Episode 39
十一月の風が通りを吹き抜け、冬の走りを思わせる凍てつく寒さを運んでいた。街灯は弱々しい黄色の光を投げかけ、まだ乾ききっていない雨水の斑点が残るアスファルトを、ぼんやりと照らしている。
エナミ・アサは、歩道の真ん中に立ったまま、微動だにしなかった。
彼女の手の中で、スマートフォンの画面が青灰色の冷たい光を放っている。その明かりが、血の気を失った顔と大きく見開かれた瞳を浮かび上がらせていた。その悪寒は、決して夜の冷気によるものではなかった。
向かいの店からバンソンが駆け出してきた。
温かいコーヒーを二杯買い、会計を済ませた直後だった。しかし、人気のない夜道の真ん中で立ち尽くすアサの姿を目にした瞬間、彼の心臓が一拍、強く跳ねた。
「アサ」
呼びかける声は低く、極度の警戒がにじんでいた。
バンソンは彼女のもとへ歩み寄ると、大きな手で細い肩を包み込んだ。コート越しにも、彼女が震えているのがはっきりと伝わってくる。
アサは答えなかった。
視線は依然として、スマートフォンの画面に釘付けになっている。
バンソンが身を屈め、彼女の手元を覗き込む。
その瞬間、彼の呼吸がわずかに止まった。
そこに映っていたのは、一枚の写真だった。
鮮明に写し出されているのは、アサの自宅。撮影者は通りの向かい側、古びたクスノキの木陰に身を潜めるようにしてカメラを構えている。
送信時刻は表示されていない。
送信者の電話番号もない。
写真に添えられていた短いメッセージは、背筋を這い上がる悪意そのものだった。
「君がどこに住んでいるか、知っている」
バンソンは、意味のない言葉を一つも口にしなかった。
鋭い視線が、瞬時に周囲を一巡する。
夜の通りは、不気味なほど静まり返っていた。
十メートルほど先には、明かりのついたコンビニエンスストア。空っぽのバス停では、風に煽られた広告看板が、きしむような音を立てている。さらにその先には、埃をかぶった車が数台だけ停まる、閑散とした駐車場。
誰もいない。
怪しい人影は、一つたりとも視界に入らない。
送信者はすでに立ち去ったのか。それとも、最初から自動送信を仕込んでいたのか。
いずれにせよ、そこに込められた脅威だけは、首筋に突きつけられた刃物のように、あまりにも明白だった。
アサがようやく瞬きをし、顔を上げる。
向かいに並ぶ暗い建物を見つめながら、乾いた喉からかすかな声を絞り出した。
「バンソン……あなた……」
「家には帰るな」
バンソンは彼女の言葉を遮った。
その声に、いっさいの妥協はなかった。
それでいて、彼女を包み込むような絶対的な庇護があった。
彼の手が肩から滑り落ち、アサの手を強く握る。
冷え切った彼女の手に、自分の指を絡ませる。
まるで、その指先から体温を分け与えるように。
アサは彼を見つめた。
茶色の瞳に、複雑な感情が揺れる。
「でも……」
「今夜は、別の場所に泊まる」
「あなたは?」
アサの問いには、自分自身の恐怖さえ押しのけるほどの心配が滲んでいた。
バンソンはゆっくりと頭を下げ、彼女の瞳を正面から見つめた。
柔らかく、それでいて揺るぎないその眼差しは、まるで夏祭りの鮮やかな花火の下で、彼が彼女に想いを告げた、あの夜と同じだった。
彼は、あの瞬間を今でも鮮明に覚えている。
理性と、天才と呼ばれる男にまとわりついていた冷淡さ。そのすべての殻が剥がれ落ちたとき、そこに残っていたのは、ただ目の前の少女を守り、共に歩むことを望む一人の男だった。
「この世界のすべての謎を解き明かせるとは思っていない。だが、君にとって最後の答えになりたい。それだけは、確信している」
そして今。
二人が互いのものになった今、彼女を傷つけようとする何者をも、バンソンは決して許すつもりはなかった。
「俺も一緒に行く」
その低く温かな声は、揺らぐアサの魂を繋ぎ止める錨のようだった。
「一秒たりとも、君から目を離さない」
アサは数秒間、黙っていた。
胸の奥で渦巻いていた恐怖が、次第に静まっていく。
握られた手から伝わる温もりが、少しずつ心を落ち着かせてくれていた。
やがて、アサは小さく頷いた。
そのとき、コンビニのドアベルが甲高い音を響かせ、夜の濃密な静寂を切り裂いた。
バンソンはアサを店内の最も奥まった一角へ連れていった。そこには、客が軽食を取るための小さなテーブルが並んでいる。
彼はためらうことなく日除けのブラインドを下ろし、通り側のガラス越しからの視線を完全に遮った。
そして自分が出入口とアサの間に座り、見えない壁のように彼女を守る位置を取る。
アサは席に腰を下ろした。
両手で温かいコーヒーのカップを包み込んでいるが、視線は時折、テーブルの上に置いたスマートフォンへ向けられた。
バンソンは手帳を開く。
ボールペンのノック音が、カチ、カチ、と静かに響いた。
思考のギアが切り替わる。
彼が最も鋭い領域へ入った証だった。
「まずは範囲を絞る必要がある。この人物が君を狙ったのは、君が俺と一緒にあの学校について調べているからだ」
バンソンは顔を上げ、アサを見る。
「君の住所を知っている人間を、思いつく限り全部挙げてくれ」
私立セイコウ高校は、バンソンとアサが通っている学校ではない。
二人がこの事件の渦中に引きずり込まれたのは、バンソンが相次ぐ不審な死に興味を持ったことが始まりだった。
そして、何よりも大きな理由がもう一つあった。
アサの中学時代の旧友、クロサワ・ユナ。
彼女もまた、かつてセイコウ高校に在籍し、ある日、不可解な失踪を遂げていた。
アサには、見て見ぬふりなどできなかった。
そしてバンソンもまた、そんな彼女を一人で行かせることができなかった。
「俺たちの学校の同級生は?」
「何人かいる。グループで課題をやることが多い人たち」
アサは、できるだけ平静を装って答えた。
「教師は?」
「いない。通学記録に今の住所は載っていないの。登録されているのは、郊外にある昔の家の住所だけ」
「学校側は?」
バンソンの眉がわずかに動く。
「可能性はあるかも……。もし学校間で連携している学籍システムを深く調べられるなら」
バンソンのペンが止まる。
「じゃあ、セイコウ側の人間は? 誰か、君の家に来たことはあるか?」
アサは唇を噛み、記憶を手繰り寄せた。
「ユナだけ。中学生の頃、何度か遊びに来た。でも、ユナはもういなくなった。ほかには……セイコウの人間で、私がどこに住んでいるか知っている人は一人もいない」
バンソンは素早く手帳に書き留めていく。
紙の上には、書き込みと訂正の線が複雑に重なっていった。
そして突然、彼のペンが止まる。
空気が静まり返った。
聞こえるのは、背後にある飲料用冷蔵庫の低い唸り声だけだった。
「何を考えてるの?」
アサが尋ねる。
彼の呼吸の変化に気づいていた。
「写真を送ってきた人間が、最初から君の住所を“知っていた”とは限らない」
バンソンはペンの尻で、テーブルを軽く叩いた。
「誰かに教えてもらう必要すらない」
「どういうこと?」
「登録情報を見つければいい」
彼はスマートフォンの写真を見つめたまま、続けた。
「君がセイコウ高校の“システム”に触れた時点で、相手は君を特定できた可能性がある。掲示板で名前を検索しただけかもしれない。メイみたいな生徒に何気なく聞き込んだだけかもしれない」
バンソンの瞳が細くなる。
「この人物のデータへのアクセス能力は、かなり高い。学校側が情報を保存できるなら、その裏にあるネットワークを掌握している人間だって、それを抜き取れる」
アサが目を見開いた。
「じゃあ……その人は、セイコウ高校のデータシステムに介入できるほどの権限を持った人物ってこと?」
「その可能性は高い」
バンソンの口元に、冷たい笑みが浮かんだ。
敵は、正体の見えない幽霊ではない。
システムの内側へ手を伸ばせる、特権を持つ人間なのだ。
バンソンはアサのスマートフォンを手に取り、写真を開いた。
指を画面の上で滑らせながら、細部を一つずつ拡大していく。
二階の窓。
玄関脇に伸びる、乾いたクスノキの枝。
