Episode 63
翌朝。
松の梢にまとわりつく濃霧が、淡い朝日に照らされてもなお消えずにいた頃、俺はいつもの枯れ葉の寝床を離れた。
足さばきの稽古に使っていた竹の枝は持っていかない。その代わり、胸元に斜め掛けした布袋には、蓄えておいた干し果実を数握り、鋭く削り出した小さな骨の短刀、それに固く編み込んだ蔓の縄だけを収めた。
洞窟の外へ踏み出す直前、俺はふと振り返り、これまで幾年ものあいだ身を守ってくれた狭い空間を、念入りに見渡した。
何も変わっていない。
朽ちかけた葉の敷物は、冷えきった岩壁にぴたりと寄せられている。粗削りの木椀がいくつか、焚き火の燃えかすの傍らにきちんと並べられていた。長さ三尺ほどの竹の枝も、洞窟の入り口に無造作に立てかけられたままだ。幾度となく転んだせいで、尖らせた先端はささくれ、泥にまみれている。
一見したところ、ここに見知らぬ者が足を踏み入れた痕跡など、どこにも見当たらない。
だが、俺にはわかっていた。
昨夜の一件を経て、この洞窟はもはや絶対に安全な隠れ家ではなくなったのだ。
偽りの平穏は、永遠に砕け散った。
「本当に引っ越すつもりなのか、林兆彬?」
いつの間に現れたのか、小さなリスが高いところにある岩の窪みから這い出してきた。俺が布袋の紐を固く結び直しているのを、つぶらな黒い瞳で見つめている。声には、隠しようもない疑念がにじんでいた。
「まだだ」
俺は短く答えた。
「まだなのに、いったい何だってそんなに荷物を持っていくんだ?」
「万一に備えている。いざというときに逃げなきゃならなくなったら、戻って荷物を拾い集めている暇なんてないからな」
リスはぱちぱちと瞬きをし、しばし考え込んだ。それから、ちょこちょこと駆け出したかと思うと、ひょいと跳び上がり、俺の肩にしがみついた。
「その疑り深いくらい慎重なところ、私は結構好きだぞ」
俺はかすかに苦笑しただけで、返事をしなかった。
洞窟を完全に捨てるつもりはない。
ここは今も、深山幽谷の中で俺が最も勝手を知り、生き延びやすい場所だった。しかし、昨夜、灰色の衣をまとった男が現れたことは、何よりも明白な警告だった。
奴らがその気になれば、いつだってこの場所を探り当てられる。
そこで俺は、最も危険な物だけを生活圏から遠ざけることにした。
三本の曲線が交わるように刻まれた銅の札は、古びた獣皮で丁寧に包み、洞窟から半里ほど離れた狭い岩の裂け目へと運んだ。無数の蔓が絡み合うその場所の奥深くに、誰にも見つからないよう隠しておく。
一方、災厄の芽ともいうべき、あの黒ずんだ金属片は、松脂を塗った乾いた葉で何重にも包んだ。さらに両端を塞いだ長い竹筒の中へ押し込み、小川の干上がった岸辺に立つ古い樫の木の根元へ埋めた。
もう、この二つを肌身離さず持ち歩くつもりはなかった。
いつの日か、あの連中が俺の洞窟までたどり着いたとしても、そこにあるのは貧しい子供が暮らしていた空っぽの住処だけだ。
そう簡単に、奴らの目的を果たさせてたまるものか。
すべての作業を終えると、俺は洞窟の入り口へ戻り、身をかがめて周囲の地面を一寸ずつ丹念に調べ始めた。
奴らが再び戻ってくるかどうか、俺にはわからない。
だが、一つだけ、どうしても確かめておかなければならないことがあった。
昨夜、奴らがしていたのは、ただ物品の行方を探るための下調べだったのか。それとも、すでに俺自身の動向を追うため、密かに罠を張り巡らせ始めているのか。
その答えは、思いのほか早く見つかった。
最初に目に留まったのは、洞窟の入り口からちょうど二十歩ほど離れた、山道へ張り出した古い松の枝だった。
低い枝分かれの部分に、灰色の細い糸が丁寧に結びつけられている。糸の端は垂れ下がり、その先端は洞窟の入り口を指し示していた。
