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Episode 62

 その夜、私はどうしても眠りにつくことができなかった。


 山から吹き下ろす凍てつく風が、洞窟の入口を形作る岩の隙間を抜け、幾度となく甲高い音を立てて吹き荒れていた。風には夜霧の重たい湿気と、朽ちた落ち葉の青臭い匂いが混じっている。洞窟の入口に積んでおいた薪は、今や赤い熾火をわずかに残すばかりだった。その小さな光は、闇の中で妖魔の目玉のようにちらちらと揺れ、乾ききった薪の繊維が最後の熱に耐えきれず裂けるたび、ぱちり、ぱちりと乾いた音を立てた。


 私は乾いた葉を敷き詰めた寝床の上で横向きになり、右腕をいつもの竹の枝のそばへ垂らしていた。昨日の夕方、イタチに噛み裂かれた掌の傷口は、すでに塞がりかけている。だが、無意識に五本の指を握り締めるたび、鈍い痛みが骨の髄までじわりと染み込んできた。


 それでも、今の私の心を蝕んでいるのは、肉体の痛みではなかった。


 洞窟の奥まった場所にある岩の陰。その石の下に隠した、黒ずんだ金属片だった。


 山峡での戦闘の跡に残された灰の中から、偶然それを拾い上げた当初、私はせいぜい誰かが落としていった奇妙な廃材だろうと考えていた。


 だが、麓の小さな集落で目の当たりにした出来事――狂った猪、耳をつんざく爆発音、そして、あの不気味な黒い紋様。それらを目にして以来、私の認識は根底から覆されていた。


 あの金属片は、ただの無機物などではない。


 それは災厄の芽であり、獣たちの生存本能さえ歪めてしまう、恐るべき毒そのものだった。


 一度は、あれを麓の集落へ持ち帰り、銅を鋳造する職人に、この世のどんな物質から作られたものなのか尋ねてみようと考えたこともある。


 だが、以前、何気なく銅製の札を差し出した際に目にした、あの職人の瞳の色が変わる瞬間。そして、面差しが一変したときの、あの異様な反応。それらを思い出すだけで、先走りかけた理性に急ブレーキがかかった。


 この世には、手元に置いておくだけで、自らの首に縄を掛けることになる品がある。


 決して日の光に当ててはならない秘密もある。


 それらが取るに足らないものだからではない。好奇心を満たすために差し出す代償が、自分の命そのものになりかねないからだ。


 私は漆黒の闇の中で、手をついてゆっくりと上半身を起こした。慎重に小さな木の板をずらし、その下の踏み固められた土に深く隠してあった古びた革袋を取り出す。


 袋の中には、三本の曲線が交差するように刻まれた銅札が、以前と変わらず静かに収まっていた。角の一つは小さく欠け、金属の表面も長い年月を経てくすんだ色に変わっている。


 私はそれを、岩の下から取り出したばかりの黒い金属片と並べて置き、熾火のかすかな明かりを頼りに、頭を垂れて細部を観察した。


 両者は、まるで異なっていた。


 銅札に刻まれた模様は、驚くほど繊細で、均整が取れている。熟練した職人の手によって、厳密な規則に従い、組織立って作られた品であることは明らかだった。


 それに対し、あの黒い金属片は、表面がざらざらとして粗く、深く抉られた溝は、まるで純粋な暴力によって無理やり刻み込まれたかのようだった。砕けた縁は不規則にささくれ立ち、いかなる幾何学的な法則にも従っていない。ところどころには、黒々とした焦げ跡さえ残っていた。


