Episode 59
廃寺で繰り広げられた血なまぐさい戦いの夜が幕を閉じてから、三日が過ぎた。
林兆斌の暮らす岩窟の入口には、小さな空き地が新たに姿を現していた。
そこは樹齢百年を超える古松の陰にひっそりと隠された場所だった。以前は幾重にも積もった腐葉土と、蜘蛛の巣のように絡み合いながら地表へと張り出した木の根に覆われ、足の踏み場さえろくになかった。
林兆斌は、汗だくになりながら半日近くを費やして、その一帯をきれいに片づけた。大きめの丸石を拾い集めて低い円形の境界を築き、最後に、まっすぐ伸びた古い竹を一本選んで地面に突き立てた。これで、ひとまず稽古に使える場所ができあがった。
こうした地形の整備など、幼い頃から大森林で自活してきた彼にとって、さほど難しい仕事ではなかった。
問題は、その後に待ち受けていた。
見知らぬ武学の理の前に、自分の身体がいかに思いどおりにならないか――その無力さと向き合わなければならなかったのである。
バンは、ぽっかりと開けた空き地の真ん中に立ち尽くしていた。
両足を肩幅に開き、膝を適度に曲げ、痩せた両手で三尺ほどの竹の枝を握り締める。粗末な木剣代わりのそれを構えながら、頭の中では、かつて出会った青衣の少年の短い教えが何度も繰り返されていた。
――肩の力を抜け。
――重心を低く保て。
――決して、全体重を片方の足に預けるな。
バンは目を閉じ、深く息を吸い込むと、動き始めた。
左へ斜めに踏み込む。
足を入れ替える。
半歩退き、間合いを保つ。
そして腰を捻り、身体を横薙ぎに払う。
竹の切っ先が風を切り、静まり返った空間に、かすかな風切り音が走った。
だが、動作が形になったその瞬間、右足が不意に地面から突き出した松の根に引っかかった。
突然、均衡を失った身体が崩れ落ちる。
次の瞬間、バンは柔らかな土の上に、無様に転がっていた。
頭上高く伸びた松の枝では、小さな栗鼠が古い松ぼっくりを抱え、いたずらっぽい目でこちらを見下ろしていた。
「さて、今度で何度目だい、菜園の大侠客殿?」
いつものように、からかいを含んだ声が降ってくる。
バンは腹を立てるでもなく、手をついてゆっくりと立ち上がると、膝についた泥を軽く払った。
「さあな。覚えてない」
「仕方ないな。頭のいいこの僕が、代わりに数えておいてあげよう。これで十七回、見事にすっ転んだことになる」
「だったら、次からは数えなくていいぞ」
「いいとも。じゃあ、今回からまた一回目に戻そう」
バンは呆れたように首を振った。地面に落ちた竹の枝を拾い上げ、再び黙々と最初の構えに戻る。
栗鼠は小首を傾げ、黒々とした瞳で彼の動きをしばらく観察していたが、やがて何気ない調子で尋ねた。
「ところでさ、そんな間抜けな動きを、どうして飽きもせず何度も繰り返しているんだい?」
「武術を覚えるためだ」
「でも、あの青い服の男なら、とっくの昔にどこかへ消えちまったじゃないか。まともに名乗りさえしなかった相手だろう? それで、次は誰に教えてもらうつもりなんだい?」
バンの動きが止まった。
思いのほか鋭い問いかけに、彼は無意識のうちに竹の枝を握る手に力を込めた。そして、いつになく長い沈黙の中で考え込んだ。
あの青衣の少年は、あの日の明け方にはもう姿を消していた。
書簡にまつわる秘密も、まだ塞がりきっていない傷も抱えたまま、別れの言葉ひとつ残さず、再会の約束ひとつ交わさずに去っていったのだ。
林兆斌の手元に残されたものといえば、身体の均衡を保つためのいくつかの歩法と、進退に関するごく基本的な心得。それに、他人を傷つける術を学ぶ前に、まず己の足でしっかりと立て――という短い教えだけだった。
これだけの言葉では、武学の入門に必要な体系を成すには、あまりにも心許ない。
だが、バンにはほかに選択肢がなかった。
心法を授けてくれる師匠はいない。枕元に置く秘伝の武功書もない。拳法の型ひとつ、身振りひとつを傍らで正してくれる者もいなかった。
