Episode 54
死の中には、完全な終止符となるものがある。血と灰が燃え立つような赤い一点を打ち、書きかけの物語のすべてを閉ざしてしまう死だ。だが、この世には、もっと奇妙な死も存在する。それは永遠の滅びをもたらすのではなく、重々しい蝶番となって、別の世界へと通じる扉をわずかに押し開く。そこは、疑念と罪悪に満ちた現世でもがき苦しんでいた当の本人でさえ、想像したことすらなかった世界だった。
バンソンは、自分の意識がいくつの空間次元を漂流してきたのか、あるいは、いつの瞬間から時の流れが止まってしまったのか、まるでわからなかった。
夜の静寂を引き裂く救急車のサイレンは聞こえない。朽ち果てたコンクリートの上を、救助隊員たちが慌ただしく駆け回る足音もない。そして、嵐のように波瀾に満ちた短い人生を歩んできた彼の名を呼ぶ、かつての知人たちの声も、もうどこにも存在しなかった。
すべては終わったのだ。
橘カイトに下されるべき裁きは定まり、白沢ノアと藤沢レンが隠していた秘密も、遅すぎた正義の光の下ですべて暴かれた。真実を追い求める者として、バンソンは自らの使命を果たしたのである。たとえ、その代償が、自分自身の呼吸と心臓の鼓動、そのすべてであったとしても。
重く閉ざされていた瞼をゆっくりと開いたとき、バンソンの目に映ったのは、病院の真っ白な天井ではなかった。かといって、死神が支配する永遠の闇でもない。
彼は、これまで知っていたあらゆる物理法則を超越した、得体の知れない空間のただ中に、ひとり佇んでいた。
そこには、足元を支える確かな大地もなければ、頭上から彼を覆い守る深い青空もなかった。
銀白色の帯が、視界の果てまで果てしなく広がっている。その遥か彼方には、絹糸のように柔らかい淡い黄金色の光が溶け合い、幻の地平線を織り上げていた。
あと数歩、足を進めれば触れられそうな気がする。だが実際には、永遠に手の届かない彼方にある。
そんな、矛盾した感覚を抱かせる光景だった。
風のひと吹きさえない。
どれほど小さな物音も聞こえない。
あまりにも静まり返った空間は、やがて目に見えない圧力となって凝縮し、あらゆるものを包み込んでいた。まるで、生命という存在が一度たりとも足跡を残したことのない、原初の世界そのものが持つ静寂のようだった。
バンソンは俯き、ゆっくりと片手を持ち上げて眺めた。
身体の形は、以前と変わらず完全なまま保たれている。しかし、その身は羽のように軽かった。まるで霧や靄から織り上げられた幽霊のように、皮膚や肉、骨が持つはずの重みも、確かな実在感も、すっかり失われていた。
彼は左胸に手を当てた。
そこには、本来なら心臓がある。
鋭い分析力を備えた頭脳と、幾つもの傷を負った魂を抱えながら、かつては熱烈な鼓動を刻み続けていた場所だ。
――空っぽだった。
鼓動はない。
温もりもない。
バンソンは、果ての見えない空間にしばらく黙って立ち尽くしていた。
やがて、不意に笑い声を漏らした。
かすかな笑いだった。そこには、疲労と苦々しさが入り混じった、何とも言えない余韻が滲んでいた。
「そうか……本当に、終わったんだな」
彼の声は、虚ろな空間に響いたかと思う間もなく、銀色の霧の中に呑み込まれていった。
返ってくるものは何ひとつなかった。
殺人事件の膨大な資料に囲まれ、眠れぬ夜を幾度も過ごした頃、バンソンは考えたことがあった。
いつか死神が自分の扉を叩く日が来たなら、そのときくらいは、せめて束の間の静寂を手に入れられるのではないか、と。
人生に隠された数々の謎について。
命を落とした人々について。
永遠に答えの出ない問いについて。
そして、最後まで言葉にする勇気を持てなかった、幾つもの愛情について。
しかし、実際に生と死の境界線に立ってみると、彼の心には、もはや何かを深く考えようとする気力さえ残っていなかった。
今の彼を満たしているのは、ただ、すべてを使い果たしたような疲労感だけだった。
深く、静かに、身体の隅々へと染み渡っていく疲労。
それは、目に見えない肉体の繊維一本一本にまで浸透しているかのようだった。恐怖も、後悔も、本来ならば湧き上がってくるはずの感情でさえ、今の彼には、何かに縋りつくための力すら残っていなかった。
「くだらないな、本当に」
バンソンは何でもないことのように、着慣れたコートのポケットへ両手を突っ込んだ。
そして、どこまでも続く地平線を、さして興味もなさそうに見上げた。
「死んだっていうのに、神様の一人も、知り合いの一人も、社交辞令程度の出迎えに来てくれないのか?」
「では、いったい誰に出迎えてほしかったのだ、バンソン?」
背後から、低く穏やかな声が響いた。
あまりにも唐突で、それでいて妙に自然な声音が、息苦しいほどの静寂を破った。
バンソンは、少しも取り乱さなかった。
人間という存在が生み出す、最も暗く予測不能な出来事と幾度も対峙してきた者らしい反射的な落ち着きで、ゆっくりと振り返る。
そう遠くない場所に、一人の男が立っていた。
その佇まいには、どこか悠然とした気ままさが漂っている。
眩いばかりの後光に包まれているわけでもない。巨大で鮮やかな羽根の翼を背負っているわけでもなければ、人間の伝説に登場する神々が身につけているような、威厳に満ちた武器や鎧をまとっているわけでもなかった。
男は、ごく簡素な衣服を身にまとっていた。
ゆったりとした衣の裾は自然に垂れ、長い黒髪は無造作に肩へと流れている。その顔には、あまりにも平然とした表情が浮かんでいた。むしろ、どこか億劫そうでさえある。