 外見だけを見れば、同じ物語の中で並べて語る理由すら見当たらない。共通点など、一つもないように思えた。


 それなのに、この二つの物体は、どちらも陰鬱で冷たい、得体の知れない気配を放っていた。


 目にしただけで、言葉では説明しがたい不安が胸の底から湧き上がってくる。ましてや手に触れれば、その感覚はいっそう強くなるに違いなかった。


 二つを片づけようと手を伸ばした、そのときだった。


 洞窟の片隅に広がる闇の中から、小さなリスが不意に這い出してきた。


 いつものように、私の肩へ飛び乗ってくることはなかった。


 リスは入口の近くでぴたりと動きを止め、長い耳をぴんと逆立てて周囲の音を探っていた。全身は風に吹かれる草のように小刻みに震えている。


 私は即座に手を引っ込め、勢いよく顔を上げた。


「どうした?」


 リスは、墨を流したように濃い夜の闇を凝視しながら、緊張の滲む小さな声で答えた。


「誰かが……誰かが、私たちの洞窟の周辺に近づいてきている」


 私は一瞬たりとも躊躇しなかった。


 乾いた土をひとつかみすると、洞窟の入口に残っていた熾火へ勢いよく振りかけた。


 ジュッ……。


 最後の微かな光が、瞬く間に消え失せた。


 洞窟全体が、たちまち冷えきった漆黒の闇に沈んでいく。


「何人いる?」


 私は息遣いさえ最小限に抑え、囁くように尋ねた。


「姿までは、はっきり見えない。でも、足音が聞こえる……それに、坂の下のほうから、馬の蹄が抑えられたような、こつこつという音もする」


 私は銅札を革袋に戻し、衣の内側、胸元に最も近い場所へとしまった。一方、黒い金属片は厚みのある森の葉で何重にも包み込み、寝床の奥にある、険しい岩の裂け目へと押し込んだ。


 すべてを終えると、私は手の中の竹の枝を強く握り締め、音を立てないよう慎重に歩を進め、洞窟の入口脇に身を寄せた。


 静寂に包まれた深山幽谷の中、老樹の幹の間を、小さな光が揺らめきながら移動していた。


 山へ薪を拾いに来た樵が持つような、粗末な松明ではない。


 光源は極めて低い位置にあり、風除けの覆いが付いた小さな灯籠の中に、注意深く隠されていた。灯りを持つ者が木々の隙間を通り抜け、葉の覆いが途切れた場所に差しかかったときだけ、ぼんやりとした光が外へ漏れ出す。


 来訪者は、意図的に自分たちの姿を隠している。


 私はさらに暗がりの奥へと身を引き、息を潜めながら、運命が扉を叩く瞬間を待った。


 それから、ほんの数分も経たないうちに、足音が洞窟の入口のすぐ外で止まった。


 誰かが、そこに立っている。


 そして、何より恐ろしいのは、その人物がこの場所に人が暮らしていることを明確に把握しているという事実だった。


 それどころか、私の住むこの洞窟を、正確に狙い定めてやってきたのだ。


 不意に、低く濁った男の声が響き、夜の静寂を破った。


 私は即座に、その声が以前、山峡で出会った気難しい狩人のものではないと悟った。


 乾ききった、平坦な声。


 だが、そこには、対等な相手と語り合う者にはない、命令することに慣れきった人間特有の威圧感があった。


 それに続いて、もう一人分の足音が岩壁のすぐそばまで近づいてきた。


 別の男が、応じるように口を開いた。


「南側の山腹は、ほぼ隅々まで捜索いたしました、閣下。あの小僧が本当にこちらへ逃げ込んだのであれば、必ず何らかの痕跡を残しているはずです」


「地面ばかり見て、浅はかな足跡を探し回るな」


 低く濁った声が、冷ややかに遮った。


「ここで暮らす者は、この森の穴も隙間も、隅々まで知り尽くしている。自分の痕跡を消すくらいの知恵は、十分に持ち合わせているはずだ」


 やがて、二人の見知らぬ男の姿が、古い松の木々の間からはっきりと浮かび上がった。


 先を歩く男は、灰色の衣を身にまとい、頭には布製の頭巾を深くかぶって、顔の半分を隠していた。腰には鋭利な短刀を帯び、肩には重い何かが入っているらしい細長い革袋を担いでいる。


