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Episode 61

 南の山峰の麓から、三度目の角笛が鳴り響いた。重く濁った音は、哀切な余韻を引きずりながら、いつまでも山々にこだましていた。


 その音は、早朝の霧を無情にも切り裂き、青黒い岩壁に反響したのち、深山幽谷の果てへと溶け込んでいった。次の瞬間、松の梢に群れていた鳥たちが一斉に羽ばたき、灰色に濁った空へと逃げ去った。


 小さな集落の方角では、低い瓦屋根の向こうから、灰色の煙が渦を巻いて立ち昇っていた。焦げた藁の鼻を刺す臭いとともに、かつてないほどの混乱が、あたり一帯を包み込んでいる。


 僕は岩の突端に立ち尽くし、無意識のうちに青竹の枝を握り締めていた。指の関節が白くなるほど、強く。


 この角笛の音を、僕は一度だけ聞いたことがある。


 ファム・フー・テーが川に飛び込み、子供を救い出した、あの日の夕暮れだ。


 あのときの角笛は、人々を川辺へと呼び集め、岸に繋がれた小舟を安全な杭へと係留させるためのものだった。だが、今日の角笛は、誰かを川辺へ呼び寄せるための音ではない。


 逃げろ、という警告だ。


 災厄の瀬戸際に立たされた集落が、命を守るために発する緊急の合図だった。


「バン、下へ行っちゃ駄目だ!」


 肩に乗っていた小さなリスが、頭のてっぺんまで跳び上がった。耳を逆立て、鋭い爪で僕の髪をしっかりと掴んでいる。


 この高さからなら、集落へと続く山道沿いで起きている混乱が、はっきりと見えるのだろう。


「下に……何かがいる! みんなを追いかけているんだ!」


「何が?」僕は乾いた声で尋ねた。


「わ、我にも姿まではよく見えぬ。だが、とてつもなく大きい。それに、近くにいるだけで息が詰まるような殺気を放っておる!」


 僕は身を屈め、腰に提げた布袋へ手を深く差し入れた。


 昨日、穴のそばで拾った黒い金属片は、葉に包まれたまま、袋の中に収まっている。


 それが眼下の騒動と直接関係していると断言できる証拠は、まだ何ひとつなかった。


 それでも、脳裏にはあの巨大なイノシシの姿が、ありありと蘇っていた。


 毛皮の下を這うように広がっていた、黒い筋模様。


 肩に生じた、怪しく光る腫瘤。


 濁りきった眼。


 体の内側から、じわじわと肉体を侵食していく黒い血管。


 そして、理性をことごとく奪われた生き物の、あの凄まじい咆哮。


 僕は身を翻すと、一気に山道を駆け下りた。


「また何をしでかすつもりなのだ、この馬鹿者!」


 耳元で、リスが悲鳴じみた声を上げた。


「下へ行って、いったい何が起きたのか確かめる!」


「前に、もっと慎重に行動すると約束したではないか! あの誓いは犬にでも食わせたのか!」


「僕は十分慎重にやっている!」


「地獄へでも突っ込むつもりかという勢いで走っておいて、何が慎重だ! この大馬鹿者め!」


 僕はもう、返事をしなかった。


 古い松の根を足場にしながら、濡れた落ち葉が積もる滑りやすい斜面を駆け抜ける。


 見慣れた山道の分岐点に差しかかると、沢へ一直線に下る近道を選ばず、脇を通る踏み固められた土の道へと進路を変えた。


 こちらの方が滑りやすい岩も少なく、速く走りながらでも体勢を保ちやすい。


 集落に近づくにつれ、悲鳴や助けを求める声、何かを叩き壊す物音が、耳にはっきりと届くようになってきた。


 そして、不意に――。


 低く、濁り、耳にまとわりつくほど不気味な咆哮が、空気を引き裂いた。


 僕の足が、道の途中でぴたりと止まった。


 その声には聞き覚えがあった。


 昨日の夕刻から、ずっと頭の中にこびりついて離れなかった、あの声だ。


「……あいつだ」


 乾ききった唇から、二つの言葉がこぼれ落ちた。


 リスが僕の襟元にしがみつき、震える声で尋ねた。


「き、昨日のあの獣か? お前が助け出した、あの頭のおかしい化け物のことか? 岩の隙間に挟まっていた……!」


「うん」


 藁葺き屋根の向こうでは、灰色の煙が激しく渦巻いていた。


 昨日、岩と岩の間に身動きも取れず挟まり、苦しみもがいていたあの獣を見たとき、僕は梃子を使って岩の隙間を広げ、森へ帰れるようにしてやった。


 野生の命を一つ、苦しみから解放した。


 ほんのささやかな善行を果たしたのだと、僕はそう思っていた。


 だが、今、この煙と炎に覆われた光景を前にして、ようやく思い知らされた。


 あのときの僕は、あまりにも考えが浅く、あまりにも世間知らずだったのだ。


 僕は手の中の青竹を強く握り直し、ありったけの力を込めて再び走り出した。


