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Episode 58

 北風が古びた竹林を幾度も唸りながら吹き抜け、冬の終わりを告げる、肌を切り裂くような寒気を、山脈の頂の彼方から運んできた。


 夜露は葉の天蓋に重たげな雫となって結び、風が荒々しく吹きつけるたび、ぬかるんだ獣道へとぱらぱら降り注いだ。広大な原生林は、奇妙な静寂に包まれていた。それは安らぎのもたらす静けさではない。間もなく凶事が訪れることを予感した万物が、息を潜め、身構えているかのような静けさだった。


 いつもなら森のあちこちに響き渡る鳥たちのさえずりは、跡形もなく消え失せていた。普段は落ち着きのないリスや猿でさえ、最も奥深い樹洞に身を潜め、小さな物音ひとつ立てようとしなかった。


 林兆彬(ラム・チエウ・バン)は洞窟の入口に佇み、削り整えたばかりの竹の棒を固く握りしめていた。その眼差しは、濃密な雲霧の下、灰色の山々が幾重にも連なる北の彼方へと注がれている。


 小さなリスが彼の肩の上で身を縮め、鋭い爪を擦り切れた粗布の衣に食い込ませていた。不安に震える声が、耳元でかすかに響く。


「昨夜……北の方で、何かが起きた」


 バンはわずかに首を傾けた。声には、年齢に似合わぬ落ち着きがあった。


「何があった?」


「はっきりとは分からない。だが、この静けさは普通じゃない。真夜中、老木の太い枝が凄まじい音を立てて折れるのを聞いた。その直後、大きな獣が慌てふためきながら岩の裂け目を駆け抜けていったんだ。そこから一里も離れていない場所にある樫の木の梢では、夜鳥たちが一斉に飛び立って、四方八方へ散っていった。一羽たりとも巣へ戻ろうとしなかった」


 バンは目を細め、木々の梢を縫うように流れていく濃霧の奥を見つめた。


「獣が狩りをしていたのか?」


「違うと思う」


 リスは尻尾の毛を逆立て、警戒を露わにしながら断言した。


「獣には、それぞれ縄張りがある。狩りをするときだって、足音や匂いには、その獣特有のものがある。だが、昨夜通り過ぎたものは違った……野生の本能に従って生きる獣たちでさえ、怯えて逃げ出すほどの殺気をまとっていたんだ。それに……」


 リスは言葉を切り、小さな鼻をひくひくと動かして、何度も空気の匂いを嗅いだ。


「血の匂いがする。生まれたばかりの、まだ乾いていない血の匂いだ」


 林兆彬は、すぐには答えなかった。


 人跡もまれなこの深い森で暮らしてきた彼は、残酷な真理を十分に理解していた。


 自然界に現れる、ほんの些細な異変。それが時として、飢えた猛獣の咆哮よりもはるかに致命的な危険を孕んでいることがある。


 野生の獣は、生き延びるための摂理に従って行動する。だが、広大な森の一角が突如として異様な沈黙に包まれたとき、その原因が自然の営みにあることは、めったになかった。


 時として、最も恐ろしく、最も残酷で、この世の秩序を最も容易く踏みにじる存在――それは、ほかならぬ人間なのだ。


 バンは竹の棒を肩に担ぎ、腰に提げた革袋の水筒と、いくつかの小道具を一瞥した。そして、平静な口調で告げた。


「行こう。何が起きたのか、確かめに行く」


 リスはぎょっとして、すぐさま前脚でバンの髪をつかんだ。


「何を言ってるんだ! 危険が潜んでいると分かっているのに、それでも首を突っ込むつもりか? とうとう頭がおかしくなったのか!」


「遠くから様子を見るだけだ。深入りはしない」


「前にも、まったく同じことを言ったじゃないか! その結果、崖から転げ落ちかけて、息も絶え絶えになったのを忘れたのか!」


「あのときは、果物を採りたかっただけだ」


「じゃあ、今回は何だ?」


 バンは眼前に広がる灰色の霧を見上げた。その唇が固く結ばれ、幼い顔に揺るぎない決意が浮かんだ。


「今回は……この森で、本当は何が起きているのかを知りたいんだ」


 リスは黙り込んだ。


 林兆彬という少年の性分は、誰よりもよく分かっている。一度決めたことは、梃子でも動かない。どれほど文句を言おうと、どれほど脅そうと、この子の意志を覆すことなどできはしないのだ。


