Episode 50
捜査室の壁時計が、午前八時三十分を正確に告げた。新しい一日の白く濁った光が、くすんだ灰色のカーテン越しに差し込み、乱雑に積み上げられた書類の山と、幾夜もの不眠の痕跡を刻み込まれたオーク材の机を照らしていた。
旧校舎に設置されたワークステーションARC-02とプリンターARCH-PRN-02のハードウェアデータを抽出・検証し終えたのち、高村刑事は学校の事務部門に対し、この重要区域の物理鍵に関する管理記録を、隅から隅まで徹底的に探し出すよう命じていた。
世代交代を重ねた電子管理システムからは、何年も前の鍵の受け渡し記録がほぼすべて失われていた。しかし、捜査班の粘り強い捜索が、ついに成果をもたらす。施設管理担当者が、蜘蛛の巣に覆われた保守管理用キャビネットの奥深くから、古びたハードカバーの手帳を発見したのだ。
それは、手書きで記録された一冊の台帳だった。黄ばんだページには、年月日、鍵番号、受取人の氏名、貸出時刻、返却時刻が、一行ずつ丁寧に記されていた。青いインクは年月を経て濃く変色していたが、文字は今なお判読できた。すべての項目が漏れなく記入されているわけではなかったものの、昨年、白沢ノアが亡くなった日の記録だけは、一画たりとも欠けることなく残されていた。
高村はその手帳を机の上に置いた。隣には、電子プリンターのログが並べられている。
刑事は、手書きの記録のうち、ひとつの行を指で示した。
「18時46分――保管区域の鍵――桜井美咲」
そのすぐ下には、返却時刻が記されていた。
「19時23分――返却済み」
行末に残された乱雑な署名は、学校に保管されていたスクールカウンセリング関連の書類や、その他の人事記録にある桜井美咲の署名と、形状のうえで完全に一致していた。
もちろん、捜査本部は、この記録だけをもって、実際に誰が鍵を手にしていたのかを絶対的に証明する独立した証拠とみなすことはできなかった。しかし、学校側は正式に、この手帳が当時、実際に使用されていた鍵の受け渡し台帳であると確認していた。
バンソンが机に歩み寄った。細めた切れ長の目が、すぐさま各時刻を寸分の狂いもなく照合し始める。
18時46分――桜井美咲が保管区域の鍵を受け取る。
19時12分――アクセスコードSR-01が、サーバー上に保存されたノアの記録履歴にアクセスする。
19時16分――ワークステーションARC-02から、その記録履歴に関連する資料二ページの印刷指示が送信される。
19時17分頃――プリンターシステムが印刷処理を完了する。
19時23分――管理台帳に、鍵の返却が記録される。
20時03分――白沢ノアが死亡しているのを発見される。
これらの時刻は、すべて同じ一日に属していた。
白沢ノアが亡くなった、その日だ。
高村は顔を上げ、バンソンに視線を向けた。声は低く、重かった。
「これで、桜井美咲が印刷指示とシステムへのアクセスが行われた時間帯に、実際に現場へ出入りできる状態にあり、保管区域の鍵を所持していたことを裏付ける客観的な記録が得られた。だが、まだ分からないことがある。彼女がその区域内にどれほどの時間とどまっていたのか。二十七号室に足を踏み入れたのか。そして、ARC-02に接触した事実があるのかどうかだ」
バンソンはゆっくりとうなずいた。ペンを手に取り、慎重に手帳へ書き込む。
『桜井は、システムへのアクセスおよび印刷指示が行われた時間帯に、保管区域へ物理的に立ち入ることのできる立場にあった。現場で具体的に何をしたのかは、依然として未確認。』
それは、特定の人物と特定の物理的空間を結びつける、確かな接点だった。
だが、その接点は、決してその人物とコンピューター画面上の技術的操作とを結びつける橋ではない。
高村はすぐに、桜井美咲を再び取調室へ呼び戻し、正式な事情聴取を行うことにした。
今回は、藤沢レンのことや、直近で起きた出来事について遠回しに尋ねるところから始めたりはしなかった。
高村は紙の鍵管理台帳を机の上に置くと、白沢ノアが亡くなった日のページを開き、彼女の目の前へと押し出した。
桜井は身をかがめ、古びたページに目を落とした。
沈黙が流れた。
その長さと重苦しさは、これまでのどの事情聴取にも増していた。室内の空気までもが、凝り固まっていくようだった。
やがて高村が口を開き、沈黙の壁を打ち破った。