 もう、傷ついた獣を助けに行くのではない。


 自分の手で、あの化け物が災厄を振りまく場所へと解き放ってしまった。


 その場所に、僕は今、向かっているのだ。


 小さな集落の入り口にたどり着いたとき、目の前の光景は、すでに血と混乱にまみれた戦場へと変わり果てていた。


 薪を積んだ木製の荷車が道端にひっくり返り、乾いた薪があたり一面に散乱して、通り道を塞いでいる。


 村人たちは半狂乱になって逃げ惑い、集落の入り口にある、石壁で補強された頑丈な家々へと駆け込んでいた。


 鋭く尖らせた竹槍を握る若者もいれば、長い棒を振り回し、音を立てて獣を住居のある区域から追い払おうとする者たちもいた。


 その土道の中央で、巨大なイノシシが狂ったように暴れ回り、行く手を遮るものすべてをなぎ倒していた。


 巨体は泥にまみれ、古傷からは鮮血が滲み出ている。


 肩に深々と突き刺さった黒い物体も、まだ残っていた。


 しかも、枯れ木の根のような黒い筋模様は、首筋から頭部の半分にまで広がっている。


 獣が荒々しく首を振るたび、その黒い筋に走った亀裂から、暗赤色の光がちらついた。


 そこから漂う禍々しい気配に、近くにいた人々は恐れおののき、我先にと距離を取った。


 轟音が響いた。


 イノシシの全力の体当たりを受け、木製の荷車が宙へと跳ね上がり、地面に叩きつけられて粉々に砕け散った。


 中年の男が地面を転がり、変形するほど折れ曲がった脚を必死に抱えている。


 そのすぐそばでは、小さな娘が水桶の脇に立ち尽くしていた。


 恐怖のあまり、全身が凍りついてしまったのだろう。逃げなければならないと分かっていても、一歩も足を動かせずにいた。


「逃げろ!」


 石壁の陰から、人影が飛び出した。


 その者は一瞬たりともためらわず、少女を抱き上げると、身を翻して壁際へと転がり込んだ。


 イノシシがすぐ脇を駆け抜けていく、その寸前のことだった。


 僕は、少女を救った人物の顔を見て、愕然とした。


 ファム・フー・テーだった。


 少年は少女を低い石壁の陰に押し込むと、すぐさま振り返った。


 そして、道の入り口で棒立ちになっている僕を見つけた。


「ラム・チエウ・バン? こんなところで何をぼさっと突っ立ってるんだ!」


 僕は答えることができなかった。


 獲物を逃したイノシシが、怒り狂ったように咆哮した。


 そして、転がっていた竹籠の音に反応して首を振ると、それを踏み潰し、集落の奥にある穀倉へ向かって突進していった。


「矢を射るな!」


 数人の若者が弓を構えたのを見て、年配の男が大声で制止した。


「完全に狂っているんだ! 矢が何本か刺さったところで止められるとは限らん! かえって、ますます逆上させるだけだ!」


 僕は、走り去る獣を呆然と見つめた。


 昼の明るい光の下では、その姿が嫌というほどはっきり見えた。


 右前脚は、今もなお引きずるように動いている。古傷の後遺症のせいで、歩みも不規則だった。


 だが、破壊を繰り返す勢いには、いささかの衰えも見られない。


 あれは、生き延びるために獲物を追っているのではない。


 目の前で動くものを、ただ片っ端から破壊しようとしているのだ。


 その瞬間、冷たい真実が僕の胸をまっすぐに貫いた。


 昨日、あの獣を山の岩場で見つけたとき、そいつは疲労困憊し、自力では立ち上がることさえできなかった。


 僕は、岩の隙間という自然の罠からは救い出した。


 だが、そいつの体内を蝕んでいた、あの禍々しい何かを放置したままだった。


 僕は、あいつを岩の隙間から救った。


 けれど、あいつを理性なき怪物へと変えたものからは、救えなかったのだ。


「バン!」


 ファム・フー・テーが荒い息を吐きながら、僕のところへ駆け寄ってきた。


 胸が激しく上下している。


「お前、あの化け物と知り合いなのか? どうして、あんなに狂ったように暴れてるんだ?」


 僕は彼を見つめた。


 喉の奥に苦いものが詰まり、すぐにはまともな言葉が出てこなかった。


 集落の奥で、天地を揺るがすような轟音が響き渡った。


 イノシシが穀倉の壁を体当たりで破壊したのだ。白い米が詰まった袋が何十と転がり落ち、地面に米粒が散乱していく。


 女たちと子供たちの悲鳴が、いつまでも途切れることなく響いていた。


 僕が黙り込んでいるのを見て、フー・テーは焦れたように僕の肩を強く掴み、揺さぶった。


「いつまでぼうっとしてるんだ、ラム・チエウ・バン! もし、あいつがこっちを向いたらどうする? お前みたいな小さな子供なんて、体をまともな形のまま残すことすらできないぞ!」