 やがて、リスは不満げにバンの髪を放すと、肩からひらりと飛び降りた。そして、道の先を確かめるため、彼に先立って数歩駆け出した。


 二つの小さな影は、やがて鬱蒼と茂る木々の梢と濃霧の中へ、音もなく呑み込まれていった。


 彼らのどちらも、まだ知る由はなかった。


 さほど遠くない場所で、血に染まった惨劇が、つい先ほど幕を閉じたことを。そして、その戦いが残したものは、冷たくなった屍だけではなかったということを。


 起伏に富んだ山道を半里ほど進んだところで、バンは、何者かに踏み荒らされ、もはや元の地形さえ留めていない広場に行き当たった。


 腐りかけた落ち葉は無残にも踏み砕かれ、細かな粉となって地面に散らばっていた。道端に生い茂っていた大きな茨の茂みは、鋭い力で一刀のもとに両断され、幹の途中から断ち切られていた。湿った地面には、大小さまざまな靴跡が幾重にも入り乱れて刻まれている。それらは曲がりくねった獣道から、暗く狭い谷間へと続いていた。


 バンは片膝を地につき、注意深く周囲を観察した。


 栗の古木の根元近くに、男のものと思われる深い足跡が残されていた。足裏が土に深く食い込んでいる。足跡の様子からして、その主は身を翻して敵の攻撃をかわした際、突如として全身の体重を片足にかけたのだろう。


 そのすぐ脇には、踵か、あるいは兵器の先端で地面を抉ったと思われる長い溝が走っていた。溝の傍らには、黒ずんだ血が数滴、散り積もった落ち葉の奥深くにまで染み込んでいる。


 バンは手を伸ばし、最も近くに立つ栗の木の幹に、細い指先をそっと触れさせた。


 ざらついた樹皮を横切るように、一筋の鋭い斬撃の跡が刻まれていた。その深さは、指の節ひとつ分にも及ぶ。切り口は恐ろしいほど平らで、内部の木肌は淡い白色を露わにしていた。何かが衝突して折れた痕跡とは異なり、木の繊維は少しも毛羽立っていない。


 バンはかすかに眉をひそめた。


 暴風に煽られて折れた枝や、野生の獣にぶつかられて裂けた木の幹には、普通、ささくれ立った不揃いな木肌が残るものだ。


 だが、この斬撃の跡は違った。


 あまりにも鮮やかで、あまりにも整っている。その見事さが、かえって背筋を凍らせるほどだった。


 バンは手にした竹の棒へと視線を落とした。


 この竹も、確かに頑丈ではある。だが、年経た栗の木に、これほど深く、鮮やかな斬撃の跡を刻むとなれば、並大抵の力では到底かなわない。


 成し遂げた者は、相当に深い内力の持ち主か、それとも尋常ならざる鋭さを備えた武器を手にしていたに違いない。


 そのどちらも、十歳の少年であるバンが、これまで一度として触れたことのない世界に属するものだった。

「バン!」


 高い枝の上から、リスの小さな声が響いた。かすかな声でありながら、そこには明らかな警告が込められていた。おかげで、バンの意識は再び現実へと引き戻された。


 バンは勢いよく顔を上げた。


「どうした?」


「人がいる……下の岩の裂け目に」


 バンは即座に立ち上がり、鋭い眼差しで周囲を見渡した。


「生きているのか。それとも、もう死んでいる?」


「まだ息はある。かすかに呻く声が聞こえた」


 バンは一瞬たりともためらわなかった。幾重にも絡み合った太い木の根につかまり、濡れた落ち葉に覆われた滑りやすい斜面を、一歩ずつ慎重に下っていく。


 伏せた獣の背中を思わせる奇怪な巨岩に近づいたとき、ようやく彼の目に人影が映った。


 切り立った岩壁に背を預け、一人の少年が座り込んでいた。


 年の頃は十五歳ほど。


 身にまとった濃藍色の粗布の衣は、肩口が無残に裂けていた。衣の裾には、黒ずんだ血が大きく広がっている。そのすぐ傍らには、折れた剣が転がっていた。残された刀身は半尺余りしかなく、剣先も無惨に欠けている。まるで死力を尽くした激闘の末に、ようやくここまで逃れてきたかのようだった。