路肩に停められた車の後部。
バンソンの目が細くなる。
思考速度が一気に跳ね上がった。
「何を探してるの?」
「背景だ」
彼は短く答えた。
「どんな写真にも死角がある。そして、撮影者が決して完全には制御できないものも映り込む」
バンソンの指が、写真の隅にある薄暗い一点で止まった。
左端。
車のフロントガラスに、ほんのわずかな反射がある。
夜霧と低解像度のせいで、ぼやけている。
「ここだ」
バンソンが画面を指差した。
「車のガラスに、看板が反射している」
彼はスマートフォンに搭載された画像補正機能を起動し、明るさとコントラストを最大まで引き上げた。
崩れた画素の塊が、徐々に輪郭を持ち始める。
赤と白の色彩。
そして、その中に重なるように浮かび上がった、特徴的な緑色の十字。
文字までは判別できない。
だが、それが薬局の看板であることだけは、疑いようがなかった。
「薬局の看板だ」
バンソンはすぐに自分のスマートフォンで衛星地図を開き、アサの自宅周辺を表示する。
指の動きはあまりにも速く、残像さえ残しそうなほどだった。
「半径一キロ以内に薬局は三軒。そのうち一軒は、君の家から三百メートル。向かい側の交差点にある」
バンソンは地図をアサに見せた。
「写真はこの角度から撮られている。交差点の近くだ」
「どうして、そこだって断言できるの?」
アサが驚いて尋ねる。
「視角と光学の法則だ」
バンソンは空中に一本の直線を描くように指を動かした。
「撮影者がもっと遠くにいたか、三歩でも横にずれていたら、薬局の看板から出た光は、この車のフロントガラスにこの角度で入り込み、写真のこの位置に、この比率で反射することはない」
指が止まる。
「つまり、相手は正確にその座標に立っていた」
「じゃあ……私たちは、その人が立っていた場所を突き止めたんだ」
アサの声には、ほんのわずかな希望が滲んだ。
「そこは始点にすぎない」
バンソンは立ち上がり、コートを羽織った。
「行こう。もう応援には連絡してある」
二十分後。
アサの自宅周辺は、表立った封鎖こそされていなかったものの、密かに包囲されていた。
ナンバープレートのない黒いSUVが、クスノキの木陰に静かに停まる。
「B」と呼ばれる、経験の深さを感じさせる中年の男が、長いコートをまとって車から降りてきた。
彼は、警察の非公式な人脈と強いつながりを持つ私立探偵であり、これまでにも幾度となくバンソンを助けてきた人物だった。
彼の部下たちは、すぐさま周囲へ散っていく。
十五分後。
調査を終えたBが、車のそばに立つバンソンとアサへ歩み寄った。
彼は煙草に火をつける。
赤い火種が霧の中で一瞬だけ瞬き、すぐに闇へ沈んだ。
「怪しい人物は見つからなかった」
Bは煙を吐き出した。
「相手は手際がいい。通りのあの角度を映している民家の防犯カメラは一台もない。写真に写っていた路肩の車も、すでに立ち去っている」
鋭い目が、バンソンを射抜く。
「上の交差点にある交通監視カメラには、黒いパーカーを着た人物の一部と、バイクのナンバープレートの一部しか残っていない。身元を特定するには不十分だ」
Bはもう一度、煙を吐いた。
「坊主。あの写真を撮った人間と、セイコウの事件を追っている連中は、同じ一味だと確信しているのか?」
「いいえ」
バンソンは静かに答えた。
「それでいい」
Bは頷いた。
その目には、わずかな評価と厳しさが同居している。
「証拠が揃っていないうちから、砕けた欠片を一枚の絵に無理やり当てはめるな。一人の敵にすべてを押しつけるな」
Bの声は低かった。
「事件には、複数の犯人が存在することもある。それぞれが別々の目的のために、独立して動いている場合だってある」
バンソンは黙った。
Bの忠告は、昨日から彼自身が意識していた盲点を、正確に突いていた。
アサが脅迫された瞬間に湧き上がった怒り。
その感情のせいで、危うく客観性を失いかけていた。
「今夜は、アサを俺の安全なアパートに置いていく」
Bは顎でSUVを指した。
「お前も休め。いくら目を凝らしたところで、獲物のほうから檻に首を突っ込んでくるわけじゃない」
翌朝。
セイコウ高校は、濃密な恐怖に包まれていた。
噂は、まるで疫病のような速さで広がっていた。
廊下のあちこちでは、生徒たちが二人、三人と固まって話し込み、周囲を気にするような視線を走らせている。
声は低く抑えられている。
それでも、その囁きは幾重にも重なり、校内全体にざわめきのような圧力を作り出していた。
「下級生の女子が、家までずっと尾行されたって聞いた」
「知ってる? 昨夜、誰かが学校に侵入して、資料室をめちゃくちゃに荒らしたらしいよ」
「侵入なんかじゃないって。リクだよ。神崎リクの幽霊が戻ってきて、復讐してるんだって」
幼い顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。
教師たちは絶えず校内を巡回し、生徒たちに封鎖中の旧校舎へ勝手に近づかないよう繰り返し注意している。
地域警察の姿も、校門周辺で以前より頻繁に見られるようになった。
Bのチームも捜査範囲を広げるため、校内外へ人員を分散させていた。
ありふれた校内トラブルだったはずの事件は、今や組織的な犯罪の臭いを漂わせ始めている。
全体の監督役として、上級捜査官Hまで送り込まれていた。
バンソンとアサは、二階の廊下に立っていた。
二人は、転校手続きについて相談に来た他校の生徒を装い、ここにいる理由を取り繕っている。
教員室の前を通りかかったときだった。
扉はわずかに開いている。
中から、年配の教師の苛立った声が聞こえてきた。
「最近の生徒は本当にくだらん! ありもしない話ばかり膨らませおって。神崎リクはずっと前から学校を休んでいるんだ。あいつが戻ってきて、学校を荒らしているなんて、そんな馬鹿げた話があるものか!」
バンソンの足が止まった。
鋭敏な聴覚が、ほんのわずかな違和感を拾い上げる。
彼は教員室の扉を押し開けた。
年配の教師が驚いて顔を上げ、眼鏡の位置を直す。
「君たちは誰だ? 他校の生徒が勝手に入ってきていい場所ではないぞ」
バンソンは叱責を意に介さなかった。
真っ直ぐに核心へ切り込む。
鋭い視線が、相手の取り繕った態度を切り裂くように向けられた。
「先生、今『学校を休んでいる』と言いましたよね?」
教師の眉が寄る。
「そうだ。あの生徒は学校を休んでいる。それが君たちに何の関係がある?」
「『退学』ではないんですか?」
バンソンは、一語一語を強調した。
教師の動きが止まった。
数回、目が素早く瞬く。
一瞬だけ戸惑いが浮かんだ。
しかし、それはすぐに苛立ちの中へ隠された。
「何が違う? どのみち、もうここには通っていないんだ。言葉尻をいちいち突くんじゃない」
「大きく違います」
バンソンの声が冷たくなる。
淡々としている。
それでも、その言葉には千斤の重みがあった。
「『退学』は正式な行政上の処分です。保護者の署名があり、学校の印が押され、学籍記録は転送されるか、正式に閉じられる。ところが、『学校を休んでいる』だけなら……一時的な状態である可能性がある。理由の分からない欠席として、学校側が学籍を保留したままにしていることもあり得る」
年配の教師は唇を固く結んだ。
顔色が目に見えて青ざめる。
彼は机の上の書類に急に忙しく目を通すふりをし、舌打ちした。
「私は君と、こんな言葉遊びをしている暇はない。さっさと出ていきなさい!」
バンソンは、それ以上追及しなかった。
黙って身を翻し、教員室を出る。
そこで、アサと視線が合った。
彼女はすべてを理解していた。
あの教師の露骨な回避。
それこそが、バンソンの仮説を裏付けていた。
神崎リクには、正式な退学処分の記録が存在しない。
彼は消えた。
そして学校側は、その事実を覆い隠そうとしている。
昼。
捜査チームの秘密拠点では、Fがキーボードを猛烈な勢いで叩いていた。
若いハッカー。
乱れた髪に、深い隈。