いつか名高い達人が偶然この森を訪れ、自分を弟子にしてくれる――そんな奇跡を当てにして待ち続けていたら、ひょっとすると、このまま一生を終えることになるかもしれない。
「教える人がいないなら、自分で鍛える」
バンは簡潔に答えた。
声に抑揚はなかったが、その言葉には揺るぎない決意が宿っていた。
栗鼠は松の実をひとかじりし、ぱりぱりと音を立てて噛み砕くと、肩をすくめた。
「じゃあ、もし間違いだらけの修行を続けていたら、どうするんだい?」
「間違っていたら、直す」
「でも、自分がどこを間違えているのかすらわからないほど、とんちんかんだったらどうするのさ?」
バンは勢いよく顔を上げ、栗鼠を睨みつけた。
栗鼠はびくりと身を震わせ、慌ててうつむくと、何事もなかったかのように松の実の殻をかじり始めた。
まるで、つい先ほどまで一言も口を利いていなかったとでも言いたげな振る舞いだった。
バンは小さく吹き出した。
しかし、その笑みはすぐに消え、代わりに思索の静寂が胸の内を満たしていった。
栗鼠の言っていることは、決して間違いではない。
どれほど根気強い人間でも、同じ動作を十年繰り返したところで、正しい方法も冷静な導きもなければ、誤りを積み重ね、その果ての行き止まりへと深く迷い込んでしまうだけかもしれない。
この大森林なら、木登りの仕方を間違えたところで、せいぜい痛い目を見て地面に転がるか、腹を空かせる程度で済む。
だが、武術は違う。
血と刀剣によって形作られた、生死を分かつ技だ。
一歩の誤りが、いつ命を奪うことになるとも限らない。
バンは竹の枝を下ろし、固く目を閉じた。そして、前日に山あいの渓流で目にした、息詰まるような死闘を脳裏に蘇らせた。
長刀が、風を引き裂くほどの勢いで振り下ろされる。
青衣の少年は身を傾け、寸分の無駄もなく刃をかわした。
折れた剣が軽やかに相手の刃を払い、その軌道をわずかに逸らす。
すべては一瞬の出来事だった。
あのときのバンには、ただ人影が入り乱れ、ある者が攻め、ある者が退いていくようにしか見えなかった。
だが今、心を静めて思い返してみると、彼はようやく武術の根幹に通じるひとつの真理に気づき始めていた。
――敵は、腕だけで技を繰り出しているのではない。
全身の重みを、一つの力として操っているのだ。
歩法が攻防の間合いを定め、腰と肩が蝶番のように働いて、腕の動きを導く。
敵の刀剣が千鈞の重みをもって振り下ろされても、あの少年は、ただ筋力に任せて正面から受け止めていたわけではなかった。
相手の押し込む力を巧みに利用し、わずかな身体の傾きによって、その斬撃の軌道を逸らしていたのである。
力で力を制するのではない。
力の流れを読み、その勢いを己の理に従わせる――そこにこそ、あの少年の身のこなしの妙があった。
バンは目を開き、もう一度、最初から試してみることにした。
今度は、竹の枝を慌ただしく振り回し、闇雲に剣舞の真似事をすることはなかった。
まずは動作の幅を小さくする。右へ斜めに踏み込み、腰をわずかに捻り、それからゆっくりと竹の枝を後から追わせる。
動きは鈍く、いささかぎこちない。武術の型というには、あまりにも拙く、どこか滑稽ですらあった。
それでも、両足がもつれて転ぶことはなくなった。
大地を踏みしめる足取りは、驚くほど安定していた。
半歩、退く。
そして、半歩、進む。
固く踏み締めた土の上で、確かに自分を支えている両足を見下ろし、林兆斌の口元に満足げな笑みが浮かんだ。
松の枝から降りてきた栗鼠が、ひょいと石の上に飛び乗った。
「なんだい、そのニヤニヤした顔は。何か真理でも悟ったつもりかい?」
「さっき、転ばなかった」
「まだ転ばなかったってだけだろ。そんなに早く得意になるんじゃないよ」
バンは竹の枝を地面につき、空を覆い尽くす青々とした木々の梢を見上げた。
「でも、少なくとも今日は、昨日までできなかったことが一つできるようになった」