 僕はうつむき、肩に置かれた彼の手をじっと見つめた。


 そして、風に紛れてしまいそうな小さな声で答えた。


「……昨日、あいつに会ったんだ」


 フー・テーの動きが止まった。


 彼は眉をひそめた。


「どこで?」


「山の岩場で……二つの岩の間に挟まって、身動きが取れなくなっていたんだ」


 僕は唾を飲み込んだ。


 罪悪感に押し潰されそうになりながら、それでも続きを口にした。


「それで……僕が、助け出した」


 フー・テーは、ゆっくりと僕の肩から手を離した。


 ほんの短い間だった。


 けれど、その瞬間、周囲の喧騒がすべて遠のき、まるで現実とは隔絶された、どこか別の場所に取り残されたような気がした。


 フー・テーは僕を見つめていた。


 日に焼けた顔に、怒りや罵倒の色は浮かんでいない。


 それでも、その眼差しだけは、明らかに変わっていた。


 そこにあったのは、失望だった。


 そして、目には見えない何か重いものを、一身に背負ったような沈痛さだった。


「お前は、自分が助けたあの獣が、どれほど危険な存在なのか分かっていたのか?」


 フー・テーが尋ねた。


 不思議なほど平静な声だった。


「……分かっていた」


「危険だと分かっていて、どうして逃がした?」


 僕は、自分の行動を正当化しようとはしなかった。


 言い訳を探すこともしなかった。


「……森の奥へ帰っていくと、思ったんだ」


 フー・テーは、穀倉を破壊し続けるイノシシへと視線を向けた。


 そのとき、集落の老猟師が、転んだ子供を引きずるようにして獣の進路から遠ざけようとしていた。


 だが、殺意に満ちた唸り声が間近に迫ると、老猟師は恐怖のあまり、今にも膝から崩れ落ちそうになった。


「お前はそう思った。だが、絶対にそうなると、一分の疑いもなく言い切れたのか?」


 フー・テーの問いかけは、ゆっくりとしていた。


 それでいて、その一言一言は、鋭い刃物のように僕の心へ突き刺さった。


「……言い切れない」


 僕は、うなだれた。


 もう、何も言い返せなかった。


 目の前で苦しんでいる獣を救いたい。その思いだけで、僕は行動した。


 しかし、僕が見ていたのは、ただ、その瞬間の苦しみだけだった。


 その先に待ち受けるかもしれない、計り知れない結果には、まるで目が向いていなかったのだ。


 僕は、この小さな集落に暮らす誰かを傷つけようとしたわけではない。


 誰かを苦しめたいなどと、思ったこともなかった。


 けれど、僕に悪意がなかったからといって、傷ついた人々の痛みが少しでも和らぐわけではない。


 その事実が、何よりも重かった。


 フー・テーは、しばらくの間、僕を見つめていた。


 やがて、彼は身を翻した。


「今は、ここで責め合ったり、後悔したりしている場合じゃない。まずは、集落の人々を全員、あいつの進路から逃がすんだ。それが最優先だ」