彼の目の前のモニターには、緑色のコードが絶え間なく流れている。
「セイコウ高校の定期バックアップ用サーバーまで掘り下げた」
Fは乾いたパンを一口かじりながら、早口で続けた。
「リクの記録が改ざんされる前の時間帯まで遡った。データはかなり手の込んだやり方で消されてる。でも、忘れてたみたいだな。磁気ディスクってのは、何千回も上書きされない限り、以前のデータの“残像”を保持することがある」
FがEnterキーを叩いた。
画面に、一枚の成績表が表示される。
そこに浮かび上がった名前を見た瞬間、アサの心臓が一拍、跳ねた。
クロサワ・ユナ。
「女子二年生」
Fが記録を読み上げる。
「去年の成績は相当なものだ。常に全校トップ10入り。最高は六位」
指が動き、次の資料が開かれる。
「ところが、そのあと成績が……ブレーキの壊れた車みたいに落ちてる」
三回連続で行われた試験結果が、画面に並んだ。
第一回――三十一位。
第二回――四十七位。
第三回――六十三位。
「そして三回目の試験を最後に、彼女は完全に順位表から消えた。それだけじゃない。学校の活動記録からも、同じように姿を消している」
バンソンは腕を組み、黒い瞳を画面へ向けた。
「彼女はどこへ?」
「学内システムには、短くこうある」
Fが読み上げる。
「『他校在籍中』」
「転校?」
バンソンの眉が動く。
「そう」
「自主的に転校したのか。それとも、強制されたのか? 転校願は?」
Fは首を横に振り、息を吐いた。
「分からない。完全に空白だ。保護者からの転校願もない。正式な退学記録もない」
画面を見つめながら、Fは続ける。
「リクのケースとほとんど同じだ。ただし、ユナのステータスには『休学』じゃなくて、『転校済み』と表示されている」
アサが一歩前へ出る。
両手が固く握り締められた。
中学時代。
明るく笑い、自分の成績をいつも誇らしげに語っていたユナの記憶が、一気に脳裏へ押し寄せてくる。
「じゃあ……ユナは三人目の被害者なの?」
バンソンは彼女へ振り向いた。
その目はわずかに柔らかくなった。
だが、その声には、依然として理性の冷酷さがあった。
「可能性はある」
彼は静かに言った。
「ユナ、リク、それからノア」
そして中央の大きなホワイトボードへ歩み寄る。
黒いマーカーを手に取る。
迷いのない動きで、縦線を何本も引き、項目ごとの欄を作っていく。
名前。
成績。
出来事。
そして――結末。
彼は一つずつ、そこへ書き込んでいった。
「三人に共通する、根本的な一点を見つける必要がある」
バンソンは一歩後ろへ下がり、目を細めながらホワイトボードを見つめた。
その隣に立つアサの吐息が、かすかにバンソンの肩を撫でる。
「なんだか……誰かが、あるいは何らかの勢力が、生徒たちの成績を基準にして、その運命そのものに直接干渉しているような気がする。成績を落とされる者がいて、逆に、浮上しようとした瞬間に消されることを強いられる者もいる」
「……ああ」
バンソンは頷いた。
「見えない手が、ランキングの秩序そのものを作り替えている」
「でも、目的は何なの?」
アサは眉をひそめた。
声には、行き詰まりを感じさせる苛立ちが滲んでいる。
「人を殺して、脅して、記録まで消して……ただ高校の順位がいくつか違うだけで、そこまでするの?」
「そこが、まだ俺にも分からない」
バンソンは呟き、親指の爪を軽く噛んだ。
深い思考に沈んだときに出る、彼の癖だった。
「成績は、そのまま現金に換えられるものじゃない。絶対的な権力でもない。だとすれば……」
彼の視線が、ホワイトボードに並んだ名前と数字をなぞる。
「このランキングそのものが、もっと巨大な何かへ繋がる鍵なんだ」
夕暮れ時。
セイコウ高校の人気のない廊下を、風が唸りを上げながら吹き抜けていた。
バンソンとアサは、図書室の隅でメイを見つけた。
ノアの事件以来、メイはすっかり心を閉ざしていた。
曲がった枝にも怯える雀のように、いつも怯えた表情を浮かべ、周囲を警戒している。
バンソンとアサの姿を見た瞬間、メイは身体を縮こまらせ、胸元に本を強く抱きしめた。
「メイ」
バンソンは、できる限り穏やかな声で呼びかける。
「少しだけ聞きたいことがある。君は神崎リクを知っているよな?」
メイは唇を噛み、逃げ道を探すように絶えず視線を彷徨わせた。
それでも最後には、弱々しく頷いた。
「……うん」
「話したことは?」
「ある……一度だけ。リクがいなくなる、ずっと前に」
アサがそっと歩み寄り、安心させるように微笑んでメイの手に軽く触れた。
「何があったの、メイ? リクはあなたに何を話したの?」
メイは周囲を見回した。
近くに誰もいないことを確かめてから、ようやく小さな声を漏らす。
声は震えていた。
「リクは……一つ、私に聞いたことがあるの」
「何を?」
バンソンは急かさず、辛抱強く待った。
メイは言葉に詰まった。
まるで、その記憶そのものに呪いがかけられているかのように。
「……あのね……リクが聞いたの。もし……ある生徒の成績が低すぎて、しかも異常なほど悪かったら……学校が……あるいは誰かが……その生徒に圧力をかけて、自分から学校を辞めたいと思うように追い込むことって、あるのかなって」
バンソンの眉がわずかに動いた。
メイの言葉は、ユナのケースと完璧に重なっていた。
「それを、誰から聞いた?」
バンソンの声が鋭くなる。
「学校に、そういう暗黙のルールがあるのか?」
メイは激しく首を横に振った。
目には涙が滲んでいる。
「知らない! 本当に何も知らない!」
声が裏返る。
「誰も口にしようとしない。でも……みんな怖がってる……」
バンソンは問い方を変えた。
「じゃあ、レンは? レンはリクの件に関係しているのか?」
その名前を聞いた瞬間、メイの顔からさらに血の気が引いた。
彼女は深く俯く。
「レン……レンは、リクのテストを盗んだことがある」
「何のために?」
「……写真を撮るため」
「点数を撮ったのか?」
「うん……」
アサが一歩踏み出した。
「どうしてレンがそんなことをする必要があったの? リクの成績が上がることが、レンに何の影響を与えるの?」
「分からない……」
メイの声は次第に細くなり、やがて嗚咽へと変わった。
「誰かにやれと言われたのか?」
バンソンがさらに踏み込む。
その目は、剃刀の刃のように鋭かった。
メイは黙り込んだ。
身体全体が、小刻みに震え始める。
バンソンには分かった。
これは演技ではない。
理屈で隠せる恐怖ではない。
意識のさらに深い場所から湧き上がる、純粋な恐怖だった。
彼女は、自分を締めつけているその名前を口にするくらいなら、何も言わず耐え続けることを選ぶ。
バンソンは一歩後退し、アサにこれ以上追及しないよう目で合図した。
その瞬間だった。
アサが後ろへ下がったとき、靴の踵が読書机の下に転がっていた何か硬いものに当たった。
「……?」
アサは足元へ目を落とした。
そこにあったのは、古びた携帯電話だった。
画面にはひびが入り、全体に埃がこびりついている。
アサが手を伸ばし、拾い上げようとした。
「触らないで!」
メイの絶叫が図書室に響いた。
彼女は恐怖に駆られて後ずさりし、その拍子に小さな椅子を倒してしまう。
ガタン、と乾いた音がした。
アサは驚いて手を引っ込める。
次の瞬間には、バンソンが彼女の前へ立ちはだかっていた。
その鋭い視線が、床の携帯電話から、怯えきったメイの顔へと移る。
「誰の携帯だ?」
バンソンの声は低く、冷たかった。
メイは顔を覆った。
肩を震わせながら泣き続ける。
答えは返ってこない。
バンソンはコートのポケットから薄いゴム手袋を取り出した。
ゆっくりと身を屈め、携帯電話を拾い上げる。
その背面には、小さな付箋が貼られていた。
端は剥がれかけ、赤いインクで二つのアルファベットが記されている。
K.R.
バンソンは、すぐに理解した。
これは――神崎リクの携帯電話だ。
だが。
なぜ、行方不明になった人間の遺留品が、メイの読書机の下に転がっている?
