Episode 65
夜明けには、まだ幾分か早かった。
山腹にそびえる古松の幹という幹に、粘りつくような濃霧がまとわりついていた。その霧をかき分けるようにして、私は息を切らしながら谷へと駆け下りていた。
昨夜、私は一睡たりともできなかった。
鍛冶場に現れた灰色の衣の男の冷ややかな眼差し。鍛冶師の口の端から滲んでいた血。そして、危険が降りかかる直前、彼が慌ただしく私の手に押し込んだ薄い紙包み。いくつもの光景が脳裏で幾重にも重なり、私の心を休む間もなく苛んでいた。
危険そのものが怖いわけではない。
私が何よりも不安に感じているのは、相手が組織だった集団であるという事実だった。奴らは武器を持ち、精巧な探知器具まで備えている。それに対して、こちらは森で野生児同然の暮らしを送ってきた子供にすぎない。まともな拳法の型ひとつ、誰かに最後まで教わったことすらなかった。
勇気だけを頼りにするのも、独学で身につけた猫騙しのような技を二、三使える程度で立ち向かうのも、所詮は火に飛び込む蛾と変わらない。
私は村へ続く土道の途中で足を止め、道端に折れて落ちていた枝を拾い上げた。
前方では、朝霧が貧しい藁葺き屋根を覆い尽くしていた。竈から煙が立ち上る気配もなく、あたり一帯は奇妙な静寂に包まれている。その静けさは、何かよくないことが起こる前触れのように、息苦しいほど重く感じられた。
私は迷うことなく、チョン・ソンの鍛冶場へと向かった。
木戸は固く閉ざされていた。
いつもなら響き渡っているはずの、槌が鉄を打つ甲高い音は聞こえない。軒先から赤々とした炉火が漏れてくることもなかった。
雨風に削られ、古びた木の看板に刻まれた「チョン・ソン」の文字は、もはやほとんど色褪せていた。看板の片隅には亀裂が走り、冷たい風に吹かれるたび、かすかな軋みを立てながら揺れている。
私は軒先に立ち尽くした。
背筋を冷たいものが這い上がった。
昨日、鍛冶師は今朝ここへ来れば、古い炉で起きた出来事の真相を詳しく話すと約束してくれた。
槌と鉄床に生涯を捧げてきた老人が、空の白み始めたこの時刻に店を閉ざし、閂まで下ろしている。何かよほどの異変でも起きたのでなければ、そんなことをする理由はなかった。
私は石段を上がり、木戸を三度、はっきりと叩いた。
返事はない。
一拍ほど待ち、今度は先ほどよりも強く、もう一度叩いた。
すると、暗い室内の奥から、乾いた小さな物音が聞こえてきた。
神経を研ぎ澄ませていなければ、容易に聞き逃してしまいそうなほど微かな音だった。
まるで、何か重いものが手から滑り落ち、煉瓦の床に鈍くぶつかったかのような音。
私は即座に戸口から身を引き、上着の中に忍ばせた短刀を固く握りしめた。
それ以上、ためらうことはなかった。
私は鍛冶場の裏手へ回った。裏庭へ通じる小さな戸は、半開きになっていた。
地面には新しい足跡が無秩序に散らばっている。井戸の縁には、まだ乾ききっていない水滴がいくつか残り、湿った土の上に不規則な染みを作っていた。
私は膝を折り、注意深く地面を観察した。
足跡は、大きく分けて二種類あった。
一方は重く、泥土にかかとが深々と沈み、大きな溝を残している。
もう一方は、それよりはるかに小さかった。歩幅が狭く、足取りは規則正しく、驚くほど軽い。
間違いない。
先日、この場所に姿を現した灰色の衣の男の靴跡だった。
そして、戸口のすぐそばには、細い血の跡が残されていた。昨夜の雨水に洗われ、濃い赤色は次第に薄まり、かすかな桃色へと変わりつつある。
私は焦って戸を開けようとはしなかった。
しゃがみ込んだまま、入り乱れた足跡をじっくりと見つめる。それからようやく、黒ずみ始めた血に指先をそっと触れた。
まだわずかに粘り気があり、完全には乾いていない。
つまり、あの連中が立ち去ってから、それほど時間は経っていないということだ。