 後ろを歩く男は、先の男よりも背が高く、がっしりとした体格をしていた。左手には厚い布が巻かれ、右手には風を遮る覆いのついた小さな松明が握られている。


 二人とも、地元の狩人や貧しい樵には到底見えなかった。


 弓矢は持っていない。獲物を入れる籠もない。


 山歩き用の靴には、足音を殺すための柔らかな布が巻かれている。身に着けた衣服は無駄なく整えられ、動きを妨げるものは何一つない。


 そして、武器の柄に添えられた手の位置。


 それだけで、彼らがいつ何時でも、躊躇なく人を殺傷する用意を整えていることが窺えた。


 灰色の衣の男は、洞窟の入口でゆっくりと腰を屈めた。


 靴先で踏み潰された枯れ葉をそっと脇へ払い、地面に残った灰へ指先を軽く触れる。


 まだ、微かな温もりが残っていた。


「つい先ほど、ここで火を起こした者がいるな」


 男は小さく呟いた。


 松明を持つ男が、洞窟の奥に広がる暗闇へ目を向けた。


「どこぞの下手な狩人が、一晩の宿に使っただけではございませんか」


「違う」


 灰色の衣の男は立ち上がり、周囲を取り巻く木々や枝葉を見渡した。


「この辺りに住む狩人なら、わざわざこんな厄介な洞窟を寝床には選ばん。谷間からの風がまともに吹き込んでくるうえ、雨季に嵐でも来れば、膝の高さまで水が押し寄せる」


 私は竹の枝を握り締めた。


 手首に青筋が浮かび上がるほど、強く。


 男は続けた。声には、何かを推し量るような響きがあった。


「ここに暮らす者は、この森のことを手のひらの上のように知り尽くしている。だが同時に、自分の居場所を誰にも知られたくないと思っている」


 二人の男は、しばらく黙り込んだ。


 やがて、松明を持つ男がためらいがちに尋ねた。


「まさか……麓の集落で話に出ていた、あの子供ではございませんか?」


「どの子供だ?」


「山の麓にいた、あの狂った猪を深い岩溝へ誘い込む方法を、臆することなく指示したという子供です」


 灰色の衣の男は、すぐには答えなかった。


 ゆっくりと首を巡らせると、南の方角をじっと見つめた。


 幾重にも連なる闇深い木々の向こう。その先には、谷間へと下る細い山道が隠れている。


「その可能性もあるな」


「では、洞窟の中へ踏み込み、そやつを捕らえて事情を問いただしますか?」


「まだ、その必要はない」


 男は身を翻し、きっぱりと言い切った。


「我々の最優先事項は、あの山峡へ落ちた物を見つけ出すことだ。もし、あの破片が本当に他人の手に渡っていたとすれば、事態はひどく複雑になる。こちらの思いどおりに制御することも、難しくなるだろう」


