重山は、炭と鉄と火に人生を捧げてきた鍛冶職人だ。たとえ大怪我を負っていようと、招かれざる客に邪魔されようと、彼はいつだって、空が白み始めるより早く炉に火を入れる男だった。


 それなのに、今朝はどうだ。


 炉の奥まで、冷えきっている。


 温もりの欠片すら残されていない。


 もし彼が本当に、まだこの場所に囚われているのなら、せめて苦しげな息遣いの一つくらいは聞こえてもよいはずだった。どれほど微かなものであろうと、生きている証が残っていてもよいはずだった。


 私は素早く立ち上がり、周囲を警戒しながら裏口へ回った。


 裏庭へ通じる小さな扉は、無残にも大きく開け放たれていた。砕かれた板切れが土の上に転がり、その脇には乱れた足跡がいくつも続いている。跡は、家の裏手にある狭い路地へと、まっすぐ延びていた。


 私はしばらく、その足跡を黙って見つめていた。


 やがて身体の向きを変え、鍛冶場を後にした。


 誰かの口から答えを聞くまでもなかった。


 最も残酷な答えは、すでに目の前に示されている。


 謝重山は、姿を消した。


 そして、彼を力ずくで連れ去った連中は、おそらく今この瞬間にも、次の標的である私の行方を追っているに違いなかった。


 私は村の小道を離れ、そのまま川の船着き場へ向かった。


 そこでは、二人の屈強な男とともに、范有世(はん・ゆうせい)が木の筏の脇で汗だくになっていた。腐りかけた横木を取り替えるため、槌を振るっていたのだ。


 遠くから私の姿を認めると、彼は手にしていた槌を放り出し、足早にこちらへ歩み寄ってきた。


「鍛冶場へ行ってきたんだな?」


 私は唇をきつく引き結び、重々しく頷いた。


「謝重山殿は、もうそこにはいなかった」


「連中に連れ去られたのか?」


「おそらくな」


 私は、現場で自分の目にしたものを手短に話した。荒らされた木箱、床に残された乾いた血痕、そして大きく開け放たれた裏口。


 有世は黙って耳を傾けていたが、話が進むにつれ、その顔から次第に険しさが増していった。やがて視線を落とし、船着き場の下を勢いよく流れる川へ目を向けた。


 長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。


「昨夜、この村から見慣れない馬車が一台、出ていった」


「どんな馬車だ?」


 私は弾かれたように顔を上げた。


「幌で荷台を覆った馬車だ。車輪には、分厚い鉄輪が嵌められていた。薪や食糧を運んでいる様子はなかった。少なくとも、嵩張る荷物は見当たらなかったな。東の街道の入り口でしばらく止まっていたが、その後、山の麓へ向かって走り去った」


 そこで有世は、わずかに言葉を切った。


「ただ、あの中にいたのが謝重山殿だったとまでは断言できない。だが、馬車がこの船着き場を通り過ぎたとき、木の荷台に金属がぶつかる、かちゃかちゃという音が確かに聞こえたんだ」