いや、あるいは――。
奴らはまだ、この家のどこかに潜んでいるのかもしれない。
私はゆっくりと立ち上がり、深く息を吸い込んだ。
「……チョン・ソン殿?」
声を潜めて呼びかけたが、返ってきたのは沈黙だけだった。
私はさらに数度、呼吸を繰り返すほどの間を置き、今度は少し声を張った。
その瞬間だった。
足元の床下から、ゆっくりと、規則正しく三度、何かを叩く音が響いた。
コツ。
コツ。
コツ。
私はぎょっとして、足元を見下ろした。
音が聞こえてきたのは、裏庭の隅にある小さな部屋だった。鍛冶師が古い鍛冶道具や金属くずを保管するために使っている場所である。
私は急いでそこへ向かい、老朽化した扉を脇へ引いた。
中は真っ暗だった。
待ち受けている人影など、どこにもない。
目に飛び込んできたのは、雑然と物が置かれた木の机、横倒しになった鉄製の棚、そして本来の位置からずれている床板だった。
身をかがめて床板のそばへ近づくと、その縁のすぐ下に、地中へまっすぐ伸びる深い隙間があることに気づいた。
私は全身の力を込め、重い床板を持ち上げた。
すると、その下から短い木の階段が現れた。
鍛冶場の床下に広がる暗闇へと、細い階段がひっそりと続いている。
その深い闇の奥から、かすれ、途切れがちな老人の声が聞こえてきた。
「……ここには近づくなと、言ったはずだぞ」
私は安堵の息をついた。張り詰めていた心が、ほんの少しだけ緩んだ。
「生きていてくれてよかった」
「いいから、早く降りてこい!」
私はもう一度、周囲に敵が潜んでいないか慎重に見回した。待ち伏せの気配がないことを確かめてから、ようやく一段ずつ、警戒を怠らずに地下へと降りていった。
地下室は、想像していたよりもずっと狭かった。
天井は低く、大人であれば腰をかがめなければ歩くこともままならない。壁には粗削りの巨石が積み上げられ、その隙間には黒々とした煤がこびりついていた。
部屋の隅では、小さな芯の油灯が弱々しい黄色い光を放っている。その頼りない灯火が、古びた鍛冶道具の数々と、錠前をこじ開けられた大きな木箱を、ちらちらと照らし出していた。
その木箱のそばで、タ・チョン・ソンは低い腰掛けに腰を下ろし、うなだれていた。
左腕には白い布がきつく巻かれていたが、布のあちこちには血が滲んでいる。先日、顔に浮かんでいた痣は、今では恐ろしいほど濃い黒紫色に変わっていた。口の端にも、まだ塞がっていない長い裂傷が走っている。
私の視線が傷に留まったことに気づくと、彼は気まずそうに袖を引き下ろして隠し、乾いた笑いを漏らした。
「何を見ている。わしは、そう簡単にくたばるような男ではないぞ」
私は余計な問いを口にせず、湿気のこもった地下室を見回した。
「奴らは、ここまで来たんですか?」
「昨夜な」
「……私のせいですか?」
チョン・ソンは顔を上げた。
濁った眼差しが、私を真正面から捉える。その瞳には、老いにも傷にも屈しない、確固たる意志が宿っていた。
「奴らが方々を探し回っているもののためだ。お前は……大きな争奪戦の嵐のただ中に、運悪く迷い込んでしまった子供にすぎん」
彼は向かいに置かれた木椅子を指さした。
「座れ」
私は椅子を引いて腰を下ろし、両手を膝の上で固く握りしめた。
チョン・ソンはしばらく黙り込んでいた。
胸の奥底に押し込めてきた、痛ましい記憶をどうにか抑え込んでいるかのようだった。
やがて彼は傍らの木箱に手を伸ばし、その蓋を開けた。
中から取り出したのは、ひどく錆びついた鉄片だった。
短い鉄片の片端は、凄まじい熱にさらされて焼き曲げられたかのように歪んでいた。表面には、幾何学模様を思わせる細かな溝が無数に刻まれている。その一本一本が、刃物で削りつけたかのように鋭かった。
彼はそれを木の机の上に置いた。
「これと似た形のものを、見たことはあるか?」
