Episode 60
空がようやく白みきったばかりだった。
朝焼けの淡い琥珀色が、濃密な霧を払いきるにはまだ早い時刻。林兆斌は、洞窟の裏手にある平らな岩棚に、すでに姿を現していた。
眼下の谷間は、いまだ銀白色の雲海に沈んでいる。古松の巨木が霧の海から高々と枝を伸ばし、その葉には夜の名残である露が重たげに宿っていた。時折、枝先に耐えきれなくなった雫が、凍えるように冷たい岩肌へと落ちる。ぱたりと砕けた水滴は、無数の細かな粒となって、朝風に吹かれながら地面すれすれを漂っていった。
バンは長い竹の棒を足元に置き、遠くを見つめた。
彼方では、渓流が霧の向こうを縫うように流れている。その姿は、淡い霞の中に横たわる一筋の絹帯にも似ていた。
この三日間、バンはひたすら基礎の反復に明け暮れていた。
歩法、重心移動、身のこなし、そして力の収め方。藍色の衣をまとった少年から教わったことを、一つひとつ愚直なまでに繰り返してきたのである。
しかし、その成果は、とうてい誇れるようなものではなかった。
飛び回る雀を竹の枝で打ち落とすほどの速さには届かず、若い樫の枝を断ち切るほどの力もない。それどころか、巷の武侠譚でしばしば語られる、内力なる神秘の力については、いまだ何一つ理解できていなかった。
それでも、汗に濡れた衣の裾を幾度となく絞るうちに、バンは一つの道理を悟り始めていた。
速く歩みたければ、まず足元を盤石にせよ。
敵を打ち倒したければ、まず己がどこに立ち、いかに地を踏みしめているかを知れ。
いかにも単純な道理である。
だが、その単純なことを身につけるために、バンは幾日もの時間を費やしていた。幾度も試し、失敗し、転び、ようやく少しばかり形になってきたにすぎない。
バンは膝を緩め、重心を低く落とした。
左足を半歩前へ。右足は半月を描くように、柔らかく弧を描いて踏み出す。
身体の向きを変える際も、もはや以前のように、身体の勢いに任せて両腕を振り回すことはしなかった。腹に力を込め、上半身の均衡を保つ。そのうえで、竹の枝をゆっくりと前方へ差し出していく。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は、間の抜けた転倒もなかった。
苔むした岩の上に、少年の身体がしっかりと立っている。
バンは足を止め、自分の両足を見下ろした。口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
それから、岩棚の脇に落ちていた枯れた楓の葉を拾い上げ、竹の枝の先端にそっと載せた。
深く息を吸い、再び歩き始める。
――ひゅっ。
葉はたちまち揺らめき、空中へと舞い上がった。
バンは身をかがめて葉を拾い、元の位置に載せ直す。最初からやり直しだ。
三度目。
身体の向きを変えた、その瞬間だった。
葉は、枝先からひらりと落ちた。
バンは地面に転がった葉を見つめ、わずかに眉をひそめる。
「やっぱり、動きながら向きを変えるのは、思っていた以上に難しいな……」
頭上の堂々たる松の枝では、小さなリスが松の実の殻を剥いていた。ところが、その手を止めることなく、さも呆れたように口を挟む。
「最初から最後まで、まっすぐ突き進めばいいじゃないか。そっちのほうが手っ取り早いし、身体も楽だろう? なあ、大侠客殿?」
バンは細長い目を上げ、リスを見やった。
「江湖の敵が、俺の前にじっと立って、まっすぐ来るのを待ってくれるとでも思うのか?」
「だったら、そのときはくるりと向きを変えて……全力で逃げればいいじゃないか」
バンは、何とも言えない顔でリスを見つめた。
リスは肩をすくめると、何やらこの世の真理でも説いたかのような得意満面の顔で、再び松の実をかじり始めた。
あまりに自信たっぷりなその態度に、バンは言い返す気さえ失せてしまった。
竹の枝を拾い上げ、黙々と稽古を続ける。
移動するたびに自分の足がもつれないようにする。それだけのことすら、武術の手ほどきを一度も受けたことのない子供にとっては、並大抵の苦労ではなかった。
今のバンにとって、武功とはまだ遠い世界の話にすぎない。
彼の知っている世界といえば、草木や渓流、山野に潜む獣たち、そして猛獣から身を隠して生き延びる術。それらが、彼の知識のすべてだった。