「白沢ノアが亡くなった、まさにその日の夜、あなたは保管区域の鍵を受け取った。そうですね?」
桜井はわずかに顔を上げた。一瞬、瞳が揺らいだが、すぐにいつもの冷ややかな警戒の色に覆われた。
「……はい」
「これまで何度も、ノアの記録についてあなたが何を知っているのか尋ねてきました。その際、なぜその事実を隠したのですか。あの日の夜、あなた自身があの区域に立ち入っていたことを、なぜ一言も明かさなかったのですか?」
桜井は深く息を吸い込んだ。両手に、わずかに力がこもる。
「それは……あなたたちが、レンが保管室へ来ることを知っていたのか、二十七番のカードをレンに渡したのか、それともSR-01の背後に誰がいるのか、そんなことばかり繰り返し尋ねてきたからです。私は、レンについて、自分が知っていることはすべて答えました。でも、ノアが亡くなったあの日に自分が保管区域へ行っていたことが、今のレンの死と何か関係しているなんて、まったく思いもしませんでした」
高村は、その弁解めいた説明を受け入れなかった。机を軽く叩き、厳しい声で言い放つ。
「あなた自身、我々がノアの記録、SR-01のアクセス権限、そしてレンの死の関係を深く追及していることは、十分承知していたはずです。そのうえで、事件の地理的な焦点ともいうべき場所に、しかも重要な時間帯に居合わせていた。そんな情報は、初めから必ず申告しておくべき、捜査の根幹に関わるものだったんです」
桜井はうつむいたまま、肩をかすかに震わせた。
「……はい。私が間違っていました。もっと早く、話しておくべきでした」
部屋の隅に立つバンソンは、彼女の些細な仕草ひとつさえ見逃さず、注意深く観察していた。桜井の指は、膝の上に置かれた革製のハンドバッグの縁を強く握りしめていた。その力は、指の関節が白く変色するほどだった。
高村は追及の手を緩めなかった。
「なぜ、その時刻に保管区域の鍵を受け取ったのですか?」
桜井は顔を上げた。その眼差しには、教師としての人生で最も重大な過ちと向き合う者の苦悩が、ありありと浮かんでいた。
「ノアが亡くなる数日前のことです。本人から、成績記録を再確認してほしいと頼まれました。ノアはカウンセリング室に来て、泣きじゃくりながら訴えたんです。電子システムに表示されている点数が、原本の記録に記載された点数とまったく一致していない、と」
そこで言葉を切り、桜井は喉の奥から絞り出すように続けた。
「私には、生徒の成績を独断で変更する権限などありません。でも……それでも、自分の目で確かめたかったんです。学校の上層部や関係部署に正式に報告する前に、保管されている紙の記録そのものに、本当に食い違いがあるのかどうかを」
「単なる入力ミスであれば、学校側で静かに修正できる。大ごとにせずに済む。そう考えたわけですね?」
高村が眉をひそめた。
「……はい」
桜井は取り繕うことなく認めた。
「ただの技術的なミスなら、内々に訂正することでノアの名誉を守れると思ったんです。学校中の噂になって、あの子が余計な重圧にさらされるのも避けられると……そう考えていました」
「この件を、教務部や学校の管理職に報告しましたか?」
「いいえ」
桜井は短く答えた。
「まずは自分で事実を確認してから、正式な対応を決めるつもりでした」
「独断で事実を隠したりせず、正式な手続きに従って記録し、対処すべき重大な事務上の問題だった。そのことは理解していますか?」
桜井は長いあいだ沈黙した。
やがて、かすれた声で答えた。
「……はい。今なら、自分の対応が完全に間違っていたことが分かります」
バンソンは、その言葉の奥に潜む本当の意味を読み取っていた。
桜井は、単に法的なトラブルに巻き込まれることを恐れているだけではない。彼女は、自分がどれほど重大な問題に手を触れてしまったのか、初めから理解していたのだ。
それにもかかわらず、きわめて慎重な扱いを要する成績に関する異議申し立てを、正式な手続きから意図的に遠ざけ、誰にも知られない曖昧な方法で処理しようとした。
その職務上の不適切な対応は、情報を隠蔽した責任を問われ、懲戒処分の対象となる可能性があった。
しかし、それだけで彼女が成績記録の改ざんに手を貸し、証拠を破壊し、あるいは白沢ノアの死に関与したと断定することはできない。
そこには、まだ決定的な裏付けが欠けていた。