 少年の片手は、なおも剣の柄を固く握りしめていた。あまりに強く握っているため、指の関節は血の気を失い、紙のように白くなっている。


 バンはすぐには近寄らなかった。


 まずは周囲に目を走らせ、地形を確かめ、伏兵の気配がないことを見極める。それから、ようやく慎重に歩み寄った。


「おい……聞こえるか?」


 少年は、まるで屍のように微動だにしなかった。


 バンは身を屈め、相手の首元に手を伸ばして呼吸を確かめようとした。


 その瞬間、青白い顔にかかった長い睫毛が、ぴくりと大きく震えた。


 ヒュッ!


 地面に倒れていた少年の手が、電光石火の速さでバンの手首をつかんだ。


 あまりの速さに、反射神経に優れたバンでさえ手を引くことができなかった。


 瀕死の重傷を負っているとは思えぬほど、少年の握力は異様に強く、ぞっとするほど容赦がなかった。


 次の瞬間、少年の目が見開かれた。


 そこにあったのは、冷酷さと殺気を研ぎ澄ませた、抜き身の刃のような眼光だった。もう片方の手は、ほとんど無意識のうちに折れた剣の柄を持ち上げている。


「貴様……何者だ?」


 かすれた声は途切れ途切れだったが、言葉の端々から、むき出しの殺気が滲み出ていた。


「この森に住んでいる者だ」


「奴らが……死体を回収しに、お前を寄越したのか?」


「お前の言う『奴ら』が誰なのか、俺は知らない」


 少年は目を細め、バンの瞳の奥をじっと見据えた。まるで、その内側に隠された偽りや企みを、根こそぎ暴き出そうとするかのようだった。


 荒い呼吸を何度か繰り返した後、ようやく少年はバンの手首を解放した。しかし、その手は依然として剣の柄から離れなかった。


「立ち去れ。ここから遠ざかれ」


 バンは、少年の左脇腹から血が滲み続けているのを見下ろした。


「ひどい傷だな」


「まだ死んではいない」


「だが、このままここにいたら、日が暮れる前に血を流し尽くして死ぬぞ」


 少年は、冷え切った薄笑いを浮かべた。


「俺の問題だ。お前には関係ない」


 バンは数秒ほど黙って少年を見つめていたが、やがて素っ気なく背を向けた。


「そうか」


 水袋を手に取り、斜面を登ろうとする。


 藍色の衣をまとった少年は、幼い子供がこれほどあっさりと立ち去るとは思っていなかったらしい。バンの痩せた背中を呆然と見送り、その瞳には一瞬、複雑な色が浮かんだ。


 それでも、彼は最後まで引き留める言葉を口にしなかった。


 ところが、バンが斜面の上り口に足をかけた、そのときだった。


 ぴたりと足が止まった。


 少年に呼び止められたからではない。


 頭上の丘の頂から響いてきた声が、森の静寂を無情にも打ち破ったのだ。


「この辺りを徹底的に捜せ! あれほどの重傷を負っているんだ。遠くまで逃げられるはずがない!」


 別の男が、冷ややかな声で続けた。


「谷間の隅々まで調べろ。もし『あの品』を持ち逃げされたら、我ら全員、主の前に顔向けできなくなるぞ!」


 バンは勢いよく振り返り、岩壁にもたれかかる少年を見つめた。


 少年はいつの間にか固く目を閉じていた。しかし、折れた剣の柄を握る手には、いっそう筋が浮き上がり、指先は血の気を失うほど白くなっている。


 もはや、問いただす必要などなかった。


 今、現れた男たちこそ、この少年を死の淵へ追いやった刺客なのだ。


 バンは背後の逃げ道を一瞥し、それから目の前で死に瀕している少年へと視線を戻した。


 心がわずかに揺れた、その刹那。


 先日、短刀を携えて旅していた少女の言葉が、ふいに耳の奥で蘇った。


 ――誰のことも、簡単に信じてはいけない。


 あの少女の忠告は、まったくもって正しかった。


 目の前の少年が善人なのか、それとも江湖に名を連ねる悪党なのか、バンには知る由もない。ましてや、少年が持ち歩いているという宝物や書簡については、何一つ分かっていなかった。