天地万物を統べる至高の存在というよりは、真夏の昼下がりに昼寝を邪魔された男、といった印象だった。
だが、人の目を捉えて離さないものが、ただ一つあった。
その眼だ。
犯罪心理を分析する者として、鋭敏な観察力と豊富な経験を備えたバンソンでさえ、その眼の奥底を見通すことはできなかった。
そこにあるのは、冷徹な深遠さでも、他者を圧倒する権威でもない。
ただ、果てしのない空虚さだった。
その眼をまっすぐに見つめた瞬間、バンソンは不思議な感覚に襲われた。
これまで積み上げてきた知識も、解き明かしてきた数々の事件も、味わってきた痛みも、そして、つい先ほど幕を閉じたばかりの自分の人生さえも、途端にちっぽけで、取るに足らない、哀れなほど無意味なものに思えてきたのだ。
それは、夜空の広大な深淵を横切る、一粒のかすかな塵にも等しかった。
バンソンは、身体の防衛本能に従うように、半歩だけ後ずさった。
「……あなたは、誰だ?」
男は口元をわずかに持ち上げ、からかうような薄い笑みを浮かべた。
「ゲンソン・ジェスダ」
そう名乗ると、男は首を少し傾けた。
声の調子は、道に迷った旅人が、街角で偶然出会った相手に自分の名を告げるときと何ら変わらない。
「神々の王だ」
バンソンは数秒間、男の目を見つめた。
自らを至高の存在と称する男の仕草、表情、顔の輪郭に至るまで、ひとつひとつ冷静に観察し、評価する。
それから、平然と問い返した。
「それで、ここは地獄か?」
ゲンソン・ジェスダの口元に浮かんでいた笑みが、一瞬だけ止まった。
「違う」
「じゃあ、天国か?」
「それも違う」
「なら結局、あんたは俺をこんな辺鄙な場所に連れてきて、いったい何をするつもりなんだ?」
ゲンソン・ジェスダは、深い悲劇の果てに死を迎えたばかりの少年をじっと見つめていた。
次の瞬間、彼はふいに天を仰ぎ、大声で笑い出した。
その笑い声が、天地を揺るがすほど轟いたわけではない。
それでも、どこか奇妙な響きを帯びており、周囲の空間にさざ波のような揺らぎを生じさせた。
「まったく、お前という奴は実に奇妙で、面白いな、バンソン。神々の王を目の前にして、最初に口にする言葉が命乞いではない。次に口を開いても、自分の運命がどのような裁きを受けるのか、少しも気にしていないときた」
バンソンは気だるげに肩をすくめ、冷淡に言い放った。
「俺はもう死んだんだ。今さら命乞いをしたところで、惨めな思いをする以外に何が得られる?」
「なるほど。一理ある」
ゲンソン・ジェスダは両手を背中に回し、足元に一寸の地面も存在しない空間を、悠々と歩き始めた。
「だが、何もそんなふうに不安や不満を抱え込む必要はない。実のところ、お前が今立っているこの場所は……生と死の狭間にある、ほんの短い夢にすぎないのだから」
バンソンはわずかに眉をひそめた。
その鋭い眼差しには、疑念の光が宿っていた。
「夢だと?」
「そうだ。境界の夢だ。かつての人生が終わりを迎えた瞬間と、まったく新しい旅路が始まる地点。その二つの間に横たわる、完全な空白に存在する夢だよ」
ゲンソン・ジェスダは足を止め、振り返った。
その眼差しには、先ほどまでの気ままさとは異なる、底知れぬ深みがあった。
「お前の本当の旅路は、すでにその先で待っている。そうだろう、バンソン」
「旅路」という二文字が口にされた途端、二人の間には、粘りつくような沈黙が降りた。
「……どういう意味だ?」
「新しい姿で目覚めれば、嫌でもわかる」
「待て、俺はまだ――」
ゲンソン・ジェスダが、ひらりと手を振った。
それは、目の前を飛び回る厄介な虫を、何気なく追い払うような、あまりにも軽い仕草だった。
だが、その指先が空気をかすめた瞬間、バンソンの身体は、末端から少しずつ崩壊を始めた。
十本の指先が、真っ白な灰の粒へと変わっていく。
続いて、手のひら、前腕、そして広い肩へと、その変化が広がっていった。
身体のあちこちが砕けるように崩れ、軽やかな光の粒となって、果てしない地平線の彼方へとゆっくり流されていく。
バンソンは俯き、自分の身体が刻一刻と消えていく様子を、黙って見つめていた。
肉を裂き、皮膚を剥ぎ取るような痛みはない。
熱い血が滴り落ちることもない。
人々が想像する、二度目の死に対する恐怖の鼓動すら、彼は感じていなかった。
彼の胸に残っていたのは、ただ、極度の困惑だけだった。
「……あんた、これは夢だと言ったよな?」
ゲンソン・ジェスダは微笑んだ。
それは、目下の者が繰り広げる面白い遊戯を眺めている、優越者の笑みだった。
「そうだ。夢だとも」
「だったら、どうして俺はこんなふうに灰になっている?」
ゲンソン・ジェスダは小さく笑った。
その口調は、あまりにも平然としていて、だからこそ残酷だった。
「狭すぎる扉というものは、何食わぬ顔で歩いて通り抜けられるものではないのだよ。向こう側の世界に足を踏み入れる資格を得るためには、現世で身にまとってきた古い殻を、すべて脱ぎ捨てなければならないこともある」
バンソンの身体は、なおも崩壊を続けていた。
肉体の欠片が、次々と正体のわからない虚空へと巻き上げられていく。
彼は懸命に視線を保ち、目の前にいる至高の神を見据えようとした。
しかし、彼自身の瞳さえも、次第に輪郭を失い始めていた。
その両眼は薄れていき、きらめく光の粒へと変わり、やがて虚無の奥底へと沈んでいった。
「それなら……俺は、いったい誰になるんだ?」
ゲンソン・ジェスダは、すぐには答えなかった。
彼は、自分の周囲を舞う、きらきらと輝く灰の粒を細めた目で眺め、それから、色彩を失った頭上の空へと視線を移した。
「別の誰かになろうとする必要などない」