私は身を乗り出し、鉄片をじっと見つめた。
刻まれた溝は、短刀を携えた少女の青銅札に描かれていた記号と完全に一致するわけではなかった。
しかし、その構造と金属特有の質感を思わせる形状は、森の古い樫の木の根元に隠してある、あの黒々とした金属片を即座に思い起こさせた。
「……よく似たものなら、見たことがあります」
チョン・ソンの眼差しが鋭くなった。
「その物体は……光を放つことがあったか?」
「はい。ただ、光るのは、傷を負った獣が身をよじり、狂ったようにもがいたときだけでした」
チョン・ソンはゆっくりと目を細めた。
痩せ細った胸の奥から、沈痛なため息が漏れる。
「そうか……。あれは、まだ完全には、もともとの邪悪な性質を失っていなかったのか」
私は思わず顔を上げた。
「それが何なのか、ご存じなんですね? 先輩、どうか教えてください!」
「知っているのは一部だけだ……。それも、苦い事実のほんの一端にすぎん」
チョン・ソンは節くれだった親指で、錆びた鉄片に刻まれた曲がりくねった溝を、そっとなぞった。
「四年前のことだ。ある日、見知らぬ一団がわしの鍛冶場を訪ねてきた。連中は、ずっしりと重い真っ黒な鉱石の塊を持ち込み、それを極めて高い温度にも耐えられる金属片に鍛え上げろと注文してきたのだ。提示された報酬は、わしが一年かけて汗水垂らして稼ぐ金の十倍以上だった」
彼は一度、言葉を切った。
「それだけではない。連中は細部まで緻密に描き込まれた設計図まで用意していた。そこに指定された溝や模様は一本たりとも変えてはならん。勝手に磨き上げることも、手を加えることも、絶対に許さないとな」
「……それを引き受けたんですか?」
「引き受けたとも」
チョン・ソンは、言い訳も隠し立てもせず、きっぱりと答えた。
「当時、わしの鍛冶場は炭代の借金で首が回らなくなっていた。妻も重い病に倒れ、床に伏せたままだった。家族を救うための大きな仕事が舞い込んできた。わしは、ただそれだけのことだと思ったのだ」
彼は自嘲するように口元を歪めた。
「あの鉱石がどこから掘り出されたものなのか、なぜ武器にあんな忌まわしい記号を刻む必要があるのか。わしは何ひとつ尋ねようとしなかった」
私は息を詰め、一言一句聞き漏らすまいと耳を傾けた。
チョン・ソンは遠い過去を見つめるような目つきで、話を続けた。
「最初の数回の精錬は、どれも惨憺たる失敗に終わった。炉へ入れた途端、粉々に砕け散るものもあれば、冷えた途端に陶器のようにもろくなり、崩れ落ちるものもあった」
彼は机上の鉄片に視線を落とした。
「だが、最後の一回だけは違った……。一団の男の一人が、奇妙な液体の入ったガラス瓶を持ってきたのだ。連中はそれを『余法』と呼んでいた。何らかの魔術を行使したあとに残る、元の力の残滓なのだそうだ」
そこで彼は言葉を切り、私の目をまっすぐに見据えた。
私が話の一部始終を聞き逃していないか、確かめるかのようだった。
「わしはただの職人だ。魔術も呪文も、何ひとつ知らん。だが、道士が素手で炎を生み出すところや、呪符の力を宿した武器で大岩を断ち割るところなら、この目で見たことがある」
彼の声は、徐々に低くなっていった。
「だから、連中が持ってきた液体も、金属を鍛えるための希少な薬剤か何かだろうと、世間知らずにも思い込んでしまったのだ」
「それで……そのあと、何が起きたんです?」
「炉が爆ぜた」
その一言とともに、地下室の空気が重く沈み込んだ。
チョン・ソンの声は決して大きくなかった。それなのに、部屋の温度だけが急に下がったかのような錯覚を覚えた。
「空を裂く雷鳴のような、耳をつんざく爆発音がしたわけではない。最初は、炉の底から真っ赤な光が一筋、漏れ出しただけだった」
彼は、まるでその光景が今も目の前で繰り広げられているかのように、遠くを見つめていた。
