Episode 55
深い原生林の朝は、この世の自然が奏でる、最も澄みきった、飾り気のない音色から始まる。
天を衝くほど高くそびえ立つ樹々の梢では、鳥たちが互いを呼び交わしていた。その軽やかで甲高いさえずりは、枝葉の一本一本に絡みついたまま、いまだ立ち去ろうとしない濃い朝霧を切り裂くかのように、森の奥深くまで響き渡っていく。
朝日が葉と葉の隙間を縫って差し込み、湿り気を帯びた腐葉土の上に、淡い黄金色の光斑を散らしていた。その光は、まるで細かな金粉が舞い落ちたかのように、きらきらと輝いている。
草の先端に宿った夜露は、かすかな風に揺れるたび、今にもこぼれ落ちそうに震えていた。ときおり、小さな虫がその脇を這い抜けると、露の重みに耐えきれなくなった草がしなり、雫がぽたり、ぽたりと地面へ落ちる。
低い山の麓では、小川が丸みを帯びた石の間を縫うように流れ、さらさらと涼やかな音を立てていた。そこには、朽ちかけた黄色い落ち葉がいくつも浮かび、行き先も定まらぬまま、下流へとゆっくり流されていく。
時の流れさえ止まってしまったかと思えるほど、穏やかな風景。
その一角で、苔むした巨大な岩の傍らにしゃがみ込んだ一人の少年が、小さなリスを相手に、ひどく真剣な顔で、いや、ほとんど喧嘩腰と言っていいほどの勢いで言い争っていた。
「これは俺のだ」
「私のです!」
「俺が先に採ったんだぞ。お前、俺が木に登るところをずっと見てただろうが」
「でも、この木を先に見つけたのは私です! 先に見つけたんだから、木は私のものです! 木になっている実だって、当然、私のものです!」
「先に見つけたから何だってんだ! お前、自分の足で木に登って実を採れるのか? できもしねえくせに、横取りしようとしてんじゃねえ!」
リスは腹立たしさのあまり、全身の毛を逆立てていた。その姿は、まるで掃除用の箒そのものだ。
前足で真っ赤に熟れた木の実をしっかりと抱え込み、小さな耳をぴんと逆立てながら、ふさふさの尻尾をぶんぶんと振り回している。どうやら、怒りは頂点に達しているらしい。
「ラム・チエウ・バン! 君という人は、弱くて孤独な小動物をいじめることしかできないんですか!」
しゃがみ込んでいた少年――ラム・チエウ・バンは、思わず喉を鳴らして笑った。
そして、目の前で毛を逆立てる小さな生き物を眺めながら、ぽりぽりと頭を掻いた。
「分かった、分かったって。そんな被害者ぶった口調で騒ぐなよ。半分こにしてやるから、それでいいだろ?」
「嫌です!」
「じゃあ、いったいどうすりゃ気が済むんだよ?」
「君が私に二つくれればいいんです! 交渉の余地なんてありません!」
ラム・チエウ・バンは目を細め、目の前のリスを見つめた。
その眼差しには、くだらないおやつをねだる子供を相手にする大人のような、深い諦めと途方に暮れた気配が滲んでいた。
一方のリスも、一歩たりとも譲るつもりはないらしい。小さな瞳でバンを真っ向から睨み返し、頑として動こうとしなかった。
数秒間にわたる、息の詰まるような睨み合い。
やがてバンは、これ見よがしに大きなため息をついた。腰に提げた粗末な布袋へ手を突っ込み、もう一つ木の実を取り出すと、それをリスに放ってやった。
「まったく……前世から続く腐れ縁ってやつかよ。今世じゃ俺を苦しめるためだけに生まれてきたんじゃねえだろうな、お前」
リスはぱちぱちと目を瞬かせた。
そして、その絶好の機会を逃すまいと、素早く両前足を伸ばして二つ目の木の実を見事につかみ取った。二つの実を胸元にぎゅっと抱え込むや否や、弾丸のような勢いで跳び上がり、ひらりとバンの肩に飛び乗る。
「ありがとうございます! 君はこの世で最も心優しい人間です!」
バンは横目でじろりとリスを睨んだ。
「さっきまで俺を弱い者いじめのクズ呼ばわりしてたのは、どこのどいつだ? 手のひら返すのが早すぎんだろ」
「え? 私、そんなこと言いましたっけ? きっと君の聞き間違いですよ!」
「…………」
ラム・チエウ・バンは、もはや返す言葉もなかった。
ただ、呆れ果てたように首を横に振るしかない。