そう言うなり、彼は再び稽古に没頭した。
今度は、栗鼠もからかったり、余計な口を挟んだりしなかった。
苔むした岩の上に静かに腰を落ち着け、広大な森林の木陰で、幼い人間の子供が退屈なほど同じ型を辛抱強く繰り返す姿を、ただ黙って眺めていた。
この荒涼とした世界で、誰一人として知る者はいなかった。
林兆斌が、武の道へと続く最初の一歩を、ひそかに踏み出したことなど。
手にした枯れ枝が、いつか己の命を救う兵器となり得るのか。そんなことに関心を寄せる者もいなかった。
だが、あの朝を境に、林兆斌は自分自身に一つの厳しい規律を課した。
毎日、朝霧がまだ晴れきらず、太陽が山の稜線から顔を出す前に、少なくとも四時間を歩法の鍛錬と心を静める修行に費やす。
速さを求めない。
華やかな技に心を奪われない。
ただ、一つの目標だけを胸に刻む。
今日こそは、昨日よりほんの少しでも、確かな足取りで大地に立つこと。
正午近くになると、木々の隙間から差し込む陽光が、地面に鮮やかな黄金色の筋を落とし始めた。
それまで休んでいた栗鼠が、不意に両耳をぴんと立て、小さな鼻をひくひくと動かした。
後退の歩法を繰り返していたバンも、ただならぬ気配を察して動きを止め、構えを解いた。
「どうした?」
栗鼠はすぐには答えなかった。
低い枝へと素早く駆け上がり、東の谷間へ目を凝らす。それから振り返り、バンに合図を送った。
「妙な音がする。生き物のうめき声だ」
「どっちだ?」
「干上がった沢の近くさ。ひどく弱々しい声だ。今にも息絶えそうだよ」
バンはためらわなかった。
腰に提げた布袋に竹の枝をしまうと、栗鼠の後を追い、東の谷間へ向かって歩き出した。
この一帯は、普段バンが生活の場としている区域から外れていた。
地形はほかの場所よりも荒れ果て、土の上には大小の石が無造作に転がっている。周囲には鋭い棘を持つ藪が生い茂り、切り立った岩壁が陽光を遮っていた。
奇怪な形をした大岩のそばまで来たとき、ようやく、あのうめき声がバンの耳にはっきりと届いた。
途切れ途切れの、痛ましい声だった。
鳥のさえずりではない。ましてや、猛獣の唸り声でもなかった。
バンは生い茂る藪をかき分け、その先に広がる光景を目にした。
一匹の小さな野生のテンが、縄で仕掛けられた罠に無惨にも捕らえられていた。
逃れようともがき続けたのだろう。すでに力尽き、濃褐色の毛並みには乾いた泥がこびりついていた。後ろ脚には縄がきつく食い込み、肉が潰れるほど締めつけられている。
生きようとする本能のまま、わずかに身じろぎするたび、縄はいっそう深く肉に食い込み、鮮血が滲み出した。
バンはためらうことなく近づいた。
「もう暴れるな。僕が外す前に、自分で死んじまうぞ」
物音に気づいたテンは、恐怖に駆られて鋭い牙を剥き出しにした。喉の奥から、掠れた威嚇の唸り声が漏れる。
バンはすぐさま足を止め、それ以上近づこうとはしなかった。
長年、森の中で生き抜いてきた経験が、彼に教えていた。
深く傷つき、極限まで怯えた野生動物を前にして、焦って動くのは禁物だ。迂闊な振る舞いひとつで、相手は自らの命を顧みずに反撃してくることさえある。
まずは敵意がないことを示さなければならない。
バンは十分な距離を保ったまま、ゆっくりとしゃがみ込んだ。両手を広げ、何も持っていないことがわかるように掌を見せる。そして、穏やかな声で話しかけた。
「お前を傷つけるつもりはない。この罠を外しに来ただけだ。まだ噛みつくつもりなら、お前が落ち着くまで待つさ」
無論、テンに人間の言葉を一つ一つ理解できるはずもない。
それでも、バンの声に宿る穏やかさと、殺気の欠片もない物腰は、本能的な恐怖を幾分か和らげたらしかった。
テンは相変わらず警戒心も露わに彼を見つめていたが、荒かった呼吸は先ほどよりもわずかに落ち着いていた。
バンは少しずつ距離を詰め、鞘から小刀を抜いた。それから、地面に深く打ち込まれた木杭へと結びついている縄を、慎重にたどり始めた。