 こんな厄介事に首を突っ込めば、自ら災いを招き寄せることになりかねない。


 ここで立ち去れば、これまでどおり洞窟で静かな暮らしを続けられる。


 危険に身をさらす必要もなければ、見知らぬ人間のために命を懸ける必要もない。


 バンは手にした竹の棒を、ぎゅっと握りしめた。


 だが、短い葛藤の末、彼の足は再び向きを変えた。


 次の瞬間、バンは地面を蹴り、岩の裂け目へと勢いよく飛び降りていた。


「立てるか?」


 少年は目を見開き、信じられないものを見るようにバンを見つめた。


「お前……どうして戻ってきた?」


「お前を捜している連中が来るからだ」


「とっとと失せろ! わざわざ死にに来るな!」


「俺だって、そうしたいところなんだがな」


 そう言いながら、バンは身をかがめ、少年の腕を強引に引き上げると、自分の肩に回した。


「どうやら今さら逃げようとしても、間に合いそうにない」


 バンは藍衣の少年を支え、古い竹が密生する奥に隠された、狭い岩穴へと身を滑り込ませた。


 穴の中は暗く、湿り気を帯び、身動きもままならないほど狭かった。入口には古木の根が幾重にも絡み合い、蔓草が複雑に這い回っている。その巧妙な覆いをかき分けて、すぐ目の前まで近づかなければ、奥に人が身を隠せる場所があるなど、まず気づかれないだろう。


 少年を冷たい岩の床に座らせた直後、バンは慌てて一歩身を引いた。


 少年の防衛本能が、再び牙を剥いたのだ。


 折れた剣の切っ先が、バンの喉元へ真っすぐ突きつけられていた。


「お前……何を企んでいる?」


 バンは冷たい刃先を見つめた。顔には、隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。


「命懸けでお前を地獄の縁から引っ張り戻してやったんだぞ。それなのに、恩人への挨拶が剣の一突きか?」


「俺はお前に助けを求めていない」


「結構だ。次に奴らが追ってきたら、今度は俺がこの手でお前を外へ放り出してやる。あとは好きなだけ、連中に切り刻まれるがいい」


 あまりにも率直で、容赦のない言葉だった。


 少年は虚を突かれたように呆然とした後、ようやく剣を引いた。そして、気まずそうに口元をわずかに歪めた。


「……悪かった」


 バンはそれ以上責めることなく、水袋と清潔な布を取り出した。


「じっとしていろ。傷を診る」


 今度は、少年も抵抗しなかった。


 左脇腹の傷は、外部から加えられた凄まじい力によって深く切り裂かれたものだった。傷口の周囲は赤く腫れ上がり、今なお血が絶え間なく滲み出ている。


 バンは清潔な水で乾いた血を慎重に洗い流し、布を傷口に当てると、できる限りしっかりと巻きつけて固定した。


 手当ての技術といっても、彼が知っているのは、自分自身の傷を何度も処置するうちに覚えた程度のものにすぎない。それでも、ひとまず出血を抑えることはできた。


「お前……こんな厄介な怪我人を、しょっちゅう助けているのか?」


 バンの手際よい動きを横目で眺めながら、少年が尋ねた。


「いや」


「なら、どうして止血なんかに慣れている?」


「お前より、もっとひどい怪我をしたことがあるからだ」


「誰かに手当てしてもらわなかったのか?」


 バンの手が、ほんの一瞬だけ宙で止まった。


「誰もいなかった」


 それだけだった。


 少年は黙り込んだ。


 狭い岩穴の中には、彼の苦しげな呼吸と、外から吹きつける風の唸りだけが響いていた。


 そのとき、不意に外から重々しい足音が聞こえてきた。


 一定の間隔を刻みながら、こちらへ近づいてくる。


 三人だ。


 一人は幅広の大刀を携え、もう一人はすでに弦に矢をつがえた弓を背負っていた。そして最後尾の男は、目立った武器こそ持っていなかったものの、その足取りには他の二人を凌ぐ安定感と威圧感があった。