彼はこの原生林で長いあいだ独りきりで暮らしてきた。その年月の中で、自然界の過酷な掟にも、いつしか順応していた。
火打ち石を使って火を起こす技術から、清潔な水源を見つける方法、食べられる果実と毒を持つ果実を何百種類と見分ける知識、さらには獲物を狙う猛獣の群れを避ける術に至るまで――生き延びるために必要な技術の大半は、数え切れないほどの試行錯誤を繰り返すことで身につけてきたものだった。
もちろん、その道のりは決して平坦ではない。
何度も失敗し、そのたびに傷を負った。肌に刻まれた無数の傷痕こそが、彼の生存が決して偶然だけに支えられていたわけではないことを物語っている。
それでも幸いなことに、彼のサバイバル生活は決して退屈なものではなかった。
なぜなら、彼には極めて風変わりな相棒がいたからだ。
口が達者で、食い意地が張っていて、自慢話が大好き。そのうえ、いつだって自分こそがこの大森林で最も賢く、博識な生き物だと信じて疑わない、一匹の野生のリスである。
だが、何よりも奇妙だったのは、そして彼の人生を完全に理不尽な方向へと導いたのは、ほかでもない、リスの鳴き声を理解できるという異常な能力だった。
ちちち、ききき、といった小さな鳴き声の一つ一つが、彼の耳には人間の言葉として、はっきりと聞こえるのだ。
初めてその異様な能力に気づいた頃、ラム・チエウ・バンは恐怖に打ちのめされた。
両親を失った衝撃によって、自分は何らかの精神疾患――たとえば、統合失調症のようなものを患ってしまったのではないかと、本気で疑ったほどだった。
そして、この世界へ流れ着いた当初には、これもまた終わりのない長い夢を見ているだけなのだと、自分に言い聞かせてさえいた。
しかし、時間は容赦なく流れていく。
草むらに潜む毒蛇の存在を警告する雛鳥のさえずりを聞き取り、山の頂上に生える甘い果実の群生地について語り合う猿たちの鳴き声を理解し、さらには、道を塞ぐあまりにも巨大な石に文句を垂れる働きアリたちのぼやきまで聞こえるようになった頃――彼はついに、理屈では到底説明のつかない現実を受け入れるしかなくなった。
この世界は、かつてバンソンという名で生きていた世界ではない。
そして、今の自分の身体にも、かつての人生とのつながりは何一つ残されていないのだ。
バンはうつむき、自分の布袋を握る小さく痩せた両手を、黙って見つめた。
「ラム・チエウ・バン……」
その名が、乾いた唇からかすかにこぼれ落ちる。
たった四つの音節にすぎない。
けれど、その名を口にするたび、彼はいつも奇妙な感覚に襲われた。
まるでその名前の向こう側には、まだ自分の手が届かない、遥か遠く、果てしなく深い何かが広がっているかのようだった。
リスはかりかりと木の実をかじりながら、横目でバンを見やり、口いっぱいに頬張ったまま尋ねた。
「ねえ、またぼんやりして、くだらないことを考えてるんですか?」
「別に、何でもねえよ」
「嘘ですね」
バンは片眉を上げ、鼻で笑った。
「へえ。今日はずいぶんと鋭いじゃねえか。いつから人の心を見透かせるようになったんだ?」
「君が『腹ごしらえに野生の実を一つだけ採る』なんて言っておきながら、こっそり木のてっぺんまで登って、十個も採り尽くして袋いっぱいに詰め込んだときからですよ!」
「それは過酷な環境下における、生存資源の最適化ってやつだ」
「どう考えても、底なしの食い意地っていうんです!」
こうして二人は、またしても顔を突き合わせ、白昼堂々、ぎゃあぎゃあと罵り合いを始めた。
その騒々しい声は、深い森のあちこちへと反響し、頭上の枯れ枝で休んでいたスズメの群れまで驚かせてしまった。
小鳥たちは慌てふためいて一斉に羽ばたき、ばさばさと音を立てながら空へと飛び立っていく。後には、早朝の風を受けて小刻みに揺れる緑の葉だけが残された。
ラム・チエウ・バンは顔を上げ、鳥たちが枝葉の向こうへと消えていく姿を目で追った。
その口元には、かすかな笑みが浮かんだままだった。
だが、最後の羽音が途絶えた瞬間、不意に表情が翳った。
胸の奥に、言葉では表現しがたい寂しさが、静かに沈殿していく。
ほんの一瞬、気が緩んだだけだった。