 私は聞いた情報を一つずつ吟味した。


「誰かが縛り上げられていて、手足の枷が荷台にぶつかっていた可能性は?」


「十分にある。あるいは、あの男の鍛冶道具を連中が取り上げ、運んでいたのかもしれない」


 有世は私の目をまっすぐに見返した。


「根拠もない希望を吹き込んで、お前をぬか喜びさせたくはない。俺が知っているのは、耳にしたそれだけだ」


 私は彼を責める気にはなれなかった。


 有世には養うべき家族がいる。船着き場の仕事も、その両肩に重くのしかかっている。ましてや、灰色の衣をまとった刺客たちと、彼自身に何の因縁があるわけでもない。


 ほんの少し縁があっただけの相手のために、すべてを投げ出して危地へ飛び込むことなど、誰にでもできることではなかった。


 それどころか、もし私が彼の立場だったなら、同じように行動できたかどうかさえ、自信はなかった。


「俺が一人で探しに行く」


 私は決意を込めて言った。


 有世は即座に一歩踏み出し、私の行く手を塞いだ。


「正気か、お前。刀一本ぶら下げて、道も定かでない深山へ一人で入り込み、どこにいるとも知れない人間を探すつもりか?」


「この森なら、木の洞一つ、岩陰一つまで知り尽くしている」


「森の道に詳しいことと、連中がどこに潜んでいるか知っていることは、まるで別の話だ」


 私は唇を引き結び、黙り込んだ。


 有世はしばらく私を見つめていたが、やがて深々とため息をつくと、木の筏へ向き直った。


「そこで待っていろ」


 彼は荷物を積んだ場所を探り、丈夫に編まれた麻縄を一本と、鋭く研がれた小ぶりの短刀を取り出した。そして私のもとへ戻ると、それらを手渡した。


「一緒に死にに行くわけにはいかない。だが、深い沢を渡るときや、切り立った崖をよじ登るときには、少しくらいお前の命をつないでくれるはずだ」


 私は掌の中の麻縄を強く握りしめた。


「恩に着る、有世」


 彼は、今まで見たことがないほど厳しい眼差しで私を睨んだ。


「いいか、よく聞け。連中の痕跡を見つけても、相手の数が多すぎるとわかったら、絶対に腕試しのつもりで飛び込むな。すぐに引き返し、村の人間に知らせるんだ」


「そのときには……もう手遅れかもしれない」


 有世は言葉に詰まった。


 すぐには答えられなかった。


 幼い二人の間に、重苦しい沈黙が落ちた。


 私の問いに、簡単な答えなどあるはずもなかった。時間が過ぎれば過ぎるほど、謝重山の身に何が起きるかもわからなくなる。


 やがて、有世は奥歯を噛みしめ、低い声で言った。


「俺にもわからない。だが、お前まであそこで死んじまったら、重山殿を助けられる人間は誰もいなくなる」


 私は俯き、手の中の縄を見つめた。


 反論する言葉は出てこなかった。


 この世界の生存の掟は、あまりにも冷酷で、あまりにも現実的だった。


 弱い者が、愚かな死に方をしたところで、世の流れは変わらない。誰かを救いたいのなら、自らの命を投げ出すことだけを考えるのではなく、どうすれば最も確実に救い出せるかを考えなければならない。


 後悔しないためだけに無謀な真似をするのではなく、後悔することになろうとも、生きて救う道を探す。


 それが今の私に求められていることだった。


「できる限り慎重に動く」


 そう言って、私は麻縄を懐へしまった。


「口先だけの約束で済ませるな。今の言葉、骨の髄まで刻み込んでおけ」


 東へ延びる道は、その先の深山へ入るにつれ、ひどく寂れたものになっていった。


 片側には、灰色の岩肌を剥き出しにした切り立つ崖。もう片側には、古い竹林が隙間もないほど密集している。


 雨季の大雨が降るたび、土砂が崩れて道を塞ぐような場所だった。山を知り尽くした狩人でもなければ、一つひとつの岩や土の盛り上がりを見分け、どこに足を置けば崩れずに済むのか判断することさえ難しい。