 バンは少年に警告するような視線を送り、絶対に声を立てるなと身振りで伝えた。


 それから身体をそっと伸ばし、竹藪の隙間に顔を寄せて外の様子を窺った。


 三人の男は、先ほど二人が立ち去った開けた場所で足を止めた。


 大刀を持つ男の頬には、顔の中央から顎にかけて長い傷痕が走っていた。男は苛立たしげに大刀の切っ先を振るい、道を塞ぐ雑草を乱暴に払いのけた。


「ちくしょう! この先で血痕が途切れてやがる! あの小僧が遠くへ逃げられるはずがねえ! 隅から隅まで捜せ!」


 弓を携えた男は頷き、腰をかがめて腐葉土の一枚一枚に目を凝らした。


「引きずった跡がある。足か脇腹をやられているな。そう速くは動けまい」


 最後尾にいたのは、灰色の長衣をまとった中年の男だった。


 細長い目の奥には、冷酷な光が潜んでいる。


 彼は黙ったまま、周囲を見渡していた。


 前の二人のように地面へ目を落とすことはしない。代わりに、切り立った岩壁や、その周囲に広がる草木へと鋭い視線を走らせている。


 武林で鍛え上げられた達人としての勘が、この場所には何かがあると告げていたのだ。


 バンは息を殺した。


 全身の筋肉が、張り詰めた弓弦のように強張っていく。


 そのときだった。


 藍衣の少年の脇腹から滲み出た血が、巻きつけた布をゆっくりと通り抜け、傍らの乾いた地面へ落ちた。


 ぽたり……。


 ぴちょん……。


 ほんのかすかな音だった。木の葉が一枚落ちるほどの音にすぎない。


 だが、息を潜めた岩穴の静寂の中では、その音がまるで晴天に轟く雷鳴のように響き渡った。


 最後尾の男が、ぴたりと足を止めた。


 二人の仲間に手を上げて制止を命じると、彼はゆっくりと首を巡らせた。


 その鋭い眼光が、岩穴の入口を覆い隠す竹藪へと吸い寄せられる。


 隠れている二人の姿を、まるで薄い布越しに見透かそうとするかのように。


 バンは拳を固く握りしめた。冷たい汗が背筋を伝い、じっとりと衣を濡らしていく。


 藍衣の少年は歯を食いしばった。無理やり身体を起こし、剣を抜いて最後の抵抗を試みようとする。


 しかし、それより早く、バンが少年の肩を強く押さえつけた。


 そして、激しく首を横に振る。


 動くな。


 たった一つの物音で、すべてが終わる。


 まさに、その危機一髪の瞬間だった。


 向かい側にそびえる険しい岩壁の頂から、小さなリスが古木の枝を蹴って飛び出した。身軽に枝から枝へと跳び移る途中、前脚で乾いた木の実の塊を蹴り落とす。


 木の実は岩壁を跳ねながら、谷の向こうへと転がり落ちていった。


 コロコロ……カラカラ……。


 乾いた木の実が岩に当たる音が、静かな谷間に響き渡る。


 弓を持つ男が、はっとして振り返った。弦を引き絞るや否や、音のした方向へ鋭い矢を放つ。


「誰だ、そこにいるのは!」


 大刀を持つ男も怒鳴った。


「行って確かめろ! ちくしょう、なんだ、ただのクソリスじゃねえか!」


 灰色の衣の中年男は眉をひそめ、なお数秒間、竹藪を睨みつけていた。


 だが、仲間の急かす声に、とうとう注意をそらされた。


「行くぞ! 沢の方へ追え! あの小僧が逃げ切れるはずはない!」


 三人の影は、鬱蒼と茂る木々の向こうへ、瞬く間に消えていった。


 ようやく、バンは長く息を吐き出した。


 張り詰めていた身体から力が抜け、全身が崩れ落ちそうになる。まるで、たった今、生死を懸けた戦いを終えたばかりのようだった。


 やがて、頭上からリスがするすると降りてきた。