高村が、この件に関連して彼女が受け取った資料をすべて任意提出するよう求めると、桜井は立ち上がり、ハンドバッグを開いた。
彼女は、内側の仕切りに分けて厳重に保管していた、一冊の個人用スクールカウンセリング記録ファイルを取り出した。
その中から、白沢ノアの氏名が記された成績再確認申請書を抜き取る。
高村はそれを受け取り、慎重な筆跡で記された各項目に目を通した。
保管されていた紙の記録に記載された点数:62点。
電子システムに表示された点数:42点。
申請内容:原本の記録を再確認し、点数に食い違いが生じた原因について、明確な説明を求める。
申請書には、ノアが亡くなる直前の日付で受理されたことが明記されていた。
桜井は、この書類をノア本人から直接受け取ったと証言した。
ただし、捜査本部は依然として、筆跡鑑定を行い、紙面に残された物理的な痕跡を学校の保管記録と照合する必要があった。書類の出所と、正確な作成・受理時期を確認するためである。
バンソンもそばへ歩み寄り、身をかがめて申請書の末尾を丹念に読み込んだ。
白沢ノアは、自分の成績を改ざんした人物が誰なのか、確かな証拠をつかんでいるとは一言も書いていなかった。
特定の生徒や教師を名指しして、犯人だと告発しているわけでもない。
彼女が記していたのは、ただ、絶望にも似た思いをにじませる言葉だった。
『先生に確認していただいた点数と、システムに表示されている点数が、どうしてこれほど違っているのかを知りたいだけです。もし記録に誤りがあるのなら、誰が責任を持って、その理由を説明してくださるのかを教えてほしいです』
部屋の隅で一連のやり取りを見守っていたアサは、数秒間、言葉を失った。
申請書に並ぶ一つひとつの言葉からは、何か巨大な陰謀を暴く決定的な証拠を手にした者の気配など、微塵も感じられなかった。
そこにあったのは、自分の努力によって得たはずの成果を理不尽に奪われた優秀な生徒が、ただ明確で公正な答えを求めて発した、無力な助けの声だった。
高村は顔を上げ、桜井を見据えた。
「この異議申し立てを、正式に教務部へ回したことはありますか?」
「ありません」
桜井は首を横に振った。
「まず自分で紙の原本を見つけて、それからどうするか考えるつもりでした」
「では、あの夜、保管区域へ行って何を見つけたのですか?」
「古い保管書類の束の中から、紙の成績記録の原本を見つけました」
桜井は疲れ切った声で、淡々と答えた。
「そこには、確かに62点と記載されていました。でも、私にはコンピューターを操作して、ネットワーク上の変更履歴をすべて調べる権限も、専門的な技術もありませんでした」
「それなのに、事実を確認した直後でさえ、なぜノアの申請書を正式な権限を持つ人間に引き渡さなかったのですか?」
桜井は両手を強く握りしめた。
「自分の手で穏便に解決できれば、ノアが周囲から詮索されずに済むと思ったからです。あの子はもともと、とても繊細でした。自分が問題を起こした人間だとか、他人に責任を押しつけているとか、そう思われることをいつも怖がっていたんです」
高村は厳しい眼差しを向けた。
「あなたは、自分ひとりで秘密を抱え込み、報告もしなかった。その結果、白沢ノアは、正式な説明も、公正な解決も得られないまま、この世を去ってしまった。そのことに気づいたことはありますか?」
桜井は再び深くうつむいた。
ついに、抑えきれなくなった涙が一粒、机の上に落ちた。
「……あります。分かっていました」
それは、きわめて重要な情報だった。
昨年起きた悲劇の心理的背景と、その根底にあった原因を理解するための、大きな手がかりである。
白沢ノアは、確かに成績の食い違いについて異議を申し立てていた。
スクールカウンセラーの桜井は、その事実を知りながら、正式な手続きを取ることなく、内々に処理しようとした。
そして、問題の真相が明らかになる前に、ノアは二度と戻らない人となった。
この証言によって、捜査本部はノアが抱えていた苦悩と、悲劇に至るまでの背景を、以前より深く理解できるようになった。
しかし、成績を書き換えたのは誰なのか。
そして、白沢ノアの命を奪い、後には藤沢レンの命までも奪ったのは誰なのか。
その二つの問いに対する答えは、依然として闇の中にあった。