「次の瞬間、溶けて流れていた金属の塊が、たちまち奇怪な黒い塊となって固まった。同時に、凄まじい熱が爆発的に膨れ上がり、炉のそばにいた職人を吹き飛ばして、壁に叩きつけた。二人の助手はその場に崩れ落ち……二度と目を覚ますことはなかった」
私は机の上の鉄片を凝視したまま、喉の奥が苦く詰まるのを感じた。
「……あなたは、どうなったんですか?」
「わしは炉のすぐそばに立っていた。衝撃で吹き飛ばされ、意識を失った。目を覚ましたときには、鍛冶場の屋根の半分が完全に崩れ落ちていた」
チョン・ソンは震える手を伸ばし、手首から肘にかけて走る、いくつもの傷痕に触れた。
「連中は死ななかった。無事に残った金属片を慌ただしく回収し、図面も書類もすべて奪い去った。そして、夜の闇に紛れて、この村から逃げていったのだ」
彼はしばらく黙り込み、やがて苦々しげに言葉を継いだ。
「去り際に、奴らはわしへ誓いを強いた。この秘密を墓場まで持っていけ。誰であろうと、決して一言も漏らすな、とな」
チョン・ソンは深くうつむいた。
その声には、自らを責める苦々しさが滲んでいた。
「わしは四年ものあいだ、その卑怯な誓いを守り続けた。……あの恐ろしい精錬で生まれた破片が、再びお前の森に現れ始めるまではな」
私は黙ったまま、途切れ途切れに語られた話を頭の中で組み立て直していた。
魔術も、余法も、私にとってはまだ遠く曖昧な概念にすぎない。
それでも、ひとつだけ確かなことがあった。
私が拾った黒い金属片は、深い森の奥で偶然生まれた自然物などでは、決してない。
誰かが意図して作り出したものだ。
その力の秘密を握っている者がいる。
そして今、残されたものをすべて取り戻そうと、凶悪な勢力が血眼になって動いている。
「では……この前、あの猪の肩に突き刺さっていたものは、あの恐ろしい精錬で生まれた破片だったんですか?」
「断言はできん。だが、お前が説明した形状と、そこに刻まれていた溝は、あの一団がわしに渡した設計図のものと、寸分違わず一致しておる」
チョン・ソンは深くうなだれた。節くれだった両手が、膝の上できつく組み合わされる。
「わしはずっと、自分に言い聞かせてきた。自分は注文どおりに仕事をしただけの職人にすぎん、と。奴らがあれを何に使うつもりだったのか、知りもしなかった。だから、わしが背負うべき罪などないのだとな」
彼の口から、自嘲するような乾いた笑いがこぼれた。
その笑いには、長年押し殺してきた悔恨が滲んでいた。
「今になって思えば、あれはただの臆病と身勝手さだった。責任から逃れたい人間が、自分自身を欺いていただけなのだ」
私は目の前の老いた男を見つめた。
鍛冶場の炎を前にすれば、誰にも屈しない頑固さと気骨を見せていた鍛冶師。その姿は、今や見る影もなかった。
そこにいるのは、四年もの長きにわたって、恩義と罪の意識を背負い続けてきた一人の人間だった。
彼の胸中には、悔恨と苦悩が深く刻み込まれていた。
「奴らが、あの武器を何のために作ったのか、ご存じなんですか?」
「陰謀のすべてを知っているわけではない」
チョン・ソンはそう答え、ふいに眼差しを鋭くした。
「だが、あの一団の頭目が、あの力を戦場へ持ち込むという話を、独り言のように口にしていたのを聞いたことがある」
彼は声を落とした。
「奴らは、道士や魔術師がそばに立って術を使わずとも、魔術の威力をそのまま宿した殺戮兵器を作り出そうとしていたのだ」
私はかすかに眉をひそめた。
もし、その推測が事実なら、これは単なる危険な玩具でも、毒性を持つ鉱石でもない。
戦争の形のみならず、その本質さえも根底から覆しかねない代物だった。
魔術の心得などまるでない平凡な人間であっても、その力を封じ込めた器を携えるだけで、一軍を壊滅させられるかもしれない。