 小さな頭を岩穴の中へ突き出し、ぱちぱちと瞬きをしながらバンを見つめている。まるで、自分の手柄を褒めてほしいとでも言いたげだった。


 バンは感謝を込めて微笑み、その頭を指先で優しく撫でた。


 藍衣の少年は、その光景を隠そうともせず驚きの眼差しで見つめた。


「お前……この森の獣たちを意のままに操れるのか?」


「違う。こいつは俺の友達だ」


「たかがリス一匹が、そこまで賢く、人の意を汲むというのか……」


 少年は独り言のように呟いた。


 バンを見る目には、先ほどまでとは違う、いくらかの畏敬の念が宿っていた。


 彼は折れた剣を手元へ引き寄せ、それから声を潜めて尋ねた。


「あいつらは何者だ? お前に何の用がある?」


 バンは少しの間、黙っていた。


 やがて、欠けた剣の刀身へと目を落とし、冷ややかな声で答えた。


「俺は今、あるものを持っている……一つの門派の存亡を左右し、ひいては外の江湖全体の勢力図さえ変えかねない代物だ」


「書簡か?」


 バンの問いは、核心を突いていた。


 少年は一瞬、目を見開いた。


「なぜ分かった?」


「あいつらが『あの品を持ち逃げされたら』と言っていた。それに、お前の傷は、機密文書を持ち出したために追われている者の状況と、ぴたりと符合する」


 少年は、目の前にいる十歳の子供を、信じられないといった様子で見つめた。


 その鋭い洞察力に、心底驚いたのだろう。


「……そのとおりだ。俺が持っているのは一通の書簡だ。師父が亡くなる直前、俺に託したものだ。あいつらは、その中に記された恐るべき陰謀を隠蔽するために、書簡を奪おうとしている」


 バンは立ち上がり、ズボンについた土埃を軽く払った。


「理由が何であれ、ここに長居するのは危険だ。連中も、いずれ俺たちの逃げた方向に気づく。そのうち引き返してくるだろう」


「どこへ行くつもりだ?」


「もっと安全な場所だ。立てるか?」


 少年は歯を食いしばり、岩壁に手をついて、どうにか身体を起こした。


 顔色は依然として紙のように青白かった。


 それでも、その瞳の奥には、決して屈するまいとする不屈の炎が、静かに燃え上がっていた。

 太陽が西北の山並みの彼方へと沈みゆき、血を思わせる濃い朱色の夕映えが、広大な原生林を赤く染め上げていた。


 林兆彬(ラム・チエウ・バン)は藍衣の少年を支えながら、小さな渓流を渡り、やがて丘の中腹にぽつんと佇む廃寺を見つけた。


 瓦屋根は半分以上が崩れ落ち、神仏の像は一面に苔むしていた。境内には雑草が生い茂り、野放図に伸びた蔓草が朽ちかけた柱や壁に絡みついている。


 人の訪れることもほとんどない。身を潜めるには、うってつけの場所だった。


 バンは少年を石造りの祭壇にもたれかからせると、すぐさま乾いた薪と清水を探しに向かった。


 戻ってきたとき、少年は黙然と、膝の上に置いた折れた剣を見つめていた。


「……林兆彬。お前を、これ以上巻き込んでしまったな」


 少年の声は、ひどく掠れていた。


「もう手を引け。見ず知らずの人間のために、命を懸ける必要などない」


 バンは彼の前に水を入れた器を置き、向かい側に腰を下ろした。


「昼間にも言ったはずだ。お前を見捨てるつもりなら、あの岩場に戻ったりなんかしなかった」


「どうしてだ?」


 少年は顔を上げ、真っすぐにバンを見据えた。


「分別のない善意は、いつかお前自身の命を奪うぞ」


「分かっているさ」


 バンは何でもないことのように答えた。


「けれど、恐ろしいからという理由だけで、目の前で人が死ぬのを黙って見ていたら……明日、この森でまた一人きりになったとき、俺は一体どんな顔をして生きていけばいい?」