高村は桜井に、あの夜、自分がたどった足取りと移動経路を、一つ残らず詳細に再現するよう求めた。
桜井の供述は、次のとおりだった。
18時46分、鍵の受領に署名。
そのまま保管区域へ向かい、ノアの紙の記録を探した。
部屋のどの場所に、どれほどの時間立ち止まっていたのかは、正確には思い出せない。
ワークステーションARC-02には一切触れておらず、アクセスコードSR-01を使用したこともないと、彼女は断言した。
19時23分、鍵の返却に署名。
特に重要だったのは、桜井が、管理室に近い一角で書類を探していた際、プリンターが作動する音を耳にしたと認めたことだった。しかし、彼女はその音を特に気に留めず、誰が印刷指示を送ったのかについても、まったく知らなかったという。
高村は、その点を聞き逃さなかった。
「プリンターのそばに立ち、排紙トレイから印刷物を取り出している人物を見ませんでしたか?」
「いいえ」
桜井は首を横に振った。
「誰の姿も見ていません」
「では、保管室の中で、ARC-02を操作している人物を見たことは?」
桜井は再び、はっきりと首を横に振った。
「確認できません。私は懐中電灯を持って、奥にある棚を調べていました。誰かがコンピューターの前に座っていたとしても、注意を払っていませんでしたし、その姿をはっきり見た記憶もありません」
「その間、保管区域にあなた以外の人間は一人もいなかったと、断言できますか?」
「……断言はできません。当時はとても暗く、物も散乱していましたから」
バンソンは、桜井の供述に、鍵の受け渡し台帳だけでは到底埋められない大きな空白が残されていることを、明確に理解していた。
彼女は、事件の重要な時間帯に、実際に現場にいた。
プリンターの作動音を聞いていたにもかかわらず、操作した人物の正体は分からない。
周辺の機器に近づき、移動する機会はあった。しかし、19時12分や19時16分という決定的な時刻に、自分がどこにいたのかを裏付けられるほど明確な行動経路を、彼女は示せなかった。
高村は声を落として告げた。
「無理に思い出そうとして、推測で答える必要はありません。覚えていないことは、覚えていないと答えてください。ただし、あなたの供述については、独立した客観的証拠を用いて、一つひとつ検証する必要があります」
桜井は小さくうなずいた。
バンソンは、彼女がプリンターを操作したと嘘をついている、などと性急に決めつけて手帳に書き込むことはしなかった。
慎重に、事実だけを記録する。
『桜井美咲は、ワークステーションARC-02の操作およびアクセスコードSR-01の使用を正式に否定。現時点では、この供述を裏付ける独立した証拠も、反証する証拠も存在しない。』
高村は、再び焦点を19時16分に発生した印刷指示へと戻した。
「桜井さん。あの夜、プリンターから出力された二ページの印刷物を、偶然でも目にしませんでしたか?」
桜井はしばらく考え込み、記憶をたどるように眉を寄せた。
「私は……確かなことは言えません。プリンターが低い作動音を立てていたのは覚えています。でも、トレイに置かれた二ページの印刷物を、実際に手に取ったのか、あるいは目で確認したのか、そこまでは記憶に残っていないんです」
「仕事中に、プリンターから書類を取り出したり、手に取ったりする習慣はありますか?」
「自分が取り出した記憶はありません。もし、あのときノアの記録に関係する書類を実際に手にしていたのなら、仕事上の手順として、自分のカウンセリング記録ファイルにすぐ挟んでいたはずです」
高村は追及を続けた。
「ですが、あなたは今、その印刷物を実際に自分の目で見たかどうかさえ、はっきり覚えていないと認めたばかりでしょう」
「そのとおりです」
桜井は態度を変えなかった。
「記憶が確かでないことについて、無責任な断言をしたくないんです」
その揺るぎない姿勢を前にしても、バンソンは、記憶が曖昧であること自体を、罪の意識や虚偽の表れとは考えなかった。
出来事からは、すでに長い年月が経過している。特に変わったこともない、ある一晩の仕事について、人間の記憶が薄れ、逐一の動きを再現できないほど不鮮明になることは、十分にあり得る。
だが、それは同時に、桜井の供述を法的な根拠として、印刷処理の完了後も二ページの書類がプリンターのトレイに残されていたと断定することはできない、ということでもあった。