あの黒い鉱石を用いた矢一本で、獣を魔物へと変えることができる。適切に加工された一振りの刀なら、人間の肉体が本来持つ限界をはるかに超える殺傷力を生み出すことさえ可能なのだ。
私はまだ、森の外へ足を踏み出したことすらない。
血に染まる戦場の凄惨さも、戦火の中で人がどれほど容易に命を落とすのかも、この目で確かめたことはなかった。
それでも、あの異形の兵器が好戦的な人間の手に渡れば、森の奥で数頭の獣が狂い出す程度では済まないことくらい、痛いほど理解できた。
「灰色の衣を着た男があなたを訪ねてきたのは……四年前の一団と関係があるからですか?」
「わしは、あの男と顔を合わせたことは一度もない。だが、奴は昔の精錬について、細かなところまで知り尽くしていた」
チョン・ソンは苦々しげに顔をしかめた。
「おそらく、あの邪悪な組織の一員なのだろう。そうでなければ、残された痕跡をすべて始末するために、特別に雇われた人間かもしれん」
「それなら……これから、どうするつもりですか?」
チョン・ソンはすぐには答えなかった。
ゆっくりと立ち上がると、大きな木箱のそばへ歩み寄り、底板の下に手を差し入れた。やがて、擦り切れて所々が破れた、厚手の布包みを取り出した。
「まずは、ここに残っている資料を別の場所へ移さねばならん」
「設計図ですか?」
「そうだ。製造工程を記した設計図、鉱石の配合量を記録した帳簿、それに注文を持ちかけてきた連中の名簿もある」
彼は布包みを見下ろし、苦々しげに眉をひそめた。
「この書類の中に、奴らにとってどれほど役立つ情報が残っているのか、わしにも分からん。だが、灰衣の連中の手に渡れば……取り返しのつかん事態になるのは間違いない」
そう言って私の前まで歩み寄り、布包みを差し出した。
「これを預かってくれ」
私はぎょっとして、一歩後ずさった。反射的に手を振り、受け取るのを拒んだ。
「受け取れません。こんなもの、危険すぎます」
「分かっておる」
「それに、名簿に載っている連中のことだって、私は何も知りません」
「お前にそいつらを探し出してこいなどと言うつもりはない」
チョン・ソンは私の目をまっすぐに見据えた。その声には、沈痛な重みがこもっていた。
「ただ、この資料を安全な場所に隠してほしいのだ。あの殺し屋どもが山をひっくり返して探し回ったところで、決して見つけられぬような場所にな」
彼は一度言葉を切り、私の顔をじっと見つめた。
「お前は森で暮らしている。普通の人間なら足を踏み入れることさえ躊躇するような険しい道も、隅々まで知り尽くしておるだろう。……なあ、小僧。もし、いつかわしがここで命を落とすことになっても、せめて一人くらいは、何が起きたのかを知る者が残らねばならん」
私は、彼の手にある布包みを凝視した。
胸の内は、ひどく乱れていた。
本音を言えば、これ以上、厄介な秘密や面倒事に関わりたくなどなかった。私の暮らしは、木の実を採り、魚を捕り、洞窟の前で足運びの稽古をする。それだけでよかったはずなのだ。
けれど、私にも分かっていた。
この資料こそ、黒い金属片の正体を解き明かすための唯一の手掛かりなのだ。誰がその製造を企て、背後で糸を引いているのか。そして、これからどのような災厄が降りかかろうとしているのか。それを知るためにも、決して失うわけにはいかない。
やがて、私は小さく息を吐き、布包みを受け取った。
「……分かりました。誰にも見つからないよう、厳重に隠しておきます。ただ、先に言っておきます。もし事態が手に負えなくなって、命まで危うくなったら……何が何でも守り抜こうとは思いませんから」
チョン・ソンは疲れたように微笑み、静かに頷いた。
「それで十分だ」
彼は私に、世を救う英雄になれなどとは求めなかった。
命を賭して秘密を守ると、天地に誓わせようともしなかった。