 そう言い残すと、彼は混乱する人々の中へ飛び込み、避難の手助けを始めた。


 僕はその場に立ち尽くしたまま、青竹の枝を握り締めていた。


 指先が青白くなるほどに。


 追いかけて、弁解したかった。


 けれど、今、目の前に広がる惨状を前にして、言葉だけで何かを償えるはずもなかった。


 自分の罪を少しでも埋め合わせるために、僕にできることはただ一つ。


 自分の手で、あの化け物を止めることだった。


 昨日、山で出会った老猟師も、現場に来ていた。


 鉄鋲を打ち込んだ靴を履き、肩に狩猟用の弓を担いだ、あの老人だ。


 彼は集落の入り口にある涸れ井戸のそばに立ち、腕を組んで、イノシシの動きを注視していた。


 僕が人々の間を縫って近づいていくと、老人はすぐに僕に気づき、目を細めた。


「またお前か、小僧」


 僕は素早くうなずいた。


「いったい、あの獣の身に何が起きているんですか? あれは、何なんです?」


 老猟師は、すぐには答えなかった。


 黒い筋模様が獣の体を侵食していく様子を、複雑な面持ちで見つめていた。


「わしはこの山地で何十年も暮らしてきたが、あんな奇怪な生き物を見たことは一度もない」


「肩に突き刺さっている、あの物体は……」


「それなら、知っている」


 老猟師は声を落とした。


 その表情に、重苦しい影が差した。


「先月、北山の頂でも、同じように狂った鹿が見つかった。森で働いていた木こりを二人、角で突き殺したあと、死骸になって発見されたそうだ。そいつの肉の中にも、あれとまったく同じ、真っ黒な金属片が突き刺さっていたという」


 僕は無意識のうちに、胸元に隠した布袋へ手を触れた。


 中には、拾い集めた黒い金属片の破片が収められている。


「では、あれがどこから来たのか、ご存じなんですか?」


「いや……分からん」


 老猟師は首を横に振り、薄暗い山奥へと目を向けた。


「ただ、あれに体を貫かれた獣は、どれも正気を失い、血に飢えた殺戮の道具へと変わってしまう。数日で死ぬものもいる。体の内側から肉が裂けていくせいだという。また、山奥へ逃げ込んだきり、二度と姿を現さなくなるものもいる」


 僕は老人を見つめ、声を低くした。


「それほど危険だと分かっていたのなら、なぜ、もっと早く集落の人々に警告しなかったんですか?」


「警告なら、とっくにしたさ」


 老猟師は、苦々しげに答えた。


「だが、こんなことを仕組んでいる者の正体も、居場所も、誰一人として突き止められなかった。それに、姿も形も分からぬ武器の噂だけを理由に、いつまでも人々を恐怖の中で暮らさせるわけにもいかんだろう」

 その答えを聞いて、僕は言葉を失った。


 老猟師は、決して薄情な人間でも、利己的な人間でもなかった。危険を十分に理解していながら、正体の知れない何者かの力を前に、どうすることもできずにいたのだ。そして、いざ災厄が現実のものとなれば、人々にできるのは、手元にある粗末な武器を握り締め、命懸けで立ち向かうことくらいだった。