傍らで鞭を手に構え、厳しく姿勢を正してくれる師はいない。
朝から晩まで武芸の高低を論じ合う、同門の兄弟子や弟弟子もいない。
刻一刻と時が過ぎていくなかで、彼が頼れるものは、転ぶたびに己の過ちを振り返り、その原因を考え、辛抱強く最初からやり直すことだけだった。
その歩みが遅々としているのは、言うまでもない。
独りきりの道である。時には、心が折れそうになることもあった。
だが、林兆斌という少年は、生まれたときから孤独に慣れすぎていた。
次の稽古に取りかかろうと、息を吸い込んだ、そのときだった。
突然、頭上のリスがびくりと身体を震わせた。
長い耳がぴんと立ち、周囲の音を拾おうとする。
小さな身体は、今や張り詰めた弓のように硬直していた。
「……バン」
いつもの気だるげな声でも、からかうような口調でもない。
バンはすぐさま動きを止め、構えを解いた。
「どうした?」
リスは東の山峡へと顔を向けた。
そこは、この一帯でもひときわ地形が険しく、人を寄せつけぬ場所だった。
「森が……急に静まり返った」
バンははっとして、周囲を見渡した。
そのときになって初めて、異変に気づいた。
夜明けとともに絶え間なく響いていた鳥たちのさえずりが、いつの間にか途絶えていたのである。渓流のほとりでは、枝から枝へ飛び移りながら騒いでいた猿たちの声も、すっかり消えていた。山麓の茂った竹藪に棲みついている雀の群れさえ、影も形もない。
聞こえるのは、岩の裂け目を吹き抜ける風の唸りだけ。
樫の葉は、なおも風に揺さぶられている。
それなのに、何かが決定的に違っていた。
バンの直感が告げていた。
この広大な山林そのものが、息を殺している。
何かを恐れ、道を譲り、身を引いているのだ。
それは、恐るべき獣なのか。
あるいは、この世の理から外れた何者かが放つ、途方もない威圧なのか。
バンは竹の枝を地面に落とし、腰に差していた小刀を抜いた。
そして、一歩ずつ、慎重に山峡へと向かう。
「俺の肩に乗れ。絶対に離すな」
リスは逆らわなかった。素早く飛び降りると、バンの襟元にしがみつく。
小さな身体を震わせながら、そっと囁いた。
「気をつけろ……。何だか、嫌な臭いがする」
二人は古い獣道をたどり、東側の境界へと足を進めた。
山峡へ近づくにつれ、空気に混じる異様な臭気が、いよいよ強くなっていく。
その臭いを嗅ぐたび、バンの胸は締めつけられるようだった。
血生臭さではない。
獣の死骸が放つ、腐敗臭でもなかった。
鼻腔を突き刺す、焦げたような臭い。
それでいて、生臭く、ひどく刺激的だった。
まるで、鍛冶場で真っ赤に焼けた鉄塊へ、冷水を一気に浴びせかけたときのような臭気である。
その場に立っているだけで、息苦しさと吐き気を覚えるほどだった。
バンは足を止め、両腕でも抱えきれないほど太い古松の陰に身を潜めた。
ざらついた幹には、黒々とした焼け跡が刻まれていた。
それは、地中深くに根を張る根元から始まり、頭上をはるかに越える高さまで、一直線に伸びている。
松の樹皮は焼けただれて大きく裂け、その内側にある木質も、生命を宿した植物本来の象牙色を失っていた。
残されているのは、灰のようにくすんだ色だけ。
まるで、内側から命を吸い尽くされ、朽ち果ててしまったかのようだった。
バンは震える指先を伸ばし、焼け跡にそっと触れた。
その瞬間。
樹皮は、指の下でぼろぼろと崩れ落ちた。
黒々とした炭の粉が、さらさらと地面にこぼれていく。
バンは慌てて手を引っ込めた。表情が、すっと険しくなる。
「……落雷か?」
リスは鼻をひくひくと動かし、臭いを確かめた。それから、ぶんぶんと首を横に振る。
「いや。雷が落ちた跡とは、まるで違う」
「なら、いったい何なんだ? どうすれば、こんなふうに木の幹を内側から焼け焦がせる?」
「わからない……。だが、こいつからは、とんでもない威圧が放たれている。岩壁の奥深くに棲んでいる猛獣たちでさえ、恐れをなして逃げ出すほどだ」
バンは答えなかった。
小刀を握り直し、細心の注意を払いながら、さらに先へと進んでいく。
数十歩ほど歩いたときだった。
深い山峡の底から、低く重々しい音が響き始めた。
――轟ッ!