仕掛けられていたのは、実に巧妙な狩猟用の罠だった。
麻で編まれた縄は非常に丈夫で、しなった木の枝を利用した梃子の仕掛けにつながっている。獲物がうっかり輪の中へ足を踏み入れると、枝の反発力によって一気に引き上げられ、脚を絡め取られたまま宙吊りになる仕組みだった。
もし何も考えずに縄を切ってしまえば、張り詰めた枝が勢いよく跳ね返り、テンの傷をさらに深める恐れがある。あるいは、地面へ叩きつけられ、頭を石に打ちつけることにもなりかねない。
まずは結び目を解かなければならなかった。
バンが指先を伸ばし、縄の結び目をほどこうとした、その瞬間だった。
「そこから手を離せ」
背後から、低く、冷え切った声が突如として響いた。
バンははっとして振り返った。
二本の古松の間に、一人の中年男が仁王立ちしていた。
肩には角弓を担ぎ、腰には鋭い短刀を差している。土色の粗末な衣服はすっかり使い古され、裾のすぼまったズボンは布帯でしっかりと縛られていた。履いている山歩き用の靴には、滑りやすい岩場でも足を取られぬよう、鉄鋲が打ち込まれている。
男の目は剃刀のように鋭かった。
まず自分の罠に視線を走らせ、次いで、その眼差しを林兆斌へと移す。
「小僧。俺の獲物に、何をこそこそ手出ししてやがる?」
「罠を外している」
バンは落ち着いた声で答えた。
「見りゃわかる。いちいち説明しなくていい」
男は歩み寄り、虫の息となったテンを一瞥した。
「今すぐ、俺の罠から手を離せ」
バンは立ち上がったが、退こうとはしなかった。
「このままじゃ、こいつの脚が折れる。今すぐ逃がさなきゃ、死んじまうぞ」
「罠にかかった獣が脚を折るのも、肉を裂かれるのも当たり前だ。いちいち気にしていたら、狩りなんぞできるか」
「でも、こんなところで無駄死にする必要はない。もう助からなくなる寸前なんだ」
「死のうが生きようが、俺の獲物であることに変わりはねえ」
男は冷ややかに口元を歪め、手を差し出した。
「そこをどけ。獲物をこっちへ寄越せ」
バンは動かなかった。
傷ついたテンを庇うように、その前に立ちはだかり、半歩たりとも退こうとしない。
背後では、二人の間に張り詰めた空気を感じ取ったのか、テンが身をよじり、悲痛なうめき声を上げた。
男の堪忍袋の緒が切れた。
一歩踏み込むなり、バンの肩を乱暴に掴み、力任せに横へ突き飛ばす。
「どけと言ってるんだ! 俺の堪忍袋を試すんじゃねえ!」
バンの身体がぐらりと傾いた。
だが、幾日も繰り返してきた歩法の鍛錬が、思いがけないところで役に立った。
とっさに重心を落とし、後ろ足を一歩引くことで体勢を立て直す。地面に倒れ込むことなく、どうにか踏みとどまったのだ。
その小さな動きを、男の鋭い目が捉えていた。
一瞬、かすかな驚きがその眼差しをよぎる。
しかし、男はすぐに興味を失ったかのように視線を切り、自分の罠を確かめるために腰を屈めた。
バンは、その場に立ち尽くした。
武器を一通り揃えた大人の猟師と争いになれば、自分に勝ち目などないことはよくわかっていた。
だが、だからといって、何も見なかったかのように背を向けて立ち去るつもりもなかった。
男は顔を上げ、バンがいまだにその場を動こうとしないのを見ると、苛立たしげに眉をひそめた。
「まだ何か用があるのか?」
バンは息も絶え絶えになっているテンへ目を向けた。
「この縄を外させてくれ。こいつを連れていったりはしない。ここに置いていくと約束する」
「俺が馬鹿だとでも思っているのか? 見ず知らずのガキの言うことを、どうやって信じろってんだ」
「ここで見張っていてくれてもいい」
男は黙り込んだ。
目の前の子供を、頭の先から足元まで注意深く観察する。
継ぎ接ぎだらけの衣服。蔓を編んで作った粗末な草履。身につけているものといえば、小刀が一本あるだけで、金目の物も、まともな武器も見当たらない。