それなのに、耳に残るあの羽音は、いつしか記憶の奥底から響き始めた、別の音へと姿を変えていた。
大地を震わせる、けたたましい馬蹄の響き。
鋭い金属音を立ててぶつかり合う、無数の武器。
煙と炎が視界を覆い尽くす中、悲痛な声で誰かを呼び続ける人々。
そして、胸が張り裂けるほど懐かしい声――。
涙に濡れた夢の中で、幾年ものあいだ、彼が待ち続けてきた声だった。
「阿瑾、いい子だから、ここに隠れていなさい。外で何が起ころうとも、絶対に出てきてはいけない。分かったね?」
母の声。
その言葉が脳裏に蘇った途端、バンの口元から笑みが消えた。
まるで、目には見えない無数の亀裂が、心の奥深くに走ったかのようだった。
ラム・チエウ・バンが六歳だった頃、この鬱蒼とした森を、自分の家だと思ったことなど一度もなかった。
あの頃の彼は、まだ幸せな子供だった。
父と母の温かな腕に守られ、何不自由なく愛情を注がれていた。
今となっては、両親の記憶さえも、ひどく曖昧になっている。
かつてあれほど親しんだ顔立ちも、今では意識の奥底に滲んだ、ぼんやりとした色の塊にすぎなかった。
大切にしていた一枚の絵が、激しい嵐の雨に打たれ、滲んでしまったかのように。元の姿を取り戻す術など、もうどこにもない。
それでも、どれほど長い年月が過ぎようと、どれほど記憶が摩耗しようと、決して消えることのないものがあった。
母の手は、いつも柔らかく、驚くほど温かかった。
父の声は、低く穏やかで、まるで揺るぎない山のような頼もしさを帯びていた。
そして、二人が身を屈め、幼い彼とまっすぐに目を合わせたとき、その瞳にはいつも、揺るぎない決意と、あふれんばかりの愛情が宿っていた。
やがて、運命の日が訪れた。
戦火と動乱が、血に染まった濁流のように、彼らの平穏な村を呑み込んでいったのだ。
父と母は、殺気をみなぎらせた兵士たちが剣や槍を手にひしめく大通りを避け、混乱の中から必死に息子を連れて逃げた。
生い茂る茨の藪をかき分け、朝霧の帳を抜け、二人はついに、深い谷間に根を下ろす巨大な古木の前へとたどり着いた。
その木の傍らには、地上に露出した巨大な根に守られるようにして、天然の岩穴が口を開けていた。
中はかなり深く、狭く暗い。
しかし、幼い子供が身を潜めるには十分な広さがあり、外から見つかりにくい場所でもあった。
母は膝をつき、破れた息子の衣服についた土や砂を、優しく払い落とした。
「バンちゃん、いい子だから、この中に入って、誰にも見つからないように隠れているのよ」
六歳の少年は、きょとんと目を瞬かせながら母を見つめた。
胸の奥では、得体の知れない不安が、少しずつ膨らみ始めていた。
「お母さん、どこへ行くの?」
「お父さんとお母さんには、今すぐに片づけなければならない用事があるのよ」
「僕も一緒に行く! 一人でここにいるのは嫌だ!」
岩穴の外で周囲を警戒していた父が、ぴたりと動きを止めた。
ゆっくりと振り返り、たった一人の息子を見つめる。
その瞳の奥に、一瞬だけ、耐えがたいほど深い痛みと悲しみが浮かんだ。
それは、当時の無邪気な少年には、到底理解することのできない感情だった。
父は息子のもとへ歩み寄ると、その前にしゃがみ込み、はっきりと首を横に振った。
「駄目だ、バン。お前はここに残らなければならない」
「どうして? どうして僕は、お父さんとお母さんについて行っちゃいけないの?」
「それは……お前が、まだ小さすぎるからだ」
少年は不満げに唇を尖らせ、ぼろぼろになった布靴へと視線を落とした。そして、小さな声で反論した。
「僕、もう大きいよ! 走るのだって速いんだ! お父さんとお母さんの邪魔なんかしないよ!」
誰も答えなかった。
山の頂から吹き下ろす冷たい風が、森の隙間を勢いよく吹き抜けた。
その風に乗って、遠くから戦火の焦げ臭い匂いが漂ってくる。
遥か彼方の地平線では、驚きと恐怖に駆られた鳥たちが、巣を捨てて四方八方へと飛び散っていた。
どこかで人々の悲鳴が上がる。
その声は、時に近く、時に遠くから響いてきたが、やがてすべてを呑み込む破壊の轟音に、あっけなく掻き消されていった。
母は、息子を強く抱きしめた。