誰かが意図的にここへ隠したのか。
それとも――。
メイ自身が持っていたのか。
一つ答えを見つけるたび、新たな疑問がその背後から姿を現す。
事件はますます、逃げ場のない死の蜘蛛の巣へと、その姿を変えつつあった。
夜。
捜査チームの拠点では、Fが額の汗を拭いながら、接続された作業台の上に置かれた、見る影もなく破損した携帯電話を見つめていた。
そこにはBと、捜査全体の監督を任された上級捜査官Hの姿もあった。
「ハードウェアは、何度も叩きつけられたせいでかなり深刻な損傷を受けてる。犯人はフラッシュメモリを完全に破壊するつもりだったみたいだ」
Fは説明しながらも、指を止めることなくキーボードを叩き続ける。
「でも、運がよかった。記憶媒体のコア部分から、およそ十五パーセントは復旧できる。いくつかのデータ断片を取り戻せた。その中に……匿名プラットフォーム上で交わされた会話が一件ある」
モニターの黒い背景に、白い文字が浮かび上がった。
それを見て、バンソンとアサが歩み寄る。
リク:「もう分かった」
相手(名無し):「何が?」
リク:「誰が点数を変えているのか」
相手:「誰にも言うな。自分の身を守りたいなら」
リク:「もし言ったら?」
相手:「もう二度とトップには立てない。そして、お前は思い知ることになる。闇を覗き込んだ代償をな」
そこで会話は、不自然なほど唐突に途切れていた。
日付もない。
時刻もない。
送り主の名前も残されていない。
ただ一つ。
暗号化されたユーザー識別IDの断片だけが、消去を免れていた。
SR-01
バンソンは椅子を引き、腰を下ろした。
その黒い瞳が、その文字列から一瞬たりとも離れない。
隣に立ったアサは、そっと彼の肩に手を置いた。
言葉はなかった。
ただ、その手のひらの温もりだけが、張り詰めた思考へ静かな鎮めを与えていた。
「また……SR-01」
アサが囁く。
以前の手掛かりにも、何度か姿を現していた文字列だった。
「ああ」
バンソンの返事は、どこか遠くを見ているようだった。
「あなたは、それが一人の人間だと思う? ハッカー? それとも教師?」
「まだ断定できない」
バンソンは手帳を取り出した。
「一つの“組織”なのかもしれない」
アサが可能性を口にする。
「あり得る」
「それとも……裏で動いている評議会が共有している、共通管理者アカウントとか?」
アサの鋭い瞳がバンソンを捉える。
その思考は、まるで彼の推理にぴたりと重なっていた。
「そういう可能性もある」
バンソンの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
恋人の鋭い洞察を認める、珍しい微笑みだった。
彼はペンを取り、紙に一行ずつ、明確に書き出していく。
SR-01=一人の人間?
SR-01=共有された管理者アカウント?
SR-01=一つの権力集団?
SR-01=人間の成績を操作する人工知能のシステムコード?
バンソンは、それぞれの仮説に線を引いた。
だが、どれ一つとして丸で囲まなかった。
この段階で可能性を一つに絞ることは、思考そのものを殺すことになる。
そして、探偵にとって思考を閉ざすことは――死と同義だった。
翌朝。
自らの情報網を駆使し、私立探偵のBが重要な証人を連れてきた。
神田イツキ。
セイコウ高校の元生徒で、かつてリクと同じクラスにいた少年だった。
イツキは半年前に学校を離れている。
その姿には見るからに疲弊した影が落ちていた。
目は充血さえせず、むしろ異様なほど乾いている。
長期間まともに眠っていない人間特有の、焦点の定まらない虚ろな目だった。
客の少ない喫茶店。
イツキはバンソンの正面に座り、両手で熱い飲み物のカップを固く抱えていた。
「リク……リクは俺に言ってた。学校の中で、秘密のグループが動いてるんじゃないかって」
その声は掠れていた。
誰かに盗み聞きされることを恐れているかのように、何度も周囲を気にしながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「どんなグループだ?」
バンソンが辛抱強く尋ねる。
「名前は知らない。ただ……存在していることだけは知ってる」
「誰が頭に立っている?」
「分からない」
バンソンはイツキの目を真っ直ぐに見つめた。
言葉にはしない。
しかし、その視線には逃げ道を塞ぐような、重い圧力があった。
「何を隠している、神田?」
低い声が、静かに落ちる。
「君はあの学校から逃げるように去った。これほど怯えている以上、何も知らないはずがない」
イツキの身体が震えた。
彼はバンソンの視線から逃げるように顔を逸らす。
沈黙は数分にも及んだ。
やがて、彼は絶望したように大きく息を吐いた。
「俺が知ってるのは……ただ一つだ」
喉がかすかに鳴る。
「誰がランキングの上に立つ資格があるのか……それを決めている“何か”が存在する」
「努力でもない。知識でもない」
イツキの声には、抑えきれない苦々しさが混じっていた。
「奴らが……決めるんだ」
イツキは、セイコウ高校に存在する暗黙の仕組みについて語り始めた。
それは、正式な制度でもなければ、校則に記された規定でもない。
それでも、生徒たちは皆、耳打ちするようにその存在を知っていた。
――「インナーサークル」。
それは、成績と名声を裏から保証される者たちで構成された、学校内の秘密組織。
周縁に追いやられた生徒たちは、そこへ入り込むためなら何でもした。
媚びを売り、手足として使われ、時には仲間を売ることさえ厭わない。
その一方で、順位を下げられた者。
あるいは、才能がありながら決して頭を下げようとしない者。
そうした生徒たちには、容赦のない制裁が待っていた。
無視。
嘲笑。
孤立。
精神的な暴力。
まるで生贄に捧げられるように、徹底的に追い詰められ、最後には自ら学校を去るまで壊されていく。
「書かれたルールなんて一つもない」
イツキは苦々しげに言った。
「でも……みんな、自分が何をすべきかは分かってる」
「レンも、そのグループにいるのか?」
バンソンが尋ねる。
「いる。使い走りみたいな奴だ。テストの点数を盗み撮りしたり、不正用のカンニングペーパーを偽造して、別の生徒に罪をなすりつけたりしていた」
「レイカは? 今、第一位にいる女子だ」
イツキは首を横に振った。
「違う。レイカは頭が良すぎるし、プライドも高い。奴らは、むしろ彼女を潰そうとしている」
「シュンは?」
「違う」
「じゃあ、リクは?」
バンソンがわずかに身を乗り出した。
イツキは、苦い笑みを浮かべた。
「リクは……かつて、その中に入りたいと思っていた」
一瞬、言葉が途切れる。
「自分が一番の成績を取れば、奴らが自分を認めて、誘ってくれると思ってたんだ」
イツキの話によれば、リクは限界を超えるまで努力した。
夜を徹して問題を解き続け、教科書の一ページ一ページを暗記した。
眠る時間さえ削り、ひたすら順位を上げようとした。
だが、リクの手がトップ層へ届き始めた、その瞬間。
悲劇が始まった。
歓迎されるどころか、リクの存在そのものが、インナーサークルの人間たちの地位を脅かした。
それからだった。
友人たちが、少しずつ彼から離れていった。
誰かが、彼のノートを引き裂いた。
学校の内部ネットワークには、リクの家庭環境を嘲笑する匿名の書き込みが次々と現れた。
机の中にはゴミを詰め込まれた。
そして毎晩、携帯電話へ匿名のメッセージが届いた。
「身の程を知れ、このクズ」
それでも、リクは諦めなかった。
追い詰められれば追い詰められるほど、彼は自分が間違っていないことを証明しようとした。
だが――。
ある日を境に、その圧力は別の形へと変わった。
執念へ。
そして、憎悪へ。
「最後には……」
イツキは唾を飲み込んだ。
「リクは、もう一番になることなんてどうでもよくなった」
震える声が続く。
「誰が、何が、あの成績表を操作しているのか。それを絶対に突き止めるって……そう言ってた」
「全部ひっくり返すつもりだったんだ」
バンソンの目が鋭くなる。
「それで、リクは何を知った?」
イツキは激しく首を横に振った。
唇を噛み、血が滲む。
「知らない! 本当に何も知らない!」
「嘘だ」
バンソンの声が低く沈んだ。
静かな声だった。
だが、それは死を告げる鐘のように、イツキの胸の奥へ響いた。
「君が学校を辞めたのは、怖かったからだ。なら、秘密の一端くらいは知っているはずだ」
バンソンは視線を外さない。
「リクは、消える前に君へ何と言った?」
イツキがゆっくりと顔を上げた。
充血した目。
その奥には、理屈では説明できない恐怖が渦巻いていた。
「リクは……こう言った」
声が震える。
「もし、それが知られたら……」
「もし、あのグループの正体が暴かれたら……」
そこで、イツキの喉が詰まった。
「どうなる?」
「……もう一人、死ぬ」
その言葉が落ちた瞬間。
部屋は、ぞっとするほど静まり返った。
壁時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
カチ、カチ、カチ――。
アサはバンソンを見る。
背筋を冷たいものが這い上がっていくのを感じていた。