獲物を盗むために罠を壊して回るような、手慣れた盗人には見えなかった。何より、今のバンの目には、悪だくみをする者特有の狡猾さが微塵もなかった。
それでも、その瞳に宿る頑なな意志だけは、どうにも癪に障った。
「この罠を一つ仕掛けるのに、俺がどれだけ苦労したと思っている?」
バンは首を横に振った。
「知らない」
「だったら、たいしたことでもないみたいに、気安く口を挟むんじゃねえ!」
男は憤然と歩み寄ると、腰の短刀を抜き、絡まった縄を解くために身を屈めた。
「野山の獣は、お前みたいなガキが哀れんでやるためのおもちゃじゃねえんだ。俺は家族を食わせるために、獣を捕らえて米に換えている。家じゃ、女房も子供も重い病に伏せっているんだ。お前みたいに、酸っぱい野生の果物を食って暮らしていけるわけじゃねえ!」
その言葉は、バンの胸の奥へとまっすぐ突き刺さった。
そして、ほんの数日前に経験したばかりの記憶の一隅を揺り動かした。
脳裏に浮かんだのは、漢方薬を扱う店の前に立ち、薬草の根が詰まった竹籠を抱えながら、母親の命を救うために薬を手に入れようと必死になっていた、ハー・ティン・リュウ・ホアの姿だった。
あの市で、バンは初めて目の当たりにしたのだ。
幼い少女が、家族を養い、病人を救うために、どれほど切実な思いで奔走しているのか。その無力さを目の当たりにするまで、彼は他人の肩に重くのしかかる日々の暮らしの苦しみを、十分には理解できていなかった。
そして今、目の前の猟師もまた、過酷な生業について同じようなことを語っている。
ただ、生きるために選んだ道は違っていた。
猟師は獣の命を奪い、その対価で家族の命をつなごうとしている。一方の林兆斌は、果実を採り、魚を捕らえ、大森林の懐に抱かれて暮らしてきた。
バンに、この男の生き方を一方的に裁く権利はなかった。
だが、それは、目の前でテンが苦しみながら息絶えるのを、黙って見過ごさなければならないということでもない。
「僕は、猟師をやめろと言っているわけじゃない」
バンは声を和らげ、静かに言った。
「ただ、こいつを助けるために、縄を外させてほしい。それだけなんだ」
男の手が止まった。
狭い谷間を山風が吹き抜け、乾いた黄色い葉を何枚か巻き上げた。葉は二人の間をくるくると舞い、やがて鋭い棘の生えた藪に引っかかった。
しばらくの沈黙の後、猟師はようやく立ち上がり、後ろへ一歩退いた。
「勝手にしろ。外したきゃ外せ。ただし、言っておくぞ。そいつが生き延びて逃げちまっても、俺がお前の代わりに捕まえ直してやる義理はねえからな」
バンはうなずいた。余計な言葉を返すことはしなかった。
片膝を地面につき、テンの脚にきつく食い込んでいた縄の輪を、一つずつ慎重に外していく。
今度は猟師も、すぐそばに立って見ているだけで、手を出して止めようとはしなかった。
最後の縄が完全に緩んだ瞬間、テンは残されたわずかな力を振り絞り、必死に身をよじって飛び出した。
バンは咄嗟に手を引いた。
だが、傷ついたテンの足が、地面に置いてあった小刀の刃に偶然ぶつかった。
バンは慌てて刀を引き寄せたものの、すでに掌には小さな切り傷が走り、鮮血がじわじわと滲み出していた。
テンは草むらへ転がり落ち、よろめきながらも逃げようとした。しかし、数歩這うように進んだところで、ついに力尽きた。
シダの根元に倒れ込み、荒い息を繰り返している。
バンが駆け寄って様子を確かめようとした、そのときだった。
「追いかけるな」
猟師の声が飛んできた。
バンは振り返った。
「でも、脚から血が出ている」
「お前が慌てて近づけば、殺されると思って余計に怯えるだけだ。しばらく、あそこに寝かせておけ」
そう言うと、猟師はテンのそばまで歩み寄った。
その動作には、意外なほど乱暴さがなかった。
男はしゃがみ込み、獣の脚にできた傷を注意深く調べた。それから衣服の懐に手を入れ、古びて色褪せた布切れを取り出した。
「おい、こいつの胴体を押さえておけ」