ただ、かつての過ちが生んだ悲劇と、その記憶が、何の報いもないまま闇に葬られることを望まなかったのだ。
そして私にとって、その飾り気のない信頼は、千斤もの黄金よりも重かった。
なぜなら、その先には、名も知らぬ大勢の人々の命が懸かっているのだから。
私たちが木の階段へ向き直り、ここから脱出する道を探そうとした、そのときだった。
頭上の客間から、乾いたノックの音が響いた。
コン。
コン。
コン。
一定の間隔を保った、冷ややかな三つの音。
チョン・ソンの顔から、瞬く間に血の気が引いた。
私の脳裏にも、昨夜の光景が鮮明に蘇った。
灰色の衣の男が、鍛冶場の戸口で三度、同じように扉を叩いたのだ。
私は老鍛冶師へ視線を向け、目で問いかけた。
彼は小さく首を横に振ると、人差し指を唇に当てた。
――決して物音を立てるな。
その合図に従い、私は息を殺した。
頭上で、再びノックの音が響いた。
今度は、こちらの反応を待つかのように、いっそう辛抱強く。それでいて、聞く者の神経をじわじわと蝕むような響きだった。
「……タ・チョン・ソン殿。あなたがこの家の中に隠れていることは分かっています」
木戸越しに、灰色の衣の男の声が聞こえた。
あまりにも平静な声だった。だからこそ、背筋が凍る。
「少しばかり、お尋ねしたいことがあるだけです。何も、そこまで卑怯者のように身を隠す必要はないでしょう?」
チョン・ソンは石像のように立ち尽くし、一言も発しなかった。
私は狭い地下室を見回し、地上へと続く階段に目を向けた。
連中が戸を破って押し入ってくれば、私たちはたちまち袋の鼠だ。
しかし、この地下への出入口はあまりにも狭い。敵に見つかった場合、ほかに逃げ道がなければ、逃走すらままならないだろう。
私はチョン・ソンの耳元へ顔を寄せ、聞こえるか聞こえないかというほどの声で尋ねた。
「……裏口は?」
チョン・ソンは小さく頷き、壁の隅を指さした。
そこには、人がようやく潜り抜けられるほどの、小さなアーチ状の穴が開いていた。
「家の裏にある炭置き場へ通じておる……。だが、かなり狭い。這って進むしかないぞ」
私は布包みを胸にしっかりと抱え込み、決然と言った。
「先輩、先に逃げてください」
「いや、お前が先に行け。わしが残って、奴らの足止めをする」
「そんな傷で、何を言っているんですか!」
「お前はまだ子供だろうが! 連中に捕まったらどうするつもりだ。どうやって抵抗する?」
私は彼の目を見つめた。
胸の奥で、意地がむくむくと頭をもたげた。
大人たちは、いつだって私を弱く、何もできない子供だと決めつける。
そのことが、私はどうにも気に入らなかった。
だが、今回は言い争ってまで自分の意地を通そうとは思わなかった。時間がないことは、誰よりもよく分かっていたからだ。
チョン・ソンの言うことは正しい。
ここで二人とも捕らえられれば、この機密資料を持って逃げおおせる者は一人もいなくなる。
今の私に必要なのは、子供じみた意地に固執することではない。生き延びるために、最も現実的な選択をすることだった。
私は布包みを服の一番内側へ押し込み、身を伏せて、小さな穴へと這い寄った。
中へ潜り込む直前、私は最後に一度だけ振り返った。
「……絶対に、生きて逃げ延びてくださいよ!」
「まずは自分の心配をしろ、この馬鹿者が」
それ以上、私は何も言わなかった。
全身の力を振り絞り、狭い穴へと身体をねじ込む。煤がべったりとこびりついた、天井の低い抜け道を這い進み、反対側までたどり着くと、出口を塞いでいた板を力いっぱい押し上げた。
その先は、古びた炭置き場だった。
裏口は、建物と建物の隙間に伸びる、薄暗く狭い路地へと通じていた。
私が穴から這い出した、まさにそのとき。
表のほうから、乱暴に戸を叩きつける音が響き渡った。
「タ・チョン・ソン! これ以上、我々に手荒な真似をさせるな!」
ドンッ!