何も知らない通りすがりの者なら、森に棲む蜘蛛の糸か、虫の巣からちぎれた糸くずだとでも思うだろう。
俺はその場に立ち尽くし、しばらくのあいだ糸を凝視した。
この森で長い年月を独りで暮らしてきたが、俺は糸を結んで目印をつけたり、道に無用な印を残したりする習慣など持ち合わせていなかった。
糸が結ばれている位置は、大人の目線とほぼ同じ高さだった。しかも、葉の陰に隠れているため、朝日が直接当たって光を反射することもない。
急ぎ足で通り過ぎる者なら、まず気づかない。
だが、獲物を探し出すことに長けた者にとっては、進むべき方向を示す、これ以上ないほど明瞭な目印だった。
俺は手を伸ばし、その糸を引きちぎろうとした。
しかし、指先が触れる寸前で動きを止めた。
もし奴らがこの糸を道標として使っているのなら、俺がそれを取り除くことは、わざわざ大声で知らせるようなものだ。
――お前たちの仕掛けに気づいた者がいる、と。
俺はゆっくりと手を引き、数歩後ずさった。それから、別の角度から周囲を観察した。
案の定、少し離れた場所にある樫の枝にも、二本目の糸が残されていた。一つ目よりもさらに細く、樹皮のごつごつした色合いに完全に溶け込んでいる。
二本の糸は一直線につながり、本道から俺の洞窟の入り口までを、まっすぐに導いていた。
これが連絡用の符牒であれ、暗殺者が縄張りを示すための目印であれ、仕掛けた人間がその場の思いつきで動く素人でないことだけは確かだった。
俺はしゃがみ込み、足元にある乾いた泥の地面を注意深く調べた。
岩の縁に、かすかな靴跡が残っていた。
見えるのは、粘土質の泥がこびりついた厚い踵の跡だけ。靴先は洞窟の入り口を向いているが、そのすぐ傍らには、引き返した足跡がまったく見当たらなかった。
どういうことだ?
印を残した人間は、来た道を戻らず、別の経路から立ち去ったのだ。
しかも、人目につかず、険しい地形に阻まれた別の道を。
俺の視線は西へと移った。
そこには、急峻な山腹を縫うように続く、ひどく狭い脇道があった。複雑に絡み合った木の根や、尖った岩に完全に覆い隠されている。
深山の地形を知り尽くしている者か、あるいはこの一帯に何度も足を運んだことのある者でなければ、音一つ立てずに通り抜けることは難しいだろう。
胸の内に、疑念が一気に膨れ上がった。
あの灰衣の男は、決して今回が初めての訪問ではない。
俺は灰色の糸をそっとほどき、丸めてから布袋の隅へしまった。
こんな目印に、これ以上奴らの道案内をさせておくつもりはなかった。
その後も、俺は洞窟の周囲にある茂みを、もう一度念入りに調べて回った。
新たに仕掛けられた罠はない。
物の位置が動かされた形跡もない。
夜のうちについたと思われる、新しい人間の足跡も見当たらなかった。
だが、洞窟の入り口へ戻ろうと身を翻した瞬間、ある小さな異変が目に入り、俺はその場に凍りついた。
入り口のすぐ前にある湿った土の上に、靴跡が一つ、くっきりと残されていたのだ。
靴先の部分がひどく深く沈み込んでいる。
その跡から判断するに、そこに立っていた者は長いあいだ前屈みの姿勢を保ち、洞窟の内部を覗き込んでいたらしい。
俺はゆっくりとしゃがみ、その足跡から洞窟の入り口までの距離を測った。
そいつは、俺の寝床のすぐ目の前に立っていた。
おそらく昨夜、俺が洞窟の奥にある暗い岩の隙間へ息を殺して身を潜めていたとき、そいつとの距離は、わずか数歩しかなかったのだろう。
俺はゆっくりと手を握り締めた。
爪が皮膚に食い込み、鋭い痛みが走る。
恐怖からでも、怒りからでもなかった。
初めて、冷酷な現実を突きつけられたからだ。
危険な人間は、俺の生死を分ける境界線ぎりぎりまで接近していた。