 その言葉を聞いた瞬間、私の心臓は、喉元から飛び出しそうなほど激しく脈打った。


 山峡へ落ちた物。


 それは、私が隠しているあの黒い金属片のことなのか。


 それとも、私の知らない、さらに恐ろしい何かが存在するというのか。


 松明を持つ男は、なおも不安げな様子を見せていた。


「ですが、閣下。仮にそれを拾った者が、頑として引き渡しを拒んだ場合は、いかがなさいますか?」


 灰色の衣の男の手が、ゆっくりと刀の柄へと伸びた。


「ならば、そいつがどこまで知っているのか。そして、その小さな命が、どこまで耐えられるのか。それを見極めるまでのことだ」


 脅しとも取れるその言葉が途切れた直後、洞窟の裏手から、小さな物音が響いた。


 夜鳥が一羽、松明の光に不意を突かれて怯え、慌てて翼を羽ばたかせながら夜空へと飛び立ったのだ。


 松明を持つ男は、びくりと肩を震わせ、勢いよく振り返った。


「誰だ、そこにいるのは!?」


 男は松明を手に、傍らの茂みへと駆け出し、周囲の地面をくまなく照らして探った。


 だが、そこにあったのは、ただ深い闇と、風に吹かれてかさかさと音を立てる数枚の枯れ葉だけだった。


 男が戻ってきたとき、灰色の衣の男は、すでに洞窟の入口へと足を踏み入れていた。


 その手は、刀の柄を固く握り締めている。


 狭い洞窟の中に、凍てつくような声が響き渡った。


「いつまで隠れているつもりだ? さっさと出てこい」

 もちろん、あの男の呼びかけに応じて、のこのこと姿を現すほど私は愚かではなかった。


 男はしばらくその場に立ち尽くし、数度の呼吸を置いてから、洞窟の奥へと足を踏み入れることを決めた。


 だが、実のところ、私は男が洞窟の中へ足を踏み入れるよりも前に、すでに入口から姿を消していた。


 私の寝床がある場所、そのすぐ裏手の死角には、奇妙なほど狭い岩の裂け目がある。そこは奥の山腹へと続いており、二本の古い松の木の間にある空き地へ抜けられるようになっていた。


 もともとは、激しい雨風が洞窟の中まで吹き込んでくる日や、凶暴な獣がうっかり入口まで近づいてきたときに備えて、私が用意しておいた逃げ道だった。


 その隙間は、痩せ細った子供である私が、どうにか身体を横向きにして通り抜けられる程度の広さしかない。


 私はごつごつとした木の根をしっかりとつかみ、音を立てないよう慎重に身体を滑らせながら外へ抜け出した。そのまま、さらに高い位置にある岩棚へとよじ登る。そこなら、洞窟の入口を形作る岩の隙間から、内部の様子をほぼ一望できた。