 そこで一度言葉を切り、彼は静かに続けた。


「俺だって死ぬのは怖い。でも、それ以上に、自分が血も涙もない人間になってしまうのが怖いんだ」


 少年は言葉を失った。


 目の前の子供は、まだわずか十歳にすぎない。世間を知り尽くしているわけでもなく、人の世の酸いも甘いも味わってきたわけでもない。


 それなのに、その言葉には不思議なほどの重みがあった。


 孤独の中で育まれ、痛みを知ることでしか辿り着けない、深い思索の重みだった。


 そのとき、不意に廃寺の入口から、風を切り裂く鋭い音が響いた。


 キィンッ!


 大柄な人影が梁の上から飛び降り、荒れ狂うような烈風をまとって、二人めがけて襲いかかってきた。


 頬に長い傷痕を持つ、あの大刀使いだった。


「はははっ! ようやく見つけたぞ、鼠どもの隠れ家をな!」


 凶悪な笑みを浮かべた男が、長大な刀を振り上げ、藍衣の少年の頭上へ必殺の一撃を叩き込んだ。


「避けろ!」


 少年は叫ぶと同時に、残された力を振り絞ってバンを突き飛ばした。バンの小さな身体が横へ転がる。その間に、少年は左手で地面を支え、右手に握った折れた剣を振り上げて、迫り来る大刀を受け止めた。


 ガァンッ!


 薄暗い廃寺の中に、激しい金属音が炸裂した。


 圧倒的な斬撃の威力に耐えきれず、少年は口から鮮血を吐き出した。両膝が石床に叩きつけられ、剣を握る両腕は震え、もはや身体を起こすことすらできない。


 大刀使いは口元を残忍に歪め、刀を高々と振り上げた。


「死ね、小僧!」


 今度こそ、とどめを刺すつもりだった。


 そのとき、廃寺の隅まで転がっていたバンの胸中で、生き延びようとする本能と、目の前の人間を守ろうとする衝動が、激しく燃え上がった。


 考えるよりも早く、バンは手近にあった太く重い木切れをつかみ、持てる力のすべてを込めて大刀使いの顔めがけて投げつけた。


 ブンッ!


 木切れは風を切り、男の肩にまともに命中した。


 ほんのわずかな衝撃だった。だが、それによって男の斬撃の軌道が、紙一重だけ逸れた。


 大刀使いの顔が怒りに歪む。


「このガキまで死に急ぎやがって!」


 男は少年から視線を外し、バンの方へと向き直った。


 そして、幼い子供に一撃を食らわせようと、大股で歩み寄ってくる。


 だが、その背中が少年に向いた瞬間だった。


 地面に膝をついていた藍衣の少年は、最後に残された内力を手首へと集中させた。


 次の瞬間、折れた剣が閃いた。


 狙いは、大刀を握る男の手首。その急所を通る筋だった。


 ザシュッ!