神の声は、ふいに遠ざかっていった。
幾重もの次元を隔てた彼方から響いてくるような、遥か遠い声音だった。
「ただ生きればいい……お前が、これまで一度として味わう機会を得られなかった人生を、今度こそ最後まで生き抜くのだ」
次の瞬間、バンソンの姿は完全に消滅した。
そこにはもう、何も残されていなかった。
ただ、白い塵の群れだけが、息が詰まるほど静かな空間の中を、ゆらゆらと漂っていた。
ゲンソン・ジェスダは両手のひらを軽く打ち合わせ、付着したものを払った。
まるで、今日一日のうちに片づけるべき、取るに足らない仕事をひとつ終えただけのような仕草だった。
「さて。これで開幕の茶番劇は終わりだ」
彼は誰に語りかけるでもなく、そう呟いた。
そして、口元にかすかな笑みを浮かべる。
「次は、お前の番だぞ――ラム・チエウ・バン」
眩いばかりの白光が、突如として爆発した。
銀色の地平線が、粉々に砕け散る。
そして、永遠の夢は幕を閉じた。
「チュン! チュンチュン!」
耳元で甲高く、せわしない鳴き声が響いた。深い深い意識の底へ沈み込んでいた魂を、無理やり現実へと引き戻すような声だった。
バンソン――いや、今この瞬間からはラム・チエウ・バンと呼ぶべきだろう――は、まるで誰かに頭を金槌で殴りつけられたかのような、ずしりと重い感覚に襲われていた。
苦痛に顔をしかめ、反射的に手を伸ばして額を揉もうとする。だが、両腕は千斤もの重りを括りつけられたかのように重く、持ち上げることすらままならなかった。
「チュン!」
再び声が響いた。今度は、明らかな苛立ちが滲んでいた。
「いつまで寝てるんだ、この怠け者! さっさと起きろ! 太陽がもうすぐ木々のてっぺんを越えて、洞窟の入り口を照らしちまうぞ!」
ラム・チエウ・バンは、苦労しながらゆっくりと瞼を開いた。
目の前に広がっていたのは、診療所の真っ白な天井でも、警察署の薄暗い黄色の照明でもなかった。ましてや、古びた建物の冷たい石壁でもない。
そこにあったのは、青々とした苔にびっしりと覆われた、粗削りな岩肌の洞窟だった。
岩壁の裂け目からは、古びた蔓草が幾筋も垂れ下がっている。その先端から時折、透き通った朝露が一滴、また一滴と滴り落ち、湿った地面を小さく叩いていた。
狭い洞窟の入り口からは、朝一番の陽光が細い筋となって差し込み、地面に黄金色の光の斑を描き出している。
夜露を含んだ土の濃厚な匂い。腐りかけた落ち葉の青臭さ。そして、森の木々が放つ素朴な香り。
それらが一度に胸いっぱいへと流れ込み、眠っていた身体の細胞ひとつひとつを目覚めさせていく。
ラム・チエウ・バンは乾いた草を積み重ねた寝床の上で、しばらく身じろぎもせず、呆然と見知らぬ光景を見つめていた。
やがて、両手を地面につき、ふらつく身体を支えながら、どうにか上半身を起こした。
その瞬間だった。
どこからともなく、毛むくじゃらの小さな生き物が勢いよく飛び出してきた。身軽な動きでぴょんと跳び上がり、すぐ隣にある平たい岩の上へと着地する。
リスだった。
栗の殻を思わせる鮮やかな赤褐色の毛並み。真っ白な腹部。いたずらっぽく輝く黒い瞳。そして、体の一・五倍はありそうな大きなふさふさの尻尾が、苛立たしげに左右へ揺れている。
小さな前足には、大ぶりの木の実がしっかりと抱え込まれていた。
リスは焦れったそうにバンを睨みつけていた。その表情ときたら、まるで大事な用事があるというのに、いつまでも寝坊している主人を叱りつける執事そのものだった。
「ようやく起きたか、この昼寝ばっかりしてる奴!」
ラム・チエウ・バンは、完全に言葉を失った。
ただ、目の前のリスを凝視する。
リスのほうも、じっと彼を見返していた。その小さな口が、文句でも言いたげにもぐもぐと動いている。
洞窟の一角を、奇妙なほど静かな沈黙が包み込んだ。
かつて名探偵とも呼ぶべき洞察力を備えていた彼の頭脳が、目の前で起きている事態を処理するまでに、数回の呼吸を要した。
やがて、ラム・チエウ・バンは震える指をゆっくりと持ち上げ、目の前の小さな生き物を指さした。
「……今、お前、人間の言葉を喋ったのか?」
リスは首を傾げた。
まるで、どうしてそんな当たり前のことを尋ねるのか理解できない、とでも言いたげな仕草だった。
「そうだけど? ほかに誰がいるっていうんだよ。この洞窟の隅っこに、お前と俺以外の誰がいるっていうんだ? なんでそんな妙なことを聞くんだよ」
ラム・チエウ・バンはびくりと肩を震わせ、慌てて指を引っ込めた。
次の瞬間、彼の目が洞窟の中を素早く駆け巡った。
薄暗い岩の隅々を見渡し、凹凸の激しい岩肌の天井を見上げ、そして突然、視線を自分自身の身体へと落とした。
身にまとっているのは、粗末な麻布で仕立てられた、簡素な衣服だった。あちこちが擦り切れ、破れ、泥と埃にまみれている。
目の前に持ち上げた両手は、小さく、痩せ細っていた。
かつて数々の危険をくぐり抜けてきた成人の身体には、もはや何ひとつ似ても似つかない。
細く頼りない腕。泥に汚れた両膝。そして、手の甲には、すでに乾いた瘡蓋に覆われた小さな擦り傷がいくつも残されていた。
手足から力が抜けていくのを感じながら、バンは両手を顔へと伸ばし、恐る恐る自分の頬を撫でた。
そこにあった顔立ちは、まったく見覚えのないものだった。
疲労の色が刻み込まれたバンソンの顔ではない。
そこにあるのは、まだあどけなさの残る、十歳ほどの子供の顔だった。
本能に突き動かされるように、彼はよろめきながら立ち上がった。そして、洞窟の入り口近く、岩壁のそばに溜まっている小さな水たまりへと足早に向かった。