その腕には、逃がすまいとするかのような力がこもっていた。あまりに強く抱きしめられ、バンは胸がわずかに圧迫されるのを感じたが、それでも母を押しのけようとはしなかった。ただ素直に両腕を母の首に回し、その肩口に顔を埋めて、小さな声で尋ねた。
「ねえ……お父さんとお母さんは、いつになったら僕を迎えに来てくれるの?」
母は答えなかった。
その全身が、かすかに震えていた。
長い沈黙のあと、母はゆっくりと顔を伏せ、冷えきった息子の額に、優しく、そして名残惜しそうに口づけた。
「明日……明日、太陽が昇ったら、必ず戻ってくるからね」
それが、彼の人生において、母の唇から与えられた最後の約束となった。
父は立ち上がると、素朴な鉄製の小さな短剣を岩穴のすぐ脇に置いた。
身を守るための使い方を教えることもなければ、難しい言葉で何かを言い聞かせる時間もなかった。
ただ、息子の頭に手を置き、乱暴なほど強く撫でてやった。そして、生と死の境界に立たされているとは思えないほど自然な笑顔を、懸命に作ってみせた。
「父さんの言葉を忘れるな、バン。外で何が起ころうと、どんな物音が聞こえようと、絶対にここから出てはいけない。分かったな?」
バンは、目に涙をいっぱいに溜めながら、力いっぱい頷いた。
「うん! 分かったよ!」
それから、両親は立ち上がり、背を向けると、濃い煙の立ち込める彼方へと歩き去っていった。
少年は湿った岩穴の奥に小さく身を縮め、両膝を抱え込んだ。
そして、二人が約束したとおり、太陽が昇るのを、健気に、いつまでも待ち続けた。
だが、太陽はやがて沈んでしまった。
恐怖に満ちた一日が過ぎていった。
そして、二日目が訪れた。
腹は空っぽになり、喉は干上がるほど渇き、暗闇の中で身体は絶えず震えていた。
バンは声が枯れ果てるまで、父を呼び、母を呼び、泣き叫んだ。
しかし、人気のない森から返ってくるのは、木々の葉を吹き抜ける風の、冷たく無情な唸り声だけだった。
三日目。
とうとう静寂と飢えに耐えきれなくなったバンは、意を決して隠れ場所から這い出した。
かつて通った小道を探し、両親のもとへ戻ろうとした。
だが、そこに残っているはずだった人々の足跡も、馬車の轍も、いつの間にか激しい雨に洗い流されていた。
目の前に広がっていたのは、泥濘と化した大地、無残に折れた木々、そして、血みどろの虐殺の痕跡を思わせる、黒ずんだ灰の残骸だけだった。
それから数日後、戦火から逃れてきた難民の一団が、偶然この付近を通りかかった。
彼らは互いに語り合った。
近隣の戦場では、村人も、侵略者に抗っていた抵抗勢力も、ことごとく殲滅されたのだという。
一人として、生き残った者はいなかった。
そして、命を落とした者たちの中には、バンの両親も含まれていた。
そのとき、ラム・チエウ・バンはまだ六歳だった。
「犠牲」や「死」という言葉が、どれほど重く、取り返しのつかない意味を持つのか、彼にはまるで理解できなかった。
ただ、両親は自分に約束してくれたのだと、そう信じていた。
必ず戻ってくる、と。
それなのに、二人は約束を破った。
二度と、戻ってはこなかった。
その瞬間から、彼は取り残された。
人の気配すらない深い森の中で、野生の本能だけを頼りに生き延びなければならなくなった。
泣き疲れて意識を失ったことも、一度や二度ではない。
遠くで何か物音がするたび、両親がとうとう迎えに来てくれたのだと信じ、夢中で洞穴から飛び出したことも何度もあった。
しかし、彼を待ち受けていたのは、驚いて逃げ去る一頭の野鹿だったり、枝から枝へ飛び移る猿だったり、ススキの茂みを吹き抜ける冷たい風だったりした。
それだけだった。
時間は、残酷なほど無情に流れていった。
かつて六歳だった少年は、自分の手で小川の魚を捕まえ、火を起こして食べ物を焼く方法を覚えた。
七歳になる頃には、どの果実が甘くて美味しいのか、どの果実に猛毒が含まれているのかを、はっきりと見分けられるようになっていた。
八歳になると、獰猛な獣たちの習性を理解し、それぞれの相手に応じて、いつ近づき、いつ距離を取るべきなのかを判断できるようになった。