それなのに、俺はあと一歩のところで、その存在に気づくことすらできなかったのだ。
広大な森は、その荒々しさゆえに、これまで俺を守る外套のような存在だった。
だが、地形を読み、距離を無効にできるほどの技量を持つ者が相手なら、孤独と荒涼こそが、敵に侵入を許す最大の隙となる。
俺は勢いよく立ち上がり、西の山道を見据えた。
この場所に留まり、これからも暮らしていくつもりなら、いつまでも亀のように首を引っ込め、隠れているわけにはいかない。
あの連中がいったい何を探しているのか。そして、なぜ、ただの金属片にすぎないものを求めて、山一帯をひっくり返すほど躍起になっているのか。
その理由を突き止めなければならなかった。
むろん、こちらから正面切って奴らに挑むつもりはない。
ただ、奴らがどこへ向かい、何をしようとしているのかを知りたいだけだ。
俺は西の脇道へと進み、連中が残した痕跡から十分な距離を保ちながら、慎重に後を追った。
本道をまっすぐ進むことはしない。
大きな岩の陰を縫い、木の根を足場にし、腐葉土の積もった地面を避けながら進んだ。湿った土の上に、はっきりした足跡を残さないためだ。
これは、猛獣に対処するため、俺が何年もかけて独学で身につけた狩りと隠密行動の技術だった。
だが、今日追っている獲物は、何も考えず本能のままに動く野獣ではない。
相手は人間だ。
策を弄し、武器を持ち、そして何よりも強い警戒心を備えた人間なのだ。
半里ほど進んだところで、俺は一つの痕跡を見つけた。
樹皮に、まだ乾いていない新しい泥が付着していたのである。
その木の根元には、誰かが折り曲げたばかりの若い竹が一本あった。折れた部分からは、乳白色の樹液が生々しくにじみ出ている。
俺は足を止めた。
息を殺し、大きなシダの葉陰に身を縮めると、周囲を注意深く見回した。
人影はない。
しかし、前方の谷底の奥から、金属が岩壁にぶつかる甲高い音が響き渡り、すぐさま静寂へと沈んでいった。
俺は身を低くし、地面に這いつくばるようにして、二つの石灰岩の岩峰に挟まれた窪地へと忍び寄った。
そして、見た。
二人の男が、こちらに背を向けて立っていた。
左側にいるのは、昨夜、俺の洞窟へ侵入してきた灰色の衣の男だった。そいつは、暗色の革で包まれた細長い木箱を、慎重に両手で扱っている。
右側には、体格のいい大男が立っていた。分厚い布を巻きつけた手と、見覚えのある姿。
松明を持っていた男だ。
二人の間にある開けた地面で、灰衣の男が木箱の蓋を開いた。
中から取り出したのは、奇妙な金属製の道具だった。
巨大な鉤のような形をしており、先端は鋭く湾曲して下を向いている。その胴体には、八卦陣を思わせる無数の細かな溝が刻み込まれていた。
男はその鉤を、平らな岩の上に置かれた黒ずんだ金属片へと近づけた。
俺は息を潜め、化学反応でも起こるのか、それとも爆発するのかと身構えた。
しかし、何も起こらなかった。
黒い金属片は、冷たく沈黙したままだった。
灰衣の男は眉をひそめ、角度を変えながら、金属片の別の箇所へ鉤を近づけてみた。
それでも、まったく反応はない。
隣で松明を持つ男が、苛立ちを押し殺した声で口を開いた。
「我々は、このみすぼらしい山村を丸二日も捜し回っているんですよ、大人。これ以上、何の成果もなく戻ることになれば、上からどんなお咎めを受けるか……。いったい、どう言い訳すればいいんです?」
灰衣の男は鉤を木箱にしまい、冷淡な口調で答えた。
「そんなことは百も承知だ。いちいち言われずともわかっている」
「それとも……あの猪が狂ったように暴れ回ったとき、破片まで粉々に砕け散ってしまったんでしょうか?」
「あり得ん」
灰衣の男は断固として首を横に振った。