 揺らめく松明の明かりの下、灰色の衣の男は、私の寝床の周囲を隅々まで探っていた。


 男は短刀の切っ先で寝床に敷いてあった枯れ葉を乱暴に跳ね上げ、小さな木の実をいくつか入れた布袋をひっくり返して中を確かめると、そのまま放り出した。


「ここに物を隠していたわけではないか」


 松明を持つ男が、せっかちに頭を突っ込んで尋ねた。


「この岩穴をいくつか叩き壊してでも、もう一度念入りに調べますか、閣下?」


「その必要はない。ここに住んでいる者は、とっくに逃げた後だ」


 男はゆっくりと身を起こすと、寝床の奥にある岩壁へ鋭い視線を向けた。


 そこは、私が先ほど黒い金属片を急いで押し込んだ場所だった。


 背筋に、氷水を浴びせられたような冷たさが走った。


 冷や汗が一気に噴き出し、背中の衣服をぐっしょりと濡らしていく。


 あの男に岩の裂け目を見つけられれば、私は逃げ道を完全に失う。


 武芸の心得などない私に、熟練した大人の殺し屋を相手に立ち向かえるはずがなかった。


 手に握った竹の枝が、ひどく頼りないものに思えてきた。


 開けた場所で身体の均衡を保つときには役に立つし、邪魔な枝を払いのけたり、間抜けな小動物を追い払ったりする程度なら十分に使える。


 だが、人を殺すための本物の刀を前にすれば、ただの枯れ枝と大差ない。


 私はごくりと唾を呑み込み、岩棚のさらに奥へ身を引こうとした。いつでも逃げ出せるよう、足場を確かめながら後退する。


 そのときだった。


 まさに、危機一髪という瞬間に、灰色の衣の男がふいに動きを止めた。


 男は岩の裂け目へ向かわなかった。


 代わりに、その目は洞窟の隅にある、掘り返されたばかりの土の跡へ釘付けになっていた。


 先ほど黒い金属片を隠した際、私はあまりにも急いでいたため、土を元どおり平らにならすことができなかったのだ。


 普通の人間なら、そんな些細な不注意など気にも留めないだろう。


 だが、深い森の中でわずかな痕跡を追うことを生業とする者にとって、それは大きな道標を立てているのと何ら変わらなかった。


 灰色の衣の男は片膝をつき、地面にしゃがみ込んだ。


 湿った土を指先でひと撫ですると、岩壁の裏手に走る亀裂へと、まっすぐ視線を向けた。


「この中に、何かが隠されている」


 私は、もはや一秒たりとも躊躇してはいられなかった。


 足元に落ちていた鋭い小石を拾い上げ、持てる力の限りを込めて、崖の向こう側に生い茂る茂みへ投げつけた。


 ゴツッ!


 小石は木の幹にぶつかり、乾いた音を響かせた。


 松明を持つ男が、ぎょっとして叫んだ。


「誰だ、そこにいるのは!?」


 灰色の衣の男も即座に短刀を抜き、身を翻すや、洞窟の入口へ向かって駆け出した。


 私は千載一遇の好機を逃さなかった。


 岩棚から滑り降り、そのまま斜面へと駆け下りる。


 木々や茂みが入り乱れる中を、私は無我夢中で走り抜けた。できるだけ足音を立てないよう心掛けたものの、速度だけはどうしても抑えられなかった。


 しかも、漆黒の闇に包まれた山中では、足元の枯れ葉がかさかさと擦れる音を、完全に消し去ることなどできなかった。


 背後から、灰色の衣の男の冷たい怒声が夜の闇を切り裂いた。


「止まれ!」


 私は死に物狂いで走った。


 曲がりくねった山道を駆け抜け、勢いをつけて倒木を飛び越える。そのまま斜面を滑り落ち、干上がった沢の岸辺へと転がり込んだ。


 バシャッ!


 肌を切り裂くような冷たい水が、足首まで一気に押し寄せた。


 危うく転びそうになったが、ここまで苦労して鍛えてきた歩法のおかげで、私はとっさに腕を振って体勢を立て直した。


 そのまま水の中を走り、逃走を続ける。


 ヒュッ!