バンは目を丸くした。驚きを隠せず、思わず尋ねる。
「……もう、連れて帰って肉にするつもりはないの?」
「この脚が、まだ治せるかどうか確かめるだけだ」
男はそれ以上、長々と説明しようとはしなかった。
バンは言われたとおり、テンが暴れないよう、その胴体をそっと押さえた。猟師は古い布を傷口に巻きつけ、出血を抑えながら、脛の骨を固定するように包帯代わりの布を締めていった。締めつけすぎず、それでいて緩まないよう、手際よく処置を施していく。
「とりあえず、こいつのちっぽけな命は拾えたな……」
男は小さくつぶやいた。
「この先……また、森の中を自分の足で走り回れるようになるのかな?」
バンが尋ねた。
「さあな。俺が薬草を調合する神医にでも見えるのか?」
「だったら、どうして助けたんだ?」
猟師はごく平然と答えると、勢いよく立ち上がり、自分の罠を確かめ始めた。
「俺は家族に食わせる米を手に入れるために獣を狩っているんだ。出くわした獣を片っ端から叩き潰さなきゃ気が済まねえほど、腐った人間じゃねえよ」
バンは、自分の掌に目を落とした。
傷は深くなかったが、血がべったりと広がっている。腰の布袋から清潔な布切れを取り出し、自分で傷口を巻こうとした。
それに気づいた猟師は、手近にあった短い麻縄をひょいと投げ渡した。
「それで縛っておけ。重いものを持ったときに傷口が開いたら面倒だからな」
バンは飛んできた麻縄を受け止めた。
「ありがとう」
男は返事をしなかった。
ただ、解体しかけていた罠を回収すると、肩に担ぎ上げた。
結び目を確かめていた猟師は、不意にバンへと目を向けた。探るような視線だった。
「お前、どこで罠の外し方を覚えた?」
「森で暮らしながら、自分で覚えた」
「誰かに教わったわけじゃねえのか?」
「うん」
男はしばらく考え込むように黙っていたが、やがて納得したようにうなずいた。その表情も、先ほどまでより幾分か和らいでいた。
「なら、これだけは覚えておけ。森に仕掛けられた罠は、獣を捕らえるだけのものじゃねえ。時には、人の命だって奪うことがある」
バンは顔を上げた。
猟師は、山奥へと続く細い獣道を指さした。
「お前、この辺りをよく通るのか?」
「たまにね」
「だったら、これからは向こうの一帯に近づくな。大きな松の根元に、もう二つ罠を仕掛けてある。見落として踏み込んだところで、俺は警告してやったとは言わねえぞ、なんて言い逃れはしねえ。先に教えてやったんだからな」
バンは男が指さした方向に目を向け、その場所を心に刻み込んだ。
そして、少し考えてから尋ねた。
「でも、あんなふうに獣道のすぐそばに罠を仕掛けたら、通りかかった人が間違えて引っかかるかもしれないだろう? 怖くないの?」
猟師は、ふいに口をつぐんだ。
日焼けした顔に、複雑な表情が浮かぶ。
「……あとで、山の奥の隅へ移しておく」
それは、心からの謝罪というわけではなかった。
自分に非があったと認めたわけでもない。
だが、それでも男は、現実的な譲歩を一つ示したのだった。
林兆斌は悟り始めていた。この世には、外面こそ毛を逆立てた獣のように荒々しく、口を開けば粗野な言葉ばかり吐く人間であっても、その心の奥底には、最低限の良心の一線を守り続けている者がいるのだと。
バンは身を屈め、布袋を拾い上げると、穏やかな声で言った。
「それじゃあ、忠告してくれてありがとう」
古びた布に包まれたテンは、いまだに弱々しい息を漏らしていた。バンはその姿を見つめ、迷っていた。自分の住処である洞窟へ連れ帰るべきか、それともこのままここに残しておくべきか。
猟師は、そんな彼の心中を見透かしたように尋ねた。
「そいつを連れて帰って、飼うつもりか?」
「まだ決めてない」
「馬鹿な真似はよせ。野生の獣が、人間に囲われた暮らしに馴染むわけがねえ。傷が癒えたら、自分の力で森を生き抜いていくしかないんだ」
バンはしばらく考え、それから納得したように頷いた。