歩みにつれて、澄み切った水面がかすかに揺れる。
その天然の鏡に映し出されたのは、髪をぼさぼさに乱した少年の姿だった。
大きな瞳には、長い悪夢から目覚めたばかりの者が抱くような、言いようのない困惑が浮かんでいる。
バンはゆっくりと手を伸ばし、自分の頬に触れた。
水面に映る少年もまた、寸分違わぬ動きで同じ仕草をした。
ラム・チエウ・バンは、その場に凍りついた。
言葉ひとつ、発することができなかった。
そのときだった。
見知らぬ記憶の断片が、濁流のように彼の意識へと押し寄せてきた。
脳そのものを内側から破裂させようとするかのような、凄まじい勢いだった。
鬱蒼と生い茂る、深い森。
葉葺きの屋根を激しく打ちつける、容赦ない土砂降りの雨。
腐りかけた落ち葉に覆い尽くされ、行く先も定かではない細い獣道。
そして――。
人里離れた危険な森の中を、たった一人でさまよい歩く子供の姿。
身寄りはなく、頼れる者もいない。
どこへ行けばいいのかもわからず、どこに安住の地があるのかさえ知らない。
その先にどのような未来が待っているのかなど、知る由もなかった。
続いて、ばらばらだった別の記憶の欠片が、次々と脳裏に浮かび上がった。
湿った岩肌に囲まれた、この洞窟の片隅。
そう遠くない場所から聞こえてくる、せせらぎの音。
日差しの強い昼下がり、手探りで野生の果実を摘み取る日々。
獣道を塞ぐように横たわった、巨大な古木の倒木。
そして……洞窟の入り口で、こちらを待っている小さなリス。
これらの記憶は、もともとこの身体の潜在意識に深く刻み込まれていたものだった。
しかし、バンソンの意識が完全に融合した今この瞬間になって初めて、それらは本当の意味で目を覚まし、彼自身の血肉の一部となったのである。
ラム・チエウ・バンは頭を抱え、その場に片膝をついた。
膝が水たまりへと沈み込み、冷たい水がかすかな波紋を広げた。
「これは……いったい誰の記憶なんだ……?」
そのとき、リスが洞窟の中から軽やかに駆け出してきた。
ぴょんと隣の石に飛び乗ると、ふさふさの尻尾でバンのズボンをぴしりと叩き、不満げにぶつぶつと文句を言い始めた。
「今度はどんな記憶喪失ごっこだよ? まさか、また俺の朝飯をすっかり忘れたふりでもするつもりじゃないだろうな?」
バンは勢いよく顔を上げ、リスを見つめた。
リスはちょこんと背筋を伸ばして座り直し、大きな木の実を両前足でしっかりと抱え込んだ。
そして、たしなめるように声を低くした。
「いいか、よく聞け。お前の名前はラム・チエウ・バンだ。いつまでもそこで、何もわからない馬鹿みたいな顔をしてるんじゃない!」
その名が告げられた瞬間、ラム・チエウ・バンの脳裏に、深い峡谷の底で鐘が鳴り響いたかのような音が、鮮明に轟いた。
ラム・チエウ・バン。
バンソンの前世とはまるで縁もゆかりもない、聞き覚えのない名前。だが同時に、その響きには奇妙なほどの懐かしさが宿っていた。まるで、悠久の時を超えて、はるか昔から運命に刻み込まれていた名前であるかのように。
バンは、ぎゅっと目を閉じた。
閉ざされた瞼の裏側、暗闇に沈んだ意識の中で、彼は二つの人生が溶け合い、幾重にも重なっていくのをはっきりと感じていた。
一つは、炎の海に呑まれて命を落とした刑事の人生。鋭く冷徹な思考と、数々の凶悪犯罪に取り憑かれたような執念を宿す人生。
もう一つは、太古の森の奥深くで孤独に生き延びてきた、野生児の人生。原始的な本能と純真さを持ち、人間社会とは無縁の歳月を過ごしてきた子供の人生。
あまりにも膨大な情報を、すぐさま理解し、受け入れることなどできるはずもなかった。
それでも、一つだけ確信できることがあった。
この小さなリスは、決して嘘をついていない。
バンは俯き、泥にまみれた小さな両手を見つめた。胸の奥から、言葉では言い表せない感情が込み上げてくる。
「ラム・チエウ・バン……」
彼はもう一度、その名を呟いた。
まるで、自分がこの世界に存在しているという事実を、確かめるかのように。
そして、不意に口元を歪め、苦笑を浮かべた。
「そうか……これからは、俺がラム・チエウ・バンってわけか?」
それを聞いたリスは、得意げに尻尾をぶんぶんと振り回した。
「何を今さら言ってるんだよ! お前は生まれたときからずっとラム・チエウ・バンだろ! ただ今朝は、いつも以上に寝坊しやがったせいで、俺はあやうく餓死するところだったんだぞ!」
バンは顔を横に向け、半ば冗談めかした表情でリスを見た。
「なあ……お前、本当に人間の言葉が理解できるのか?」
リスは頬をぷくっと膨らませ、目を見開いた。いかにも腹を立てているという態度だった。
「今さら何を聞いてるんだよ! じゃあ、今まで毎日、お前に甘い果実が実ってる場所を教えてやったのは誰だと思ってるんだ? 冷たくてうまい湧き水の場所まで案内してやったのは? それに、夜中に大きなヘビが洞窟の隅へ這い込んできたとき、いつもキーキー鳴いて危険を知らせてやったのは誰だよ!」
ラム・チエウ・バンは、ぽかんと口を開けた。
彼は必死に記憶を探り、この奇妙な現象を科学的かつ論理的に説明できる根拠を見つけ出そうとした。
――だが、何も見つからなかった。
最後には考えることそのものを諦めたのか、天を仰いで大きくため息をついた。
「くそっ……この世界、どうかしてるだろ……」
リスは岩の上で、ダンッ、ダンッと怒りをぶつけるように足を踏み鳴らした。
「おかしいのはお前のほうだろ! 何年も毎日のように俺と喋ってきたくせに、今さら初めて会ったみたいな顔をするなよ!」