「この素材の強度は、通常の鉄や鋼とは比べものにならない。仮に砕かれていたとしても、純度を保った破片がこの辺りに散らばっているはずだ」
男は冷えきった目を持ち上げ、周囲に広がる深い森をひと巡り見渡した。
「間違いない。何者かが我々の先を越し、発見する前に破片を持ち去ったのだ」
俺の胸が、突如として激しく鼓動し始めた。
松明を持つ男は、布を巻いた拳をきつく握り締めた。
「それって、昨日のガキのことですか?」
「その可能性は十分にある」
「なら、どうして昨日のうちに捕まえる許可をくださらなかったんです? とっととひっ捕らえて痛めつけてやれば、隠し立てする気もなくなるでしょうに!」
灰衣の男は、刃物のように鋭い眼光で相手を睨みつけた。
その凄まじい視線を受け、松明を持つ男はびくりと身を震わせ、口をつぐんだ。
「気でも狂ったか? たかが生死も定かでない破片一つのために騒ぎを起こし、朝廷の官軍や江湖の勢力まで呼び寄せて、我々を包囲させるつもりか?」
「ですが、あのガキがいつまでも抱え込んで、逃げ隠れするようなら……」
「そのときは、もっと巧妙な方法を考える。私の命令もないのに、勝手な真似をするな」
松明を持つ男はうつむき、不満を押し殺したまま黙り込んだ。
俺はゆっくりと身を縮め、慎重に一歩、後ろへ下がった。
今の短いやり取りだけで、俺は貴重な情報をいくつも得ることができた。
奴らは、単に落とし物を探しているわけではない。
破片を探知し、その材質や性質を見極めるための専用の道具まで持っている。
そして何より重要なのは、現地の住民を騒ぎに巻き込むことを、ひどく警戒しているという事実だった。
つまり、少なくとも当面のあいだは、白昼堂々、俺に対して極端な暴力を振るうことはできないのだろう。
だが、悪意ある者の忍耐には、必ず限界がある。
正体を見破られる前に立ち去ろうと、ちょうど背を向けかけたその瞬間だった。
俺の足が、不注意にも腐葉土の下に隠れていた枯れた樫の枝を踏みつけた。
パキッ。
パキッ!
静寂に包まれた森の中で、乾いた音が弾けた。まるで耳元で雷鳴が轟いたかのようだった。
二人の男は、弾かれたように振り返った。その動きは目にも留まらぬほど素早い。
「誰だ、そこにいるのは!?」
灰衣の男が鋭く叫んだ。
「止まれ!」
松明を持った大男は、ためらうことなく、獲物を追う飢えた猛獣のごとく、俺が隠れている茂みへと突進してきた。
俺は一瞬たりとも立ち止まって考える余裕などなかった。
振り返るや否や、倒木を飛び越え、斜面を転がり落ちるような勢いで逃げ出した。とにかく、全速力で走った。
向かったのは、いつも使っている山道ではない。
滑りやすい岩壁が連なり、鋭い棘を持つ藪が無数に絡み合う、沢筋の中でも最も険しい場所だった。
「追え! あのガキを山裾の村へ逃がすな!」
灰衣の男の冷徹な怒声が、すぐ背後から追いすがってくる。
一言一句、はっきりと耳に届いた。
奴らは今も、谷底の村人たちを騒ぎに巻き込みたくないらしい。だが、俺が村の方角へ逃げ続ければ、その遠慮もすぐに消え失せるだろう。
そして、その代わりに俺の命を奪う刃が振り下ろされるに違いない。
俺は即座に進路を変えた。
南へ向かって村を目指すのではなく、急角度で北へと折れ曲がる。そこには切り立った低い岩壁と、人がほとんど近寄らない小さな沼地があった。
俺は棘だらけの藪へと飛び込んだ。
鋭い棘が衣の裾を引き裂き、両腕を掻きむしる。皮膚が裂け、血が滲んでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
大人の体では到底通り抜けられないような狭い隙間も、痩せた子供の体なら何とか潜り抜けられる。