自由に生きる獣を救うつもりが、別の形でその自由を奪うことになっては、本末転倒だ。
二人は協力して風をしのげる岩陰を探し、その底に乾いた草を厚く敷いた。そこへテンをそっと寝かせると、猟師は大きな木の実の殻に水をたっぷりと汲み、傍らに置いた。さらに、何本かのシダの枝を引き寄せ、岩陰の入口を覆い隠した。
「午後の間は、ここで休ませておけ」と、男は言い聞かせるように告げた。「今夜まで生き延びて、自分の足で這っていけるようなら、運がよかったってことだ」
バンは、好奇心に満ちた眼差しで男を見つめた。
「自分の仕掛けた罠にかかった獣を、いつもこうして助けているの?」
「いや」
「じゃあ、どうして今日は助けてくれたんだ?」
猟師は罠を肩に担ぎ、背を向けたまま、感情のこもらない声で答えた。
「今日は、そいつの肉を食う気分じゃなかった。それだけだ」
そう言い残すと、男は一度も振り返ることなく、大股で立ち去っていった。
バンは谷間に立ち尽くし、木々の葉陰へと消えていく、荒々しい男の背中を見送った。
その答えには、高潔さも慈悲深さも感じられなかった。
しかし同時に、血も涙もない冷酷さとも違っていた。
バンはふと気づいた。
人間というものは、ほんの数度の出会いを経験しただけの子供が理解しきれるほど、単純な存在ではないのだと。
完全に善良な人間などいない。同じように、完全な悪人もまた、そう簡単には存在しないのかもしれない。
時には、誰かが一つの命を見逃すのは、衆生を救う生き仏だからではない。
ただ、その瞬間だけは、これ以上の残酷さを自分の手で背負いたくなかった。それだけのことなのだ。
*
林兆斌が洞窟へ戻る頃には、太陽はすでに西へ傾き、空の一角を濃い橙色に染め上げていた。
切り傷を負った手は、小刀を扱う際に多少の不自由をもたらした。それでも彼は何とか火を起こし、湯を沸かして傷口を洗い清めた。それから洞窟の入口にある平らな岩へ腰を下ろした。
高い枝の上から栗鼠が飛び降りてきた。
血の匂いを嗅ぎつけるや否や、慌てて駆け寄り、バンの手を確かめる。
「おいおい、今度は何があったんだ? また喧嘩でもしたのかい?」
バンは首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあ、どうして手が血まみれなんだ?」
「罠を外していたんだ」
栗鼠は長々とため息をつき、その場にぺたりと腹をつけて、すっかりうんざりした様子を見せた。
「林兆斌、お前についていくのって、自分で餌を探して暮らすより、何万倍も危険な気がしてきたよ」
バンは苦笑した。
だが、ふと視線が岩壁の傍らに斜めに立てかけてある竹の枝を捉えた途端、心は再び遠い思索へと沈んでいった。
今日、彼は一人の達人を打ち負かしたわけではない。
猟師と拳を交えたわけですらなかった。
ただ突き飛ばされ、手に傷を負い、見知らぬ男が罠を片づけて立ち去るのを見届けただけだ。
それでも、そこから得た教訓は、何物にも代えがたいものだった。
危険や争いに直面したとき、武器を抜いて正面からぶつかり合うことだけが、唯一の解決策ではない。
時には、一歩退くことでこそ、争いを鎮めることができる。
時には、冷静な言葉のほうが、鍛え上げられた腕力よりも、はるかに大きな力を持つ。
そして何より、自分にすべてを守り抜く力が備わっていないのなら、衝動を抑える術を知ることこそ、己を守る最も確かな盾となるのだ。
バンは立ち上がり、竹の枝を手に取った。
空き地へ歩み出ると、ここ数日、繰り返し鍛えてきた構えをとる。
今度も、慌てて竹を振り回すことはなかった。
左へ斜めに踏み込む。
半歩、退く。
重心をできるかぎり低く落とす。
竹の枝を前方へ伸ばすと同時に、全身をしなやかに移動させる。両足がもつれ合うことも、互いの動きを邪魔することもない。
一歩。
二歩。
三歩。
バンは動きを止めた。
身体は、まったくぐらついていなかった。