 耳障りな破壊音が響き渡った。


 イノシシが体当たりを繰り返し、ついに穀倉の正面入口を完全に破壊したのだ。


 僕は周囲の地形を目で追いながら、獣の動く方向と角度を一つずつ計算した。


「音を使って、あいつの進路を別の場所へ誘導できませんか?」


 老猟師は肩をすくめた。


「今のあいつには、人間を恐れる心など残っておらん。叫び声を上げたところで、ますます逆上させるだけだろう」


「呼び寄せるんじゃありません。別の方向へ走らせるんです」


「どうやって?」


 僕は集落の西側を指さした。


「西の方に、石造りの空堀がありませんか?」


 老猟師が、はっと顔を上げた。


「昔、掘られた古い排水溝ならある。だが、とうに使われなくなっていて、今では雑草だらけだ」


「その溝は、どこへ続いているんですか?」


「山の麓にある石ころだらけの場所へ、まっすぐ続いている。両側は切り立った岩壁で、入り口もひどく狭い」


 僕は力強くうなずいた。


「それなら、あいつをそこへ誘い込めれば、少なくとも民家へ引き返して突っ込むことはできなくなるはずです」


 老猟師は、疑わしげな目で僕を見た。


「お前は、十歳の子供にすぎん。その細腕で、あの化け物を追い立てるつもりか?」


「いいえ。使うのは、あいつ自身の進路です」


 僕はすぐさま作戦を説明した。


 集落の西側は、竹の柵や家々の壁によって、すでにある程度進路が遮られている。


 南側への道を障害物で塞ぐ一方、西側にだけ通り抜けられる隙間を作れば、本能に従って動くイノシシは、より広く開けた退路を選ぶはずだった。


 ただし、それを実現するためには、危険を承知で準備を整える者が必要だ。


 あらかじめ縄を仕掛け、獣の動きを一瞬でも鈍らせることができれば、狭い岩場へ追い込む機会が生まれる。


 そのとき、いつの間に戻ってきたのか、ファム・フー・テーが僕の隣に立っていた。手には、麻を撚り合わせた長い縄が握られている。


「集落の人たちは、北側にある石造りの家屋へ避難させた。西側の道も、お前の言ったとおりに開けてある」


 フー・テーは、荒い息を整えながらそう報告した。


 僕は彼が持っている縄に目を向けた。


「十分な強度のある結び方を知ってる?」


 フー・テーは眉を上げた。


「知ってるが、どうしてだ?」


「縄の片端を大木に結び、もう片方を岩溝の入り口に張るんだ。あいつを完全に止めるためじゃない。足を引っかけて転ばせ、突進する勢いを弱めるためだよ」


 フー・テーはすぐさま周囲を見回した。


 現実的な判断を重んじる彼は、僕の考えを聞いただけで、その意図を理解したらしい。


「だが、この縄じゃ、あいつの巨体を支えきれないぞ」


「分かってる。だから、あいつが突っ込んでくるときは、絶対に縄の近くにいちゃ駄目だ」


 僕は青竹の枝で地面に簡単な図を描き、二人が身を隠す場所と、安全に待機できる位置を明確に示した。


 フー・テーは地面に描かれた図を一通り確認してから、僕を見上げた。


「こんなこと、今までにやったことがあるのか?」


「ないよ」


「それなのに、うまくいくと信じてるのか?」


「信じてるわけじゃない」


 僕は正直に答えた。


「でも、ここでいつまでも立ち尽くして言い争っていたら、この集落そのものがなくなる」


 フー・テーは、それ以上、無駄な質問をしなかった。


 彼はすぐさま動き出し、古い樫の木の根元に縄を固く結びつけた。以前、僕の傷口を処置するときにも使ったという、三重に巻きつける強固な結び方だった。


 さらに、縄の端を大きな岩の隙間に通し、離れた場所からでも引っ張れるように工夫した。


 すべての準備が整った、まさにその瞬間だった。


 穀倉の方角から、耳をつんざくような咆哮が響いてきた。


 イノシシが瓦礫の山を吹き飛ばし、西側の通路へ向かって猛然と突進してきたのだ。


「伏せろ!」


 僕が大声で叫ぶ。


 僕たち二人は、左右に分かれて全力で駆け出し、それぞれ大木の陰へ身を潜めた。


 外側の安全な位置では、老猟師と数人の若者が長い棒を手にしていた。彼らは棒を地面や岩に打ちつけ、立て続けに大きな音を響かせながら、計画どおりに獣を岩溝へと誘導していく。