九歳になる頃には、夜の闇が森のすべてを呑み込んでも、手探りで迷わず洞穴へ帰れるまでになっていた。
そして十歳となった今、彼はすっかり慣れてしまっていた。
冷えきった孤独な場所で一人目を覚ますことにも、自分の名前を優しく呼びかけてくれる人がいないことにも、朝食を用意して待ってくれる人がいないことにも。
それでも、両親の面影は今なお、彼の心に深く刻まれていた。
だが、冬の夜。
何万もの星が瞬く夜空を、大きな瞳で見上げるときでさえ、彼はもう、声を詰まらせて泣くことはなくなっていた。
ただ静かに、二人は今、どこへ行ってしまったのだろうと考える。
そして、自分自身に言い聞かせるのだった。
世界から取り残された子供が、自分を慰めるために思いつける、たった一つの無邪気な方法で。
――もしかしたら……お父さんとお母さんは、今、僕には手の届かない、とても遠い場所にいるのかもしれない。
――もしかしたら……いつか僕が、もっともっと大きくなったら、二人を見つけられるかもしれない。
「おい! バン!」
記憶の深淵が、不意に砕け散った。
リスの甲高い呼び声が、遠ざかりかけていた彼の意識を、現在へと引き戻したのだ。
リスは苔むした岩の上でつま先立ちになり、両前足を腰に当てていた。その顔には、いかにも不満ですと言わんばかりの表情が浮かんでいる。
「また魂が抜けたみたいに、ぼーっとしてるじゃないですか! 危うく袋の中の木の実を全部地面に落として、蟻たちに食べられちゃうところだったんですよ! ほら、見てください!」
ラム・チエウ・バンはぱちぱちと瞬きをし、深く息を吸い込んだ。
過去の痛ましい光景は、再び心の底へと沈んでいく。
その代わりに、目の前には、どこまでも広がる現在の森の緑が戻ってきた。
彼は腰の布袋に目を落とし、ずれた口紐を直した。
「ああ、聞こえてるよ」
リスは何かを見抜こうとするかのように、妙に鋭い目つきで彼をじっと見つめた。
「さっき……また、お父さんとお母さんのことを思い出していたんですか?」
衣服についた土埃を払っていたバンの手が、不意に止まった。
彼は弾かれたように顔を上げ、リスを凝視した。
「お前……なんで分かった?」
「君が、あの遠くの山並みを、あんな悲しそうな目で見つめているときは、いつも石になったみたいに黙り込んで、私に何も話しかけてくれなくなるんです」
リスは岩の上にちょこんと腰を下ろし、ふさふさの尻尾を身体に巻きつけた。
「昨日もそうでした。おとといだってそうでした。もう何度も見てきたんですから、そのくらい分かりますよ」
ラム・チエウ・バンはゆっくりと腰を下ろし、リスの隣に座った。
両膝を抱え、黙って胸元へと引き寄せる。
しばらくのあいだ、二人の間に沈黙が流れた。
耳に届くのは、小川のせせらぎと、深い森を吹き抜ける風の音だけだった。
やがて、バンはかすかな声で口を開いた。
「俺……もう、あいつらの顔をほとんど覚えてないんだ」
リスは黙って耳を傾けた。
口を挟むことも、冗談でごまかすこともなかった。
「ときどき、すごく怖くなるんだ。このまま何年も何年も、こんな森の片隅で一人きりで暮らしていたら……いつか、あいつらの声まで全部忘れちまうんじゃないかって」
バンはうつむき、湿った土の上に指先で意味のない線を描き始めた。
「もし、思い出まで何もかも消えてしまったら……俺は、それでもまだ、あいつらの息子だって言えるのかな?」
リスは顔を向け、彼を見つめた。
黒く澄んだ瞳には、孤独に取り残された少年の姿が、ありありと映し出されていた。
野生に生きる小さな生き物にとって、それはあまりにも難しい問いだった。
理解しようにも、理解できるだけの経験がなかった。
人間の両親を持ったこともない。
帰ってくると約束した相手を、どれほど待ち続けても、二度と便りさえ届かないという苦しみも知らない。
それでも、胸の奥にある温かな本能が、何かをしてやらなければと告げていた。
リスはそっと身体を寄せ、バンの二の腕に小さな頭をすり寄せた。
「だったら……忘れようとしなければいいじゃないですか」
バンは驚いたように顔を上げ、リスを見た。