先ほど、西川は印刷処理が19時17分に完了したことを確認していた。
しかし、印刷物を誰が取り出したのかを示すデジタル記録も、目撃証言も、ひとつとして存在していない。
バンソンは、論理的な可能性を確かめるように問いかけた。
「仮に、桜井が本当にその書類に触れておらず、誰が持ち去ったのかも分からないのだとしたら……そもそも、その印刷物が実際にプリンターのある場所から持ち出されたと、確実に判断できるのでしょうか?」
部屋の隅にいた西川が首を横に振った。
「そこまでは分かりません。確実に言えるのは、プリンターのハードウェアが印刷処理を完了したということだけです。出力された紙がトレイに何分間残っていたのか、誰かがすぐに持ち去ったのか、それとも直後に丸めて捨てられたのか……システムには、そこまで把握する機能がありません」
だからこそ、誰かが印刷物をトレイから持ち去り、19時12分のアクセス履歴を餌にしてレンを誘い出すために利用した、という仮説は、依然として可能性の域を出なかった。
それを裏付ける客観的な証拠は、まだ何ひとつ見つかっていない。
印刷物は、コンピューターシステムの外へ情報が流出する経路のひとつになり得る。
しかし、その経路を通じて情報が実際に藤沢レンのもとへ届いたことを示す記録は、どこにもなかった。
バンソンは、机の上に置かれた白沢ノアの成績再確認申請書へと視線を戻した。
それは、確かな形を持つ、一枚の紙だった。
それまで、捜査本部はネットワークシステム上で技術的な特権を持つ人物の割り出しに、あらゆる力を注いできた。
だが、ノアの申請書は、別の現実を突きつけていた。
少なくとも一人、SR-01を使用することもなく、現実の世界でノアが成績について異議を申し立てていた事実を知る人物がいたのだ。
桜井美咲は、ノア本人から直接申請書を受け取った。それだけの理由で、彼女は成績の食い違いについて詳しく知っていた。
そして、その紙の資料から情報が漏れていたのであれば、ほかの人間も、現実世界に存在するさまざまな経路を通じて、その事実を知り得たはずだった。
正式に申請書が引き渡されていた場合には、教務部の関係者。
カウンセリング室で、ノアの記録を偶然目にした者、あるいはそれに接触できた者。
ノアが個人的な悩みを打ち明けていた友人たち。
あるいは、保管庫に収められた紙の記録にアクセスする権限を持つ、あらゆる人物。
しかし、現時点において、捜査本部は、そのいずれかの経路を通じて情報が実際に外部へ漏れ、レンにメッセージを送った人物の手に渡ったことを裏付ける証拠を、ひとつも発見できていなかった。
高村は、引き続き桜井への聞き取りを進めた。
「ノアは、亡くなった当日、保管区域で誰かと会うつもりだと、あなたに打ち明けたことはありますか?」
桜井は簡潔に答えた。
「あの子は、紙の原本がどの棚に保管されているのか、それをどうしても知りたがっていました。でも、そこで特定の誰かと会う約束をしているという話をしたかどうかは、まったく覚えていません」
「その夜、鍵を返却したあと、ノアがどこへ行き、何をしていたのか知っていますか?」
「いいえ。何も知りません」
「では、19時12分という時刻に言及したメッセージを、藤沢レンに送るよう仕組んだ人物が誰なのか、正確に把握していますか?」
「そのことについても、何も知りません」
バンソンは、桜井にノアやレンを殺したのかと尋ねることはなかった。
代わりに、事件の本質により深く踏み込む問いを投げかけた。
「あなた以外に、ノアから、成績の食い違いについて調べてほしいと頼んだことを打ち明けられた人物はいますか?」
桜井はしばらく考え込んでから答えた。
「絶対にいなかったとは言い切れません。私は、あの申請書を正式な部署に提出する前に終わってしまいました。でも、ノアがそれ以前に、同じ話をほかの誰かにしていなかったと断言することもできません」
その返答は、捜査本部の思考の枠組みを大きく変えるものだった。
電子ネットワークシステムが不正に侵入されたとは限らないのだ。
ノアの異議申し立てに関する情報は、人づての会話や、実際の紙の書類が人から人へ渡ることによっても、容易に広まる可能性があった。
それは、これまでとはまったく異なる捜査の方向性を切り開いた。