凄まじい衝撃音が山間に轟き、足元の土石までもが震えた。
続いて、木々の枝が次々とへし折れる音が響き渡る。
まるで巨大な戦車が、行く手を阻むものすべてをなぎ倒しながら、無理やり突き進んでいるかのようだった。
リスは恐怖に震え、バンの襟元へいっそう深く潜り込んだ。
「や、やめておけ……! これ以上、下へ行くな、バン!」
バンは、危険を顧みずに谷底へ駆け下りるような真似はしなかった。
代わりに、そびえ立つ岩の陰を縫うように進み、視界を遮れる場所を探した。
やがて、前方へ突き出した岩棚を見つける。
バンは身を低くし、シダの葉の隙間から、そっと谷底を覗き込んだ。
そこにいたのは、キングコブラでも、巨大なハイイログマでもなかった。
一頭のイノシシだった。
ただし、その巨体は尋常ではない。
成獣の子牛にも匹敵するほどに膨れ上がり、全身を覆う剛毛は、冷えた鋼の針のように逆立っていた。象牙色の長い牙は大きく湾曲し、その鋭い先端が地面に深々と食い込んでいる。
だが、人の目を最も戦慄させるのは、その異様な体格ではなかった。
盛り上がった両肩には、無数の黒い筋が走っていた。
それらは毒に侵された血管のように、皮膚の下でうねりながら、肩から胴へと広がっている。
時折、その黒い筋の一部が、どす黒い赤色に明滅した。
まるで、煮えたぎる溶岩が、皮膚の下を流れているかのようだった。
そのイノシシは、ひどい傷を負っていた。
右肩には、漆黒の鋭利な物体が深々と突き刺さっている。
筋肉が痙攣するたび、その物体は激しく震えた。そのたびに、獣の身体に走る黒い筋が、じわじわと新たな領域へと広がっていく。
「……フーッ、フーッ……!」
イノシシは狂ったように唸り声を上げ、目の前の巨岩へ頭から突進した。
轟音とともに岩へ激突したかと思えば、今度はすぐ脇に立つ大木へと、再びその巨体を叩きつけた。
バキッ!