リスは頭で彼の腕を優しく押しながら、珍しく真剣な声で続けた。
「自分が忘れてしまうのが怖いなら、話してください。お父さんとお母さんのこと、何でも、全部。私に聞かせてくれればいいんです」
そして、ほんの少しだけ胸を張った。
「私が代わりに覚えていてあげますから」
ラム・チエウ・バンは、完全に言葉を失った。
あまりにも予想外の言葉だった。
目の前の騒がしいリスから、そんな言葉が飛び出すなど、思ってもみなかったのだ。
だが、次の瞬間。
リスはつんと鼻先を上げ、情け容赦のない一言を付け加えた。
「ただし、先に言っておきますけど、木の実はちゃんと分けてくださいよ! ただで話を聞いてあげるほど、私はお人好しじゃありませんからね! 私、こう見えても損得勘定には厳しいんです!」
バンの顔に浮かびかけていた感動の色は、一瞬にして跡形もなく消え去った。
彼はリスをぎろりと睨みつけた。
そして、とうとう堪えきれず、大声で笑い出した。
「お前ってやつは、本当に現実主義の塊だな! 俺にまともなことを言ってくれた試しがねえじゃねえか!」
「失礼ですね! 私はいつだって、ものすごく親切で、真実に基づいたことを言っているでしょう!」
「どこがだよ! いったい何が親切なんだ!」
「君の話を聞いてあげるって言ったじゃないですか! 認めなさいよ。この世のどこを探したって、私ほど義理堅くて、思いやりのある親友なんて見つかりませんよ!」
「そのあとで、木の実を報酬として要求するんだろ? お前みたいにちゃっかりしたやつ、俺の故郷には掃いて捨てるほどいるぞ!」
「君が何と言おうと、これが生き残るための鉄則なんです!」
ラム・チエウ・バンは何度も何度も首を横に振った。
笑いすぎて、目尻には楽しげな皺まで刻まれていた。
自分の運命が、なぜ新たな肉体へと自分を放り込み、かつて古びた集合住宅の一室で炎に包まれ、凄惨な死を遂げた自分に、二度目の生を与えたのか。ラム・チエウ・バンには、まるで理解できなかった。
あの奇妙な神を名乗る存在――ジェンソン・ジェスダとの出会いに、いったいどのような深い意味が隠されているのかも分からない。
だが、少なくとも今この瞬間、彼には一つだけ、はっきりと分かっていることがあった。
自分は、決して独りではない。
広大で危険に満ちたこの深い原生林には、心の嵐に吹きさらされる自分の隣に、こうして腰を下ろし、付き合ってくれる生き物がいる。
その理由が、熟れた野生の果実をいくつか分けてもらうためだけだったとしても。
当時のラム・チエウ・バンにとって、それだけで十分だった。
もう一度、歩き出すためには。
彼は勢いよく立ち上がり、ズボンの裾についた泥を払い落とすと、澄みきった空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「よし、行こうぜ。今日は、親父が昔、俺に弓の撃ち方を教えてくれたときの話を聞かせてやるよ」
リスはたちまち喜色満面となり、ぴょんと跳び上がって彼の肩に飛び乗った。
「君のお父さんって、弓がすごく上手だったんですか? 空を飛んでいるスズメだって射落とせたんですか?」
「まあ、楽しみにしてろ。最初から最後まで、たっぷり聞かせてやるからさ」
バンは、リスに真実を告げる気にはなれなかった。
そもそも、自分の父親が本当に弓を扱えたのかどうかさえ、はっきりとは覚えていないのだ。
それは単なる記憶の断片なのかもしれないし、長い歳月によって歪められた、曖昧な残像にすぎないのかもしれなかった。
胸の奥深くに潜む恐怖についても、口にするつもりはなかった。
希望を抱けば抱くほど、それが砕け散ったときの傷は、より深く、より激しい痛みとなって自分を襲う。
そんな恐怖を。
バンはただ踵を返し、慣れ親しんだ小道をたどって、自分の住処である温かな洞穴へと歩き始めた。
朝食はまだ残っている。
毎日の生存に必要な仕事も、これまでどおり続けなければならない。
小川は流れ続け、木々は青々と葉を茂らせ、森の生き物たちは今日も命をつないでいる。
大切なものを数え切れないほど失った彼の人生もまた、静かに、しかし確かに、先へと進み続けていた。