 不意に、風を切る音が頭上をかすめた。


 反射的に首をすくめ、身体を低く伏せる。


 親指ほどの大きさの石が肩口すれすれを通り抜け、前方の樫の木に激突した。甲高い音が夜の森に響き渡る。


 追っ手は、刀で私を斬りつけようとはしなかった。


 私を生きたまま捕らえようとしているのだ。


 その事実は、初めから刀を振るって命を奪おうとするよりも、何倍も恐ろしかった。


 なぜなら、それはつまり、私が知ってしまった秘密には、私の命よりも大きな価値があるということを意味していたからだ。


 私は生い茂るシダの群れを突っ切り、沢の岸辺から垂れ下がった木の根をつかんで身体を引き上げた。


 高い位置にある岩へ這い上がり、暗闇に沈む木の幹へと身を寄せる。


 直後、こつこつという足音が水際のすぐ下で止まった。


 灰色の衣の男が、すぐそこまで追いついていた。


 男は刃物のように鋭い目を上げ、かすかに揺れる木の枝を見つめた。


 呼吸は驚くほど落ち着いている。ここまで走ってきたというのに、疲労の色など微塵も見られなかった。


「お前は、この森に棲む獣ではない」


 低く落ち着いた声が、夜の闇に響き渡った。


 その声音には、人の心を押し潰すような、息苦しいほどの圧迫感があった。


「この近くのどこかに、まだ隠れていることは分かっている。出てこい」


 私は唇を強く噛み締め、血の味が滲むのを感じながら、両手で木の幹を固くつかんだ。


 一言も発しなかった。


 男はゆっくりと短刀を鞘から引き抜いた。


 木々の葉の隙間から差し込む朧月の光が、刀身に冷たい輝きを走らせる。その鋭さは、目にするだけで背筋が粟立つほどだった。


「山峡で何かを拾ったのなら、素直に差し出すことを勧める。何も知らぬ子供を、わざわざ手にかけるつもりはない」


 私は生い茂る葉の隙間から男を見下ろし、思わず問い返した。


「だったら、どうしてそこまで私を追い回すんだ?」


 灰色の衣の男が動きを止めた。


 次の瞬間、男は勢いよく顔を上げ、私が身を潜めている場所をまっすぐに見据えた。


 私たちの視線が、静まり返った夜の中でぶつかり合う。


 ほんの一瞬で、私は自分の居場所が完全に露見したことを悟った。


 それでも男は、飢えた獣のように飛びかかってくることはなかった。


 ただ、その場に立ったまま、ゆっくりと短刀を鞘へ収めた。


「お前が、この世で見てはならぬものを目にしてしまったからだ」


 私は深く息を吸い込み、声が震えないよう努めながら答えた。


「私が見たのは、傷を負った猪だけだ」


「その身体に突き刺さっていた物には触れたか?」


「触れていない」


「では、あれが現れた地面の窪みで、何かを拾ったのではないか?」


 私は完全に口を閉ざした。


 今、この沈黙こそが何よりも雄弁な答えだった。


 男はしばらく私を見つめていたが、やがて、不思議なほど平静な声で言った。


「今すぐ答えろとは言わん。だが、一つだけ肝に銘じておけ。あの代物は、お前が手元に置いておけるような玩具ではない。それに、深い森の中で暮らす一人の子供が背負えるものでもない」


 私は手にした竹の枝を強く握り締めた。


「なら、どうしてあんなものが、私の森に現れたんだ?」


 男は、はっとしたように動きを止めた。


 初めてだった。


 冷静で冷酷な仮面をかぶっていたその顔に、ほんのわずかな亀裂が走ったのは。


 やがて男は背を向け、夜風の中に意味深な言葉だけを残した。


「それこそ、私自身が命懸けで答えを探している問いなのだ」


 男は沢を離れ、足音一つ立てずに闇の中へと去っていった。


 私は冷えきった岩棚に一人取り残され、答えの見つからない疑念に頭の中を埋め尽くされていた。


 刀を携え、殺気を纏い、深山幽谷で得体の知れない物を追い求める男。その男自身が、探している物の正体をまるで知らないと認めたのだ。


 もし、あの言葉が真実ならば、男の背後には、さらに巨大で、さらに闇の深い勢力が存在し、すべてを操っていることになる。


 反対に、あの言葉が嘘だったのなら、男の底知れぬ腹の内は、決して侮れるものではない。


 私は男の姿が完全に夜の闇へ溶け込むまで待ち続け、それからようやく岩棚を降りた。


 すぐに洞窟へ戻ることはしなかった。


 代わりに沢沿いを迂回し、大きな竹藪の陰に身を潜めて、遠くから様子を窺い続けた。


 洞窟の入口では、松明を持つ男が苛立たしげに待ち構えていた。


 仲間が一人で戻ってきたのを見るなり、すぐさま歩み寄って矢継ぎ早に尋ねた。


「どうでした? あの盗人を捕らえましたか、閣下?」


 灰色の衣の男は、きっぱりと首を横に振った。


「いや。ただ森の中で暮らしている子供だ」


「例の子供ですか?」


「おそらくな」


「ならば、捕らえてしまえばよかったではありませんか! あの破片を目の当たりにしたのなら、生かして自由にさせておくなど、自ら災いを招くようなものです。遅かれ早かれ、我々の居場所を誰かに知られることになります」


 灰色の衣の男は、凍りつくような眼差しで相手を一瞥した。


「お前は、あの子供があの代物を持っているところを、自分の目で確かめたのか?」


「……いいえ」


「ならば、捕らえてどうする? 何も知らぬ子供を捕まえて尋問したところで、何になるというのだ。その結果、麓の集落にいる連中を刺激し、全員で山へ押しかけてきたらどうするつもりだ?」