 イノシシは、風を切り裂く矢のような勢いで突っ込んできた。


 狭い入り口に差しかかっても、速度を緩める気配はまるでない。


 二本の長い牙が地面を深くえぐり、巨体が迷彩代わりに置かれた茂みへと突っ込んだ。


「縄を引け!」


 僕の叫びと同時に、フー・テーは腕にありったけの力を込めて縄を強く引いた。


 僕も反対側から、全身の力を使って縄を引き絞る。


 麻縄は張り詰め、弦のように震えながら、イノシシが通過する瞬間に地面すれすれを横切った。


 予想どおり、縄だけで巨体を止めることはできなかった。


 しかし、縄が後ろ脚に引っかかり、わずかな抵抗が加わったことで、獣の勢いが一瞬だけ乱れた。


 足元を取られたイノシシはよろめき、頭から前方へ突っ込みそうになった。


 その隙を逃さず、後方に待機していた村人たちが、あらかじめ用意していた二枚の大きな竹柵を押し倒し、退路を塞いだ。


 イノシシは狂ったように咆哮しながら、竹柵へと何度も体当たりを繰り返した。


 轟音が二度、岩場に響く。


 竹柵は凄まじい衝撃を受け、激しく揺れ動いた。


 そのうちの一枚は留め具が外れ、地面へと崩れ落ちた。


「長くは持たないぞ!」


 フー・テーが警告した。


 僕は素早く、岩溝の先にある狭い曲がり角へと視線を向けた。


 そこには、倒れた大木が横たわっていた。


 獣が勢いを殺さずに突っ込んでくれば、あの木に行く手を塞がれ、狭い岩場から抜け出せなくなる可能性がある。


 僕は大きな石を拾い上げ、前方の岩壁へ向かって力いっぱい投げつけた。


 ゴッ!