バンは黙ったまま、目の前で毛を逆立て、拗ねている小さな生き物を見つめた。
ほんの数秒後。
ふっと、胸の奥から小さな笑い声が漏れた。
この身体に目覚めてから、初めての笑いだった。
それは決して、弾けるような明るい笑いではなかった。心の底から喜びに満たされた笑いでもない。
それでも、薄暗く湿った荒涼たる洞窟の中で、そのかすかな笑い声は、凍りついていた世界に再び生命を吹き込み、前世から彼にまとわりついていた死の冷たさを、ほんの少しだけ追い払ってくれた。
なぜ自分が、この場所へ迷い込んだのか。
あの怠惰な神、ゲンソン・ジェスダが、いったい何を企んでいるのか。
そして、人間の子供が、なぜ深い森に暮らす動物たちと流暢に会話できるのか。
何一つ理解できなかった。
それでも、少なくとも今この瞬間、彼は呼吸をしている。
彼は、確かに存在している。
そして目の前には、朝食を待たされすぎて毛を逆立てている、一匹のリスがいる。
「わかった、わかった。俺の負けだよ」
バンは肩にくっついた枯れ葉を払い落とし、微笑みながらリスの頭をそっと撫でた。
「今日は何を食べたいんだ、ちび大将?」
優勢に立ったとばかりに、リスはすぐさま前足を高々と掲げ、いかにも偉そうな口調で命令を下した。
「熟した果実だ! 切り立った崖のすぐそばに、傾いた古木があるだろ? あの木に実ってる、赤くてみずみずしい果実がいい!」
そこで一度言葉を切り、リスは念を押すようにバンを睨んだ。
「ただし、先に言っておくぞ! 今日も昨日みたいにノロノロ登ってたら、お前の取り分は減らすからな! 昨日だって、お前は一番甘いやつを全部取っちまって、俺には酸っぱくてたまらないやつばっかり残したんだからな!」
「はいはい、わかったよ。今日は絶対に、一番甘いやつをお前に譲る。それで満足か?」
「今の言葉、男に二言はないからな!」
「ああ、約束する」
ラム・チエウ・バンは立ち上がり、ズボンの裾についた泥をきれいに払い落とすと、洞窟の外へと歩み出た。
そこには、夜の眠りから目覚めようとしている、巨大な世界が広がっていた。
鮮やかな黄金色の陽光が、幾重にも折り重なった青々しい木々の葉の隙間から、ゆっくりと地上へ差し込んでくる。
葉の上に宿る無数の夜露は、朝日に照らされ、色とりどりの宝石のようにきらきらと輝いていた。
天を突くほど巨大な古木の枝々からは、鳥たちのさえずりが盛んに響き渡っている。
苔むした岩々の間を、小さな渓流が曲がりくねりながら流れていた。さらさらと澄んだ音を奏でる水は、手つかずの山林が持つ、清冽な香りを運んでくる。
さらに遠くには、幾重にも連なる山々が、白い絹を薄く引き伸ばしたような淡い霧の向こうへと、果てしなく続いていた。
その雄大で汚れのない光景を前にして、ラム・チエウ・バンは思わず立ち尽くした。
一瞬、呼吸さえ止まったかのようだった。
バンソンの記憶にある人間の世界は、冷たい鉄筋コンクリートの建造物が立ち並び、車で溢れ返った道路が息苦しい渋滞を引き起こす世界だった。
煙草の臭いが染みついた密室の取調室。山のように積み重なった事件資料。そして、自らの利益のためなら、いつでも他人を裏切ろうとする猜疑心に満ちた眼差し。
それが、彼の知る世界だった。
だが、ここは違う。
ここはあまりにも広大で、原始的で、そして寛容だった。
その圧倒的な広がりを前にすると、自分という存在が、深い青色の大海原を漂う一粒の砂ほどにちっぽけなものに思えてくる。
ここには、鳴り止まない携帯電話の着信音もない。
脳裏にこびりついて離れない、殺人事件の資料の山もない。
手錠を手にした誰かが立ちはだかり、彼を問い詰めたり、裁いたりすることもない。
ただ、深い森と、草木と、朝の光があるだけだった。
小さなリスが身軽に跳び上がり、バンの肩へしっかりとしがみついた。
そして、ふさふさの尻尾を彼の襟元にこすりつけ、漠然とした思索の世界から引き戻すように声を上げた。
「おい、バン! いつまでぼーっと突っ立ってるつもりだよ? 早く行こうぜ! もう腹ぺこで倒れそうなんだ!」
バンは顔を横に向け、珍しく柔らかな笑みを浮かべた。
「なあ。この森って、いったいどこまで広がってるんだ?」
「そりゃ、とんでもなく広いに決まってるだろ!」
「具体的には、どのくらいだ?」
「うーん……そうだな。朝から日が暮れるまで、死に物狂いで走り続けたって、森の果てには絶対にたどり着けないくらいだな!」
「じゃあ、この森の外には何がある?」
リスは黒々とした瞳をぱちぱちと瞬かせ、不思議そうに首を傾げた。
「森の外? そこだって、やっぱり森だよ。ただ、太陽が昇る方角へ遠くまで進んでいけば、人間が暮らしている場所がだんだん増えてくるらしい。遠くまで飛んでいく渡り鳥たちが、そう話してたぞ」
ラム・チエウ・バンは顔を上げ、眼前にそびえ立つ、幾重にも重なった樹木の層を見つめた。
その脳裏に、一つの疑問が浮かび上がる。
もし、ここが本当に新しい世界なのだとしたら。
前世とは何の関わりもない、まったく未知の世界なのだとしたら。
自分が身につけてきた知識や、探偵として培った経験、そして幾多の犯罪と向き合う中で鍛え上げられた冷徹さには、果たしてどれほどの価値が残されているのだろうか。
バンソンとしての記憶は、あとどれほどの間、自分の心に根を張り続けるのだろう。
かつて生きていた世界へ戻る道を見つけられるのか。それとも、この人跡未踏の危険な森の中で、残りの人生を永遠に埋もれさせることになるのか。
そして、仮に……仮に、もう二度と戻れないのだとしたら。
自分は、これからどうやって生き延びていけばいい?