 松明を持つ男は口を閉ざし、それ以上反論しようとはしなかった。


 灰色の衣の男は、さらに指示を続けた。


「明日の朝、お前は狂った猪が死んでいた岩溝へ戻れ。破片がほかに残っていないか、徹底的に調べるんだ。私は北へ向かい、さらに情報を集める」


「で、ですが……あの子供はどうします?」


「こちらに近づかず、余計な真似もしないのなら、しばらくは生かしておけ」


 そう言い残すと、二人は手早く身支度を整え、深山の静寂に包まれた闇の中へと姿を消した。


 私は竹藪の陰に立ち尽くしたまま、長い時間をかけて周囲の様子を窺い続けた。


 二人が本当に去ったことを確かめてから、ようやく慎重に来た道を辿り、洞窟へ戻った。


 隅々まで調べ直し、寝床の枯れ葉をひっくり返し、最後には灰の残る場所へ腰を落とした。


 銅札は、衣の内側に無事残っていた。


 黒い金属片も、まだ発見されていない。


 だが、厳然たる事実が一つあった。


 敵は、すでに私という存在の匂いを嗅ぎつけている。


 そして、これから先、自分の身の安全を保証してくれるものなど、私には何一つなかった。


 私は二つの品を取り出し、平らな岩の上に並べた。


 一方は、刀を携えた少女が持っていた、謎めいた銅札。


 もう一方は、狂った猪の死が残した、血塗られた金属の破片。


 この二つの間に、どのような因果関係があるのか、今の私にはまだ断言できなかった。


 だが、今夜を境に、これらを道端で拾っただけの、何の変哲もない品として扱うことは、もうできなくなった。


 私は銅札を慎重に胸元の袋へしまい、黒い金属片には分厚い枯れ葉を何重にも巻きつけ、生活圏から十分に離れた、険しい岩場の奥にある隙間へと深く隠した。


 それから、冷たい岩壁に背中を預け、洞窟の入口の向こうに広がる果てしない闇を、じっと見つめた。


 以前の私は、こんな人里離れた大森林で一人きりで生きるということは、ただ獣を避け、食べ物を探し、その日その日を生き延び、ちょっとした怪我を自分で手当てすることなのだと思っていた。


 だが、どうやらこの世界の本当の恐ろしさは、獣の牙や爪だけにあるのではないらしい。


 それは知恵を持ち、どんなに些細な痕跡も見逃さず、自らの目的を果たすためなら他人の命さえ踏みにじることを厭わない人間たちの中にこそ潜んでいる。


 灰色の衣の男が何者なのか、私には分からない。


 山の外に存在する、どのような勢力に仕えているのかも知らない。


 だが、一つだけ確信していることがあった。


 あの黒い金属片を追っているのは、あの男一人ではない。


 そして、いつかこの場所の平穏を守りたいと願うのなら。あるいは、せめて自分が何に巻き込まれているのか、その真相を知りたいと望むのなら。


 私はいつまでも、森の深い緑を隠れ蓑にして逃げ続けるわけにはいかないのだ。


 私は目を閉じ、節くれだった手を竹の枝の柄にそっと添えた。


 明日になれば、また太陽が昇る。


 私はこれまでどおり、歩法の鍛錬を続けるだろう。


 生きていくために、食べ物を探すこともやめない。


 大森林に生きる、野生の子供としての日々を続けていく。


 ただし、これからはもう、自分に理解できない物を、何の警戒もなく拾い上げることは決してしない。


 一度、他人の目に留まってしまった秘密は、人が安らかな日々を送ることを、二度と許してはくれないのだから。


 そして、どこか遠くの死角では、姿の見えない敵たちが、今もなお、音もなくその機会を窺っている。


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