誰も、もう何も言わなかった。
そこに横たわっていた真実は、あまりにも残酷で、あまりにも血に濡れていた。
イツキが店を出た後。
バンソンは椅子の背もたれに身体を預け、目を固く閉じた。
膨大な情報が、彼の頭の中で一つずつ分解され、分類され、再構築されていく。
そのとき――。
ピッ。
バンソンの携帯電話が、乾いた電子音を一つ響かせた。
彼は目を開き、端末を手に取る。
海外の匿名情報ポータルを経由したSMSだった。
追跡は不可能。
表示されたメッセージは、たった一文。
「二人目の死について、尋ねるな」
バンソンの眉が寄る。
彼はすぐにアサへ画面を見せた。
「二人目の死……?」
アサが囁く。
「どういう意味? まだ発見されていない殺人事件があるってこと?」
「ああ」
バンソンは画面を指でなぞった。
すると間を置かず――。
二通目のメッセージが表示された。
「最初の一人は、リクではない」
アサが息を呑んだ。
「……ノア? じゃあ、最初の死はノアなの?」
「可能性はある」
だが。
バンソンが結論を出すより先に――。
携帯電話が激しく震え始めた。
今度は、メッセージではない。
一つのマルチメディアファイルが送られてきていた。
一枚の写真が画面に現れた。
そこに写っていたのは、シラサワ・ノアだった。
セイコウ高校旧校舎の三階廊下。
ノアはその場に立ち尽くし、青ざめた顔で、人気のない暗がりの一角を怯えたように見つめている。
三秒後。
二枚目の写真が送られてきた。
同じ構図。
同じ廊下。
だが、そこに立っているのは別の女子生徒だった。
顔は深い影に覆われ、現時点では身元を特定することができない。
バンソンは二枚の写真を素早く保存すると、ノートパソコンへ転送し、画像比較ソフトを起動した。
二枚を最大まで拡大し、並べて表示する。
その黒い瞳が、二つの画像の間を凄まじい速度で往復していた。
一つ一つの画素まで見逃さず、脳裏に刻み込んでいく。
――同じ隠し撮りの撮影角度。
――校舎の外にある街灯から差し込む、同じ方向の光。
――床に落ちる影の形まで一致している。
バンソンは写真のメタデータを確認した。
「この二枚が撮影された時間の間隔は……ちょうど三日だ」
一瞬の沈黙。
「偶然保存されていた写真なんかじゃない」
バンソンは断定した。
「どうして、そう言い切れるの?」
アサが画面を覗き込みながら尋ねる。
「撮影した人間は、意図的に二枚の構図を完全に一致させている」
バンソンは、壁に映った窓枠の影を指差した。
「この角度、この光。この条件をここまで正確に揃えるには、かなり緻密な調整が必要になる」
声が低くなる。
「二人の被害者を、同じ場所に立たせる。同じ時間帯に撮影する。そして、鏡写しのような二枚の写真を作る」
「何のために? 悪趣味な遊び?」
「俺たちに、二人が密接に繋がっていると思わせるためだ」
バンソンは、さらに深く眉を寄せた。
「ノアの事件と、この女子生徒の事件が、同じ動機から起きていると信じ込ませるために」
アサはバンソンを見つめた。
その瞬間、一つの考えが脳裏を走り抜ける。
「また誘導……」
彼女の声が低くなる。
「リクの携帯電話がメイの机の下に置かれていた件と同じ。あいつらは、私たちが自分たちの描いた道を進むように、餌をばら撒いている」
「その通り」
バンソンがキーボードを指先で叩く。
「心理戦だ」
そして、静かに付け加えた。
「俺たちは、無理やりそのゲームをやらされている」
その夜。
Bの用意した安全な部屋。
アサが浴室から出てきた。
髪はまだ少し濡れている。
ベッドのそばまで歩き、置いてあった携帯電話を手に取った。
画面が明るくなる。
そこに一通のメッセージが表示された。
「Sは捜索を続ける。自分を狩る側だと思っているようだな。だが、お前は奴を止めなければならない。そうしなければ、次に拾うのは奴の死体になる」
息が詰まるような感覚が、突然胸を締めつけた。
アサは画面を見つめたまま、動けなくなる。
奴らは、彼女だけを脅しているわけではない。
バンソンを狙っている。
彼らは知っているのだ。
バンソンにとって、アサが心の支えであることを。
そしてアサにとって、バンソンこそが最も失いたくない存在であることを。
ベランダから戻ってきたバンソンが、温かい水の入ったグラスを手に部屋へ入ってくる。
その瞬間、彼はアサの怯えた表情を見つけた。
何も言わない。
ただ真っ直ぐに歩み寄り、彼女が隠すより早く、携帯電話の画面へ視線を落とした。
バンソンの表情が、一気に険しくなる。
「……駄目だ」
「まだ全部読んでない」
アサは震えを隠そうとしながら、携帯電話を握りしめる。
「読む必要なんてない」
バンソンは、彼女の手から端末を取り上げた。
「奴らが何を要求してこようが、俺は全部拒否する」
その瞬間だった。
新しいメッセージが画面に表示された。
「明日、セイコウ高校の講堂へ来い。一人で。ゲームはそこで終わる」
バンソンは画面を即座に消し、携帯電話をベッドの上へ放り投げた。
「行くな」
「あなたなら、そう言うと思ってた」
アサは顔を上げた。
その瞳には、揺るぎない意志が宿っている。
「でも、私は行く」
「お願いしているんじゃない」
バンソンの声が鋭くなる。
「命令だ。駄目だ」
過剰なまでの庇護欲が、一気に噴き出していた。
彼はアサの両肩を掴む。
「これは学校の探偵ごっこじゃない。あいつらは、人を殺すことに何の躊躇もない」
「でも、本当に私と話をしたいだけだったら?」
アサは言い返す。
「それに、何か重要なものを渡すつもりかもしれない」
「ここに、公平な取引なんて存在しない」
「まだ分からないでしょう!」
「さっき、奴らは君を脅した!」
バンソンの声が低く震える。
「それなのに、俺がお前を自分から死地へ送り込むと思うのか?」
黒い瞳に浮かんでいたのは、怒りだけではなかった。
最も大切なものを失うことへの、剥き出しの恐怖だった。
「だからこそ、向き合わなきゃいけないの」
アサは立ち上がり、真正面から彼を見据えた。
「そうしなければ、奴らは私の安全を使って、あなたを縛りつける」
一歩。
アサが踏み込む。
「バンソン。私は、あなたに守られて檻の中に閉じ込められているだけの弱い女じゃない」
「俺は、お前が弱いなんて一度も言ってない!」
バンソンの声がわずかに高くなる。
だが、すぐに自制した。
大きく息を吐く。
肩に置いていた手に力が入り、それから少しずつ緩んでいく。
「……分かってる」
掠れた声だった。
「でも、君が危険にさらされるところを見るのだけは……耐えられない」
「だったら、私の代わりに決めないで」
アサはさらに一歩近づいた。
そして、バンソンの腰に腕を回し、その胸へ額を押し当てる。
強く、速く打つ鼓動が伝わってきた。
「私はあなたの相棒よ」
その声は、胸の奥から静かに響いた。
「そして、恋人でもある」
アサはそっと顔を上げる。
「だから、隣に立たせて」
バンソンは動かなかった。
やがて、顎を彼女の柔らかな髪へ乗せる。
その表情には、激しい葛藤が浮かんでいた。
理性の半分は、彼女を安全な場所へ閉じ込めておけと叫んでいる。
だが、残り半分は理解していた。
アサの意志を踏みにじることは、二人の間にある愛そのものを侮辱することだと。
長い沈黙のあと。
バンソンは、深く、長い息を吐いた。
そして、彼女の身体を強く抱きしめる。
「……分かった」
掠れた声だった。
「だが、俺たちは一緒に行く」
抱く腕に力がこもる。
「二人で行く。二人とも生きて帰る。それができないなら――誰も行かない」
翌日の午後。
セイコウ高校の敷地一帯は、濃い霧に覆われていた。
放課後になり、生徒たちの姿はほとんど消えている。
大講堂の周辺は陰鬱な闇に沈み、まるで墓地の地下にでも迷い込んだかのような、冷たい静けさに包まれていた。
バンソンとアサは慎重に歩を進め、講堂の巨大な木製扉の前まで辿り着いた。
鍵は、かかっていない。
扉の隙間から、凍てつくような風が細く吹き込んでいた。
バンソンが、ゆっくりと扉を押す。
――ギィィ……。
蝶番が不気味な音を立てた。
中は、完全な暗闇だった。
バンソンは壁に手を這わせ、手探りでスイッチを探す。
カチッ。
電源が入る。
天井の蛍光灯が二度、三度と不安定に明滅したあと、一斉に点灯した。
白々しい光が、広大な空間を浮かび上がらせる。
そこには何百もの赤いビロード張りの客席が並んでいた。
しかし、人影はない。
静寂があまりにも深く、二人には自分自身の鼓動さえ聞こえていた。
だが――。
舞台の中央だけが、明らかに意図を持って演出されていた。
そこに、一脚の古びた生徒用机が置かれていた。
周囲には何もない。
ただ一つのスポットライトだけが、その机を照らしている。
バンソンとアサは舞台へ上がった。
バンソンは手で合図し、アサを後方へ下がらせる。
そして自分だけが机へ近づいた。
机の上には、異様なほど悪意に満ちた“展示”があった。
一枚の数学の答案。
皺だらけで、そこには赤いペンで「神崎リク」という名前が丸く囲まれている。
その隣には――一台の携帯電話。
昨日、Fがデータの復旧を試みていた、あのリクの携帯電話だ。
誰かが捜査拠点から持ち出したのか?