 私は歩調を緩め、呼吸を一定に保ちながら進んだ。


 足跡ばかりを追うことはしなかった。道の真ん中だけでなく、両脇の地面にも絶えず目を配った。


 重い馬車が通れば、湿った土には必ず車輪の跡が残る。とりわけ、坂道を上り下りしたのであれば、その痕跡はいっそう深く刻まれているはずだった。


 果たして、一里近く進んだところで、私はぬかるんだ地面に深く刻まれた車輪の跡を見つけた。


 二本の轍は並んで細い谷間を抜け、その先で、大きな岩が地面を覆い尽くす場所に差しかかった途端、忽然と消えていた。岩の上には、車輪の通った痕跡など残されていない。


 私は片膝をつき、注意深く地面を調べた。


 轍の縁には、真新しい擦過痕が残っていた。車輪を覆う鉄輪が、鋭い岩角に擦れた跡だ。


 その近くでは、野生のクサイチゴの枝が車輪に押し潰され、ひしゃげたまま折れていた。傷ついた枝から滲み出た樹液は、まだ乾いていない。


 馬車がここを通過したのは、そう昔のことではない。


 私はすぐさま立ち上がり、先へ続く道を探した。


 そこから先、山道は二手に分かれていた。


 一方は、険しい坂をまっすぐ山頂へと向かう道。


 もう一方は、山腹に沿って曲がりくねりながら、東の谷間へ下っていく道だった。


 私は後者を選んだ。


 馬車がそちらへ進んだと確信していたわけではない。せいぜい、そうである可能性がわずかに高いと考えただけだ。


 それでも、現時点で不自然な新しい痕跡が残っているのは、そちらの道だけだった。


 私は山道をさらに進んだ。


 しばらくすると、道端に小さな木製の車輪が一つ、打ち捨てられているのが目に入った。周囲には雑草が生い茂り、その表面にも土埃が厚く積もっている。どう見ても、つい先ほど落とされたものではない。


 私は、それを手掛かりと見誤るような愚は犯さなかった。


 再び前を向き、黙々と歩みを進める。


 やがて、太陽が頭上へ差しかかる頃。


 両側から迫っていた山の稜線がふいに開け、山道は少しずつ幅を広げていった。


 その先、二つの山の斜面に挟まれるようにして、崩れかけた古い建造物が姿を現した。


 かつて、ここで鉄を熔かし、鍛えていたのだろう。


 苔むした石壁は半ば崩れ、屋根の大部分は失われている。荒れ果てた敷地には、黒ずんだ煉瓦と砕けた石材が、長い年月に置き去りにされたまま散乱していた。


 廃れた古い製錬場――。


 そこが、私の辿り着いた場所だった。

 遠目にも、その廃墟の異様な姿ははっきりと見て取れた。


 陰陽瓦を葺いた屋根は半ば崩れ落ち、黒煙に燻された煉瓦の壁には、幾筋もの亀裂が走っている。ひときわ高く聳える煙突に至っては、頂上から根元まで、長い裂け目が一本、無惨に刻まれていた。


 雑草と蔓草が絡み合い、出入り口を覆い尽くしている。だが、不思議なことに、その戸口の手前だけは違っていた。乾いた土の上に、いくつもの靴跡がくっきりと残されていたのだ。


 私はそっと後ずさりし、幹の太い古松の陰へ身を隠した。


 記憶の底から、かつて謝重山が語っていた、この旧製錬場の話が蘇る。


 かつて、正体の知れぬ黒い鉱石を熔かしていた場所。


 炉の爆発事故によって、数多くの木工職人や鍛冶職人が命を落とした場所。


 そして、灰色の衣をまとった一団が、残された金属片をことごとく奪い去り、闇夜の中へ消えていった場所。


 その因縁深い廃墟に、今や刺客たちが謝重山を監禁している可能性が高かった。


 地獄そのものと呼ぶべき、この場所に。


 私は、考えなしに飛び込むような真似はしなかった。


 まずは周囲の地形を慎重に見渡した。


 製錬場の裏手には低い岩壁があり、そこには樹木の根が幾重にも絡みついている。根を伝って降りれば、眼下の谷へ抜けられそうだった。左手には、密生した竹林を横切る細い隙間がある。一方、右手に広がる平地は見通しがよすぎて、身を隠せる場所がまるでなかった。