ラム・チエウ・バンには、答えが見つからなかった。
だが、次の瞬間。
あまりにもありふれた、現実的な音が、彼を思考の淵から引き戻した。
――ぐうぅぅ。
腹の虫が、盛大に鳴いたのである。
リスはバンの腹を見下ろした。
それから突然、自分の腹を抱えるようにして、仰け反りながら大笑いした。
「ハハハハッ! お前、本当に大した奴だな! 口を開けば宇宙だの世界の果てだのって、壮大な話ばっかりしてるくせに、腹の虫には一瞬で裏切られるのかよ!」
バンは気まずそうに腹を押さえた。
つい先ほどまで浮かべていた真剣な表情は、跡形もなく崩れ去っていた。
「だから、笑うなって言ってるだろ!」
「嫌だね! 俺は笑うぞ! 目を覚ましたばかりで、まだ何一つ成し遂げてないっていうのに、もう腹に負けてるじゃないか!」
「わかった、わかった! 俺の負けだ! さっさと果実を採りに行こう! このままじゃ、腹が減りすぎて倒れちまう!」
バンは腰を屈め、リスが肩へ飛び乗りやすいように身体を低くした。
リスがぴょんと跳び上がって肩に飛び乗るのを確認すると、彼は渓流のほとりに生えている巨大な古木へ向かって、勢いよく走り出した。
ほどなくして、彼らの眼前に、天高くそびえる巨大な樹木が姿を現した。
太い幹から伸びる枝々は、広大な空間を覆い尽くすように四方へ広がり、青々とした葉を豊かに茂らせている。
その密集した枝のあちこちでは、熟れた赤い果実や、黄金色に輝く実が風に揺れていた。
中には、今にも弾けそうなほど熟し、張りのある艶やかな皮に覆われた果実もある。見ているだけで、思わず唾を飲み込みたくなるほどだった。
バンは首を反らし、最も低い位置にある枝までの距離を、目を細めて慎重に見積もった。
だが、その一番低い枝でさえ、地面から三、四メートルは優にあった。
リスは小さな爪でバンの耳をとんとんと叩き、命じた。
「何ぼさっと眺めてるんだよ! さっさと登れ! 左側の枝を狙え。あっちのほうが登りやすいからな!」
「四本足のお前にとっては簡単かもしれないが、俺は人間なんだぞ!」
「だから何だよ? 人間だからって、木に登れない決まりでもあるのか? 手足だってこんなに長いくせに、何を情けないこと言ってるんだよ!」
バンは苦笑した。
もはや言い返す気にもなれなかった。
彼はごつごつとした幹のすぐそばまで歩み寄り、両腕で樹皮をしっかりと抱え込んだ。
突き出した木の節に足を掛け、全身の力を使って登り始める。
――一度目。
まだ幼い身体は力が弱く、重心の取り方にも慣れていなかった。
わずか五十センチほど登ったところで手が滑り、そのまま勢いよく地面へと滑り落ちた。
尻が草むらに、べちゃっ、と音を立てて叩きつけられる。
「ハハハハッ! なんて無様な格好だよ!」
低い枝の上で、リスは腹を抱えて転げ回るほど笑っていた。
バンはめげなかった。
歯を食いしばり、再び木に取りつく。
――二度目。
今度は先ほどよりもしっかりと幹をつかんだ。
しかし、滑らかな樹皮に手を取られ、またしても危うく派手に転落するところだった。
そして――三度目。
前の二度の失敗から学んだバンは、両脚で幹をしっかりと挟み込み、腕の筋肉に力を集中させた。
片腕で幹を強く抱え込みながら、もう一方の手を伸ばす。
指先が、樹皮の裂け目にできた、しっかりとつかめる出っ張りを捉えた。
「よし……今度こそ!」
力を込めて身体を引き上げる。
荒い呼吸を繰り返しながら、ようやく腰を下ろして休めるだけの太い枝にしがみつくことができた。
そのとき、頭上からリスが軽やかに跳び下り、バンの肩へと舞い戻ってきた。
そして、呆れたように舌打ちした。
「ほらな! 別に大したことじゃなかっただろ? なのに、まるで天にでも昇るみたいな大騒ぎをしやがって!」
バンは片目を細め、横目でリスを睨みつけた。
「だったら、お前も一度、人間の身体になって登ってみろよ! 俺がさっきからどれだけ恥ずかしい思いをしてるか、少しはわかるだろ!」
「なんで俺がそんな苦労をしなきゃいけないんだよ? 俺には鋭い爪があるし、生まれつき木の上を走り回るための身体を持ってるんだからな!」
「だったら、黙って果実を採れ! いつまでも偉そうに自慢してるんじゃない!」
こうして、一人と一匹――師弟のようでもあり、喧嘩友達のようでもある奇妙な二人は、ああだこうだと言い争いながら、ようやく朝食の収穫に取りかかったのだった。
バンは、ひときわ大きく熟した果実の房を選んでは、腰に巻きつけた粗末な布袋へと丁寧に詰め込んでいった。一方のリスは、頭上の細い枝々をくまなく探り、果汁がたっぷり詰まった実を熱心に選り分けていた。時折、バンに横取りされるのを恐れて、こっそりと一つ腹の下へ隠し込むことさえあった。
腰の袋がずっしりと重くなった頃、バンは何気なく顔を上げ、渓流を挟んだ向こう側の断崖へ向かって長く伸びている、別の枝に目を留めた。
その枝の最先端では、鮮やかな赤い果実が幾房も、朝風に揺れながら彼を誘うように輝いていた。
バンはごくりと唾を飲み込んだ。
「おい……あそこを見てみろ。まだ枝の先にいくつか残ってるぞ」
その声を聞いた途端、リスの動きがぴたりと止まった。黒々とした瞳が、たちまち警戒に満ちた鋭い光を帯びる。
「絶対に駄目だ! あの枝は遠すぎるうえに細いんだぞ! 届くわけがないだろ!」
「もう少し手を伸ばせば届きそうだけどな」
「バン! いいか、よく聞けよ! あんな果実のために命を懸ける価値なんかないんだ! お前が崖の下に落ちて死んじまったら、いったい誰が毎日俺のために果実を採ってくれるんだよ!」
だが、その頃には、バンの胸中で冒険心と頑固な性分がすっかり頭をもたげていた。
彼はリスの制止を無視し、すぐそばの枝をしっかりとつかむと、慎重に一歩ずつ、枝先へと身体を移していった。
山風が木々の葉の間を轟々と吹き抜け、枝を軋ませながら激しく揺さぶる。
眼下には、底知れぬ深い断崖が口を開けていた。そのはるか下方を流れる小川は、苔むした岩の間を縫うように走る、細い白絹の帯にしか見えなかった。
バンは身を乗り出し、腕を精いっぱい伸ばした。
指先が、赤く熟した果実の房に触れた――その瞬間だった。
ミシッ!