俺はその隙間を這うようにして進んだ。
やがて、追いかけてくる足音が藪の縁で止まった。
「……消えたか。ここで痕跡が途切れている」
「そんなはずはない。まだ近くに潜んでいるに決まっている」
灰衣の男が藪のすぐそばまで歩み寄った。
男は慎重に手を伸ばし、葉の先にかすかに残った血の跡を指先でなぞった。それは、俺の袖からこぼれたばかりの新しい血だった。
松明を持つ男が、焦れた様子で尋ねた。
「この藪ごと焼き払って、あのガキを引きずり出しましょうか、大人?」
灰衣の男はしばらく黙ったまま立ち尽くし、やがてゆっくりと首を横に振った。
「いや。あれだけ逃げ隠れしたがっているのなら、あと数日は好きに足掻かせておけ」
「では、あの破片はどうするんです?」
「機会はいくらでもある」
二人はようやく踵を返した。
遠ざかる足音は次第にまばらになり、やがて松林の向こうへと消えていった。
俺は棘だらけの藪の奥で体を丸め、息を殺し続けた。
周囲が完全な静寂を取り戻すまで、決して動かなかった。
どれほど時間が経っただろう。
ようやく安全だと判断した俺は、ゆっくりと体を這い出させた。
冷たい岩壁に背中を預け、途切れ途切れの息を吐きながら、血に染まった両手を目の前に掲げる。
今回も、どうにか命拾いした。
だが、それは俺が勇敢だったからでも、武術で奴らを上回っていたからでもない。
ただ、この森の隅々まで、俺があのよそ者たちよりも詳しかった。それだけのことだ。
もし今後、奴らがもっと多くの手勢を連れてきたら。
あるいは、周囲を徹底的に包囲し、逃げ道を一つずつ潰してきたら。
そのとき、地の利という俺の唯一の強みは、何の役にも立たなくなるだろう。
俺は冷ややかな眼差しで谷の奥を見つめた。
胸の内で、一つの大胆な決意が形を成し始めていた。
もう、銃声に怯える獣のように、ただ逃げ回り続けるわけにはいかない。
俺が隠し持っているあの黒ずんだ金属片と、奴らとの間に、いったいどんな因縁があるのか。それを突き止めなければならない。
答えを見つけるのが遅れれば、いつか奴らが一切の遠慮を捨てたとき、俺には後悔する機会さえ残されていないだろう。
洞窟へ戻った頃には、空はすでに夕暮れの色に染まっていた。
俺は急いで金属片を取り出そうとはしなかった。
その代わり、洞窟の入り口に腰を下ろし、遠くの山々を呑み込むように広がっていく、燃えるような夕焼けをぼんやりと眺めた。
森は相変わらず静かで、驚くほど穏やかだった。
しかし、俺の胸の内では、いつからともなく嵐が吹き荒れていた。
俺はずっと、こう考えていた。
人里から遠く離れ、世の濁った争いから完全に身を引いてしまえば、草木や獣たちに囲まれながら、穏やかな少年時代を過ごせるのだと。
だが、この世というものは、そこから距離を置こうとする人間を、決して放ってはおかない。
人間は野心を抱き、嫉妬に駆られ、暴力を携えて深山幽谷の奥深くにまで踏み込んでくる。
そして、最も静謐な場所でさえ、血に染まる戦場へと変えてしまうのだ。
俺は立ち上がり、小川のほとりに立つ古い樫の木へ向かった。
あの竹筒を埋めておいた場所だ。
湿った土を手で掘り返し、慎重に竹筒を取り出す。外側を覆っていた葉を払い落とし、木栓を抜いて蓋を開けた。
薄暮のぼんやりとした光の中で、黒ずんだ金属片は筒の底に沈黙したまま横たわっていた。
その表面から怪しげな光が放たれることもなければ、不気味な唸り声が響くこともない。
見た目だけなら、火事場に捨て置かれた鉄くずと何ら変わらなかった。
だが、俺は知っている。
この無害そうな外見の裏側には、巨大な猪を狂乱する殺戮の獣へと変えてしまうほどの、破滅的な力が潜んでいるのだ。