 万が一、状況が急変し、撤退を余儀なくされた場合、最も安全なのは竹林を抜ける道だろう。


 私は足元から小さな石を拾い、向かいの岩壁へそっと投げた。


 反応はない。


 しばらく待ち、周囲が本当に静まり返ったのを確かめてから、木々の幹に身を寄せつつ、製錬場の正面入口へ近づいていった。


 そのときだった。


 ひび割れた煉瓦の隙間から、しゃがれた男の声が、はっきりと聞こえてきた。


「老いぼれ、最後にもう一度だけ聞く。残っている鉱石の構造に関する記録は、いったいどこへ隠した?」


 それに応じたのは、紛れもなく謝重山の声だった。


 弱々しく掠れてはいたが、その奥には、なおも折れぬ意志が宿っていた。


「何度言わせれば気が済む……。燃やすべきものは、とっくの昔に炉へ放り込み、灰になるまで焼き尽くした」


 相手の男が、鼻で笑った。


「ならば、説明してもらおうか。山奥の村に住む野生児が、なぜこの件について、あれほど詳しく知っている?」


 謝重山は黙り込んだ。


 私は掌に爪が食い込むほど拳を握り締め、息を殺して煉瓦壁に耳を寄せた。


 見つけた。


 奴らの巣窟を、ようやく突き止めたのだ。


 だが、尋問の口ぶりを聞く限り、連中の目的は黒い金属片を奪い取ることだけではないらしい。


 謝重山が隠し持っていた資料や設計図、各種の記録。そのすべてを血眼になって探しているのだ。


 そして、もし奴らが、最も重要な書類の束が十歳の子供――この私の懐に収まっていると知ったなら。


 待ち受けるのは、無惨な死だけだろう。


 私は横へ移動し、壁が大きく崩れた箇所を見つけると、そこから慎重に中を覗き込んだ。


 広々とした炉場にいたのは、全部で三人だった。


 謝重山は、朽ちかけた木椅子に縛りつけられていた。両腕は背後へ回され、太い縄で固く拘束されている。左腕の傷口は再び大きく裂け、上衣の広い範囲を鮮血で染めていた。


 彼の眼前に立っていたのは、見覚えのある灰衣の男だった。腰には短刀を差している。


 そのすぐ脇には、長身の屈強な男が一人。手には、冷たい光を放つ長刀が握られていた。


 三人目は長机の前で身を屈め、ぼろぼろになった古い設計図を漁っていた。


 机の上には、黄ばんだ紙片のほか、砕けた金属片、そしてかつて私が山間の谷で見かけた、革張りの細長い木箱まで置かれている。


 灰衣の男は、粗末な設計図を一枚手に取ると、謝重山の目の前へ突きつけた。


「お前が最も重要な部分を、まだ隠し持っていることはわかっている。これ以上、俺の忍耐を試すな」


「そこまで欲しければ、自分で探せ!」


 謝重山は血の混じった唾を床へ吐き捨てた。


「いつまで減らず口を叩けると思っている?」


 謝重山は濁った目を持ち上げ、男を見据えると、嘲るように笑った。


「どうせ、わしはもうじき死ぬ身だ。この歳になれば、死ぬことなど怖くもない。だが、お前たちに思い知らせてやろう。たとえ来世までも追い続けたところで、わしの口から望みのものを聞き出すことなどできんとな」


 長刀を持った男が、怒りで顔を赤黒く染めた。


 彼は一歩踏み出し、老人を殴りつけようと腕を振り上げたが、灰衣の男が左手を上げ、冷ややかに制した。


 どうやら、今すぐ暴力に訴えて謝重山を殺すつもりはないらしい。


 怒りに任せて痛めつけるのではなく、何としてでも自発的に秘密を吐かせようと、辛うじて理性を保っているようだった。


「俺は、役にも立たない記録をすべて欲しがっているわけじゃない」


 灰衣の男は声を落とし、脅すように告げた。


「最後に精錬した鉱石、その製錬法の核心となる処方だけでいい」


 謝重山は断固として首を横に振った。


「もう、何も残っておらん」


「嘘をつくな!」


「信じるかどうかは、お前たちの勝手だ」


 灰衣の男は怒りを露わにし、木机へ手を叩きつけた。


 ドンッ!