 耳に響くほど鋭い音が、岩場にこだました。


 イノシシは一瞬動きを止め、音のした方へと勢いよく首を向けた。


 だが、次の瞬間には再び、狂ったような勢いで突進を始めた。


 まだ、音に反応するだけの何かは残っている。


 しかし、それは同時に、目の前に立ちはだかるものすべてを、破壊するまで止まらないということでもあった。


「バン、避けろ!」


 フー・テーが僕の腕を掴み、強引に引き戻した。


 イノシシは曲がり角を突き抜け、古木の幹を粉々にへし折った。


 しかし、あまりにも大きな突進力に加え、岩壁に挟まれた狭い地形が災いした。


 巨体が大きく傾き、ついに地面へと転倒したのだ。


 獣は倒れた木の根元に横倒しになり、荒々しく胸を上下させていた。


 僕は、すぐさま下へ飛び降りようとはしなかった。


 フー・テーとともに岩壁の窪みにしっかりと手足をかけ、息を殺して様子をうかがう。


 老猟師と竹槍を持った若者たちは、ゆっくりと獣の周囲へ近づいていった。


 ただし、誰一人として危険な間合いには踏み込もうとしなかった。彼らは十分な距離を保ちながら円陣を組み、いつでも攻撃できるように武器を構えていた。


 そのときだった。


 イノシシの肩に突き刺さった黒い物体が、目もくらむほど強烈な赤い光を放った。


 体中に広がった黒い筋模様が、裂けるように亀裂を生じさせ、その一つ一つが限界まで膨れ上がっていく。


 まるで、血液を注ぎ込まれた血管が、今にも破裂しそうになっているかのようだった。


「全員、できる限り離れろ!」


 僕は力の限り警告した。


 次の瞬間――。


 轟音が響いた。


 爆発は、獣の体内から起こった。


 空間そのものが激しく震動し、熱気を帯びた突風が吹き荒れた。鼻を刺す焦げ臭さが、一気にあたりへ広がっていく。


 イノシシの巨体が最後に一度だけ激しく痙攣した。


 そして、全身から力が抜け、完全に動かなくなった。


 赤い光が消えた。


 肩に埋め込まれていた黒い物体は、真っ二つに裂けていた。


 老猟師は慎重に歩み寄り、槍の穂先で獣の体を軽く突いた。


 反応はない。


 彼は身をかがめ、呼吸があるかどうかを確かめた。


 しばらくして、ゆっくりと立ち上がった老猟師は、沈痛な声で告げた。


「……死んだ」


 僕は高い岩棚の上に立ち尽くし、眼下に横たわる動かない巨体を見つめていた。


 胸の中に、勝利の喜びも、達成感もなかった。


 ただ、空虚さだけが残っていた。


 僕は、あの獣を苦しみから救いたかった。


 けれど、最終的に僕ができたことは、死によって、あいつの終わりのない苦痛と、集落を襲った惨劇に幕を引くことだけだった。


 フー・テーが隣に歩み寄り、そっと僕の肩を叩いた。


「お前は、できる限りのことをしたんだ。バン」


 僕はすぐには答えなかった。


 長い沈黙のあと、ようやく小さくつぶやいた。


「でも……あいつを逃がしたのは、僕自身なんだ」


「お前は、岩場に挟まっていたあいつを助けたんだ。あいつがこの集落へやって来るなんて、事前に分かるはずがないだろう」


「それでも、あいつが傷ついていたことは分かっていた……」


「傷ついていると知っていたからといって、あの化け物がどんなものに変わってしまうのかまで分かるわけじゃない」


 フー・テーはため息をつき、現場の後片づけを始めた人々へと目を向けた。


「ただ、これから先、また同じようなことがあったら、まずは周りの人たちのことを考えてくれ。目の前にいる一つの命だけを見つめるんじゃなくて、その行動がほかの人たちに何をもたらすのか、そこまで考えるんだ」