こんな時限爆弾のような代物を、いつまでも手元に置いておくつもりはなかった。
しかし、川にでも放り捨てれば、誰かが偶然拾い上げ、また新たな災いを招くかもしれない。
かといって、あの灰衣の男にそのまま返すのも危険すぎる。
奴らの秘密を知りすぎた俺が、自ら首を差し出して暗殺者に斬られにいくようなものではないか。
今の俺に残された道は、外部の人間に助けを求めることだった。
俺は、この一件を老猟師と范有世に打ち明けることに決めた。
老猟師は、北山の頂で鹿が狂い出す様子を目撃した男だ。そして范有世もまた、事情を理解してくれる数少ない人間の一人だった。
二人とも、一蹴りで天下を覆すような武林の大高手ではないかもしれない。
だが、人の世の機微を知り、世の動きを見極める術を心得ている。
何より、二人はこのささやかな日常の中で、正しい道を選ぼうとする人間だった。
俺は竹筒を厳重に包み直し、元の場所へ埋め戻した。
そして、夜の帳が下り始めた山を、迷いなく下っていった。
川岸の渡し場へ着いた頃には、銀色の月が、ゆるやかに流れる水面を横切るように浮かんでいた。
范有世は、目印の杭に結びつけられた木の筏に一人で腰を下ろし、小さな木片を手に、表面を滑らかに削っていた。
俺が砂利の上をそっと歩く音に気づくと、彼は顔を上げた。
夜の闇の中でも、その瞳は明るく輝いていた。
「林兆彬? こんな時間に、いったい何をしに来たんだ?」
俺は彼のそばまで歩み寄り、前置きもなく本題を切り出した。
「有世、力を貸してほしい」
俺のぼろぼろの姿を目にした途端、范有世の顔色が変わった。
破れた衣の裾。腕に無数についた棘の傷。
彼は手にしていた木片を筏の上へ放り出し、勢いよく立ち上がった。
「また、あの灰衣の連中と鉢合わせしたのか?」
「ああ」
「何かされたのか?」
「いや、逃げ切った。だが、奴らはまだ山腹のあちこちを捜し回っている。俺が持っているものを探しているんだ」
范有世は岸へ上がると、俺を川辺にある平らな岩へ座らせた。
その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。
「なあ、阿彬。いったい何を隠しているんだ? どうして奴らは、そこまで執拗にお前を追い詰める?」
彼は俺の目を覗き込んだ。
「まさか、あの手の殺しを生業にしている連中を、これからも一人で相手にするつもりじゃないだろうな?」
俺は彼の目をまっすぐに見返し、ゆっくりと首を横に振った。
「もう、隠し通すことはできない。老猟師に会いたいんだ」
范有世は驚いたように眉を上げた。
「あの爺さんに? 何のために?」
「昨日、あの人は北山の頂で、あの金属片とよく似たものを抱えた鹿が狂い出すのを見たと言っていた。俺たちが思っている以上に、あの人は何かを知っているはずだ」
范有世はしばらく考え込んでいたが、やがて決意したように頷いた。
「わかった。老猟師なら、村の入り口にある墓地の裏手の小屋にいるはずだ。俺が案内する」
二人の子供は、夜の闇に包まれた村の中を、黙々と歩いていった。
人気のない路地を抜け、目指すのは老猟師が暮らす、今にも崩れそうな茅葺きの小屋だった。
到着すると、朽ちかけた木戸の隙間から、まだ油灯の黄色い光が漏れているのが見えた。
范有世は手を伸ばし、戸を軽く叩いた。
「爺さん、俺だよ。有世だ。急ぎで相談したいことがあるんだ」
ギィ……。
軋んだ音を立てて扉が開いた。
現れた老猟師は、くたびれた灰色の衣をまとい、煙の立ち上る素朴な煙管を手にしていた。
戸口に立つ俺たち二人を細めた目で見やり、ぶっきらぼうに言った。
「こんな夜更けに何をしておる。とっとと家に帰って寝ればよいものを、何の用でうろついておるんだ?」