足元の枝から、乾いた破断音が響いた。
「バンッ! 危ない!!」
リスが悲鳴に近い声で叫んだ。大きな尻尾の毛が、逆立つほどに膨らんでいる。
次の瞬間、枝が無情にも折れた。
踏みしめていた足場を失い、ラム・チエウ・バンの身体は、底の見えない虚空へと真っ逆さまに落ちていった。
死神と向き合うその一瞬、彼の頭の中は完全に真っ白になった。
生存本能が猛烈な勢いで目を覚ます。バンは反射的に果実の入った袋を胸元に抱え込み、両脚を空中でばたつかせることしかできなかった。
そして、まさに絶体絶命の瞬間。
小さな手が空をさまよい、頭上から垂れ下がっていた、ざらざらとした古い蔓を辛うじてつかみ取った。
――ガシッ!
落下していた身体が、空中で唐突に止まった。
その衝撃で身体が大きく揺れ、緑の葉が生い茂る木々の間で、振り子のように激しく前後へと振られる。
バンは恐る恐る頭を下げ、はるか下方に広がる深い断崖を見つめた。
口の中に広がる生臭く甘い味を飲み下し、激しく上下する胸を押さえながら、荒い息を吐く。
「……もう少しで、二度目の閻魔様とのご対面になるところだった……」
だが、彼の体重を支えている古い蔓から、かすかな亀裂音が聞こえ始めていた。
「いつまでブツブツ言ってるんだ、この馬鹿! そいつ、もうすぐ切れるぞ!」
頭上の枝から、リスが必死に叫んだ。
バンに、ためらっている余裕はなかった。
彼は全身の力を振り絞り、隣の幹を両脚で思いきり蹴って反動をつけた。そして左手を蔓から放すと、崖際に生えている、少し低い位置の枝へと手を伸ばした。
何度か指が滑るという危険な瞬間が訪れ、爪が裂けて血が滲んだ。
それでも、ようやく主幹の太い部分をつかむことに成功する。
次の瞬間、バンの身体は幹を伝って長く滑り落ち、最後には地面へと尻餅をついた。
両足が地面に触れた途端、彼は柔らかな草地へ仰向けに倒れ込んだ。
荒い呼吸を繰り返すその姿は、まるで十もの火山を駆け抜けてきたかのようだった。
すると、リスが高所から勢いよく飛び降りてきた。
バンの胸の上に飛び乗るなり、小さな足で何度も踏みつけながら、容赦なく罵声を浴びせる。
「この大馬鹿者! この石頭! 危ないって何度も言っただろうが! お前、もう一回死にたいのかよ!」
バンはその小さな身体を両腕で抱き寄せた。
そして、思わず大きな声で笑った。
「でもさ……ほら、果実はちゃんと採れたぞ」
彼は苦労の末に手に入れた、赤く熟した果実の房を高く掲げ、リスの目の前に差し出した。
リスは果実をじっと見つめ、それから泥だらけになったバンの顔へと視線を移した。
最後には、彼の手から果実をひったくるように奪い取り、憤然と言い放った。
「この果実は、俺が受けた精神的苦痛への慰謝料だからな! お前、もう少しで俺まで恐怖のあまり死ぬところだったんだぞ! わかってるのか!」
「じゃあ、袋の中に入ってる果実はどうするんだ?」
「そっちは全部お前のものだ!」
「なんだ、意外と公平じゃないか」
「うるさい! さっさと洞窟へ帰るぞ!」
深い森の奥に、子供の澄んだ笑い声が朗らかに響き渡った。
ラム・チエウ・バンはよろよろと上半身を起こし、ぼさぼさになった髪に絡みついた枯れ葉を払い落とした。
そして、眼前に広がる緑豊かな景色を、ゆっくりと見渡した。
自分の未来に何が待ち受けているのか、彼はまだ知らない。
この新しい人生が、自分に何を与え、何を奪っていくのかもわからなかった。
待ち受けているのは幸福なのか、悲哀なのか。それとも、運命が仕掛ける残酷な分岐点の数々なのか。
何一つ、予測することはできなかった。
だが、少なくとも今この瞬間だけは。
人間の世界がもたらす嵐や激変が、すべてを呑み込むように押し寄せてくる、その前のひとときだけは――。
彼は、ただの十歳の子供だった。
森で採れた果実をいっぱいに詰めた布袋を抱え、誰よりも口うるさく、尖った口先で文句を言う小さなリスを友とし、果てしなく広がる大森林の空を屋根代わりにして生きる、孤独な子供だった。
バンは勢いよく立ち上がり、腰の袋を背負い直すと、リスに向かって手招きした。
「さあ、帰ろう。朝飯の戦利品を味わいに行くぞ」
リスは木の実を高々と掲げ、歓声を上げた。
「出発だーっ!」
二つの小さな影が、鬱蒼と茂る森の木々の間を勢いよく駆け抜けていった。
黄金色の陽光が降り注ぐ木漏れ日の下、その姿は現れては消え、消えてはまた現れる。
道を塞ぐ倒木に出くわすと、バンは身をしなやかに躍らせて飛び越えた。
渓流を渡るときには、苔で滑らかになった岩を足場にして、軽やかに対岸へと跳び移る。
垂れ下がった蔓を見つければ、それにつかまって身体を宙へと躍らせ、泥濘の上を小さな野猿のように飛び越えていった。
「ははっ! 見たか、今の!」
バンは太い蔓にぶら下がったまま手を放し、両脚を縮めて勢いをつけると、空中へ高々と跳び上がった。
そして、前方の草地へと見事に着地した。
リスは彼の襟元に必死にしがみつき、悲鳴を上げた。
「うわああっ! この大馬鹿野郎! 危うく地面に叩きつけられるところだったじゃないか!」
「心配するなよ。俺は身軽だからな。落っこちたりしないさ!」
「さっき木から落ちかけて、死にそうになったばかりだろうが! いい気になるんじゃない!」
「こんなの、ウサギが跳ねるほどの些細なことさ!」
「どこが些細なことなんだよ!」
二人の言い争いと笑い声は、緑深い森の奥へといつまでも響き続けた。
それは、鳥たちの賑やかなさえずりや、渓流のせせらぎ、朝風に揺れる木の葉のざわめきと混ざり合い、大森林の豊かな生命の音色となって広がっていった。
頭上高くでは、太陽がゆっくりと天頂へ昇り始め、温かな陽光を地上へと降り注いでいた。