木が根元からへし折れ、轟音とともに地面へ倒れ込んだ。
バンは思わず一歩後ずさった。背筋を冷たいものが走り抜ける。
今の一撃に込められた力は、彼がこれまで知っているどんな野生動物のものとも比較にならなかった。あの牙と、あの隆々たる筋肉の塊にまともに突き飛ばされれば、幼い自分の身体など、ひとたまりもなく砕け散るに違いない。
リスが震える声で尋ねた。
「れ、霊獣……なのか?」
バンは歯を食いしばった。
「お前、あの種類を知っているのか?」
「山脈を越えて飛んでくる大鷲たちから聞いたことがあるんだ……。世の中には、自然の理に従って成長するわけじゃない生き物がいるらしい。なかには、ほかの獣を圧倒するほど凶暴な王者になるものもいる。けれど、奇妙な力に心を食い尽くされて、理性を失い、狂い果ててしまうものもいるんだ。自分の帰る巣さえ、わからなくなってしまうほどに!」
バンは、苦しみもがく獣を見つめた。
「肩に突き刺さっている、あの黒い物のせいなのか?」
「……おそらくな」
その瞬間だった。
暴れ回っていたイノシシが、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと、その頭がこちらへ向き直る。
血走って濁った両眼が、霧を貫くようにして、バンの隠れている岩棚をまっすぐに捉えた。
バンは息を呑んだ。
心臓が、胸の内側で激しく打ち鳴らされる。
その一瞬、彼にははっきりとわかった。
この獣は、自分を獲物として見ているのではない。進路を塞ぐ邪魔者として見ているのでもない。
目に入るものすべてを、何としてでも滅ぼすべき敵だと見なしているのだ。
イノシシは頭を低く沈めた。
二本の牙が岩肌を引っ掻き、耳障りな音を立てる。
「バン! 逃げろ!」
リスの悲鳴が響いた。
だが、もう遅かった。
イノシシは空間そのものを引き裂くかのような咆哮を上げ、毒矢のごとく一気に突進してきた。
バンは反射的に身を翻し、駆け出した。
踵の後ろで小石が弾け飛ぶ。
振り返る余裕など、半瞬たりともなかった。彼は傾斜のきつい土手を駆け抜け、倒木を避けながら、持てる力のすべてを振り絞って逃げた。
背後から、獣の恐ろしい唸り声が迫る。
突進の衝撃に煽られた細い木が、途中からへし折れた。倒れ込んできた幹が、バンの衣の裾をかすめる。
その瞬間、足を踏み外した。
バンの身体は斜面を転がり落ち、右肩が大きな岩に激突した。
脳髄を貫くような激痛が走り、視界が一瞬、真っ暗になる。
それでも、地面を叩く蹄の音は止まらなかった。
まだ追ってくる。
あの獣は、決して追撃をやめようとはしなかった。
バンは歯を食いしばり、痛む身体を無理やり起こした。そして、背後を振り返る。
巨大なイノシシが、すぐそこまで迫っていた。
残された距離は、わずか数歩。
死線を前にしたその瞬間、バンの頭の中に、ある考えが閃いた。
この数日間、繰り返し鍛えてきた歩法が、脳裏に鮮明に蘇る。
重心を落とせ。
進路を変えろ。
力の勝る相手に、正面から力で張り合うな。
黒々とした巨体が、眼前へ襲いかかる。
バンは咄嗟に身体を横へ滑らせた。勢い余って足を滑らせ、そのまま繁みの中へ転がり込む。
――ドォンッ!
勢いを殺しきれなかったイノシシは、切り立った岩壁へ猛烈な勢いで激突した。
土砂と砕けた岩片が、周囲へ盛大に飛び散る。
バンは地面を這うようにして起き上がった。
左肩には焼けつくような痛みが走っていた。それでも、足を止めるわけにはいかない。
自分の力量は、嫌というほどわかっている。
今の自分があの獣と正面から戦えば、待っているのは最も手っ取り早い死だけだった。
前方に、狭い山峡が見えた。
切り立った二つの岩壁が、互いに押し迫るようにそびえている。その底には、水量の少ない渓流が細く流れていた。
あの巨体をうまく誘い込めれば、二つの岩壁の間に挟み込み、動きを封じられるかもしれない。
だが、ひとつ間違えれば、自分まで逃げ場を失う。
命懸けの賭けだった。
バンは迷わず、山峡へ向かって全力で駆け出した。
イノシシはふらつきながらも立ち上がり、頭を振って意識を取り戻すと、再び狂ったような咆哮を上げた。
肩に突き刺さった黒い物体が、まばゆい光を放つ。
それに呼応するように、身体に走る黒い筋が首筋にまで広がっていった。
獣が追いつこうとした、そのとき。
バンは腰に下げていた布袋を脇へ放り投げ、囮にした。
同時に、岩壁から垂れ下がる松の根に飛びつき、両手で掴む。全身の力を振り絞り、身体を上方へ引き上げた。
イノシシは、布袋のある方向へ突進した。
もはや、勢いを殺すことはできない。
巨体はそのまま、狭い山峡の入口へと突っ込んだ。
――バキバキッ!