「謝重山! 自分を何様だと思っている? その秘密を抱えたまま、墓場まで持っていくつもりか!」


 男の声が、荒れ果てた炉場に響き渡った。


「黒い鉱石が他人の手に渡れば、世界がどうなるか、お前も十分にわかっているはずだ。あれが世に流れ出れば、どれほど多くの命が苦しむことになるかもな。なのに、なぜそこまで頑なに守ろうとする?」


 謝重山は首を反らし、声を上げて笑った。


 しかし、傷の痛みと積み重なった苦悩のせいか、その笑いはひどく歪み、どこか悲痛な響きを帯びていた。


「お前が、このわしに残酷さの道理を説くというのか?」


 彼は目を見開き、男の顔を正面から睨みつけた。


「わしに秘密を吐かせようとする前に、まず己の胸に問うてみろ。お前たちは、その化け物じみた兵器を、戦場で何に使おうとしているのだ?」


 灰衣の男が、ぴたりと動きを止めた。


 言葉が喉に詰まったかのように、しばし口を開くことさえできなかった。


 その一瞬を、私は壁の隙間越しに見逃さなかった。


 そして、そのわずかな反応から、一つのことがわかった。


 謝重山自身も、背後に潜む陰謀の全貌までは把握していない。


 だが、目の前の連中もまた、自分たちが崇め、手に入れようとしている力のあまりの恐ろしさに、内心では怯えながら手探りで進んでいるのだ。


 連中が確実に知っているのは、黒い金属片が莫大な価値を持つこと。


 その内部に、尋常ではない破壊力を秘めた、制御困難なエネルギーが眠っていること。


 そして、その製造に関わった者たちは、真実を口外する前に、ことごとく始末されなければならないこと。


 おそらく、それだけだった。


 灰衣の男は大きく息を吸い込むと、傍らの部下二人へ命じた。


「お前たち、外へ出て見張っていろ」


 長刀を持った男が、戸惑ったように眉をひそめた。


「しかし、大人……。俺たちが出て、あなたお一人でこの老いぼれを相手にしても、本当に大丈夫なのですか?」


「外へ出ろと言っている!」


「はっ……!」


 二人の部下は不満を呑み込み、黙々と正面入口へ向かった。


 やがて、室内には灰衣の男と、縛りつけられた謝重山だけが残された。


 それからの会話は、ほとんど聞き取れなかった。


 灰衣の男は声を極限まで落とし、早口で何かを囁き続けていた。壁越しに私の耳へ届いたのは、途切れ途切れの言葉だけだった。


「……最後の製錬……」


「……あれを連中の手に渡すわけには……」


「……山の向こうの旦那が、毎日のように催促を……」


「……持ち帰れなければ、俺たち全員、同じ墓穴に入ることになる……」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 どうやら、冷酷無比な刺客として振る舞っているこの灰衣の男でさえ、背後にいる、さらに恐ろしい勢力の圧力に屈しているらしい。


 こいつは、決して頂点に立つ人間ではない。


 より巨大な盤上で動かされる、ただの駒にすぎないのだ。


 私が想像したこともないほど広大で、深く、底知れない盤上の。


 だが、それを知ったからといって、目の前の男の脅威が薄れるわけではなかった。


 むしろ逆だ。


 この混乱は、もはや小さな山村の中だけで起きている争いではない。私の知らないところで、もっと大きな何かが動き始めている。


 しかも、その広がりは、私が考えていた範囲をはるかに超えていた。


 私はそっと身体を引き、壁の隙間から少しずつ離れていった。


 これ以上、ここに留まるわけにはいかない。


 そう判断し、踵を返そうとした、その瞬間だった。


「お前たちは、わしを廃人になるまで痛めつけてもいい! このぼろ小屋を焼き払っても構わん! だが、これ以上、わしに手を貸させて、新たな災厄を生み出そうなどとは夢にも思うな!」


 謝重山の怒号が、静寂を切り裂いた。


 直後。


 バシッ!