新しい一日が、再び始まったのだ。
そして、この原始の森の中で、ラム・チエウ・バンはまだ知る由もなかった。
これから彼を待ち受けているのが、都市で起きた殺人事件などとは比較にならないほど壮大で、過酷な旅路であることを。
その旅路は、彼を古びた森の抱擁から引き離し、人間たちの世界へと押し出していくだろう。
そこには、容赦のない戦争があり、運命を変える出会いがあり、一つの時代そのものの行く末を左右しかねない、苦渋に満ちた選択が待ち受けている。
だが、それはまだ先の話だ。
今の彼にとって、何よりも優先すべきことは――。
腹の虫が盛大に鳴き続けている、この空っぽの胃袋を満たすことだけだった。
*
その頃。
俗世の世界から遠く離れ、幾重にも重なる雲霧を越え、果てしなく広がる銀河をも隔てた彼方。
時間の流れさえ、自らの使命を忘れてしまったかのような場所に、一つの聖域がひっそりと眠っていた。
神界。
宝玉や珠玉の輝きによって築かれた、荘厳かつ豪奢な宮殿が雲海のただ中にそびえ立っている。
天を貫くほど高い塔の足元では、眩い光の河が静かに流れ続けていた。
巨大なアーチ状の門には、古代の神聖文字が精緻に刻み込まれている。その周囲では、夜という概念さえ存在しないにもかかわらず、永遠の星々が変わることなく鮮やかな輝きを放っていた。
しかし、普段ならば神々しい威厳と絢爛たる壮麗さに満ちているはずの神界は、今日に限って、奇妙なほど深い静寂に包まれていた。
天地万物を統べる神々は、どうやらそろって深い眠りに落ちてしまったらしい。
全長数万里にも及ぶ太古の神龍が、宮殿の中央にある大殿の屋根をぐるりと取り囲むように丸くなり、ゆっくりと煙を吐きながら、豪快ないびきをかいていた。
その音は、周囲に浮かぶ白雲の群れまでもが震えるほどだった。
宮殿の正殿には、誰一人として控えていない。
神々の評議会が開かれることもない。
そして、一人の人間の魂が、運命のわずかな隙間をすり抜け、下界へと送り出されたことを知る神も、一柱として存在しなかった。
玉殿の最も奥深くに設けられた、壮麗な寝室。
そこで、神々の王を自称する男――ゲンソン・ジェスダが、柔らかな羽毛をたっぷりと敷き詰めた大きな寝台に身を埋めていた。
両腕は、愛する妻をしっかりと抱き締めている。
パルザリスは、深い眠りの中でわずかに身じろぎした。
その気配を感じ取ったゲンソンは、反射的に彼女をいっそう強く抱き寄せた。
そして、彼女の首筋の窪みに顔を埋め、甘く優しい香りを心ゆくまで嗅いだ。
生と死の境界においてバンソンと対峙した、あの威厳に満ちた冷徹なる至高の存在の面影は、もはや微塵も残っていなかった。
ゲンソンは、この上なく気持ちよさそうに眠っていた。
世界が今、どのように動いているのかなど、気に留める様子すらない。
半ば夢の中にいるときなど、意味不明な言葉をぽつりぽつりと呟いては、母親に甘える幼子のように、再び妻の胸元へと顔を埋めていた。
パルザリスは目を閉じたまま、長年の習慣によるものか、そっと手を伸ばして夫の髪を撫でた。
そして、甘く優しい声で囁いた。
「さあ、ゆっくりお休みなさい……そんなに急がなくても大丈夫ですよ。お乳はたくさんありますから、なくなったりしません。慌てずに、ゆっくり味わってくださいね……」
その言葉を耳にした途端、ゲンソンはぴたりと動きを止め、従順な子供のようにおとなしくなった。
妻の胸元へ顔を寄せる動きも緩やかになり、その様子からは、この上なく満ち足りた幸福感が漂っていた。
それから数秒も経たないうちに、寝室には再び、規則正しいいびきが響き始めた。
その寝台の枕元に置かれた、翡翠の卓。
その上に鎮座する、一つの光り輝く水晶球が、突然、柔らかな光を放った。
水晶の表面には、深い緑に覆われた大森林の中で、蔓にぶら下がりながら身軽に飛び回る少年の姿が、ありありと映し出されていた。
それは、ラム・チエウ・バンだった。
水晶球はもう一度明滅し、持ち主に下界で起きた異変を知らせようとするかのように、小さな鐘の音を響かせた。
だが、ゲンソン・ジェスダは、まばたき一つしようとしなかった。
それどころか、彼は絹の掛け布団をさらに引き上げ、妻の肩まですっぽりと覆った。
そして、彼女を抱き締める腕にいっそう力を込めると、何事もなかったかのように、再び深い眠りへと沈んでいった。
水晶球は数回、強い光を放った。
やがて、それも静かに輝きを失い、暗闇の中へと沈んでいった。
神界は、相変わらず眠り続けていた。
一方、下界では。
果てしなく広がる大空の下、一人の十歳の子供が、自らの家と定めた原始の森の中で、何の憂いもなく笑い声を響かせていた。
これから訪れる年月の中で、ラム・チエウ・バンという名が、歴史上最も巨大な嵐の中心となり、人界、魔界、そして神界の三界すべてを揺るがす存在になるなど、誰一人として想像もしていなかった。
今日という日には、たった一匹のリスと森の果実を奪い合っているだけの子供が、明日には、大人でさえ正面から向き合うことを恐れるような、過酷な責務と残酷な選択を背負うことになる。
そんな未来を知る者も、どこにもいなかった。
そして、何よりも誰も知らなかったのだ。
神々の王が、意図的にせよ、無意識にせよ、一人の人間の魂を、その険しく苦難に満ちた運命の道へと送り込んでしまったことを。
その理由が、ただひたすらに愛する妻の腕の中で、安らかな眠りに耽ることに夢中だったからだなどと。
こうして、ラム・チエウ・バンの旅路は、確かに始まった。
そして、その壮大な転換点を生み出した張本人はというと――。
今もなお、心地よい羽毛枕に顔を埋め、幸せそうにいびきをかいているのだった。