重い衝撃音が轟き、その直後、客間の木机や椅子がなぎ倒されるような破壊音が聞こえてきた。
私は息を潜め、乾いた薪の山の陰へ身体を押しつけた。
そして、耳を澄ませた。
「何度言えば分かる! お前たちに渡すものなど、何ひとつない!」
チョン・ソンの怒号だった。
傷ついた喉から絞り出した声は掠れていたが、それでも老鍛冶師としての威厳を失ってはいなかった。
「ならば、なぜ今朝早くから、あの野生児がここに現れたのか、説明してもらおうか」
灰色の衣の男の声が、冷たく響いた。
「この村に子供が出入りすることなど、珍しくもあるまい!」
「この老いぼれが……こちらの忍耐を試すつもりか!」
直後、鋭い金属が木の表面を擦る音がした。
私は胸に抱えた資料の包みを、きつく握りしめた。
ここで立ち尽くしているわけにはいかない。
もし殺し屋どもに裏の脱出口を発見されれば、逃げ切れる可能性は完全に潰えてしまう。
私は身体を滑らせるように路地へ出ると、身を低くして、川の船着き場を目指し駆け出した。
だが、運命はそう簡単に私を逃がしてはくれなかった。
路地の突き当たりにある、見通しの利かない曲がり角へ差しかかったときだった。
頭上の軒から、大きな黒い影が音もなく飛び降り、行く手を塞いだ。
松明持ちの男だ。
手に松明は握られていなかった。しかし、腰に差した短刀は半ば抜き放たれ、その刃が薄暗い朝の光を受けて鈍く光っていた。
男は私の姿を認めると、薄笑いを浮かべた。
その視線が、私の上着の裾に浮かび上がった大きな膨らみへと落ちる。
――胸に隠した布包みだ。
「そこで止まれ、小僧」
私は足を止め、一歩後ずさった。
手は無意識のうちに、懐の短刀へと伸びていた。
男は獲物をいたぶる獣のように、ゆっくりと距離を詰めてきた。
「傷つけるつもりはないと言ったはずだ。だが、お前はどうにも、自分から厄介事を背負い込みたがるらしいな」
私は答えず、逃げ道を探して視線を走らせた。
路地は狭く、男は唯一の出口を塞ぐように立っている。
完全に不利な状況だった。
「服の中に隠しているものを渡せ。さっさとな!」
私はためらっているふりをしながら、ゆっくりと胸元へ手を伸ばした。
私がようやく観念したと思ったのだろう。男の警戒が一瞬だけ緩んだ。
彼は手を伸ばし、私の肩をつかもうとした。
――その瞬間を、私は待っていた。
布包みを取り出すことはしなかった。
代わりに、腰に差していた竹の枝を素早く引き抜き、全身の力を込めて、短刀を握る男の手首へと突き込んだ。
バシッ!
内功を駆使した高度な技などではない。
だが、虚を突いた一撃と、森で獲物を捕らえてきた経験から生まれた正確な狙いが、十分な効果を発揮した。
男の手首が弾かれ、短刀が握力を失った手からこぼれ落ちる。
チャリン、と金属音を立てて、刃が地面に転がった。
私は追撃を試みることなく、即座に身を翻した。
全力で駆け出す。
「このガキがッ!」
背後で男の怒声が炸裂し、荒々しい足音が追いすがってきた。
私は人通りの多い船着き場へは、まっすぐ向かわなかった。
途中で鋭く進路を変え、大小さまざまな水甕が並ぶ、古びた陶器の乾燥場へ飛び込んだ。
そして、目の前にあった大きな甕を、足で思いきり蹴り倒した。
重い陶器が傾き、狭い通路の真ん中へごろごろと転がり出す。
追いかけてきた男は、勢いを殺しきれなかった。
足が甕に引っかかり、身体が大きく傾いたかと思うと、そのまま地面へと派手に転倒した。
そのわずかな隙があれば、十分だった。
私は低い塀を飛び越え、たちまち人通りの絶えない大通りへと飛び出した。
「捕まえろ! あの小僧だ!」
殺し屋の怒号が、村の静かな朝を切り裂いた。