そのさらに横には、ノアの写真。
顔の部分だけが、乱暴に斜線で潰されている。
そして最後に、一枚の白紙。
そこには黒い文字が、視覚そのものを切り裂く刃物のように、鮮明かつ冷酷に印刷されていた。
「真実を知りたいか?」
「三つのうち、一つを選べ」
紙の横には、漆黒の封筒が三つ置かれている。
それぞれの表面には、三つの名前が金文字で刻まれていた。
A ― RIKU
B ― NOA
C ― REIKA
アサは三つの封筒を見つめた。
胃の奥が、きりきりと締めつけられる。
「これ……心理戦よ」
その声は震えていた。
「あなたに、誰の真実を暴くのか……あるいは、誰を次の犠牲者にするのか、選ばせようとしている」
彼女はバンソンの袖を掴んだ。
「奴らは、あなたに選ばせたいんだ」
「違う」
バンソンは冷たく答えた。
彼の視線は封筒には向いていなかった。
舞台全体。
客席。
壁。
天井。
すべてを、隅々まで追っている。
「違う?」
「奴らは、俺たちに三つの道しかないと思わせたいんだ」
バンソンの指が、太腿を一定のリズムで軽く叩く。
「AかBかCか――そこに意識を集中させた瞬間、俺たちは忘れる」
視線が机へ戻る。
「この机も、この部屋も、そしてこの“ゲーム”そのものが、俺たちの思考を一つの方向へ閉じ込めるための罠だということを」
バンソンは、机の上にあるものへ一切触れなかった。
そのまま一歩後退する。
黒い瞳が、レーダーのように講堂のあらゆる場所を走査していく。
観客席。
深紅の舞台幕。
隅に設置された非常口。
壁や天井に取り付けられた監視カメラ。
高所に吊られたスピーカー。
そして、それらの死角。
「ここに隠れてると思う?」
アサも周囲を見回す。
警戒心が一気に高まっていく。
「いや」
バンソンは即答した。
「そこまで馬鹿じゃない。俺たちと一緒に密室へ自分から閉じこもるほど愚かじゃない」
「じゃあ、どうしてここまで手の込んだことを?」
「見せるためだ」
バンソンは一歩、机へ近づく。
そして机とほぼ同じ高さまで視線を落とした。
「俺たちに、見せるために」
低く呟く。
「それから――挑発するためだ」
バンソンは机へ顔を寄せた。
そして、何かを確かめるように、表面へ向かってそっと息を吹きかけた。
薄い埃の膜が、ふわりと宙へ舞い上がった。
「見てくれ」
バンソンが指を差す。
「机の表面には、長い間使われていなかった講堂特有の自然な埃が積もっている。だが、携帯電話と紙が置かれている場所だけは、完全に綺麗だ」
彼は目を細めた。
「こいつは仕掛けを置く前に、そこだけ拭いている」
バンソンは振り返り、舞台の端へ歩いていく。
そして、一列目に置かれた赤いビロード張りの椅子を指差した。
「それから、あそこを見ろ」
椅子の脚元に敷かれた絨毯には、真新しい圧痕が残っていた。
椅子を引きずった跡が、一本の線になってはっきりと刻まれている。
絨毯の毛は、まだ元の状態に戻りきっていない。
「誰かが、そこに座った……」
アサが気づいた。
「そういうことだ」
バンソンの口元がわずかに吊り上がる。
「犯人は俺たちが来る前に、悠然と最前列に座っていた。そして、自分が舞台の上に用意した“作品”を眺めていた」
その瞳が冷たく光る。
「ほんの少し前まで、ここにいたんだ」
その直後だった。
――カチッ。
舞台幕の向こう、死角になった一角から、極めて小さな音が聞こえた。
金属製の掛け金がぶつかるような、かすかな音。
バンソンは弾かれたように振り向いた。
閉まりかけている非常口の隙間を、一人の人影が素早く横切った。
「止まれ!」
バンソンは怒鳴るなり、矢のように駆け出した。
アサも一瞬たりとも躊躇せず、その後を追う。
逃げる影の動きは異様なほど身軽だった。
暗い講堂脇の廊下を長い歩幅で駆け抜け、階段へ向かう。
バンソンも距離を詰めながら追跡する。
二人の間隔は、確実に縮まっていた。
追跡者の気配を感じ取ったのか、逃走者が一瞬だけ振り返る。
そして、そのまま階段を曲がって下へ消えていく。
薄暗い蛍光灯の下。
バンソンは、その一瞬でいくつかの特徴を捉えた。
顔全体は見えない。
フードを深く被り、医療用マスクで口元まで隠しているからだ。
だが――目だけは見えた。
異様なほど冷静な瞳。
追われている人間が見せるはずの焦りも、恐怖も、そこには一切なかった。
そして、その体格。
――男子生徒だ。
さらに決定的だったのは、左手だった。
手すりを掴み、身体をひねって階段を下りる瞬間、袖口がわずかにずれた。
そこから露わになったのは――
左手首に巻かれた、鮮烈な赤い編み紐。
「……!」
バンソンの目が鋭く細まる。
黒い影が一階へ駆け下りる。
バンソンは一段飛ばしどころか、一度に三段を飛び越えながら追った。
距離は、ほとんどゼロに近づいていた。
やがて二人は校舎裏のグラウンドへ飛び出した。
その瞬間――。
課外活動の終了を告げるチャイムが鳴り響いた。
部活動の各部屋から、何十人もの生徒たちが一斉に外へ流れ出してくる。
広場は瞬く間に、ざわめきと人の波で埋め尽くされた。
――数秒。
たった三秒。
絵を描く道具を抱えた女子生徒たちの集団に進路を塞がれた、その三秒だけだった。
バンソンがようやく人混みを抜けたときには、黒いフードの男――左手首に赤い紐を巻いた人物の姿は、完全に消えていた。
正門へ向かう生徒の流れに紛れ込んだのだ。
周囲の風景そのものを利用した、完璧な擬態。
バンソンは足を止め、両手を膝に置いた。
荒い呼吸。
額には汗が滲んでいる。
悔しさに拳を強く握りしめ、壁を叩きつけた。
「……くそっ!」
アサも息を切らしながら駆け寄ってきた。
彼女は正門の方向を見る。
そこでは生徒たちがすでに四方へ散り始めている。
もう、誰が犯人なのかを見分けることはできない。
バンソンは踵を返し、講堂脇の階段へ戻った。
携帯電話のライトを点け、逃走者が走った経路を丹念に照らしていく。
二つ目の踊り場。
その隅で、何かがライトを反射した。
バンソンはしゃがみ込んだ。
そこに落ちていたのは、硬質プラスチックの破片だった。
二つに割れている。
縁は鋭く切り立っていた。
逃走者が手すりへ激しく身体をぶつけた際、ポケットから落ちたものらしい。
バンソンの視線が止まる。
――セイコウ高校の生徒証の一部だった。
上半分――名前と顔写真がある部分は、砕かれるか、すでに失われている。
残っているのは下半分だけ。
そこには擦り傷だらけのバーコードと、識別番号の末尾らしき数字がいくつか残されていた。
……27
バンソンが手を伸ばす。
「触らないで」
アサが彼の手を掴んだ。
「指紋が残ってる」
「分かってる」
バンソンは手を止めた。
「直接触るつもりはない」
コートの内側から小さなジッパー付き袋を取り出す。
そして手帳の縁を器用に使い、プラスチック片を袋の中へ滑り込ませた。
「Bと、警察の鑑識班に渡したほうがいい」
アサが言う。
バンソンは頷いた。
「この破片は、奴が犯したミスだ」
袋越しに破片を見つめる。
「ようやく蛇の尻尾を掴んだ」
二時間後。
捜査拠点。
Bのチームに所属する鑑識担当のEが、慎重にプラスチック片を顕微鏡で調べ、その上に残されたバーコードを専用スキャナーで読み取っていた。
「この生徒証は本物だ」
Eが報告する。
「PVC素材も印刷用の台紙も、セイコウ高校で正式に使われているものと一致している。かつて学校の生徒管理システムに登録されていたカードだ」
「だが?」
バンソンは、Eの言葉の間を見逃さなかった。
「何か引っかかっているな」
Eは画面を見ながら答える。
「この番号だ」
指先が表示されたデータを示した。
「この番号は……かなり前に学校の全システム上で無効化されている」
「無効化?」
「そう。まるで……“幽霊カード”だ」
Eの表情が険しくなる。
「この番号に紐づいていた所有者の氏名は、現在のデータベースから完全に削除されている」