彼は自分の足元を見下ろし、深く息を吸い込むと、もう一度、最初からやり直した。
動作にはまだぎこちなさが残っていた。竹の切っ先も、呼吸のたびに時折揺れてしまう。
それでも、身体の動きと歩法との間には、少しずつ自然な連動が生まれ始めていた。
昨日よりも、確かに進歩している。
その成長は、深遠な内功を授けてくれる高人のおかげでもなければ、天から舞い降りた不思議な仙縁によるものでもなかった。
痛みを伴う幾度もの転倒から。
衣の肩を濡らす汗から。
そして、世間から忘れ去られた一人の子供が、誰に褒められることもなく積み重ねてきた、黙々たる忍耐から生まれたものだった。
しばらく眺めていた栗鼠が、のそのそと空き地へやってきた。そして、バンの真正面に陣取ると、胸を張って宣言した。
「次は僕の番だ」
バンは目を瞬かせた。
「何だって?」
「その中腰でじっと立ってるやつ、どれほど面白いのか試してみたいんだよ」
「お前、竹を握る手もないのに、どうやって稽古するんだ?」
「爪ならある。かかってこい、相手になってやるよ」
バンは思わず吹き出し、竹の枝を脇へ放り投げた。
栗鼠は後ろ脚二本で立ち上がり、懸命にバンの構えを真似しようとした。
しかし、たった一呼吸ぶん耐えただけで均衡を失い、そのまま宙返りするように一回転して、乾いた落ち葉の山へ転がり込んだ。
バンはとうとう堪えきれず、大声で笑った。
栗鼠はもぞもぞと這い出し、毛についた埃を払い落とすと、怒りに満ちた目で彼を睨みつけた。
「笑うな!」
「笑ってないよ」
「どう見ても、口を大きく開けて笑ってるじゃないか!」
「だって、お前の転び方が見事すぎたんだもの」
栗鼠はむっとしたまま、ぷいと背を向けると、ひどく腹を立てた様子で洞窟の中へ歩いていった。
バンは、その小さな背中を見送った。
やがて笑い声は静かに消え、代わりに深い山林の静寂があたりを満たしていった。
太陽はとうに北西の山並みの向こうへ沈み、地平の果てには、淡い赤橙色の雲が一筋だけ残されていた。
バンは稽古場を片づけ、竹の枝を洞窟の入口にきちんと立てかけた。それから腰を下ろし、丁寧に包帯を巻いた自分の手を眺めた。
今日という一日は、穏やかに過ぎていった。
天地を揺るがすような激闘はなかった。
現れて秘伝の武功を授けてくれる、江湖の高人もいなかった。
それでも、林兆斌は一つの罠を外す術を学び、猟師という人間が必ずしも冷酷な者ばかりではないことを知り、そして時には一歩退くことこそ、双方に退路を残す唯一の道となり得るのだと悟った。
バンは、星々が少しずつ姿を現し始めた夜空を見上げた。
この先、自分がどこへ向かうことになるのか、彼にはまだわからない。
いつか世の人々から英雄と仰がれるのか、それとも名もなき放浪者として生涯を終えるのか。それさえも、今の彼には見通せなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと理解したことがある。
あの危険に満ちた江湖へ足を踏み入れるには、咄嗟の善意だけでは足りない。
天下の情勢を見極める、鋭い眼が必要だ。
物事の利害を冷静に見定める、明晰な頭脳が必要だ。
そして何より、いかなる風雨にさらされようとも揺るがぬ、確かな足腰が必要なのだ。
バンは立ち上がり、洞窟の中へ入っていった。
葉を編んだ粗末な寝具を引き寄せ、肩まで覆う。
洞窟の外では、栗鼠がすでに古松の根元で丸くなり、安らかな寝息を立てていた。
そして、一本の竹の枝は、明日の夜明けを待つかのように、静かにそこに立てかけられたままだった。
林兆斌の武の修行は、ようやく本当の意味で始まったばかりである。
その行く手には、数えきれない険難と、まだ解き明かされぬ謎が待ち受けている。
それでも、今日踏みしめた一歩一歩の確かさがあれば、彼はきっと、この先の世界で待ち受けるいかなる嵐にも立ち向かっていけるはずだった。