市へ向かう人々が驚いて左右へ逃げ惑う。野菜や果物を積んだ荷がぶつかってひっくり返り、道端で遊んでいた子供たちは泣き叫びながら母親にしがみついた。
私は脇目も振らずに走り続けた。
足が風を蹴るように回転する。
自分の隠れ家である洞窟へ、ただ闇雲に戻るのは危険だった。
殺しの経験を積んだ連中なら、残された痕跡をたどり、私の隠れ家を突き止めることも容易だろう。
今、私が目指すべき唯一の目的は、人混みを利用して追っ手を振り切ることだった。
私はそのまま賑やかな市場へ飛び込み、布を売る露店の間をすり抜けた。高く積み上げられた荷車の陰に身を隠すようにして走り抜け、やがて湿った細い路地へと折れる。
その先には、川岸へ続く道があった。
視界の端に、岸近くへ繋がれた漁師の小舟が映った。
私は一瞬たりとも迷わなかった。
舟べりに手をかけ、身を乗り出して小舟へ飛び移る。その勢いを利用して対岸へ渡ると、頭よりも高く伸びた葦の茂みへと身体を滑り込ませた。
追っ手の足音が、次第に遠ざかっていく。
やがて、その響きも、彼方の雑踏の中へと消えていった。
私は生い茂る葦の中にしゃがみ込み、荒い息を何度も繰り返した。
胸は激しく上下し、背中の衣は、噴き出した汗でぐっしょりと濡れていた。
追っ手は振り切った。
だが、胸の内には安堵の欠片すらなかった。
チョン・ソンが、あの鍛冶場の地下室から無事に生きて出られるのか。
私には、それさえ分からなかった。
私はうつむき、眼前を勢いよく流れていく川の水面を見つめた。
村では、相変わらず竈の煙がゆらゆらと立ち上っていた。遠くからは、商人たちの呼び声や、買い物客の賑やかな話し声が聞こえてくる。
日常は、何事もなかったかのように続いていた。
その穏やかな日常の薄皮一枚下で、年老いた一人の男が、悪党の刃に命を脅かされているというのに。
そして、十歳の子供が、その年齢にはあまりにも重すぎる秘密を背負わされているというのに。
今すぐ戻ることはできなかった。
助けてくれた人を見捨て、恐怖に負けて逃げ出したかったからではない。
私は、ひとつの苦い教訓を理解していたのだ。
自分がまだ弱く、どうすることもできないとき、危険な場所へ無謀に飛び込んで命を捨てることは、勇気とは呼ばない。
それは、愚かさの極みだ。
今の私にできることは、ただひとつ。
自分の命を守り、胸に抱えた資料を失わず、いずれ自らの力で立ち向かえるようになるまで、機を待つこと。
そして、いつか必ず戻り、奪われた正義を取り戻すことだった。
その夜、私は重苦しい気持ちを抱えたまま、洞窟へ戻った。
火は起こさなかった。
物音ひとつ立てることさえ恐ろしかった。
私は資料の包みを蓋のついた木箱に収めると、洞窟の奥、風の通り道から外れた最も人目につかない場所を選び、深く掘った土の中へと埋めた。
それから、冷たい岩壁に背中を預け、その場に腰を下ろした。
洞窟の入口から、小さなリスがそっと近づいてきた。
何も言わず、ただ私の手に頭をすり寄せる。
まるで、慰めてくれているかのようだった。
私はその小さな頭をそっと撫で、暗闇の中でぽつりと呟いた。
「……なあ。俺は、そんなに臆病者に見えるか?」
リスは小さく鳴いただけで、何も答えなかった。
それでも、私には分かっていた。
答えは、自分の胸の奥にある、揺るがぬ決意の中にこそ存在するのだと。
私は、これまで一度も経験したことがないほど強い意志を抱いていた。
そして同時に、自分がどれほど無力な存在であるかを、これまでになくはっきりと思い知らされてもいた。
それでも、諦めるつもりはなかった。
私と灰色の衣の者たちとの戦い。
そして、この森に潜む光と闇の争いは――。
まだ、本当の意味では始まったばかりなのだから。