 乾いた、荒々しい打撃音が室内から響いた。


 私はびくりと肩を震わせ、慌てて振り返った。


 壁の隙間から覗くと、灰衣の男が勢いよく立ち上がっていた。怒りのあまり顔色は青ざめ、氷のように冷たい眼差しが、隠しようのない憎悪を帯びて室内を走っている。


 その視線が、一瞬だけ、私の身を潜めている方角をかすめた。


「その頑固さ、必ず高くつくぞ、謝重山!」


 だが、老人は一歩も引かなかった。


 彼は顎を上げ、瞬き一つせず、男を睨み返していた。


 私は悟った。


 もはや、時間は私の味方ではない。


 一刻も早く、ここを離れなければ。


 私は竹林の密生した茂みへ素早く身を滑り込ませると、急斜面を滑るように下り、范有世との待ち合わせ場所へ向かった。


 南側の森の入口で范有世と合流した頃には、太陽はすでに西へ傾いていた。


 夕日が木々の梢を血のような赤に染め、山の向こうへ沈みかけている。


 私の姿を認めるなり、有世は慌てて駆け寄ってきた。


「どうだった? 連中の居場所はわかったのか?」


「見つけた……」


 私は荒い息を整えながら、頷いた。


「東の山腹にある旧製錬場だ。あそこに謝重山殿が囚われている。まだ生きているが、きつく縛られ、傷だらけだった」


「見張りは何人いる?」


「全部で三人。二人は長い得物を持っている。指揮しているのは、あのときの灰衣の男だ」


「周囲にも人を配置しているのか?」


「正面の出入り口は厳重に見張られている。だが、裏手には岩壁があって、竹林を抜ける細道もある。うまく進めば、すぐには見つからずに近づけるはずだ」


 有世は黙って耳を傾け、顎に手を当てながら考え込んだ。


「それで、お前は正面から乗り込んで、人質を奪い返すつもりか?」


「いや。三人とも、武器の扱いに慣れた手練れだ。正面からぶつかっても、俺に勝ち目はない」


「なら、どうする気だ? あの人が連中の手で死んでいくのを、ただ黙って見ているつもりか?」


 私は有世の目を見つめ、確かな口調で答えた。


「機を待つ。あの鍛冶職人は、そう簡単に屈する人じゃない。連中も、あそこでいつまでも拷問を続けるわけにはいかないはずだ。いずれ場所を移し、別のところで口を割らせようとするだろう。馬車か、あるいは一団が製錬場を離れるとき……そこが、俺たちに残された唯一の救出の機会だ」


 有世は、すぐには反論しなかった。


 彼は平たい岩の上に腰を下ろし、足元の枝を拾うと、地面をつつきながら考え込んだ。


「もし、連中が場所を移す前に、あの人を始末すると決めたらどうする?」


「奴らの会話を盗み聞きした。連中は、設計図と最後に製錬した鉱石の処方を必要としている。それを謝重山殿の口から聞き出せないうちは、簡単には命を奪えないはずだ」


 有世は顔を上げ、複雑な眼差しで私を見つめた。


「お前、俺より一つ年上なだけなのに、どうしていつもそんな無茶ばかり考えるんだ、林兆斌?」


「無茶をしているつもりはない。自分とあの人、二人が生き残るために、どうすればいいか考えているだけだ」


 そのときだった。


 背後の茂みから、かすかな足音が聞こえた。


 私たち二人は同時に身を強張らせ、弾かれたように立ち上がった。腰の短刀へ手を伸ばし、いつでも抜けるよう身構える。


 だが、木陰から姿を現したのは、意外な人物だった。


 黎文定(れい・ぶんてい)。


 前日の午後、私たちが出会った、足を引きずりながら炭を運んでいた男だ。肩には粗末な布袋を担ぎ、手には長い竹杖を突いている。


「文定さん……!」


 有世は驚きの声を上げた。


 文定は口の端を歪め、乾いた笑いを漏らしながら近づいてきた。


「お前たち、俺の目を欺けると思っていたのか?」


 その目には、呆れと諦めが入り混じっていた。


「昼過ぎから、こそこそと動き回っているのは見えていた。東の山にある、あの化け物じみた製錬場へ忍び込むつもりなんだろう?」


 私は彼を見上げ、率直に答えた。


「人を助けたいんです」


「その貧弱な身体で、どうやって助けるつもりだ? お前たち、まだ子供だろうが!」


 文定は深いため息をつき、何度も首を横に振った。


「言っておいたはずだ。あの製錬場にいる連中は、そこらのこそ泥とはわけが違う。奴らから漂ってくる殺気は、背筋が凍るほどだ。お前たちが考えなしに突っ込んでいけば、火に飛び込む羽虫と同じ末路を辿るぞ」