だからこそ、バンは心に決めた。
どれほど過酷な運命が待ち受けていようと、自分は強く生き抜いてみせる、と。
◆ ◆ ◆
甘く熟した野生の果実をいくつか口にしただけの簡素な朝食を終えると、ラム・チエウ・バンは自分で編んだ籐籠を背負い、大きな川の方へとのんびり歩いていった。
今日の仕事は、さほど難しいものではない。何度も繰り返してきた、いつもどおりの日課だった。
川の水を籠いっぱいに汲んで洞穴へ持ち帰ること。
止血に使える薬草をいくつか採取し、いざというときのために蓄えておくこと。
そして何より重要なのは、昨日、丁寧に洗ってから目立たないように仕掛けておいた、縄で作った輪罠を確認することだった。
その罠は、棘だらけの茂みの近くに隠してある。
バンはその場所を慎重に選び、獲物が通りそうな位置を見極めたうえで、周囲の草木を使って巧みに偽装していた。
隣では、リスがちょこちょこと跳ね回り、蝶を追いかけながら、東の丘の頂上で起きた二つのヒヒの群れによる縄張り争いについて、延々とまくし立てていた。
リスの話によれば、ずる賢い一頭のボスザルが、隣の群れの縄張りへこっそり忍び込み、ヤムイモの貯蔵場所から食料をすっかり盗み出したらしい。
当然、盗まれた側の群れは激怒した。
その結果、両者は一歩も引かぬ大喧嘩を始め、身の毛もよだつような死闘が午前中いっぱい続いたという。
「それでですね、相手のボスがそいつの尻尾に噛みつこうとしたんです! ところが、そいつはものすごい身のこなしでひらりと避けて――」
「へえ、それはすごいな」
バンは時折、いかにも真剣に聞いているといった様子で頷き、口元にかすかな笑みを浮かべていた。
やがて、小川が急に狭まり、流れの速い水が細かな砂地を削りながら湾曲していく場所へ差しかかったとき、不意に彼の足が止まった。
水際の湿った地面に、異様なほど鮮明な足跡が残されていたのだ。
この森に棲む、どの猛獣のものとも違う。
人間の足跡だった。
バンは即座にしゃがみ込み、地面すれすれまで顔を近づけ、一つ一つの特徴を慎重に観察し始めた。
足跡はかなり大きい。
泥の中に深く刻まれていることから、残したのは成人だろう。
足跡の向きは、山の麓から原生林の奥へと続いていた。
そして、そのすぐ脇には、地面を長く引きずったような痕跡が伸びていた。
何か重い円筒状の物体を引きずった跡にも見える。あるいは、重傷を負った人間が自力で歩けず、身体を引きずりながら進んだ痕跡なのかもしれない。
近くの岩の上から首を伸ばしていたリスが、不思議そうに尋ねた。
「ねえ、バン。いったい何を見つけたんです?」
「人間だ……ついさっき、誰かがここを通ったらしい」
「に、人間ですって?」
リスはびくりと身体を震わせると、慌てて高い木の枝へと跳び上がった。小さな耳が、ぴんと天を向く。
「どんな人間ですか? 獣を捕まえに来た狩人? それとも、木を切り倒す悪い木こり? まさか……リスを捕まえて、籠に閉じ込めるような恐ろしい人間じゃないでしょうね?」
バンは横目でリスを睨んだ。
「この世のどこに、わざわざリスを捕まえるためだけに森をうろつく職業があるんだよ」
「ありますってば! 渡り鳥たちから聞いたんですから! 君たち人間は、リスの肉を串に刺して焼いて食べるのが大好きなんだそうですよ!」
「だったら、そんな高い枝の上で大声を張り上げるなよ。お前の声を聞きつけて、弓矢を持った連中が飛んでくるかもしれないぞ」
その言葉を聞いた瞬間、リスは両前足で慌てて口を塞いだ。
目をまん丸にしたまま、周囲をきょろきょろと見回している。
ラム・チエウ・バンは再び身を屈め、足跡の周囲をさらに注意深く調べ始めた。
水溜まりに隣接した柔らかな泥土は、あちこち踏み荒らされていた。
そして、彼の心臓を一瞬だけ跳ね上がらせたものがあった。
暗赤色の血痕。
ほんの数滴ではあったが、確かに新しい血が泥の中へと染み込んでいた。血の一部はすでに水際へ流れ出し、小川の水に呑まれ、今にも跡形もなく洗い流されようとしている。
本物の血だ。
バンは顔を上げ、地面を引きずった痕跡が続いている先へ目を向けた。