そのとき、Fが椅子を回転させた。
指が再び高速でキーボードを走る。
「オフラインのアーカイブまで照合してみる。番号の末尾は二七だな」
画面が激しく点滅した。
Fのシステムが、セイコウ高校に蓄積された何千件もの古い記録を一つずつ走査していく。
数秒後。
「……見つけた」
Fが目を細める。
「過去五年間で、学生番号の末尾が『27』になっていた生徒は三人いる」
「読んで」
バンソンが命じる。
「一人目は二年前に卒業。現在はイギリスへ留学中。出国記録も確認済み」
Fが淡々と読み上げる。
「二人目は現在一年生。女子生徒。外見が、バンソンが追跡した人物とは一致しない」
Fの指が止まった。
喉が、ごくりと鳴る。
「そして、三人目は……」
「三人目は?」
アサが畳みかける。
Fはしばらく黙って画面を見つめた。
「三人目の記録……ローカル領域で暗号化されている」
声が低くなる。
「名前は黒塗り。学業記録、成績、素行記録――全部、404エラーになっている」
部屋の空気が変わった。
「現在のセイコウのシステム上では……」
Fがゆっくりと言う。
「この番号を持っていた生徒は、“存在していない”ことになってる」
静寂が部屋を覆った。
バンソンとアサは、互いに顔を見合わせる。
背筋を這い上がってきた悪寒が、まるで目に見えない触手のように皮膚の下へ潜り込んでいく。
「……またか」
バンソンが呟いた。
声には、抑え込んでいた緊張が滲み出ていた。
「存在しない人間……」
アサが繰り返す。
その目には、隠しきれない恐怖が浮かんでいる。
「リクと同じ……ユナとも同じ。でも、もっと徹底してる」
彼女は震える声で続けた。
「この記録は、『休学』でも『転校』でもない」
一拍。
「“最初から存在しなかった”ことになってる」
「そうだ」
バンソンはホワイトボードの前へ歩いていった。
そこには、断片的な情報が無数に貼り付けられている。
名前。
成績。
失踪。
脅迫。
写真。
そして――SR-01。
Fのコンピューター画面から漏れる光が、バンソンの顔を明暗の激しいコントラストに染めていた。
バンソンは目を閉じる。
その脳内では、思考がまるで巨大な粒子加速器のように、猛烈な速度で回転していた。
何百万もの可能性が、互いに衝突し、分解され、再構成されていく。
――あの年配教師の言葉。
「何が違う? どのみち、もうここには通っていない」
――神田イツキの言葉。
「誰がそれに相応しいかを決める“何か”がある」
――ノアと、正体不明の女子生徒。
ミリ単位で調整された、二枚の写真。
――三つの封筒。
彼を一つの思考へ誘導するために仕掛けられた、心理的な罠。
そして今。
“幽霊”となった生徒証の破片。
やがて――。
バンソンが目を見開いた。
呼吸が止まる。
霧のように絡みついていた無数の情報を、一気に貫く。
それは、これまでの推理を根底から覆しかねない、最も大胆で、壮大で、そして恐ろしい考えだった。
「もし……」
バンソンの声は、最初こそ掠れていた。
だが、言葉を重ねるごとに力を増していく。
最後には、鋭い刃のような声になっていた。
「もし俺たちが、捜査の基本中の基本で、根本的な間違いを犯しているとしたら?」
部屋にいた全員が、バンソンへ振り返った。
「どういうこと?」
アサが一歩、彼へ近づく。
バンソンは振り返り、ホワイトボードに並ぶ被害者と容疑者の名前を指差した。
「俺たちは、一人の人間を探している」
指先が、名前の列をなぞる。
「具体的な一人の犯人。黒幕。そして――名前と肉体を持ったSR-01」
彼は紙に書かれた、
SR-01=一人の人間?
という一文を乱暴に引き剥がした。
握り潰す。
そして、そのままゴミ箱へ投げ捨てた。
「もし、俺たちが顔を隠した“個人”を探すことだけに躍起になっているなら――」
バンソンの声が低く響く。
「俺たちは、森そのものを見落としているのかもしれない」
拳の関節がホワイトボードを強く叩く。
乾いた音が部屋に響いた。
「見落としているのは、一人の犯人じゃない」
一拍。
「――一つの“システム”だ」
「どんなシステム?」
Fが眉をひそめ、キーボードを叩く手を止めた。
バンソンの瞳には、爆発的に燃え上がる知性の光が宿っていた。
「裏で動く権力システムだ」
一歩、前へ出る。
「考えてみろ」
声に熱がこもる。
「すべての試験の成績に侵入し、自由に書き換えられるほどの権限」
指が一つの名前を叩く。
「一人の生徒の記録を丸ごと消し去り、“存在しない人間”に変えてしまえるほどの力」
さらに別の箇所を示す。
「監視カメラを操作できるほどの技術」
そして最後に――。
「俺たちの一挙手一投足を監視し、何をしているのか、どこにいるのかまで把握し、こちらが境界線に触れた瞬間に脅迫メッセージを送りつけてくるほどの情報網」
アサがゆっくりと顔を上げた。
瞳孔が大きく開く。
バンソンの言葉の裏に潜む、あまりにも恐ろしい意味を理解したのだ。
「もし……本当にそうだとしたら……」
アサの声が震えた。
「私たちが最も警戒しなければならない存在……最大の敵は……」
彼女は言葉を詰まらせながら、ホワイトボードを見つめる。
「学生番号27の、狂った生徒なんかじゃない」
「腐敗した教師でもない」
「ましてや――あの取るに足らない『インナーサークル』ですらない」
バンソンは何も言わなかった。
その沈黙こそが、何よりも残酷な肯定だった。
敵は、一個人ではない。
一つの機械だ。
この学校という組織の骨の髄まで食い込み、根を張った利権のネットワーク。
そして俺たちは今、素手で戦車を壊そうとしている。
深夜。
雨が降り始めた。
窓ガラスを叩く雨粒の音が、絶望した誰かのノックのように、一定の間隔で響いている。
バンソンは薄暗い執務室に一人で座っていた。
大きな木製の机の上には、無数の資料、写真、図表、データの出力結果が乱雑に散らばっている。
彼は集めた情報をすべて机の上へ並べ、一つでも多くの断片を、もっとも筋の通った一本の線へと繋ぎ合わせようとしていた。
だが――。
深く掘り下げれば掘り下げるほど。
手に入れる情報が増えれば増えるほど。
答えは逆に、指の間から滑り落ちるように遠ざかっていった。
まるで、一つの変数を突き止めるたびに、方程式そのものが自動的にアルゴリズムを書き換えていくかのようだった。
バンソンは両手で頭を抱え、乱れた髪を強く掻きむしる。
「俺は……奴らに見せられているものを追いかけている」
声は、消え入りそうなほど小さかった。
苦々しさと、自分自身への苛立ちが滲んでいる。
「アサの家で撮られた写真。メイの机の下に置かれた携帯電話。講堂の三つの封筒……それに、階段に落ちていた生徒証の破片まで」
一つ一つを思い出す。
「全部……全部、餌だ」
拳が震える。
「奴らはパンくずを撒いて、俺をその後ろから走らせていた。自分は賢い猟犬だと思い込んだままな」
天才としての自尊心に、致命的な一撃が加えられていた。
胸の奥から、吐き気がこみ上げる。
「……くそ」
そのとき。
――ピッ。
机の上に置かれていた携帯電話の画面が光った。
また匿名メッセージだ。
だが、今回は脅迫ではなかった。
まるで高みからこちらを見下ろす者の、冷たい嘲笑だった。
「君は、私が思っていた以上に賢いな、バンソン」
十秒後。
二通目。
「だが、君はまだ最も重要なことを理解していない」
さらに一分後。
三通目が、判決を下すようにゆっくりと表示された。
「被害者は……選ばれた者ではない」
バンソンは携帯電話を手に取った。
充血した目で、その三行を何度も読み返す。
言葉の意味が、脳の中で絡まり、ねじれ、増幅していく。
――「被害者は、選ばれた者ではない」?
どういう意味だ?
つまり――。
ノアも。
リクも。
ユナも。
最初から狙われていたわけではないのか?
彼らは、もっと別の何かへ至るための踏み台にすぎなかったのか?