俺は一歩前へ出て、礼儀正しく頭を下げた。
「夜分にお邪魔して申し訳ありません。どうしても、お尋ねしたい大切なことがあるんです」
老猟師は俺の姿をじっと見た。
傷だらけの腕と、見るからに荒れた身なりを目にした瞬間、何かを察したらしい。
その表情が、たちまち険しくなった。
「……中へ入れ。話はそれからだ」
俺たちは急いで狭い小屋の中へ入った。
老猟師は扉を閉め、閂をしっかりとかけると、振り返って俺を見据えた。
「お前、またあの黒ずんだ金属に触れたのか?」
俺は黙って頷いた。
「昨日、灰衣の連中が俺の洞窟にまで押しかけてきました。あれを探していたんです」
老猟師は煙管を深く吸い込んだ。
刺激の強い煙が、小さな部屋の中へともうもうと広がっていく。
「奴らはいったい何者だ?」
「詳しい素性まではわかりません。ただ、金属片の場所を探り当てる専用の道具を持っていました。それに……かなり冷酷な連中です」
老猟師は黙り込んだ。
やがて部屋の隅へ歩いていき、古びた木箱を開けた。そして、その中から何かを取り出し、卓の上に置いた。
それは、俺が隠しているものとそっくりな、真っ黒な金属片だった。
ただし、大きさはこちらの方が少し勝っており、表面には深い亀裂が無数に走っていた。
「先月、あの狂った鹿の死骸から取り出したものだ」
老猟師は声を落として言った。
「これを持ち帰って以来、村の周りをうろつく見知らぬ連中の視線を感じるようになった。奴らは朝廷の人間ではない。かといって、ありふれた江湖の者でもない」
老猟師は卓上の金属片を見下ろした。
「この砕けた玉には……呪いが宿っておる」
俺は卓の上の金属片を見つめた。
喉の奥が、ひどく苦くなった。
「では、これはいったい何なんですか?」
老猟師は、諦めたように首を横に振った。
「正確な出どころまでは、わしにもわからん。だが、遠い辺境を渡り歩いた商人たちの噂によれば、これは遥か昔、何千年も前に封じられた古代兵器の残骸の一部だという」
彼は一度言葉を切り、煙管を卓の端へ置いた。
「生き物の心を食い破り、あらゆるものを灰燼に帰し、血を求めるように変えてしまう……そんな邪物だそうだ」
霧に包まれていた真相が、少しずつ輪郭を現し始めた。
だが、真実が明らかになるほど、恐怖は深まるばかりだった。
数千年前に封じられた古代兵器。
そして、灰衣の連中は、その破片をすべて回収するために山中を捜し回っている。
傍らに立っていた范有世は、みるみるうちに顔色を失った。
「もし、奴らが破片を全部集めてしまったら……どうなるんだ?」
老猟師は、白い煙をゆっくりと吐き出した。
その声は氷のように冷たかった。
「そうなれば、あの猪や鹿が味わった災厄は、森の獣たちだけでは済まなくなる。村々にまで押し寄せ、何万もの罪なき命を呑み込むことになるだろう」
茅葺きの小屋に、死んだような沈黙が落ちた。
俺は傷だらけの拳を強く握り締めた。
これまでは、ただ身を隠していればいいと思っていた。
金属片を木の根元に埋めてしまえば、自分も、この森も、何事もなく平穏を保てるはずだと。
だが、違った。
臆病に逃げ隠れすることは、決して身を守る盾にはならない。
災厄が世界そのものを呑み込もうとしているとき、そこから完全に逃れられる者などいないのだ。
たとえそれが、深い山奥に身を潜めて暮らす、十歳の子供であろうとも。
俺は顔を上げた。
そして、老猟師と范有世をまっすぐに見据えた。
これほど強い決意を胸に抱いたのは、初めてのことだった。
「もう、奴らが好き勝手に振る舞うのを黙って見ているわけにはいきません」
俺は静かに、しかし、はっきりと言い切った。
「俺たちで、奴らを止める方法を見つけなければなりません」