鬱蒼と茂る木々の奥。
先ほどまで何の気なしに周囲を眺めていた彼の眼差しが、たちまち険しく、鋭い警戒を帯びたものへと変わった。
間違いない。
誰かが、ひどい怪我を負っている。
それは、自分の仕掛けた罠に誤ってかかり、怪我をした愚かな狩人かもしれない。
戦火から逃れ、必死に生き延びようとしている難民かもしれない。
あるいは、もっと危険な存在――法の手から逃げ続けている凶悪な犯罪者である可能性もあった。
バンには、何一つ確かなことは分からなかった。
ただ、一つだけ確信していることがあった。
もし、この人里離れた危険な森の中で、誰かが血を流し、今にも命を落とそうとしているのなら。
適切な手当てを受けない限り、その人間は今夜の闇を越えられないかもしれない。
ふと、亡き父の面影が脳裏をよぎった。
生き延びるために父から教えられたこと。
そして、幼い日々を覆い尽くしていた、身の毛もよだつほど深い孤独。
その記憶が、彼の胸の奥で静かに疼いた。
彼には、そのまま背を向けて立ち去る権利があった。
何も見なかったことにして、自分自身の安全だけを守ることもできた。
誰にも、彼を責める権利などない。
十歳の子供が、たった一人で生き延びることさえままならないというのに、見ず知らずの他人の命まで背負わなければならない理由が、どこにあるというのだろう。
ましてや、その相手が誰なのかも分からないのだ。
バンが立ち上がり、籐籠を持ってその場を立ち去ろうとした、まさにその瞬間だった。
棘の茂みの向こうから、あまりにもか細い音が、風に乗って彼の耳へ届いた。
糸のように頼りなく、今にも途切れてしまいそうな声だった。
「たす……けて……」
バンは動きを止めた。
全身が、凍りついたように硬直する。
木の上にいたリスも、敏感な鼻をひくひくと動かしながら、声を潜めた。
「バン……あっちの棘の茂みから、人間の声が聞こえたような気がします……」
バンは勢いよく振り返った。
そして、少し離れた場所に広がる、葉が幾重にも重なった濃密な茂みへと全神経を集中させた。
冷たい風が吹き抜け、周囲一帯のススキが、ざわざわと音を立てて揺れた。
そのとき、再び声が聞こえた。
先ほどよりも弱々しく、途切れ途切れで、絶望に満ちた声だった。
「お願い……誰か……いませんか……」
ラム・チエウ・バンは、手にした籐籠の取っ手を強く握りしめた。
指の関節が白くなるほどだった。
茂みの向こうで倒れている人間が何者なのか、彼にはまったく分からない。
この出会いが、一つの命を救うきっかけになるのか。
それとも、自分自身を取り返しのつかない災厄へと引きずり込むのか。
何一つ予測できなかった。
それでも、胸の内で激しい葛藤が数秒間続いたあと、彼は決断を下した。
手にしていた籐籠を青々とした草むらへそっと置き、リスに向かって低い声で告げる。
「お前はこの木の上にいろ。絶対に地面へ降りてくるなよ」
リスは不安そうな顔をしながら、何度も何度も頷いた。
「バ、バン……本当に気をつけてくださいよ! 絶対に無茶をして、死ぬような真似だけはしないでくださいね!」
バンは答えなかった。
ただ、深く息を吸い込むと、慎重に一歩を踏み出した。
冷たい小川を渡り、流れに足を取られないよう気を配りながら、棘だらけの茂みへと静かに近づいていく。
その姿は、獲物に気づかれぬよう忍び寄る、小さな豹にも似ていた。
朝の陽光が幾重にも絡み合う葉の隙間を通り抜け、目の前の湿った草地に、まだらな光と影を落としている。
そして、朝露をたっぷりと含んだ、朽ちかけた落ち葉の山の中から。
一つの人間の手が、突如として姿を現した。
血にまみれたその手は、助けを求めるように虚空をさまよい、近くの木の根へ必死に指をかけていた。
その手は、ひどく冷たそうに見えた。
そして、ぴくりとも動かなくなった。
その瞬間、ラム・チエウ・バンは悟った。
人間社会から隔絶され、野生の生き物のように生きてきた長い年月は、ついに終わりを迎えようとしている。
運命はとうとう、その手を伸ばしたのだ。
そして彼を再び、人の世の荒波へと引き戻そうとしていた。