「ぐあああっ!」


 男が悲鳴を上げた。


 手首には深い傷が刻まれ、大刀が手から滑り落ちる。重い刀身が石床にぶつかり、甲高い音を立てて転がった。


 男が何が起きたのか理解するよりも早く、少年は身体をひねった。欠けた剣の冷たい切っ先が、ぴたりと男の喉元に突きつけられる。


 廃寺は、死んだような静寂に包まれた。


 大刀使いの額から、汗が滝のように流れ落ちた。膝は小刻みに震え、喉元に突きつけられた刃から目を離すことができない。


「お、お前……本当に俺を殺すつもりか?」


 少年は荒い息を繰り返していた。胸が激しく上下し、その顔色は死人のように青白い。


 それでも、剣先をあとわずかに押し進めれば、敵の命を奪うことができる。


 バンは廃寺の隅から立ち上がり、その光景をじっと見守っていた。


 今度こそ、少年がとどめを刺すものと思っていた。


 しかし――。


 藍衣の少年は、ゆっくりと手首の力を緩めた。


 そして剣を返すと、その柄で男の後頭部を強く打ち据えた。


 男は声を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。


「お前……どうして殺さなかったんだ?」


 バンは目を丸くした。


 少年は折れた剣を支えにして座り込み、肩で息をしながら目を閉じた。


「俺は、血も涙もない殺人鬼じゃない。あいつはもう戦えない。抵抗する術を失った相手を、一方的に殺すことはできない」


「だが、目を覚ませば、またお前を殺しに来るぞ!」


「そのときは、そのときだ」


 少年は目を開き、揺るぎない眼差しでバンを見つめた。


「恐怖に駆られて今ここであいつを殺すのなら、俺は俺を追っている連中と、何も変わらない」


 バンは黙り込んだ。


 その言葉は、まるで重い鉄槌のように、彼の心を真正面から打ち据えた。


 これまでのバンにとって、暴力とは、生き延びるために必要ならば振るうものだった。命を奪わなければ自分が殺される。そうした単純な理屈しか知らなかった。


 だが、目の前の少年は、敵を倒す力だけでなく、敵を殺さずに済ませるための意志についても語っていた。


 力を持つことと、その力を振るうことは、同じではない。


 そして、人の生死を決めるということは、ただ恐怖から逃れるために刃を振るうこととは違うのかもしれない。


 その夜。


 廃寺の中では、小さな焚き火がぱちぱちと音を立てていた。炎の揺らめきが、苔むした仏像や崩れかけた壁を赤く照らしている。外では山風が木々を揺らし、森の闇が深まっていった。


 その静寂の中で、藍衣の少年はバンに、武術の初歩を教え始めた。


 華やかな技を披露することもなければ、深遠な内功の理を語ることもない。


 少年はバンに一本の枯れ枝を持たせ、石床の上で腰を落とさせた。


 重心を低く保つこと。肩の余分な力を抜くこと。外からどれほど力を加えられても、足元を崩されないように、一歩一歩を確かなものにすること。


 教えるのは、それだけだった。


「他人を打ち倒す術を学ぶ前に、まずは己がしっかりと立つ術を覚えろ」


 少年の声は、夜の闇に溶け込むように、低く穏やかに響いた。


「どれほど強い相手を前にしても、容易く倒れぬこと。それが、武の始まりだ」


 バンは少年の動きを見つめ、一つひとつの動作を懸命に真似た。


 腰を落とし、足を開き、膝を曲げる。身体が傾くたびに姿勢を正し、何度崩されても、再び同じ構えを取り直した。


 額には汗が滲み、やがて頬を伝い落ちた。枯れ枝を握る掌には水ぶくれができ、痛みがじんじんと広がっていく。


 それでも、バンはやめなかった。


 胸の奥では、これまで感じたことのない熱い炎が、静かに、しかし確実に燃え上がっていた。


 天下無敵になりたいわけではない。


 誰よりも強くなりたいわけでもない。


 ただ、いつの日か、危険を目の前にしたとき。誰かが自分の目の前で倒れたとき。


 もう二度と、何もできずに立ち尽くす自分でいたくなかった。


 それだけだった。


 燃え尽きかけた焚き火のそばで、まだぎこちなく、幾度も揺らぐ小さな足取り。


 その一歩一歩が、林兆彬の心に、不屈の意志と力の種を植えつけていった。


 広大な原生林に育てられた少年は、まだ知らない。


 今、自分が踏み出したこの不器用な一歩が、やがていかなる道へと続いていくのかを。


 その先には、己の生まれ育った森とは比べものにならぬほど広大な世界が待っている。


 愛と憎しみ、義と欲望、戦乱と殺戮、そして人の世の幾重にも絡み合う因果が。


 そのすべてと向き合う日が来ることを、少年はまだ知らなかった。


 ただ、焚き火の揺らめきを見つめながら、バンは枯れ枝を握り直した。


 その瞳の奥には、小さくとも決して消えることのない光が宿っていた。

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