巨体が、二つの岩壁の間に挟まった。
四本の脚が、泥と岩肌を狂ったように掻きむしる。だが、もがけばもがくほど、胴体は岩壁に深く押し込まれていった。
頭上から細かな岩片がぱらぱらと降り注ぐ。
バンは岩壁にしがみつきながら、荒い息を繰り返した。
勝利の喜びなど、微塵もなかった。
今、自分が生きているのは、ただ運がよかったからにすぎない。
イノシシは絶望に満ちた咆哮を上げ、身体を捩じって脱出しようともがいた。
肩の黒い物体が、目を焼くほどの真紅の光を放つ。
その傷口から、陽炎のように空気を歪ませる気流が立ち上った。
そして――。
まるで生命力のすべてを使い果たしたかのように、イノシシの前脚が突然、崩れ落ちた。
先ほどまでの激しい咆哮は、途切れ途切れの、しわがれた呻き声へと変わっていく。
バンは身体を乗り出し、下を覗き込んだ。
獣は、もはや攻撃できる状態ではなかった。
狭い山峡の中で横倒しになり、胸を激しく上下させている。前脚は意思とは無関係に、何度も痙攣していた。
肩に突き刺さった黒い物体は、燃え尽きる寸前の熾火のように、かすかな赤い光を明滅させていた。
バンには、背を向けて立ち去る権利があった。
逃げるという目的は、すでに達成されている。
危険な獣は岩壁に挟まれ、身動きが取れない。ここから洞窟へ戻れば、少なくとも自分の命は守れるはずだった。
それなのに。
苦しげに息をする獣を見下ろしているうちに、バンは気づいた。
先ほどの凶暴さは、単なる捕食者の本能から生まれたものではなかったのだ。
その身体の内側で、何かが生命を歪め、内側から引き裂いている。
獣は、耐えがたい苦痛に苛まれていた。
そして、肩に突き刺さったあの武器こそが、すべての悲劇の始まりだった。
バンは岩壁の上で、長いこと立ち尽くしていた。
やがて、リスが上から降りてきて、バンの耳をぎゅっと掴んだ。
「お、おい! まさか、もう一度あいつに近づくつもりじゃないだろうな!? 命を賭けて遊ぶんじゃない!」
バンは低い声で答えた。
「わかってる」
「わかってるなら、さっさと立ち去れ!」
「ただ、肩に刺さっているものが何なのか、確かめたいんだ」
「好奇心のせいで死ぬつもりか、お前は!?」
バンは言い返さなかった。
リスの言い分が正しいことは、十分に理解している。
それでも、奇妙な力に操られ、苦しみ抜く生き物を目の当たりにして、何もせずに立ち去ることはできなかった。
得体の知れない力に、生命が蹂躙されている。
その光景を前にして、胸の奥に生じた不安が、どうしても消えなかったのだ。
近づくにしても、危険を避ける手段が必要だった。
バンは長い枯れ枝を拾い、蔓を使って、もう一方の端に別の枝をしっかりと結びつけた。少しでも手の届く範囲を広げるためである。
その即席の道具を手に、慎重に岩壁の高所を伝いながら、山峡の反対側へと降りていった。
物音に気づいたイノシシが、苦しげに頭を持ち上げる。
弱々しい唸り声を漏らしたが、四肢を岩壁に挟まれているため、立ち上がることはできなかった。
バンは、腕を伸ばせば届くほどの距離で足を止めた。ただし、すぐに逃げられるだけの間隔は保っている。
「お前を傷つけるつもりはない……。肩に刺さっているものを、取り除いてやるだけだ」
当然、獣に人の言葉が理解できるはずはない。
だが、その目を見つめたとき、バンはもう、先ほどまでの恐ろしい殺気を感じなかった。
そこにあったのは、極限まで追い詰められた生き物の、底知れぬ恐怖と苦痛だけだった。
その眼差しは、バン自身の記憶を呼び起こした。
この世界で目を覚ましたばかりの頃。
何もわからず、どこにも帰る場所を見つけられず、これから先に何が待ち受けているのかさえわからなかった、あの夜々のことを。
バンは手にした枝をゆっくりと下げ、その先端を、イノシシの肩に突き刺さった黒い物体へと近づけた。
――ジュッ!