同時に、メッセージの送信者を特定することは、これまで以上に困難な問題となった。
桜井との事情聴取を終えたあと、アサとバンソンは高村刑事とともに、供述記録の全体を改めて精査するため、机を囲んだ。
アサは人差し指を伸ばし、調書の中でも特に重要な二つの発言を指し示した。
『誰がアクセスコードSR-01を使用したのか、私はまったく知りません』
『誰がレンに挑発的なメッセージを送ったのかも、まったく知りません』
アサは顔を上げ、バンソンを見つめた。
「桜井さんは、本当にその二人の正体を知らないのかもしれない。でも、ノアが異議を申し立てていたことを知っていたのは確かだし、あの夜、保管区域に足を踏み入れたのも彼女自身よ」
「そうだ」
バンソンは短く答えた。
「だからこそ、彼女は事件に直接関係する情報を持ち、物理的な現場へ立ち入る機会もあった人物だ。しかし、それだけでは、彼女がコンピューターのキーボードに触れたとも、自分でメッセージを作成したとも論理的に断定できない」
「バンソンは、彼女の供述を本当に信じているの?」
アサが静かに尋ねた。
バンソンは手帳に視線を落としたまま答えた。
「信じるかどうかという問題じゃない。俺が確かな事実として認めているのは、学校の手書きの台帳によって、彼女が鍵を受け取ったことが裏付けられているという点だ。それから、カウンセリング記録のファイルに、ノア本人のものとされる異議申し立ての書類が保管されていたという点もな。彼女がその時間帯に具体的に何をしていたのかについては、物的証拠を使って供述と照合しなければならない」
「つまり、彼女が完全に真実を話しているのか、それとも嘘をついているのか、今すぐ結論を出す必要はないということ?」
「そのとおりだ」
バンソンは明確に言い切った。
「今、俺がやるべきなのは、事実をきちんと切り分けることだ。客観的な方法で検証できる部分。まだ分かっていない部分。そして、証拠との間に矛盾が生じている部分。その三つを混同しないことだ」
アサは納得したように、小さくうなずいた。
彼女が理解したのは、桜井カウンセラーが法的に無実なのか、有罪なのかという結論ではなかった。
真実を追い始めて以来、初めて、ある容疑者の供述を、時期的に独立した物的記録と、具体的な筆跡が残された異議申し立ての書類と並べて検証できるようになった。そのことの意味だった。
警察はもはや、事情を語る人物の直感的な印象や心理的な雰囲気だけに頼る必要はない。現場の位置関係、アクセス権限、各種記録の整合性を、客観的な証拠に基づいて検証できる段階へと進んでいた。
白沢ノアの異議申し立て書を正式に証拠袋へ封入しようとした、その直前だった。
バンソンは、用紙の最下部の余白に、ボールペンで走り書きされたごく小さな一文があることに気づいた。
『システム上の数値を変更する前に、どうか原本の一式を隅々まで確認してください。最終的な結果の数字だけを見て判断しないでください』
桜井美咲に確認したところ、彼女は、その筆跡が普段の白沢ノアの書き方によく似ていると認めた。
ただし、捜査本部は、目視だけでノア本人の筆跡だと断定することは避け、正式な筆跡鑑定の結果を待つことにした。
バンソンは、その一文を何度も頭の中で反芻した。
白沢ノアは、単に紙の記録にある62点を取り戻したかったわけではない。
彼女が求めていたのは、42点という歪められた数値が生まれるまでに、どのような過程があったのかを学校に徹底的に調べさせ、その行為を実行した人物を突き止めることだった。
この点は、その後の藤沢レンの調査方針とも、不気味なほど符合していた。
レンもまた、成績の変更履歴を追い、システム移行前の記録を探し、ハードウェアの出所を突き止めようとしていたのだ。
しかし、追い求めていたものが似ているというだけでは、ノアが生きていた頃に、彼女とレンが直接情報を交換していたことの証明にはならない。
また、かつて成績の改ざんを実行した人物が、その何年も後にレンへ恨みを抱き、彼を標的にしたという事実を示すものでもなかった。
アサが小さな声でつぶやいた。
「もしかすると……藤沢レンは、白沢ノアが命を落とす前に得られなかった答えを、自分の力で見つけようとしていたのかもしれないわね」
「十分にあり得る」
バンソンは答えた。