「自分が弱いことは、わかっています」


 私は答えた。


 声に震えはなかった。


「それでも、かつて俺を助けてくれた人が、悪党どもの手で殺されるのを、黙って見過ごすことはできません。手を貸してくれないのなら、無理に頼むつもりはありません。俺は、自分で方法を探します」


 文定は目を見開き、私を見つめた。


 痩せ細った、小さな子供。


 その黒い瞳には、年相応の無鉄砲さなど微塵もなかった。


 宿っていたのは、冷徹なまでの決意だった。何があろうと、退くつもりはないという、頑なな意志。


 文定はしばらく黙り込み、心の中で何かを天秤にかけるように考え続けていた。


 やがて、彼は布袋を地面へ放り出すと、石段にどっかりと腰を下ろした。


「まったく……前世でどんな借りを作ったっていうんだ、俺は!」


 彼は顔を上げ、私と有世を交互に見た。


「この足も昔ほど自由には動かん。だがな、東の山にある岩の裂け目も、沢の流れも、誰も知らん隠し道も、俺ほど詳しく知っている人間はそうおらん」


 彼の声から、先ほどまでの呆れた響きが消えていた。


「お前たちが、連中が謝重山を移送するときを狙って奇襲するつもりなら、俺の助けが必要になる」


 私は思わず瞬きをした。


「本当に、手を貸してくださるんですか?」


「お前たちを死なせるために手を貸すわけじゃない」


 文定は厳しい顔つきで言い直した。


「俺が守りたいのは、この平穏な村だ。よそ者どものせいで、村が災厄に巻き込まれ、焼け跡と灰だけが残るようなことになっては困る」


 彼は一度、言葉を切った。


「それに、もう一つ理由がある。昔、俺の人生で最も苦しかった年に、謝重山が荷車を修理してくれた。あの恩を忘れるほど、俺は薄情な男じゃない」


 真冬の凍てつく夜の中、私の胸に、じんわりと温かなものが広がった。


 人の心が、欺きと残酷さに満ちている世界。


 黒い金属が、死と破滅の影を落としている世界。


 そのような場所であっても、飾り気のない人情は、なお人を支える確かな礎となり得るのだ。


 誰かを信じること。


 受けた恩を忘れないこと。


 そして、誰かが苦しんでいるとき、見て見ぬふりをしないこと。


 世の中がどれほど冷たくなろうと、そうしたものまで失われたわけではない。


「ありがとうございます」


 私は深々と頭を下げた。


「礼を言うのはまだ早い。まずは俺の話を聞け」


 文定は軽く咳払いをし、二人にもっと近くへ来るよう手招きした。


 それから彼は、地面に枝で線を引きながら、計画を説明し始めた。


 夜の帳が東の山々を覆い尽くすまで、そう長くはない。


 限られた時間の中で、移動経路、待ち伏せに適した場所、そして万が一の際に命をつなぐための退路。


 その一つひとつを、私たちは慎重に確かめていった。


 救出の機会は、一度きりかもしれない。


 そして、その一度を逃せば、謝重山を二度と助け出せなくなる可能性もあった。


 だからこそ、私たちは決して焦らなかった。


 暗闇が山を覆い始めるなか、三人の影が地面に寄り添うように落ちていた。


 そのときの私は、まだ知らなかった。


 この夜に立てた計画が、これから先、自分の運命を大きく変えることになるなどとは。


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