枝の先端が触れた瞬間、灼熱のような熱気が爆発した。
枯れ枝から黒い煙が立ち上り、一瞬にして炎が燃え広がる。
バンは驚いて手を放し、慌てて後方へ飛び退いた。
イノシシが、悲痛な絶叫を上げた。
全身が激しく痙攣する。
毛並みの下に潜んでいた無数の黒い筋が、焼けた鉄のように赤々と輝き、瞬く間に喉元へと広がっていった。
バンは、これほどまでに異様な光景を見たことがなかった。
これは、普通の矢ではない。
何かが生き物の身体に寄生し、その命を蝕み、内側から同化させようとしているのだ。
バンは唇を強く噛み締め、胸の奥からせり上がってくる恐怖を押し殺した。
素手で触れることはもちろん、ただの木の枝を使って取り除くこともできない。
ならば、必要なのは力任せの手段ではなかった。
物理的な支点――梃子の仕組みを利用するのだ。
バンは周囲に目を走らせた。
山峡の入口近くに、太い倒木が一本、斜めに横たわっているのが目に入った。
一端は岩の窪みに挟まり、もう一端は外側へ突き出している。
支点と力点をうまく利用すれば、自然の梃子として使える形だった。
バンは倒木のもとへ走り、ありったけの力を込めて押した。
さらに、小さな石を支点の下へと差し込み、梃子の位置を整える。
そして、自らの全体重を乗せ、勢いよく押し下げた。
――ギシッ……ガクンッ。
イノシシの身体を圧迫していた岩が、わずかに横へずれた。
前脚を引き抜けるだけの隙間が生まれる。
獣は咆哮を上げ、狂ったように脚を岩壁へ叩きつけた。動いた反動を利用して、巨体を狭い岩の隙間から無理やり滑り出させる。
バンはただちに倒木から手を離し、慌てて岩窟のくぼみに身を寄せた。
取り乱した獣に突き飛ばされないためだった。
次の瞬間、イノシシは山峡から猛然と飛び出した。
よろめきながらも、深い森の奥へ向かって一目散に駆けていく。
草木が激しく揺れ、枝葉がざわめいた。
やがて、その巨体は濃い霧の向こうへと消えていった。
バンは肩で息をしながら、岩に付着した黒い血痕を見つめた。
結局、獣の命を完全に救えたわけではない。
肩の異物を取り除くこともできなかった。
彼にできたのは、死の罠から抜け出す道を開き、あの獣に逃げる機会を与えただけだった。
それでいい。
自分は、この世のすべてを救う者ではないのだから。
リスが木から降りてきて、バンの肩に飛び乗った。
そして、心底ほっとしたように大きく息を吐く。
「はあぁぁ……! 腰が抜けるかと思ったぞ! さっきから心臓が口から飛び出しそうだったんだからな!」
バンは小さく頷き、立ち去ろうと身体の向きを変えた。
そのとき、ふと視界の端に、小さなくぼみが映った。
岩壁のすぐ足元――先ほどまでイノシシがもがいていた場所である。
浅い穴は、腐葉土と枯れ葉に覆い隠されていた。
だが、獣が地面を掻きむしったせいで、その覆いが剥がれ落ちている。
そこから覗いていたのは、鋭く砕けた金属片。
黒く焼け焦げた革紐の一部。
そして――折れた矢の残骸だった。
バンは足を止め、穴へと歩み寄った。
矢尻は黒檀のように艶やかな漆黒をしていた。
光をほとんど反射せず、その表面には、米粒ほどの小さな古代文字が無数に刻み込まれている。文字は複雑な曲線を描きながら、精巧な模様を形作っていた。
バンは、すぐに手を伸ばしたりはしなかった。
先ほど木の枝が燃え上がった光景が、まだ鮮明に脳裏へ焼きついていたからだ。