そのとき、部屋の扉が静かに開いた。
暖かな黄色い光が、暗い室内へ細い帯となって差し込む。
アサだった。
薄手のセーターを身につけ、足音をほとんど立てずに入ってくる。
手には、湯気の立つ温かい水の入ったグラスがあった。
机の上の紙の山に埋もれるようにしているバンソンを見た瞬間、アサの胸が締めつけられた。
憔悴しきった顔。
疲労に濁った瞳。
そこに滲んでいるのは、絶望と消耗だった。
いつもの、冷静で、傲然としていて、何事にも動じないバンソンではない。
今そこにいるのは――誰かの作り上げた闇に、生気を少しずつ削り取られている一人の青年だった。
「まだ寝てないの?」
アサが、優しく尋ねる。
「まだだ」
バンソンは顔を上げることなく答えた。
声は掠れていた。
アサは、それ以上何も聞かなかった。
今の彼が、自分自身を責め続ける状態にあることを理解していた。
こんなとき、理屈を説いたところで何の意味もない。
彼女はただ静かに歩み寄り、グラスを机の上へ置いた。
散乱した書類の一部を脇へ寄せる。
そして、バンソンの背後に立った。
両手を伸ばし、皺の寄った額とこめかみを、ゆっくりと優しく揉みほぐしていく。
彼女の手から伝わる温もりと、かすかな柔らかな香りが少しずつバンソンの意識へ染み込んでいった。
張り詰めきっていた神経の糸が、ゆっくりと緩んでいく。
「バンソン」
アサが彼の名を呼ぶ。
その声は柔らかい。
だが、現実へ引き戻すだけの強さを秘めていた。
「あなたは、誰を救おうとしているの?」
バンソンが目を開いた。
わずかに頭を後ろへ傾け、逆光の中に浮かぶ彼女の美しい顔を見上げる。
「リク?」
アサは続けた。
声は穏やかで、一定だった。
「ノア?」
「ユナ?」
「レイカ?」
一つずつ、名前を重ねる。
「それとも……あの学校に囚われている生徒たち、全員を救おうとしているの?」
バンソンは長い間、答えなかった。
胸が大きく上下する。
「俺は……もう分からない」
掠れた声が落ちた。
「……みんな被害者だ」
「違うよ」
アサの手が止まる。
彼女は身を屈め、彼の目を真っ直ぐに覗き込んだ。
そこにあるのは、鋭く、心の奥まで見透かすような眼差し。
彼女だけが、彼へ向けることのできる視線だった。
「……?」
バンソンが眉を寄せる。
「あなたが救おうとしているのは、彼らの誰かじゃない」
アサは、一語一語を明確に発した。
「あなたは――一つの“答え”を救おうとしているの」
バンソンの身体が固まった。
その一言は、高電圧の電流が脳髄を真正面から貫いたような衝撃を与えた。
「あなたのプライドは、間違った答えを残したままの問題を許さない」
アサの声には、いたわるような悲しさと、厳しさが同時に宿っていた。
「あなたは、犯人の手口を暴くことに囚われてる。手掛かりを追い、謎を解き、誰にも自分を騙せないと証明することに夢中になってる」
彼女の指先が、彼の髪をそっと撫でる。
「あなたが戦っているのは、人を救うためだけじゃない。完璧な論理の連鎖を完成させるためなのよ」
アサは手を伸ばし、冷え切ったバンソンの頬へ触れた。
「でもね、バンソン……」
瞳が、彼の奥深くを見つめる。
「救わなきゃいけないのは、ランキングに並んだ数字でも、心理ゲームの駒でもない」
「その闇に、毎日のように少しずつ飲み込まれている“人間”なの」
アサの声が静かに響く。
「もう、あいつらが作った問題を解こうとしないで」
一拍。
「――盤そのものを、壊して」
バンソンは長い間、彼女を見つめていた。
呼吸が、少しずつゆっくりになっていく。
頭の中で渦巻いていた混乱。
行き詰まり。
憎悪。
そして、自分でも気づかないほど深く根を張っていた慢心。
それらが、朝日の前に霧が消えるように、少しずつ溶けていった。
アサの言葉は、彼の中に眠っていた最も大きな人間性を呼び覚ました。
同時に――。
彼自身が持つ、最も鋭い武器を解き放った。
問題を、逆側から見る思考。
バンソンはアサの手を取る。
そして、感謝の意を込めるように、その手の甲へ静かに口づけた。
「君はいつも、俺の魂を救う方法を知ってるな、アサ」
次の瞬間。
バンソンは机へ戻った。
さっきまで彼を覆っていた陰鬱さも、疲労も、すべて払い落とされていた。
手は揺るがない。
瞳には、研ぎ澄まされた知性の光が宿っている。
彼は机の上に積み重なっていた資料を一気にかき集めた。
犯人の図。
手掛かりの一覧。
関連図。
それらを一まとめにして脇へ押しやる。
そして、一枚の真新しい白紙を取り出した。
犯人の名前は書かない。
容疑者の名前も書かない。
被害者の一覧も書かない。
殺人や脅迫の手口を分析することさえ、いったん捨てる。
バンソンは黒いマーカーを手に取った。
真っ白な紙の中央へ、たった一つの問いを書き込む。
大きく。
太く。
一文字一文字、まるで断罪するかのように。
「誰が利益を得る?」
バンソンは、その問いをじっと見つめた。
あらゆる犯罪の核心。
そして、この世界に存在するあらゆる腐敗したシステムの真実は――
「誰がナイフを握ったのか?」という問いの中には、決して収まらない。
本当に問うべきなのは、いつだってその先だ。
血が流れ落ちたあと、誰が黄金を拾うのか。
大きく書いた一文の下に、バンソンはさらにいくつもの枝分かれした項目を書き加えていった。
ペンの動きは、異様なほど速かった。
――成績?
(上位にいる生徒を引きずり下ろし、別の誰かを上へ押し上げることで、誰が利益を得る?)
――名声?
(学校のイメージを守るために、“規格外”の生徒を存在ごと消しているのか?)
――金?
(学籍情報や成績の改ざんの裏に、賄賂のルートが存在しているのか?)
――権力と支配?
(ある組織が、生徒たちの秘密を利用し、将来、自分たちに従順な操り人形を作り上げようとしているのか?)
バンソンは一歩後ろへ下がり、その紙を見つめた。
事件が始まって以来、初めてだった。
自分の捜査方針そのものが、根本から変わった。
もはや、警察捜査の定石に沿った問いではない。
――「誰が、こんなことをした?」
今、彼が問おうとしているのは、それとはまったく違う。
システムそのものを壊そうとする者の問い。
――「誰が、こんなことを続ける必要がある?」
部屋には張り詰めた空気が漂っていた。
だが、その緊張の奥には、これまでにはなかった微かな希望が芽生えていた。
アサは腕を組み、微笑みながら、“思考の王”が再び立ち上がる姿を見つめていた。
まさにそのときだった。
ティン。
バンソンのコンピューターから、メッセージの着信音が鳴った。
Fが構築した匿名暗号化システムからの通知だった。
誰かが、バンソンの端末へ直接、隠されたデータファイルを送りつけてきたのだ。
セキュリティシステムが一度スキャンを行う。
――異常なし。
――マルウェアは検出されない。
ファイルは数百メガバイトにも及ぶ動画データだった。
画面に表示されたファイル名は、冷たい文字列だった。
「NOA_FINAL.mp4」
バンソンとアサの視線が交わる。
二人の瞳の奥に、同じ嫌な予感が走った。
バンソンはマウスを動かす。
そして、ファイルをダブルクリックした。
動画プレイヤーが起動する。
画面に映し出されたのは、隠し撮りされた一本の映像だった。
画質そのものは悪くない。
しかし、窓から差し込む街灯の弱々しい光が、映像全体を死んだような青灰色に染めていた。
セイコウ高校旧校舎、三階の廊下。
――夜。
画面の中央には、シラサワ・ノアが一人で立っていた。
彼女はカメラに背を向けている。
制服姿。
両腕は力なく垂れ下がり、細い肩がかすかに震えている。
映像には激しいノイズが混じっていた。
聞こえてくるのは、扉の隙間を抜ける風の唸りと、ノアが必死に息を殺そうとするような、途切れ途切れの喘ぎだけ。
だが――。
バンソンとアサの瞳孔を同時に縮ませたものは、ノアではなかった。
彼女の背後。
廊下の奥に広がる、深い闇だった。
ゆっくりと。
物音一つ立てずに。
暗闇の奥から――
もう一人の人間が、姿を現した。
黒い影。
その人物は何の感情も見せず、静かにノアへ近づいていく。
そして――
ゆっくりと、片手を持ち上げた。
そこで。
映像は唐突に停止した。
画面に残されたのは、伸ばされた手と、振り返ることさえできない少女の姿。
――その一瞬だけだった。
極限まで張り詰めた静寂が、部屋全体を支配した。