「だが、俺たちは、それだけで納得するわけにはいかない。レンがその痕跡を追っていると誰かが気づいたこと。そして、その人物が危険を察知したとき、実際にどんな行動を取ったのか。それを裏付ける客観的な証拠を、必ず見つけなければならない」
その鋭い問いによって、捜査本部の意識は再び、現在進行中の殺人事件へと引き戻された。
問題は、単に、過去の記録を保管していた人物が誰なのかということではない。
藤沢レンが、古い記録を追う調査に乗り出したことを、誰が知っていたのか。
本当の問題は、そこにあった。
夜の帳が下りる頃、バンソンは机の上の薄暗い黄色いライトの下で、警察署の捜査ボードに最新の情報を反映させていった。
桜井美咲――白沢ノア死亡当日
・保管区域の鍵を18時46分に受領したことが、手書きの台帳によって確認されている。
・鍵の返却時刻は、19時23分と記録されている。
・白沢ノアの成績の食い違いに関する異議申し立て書を、本人から直接受け取っていた。
・紙の記録を探すため、実際に保管区域へ立ち入ったことを認めている。
・ワークステーションARC-02の操作およびアクセスコードSR-01の使用を、明確に否定している。
・19時16分に送信された、資料二ページの印刷指示を出した人物については、特定できていない。
・出力された印刷物を実際に誰かが手に取ったかどうかも、確認できていない。
バンソンは色付きのチョークを手に取り、桜井美咲の名前から、次の注記へ一本の直線を引いた。
『重要な時間帯に、保管区域へ物理的に立ち入ることが可能だった』
だが、それ以上の線は引かなかった。
彼女の名前から、『アクセスコードSR-01の使用者』という項目へ線を引くことを、バンソンは断固として拒んだ。
同じように、『レンに挑発的なメッセージを送信した人物』という項目にも、線を引くことはなかった。
隣に立っていたアサは、情報の流れを示す図をじっと見つめていたが、やがて口を開いた。
「彼女は、19時12分という時刻について、詳しく知っている可能性は十分にあるわね」
「そうだ」
バンソンが答えた。
「それに、レンへ送ったメッセージを自分で作成し、送信した人物である可能性もある」
「そうだ」
「でも、そのどちらかを彼女が実行したと断定するための物的証拠は、まったく足りていない」
バンソンは、ためらうことなくうなずいた。
「それに、明日、まったく別の人物こそがメッセージの送信者だったと示す決定的な証拠が見つかったとしても、去年、桜井が保管区域にいたという事実そのものが消えるわけじゃない。ただ、その事実が持つ意味は、俺たちが最初に安易に推測していたものとは、まったく違ってくるだろう」
アサは、ノアが亡くなった日の時系列へ目を落とし、次にレンが殺害された日の時系列へと視線を移した。
過去と現在。
二つの日付は遠く離れている。
二つの悲劇には、幾重にも絡み合う接点が存在していた。しかし、それらはまだ、ひとつの完全な真相として縫い合わされてはいなかった。
高村刑事は捜査員全員に指示を出した。
保管区域への立ち入り権限に関する残存資料を、引き続き徹底的に捜索すること。
そして、それ以前の時期に、ノアの異議申し立ての内容へ接触する機会があった人物を、可能な限り洗い出すこと。
そのうえで、高村は、今後作成するあらゆる捜査報告書において、次の三者を、決して安易に同一人物として扱わないよう厳命した。
『システムの使用者』
『印刷物を受け取った人物』
『メッセージの送信者』
これら三つの役割を担った人物が同一であると、証拠もなく決めつけることは、絶対に許されなかった。
バンソンは手帳を勢いよく閉じた。
桜井美咲が、あの夜、保管区域に足を踏み入れた。
その事実は、紙の記録によって裏付けられている。
だが、彼女がその時間帯に実際に何をしていたのか。それは依然として、客観的な証拠によって明らかにされなければならない謎だった。
そして、静まり返った警察署の中で、もうひとつの冷徹な問いが浮かび上がった。
もし桜井カウンセラーが、本当に藤沢レンへのメッセージ送信者について何も知らなかったのだとしたら――。
アクセスコードSR-01を使ってネットワークサーバーへ直接侵入することなく、白沢ノアの異議申し立てという機密性の高い情報に接触できた人間は、ほかにいったい何人いたのだろうか。