彼は竹の枝の先端で枯れ葉をそっと払い、残された破片を慎重に調べ始めた。
間違いない。
この場所では、かつて激しい戦闘が繰り広げられたのだ。
焼け焦げた木々。砕け散った金属片。あちこちに残る血痕。
そのすべてが、ここに人間がいたことを物語っていた。
だが、奇妙なことに、死体は一つも見当たらない。
身元を特定できそうな、無傷の所持品も残されていなかった。
時の流れと風雨、そして生い茂る草木によって、事件の痕跡はほとんど覆い隠されていたのである。
バンは厚手の枯れ葉で折れた矢の一部を包み、地面から慎重に持ち上げた。
薄暗い山峡の光の中で、矢身に刻まれた文字が、先ほどよりも鮮明に浮かび上がって見えた。
そのとき、バンは無意識のうちに胸元へ手を伸ばし、衣の内側に隠した革袋を軽く叩いた。
そこには、先日、短刀を持った少女から手に入れた銅札が収められている。
三本の曲線が交差する、奇妙な紋様の刻まれた銅札だった。
銅札と矢に刻まれた文字は、まったく異なるものだった。
それでも、その精巧な細工と、どこか尋常ではない用途を感じさせる造りには、共通する雰囲気があった。
どちらも、山麓の小さな村に暮らす、ありふれた職人たちの手によるものとは思えない。
そこには、はるかに複雑で、残酷で、血にまみれた世界の気配が宿っていた。
「バン……それ、持って帰るのはやめておけ」
リスが、かすかな声で言った。
黒い瞳には、隠しようもない恐怖が浮かんでいる。
「嫌な臭いがする……死の気配だ」
そのときだった。
頭上の高い枝から、しわがれた鳴き声が降ってきた。
「カァ……カァ……」
黒々とした羽を持つ一羽のカラスが、樫の木の枝に静かに止まり、穴の中をじっと見下ろしていた。
やがて、ざらついた声が響く。
まるで刃物を石に擦りつけたときのような、耳障りな声だった。
「おい、小僧。ここに長居はしないほうがいいぞ」
バンは驚いて顔を上げた。
「今、お前……喋ったのか?」
「だから、この場所はろくな場所じゃないと言っているんだ」
カラスは羽ばたき、より近い枝へと移った。
「少し前まで、このあたりはひどく騒がしかった。雷鳴のような音が山を揺るがし、空から落ちる雷とも違う火が、土砂降りの雨の中でさえ森を焼き尽くしていた。人間どもは、逃げ道を失った蛆虫のように、あちこちを這い回っていたよ」
カラスは、黒い瞳を細める。
「そして、その後は……何もかもが静まり返った」
バンは、矢を包んだ枯れ葉を握りしめた。
「それは、いつ頃のことだ?」
「正確な時期など覚えていないな。あの頃の俺は、まだ羽もろくに生え揃っていなくて、この山脈の外へ飛び立つことすらできなかった」
カラスは嘴を小さく動かしながら、虚ろな目を山峡の奥へ向けた。
「だが、ここ最近……あの焦げ臭い臭いが、また漂い始めている」
バンの背筋に、冷たいものが走った。
普通の野獣を、理性を失った恐ろしい殺戮の獣へと変えてしまう兵器。
痕跡をほとんど残さず、何者かを抹殺するような戦闘。
そして、再び山林へ戻りつつある、死の臭気。
散らばっていた断片が、ひとつの暗い絵図を形作り始めていた。
バンは理解しつつあった。
武功がどれほど優れていようと、人間の身体で成せることには限界がある。
高く跳び、強く打ち、風雨の中でも揺るがず立つ。そのような技を磨くことはできるだろう。
だが、あの黒い矢に秘められた力は、通常の武学が踏み込める領域を超えていた。
それは、ただ破壊するためだけの力。