 僕は、深くうつむいた。


 彼の言葉に、腹を立てることも、反発することもなかった。


 フー・テーの言っていることは、正しかったからだ。


 僕の思慮の足りない同情心は、あやうく一つの集落を壊滅させるところだった。


 人々がイノシシの死骸を運び出そうとしたとき、血と泥にまみれた毛皮の間から、小さな金属片が地面へと転がり落ちた。


 僕は目を細め、その形状を注意深く観察した。


 山で拾い、革袋の中に隠していた破片と、まったく同じものだった。


「それに触るな」


 老猟師の警告が飛んだ。


 僕は顔を上げた。


「危険なものだと分かっているんですね?」


「正体は分からん。だが、今しがた爆発を起こして、この獣の命を奪ったばかりだ。まだ自分の首を失いたくないのなら、素手で触れるのはやめておけ」


 若者の一人が火ばさみを持ってきて、慎重に金属片を拾い上げた。


 それを厚い木箱の中へ納め、縄で厳重に縛り上げると、老猟師に預けた。


 僕は、木箱が運び去られていく様子を黙って見送った。


 木々の幹に残る、黒い焼け跡。


 謎の金属片によって狂わされた獣たち。


 そして、小さな集落に災厄の到来を告げた、あの角笛の音。


 ばらばらだったそれらの断片が、少しずつつながり始めていた。


 この広大な原始の森の各地で、何か恐ろしい秘密が進行している。


 それは、十歳の子供である僕の理解など、はるかに超越したものだった。


 夕暮れが迫る頃、小さな集落には、表面上だけではあるものの、次第に平穏が戻り始めた。


 負傷者たちは家々へ運ばれ、手当てを受けていた。破壊された穀倉は、応急処置として木の板で覆われ、土道に残された血痕も、すっかり片づけられていた。


 僕やフー・テーを称えるような儀式は、何一つ行われなかった。


 人々は誰もが黙々と、それぞれの日常へ戻っていった。


 災厄が過ぎ去ったあとも、明日の食い扶持を確保しなければならないという現実は、何ひとつ変わらないのだから。


 僕が帰ろうとしたとき、フー・テーが小さな布包みを差し出してきた。


「持っていけ」


 僕は包みを開いた。


 中には、真っ白な塩がひとつまみと、乾燥させた米菓子が二つ入っていた。


「僕には必要ないよ」


「分かってる」


 フー・テーは落ち着いた口調で答えた。


「でも、お前はこの集落を守るために力を尽くしただろう。これは褒美でも、恩返しでもない。遠慮せずに持っていけ」


 僕は布包みを受け取り、なくさないように袋へしまった。


「ありがとう」


「それで、お前はまだ武術の修行を続けるのか?」


 フー・テーが、不意に尋ねてきた。


「うん」


「少しは上達したか?」


 僕は一瞬考えた。


「……したと思う。でも、すごくゆっくりだ」


 フー・テーは吹き出すように笑い、僕の肩を叩いた。


「俺なんか、半月も舟の漕ぎ方を練習したのに、水の流れが変わった途端、まともに櫂を扱うことすらできなかったぞ。親父には、焦って先へ進もうとする者ほど、真っ先に流れに呑まれるんだと言われた」


 そこで彼は、少しだけ真剣な表情になった。


「誰よりも速く進む必要なんてない。大事なのは、どんなに遅くても、決して歩みを止めないことだ」


 僕はうなずき、その言葉を胸に刻んだ。


 僕たちは、川辺の船着き場で別れた。


 山へ続く小道を登り始めたとき、谷底にある家々からは、夕餉の煙がゆっくりと立ち昇っていた。


 薄暮の霧に溶け込みながら、煙は静かに空へと流れていく。


 すべてが穏やかに戻ったかのように見えた。


 けれど、僕には分かっていた。


 今日起きた出来事が、決して消えてなくなることはない。


 自分の行動を慎重に見極めること。


 そして、その一つ一つに責任を持つこと。


 その二つの教訓は、僕の心に深く刻み込まれていた。


 洞窟へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。


 僕は岩棚の上に塩と米菓子の包みを置き、布袋から黒い金属片を取り出した。


 揺らめく焚き火の明かりにかざしながら、しばらくその表面を観察する。


 やがて、それを人目につかない場所へしまい込んだ。


 それから青竹の枝を拾い上げ、洞窟の前にある開けた場所へ出た。


 松の根元では、小さなリスが丸くなって眠っていた。


 薄目を開けたリスは、眠たげな声で尋ねてきた。


「一日中あれほどひどい目に遭ったというのに、まだそんな修行をする気力が残っておるのか?」


 僕はうなずいた。


 地面に足を据え、重心を低く落とす。肩に力を込め、青竹の枝を正面へと構えた。


「うん」


「どうしてだ?」


 僕は言葉では答えなかった。


 手にした青竹が、鋭い音を立てて空を切った。


 その一閃が、静まり返った夜の闇を切り裂いた。


 僕はまだ剣術を知らない。


 深遠な内功を身につけているわけでもなければ、世に名を知られた武林の高手たちと渡り合えるほどの力もない。


 それでも、今日を境に、ただ足元をしっかりと固めることだけを練習するつもりはなかった。


 もっと先を見通すこと。


 誰かに手を差し伸べる前に、何が起きるのかを深く考えること。


 そして、誰かを守りたいのなら、災いが芽吹く前に食い止められるだけの力を、自分自身が身につけなければならないと理解すること。


 これからは、それらも学んでいこう。


 善意そのものが、間違っているわけではない。


 だが、知恵と責任を伴わない善意は、自分の胸に見えない刃を突き立てるのと何ら変わらないのだ。


 深い森の中を、夜風が吹き抜けていく。


 竹林の葉擦れが、静かな夜にさらさらと響いていた。


 そして、そのはるか彼方に広がる大世界では、あの黒い金属片が今もなお、人知れず勢力を広げ続けている。


 いつの日か、僕の人生そのものを飲み込むほどの巨大な嵐を巻き起こす、その時を待ちながら。


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