人の文明が生み出した毒が、深山幽谷の奥深くにまで、その魔手を伸ばしているのだ。
獣でさえ変質させられてしまう世界で生き延びようとするならば、乾いた竹の枝と、覚えたての拙い歩法だけに頼っているわけにはいかない。
バンは折れた黒い矢を慎重に包み、腰の革袋の奥深くへしまい込んだ。
銅札とは、はっきりと分けてある。
今すぐ答えを探しに行くつもりはなかった。
好奇心というものは、力なき者を墓穴へと誘い込む罠にもなる。
「帰ろう」
バンはリスに向かって、ぽつりと言った。
二人は不気味な穴を後にし、来た道をたどって洞窟へと戻っていった。
帰り着いた頃には、西北の空が夕焼けに染まり、燃えるような赤色を帯びていた。
バンは右肩の擦り傷を洗い、乾いた衣服に着替えると、洞窟の入口に腰を下ろした。
リスは疲れ切った様子で、松の根元の隅へ潜り込み、いつの間にか寝息を立てていた。
バンは革袋から黒い矢の破片を取り出し、平らな岩の上に置いた。
揺らめく焚き火の光を受けながら、刻まれた文字を黙って見つめる。
外の世界は、十歳の少年が想像していたよりも、はるかに広く、深かった。
そこには、劉花の母がよそってくれる温かな飯のある、平穏な村だけが存在するわけではない。
范有世が網を引き上げる、流れの激しい川だけでもない。
刀剣を手にした、ごく普通の暗殺者たちだけが、危険のすべてというわけでもなかった。
この世には、底知れぬ謀略がある。
常識では測れぬ兵器がある。
己の秘密を覆い隠すためなら、広大な森林さえも焼き払い、何もかもを平らげてしまう勢力が存在するのだ。
バンは竹の枝を手に取り、立ち上がった。
すでに空は暮れかけている。
巨大なイノシシと衝突した身体には、まだ鈍い痛みが残っていた。
それでも彼は、開けた場所へ歩み出ると、重心を低く落とし、基本の歩法を繰り返し始めた。
左足を踏み出す。
右足を引く。
腰を捻る。
均衡を保つ。
闇の中で、一つひとつの動作に意識を集中させる。
もはや、以前のように気を散らすことも、焦って成果を求めることもなかった。
彼にはわかっていた。
もっと強くならなければならない。
ただし、それは天下に覇を唱えるためではない。
無益な権力争いに身を投じるためでもない。
本当に嵐が訪れたとき、自らを守り、そして大切に思う者たちを守れるだけの力を身につけるためだった。
そのとき。
バンが意識を集中し、身体の向きを変えた瞬間、はるか遠い南の彼方から、夜の静寂を引き裂く低い音が響き渡った。
――ウォォォォン……。
それは、戦場に鳴り響く角笛の音だった。
重々しく、雄々しく、そして孤独な響き。
音の底には、濃密な殺気が滲んでいた。
長く尾を引く一声が途切れる。
その直後、短く鋭い音が、立て続けに二度鳴り渡った。
バンは、ぴたりと動きを止めた。
手にしていた竹の枝が、地面へ落ちる。
彼は弾かれたように顔を上げ、鋭い眼差しを南へ向けた。
深い森を覆う幾重もの黒い樹冠。その彼方から、濁った灰色の煙が細く立ち上っている。
煙が流れてくる方角は、山麓の小さな村へと続く道と重なっていた。
劉花が暮らす村。
范有世が網を引き、川のほとりで人々が行き交う、あの水辺の集落だった。
森は、再び静寂に包まれていた。
それでも、バンにはわかっていた。
平穏というものは、もともと薄い殻にすぎない。
そして今、その殻を破り、残酷な世界がついに自分の暮らす場所へと手を伸ばしてきたのだ。




